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ヒストリーオブ山下達郎 第12回 1974年、いろいろな出会い

<シングルを意識した♪パレード>
74年に風都市に入って新宿西口の貸しスタジオで、1月から練習を週に何回かやらせてもらうようになって♪SHOWのアレンジを進めたり。練習がコンスタントにできるようになって、だんだん曲も書けるようになって来て。
特にター坊は、随分曲ができるようになって、♪蜃気楼の街、♪いつも通り、なんかが一挙に出てくる。
池袋のシアターグリーンでの最初のライブが4月で、ここから10月のシアターグリーンではもう♪DOWN TOWNをやってるし。4月の時は♪想い、とかまだファースト・コンサートの延長のレパートリーが多いんだよね。
この74年は4月3日にデモテープを録音してるでしょ(@ニッポン放送)、ここまでに♪パレードを書いてるんだよね。
この頃にはもう風都市が危なくなってた。確か4月ごろに給料無配で潰れた記憶がある。
3月ぐらいにナイアガラは東芝との話が進行してた。年末のタワーホールのコンサートが終わって風都市に入る頃、風都市の分派の中で、僕らは大滝さんの派に属するの。それは当然だし、僕も他に興味は無かった。
ナイアガラ・レーベル第一弾で出すのはココナツ・バンクのはずだったんだけど、彼らがダメになった。だけど大滝さんはまだアルバムを作れる段階じゃなかった。だってソロを出したのが72年の終わり頃。そこで、ぜひともシュガー・ベイブでナイアガラの第一弾を、と言う話が来て。それはレコード会社は多分東芝になるって言われて、ニッポン放送のスタジオ銀河でデモテープをとると。その時、誰に言われたか、多分出版社の誰かから「シングルで出せるような曲を書いてこい」って言われた。売れる売れないだの、あれやこれやうるさくてさ。僕は♪パレードをこたつで書いたから、まだ冬だったんだろうね。「何がシングルだ」とか言ってねw こたつで赤玉ポートワインを1本空けて書いたのが♪パレードなんだよね。
その時はフィフス・アベニュー・バンドとかそういう世界だったから♪ナイス・フォークスみたいな曲にしようと思ったんだけど、はしなくもそれがジュリー・ロスになるんだよね、後でアレンジしなおしたら。だからやっぱり血は争えないっていうか。何となく書いた曲だけど、そういう刷り込みが、もう既にその時にあった。まだ人生で曲作りを始めて、10曲足らずの時代だけど。
シングル用の曲って言われても想像がつかない。そんなの。言ってる向こう側だって観念論だもん。でも僕にとってはシングル用の曲って言うなら、はっきりとしたフックがないだとダメと思った。シュガー・ベイブのファースト・コンサート今聴いてみると、フックのある曲なんて当時はほとんど持ってなかったことがわかる。
なんて言ったらいいのかな、AABA形式。♪夏の終わりに、なんて全くそうだね。♪SHOWは基本的にはリズム・パターンを聴かせる曲だから、後は歌の張るところを聞かせるとかね。もっとはっきりしたフック、“ごらん、パレードが行くよー”ってところ、ああいった明確なフックが登場する、最初の曲なんだよね♪パレードって。シングル用の曲って言われたからそうなったんだ、多分。
♪パレードはほとんど1日で書いた。夕方から始めて、ポートワイン1本空ける位の時間だもん。もっともメロディーの一部が最初は若干違ったりしてたけどね。この時はもうピアノがあって♪SHOWも♪夏の終わりにもピアノで書いてたんだけど、これはなぜかギターで作った。それもシングルだって言われたからじゃないかなw

<夜中にやったデモテープ録り>
LF、ニッポン放送の銀河スタジオには8トラックのレコーダーがあってね。大滝さんが自分でミキシングして。ドラムも何も全部据え付けのやつを使った。意外と良い音がしてるよね。セッションは夜中で、何テイクも録った。テープに(前島)洋児さんがスタジオの中で「はい、回そう!」なんて言ってる声が残っている。その時に、あの♪SHOWの間奏、ギターのトリックをやれって大滝さんが言ったの。
♪夏の終わりに、ではギターの裏カッティングをやれって、そういうチマチマした変更だった。
♪指切りは大滝さんの曲だから注文はなかった。♪パレードも特にはなかったな。きっとパレードは大滝さんも好きな曲な感じの曲だから、そういう意味ではあんまり介在する余地がなかったのかも。
LFデモを今聴きなおすと、歌い方が随分と間延びしてる。僕の場合、歌い込んでいくと歌の乗り方が気がつかないうちに変わっていくんだよね。
♪DOWN TOWNなんかでもレコードではフレーズの長さが短いの。”な・な・いろ”って歌ってるんだけど、最初に歌ってる頃、ジャンジャンとかシアターグリーンのライブを聴くと、なーないろのー、って語尾を伸ばして歌っている。そういう細かいニュアンスの改善は、ライブをやっているとだんだん出てくる。
それを繰り返して5年、10年とキャリアを経ると、意識的にそれを初めから作れるようになるけど、この頃はまだ右も左も分からないから。すべてフレーズの終わりが長い。いかに歌にリズムをつけるかが、僕にとってのヴォーカル・スタイルの重要課題なんだけど、シュガー・ベイブの最初の数ヶ月は、気がつかない間にどんどん語尾が短くなっていった。
それが多分自分にとって快感だったことが明らかになってね。でもまだこの時期は無意識だった。ともかく、このときのデモはよく覚えてる。夜の9時集合とかで朝までやって、それで4曲録ったのかな、2日かかったのかな、忘れたな。
※実際の録音は3日間。4月3日、4月24日、5月1日
でも、全日同じ曲をやったような記憶はあるんだよな。だから、演奏と歌が別で、歌入れは別日だったかもしれない。僕ちょっとそれ記憶にないなあ。よく覚えているのは、♪SHOWの間奏をいじられた記憶と、その時の村松くんの目が点になってたのとw
デビューに向けてのレコーディングは夏前から始めると言われてたよ。デモテープを録った後に、レコーディングのスケジュールを出すから待っていてくれって。ところが夏が過ぎても、何も連絡がなくてさ。9月位になってレコード会社はエレックになったって言われた。

<劇的だった亀渕友香さんのステージでのエピソード>
とにかくバンドの仕事じゃ全然食えなくて。でもバイトやりたくても、半端にライブが入って来て。しかも出るはずの給料が出ない。だからとにかく、74年前半の数ヶ月が人生で一番貧困だった。6月位にCMの仕事が来るようになるまでね。
で、この間に大滝さんが三ツ矢サイダー’74のCM、これが4月オンエアだから、はじめの3ヶ月はそれにも関わっていたと思う。
5月7日に青山タワーホールで亀渕友香さんのステージに出てるね。そのリハーサルがステージ前に1週間あったんだけど毎日、渋谷からバスに乗って、大橋のポリドールスタジオのリハーサル室に通ってたの。
その時の思い出はとにかく一番の金のない時代で、行き帰りのバス代と電車賃しかないんだよ。
だけど、バックの連中は、それこそ細野さん、ミッチ(林立夫)、マンタ(松任谷正隆)、(鈴木)茂、伊集(加代子)さん、ミト(尾形美智子)さん、モツ(浜口茂外也)、鈴木顕子(矢野顕子)と錚々たるメンバーでしょ。
夕方になって「飯タイム!」って、「みんな何頼む?」「俺、寿司」「俺、うなぎ!」とか言って「山下君は?」「いや、オレ食ってきましたから、すいません」ってw ありゃツラかった。
この時にアレンジャーが矢野誠さんだったんだけど、リハーサルの段取りが悪くて。現場のマネージャー仕切りも。譜面が全然来ないんだよ。特にコーラスは譜面が一番後回しになるんで、伊集さんは初めは「まただよ」とか言って、リハやってたんだけど、だんだん険しくなってきたんだよね。
その時のコーラスはシンガーズ・スリーの伊集さん、ミトさんと、僕ともう一人男性。その彼が譜面に弱くて、それでまた段取りが遅れる。で、彼女たちはコーラスの扱いがぞんざいだと感じたんだろうね、本番当日のリハーサルでいきなり「降りる」って言い出して、帰っちゃったんだ。マネージャーは土下座して、お願いだからって止めたんだけど、そのまま帰っちゃったんだよ。スタジオ・ミュージシャンっていうか、芸能界ってシビアだなぁって思った。
で、僕が残っちゃってさ。「達郎さんだけでコーラスやってもらえませんか」って言われたけど、「いや一人でコーラスはできないよ」って困って、僕も帰ろうかなぁと思ってたら、村松くんとターボがふらっと来てて「お前ら、いいとこ来た!」って。それで楽屋に引っ張り込んで、もともとレコーディングは僕ら3人だから譜面を渡して、アコギを借りで30分足らずのリハーサルをして、ステージにバーッって押し上げて、彼らも訳が分かんないけど、でも一応レコードのコーラスは覚えていたから、何とかぶっつけで乗り切れたんだよ。それをたまたまユーミンが観に来ていて、その時はちょうど「ひこうき雲」が出た頃だったかな。それでユーミンがあのコーラスは誰って興味を持って、それをスタッフに言ったんだよ。そしたら彼女のディレクターが一度使ってみようってことになったの。

ユーミンのレコーディングに参加>
ユーミンのレコーディングが7月28日ね。
その何週間前にアルファのディレクターから電話がかかってきて「コーラスやってくれないか」って。で、「やってもいいけど、自分のコーラスアレンジじゃないとやりません」って言ったら、それでいいからと。それでもらったテープが♪12月の雨の日と♪瞳を閉じて。これがいい曲でさ。それで、その2曲を7月28日にレコーディングするの。
レコーディングの当日には日本青年館で「石橋オン・ザ・ロック」って言うアマチュアバンド・コンテストのゲスト仕事があって、そこに吉田美奈子がやってきた。
ター坊がその1週間前に久保田麻琴とサンセットギャングのコーラスをやってた。♪ルイジアナ・ママ。ここで吉田美奈子とター坊が初めて会って、その時にター坊が「私、バンドやっていて、来週やるから見に来て」って誘って、それで美奈子が来たんだね。
僕は吉田美奈子のファンだったから「これからアルファに行ってレコーディングやるんだけど来ない?」って誘ったら「じゃあ見に行こうかな、ユーミン知っているし」って。それで(村松くんも含め)4人で千駄ヶ谷から電車に乗って、田町のスタジオに行って。美奈子はずっとレコーディングを見物してたの。
♪12月の雨の日、♪瞳の閉じてと2曲やって、コーラスが出来上がってディレクターが気にいって、もう2曲やってくれって。美奈子が居るんで「美奈子、コーラス興味ない? 美奈子も一緒にやろうよ」って誘って。
その次、8月1日に♪生まれた街で ♪たぶんあなたはむかえに来ない、の2曲を4人でやった。
そしたら、ディレクターがさらにもう1曲♪あなただけのもの、それを女3人でやりたいと。そしたら美奈子が「鈴木顕子がいるよ、こないだ矢野さんと一緒にやってたあの子」って。
それで8月3日にター坊、美奈子、アッコちゃんのラインナップでのレコーディングになるわけだよ。
だから人の縁というのは実にそんなもんなんだ。あっこちゃんとはタワーホールで初めて会っていた。運命だね。だからいつも言うようにムーブメントだからさ、こういうのは。一人の力じゃどうしようもないの。この時代の人脈は後の日本のフォークとロックを形成していく部分なんだよ。この頃はすごかったエピソードもいっぱいあるw
【第12回 了】