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ヒストリーオブ山下達郎 第1回 池袋時代、誕生から小学校(1953〜66年)

ついに50歳を迎えた山下達郎、これまで生い立ちなど紹介した事もあったが、改めて達郎バイオグラフィーの決定版を目指して連載を開始[2003年夏]

   

< 僕の家は職工の家系だったんだよ>
生まれたのは本郷の病院なんだけど、両親が当時住んでいたのが池袋の西口駅前だった。山手線の池袋駅は、今は東口に西武デパートとパルコがあって、西口に東武デパートがあるけど、僕が生まれた頃は、西口は東武の横に東横デパートがあってね。それを東武が吸収して、東武オンリーになったんだ。東口の方は昔からあった丸物(まるぶつ)デパートを西武が買収して、パルコになったんだよね。
今の池袋は昔とは全く違う街並みになっちゃったから、今はもう自分がどこに立っているのかもわからないくらいでね。昔は路地裏にあった学校が、今は通りに面しちゃったりしていて、目がくらむくらい違うね。例えば、今の西口公園の場所は、半世紀前には豊島師範って言って、現在の学芸大附属小学校があったんだよね。その校舎が小金井に移転して、跡地がバスターミナルになって、それが今じゃドラマ「池袋ウェストゲートパーク」の舞台だからね。

で、西口駅前、東武デパートの前のターミナルを囲んで、商店街があるんだけど、僕が生まれた時は、両親はその辺で商売をやっていたんだ。戦後のすぐの西口駅前は、焼け野原でね。そこに闇市ができて、それが今の池袋の始まりだった。西武池袋線東武東上線の二本の郊外線が、戦後の闇物資の買い出しに使われて、その始発駅だった池袋に闇市ができて、それが発展したんだよ。
父は以前から池袋というわけではなく、父が戦前に住んでいた家は、横浜の鶴見だそう。明治生まれの祖父は、元は電気会社の職工で、三羽鳥と言われた腕利きの職工だった。昭和初期に独立して、品川で自分の工場を始めた。戦前戦中は軍需でかなり景気よくやってらしいけど、戦後の混乱で工場が潰れちゃった。長男だった父親は家業を継ぐべくやってたんだけど、家が潰れたので、ひとりで池袋に出てきて商売を始め、やがて近所で働いてた母親と知り合って、結婚したんだよ。父の商売は、いわゆる居酒屋とかそういう感じだったらしい。これも結構繁盛してたそうだよ。それがさっき行った西口の駅前でね。

そこで僕が1953年に生まれるんだけど、母親が子供が生まれたら商売は嫌だって言って、ちょうど朝鮮戦争の最中だったんで、特需を目当てに本業の工場を始めたら、途端に戦争が終わっちゃって、鍋底景気っていうやつになって工場が潰れた。
で、中学になって練馬に引っ越すまで、ずっと池袋のアパート暮らし。父親も母親も外に働きに出ていた典型的な共稼ぎで、僕は一人っ子の鍵っ子。それで10年ぐらいやって、オリンピック後にようやく練馬に店を出したというわけ。

  

<当時の池袋はかなりガラの悪い土地だった>
行った幼稚園はさくら幼稚園って言ったかな、記憶はあいまい。家から歩いて10分くらいの幼稚園。当時はキリスト教関係の幼稚園が多くて、カトリック系とプロテスタント系の両方の幼稚園があって。
うちは共稼ぎで、遠足には来られなかったから、遠足のときはいつも先生とご飯を食べてたよ。ボクの心の中の独立心というか、ほのかなアナーキズムというようなものは、幼少のそういう環境が大きく影響してると思ってる。ボクが行ってた幼稚園に、沖縄出身の若い女の先生が居てね、具志堅先生って言ったかなあ、その先生には可愛がってもらった。当時有楽町に有楽座っていう映画館があって、そこに「バラバ」ってアンソニー・クイン主演の映画を見に、連れて行ってもらったのを覚えているよ。バラバっていうのはキリストと一緒にはりつけにされた泥棒で、十字架にかけられるときに、改心したっていう映画なんだけど。
幼稚園のときは、本当に気の弱い子供でね。母親がよく言うけど、集団の中でなにかの係とか、そういう役割分担を任されるのが嫌いで、そういう時は泣いて嫌がったんだそう。母親はそれを見て「この子はこの先、大丈夫か」と本気で心配したんだって。それが小学校に入ると一転して目立ちたがり屋になるんだから。幼稚園の卒園アルバムで、将来の希望「名探偵」って書いてあるんだよ。「少年探偵団」の時代でしょ、「月光仮面」とか。

小学生になると、徹底したガリ勉の優等生タイプ、音楽とは全く縁がなかった。当時家にテレビはなかったから、NHKの「チロリン村とクルミの木」とか「月光仮面」とかを、アパートの大家の家に見に行ったもんだよ。もう、50年も前の話だもんね。祖父、父親と、職人の家系だから、僕もそういうのを継いでるね、はっきりと。だからこういう職業についても、職人的なやり方になるんだろうね。なんだかんだ言いながら。
当時の池袋はとにかくガラの悪い土地だった。人さらい、なんて居てね。今でも覚えているけど、幼稚園の帰りに和服のおばさんがいきなり手を掴んで、「坊や、おいしいもの食べに行こう」って引きずっていくの。で、上履きを入れる草履袋で、横っ面ひっぱたいて、知り合いの酒屋に逃げ込んだの。そしたら道の向こうから石を投げてきて、酒屋のおじさんが「この野郎!」って怒鳴ったら、逃げていった。そんなことが二度もあったんだよ。とにかく酔っ払いとか浮浪者とかたくさんいて、子供の手を引いて通る母親に絡んでくるとか。だから、自然と気が強くなる。そうしないと、生きていけない時代だったんだ。池袋に今の中央地下道ができる前、駅の北側に踏切があったんだけど、それは開かずの踏切で、なかなか通れなかった。で、そのちょっと南側に本当に狭い地下道が、西口と東口をつないでいたの。その中にも浮浪者がたくさん寝ていて、その狭いところを浮浪者を避けながら、自転車を押して通らなきゃいけない。街では傷痍軍人アコーディオン弾いてるしね。当時の池袋っていうのは、そんな感じだったな。夜になると喧嘩があったり、人が死んだり。戦後の闇市から発展した、西口の新興住宅街のど真ん中だから、いろんな人間がいたんだよ。
僕にビー玉を教えてくれた、アパートの向かいに住んでいた若いお兄ちゃんは組関係の人で、抗争で死んだっていう噂があったし、アパートの3軒ぐらい隣に住んでたおっさんは、ちょっと酒乱の気があって、夜中になると外で政治演説を始めるんだ。近所からうるさいって怒鳴られて、それでもやめないと警官が来るんだよ。そういう記憶ばっかりだね。でもまぁ生まれ育った土地だから、それでも恐怖感なんてのは全然なかったな。
それは世田谷とかの、いわゆる山手の空気とは全然違うからね。でも日本全体がそうだったけど、あの頃はすごく貧乏な子供と、いいとこのお坊ちゃんも同じ公立高校へ通っていた時代。そういう階級のカオスっていうのが、昔は確かにあったけど、数十年後の今は、あの感じがすっかりなくなったような気がする。社会環境に少しずつ階級的な落差が広がってきている。そこは戦前と同じような感じになってきているね。そういう意味では、当時はまさに「るつぼ」みたいだった。
小学校卒業するくらいまでは、例えば小学3年でも時計をしてる子がいるかと思えば、給食費が払えなくて学校に来れない子とか、もういろいろだったよ。家で働かされて、学校に来ない子がいて、その子の家に毎日3人ずつくらい交代で行ってさ。「学校においでよ」って誘うとか。昭和30年代を象徴する、そういうことがあったね。池袋や新宿はとりわけすごかったよね。それが自分のキャラクターと、あと、強さも生んでるね。

  

< 音楽よりも、宇宙と本に夢中だった>
10歳くらいまでは、音楽なんてほとんど自分には関係ないものっていうか。ごくありきたりのヒットソングと、両親が映画好きだったので、映画音楽、イタリア映画「刑事」の「死ぬほど愛して」とか、フランス映画「太陽がいっぱい」のテーマ曲とか、ドイツ映画「撃墜王、アフリカの星」の「アフリカの星のボレロ」とか、自発的なものではそういうのがせいぜいだったかな。

あとはテレビの「ザ・ヒットパレード」を見て、「ミスターベースマン」だとか「夢で逢いましょう」で「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」とか、中村八大=永六輔の曲は、好きで聴いてたよ。だから実は坂本九という人には、歌い方の影響をかなり受けているんだ。「上を向いて〜」を歌うと、僕は結構うまいと、自分で思うんだよね。子供の時代のサブリミナルっておかしくてね。でも、音楽は所詮その程度だよね。
音楽よりも、小学校1年生になって一番最初に買ってもらった図鑑が、「天文と気象の図鑑」だったの。これにすごくハマってね。ちょうどソ連人工衛星スプートニクが飛んで、冷戦を背景にした、アメリカとソ連の宇宙開発競争が幕を開けた時代。きたるべき宇宙時代に向かって、という感じで「鉄腕アトム」の全盛期。そういう時代だったんで、人知の全く及ばない、遥か星の世界に強烈に魅せられて、アンタレスは太陽のン百倍とか、天体望遠鏡で観測できる限界は20億光年とか、今は100億光年の彼方まで見られるけど。とにかく、そういう目もくらむ話をさんざん読んでは、憧れてた。
だから、小学生の時は将来は星を観測する仕事がしたいと思っていた。全体的にハード系のもの、「交通の図鑑」とか、そういうのは大好きだったけど、動植物図鑑のようなものは全然ダメだった。花の名前とか、全然覚えられなくて。だからどっちかっていうと理系、機械、メカだね。やっぱり職人の家系なんだな。小学校の成績も、社会系よりも理科系の方が得意だったからね。どっちにしろ、家がそんなに裕福じゃなかったから、公立でずっと行くという、当時の一番普通な路線だった。一生懸命勉強して、最終的には良い国立大学を目指す、という。
塾も通ってた。でも、今と違って日曜教室だから、日曜の午前中が試験で、午後は指導。初めは大塚だったけれど、その後中野に通わされて、遠かったな。だけど、3年から小学校6年までずっと毎週日曜日、真面目に通ってたよ。後は夏期講習、冬季講習だな。小学校の時は体育を除いて、成績は良かったよ。生徒会の中央委員長とか、そういう世界だったから、答辞も読んだしね、今からは考えられないよ。
家にはSPレコード。当時はまだ手回しの蓄音機だったからね。どこの家にもあったし。家にも「スケーターズワルツ」とか、そういうSPレコードがたくさんあったんだよ。初めはもっとたくさんあったんだけど、それを全部、僕が小さい時に割っちゃったんだって。レコードをかけたそばから、割るんだって。男の子だからね。壁中落書き、そういうお絵かきも、潜水艦とか飛行機とかのメカばかり。だから、なんで音楽家になったのかって、今でもあの頃の記憶をたどると不思議だよね。
音楽の成績は良くなかった。大体小学校の音楽の先生なんて、えこひいきの鬼っていうか、その女の先生と全く合わなかったんだよ。だから音楽なんて全然好きじゃなかったし。よく話してることだけど、小学校1年生の時に「七夕」が課題曲になったんだけど、その時僕が風邪をひいて、声が出なくて、途中から1オクターブ下げて歌ったら、教師が怒って、通信簿が2になった。僕のほうも音楽なんて、何の重要度もないから無視。興味も何もなかった。特に演奏することには。
もっとも、親戚の家にはレコードがたくさんあって、いとこには芸大でのピアニストもいたから、流行歌からクラシックまで、一通りの知識は自然と得られたな。母方の叔父二人が戦争に行っていて、一人はガダルカナルの生き残りで、もう一人はビルマ戦線の生き残りで、大激戦地をくぐってきてきた人たちで、そのおかげで軍歌は特によく知ってるよ。
叔父が芸事好きで、柳家三亀松と懇意でね。文化的な価値観や、そばやうなぎといった趣味的な分野に関しては、僕はその叔父からかなり影響を受けている。叔父の家にあった吉田満の「戦艦大和ノ最期」とか、昭和20年代の戦記文学がずらっとあったから、中学の頃はすごく読んだんだよ、そういうの。童話も読んだけど、一番は空想科学冒険小説。SFを子供用に簡単にしたやつだね。
ところが小学校3年になったある日、突然母親がそういうのはもう買っちゃダメだと言い出したの。いつも行ってた池袋の方林堂という本屋さんで「ここのコーナーはだめ、こっちにある本だったらいい」って。ノンフィクション全集の前に連れていかれた。すごく嫌だったけど、何も買ってもらえないのもつまらないから、「ツタンカーメンの発掘物語」と「トロイの遺跡発見」という二本立てのノンフィクション本を選んだ。だけど、ツタンカーメンのページは気持ち悪い写真ばかりだったんで、3ヶ月ぐらい放っておいたのね。でもある日、他に読むものがなくなって、しょうがなくて読み始めたら、これがすごく面白くてね。特にトロイ遺跡の発見者ハインリ・ヒシュリーマンが、少年時代に読んだホメロスを絶対に事実だと信じて、ついに遺跡の発掘を実現する話は、実に感動的でね。

おかげでノンフィクションにも興味が出たけど、かといって、SF的なものにも興味が絶えなくて、小学校高学年になったあたりで時代から「原子力潜水艦シービュー号」なんていうテレビのSFドラマがあって、原作を文庫で読んだり、フレドリック・ブラウンジョン・ウインダム……僕の世代の男の子はみんなそんな感じだったでしょ。少し背伸びしてゲーテとかも読み始めてたんだけど、ちっともわからない。後で考えてみると、まだちょっと早かった。メルビルの「白鯨」を、子供用に短くまとめたのが学校の図書館に置いてあってさ。小学校6年生の時に、図書の時間があまりに遊び時間になっちゃうんで、教師が切れてね。読む本を申告しろと。で、一人一人申告していくんだけど僕が「白鯨」って言ったら、担任の教師は「なんだそれ」って言われたの。「白いクジラです」「なんだそれ漫画か、って」それはよく覚えてるよ。だから小学校時代は、本と宇宙だね。
中学の後期には、それがレコード代に化けるようになるんだけど。とにかくその頃は、遠出をするって言うと、池袋から山手線に乗って、渋谷の東急文化会館プラネタリウムに行くコースと、地下鉄丸ノ内線に乗って、東京駅で降りて、中央郵便局に新しい記念切手を買いに行く。この二つの行き方だけは知ってた。
小学校4年生の時から中学1年頃まで「星の会」に通っていたから。渋谷東急文化会館の五島プラネタリウムの会員組織だね。会費を払って会員になると、第何日曜日の朝一番に、通常とは違うプログラムを特別に組んでいたんだ。それは好きで、小学生の時はずいぶん通ったな。ガリ勉、星、本。それが小学校時代。
喧嘩もまあしたけど、弱かった。一人っ子だから、割とそういうところは内向的かな。殴り合いなんて、小学校の時に数回しかやらなかった。ガキ大将と話してたら、そんなの金玉蹴飛ばせばいいんだよって、やり方を教えてくれたんだけど、そんなの卑怯っていうかw おっとりした子供だったんだよ。
体は平均より少し大きいくらいかな。クラスでは後ろの方だったけどね。50人のうち後ろから10番目くらいかな。女子とは共学だから、遊ぶというよりは口げんか、言い合いだな。好きな子。ひとりいたな。その子は鼓笛隊の仲間だった。

   

< 小学校6年生の時に鼓笛隊に参加>
小学校6年の4月、それが今に続く自分の人生にとって非常に大きな、まず第一のターニングポイントだったんだよ。
6年生になって、新任の音楽の先生が赴任してきた。その女の先生は、それまでとあべこべに、何故か僕をすごく贔屓にして、その先生が、合奏クラブっていうのを作った。で、僕は半ば無理やり、そこに入れられた。本当は嫌だったんだけど、僕は優等生の良い子だったから。で、放課後の音楽室での第一回の集まりで、みんなでマーチング・ドラムの練習させられた。先生が黒板に譜面を書いて、ドラム・マーチなんだけど、それをどうやってもいいから叩け、って言う。ある程度の人数がいたんだけど、男で叩けたのは、僕ひとりだけだった。それで「あなたは鼓笛隊で、小太鼓を叩きなさい」ということになって、小太鼓が9人選ばれたんだけど、男が僕ひとり。大太鼓が男の子で、10人のパーカッションと笛とアコーディオン。それもみんな女の子で、男が二人しかいない。それが超恥ずかしかった。でも、それがドラムとの最初の出会いで、そこからなんだよね、楽器が面白くなったのは。
活動は行進の時は鼓笛隊だからマーチング・ドラムを叩くけど、合奏クラブの時は普通のスネアドラムを叩いたんだ。それまでも笛とかハーモニカは授業でやってたけど、5年生までは贔屓されない先生だったから、成績も良くなかったし、やる気もなかった。だけど、6年生になって、その先生が妙に僕を贔屓するようになってから、こっちもその気になっちゃって。それで、音楽がいきなり「5」になるの。だから、ドラムも結構上達した。いい加減なもんだよね。でも、そのドラムとの出会いは、大きな事件だったんだよ。最初のとっかかりがパーカッションだったというのは、ロックンロール・アレンジャーとしての自分にとっては、すごくプラスでね。最初の遭遇がピアノとかギターだったら、こういう音楽性にはならなかったな。

東京オリンピックのときは6年生で、池袋には首都高が出来た。首都高が最初に開通したのは、北池袋から羽田に行く路線だったから。父親に、羽田まで乗せてもらった記憶があるよ。家から歩いてほんの3、4分で、川越街道に出る。そうすると、高速道路がドンとそびえてるんだよね。それが一番大きなオリンピックの思い出。あと10月10日の開会式の日には、ブルーインパルスが国立の上を飛んで、五輪の輪が池袋からも見えた。あとは切手ブームだったから、オリンピックの記念切手を買いに行くの。丸の内の中央郵便局に行列が出来て。朝から並んでひとり1シートしか買えない。テレビに三波春夫が「東京五輪音頭」で出てきた時に「この人、なんか明るくていいな」と思ってさ。以前から(三波さんの)ヒット曲は知ってた。
オリンピックの頃、池袋の中央地下道が作られて、西武が横にどんどん伸びて行った。もともと川越街道は、砂利道だったので舗装されるし、そういうのが相次いであったね。明治通りを走る、池袋から渋谷へのトローリーバスは、僕が中学生の時はまだあったけど、だいたい64年から高度経済成長が始まって、70年までの6、7年ですべてが変わったんだね。東京五輪から大阪万博のあいだ。そのあいだが、中学から高校まで。
中学1年の時、66年の1月末に、僕は練馬に引っ越したから、生まれてから小学校を卒業する頃までが、僕にとっての池袋の記憶だね。
【第1回 了】