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ヒストリーオブ山下達郎 第15回 初めてのアルバム・レコーディングSONGS 1974年10月〜

<エレックのスタジオは、コレはなんだ、っていう酷さだった>
曲は♪すてきなメロディー以外は全部揃っていた。もうライブでやっていた曲ばかりだからね。
スタジオは最低だったよ。天井が低くて。だって普通のオフィスビルの2階だもん。マイクも数えるほどしかないし、ピアノの弦に雫が垂れているんじゃないかって言う位、湿度が高くて、当然鳴らないし、モニターはひどいし。今までコーラスやCMをやってきた色々なスタジオと比べても、これは何だって言う感じだったよね。
CMで使うのはそんなにいいスタジオではないんだけど、でも、それは機材的な面で、16チャンネルのコンソールはなくて4チャンネルしかないとか。それでもルームはそれなりにちゃんとしていたの。でもエレックのスタジオはそういうの以前の問題で。あれはちょっとショッキングだったね。大滝さんも絶句してた。
それに初めてエレックのスタジオに行ったときには、大滝さんは卓に座らせてもらえなかった。スタジオのハウス・エンジニアがいてね、彼は当然自分がやるもんだと思っていた。で、大滝さんも自分でやる気でいたから、どうなってるんだ、みたいなこともあったり。
言い合いにはなってないと思うけど、気まずい感じだった。でも、そのエンジニアもスモーキー・メディスンとか、ずうとるびとかやってるエレックスタジオのハウス・エンジニアだったんで、そこにいきなり大滝さんが来て、なんとなく対立構図に。
それで結局レコーディングの時は大滝さん、ハウス・エンジニアがやったのはデモテープの時だけ。どういういきさつでそうできたのか、知らないけど。
  
<でもしょうもないスタジオで録ったからこそ、ああいう音になったのかもしれない>
それまでエレックで出していた人はあのスタジオにそんな疑問もないでしょ、インディーだもの。
ただ逆に言うと、あのハウス・エンジニアの人はあの環境でよくやっていたよね。その後フリーになって有名なエンジニアになったのもうなずける。まあ、あの頃はシステムがシンプルだから、腕で何とかなる部分もあったんだね。
だけど、当時はエレックの経営が既に左前になっていたから、今コンソールは誰の抵当で、テレコは誰の抵当とか、そんな話をずっと聞きながらやっていたから。
最初にエレックに行ってデモを取った時に、そのハウス・エンジニアで♪蜃気楼の街を録音したんだ。僕はそのテープを持っていないんだけど、とにかく全然雰囲気が違うんだ。アレンジもかなり違ってたんだよね。SONGSに入っている♪蜃気楼の街はスタジオで考えたアレンジだから、イントロとかかなり違うんだよ。そのテープはもう無いんじゃないかなぁ。
でも考えようによっては、僕らのアルバムが溜池の東芝スタジオとか、六本木ソニーとかのスタジオで録ってたら、普通のニューミュージックのバンドもののオケになっていたかもしれない。エレックのあのしょうもないスタジオで録ったからこそ、ああいう音になったのかもしれないよね。
とにかく、リズム録りだけはエレックでやったんだけれどあまりに雰囲気が良くないんで、歌入れとか、かぶせは福生とかソニーとか他のスタジオでやったんだ。
ストリングスの録音は六本木ソニー。エレックでやったのはリズム録りだけ。でも本当にエレック・スタジオにはいい思い出がないなぁ。エレックのA&R担当とは本気で言い合いになったこともあったしね。細かい原因までは覚えてないけど。
でも素直に「はい、はい」って従ってたら、とんでもないところに持っていかれるって、直感で感じたんだよ。僕らのレコードなのに、なんでそっちの理屈を聞かなきゃいけないんだって。
僕が最初に感じたのは「どうせこいつら下手なんだもの」って言う空気。あるいは「どうせこいつら売れない」って言う、初めからそういう空気があった。普通レコーディングするって、会社と契約してデモテープ録っていく時に、励ましとか、盛り上げるとかあるじゃない。そういう記憶がほとんどなかった。そういう違和感がすごく残ってるんだよね。
結果的にはあのエレックのどうしようもないスタジオでのインディーの録音と、福生45スタジオの木のアンビエンス(残響音や反射音)、そして最終的には六本木ソニーでのミックスダウン、それぞれのスタジオの色合いが入ってるとも言えるかも。結果的にそうなったけど、やっている時、本当にこれで出来上がるのかと思ったんだよね。
バンドを作って1年半くらい経ってたから、やっとバンドの音もまとまって来ていたし、ター坊も曲をきちっと書き始めていた。♪風の世界とか書けていた。そうなってバンドのサウンド・ポリシーもだんだん出てきているところに、違う方向に持っていかれるんじゃないかって言う不信感。
だって4月に(ニッポン放送で)デモテープを録ったはいいけど、そのままずっと何もなくて、東芝だったはずのレコード会社がいきなりエレックになっていて、そういう部分にも疑心暗鬼だった。
エレックでのリズム録りは全員でやった。でもクオリティーに全然満足できなかったの。音に残っているので言えば♪雨は手のひらにいっぱい、でドラムのパターンが倍転するところとか、♪いつも通りのドラムパターンとか、スタジオの現場で決まったりしたのね。
それで僕が心配したのは、野口がすぐにはできなかったこと。
例えば♪DOWN TOWNのテイクでもハイハットとスネアの普通のパターンでドラムを叩いた後に、タムをダビングすればいい話なんだけど、レコーディングではタムを先に叩きながら演奏することになった。
そうすると当時の野口の技量ではリズムが揺れ始めるわけ。ただでさえテンポキープが弱かったのに。
それで延々やっていると、どんどんスタジオの空気が悪くなるの。野口を途中で変えて(上原)ユカリに頼んだっていうのは、それが一番大きな理由だったんだよ。
今から考えると機材の問題も大きかったんだけど、タイムが甘いっていうかアンサンブルの線が所々ズレるのがすごく嫌だったんだ。で、全曲、SHOWもDOWN TOWNまでも、ユカリでもう一度やったんだ。
だけどプレイバックを聴いて、ユカリが野口のバージョンを「こっちの方がバンドの音がしてるからええんちゃうか」って。それで思いとどまってSUGAR、SHOW、DOWN TOWNは野口のバージョンになったの。
だからそれが最初にやった曲で、一番最後にやったのが♪すてきなメロディー。
だけど♪今日はなんだか、のような曲はユカリのスタジオやライブでのキャリアの裏付けがなきゃだめだったね。ああいうハネているやつなんてのは特にね。
もともと自分たちが上手くない事はわかっていて、それを編曲的な部分で補って形にしてきたのに、それをレコーディングの現場でまた変更する、そんなことになったからね。そうすると途端に演奏技量が心許なくなる。そうなると、やっぱり野口なんかが槍玉に上がっちゃうんだよね。
そういうことがなくて「いいんじゃないバンドなんだから」とかやってたら、全然違う人生になってたんだろうね、それはそれでw

     

<あの時のレコーディングで一番鮮明に覚えているのは食事代が出なかったことかな>
1974年10月の終わりから11月の頭までがエレック・スタジオでの1回目のセッションだね。
その後、11月18日から再開している。ここで野口とユカリが交代。で、リズム録りを4日間。その間にライブもやってるんだよ。金沢に行ったり。
まぁレコーディングしたのはほとんどがライブでやっていた曲だから、構想あったんだよね。
でも、あの頃はキャラメル・ママみたいなスタジオミュージシャン・ミュージックの全盛の時代でしょ。だからバンドで一発録りでやることが、すごくつまらないことだって風潮があった。何か現場で変更加えたり、新たにダビングをすることが、レコードとしての完成度を上げるって言う、そんなのただの幻想なんだけど。
結果的に♪SHOWなんかはデモテープの方が出来がいいと思う。でもテープは同じ日にいっぱつどりだから。でもスタジオでは後から別の場所で歌を入れるから、歌とオケの間に距離がある。それがすごく気になって。とにかく楽しくないんだよ、ちっとも。実際に人だから思ったようなことにならないっていうのもあったけど。
原因がつかめないから♪SHOWとか♪今日はなんだか は、よせばいいのにダブル・ヴォーカルにしたりして。
なんでそうなったかと言うと、リズムを録ったのがエレックなんだけど、歌を入れたのは福生とか他のスタジオ。福生の音はエレックとは違うからね。今ならそんな場合の対処もできるけど、あの頃は右も左もわかりませんでしたから。
もう30何年も前の話だから、細かい事は断片的にしか覚えてない。結局覚えているのは良いことか、悪いことか、どっちかなんだよね。
あの時のレコーディングで一番鮮明に覚えているのは、食事代が出なかったこと。「出前をとって自分たちで払え」って言われるの。それで僕はエレックのA&Rにどうなってるんだって聞いたら「いや、金がかけられないんだ」って、それだけエレックはヤバかったんだよね。とにかく勇んで始めたはいいけど、途中でドラムがユカリに代わったり、だんだんおかしくなってきて。
そうすると、僕も他の人のレコーディングの現場とか見てるわけじゃない。その様子と自分たちの現実があまりに違うしね。とにかく、だんだんレコーディングに対する意欲が失せていくの。だからずるずるべったりずっーとやっていたんだよね。
本当は年内にアルバム出したかったらしいんだけどできなくて。そんなわけで、当時はオケの出来に全く不満足。それがずっと後になってソングスを聴きなおしてみると、思ったより良いw
でも、当時はそのくらい気持ちが盛り下がってた。それは現場の記憶とリンクしてるからなんだろうね。あれが六本木ソニーのきれいなスタジオでやってたら、もっと精神的に違っていたのかもしれないけど。エレックは薄暗いんだよ、スタジオがね。少しも明るくならないんだ。その印象が強かったな。

   

<みんなが脅かすんだよね、「弦の人って根性悪いから、いじめられるよ」って>
大滝さんもエレックのスタジオを気に入っていなかったんだろうね。で、福生のスタジオに16トラックのレコーダーを入れて。福生だったらマイク等の付帯機器を借りてくれば、あとは何時間やってもお金はかからないからね。でもダビングはいろんなとこでやったなぁ。
♪いつも通り、♪今日はなんだかのグランド・ピアノのダビングは、目黒にあったモウリ・スタジオの1スタでやった。♪SHOWのピアノはエレックで最初に録ったそのまま。だから音が妙にモケてるんだよね。あれが嫌で♪今日はなんだか、♪いつも通りは、モウリで録り直したんだけど、当時はドンカマ(リズムボックス)なんてなかったから、ユカリのドラムと合わないの。それをずらして再生して合わせたりしてね。そういう風にいろんなスタジオを転々とした記憶がある。
ストリングスは六本木ソニーで。あの頃のバンドものでストリングスとかブラスを入れるとか、あまりないよね。特にストリングスは。でもさっき言ったように、スタジオ・ミュージックの方が優れている、って言う思いがあったからさ。そういう「何かやらないといけないんじゃないか」っていう思いw、レコードを作るんだから。
だから、これが僕にとって生まれて初めてのストリングスアレンジした曲なんだ。CMだってストリングスやったことないもん
ストリングスの記譜法の基礎は、最初、瀬尾(一三)さんに教わった。瀬尾さんはCM制作会社のオフィスで知り合って、その後コーラスでもずいぶん使ってもらった。当時の僕の人脈から全くありえない、山田パンダとか、風とかのコーラスは、全部瀬尾さんがらみのものだよ。同時に僕にとって瀬尾さんは、スタジオでのいろいろな段取りの先生でもあった。
ストリングスに関して素人考えで、初めはブラームスとかチャイコフスキーとか、そういうスコアで勉強しようと思ったけど、あれは編成が大きすぎるから参考にならないって言われてね。瀬尾さんは「クラシックのスコアなんか見てもダメだ」って。
だから自分でヘンリー・マンシーニとかドン・セベスキーとか買い込んで。マンシーニの本はマンタ(松任谷正隆)に教えてもらったのかな。
スタジオでは通常6.4.2.2(第一バイオリン6人、第二バイオリン4人、ビオラ2人、チェロ2人)だから、当時僕はブラスに関しては若干の知識はあったけど、ストリングスは全然知らなかったんで、瀬尾さんに書式を始め、基本中の基本を教えてもらったんだ。
ストリングスのメロディーラインのイメージはあったから、それを弦で弾くってことだから。まぁだけど、みんな脅かすんだよね。「とにかく日本の弦の人って根性悪いからいじめられるよ」って。
それまでのレコーディングで、アレンジャーが「こんな譜面じゃぁ吹けないよ」ってブラスの人にいじめられていることを見てきたから。でも「弦はあれ以上だよ」っていわれてねw。僕、ブラスバンドだったから、ブラスの人たちとはそんなに違和感がなかったの。プレイヤーがそう言うのももっともだなって。でも、なんだかんだで、弦もそれほど問題なく入れられたよ。

  

<「雨は手のひらにいっぱい」をシングルに、という話になって変えた>
レコーディングではコードやメロディー、行き方を変えた曲はほとんどない。基本的にはステージアレンジそのまま踏襲。だから、それに何を足すか、って言うことをやったのね。
それでも大きく変えたのは♪DOWN TOWNと♪蜃気楼の街かな。
DOWN TOWNはもうほとんどステージでは演奏不可能な世界にまでしちゃっている。野口のドラム、というかフロアタム+スネアで演奏しているあのやり方だと、アタックが弱いんだよ。でもアタックが弱いことが、逆に非常に不思議な音蔵を生み出したんだよね。60年代っぽい。だからあの曲をライブでやるとレコードみたいな感じにはならないんだ。それはもう全く割り切ってやるしかない。

そういうちまちましたことがあったけど、♪SHOWと♪風の世界、は全くステージのアレンジそのままだし、村松くんのオブリやソロもステージそのままでやっている。♪SUGARも全くの一発録りの上に、あのバカ騒ぎを寄ってたかって入れた。
♪蜃気楼の街はなぜ変えたか覚えていないけど、あんまりステージのアレンジが好きじゃなかったんだろうね。こうしたいなっていう漠然とした構想はあったからね。♪いつも通りは、ステージではイントロやリズムパターンの違うバージョンが何個があったんだけど、レコーディングでは不思議なことに一番最初のバージョンに戻っているんだよね。なぜそうなったのか、僕も記憶がないんだ。あと大きく変わったのは♪雨は手のひらにいっぱいだね。
この曲を変えることになったのはこの曲をシングルにしようと言う話になったからなんだ。まぁ結局はならなかったんだけれども。
シングルで切ろうって話が起きたのは、レコーディング始まってからで。僕たちはDOWN TOWNで絶対決まりだと思ってたんだけど、出版社のスタッフと大滝さんに♪雨は手のひら〜をシングルにしたい、って言われたの。ステージでの♪雨は手のひら〜はカントリー・ロック風のアレンジだったんだけど、これをフィル・スペクター仕立てにしようって。
それでシングルとアルバムを別バージョンにして、シングルを松本隆さんに頼むって話ができたんだよ。曲はいいけど、とにかく詩が弱い。次はプロの作詞家に頼もう、って。シングルバージョンは松本さんで、アルバムバージョンはお前の詩でいいって言われたの。
それで話し合いは物別れにはなったんだけど、その後に「こういうことがあったんだ」ってメンバー5人でディスカッションしたら、野口は「僕は売れるためだったら、それでも構わないよ」って言うの。野口は当時家が大変だったりして、それはそれで身につまされちゃって、そうか、それもしょうがないかと思ってたんだよね。そうしたら結局、松本さんがやらないと言うことになった。
でも、松本さんがやらないと言うことになって、じゃぁ他に誰に頼むって言う話が全くないのね。なし崩し的に、詩はそのままってことになった。それもまた気に入らなかったんだ。結局、僕がケツまくる位にアンタたちが説得したのは何だったんだって。そんなに詩を変えることに固執するんだったら、一つプランがダメになったら違うプランを持ってくればいいじゃないか、って。そんな話ばっかりだから、やっぱり印象が悪くなっちゃうんだよw
   
<SONGSはいつ出たのかも知らない。レコード店で現物を見たことがない>
レコーディングのテイクのオーケーは基本的には僕と大滝さんの合議だった。ただ、大滝さんはもうワンテイク録れとか、全体的な事はあまり言わなかった。細部に対する変更だけ。
自分に関して言えば、当時のメモを見ると、やっていることが今と同じだね。何を入れるかって言うメモには、パーカッションしか書いてないんだよ。コードの出る楽器とか、メロディーが出る楽器は、結局バンドだから、バンド以外の音は入れられない。
レコーディングの締め切りは最初はあったの。年内に出そうとか。でも結局そんなふうにも揉めるとさ、スケジュールが遅延するんだよね。
11月30日にモウリ・スタジオでやっている。それまでエレックだったわけだね。この日モウリでピアノのダビングをやったかもしれない。あとストリングスとブラス、稲垣次郎さんのソロとかはソニーだね。
歌入れの一部もソニーでやっている。♪素敵なメロディーとかは福生。ター坊の歌入れはソニーが多かったんじゃないかな。だから♪いつも通りの歌は、音がデッドでしょ。
ミキシングはどのスタジオも大滝さんが全部自分でやった。エンジニアとしての大滝さんはとてもちゃんとしていたんだよ。よく勉強していたしね。
リリースは1975年4月25日だけど、手帳に発売日とか一切書いてないんだよ。いつ出たかもろくに知らなかったんだ、実は。レコードで現物を見たことがないし。アルバムが出た印象がない。だってその時の見本盤は1枚しかない。売っている盤をその頃見たことがないし。
東芝の溜池スタジオがリニューアルした時に、デモ演奏してくれないかって言われたの、誰がその仕事を持ってきたかわからないんだけど。
それが75年の頭なんだけどその時に(伊藤)銀次を入れて写真を撮って、それがエレックのプロモーション写真になるんだよ。それが3月12日だね。そんなことばかり覚えてるんだよ。
ジャケットは金子(辰也)に頼みに行ったの。いつ頃かは覚えてない。とにかく知り合いでデザインの知識があったのは金子ひとりだけだったし。だからAdd Some〜の延長だよね。
アルバムは曲の出来不出来が激しいなっていうのが正直な感想。♪雨は手のひら〜はよくできたけど、♪今日はなんだかはピアノがあとからかぶせたのがわかっちゃうし、そういう後悔をするところがたくさんある。
ミックスし直し? 無理だよ、今更やったところで自己満足にしかならないもの。それにミックスに関して言えば、大滝さんはあのコンディションの中で、良いミキシングをしていると思うよ。
今から考えると、一発録りに近いやつの方がいい出来してるよね。♪過ぎ去りし日々なんかほとんど一発録りだから、ああいう方が聴いていて違和感がない。やっぱり一般的なレコーディングの評価と同じで、演奏の稚拙さをどうカバーするかって頑張ったんだけど、最終的にはそういう上手い下手のレベルよりも、編曲の段取りとか、イントロの作り方とか、そういう方が長く聴いていると残るからね。僕は♪いつも通りは元のイントロの方がいいと思うけど、そんな話はもういいよね、30年経つと。どれも「ああ、こんなもんだ」って思うよ。
     
<なんでSONGSがこういう形で残ったのかがものすごく自分としては不思議だね>
アナログのLPって片面が5、6曲しか入らない。結局アナログ盤のA面B面と言う形における美学っていうのは、1曲目からの流れ方、これが全てだと思うよ。
当時のこのクラスのバンドのアルバムって、3曲通して聞けないものが大半だった。その意味ではシュガーベイブには僕だけじゃなくって、ター坊とか村松くんとか、複数の作家がいたっていうことが大きいよね。
今から考えると、レコーディングの途中でユカリに替えたことでドラマーが2人になった。そのバリエーションも大きいよね。作家、シンガー、ドラマーが複数だった。それがSONGSが飽きない原因の一つじゃないかな。5人のメンバーがフィックスされてボーカルが一人しかいないバンドだったら10曲聴くのは飽きると思う。
それにター坊も僕も作家志向が強いから、作品にも幅があるしね。願わくば、それをもうちょっと良いコンディションでできたら、もうちょっと明るい感じのアルバムにできただろうね。でもあれが明るい感じだったら、果たして今の評価があったかどうかっていうのもある。
不思議なのはなんでSONGSがこういう形で残ったっていうのはね、ものすごく自分としては不思議。だって演奏が不満だらけで、せめて曲だけでも聞いてほしいって言うことで、SONGSってアルバムタイトルにしたんだもの。そうするとこの演奏やミキシングで正解だったって言うことなんだね。
やっぱりリズム録りの時の暗鬱な空気がポップさに影をさしている。その感じも結果としては良かったのかもしれない。
でも、当時これで軟弱だって言われたんだから、世の中ってすごいよね。ジェームス・ブラウンだって今でこそすごいって言われるけど、昔の日本では、こんな面白くない音楽はないって言われたんだもの。コードひとつしかないしね。歴史なんていい加減なものさ。
発売の頃に雑誌のレビューがあって、一番最初に出てきたのが「ミュージックマガジン」のしょうもないやつ、その後は「ミュージックライフ」だかどこかの「あの男の歌手がいなければ、もっとマシなアルバムになった」ってやつ。とにかく、ろくなのがなかったな。まぁあの頃は絶対に褒めないっていうのが、美学みたいな時代だったからね。別にけなされてもいいんだけど。でも、全く的が外れていたんだもの、どいつもこいつも。それが頭にきたんだけど。でも、世の中にはこんなに自分と感覚の異なる人間がいるんだ、っていうのが正直な感想でね。制作意図なんてものは世間にはほとんど伝わらないものだっていうのは、あの時代に徹底的に叩き込まれたね。
でも、僕にとって幸運だったのは、75年くらいから荻窪ロフトとか下北ロフトといったライブハウスが出てきて、そうしたライブハウスでの入りがすごく良かったこと。それが大きな支えだったんだよね。
ライブハウスでもいつまでも20人の客だったらやめてたね、絶対。レコードが出た後は、ライブハウスに限って言えば、客だけはどこもいっぱいだったから。
だから、音楽雑誌のライターの方がバカなんだ、客の方がちゃんとものがわかってるって。あの頃の客は言うこともきつかったけど、ちゃんとこっちの意図が伝わる形で聴いてくれてたしね。そういう落差って言うかな。だからある時期には本当に評価してほしい人には評価してもらえなくて、僕なんかに何の接点もない人が妙に褒めてくれたりとか、そういうことで、党派制とかに全く無縁に生きざるを得なかった、と言うのかな。
結局エレック盤SONGSの印税は一銭も入ってこなかった。エレックがすぐ倒産しちゃったこともあると思うけど、でも本当に本当のところはよくわからないんだよ。まぁ全てが時代の彼方だよね。
【第15回 了】