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ヒストリーオブ山下達郎 外伝5 野口明彦インタビュー

<高校の途中からフォークをやったんです>
生まれは東京・中野新橋、淀川浄水場の向こう側です。
で、その向こうはもう渋谷本町。渋谷と中野の境目ですね。家からバスに乗って、バス停3つ目で浄水場。中学校の頃にはもう浄水場がなくなって、京王プラザホテルが経つ頃によく遊びに行きましたね。遊びに行ったっていうか、フォークソングの練習とかをしていたかもしれないなぁ。
小さい頃は、普通の気の弱い人見知りでした。兄弟は妹が一人。外で遊ぶことが好きでしたね。運動もよくできたし、野球もずっとやってました。大滝さんのチームでもエースで4番だったし。今もバレーボールの監督をやってますよ。
音楽との出会いは小学5、6年の頃にピーター&ゴードンの♪愛なき世界を聞いて目覚めたって言う感じかな。あとベンチャーズ。友達の家にお兄ちゃんがいて、そのお下がりのポータブルプレイヤーで聴いていた。
で、中学に入ってベンチャーズが流行って、僕も少しドラムをやってたんですよ。ドラムは親父が祭太鼓が好きだったから、っていうのはおかしいけど、そういうのが好きだったみたいです。最初に始めた楽器がドラム。
高校で途中からギターを弾き始めて、フォークソングをやったんですよ。ドラムセットは持ってないですよ。ドラムはシュガー・ベイブの時も持っていなかったしw  センチメンタル・シティ・ロマンスに入ってからやっと手に入れたっていう、いたってルーズな。だから、よく言うドラム少年とか、ギター少年とか、そういうのじゃないんだよね。
フォークは三輪車時代のター坊と同じように、PP&Mスタイルでやっていたんです。PP&Mも好きだったし、高校のときには六文銭とかも好きでした。まだ初期の六文銭牧村憲一さんがマネージャー、早稲田の大学生で。で、僕は高校生の時に小室等さんとか、牧村さんに会って、牧村さんの家まで行ったりしてたんです。それで高校2年の時かな、ヴェルウッドを作った三浦光紀さんにも会っています。僕はその頃ジャンジャンとかに出ていたんですよ。「三本足の椅子」って言うグループで。
 
<僕は芸歴的にはすごく古いんですよ>
「三本足の椅子」を結成したのは高校1年位かな。3人組で。もうだれも音楽はやっていないですけど、僕の中学校の同級生と、4つ上のお姉さん。面白いんですよ、そのお姉さんは日比谷高校で4つ上だから、要するにまりやのプロデューサーだった宮田茂樹さんとか、山本コウタローさんなんかと同級生。後でわかったことですけど。
グループでは僕はギターと歌です。ギターは2フィンガー、3フィンガーと言う感じですね。
ギターの練習はしましたよw  しないと弾けないじゃないですか。で、ジャンジャンとか出てて、ソルティー・シュガーがいたり、まだ吉川忠英さんがEASTに入るか入らないか、と言う頃かな。古井戸もいたり、ブレッド&バターもいたかな。それで、僕らのグループが結構面白いって言うんで、NHKから声がかかったりしたんです。NHKテレビの「若いこだま」や「若い広場」にも出ましたよ。
曲はオリジナルで、僕とそのお姉さんが書いてました。ジャンジャンに出たのはオーディションで、たまたまそこにNHKのプロデューサーが見に来ていて、番組に出てみないか、と。そしたら三浦光紀さんも見に来てて、レコーディングしようって話になったんです。だけど当日、僕が寝坊していかなかった。そういう時代ですw
寺山修司さんの詩でレコードを出そうと言う話もあったんです。でも僕らは生意気で、お姉さんが寺山修司の詩じゃ嫌だから、唐十郎さんに代えて欲しいってw当時から唐さんのお芝居で小室等さんがギターを弾いてたりしたんです。で、僕が高校生の時に小室さんを訪ねて行ってるんです。いまだに小室さんに会うと「君は会うたびに違うことをやってるね」って言われるんですけどw
この前、達郎に会った時にも話してたんだけど、僕は芸歴的には古いんですよ、すごく。でも、そのグループを突然辞めちゃった。なんだかつまんなくて、それで解散。3年ぐらいグループはやってましたね。だって俺、それが原因で高校クビになっちゃったんだもん。音楽活動ばっかりやっていて学校へ行かなかったから、出席日数足りなくて。
だから、僕は全くヘンテコリンな角度から来てるというか。達郎たちは高校の仲間。僕は全然違うんです。でもそのお姉さんの友達が矢野誠さんの親戚だったんですよ。
そのお姉さんは日比谷高校を出て、阿佐ヶ谷美術学園へ行ってたんだけど、その時の仲の良いグループに有馬さんと言う人がいて、今は僕の親友となっちゃうんだけど、その人は長崎出身で、長門くんと同級生なの。そこで長崎の人脈ともつながってくる。
そこで僕は長門くんとか小宮くんとか知り合うんだけど、有馬さんが矢野さんの親戚だったんです。
有馬さんの義理の兄の妹が、矢野さんの当時の奥さんだった。それで僕も家に遊びに行ったり。僕は学生服でしたね。その時に長門くんにも会ってるんです。
  
<カメラマンの助手からディスク・チャートへ>
当時の長門さんはあまり覚えてないw 三畳一間に住んでいたよね、沼袋のウサギ小屋のような家だったのは覚えているけどw
グループを解散してから、僕は写真のほうに行ったの。もう、全く音楽はやめて、手に職をつけなきゃいけないって。全くカメラなんて興味ないんだけど、あるコネでカメラマンを紹介されて、その人の助手を2年ぐらいやりましたね。当時立木義浩さんや篠山紀信さん、大倉舜二さんとかカメラマンと言ったら花形、めちゃくちゃ厳しい世界、そこでやりましたね。
フリーのカメラマンに着いたんですよ。「婦人画報」とか「メンズクラブ」とかの写真を撮っていた。全くの商業カメラマン。その助手を2年。仕事の速さは身に付いたよね。記憶力とか、どこに何を置いたとか、言われる前に出すとか、そういうのは結構役立っているかな、今でも。
で、若いからすごくバキバキの助手になっちゃって、その人のところを辞めてもフリーの助手で、プロのカメラマンからご指名で仕事が入っていた。要するにできるローディーみたいなもんだよね。もうスケジュールを書いて、忙しくて。あっちこっちカメラマンについて、変な話、フリーの助手でも食えてたんです。でもカメラマンの世界ってすごく封建的なのが嫌で、それもやめて四谷の「ディスク・チャート」でバイトをするわけです。
矢野誠さんの同級生が「いーぐる」って言うジャズ喫茶のオーナーで、矢野さんの一派に、僕とか長崎連中がいたでしょ。その人たちが一緒にジャズじゃないレコードをかける喫茶店と言うのを作って、そこで従業員というか、バイトしたんですよ。そこでター坊もウェイトレスとして働いていた。
ター坊が矢野さんに勧められて「ディスク・チャート」に行くようになった経緯は、あまりよく知らないの。ただ「ディスク・チャート」に行ったらター坊とか当時の「三輪車」の連中がいたり、とにかく人がいっぱい集まっている。
僕はどっちかって言うと真面目なアルバイターだったからw仕事が終わったらもう帰っちゃうというか、ちょっと部外者的な感じだったかな。
そんなプロになろうとか、音楽に対してすごく執着しているわけでもないし。それでセッションをやっている時に、ただただボーっとしていると、長門くんが「野口、ボンゴ叩け」って。だから帰りはしなかったですけどねw
でもまあ色んな人が居ましたよ。(南)佳孝が居たりとか、徳武(弘文)くんも。
だから、僕が音楽の世界にスッと入れたのは、長崎の連中のおかげですよ。すごく仲が良かった。小宮くんとか、しょっちゅう高円寺のアパートへ行って一緒にご飯食べたり。
僕はその人たちから3つ位下で、すごくマスコット的に可愛がられたというか。スポーツやっていて上下関係にも慣れていたし、写真をやっていて、縦社会の中に結構いたから、気分は悪くなかったんじゃないかな、先輩たちも。一応わきまえて遊んでたっていうか。いつも何かあると連れ回してくれるお兄ちゃんお姉ちゃんがいたんですよね。それがいまだに続いてるような感じ。みんな音楽やめて長崎とか帰っちゃっても、僕がツアーで長崎へ行くと、その人の家に泊まったりしてますけどね。
長崎の連中のひとりだった土井って奴が、法政大学へ行ってて、徳武くんを連れてきたりとか。長崎の連中は、僕にとっては音楽的にはすごく冴えているものを聴いている連中だな、って言う感じでしたね。

<セッションからシュガー・ベイブへ>
「ディスク・チャート」のセッションは僕はよくわからなかった。何やってるんだろう、みたいな。ただドラムを叩きたいとは思ったんだけど、別にドラムセットもないし、ドラムが叩けるようなスペースもないし。ドラマーは誰もいないわけですよ。うまいと言えば当時達郎が一番うまい位でね。徳武くんがベースを弾いてたりとか。そういうめちゃくちゃな感じだったけど。
ター坊を売り出そうって話になって、バンドを作るんだけどドラマーがいないからオーディションで決める、と。それでオーディションしたのかな? シュガー・ベイブのオーディションで並木さんの家にには行ったような気がするけど。結局、一番下手だった俺に決まったと言う。
オーディションに行くと、もうター坊のバンドというより、達郎バンドみたいな感じというか。本当は達郎は太鼓すごくうまいんだけど「ギターを弾いて歌いたいから、俺はギターをやる」って。それで、僕はもうひとりのドラムの人がいて、その後に叩いたんだ。全く自信も何もなかったんだけど、お前やれ、みたいなことになっちゃったんだよね。体が大きいから。
当時ドラマーって変な思い込みがあったのね。音がでかくなっちゃいなくちゃいけないとか。PA設備がまだちゃんとしてないから、アンプに対抗できるパワーがなきゃみたいな。それで達郎が「お前、体が大きいからやれ」って。でも太鼓は叩きたいと思っていたから「まぁいいや」みたいな。その時にはドラマーになろうとか言うより、ただ太鼓が叩きたかっただけでね。
それで特訓。ドラムは中学生の時に、お遊びでベンチャーズをちょっとかじった位で、ポップスは好きだけど、自分で太鼓を叩いてとか、ポップスのあり方みたいなのは全然わからなかった。あまり聴いてなかったしね。
長崎の連中とか、長門くんや達郎のようにいろんな曲をコアな感じで聴いてはいない。僕はPP&Mも好きならシナトラも好きって言う、メガヒットばかり聴いてるような感じで。だからレコードを1枚買って擦り切れるまで、このギターは誰とか、そんな聴き方をしている奴が多かったけど、僕はそんなのどうでもよくて、ただ流行っているのが好きだっただけw
だから、音楽とか語ることが不得意で。いまだにあのギターは誰々とか、長門くんに言われても全然わかんない。だってセンチメンタル・シティ・ロマンスに入ってラス・カンケルを知ったくらいだからw
で、ドラムは特訓されていたと言うより、要するにキメのフレーズがあるわけですよ。「こう叩いてくれ」みたいな。で、変な話、ドラマーって人が言うフレーズって、叩けないんだよね。まぁスタジオで譜面があるなら、それでもやれるけど、意外とそんなホイホイとはできないの。まぁ今はできるようになったけどねw
僕の場合は、運動ばかりしてきたせいか、体に一度入れないとできない性分でね。そういう意味ではすごく不器用だったし、迷惑かけたんじゃないかな。だけど僕自身は辛くはなかったよ。だから続けられたんじゃないかな。
スパルタ? でも、それは別にセンチに行ってもそうだったしね。告井君がやっぱり「こうやれ」とかね。
ほんとに達郎と告井くんという師匠が二人いて助かりましたね。結構、一生懸命やれた。それがシュガー・ベイブに居られた理由かもしれないな。シュガーも喧嘩ばっかだったし。ずっとチューニングばっかりしてると「早くやろうよ」って言うのが、いつも僕で。そういう中和剤じゃないけど、僕の足りない部分が、逆にみんなを楽にさせたのもあるかもしれないw   僕が勝手に思ってるんだけどさ。
シュガーの曲はキメが多くて大変でしたよ、ほんとに。ここでこういうオカズじゃなきゃダメ、みたいな。でも自分がノッてたり、かーっとなっている時は、そんなことどうでもよくなっちゃうのが俺だったり。ドラマーって意外とそうだと思うんですけどね。
前に達郎に言われたことがあって、(村上)ポンタさんに「こういう風に叩いてくれ」って言ったら、できなかったんだよね、って。だから、その時にドラマーって「人が言うフレーズが体に入ればいいけど、そうじゃないとできない。できたとしても意外とぎこちない」ものだったり。達郎もその時、初めて分かったみたい。あのポンタさんでさえできないフレーズがあったって。できないんだよ、人の言うフレーズって。それからなんじゃないかな、達郎のドラマーに対しての意識が変わったのは、とは思うんだけどね。

<拾得で「帰れ」と言われた時は怖かった>
当時はステージでアガってたのかもしれない、だってステージの本数も少なかったし。でもそれよりも、間違いなくこなす、というのが大変だったかな。♪SHOW、♪DOWN TOWN、 ♪SUGAR…馴染んでいる曲は別にいいんだけどね。村松ちゃんの曲なんかも指定が多くて大変だった。オーリアンズみたいにとか言われても聴いたことなかったし。でも、アイズレーみたいにって言われた時はわかったの、聴いてたから。だから、自分が知っていたものは楽だったけど、知らないニュアンスのサウンドはやっぱり苦手でしたね。
(73年8月の)長崎の初ライブの事は覚えてます。レパートリーが6曲しかなくて。しかも、まだシュガー・ベイブらしい曲がなくて、ちょっとフォーク・ロック的な曲が多かったね。達郎の作る曲も、まだ今の達郎の感じではなくて、後はカヴァーもあった。アンコールもきたけど、その時も6曲のうちの1曲をやったんじゃないかな。
ただ、僕はコンサートそのものよりも、長崎に行ったことがすごく楽しかったのね。長崎の連中とはもともと仲良かったから、メンバーとは殆ど一緒にいなくて、長崎のお兄ちゃんたちの家に転がりこんでいた、と言う感じ。だから僕は達郎たちとだいぶスタンスが違うというか、いい加減というか。
関西ツアーは辛かったというか、拾得で初めて「帰れ」と言われた時は怖かったですよ。一升瓶を抱えた奴に「東京に帰れ」みたいなこと言われて。とにかく京都はブルースオンリーだったから。でもそこで達郎が曲順を変えて♪指切り、だったか♪SUGARだったか、それで結構黙らせた。
外人たちはすごくいい感じでノっていたし、終わってから山岸潤史が楽屋に来て「いや、良かったよ」って言ってくれた。
ただ、演奏旅行みたいなのはあれが初めてだったからね。神戸でも一列になってやったりw なんだよ、これ?みたいなね。でも楽しかったな六番町コンサートで初めて(上原)ユカリを見て、スゲェ太鼓だなと思ったんだよね。
すげえパワーでタイトな演奏。太鼓はこういう風に叩くと、ああいう風に鳴るのか、っていうのが刺激になったね。
バンドは達郎が♪SHOWを書いたり、曲の感じが変わってくるわけです。そこから♪今日はなんだか、とか曲がどんどん出来ていくんだけど、その時にわかんないなりに「こいつ、凄い才能だなあ」と思った記憶が今もありますね。それまで小宮君がいて、僕は彼が使うメジャー7thがすごく好きで、メロディー的にも。小宮くんはすごい才能ある男なんです。
♪SHOWの時には、地下鉄が走っているようなイメージのリズムが欲しいんだ、みたいなこと言われて。で、あんな風になって行っちゃった。今聴いても変なリズムなんだけど。
だから、僕は太鼓は下手だったけど、フィットしたところは受け入れてくれたのね。でもやっぱりレコーディングの時にダメで、ユカリとバトンタッチするじゃないですか。でも、僕の太鼓の方が合ってる曲もある、と僕は思っていて、実際に「野口の方が雰囲気が合ってるな」と曲によって言われたことがあるのね。ただ、仕事としては遅くなっちゃうからね。まだ半年だよね、ドラムをちゃんと始めて。
それでレコーディングですからデモテープはどうにかなっても、後半になるとリズムが遅くなっちゃったりとか、やっぱりあるわけで、どうしてもレコーディングの進行は遅くなってしまうでしょ。
で、何曲か取り終えた時、僕は当時は中神(昭島市)のハウスにいたんだけど、長門くんが夜中に来て「野口、ちょっともうドラムを代えなきゃだめだ」みたいな話で。「しょうがない、いいよ」って。次の日にスタジオに行ってユカリが叩いてるのを見て、上手いなぁと思ったんだよね。結局レコーディングに初めてぶつかって、えらいことになってきたっていうのがあって。これはユカリでも何でもどうぞ、みたいな感じがあったんですよ。
ベースの鰐川はすごいと思ってました。彼はもともとギタリストでしょ。だから僕は鰐川に引っ張られていたと言う感じですね。
印象に残っているライブといえば、横浜でやった時は演奏の途中で太鼓が止まってしまったというのがあったし、ワンステップでも僕は間違えたんじゃないかな。演奏自体は良かったけどね。気持ち良かった印象もあるし。ただワンステップの時、僕は演奏が終わってすぐ帰っちゃったんですよ、泊まらなかったの。当時付き合ってた彼女の猫が死んで、帰らなきゃって。居たかったんだけどしょうがない。
シュガーの可能性? うん、僕なりに好きな曲は多かったしね。セールスがどうこう考えなければ♪SUGARにしてもそうだし♪SHOW、♪今日はなんだか、♪ためいきばかり、ター坊の♪蜃気楼の街、♪いつも通りとか、僕は好きな曲が多かったですね。可能性っていうか、好きというかそれだけかな。今まで聴いている音楽とは違ったことをやっているんだ、という自負だけでね。それが売れるとか、そんなことよりも♪DOWN TOWNで心地いいなとか、そういう部分かなあ。
半分リスナー? そういう感じかな。だから僕がそう言っちゃうとアレだけど、達郎もすごく怒らせたし、けっこう言いたいことを言っちゃうんですよ。良いものも、素直に好きって言うんだけど。
あの時代、気になったバンドではイエローかな。めちゃ上手いなこいつら、と思ったね。かっこいいいなと思ったね。みんなハーフだったかもしれないけど。ジョニー吉長さんが居た。
あとは鈴木茂さんだな。茂さんのアルバム聴いた時に、デヴィッド・ガリバルディが叩いていたり。僕、タワー・オブ・タワーがすごく好きだったから、「バンド・ワゴン」には憧れましたね。一度茂さんのバックで叩いてみたいと思っていたんですけど、センチで一回、念願かなったけどね。♪砂の女とかやったんです。
  
<センチメンタル・シティ・ロマンスに参加>
シュガーやめた時は、どうしようと言うことはなかったね。ただクビになったことが寂しかったかな。ミュージシャンで食えるなんてまず思わないし、シュガーだって殆どギャラは無かったからね。
ただ坂本龍一なんかと一緒に、友部正人とかあがた森魚くんとかのフォークシンガーのバックをやった時にお金もらえて、あ、お金になるんだ、って。あがたくんは当時ナベプロかなんかに居たしね。
シュガーからセンチの間って1年も無いんじゃ無いかな。フォークのバックをやったりしていた時に、センチのマネージャーだった竹ちゃん(竹内正美)から電話があったんです。センチのドラマーがドクターストップがかかったと。で、8本ライブが決まってるんで、それをやってくれって。明日東京に行くから新宿の喫茶店で会おうと。リハなしですよ。
その喫茶店でライブのカセットテープを渡されて、明日広島へ行ってくれって。だから新幹線の中でカセット聴いて。それが愛奴のデビューコンサートだったの。ゲストがセンチだった。広島の郵便貯金ホールに2,000人入っていた。
カセットもずっと聴いていて楽屋でも聴いて、リハなしで本番だった。
センチのメンバーとは旧知の仲だし「野口がやめてるから呼べ」みたいな感じだったみたい。当時、シュガーとセンチはジョイントが多かったしね。今度こういう曲を作って、あいつらをびっくりさせよう、みたいなのはお互いにあったから。だからセンチの曲を全く知らないわけでも無かったし、でもステージを8本やったら帰ろうと思ってたの。それがメンバーになってしまった。
カセットでやってた時はコピーで良かったんだけど、センチにどっぷり入ってみると基本が8ビートなんですよね。すごいスローな8ビートとかもあって、最初は叩けなかった。
どっちかって言うと、僕もシュガーもブラックミュージック系を聴いていたじゃないですか。でもセンチのメンバーの誰のレコード棚に行っても、黒いものが一切ないんですよ。だから、僕からしたら、イーグルスって何?みたいな。でも全く違うものを聞いて、類似した音楽を目指していたんだなぁっていうのは、僕は両方にいたからすごくよくわかる。
 
竹内まりやにはデビューからつきあってる>
センチには4年いました。で、その頃にまりやがロフトセッションをやって、僕と(中野)督夫が呼ばれてレコーディングしたの。それがきっかけでプロデューサーの牧村さん、宮田さんが、リンダ・ロンシュタットイーグルスみたいな路線を置くわけですよね。面白いよね、そういうつながりは。
で、センチやめたら今夜は今度はまりやが「ぐっちゃん、やめたんだったら太鼓たたいてくれない」って言うから。僕は子供も生まれて東京に帰ってきて、バイトでもしなきゃと思っていた矢先だったの。だから「うそ、行く行く!」みたいな。そういう危ない橋でつながっているっていうか。それで、まりやとデビューから休業まで付き合っているんですよ。当時はまりやが達郎の奥様になるとも思わないかったから。面白いというか、不思議というか。
今回まりやのシングル♪シンクロニシティ(2006)で共演したけど、まりやとはセンチのコンサートにゲストで出てたりとか、プライベートでもクラプトンのコンサートに達郎が行けないから「ぐっちゃんと一緒に行こうか」とか。達郎とも電話で話したりしていたけどね。
このシンクロニシティでは達郎からの注文は特にないですね。こういう曲を選んできたと言うのもあるだろうし、8ビート、ウエストコーストに関してはもうお任せ、好きにって言う。だからもうほんとにコード譜だけで、いたってラフに。それに細かい指示出しても聞く連中じゃないから。もう長い付き合いだから、ちゃんとその辺も達郎はセレクトしてやっていると思います。まりやもそうだろうし。
僕のドラムは、一緒にやる人みんなに「すごく歌いやすい」って言われるんです。歌謡界の人でもそう。それはすごく嬉しいんです。と言うのは、僕が歌を歌っていたからかもしれないですけど、僕はすごく歌を聴くんですね。だから逆に、突然の仕掛けみたいなものが、僕の中にはあまりカチッと入らないんです。歌を聴いていると、なんでここでフィルが必要なの、みたいなのがあって。僕は歌を聴いて、ただやってきて、それがいまだに歌伴としてお声がかかっている理由じゃないかと思います。
だからドラムキッズでテクニックがどうのとか、そういうのを求めていた人たちは、意外とスティーヴ・ガッド全盛の時に辞めていった人が多いんです。
でも僕は歌というか、メロディーに感じて叩くから、インストでも何か歌ってないと叩けない、っていうのは大げさだけど、高揚感がないんです。
だから、こないだ達郎にも「なんでそんなに仕事あるの?」って聞かれたけど、わからない、でもお声がかかるうちはやろう、って言う。
まりやに「ぐっちゃんの太鼓ってラス・カンケルに似てる」って言われて、ラス・カンケル、それまで知らなかったから聴いて。で、自分でも似てるなぁと思ったけど。一時期8ビートしか頼まれないのが嫌な時期もあったけどね。今は太鼓たたいてって言われれば、何でもいいかなって。結局一回りして50歳になって、20歳の頃にやっていた連中と一緒にできて、達郎もまりやもそうだけど、すごく今やってて良かったなぁと言うのと、人との出会いに恵まれたなぁと。すごく才能のある連中に囲まれていたかなと思う。
だから、いた場所が違えばとっくに太鼓なんか叩いてないと思う。だってあの当時うまい人はいっぱいいたし、今だから野口の太鼓はこうでこれでOKみたいなところはあるけど。
SONGSを作って、やっぱり飽きるからしばらく聴かなくなるじゃないですか。10年後だったかな、聴いてみたらこんなことやってたんだって。やっていた当時はみんなわからなかったと思うんだよ。理解していたのは佐橋とかEPOたちの世代、シュガー・ベイブに憧れて聴いて、高校生の時にコピーした連中で。
僕は10年後に聴いていいじゃんっていうのがあった。達郎は当時のライブテープとかいろんなものを持っていて「この野口の太鼓、いいぞ」って聴かされたこともあって、僕もいいじゃんと思った。でも当時は達郎もそうだと思うけど、突っ張っているのが精一杯だったと思う。
その意味ではシュガーベイブがライブバンドとして輝いていたのは、やっぱりユカリになってからのライブじゃないかなぁ。すごくフリーな感じで良かったと思う。セッション的なものをすごく取り入れていて。こういう風にやりたかったんだ、って僕はセンチで見ていて思ったことがある。でも逆に、僕がセンチでやっている太鼓を達郎たちは聞いてくれて、会うたびに「上手くなったな、お前」って言ってくれたんだけどね。
達郎と2人で名古屋で♪DOWN TOWNをやったこともあるしね。センチのゲストに達郎が一人で来てもらった時、あれは結構面白かったな。
【外伝5 了】