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ヒストリーオブ山下達郎 第14回 ワンステップ・フェスティバル、そして… 1974年

<見知らぬ人たちからシュガー・ベイブって呼ばれたの、初めてだった>

74年8月8日だったんだね、郡山ワンステップ・フェスティバルに出たのは。4日間ぐらいの野外イベントがあるって言われてたけど、あの頃はいちいちライヴの細かい背景なんか気にして無かったから。

でも例の京都の拾得(5月11日)の一件があってから、もう他流試合が嫌になってたんだ。

朝の8時に上野駅集合。で、その日の午後に本番だった。出る順番で覚えているのは、僕らの前が外道、それより前はわからない。外道の後に僕らで、その後がセンチ、はちみつぱい、トリは誰だったか忘れちゃった。

でも野外イベントはいろいろやったけど、これが一番良いイベントだった。和気あいあいとして、待遇も良かったし。ステージが終わったら、郡山から一駅行った温泉に連れていかれてね。そこでは麻雀やってるやつとかいろいろいて。

雰囲気が良いと思ったのはステージに出て行った時かな。出て行くまではあんまりわからなかった。楽屋がステージの裏じゃなかった。ちょっと離れた場所から移動したんだよ。事前に郡山は怖いって言う話を聞いていて。でも楽屋に入る時、ちょうど客入れの前で行列ができていて、その人たちの中から「あっ!シュガー・ベイブだ」って声がして。見知らぬ人たちからシュガー・ベイブって名前で呼ばれたの、その時が初めてだったんだ。あの頃からマニアックな奴っていたんだなと思ってwそれはよく覚えてる。

演奏したのは、まだ日が照っていて暑い時、夕方前かな。ステージにはマーシャルしかアンプがなかったんだ。マーシャルに触ったのはその時が初めてで、音の出し方がよくわからない。実はそれより前に、明治学院大学の文化祭に出たことがあって、73年の秋ごろかな。その時に置いてあったでっかいアンプ借りて、調子に乗ってフルボリュームでやったらとんでもないことになった。自分の音しか聞こえなくなって、そうすると、どんどんみんなボリュームを上げて、野口の音が全然聞こえないからぐしょぐしょになって。

だから、それ以来注意してたんだけど、マーシャルも大きいアンプなんでどうなることかと思ったけど、思ったよりずっと使いやすくて助かった。

そういえばこないだワンステップのライブ録音をCDで出したいって、音をもらって聴いたんだけど、演奏はともかく、音のバランスが最低で。これを金取って売ろうっていうのは、いくらなんでも無理だろう、って断った。多分PAのライン録り。だってMONOだもん、ステレオじゃなかった。野外のPAのラインは往々にして、ものすごいバランスのことが多いんだ。

それはともかく、会場の雰囲気は良かったよね。その後のロックだ、ロックじゃないみたいな教条性がまだ皆無だったから、外道の後にシュガー・ベイブなんて、おおらかさが存在してた。まだイベント自体の営利性とかも、それほど考えてない時代だったし。ラリってるような変な客もいなかった。出演したのがマイナーだったからかな、うだうだ野次を飛ばす奴もいないし。そういう意味でほんとによかった。

8月24日には千葉のセントラルプラザホールって書いてあるけどなんだろう? 斉藤哲夫と一緒の時かな。白井良明さんが哲夫のギタリストだった時? そうそう、それでどっちが高い声出るかって張り合ったっけw

8月30日3時から「テイクワン」て出てくるね。事務所練習とか、事務所って名前が出てくるよ、この辺から。

※テイクワンは風都市が74年の春に潰れた後に出来た事務所。前島洋児たちは新事務所IBSを作ったが、シュガー・ベイブは参加せず、山下洋輔トリオのマネージャーだった柏原卓らが新たに事務所テイクワンを立ち上げた。

 

<CMのおかげで自分の世界が広がった>

そうそう、IBSは事務所が飯倉にあったね。

9月2日に“シングル曲あげもう1曲”って手帳に書いてある。

9月5日には“キングトーンズ曲仕上げ”って。♪DOWN TOWNはこの頃にやってたんだね。

9月6日がCMハートチョコレート。大体に1ヵ月に1本 CMやってるんだね。ようやくお金が少しづつ回りだした頃だね。

9月4日、ルネ・シマールか、大阪厚生年金ね。東京は渋谷公会堂で9月14日、15日。ルネ・シマールはカナダの少年シンガーでアルファがらみでライブのオファーがきたの。僕と村松くん、美奈子とター坊の4人でコーラスをやった。ライブが残ってる。

9月17日午後7時からエレック、これがデモ。最初は♪蜃気楼の街、のデモテープ。SONGSのレコーディング開始は10月28日か。

CMで資生堂バスボン、バリーホワイトも観に行ってるね、この頃。75年になったら、もっと動いてるよ。仕事したもん。食えないからさ。

CMは大滝さんのを後ろで見てたじゃない。それで雰囲気は飲み込めてた。あとCMの仕事を仕切ってくれたのが大森昭男さんと牧村憲一さんだったから、こっちのメンタリティを分かってくれてたし、そんなに理不尽なことは言われなかったからね。大森さんはジェントルマンだから。

その前にも何回かCMやらされた事はあるけど、まぁその時は偉そうなプロデューサーと喧嘩になるとか、そういうのはあったよ。でもこの頃は大森さんとやるのがほとんどだったから、全然何の問題もなく、大森さんがちゃんと仕切ってくれた。でも、今から考えるとあの頃、コピーライターの伊藤アキラさんとか、色々すごい人がたくさんいたんだよね。でもあの当時大森さんが可愛がってたミュージシャンで、今も残ったのって、僕と井上鑑くんぐらいしかいないよね、あとは瀬尾一三さんか。

瀬尾さんもCMのコーラスでよく使ってくれたんだよ。コマーシャルはむしろ普通のスタジオミュージックよりも楽しかったな、気心知れてくると。CMって作家的な世界なの。自分でアレンジをしなくちゃいけないし。それとシュガーベイブ以外のプレーヤーを使えるから、ユカリを使ったり、ベースも田中章弘を使ったり、大滝さんをミキサーとして引っ張ってきたりしてね。

ミキサーと言えば一番最初のコマーシャルでミキシングをやってくれたのが伊豫部(いよべ)富治さんだった。伊豫部さんの次が松本裕くん、松本隆さんの弟ね。

あの当時、僕は21歳だし、CMの現場も代理店の若いのも22 、3歳で僕よりも少し上の人ばっかりだったしね。ミュージシャンもだんだん知らない人を入れてみたり、CMのおかげで自分の世界が広がっていった。

だから後に黒木真由美をやる時とか、全然知らないスタジオミュージシャンに入ってもらってもそんなに抵抗がなかったのは、やっぱりCMの仕事で知らない人とやってたからだね。

まず、絵を作る人って、ものすごくツッパってるの。それに今みたいにビデオなんてないから東洋現像所(現イマジカ)に行って、フィルムを見させられるか、絵コンテを渡されるか、なの。絵コンテを渡される場合は、フィルムがまだできてないから、撮ってきた映像とこっちの音楽をレコーディングの当日合わせるわけなのね。

結構ギャンブル的な仕事なんだよ。そういうことを21歳の時からやってるじゃない。

バンドだけじゃ絶対にそんなにフレキシブルな感じではできなかったし、それがまた面白かったんだよね。それこそ30秒の中に全てを入れるなきゃいけない。

それに詩は先でしょ。必ずコピーライターの詩で、それにメロディーをつけなきゃならないし、それでアレンジをどういう感じにするとか、それはかなり鍛えられたよね。プレゼンテーションも必要だし。

長門くんの後、柏原卓がマネージャーになるんだけど、彼はジャズの人でジャズミュージシャンは毎日のようにジャズクラブで演奏してるから、僕のCMの打ち合わせなんて、来てくれない。

だから自分の名刺を持って歩くようになったのね。そしたらある日、代理店の偉い人が「山下くん、ミュージシャンと言うのは名刺を持って歩いちゃいけない。ミュージシャンは顔で商売しなきゃいけない」って言ってくれたりね。そういう良い先達がたくさんいたの。そういう人に対する恩義もすごくあるんだ。そういうキャリアのミュージシャンはいないからね。つぶしが効くようになったのはコマーシャルのおかげだよね。

で、なんだかんだ言ったって、代理店の人はみんな堅気だからね。きちっとした一流大学出た常識的な考えを持っている人ばっかりじゃない、クライアントでもさ、すごく嫌な奴もいるし、すごく良い人もいたけどね、その人たちもおしなべて30代くらいでしょ。僕が初めて会った時、大森さんは37歳だったし。広告代理店の現場のディレクターとか20代後半くらい。レコード会社のディレクターもそんな感じじゃないかな、そういうちゃんとした人たちを見ることができていた。そうじゃないと、今の僕はないと思うよ。やっぱりサブカルチャーだけじゃね。

今から考えるとCMの仕事とかやってたから、今こうしていられるのかもね。

  

<CMのフィールドの中で自己主張をしよう、って強烈な自我はあった>

別にコマーシャルをやりたくてやったんじゃなくて、とにかく金になる事だったら何でも、ってね。でも運送屋のバイトはもうやりたくなかった。どうして所謂バイトの道へ行かなかったのかって言うと、怠け者なんだよ、きっとね。音楽だったら、好きなことだから気にならなかったの。別にコーラスだろうがCMだろうがスタジオだろうが。アレンジをさせてくれなきゃ受けないとか、それはポリシーで。まあボクが書き譜が弱かったってのもあるんだけど。そこで突っ張ったのは正解だったと思うよ。

スタジオミュージシャンでも何でも、基本的に読譜とか初見なんてのは、半年ぐらいやってれば、すらすら行くようになるのよ。体で覚えてね。でもね、そうなったらやばいんじゃないかと言う意識が、自分の中にはあったんだ。譜面を初見で演奏できる事は、スタジオミュージシャンにとってはひとつの条件だけど、それは同時にスタジオ仕事の歯車のひとつになることでもある。

読譜力っていうのは諸刃の剣でね。演奏者としては短時間で多くの仕事をこなせるようになるけど、パート譜からは全体が見えない。自分が演奏全体の中でどういう位置づけなのかって言う認識ができない。自分でコーラスアレンジをすると、オケの構造とかがよくわかるからね。まぁあの時ユーミンのプロジェクトとか、斉藤哲夫とか、頼んできてくれた人たちが理解があって、それが幸運だったんだよ。

哲夫なんてすごくはっきりしていて、こういうコーラスのライン、旋律にしてくれっていうのがあるんだ。でもハーモナイズができないから、僕がそのラインに合わせてアレンジして、時間差にしてみたり、広げてみたりすると喜ぶわけよ。哲夫にはそうしたはっきりしたポリシーがあったから、すごいやりやすかったね。ユーミンにしても、バックがキャラメル・ママだから、無言のうちに構成がきちっと完成しているわけ。そこに自分のパートとして、コーラスをどうやってハメればいいか、って考えるだけだからね。でも、そうじゃない仕事だとボツもたくさんあるんだ、実はw

だから、どんな種類の仕事でもできたわけじゃない、ってことも学べるわけ。

エレックだってケメ(佐藤公彦)の頃はいいの。矢野誠さんがアレンジしていたし、ケメも意外とセンスがバタ臭いから。けれど、生理的に合わなくて、どうしようもないのもあったんだ。そんな感じでシュガー・ベイブの74、75年で結構学んでいる。

そんな時代の中で、CMからヒットが生まれる時代になって行く。でもね、それは大滝さんにしろ僕にしろ「CMのフィールドの中でどれだけ自己主張するか」ってことをしたせいなんだ。三木鶏郎(とりろう)さんのコマーシャルも確かに面白いけど、あれはヒット曲じゃない。

だから♪ルージュの伝言の間奏を歌っているのは誰だろう、と思わせなきゃと。そういうあざとさと言ったらそれまでだけど、そういう自己主張をしよう、って強烈な自我はあったんだ。だからコマーシャルといえども埋没しない。それこそ「CM全集」を聴いてあれもそうだった、これもそうだった、て言う人がたくさん出てくる。そういう謎解きみたいなのは当時からあったからね。

あと基本的にはクライアントの買い手市場だから、こっちは別に営業してるわけじゃないからさ。こういう仕事は「もう一回お願いします」ってのが出てこないとダメなんだ。

リピーター、曲をまた書いてくださいとか、アレンジやってくださいとか、コーラスやってくださいとか。だから、それは自分の才能とか努力だけじゃなくて、それをちゃんと見極める向こうの才能も必要なわけで、だからユーミンの時のディレクターの有賀恒夫さんなんか、初めてコーラスを入れた直後に即日もう2曲頼むって言ってくれたりね。今の若い人たちでもあるんだろうけど、いかんせんラップ、ヒップホップじゃ、どんなマーケットにでもフィットすると言うわけにはいかない。

僕は運が良いことにミドル・オブ・ザ・ロードだったからね。ブルース・バンドじゃなかったから、きれいなメロディで、自分自身が歌手だったのが良かったんだね。最終的には歌で決着をつけられるから。それは運、不運で、曲書けても歌えない人だとそうはいかないし。だから作家の自我ってのはこの辺で鍛えられたんだよ。

 

<実はスタジオ・ミュージシャンとしてレコーディングに行ったこともある>

平行して進んでいたSONGSのアルバム作りにも(CM制作は)影響与えているでしょう。SONGSって基本的に非常にスタジオミュージック的な作り方をしているからね。初期はステージ用のアレンジを変えると言う発想なんてなかったんだけど、CMやスタジオ仕事をやるようになってから、どんどん変えていくようになったんだよね。

こないだSONGS30周年CDのボーナストラックのために♪いつも通りのシアターグリーンのライブを聴いたんだ。シアターグリーンでは3回やっているけど、アレンジが毎回違うの。試行錯誤っていうのもあるけど。♪蜃気楼の街もそれまで全然違うアレンジだったのが、SONGSでレコーディングしてからあのアレンジになった。

♪雨は手のひらにいっぱい、も完全にそう。ああいうのになってくるとCMやってる感じになる。面白かったんだよ、その頃そういうの。まだ若かったからさ。

僕は、ほんの数回だけど80年代の初め、純粋に雇われスタジオミュージシャンとしてのレコーディングに行ったことがあるんだよ。ギターを弾いてくれないかって言われて。マネージャーにも何も言わないで、自分でギターを担いで、自分でアンプを転がして行ってね。その時の向こうのレコード会社の連中は誰も僕の顔を知らなかったの。そこでよくわかったのは、スタジオミュージシャンて、こういう扱い方をされるのかって。自分はいつも作家かプロデューサーが、制作側の人間としてとしか行ったことがなかったでしょ。要するに時間いくらで雇われているミュージシャンてこういう扱われ方なんだなって。

どっちかって言うとフォーク系のレコーディングで、ディレクターは僕の顔を知らないわけ。ミキサーだけ僕の顔を知っていて、なんかどっかで見た顔だなって。で、2時間か3時間位セッションをしてて、こっちが誰かわかってくると態度が変わってくるのね。なかなか面白い体験だったよ。僕はそういう賃貸しミュージシャンやったことがなかったし、コーラスは基本的に絶対自分の譜面でしかやらないし。他人の書き譜は騙されてw岸田智史をやらされたのが1度、それと筒美京平さんに是非にと誘われて、僕と美奈子と2人で行って、太田裕美を2曲やった。他人の譜面でやったのはそんなものなの。

だから思い出してみると、どんな仕事でも、部分じゃなくて、全体像を把握してなきゃやらない、そんな仕事をやって来たんだ。CMはもちろん編曲は全部自分だしね。編曲をやらないとギャラも五千円か六千円、減るからさ。もったいないからね。そういうのが良かったんだろうね、きっと。

まだバンドとしてはレコード・デビューしてなかったけど。だからインディーライブだよね。74年の荻窪ロフトの開店の時にバンブーで♪I Shot the Sheriffのコーラスを手伝った記憶がある、美奈子と2人で。

それで10月28日からSONGSのレコーディングが始まるわけですよ。

【第14回 了】