<マネージャーになるハズが「ディスクチャート」で働くことになった>
72年の秋に「ディスクチャート」が出来た時、僕は長崎県対馬に居たの、東京から一回引き上げて。対馬で現場監督、道路を作ってた。
親の金でいかせてもらっていた大学を中退しちゃったから、自分で食わなきゃいけない。で、対馬で免許ないけど、機械で穴を掘ったりとか、島のおじいちゃんおばあちゃんたちをまとめて、側溝を作ったりしてたよ。
それをやりつつ、72年に長崎ではっぴいえんどのコンサートの主催をやった。それがはっぴいえんどボックスに入っている72年の夏のライブ音源になってる。
で、その時にはっぴいえんどのメンバーや「風都市」の人と直接知り合ったわけ。
はっぴいえんどへのコンタクトは相棒の小宮やすゆう君が、矢野誠さん経由かなんかで風都市に連絡をつけてくれたの。で、はっぴいえんどと布谷文夫さん、それから一緒に矢野さんも来てくれた。あと、いとうたかおが食事だけ食べさせてくれたらギャラ要らないからって来たの。いとうは、風都市の窓口だった前島洋児(のちに風都市社長になる)さんと話したんだと思う。
7万円じゃなかったかなぁ、はっぴいえんどのギャラは。長崎に続けて、福岡の能古島(のこのしま)でやってるから、交通費もそれとうまく絡めたんだと思う。
だから長崎で、はっぴいえんどのコンサートをやった翌日、僕が松本さんとかみんな乗せて福岡まで行ったんだ。
で、72年の秋のある日、僕の行きつけだった喫茶店に突然、矢野さんから電話がかかってきて「明日東京に来れるか?」って。聞いたら、僕のバンドのメンバーだった西口純一がデビューするっていうの。矢野さんのアレンジでブレッド&バターがコーラスやったりしてね。マネージャーとして来ないか、と。さすがに翌日は行けなかったけど、2〜 3日後に上京して矢野さんと会ったの。
そしたら四谷の(フォーク系の)プロダクションに連れていかれて、そこで修行しろとか言われた。翌日からそこに行けって言われたんだけど、行かなかった。
でも、東京出てきて仕事がないから、小宮のところに居候することになったんだ。無責任に呼び出されたのかなあ。
僕は「事務所は風都市だったらいい」って言ったの。はっぴいえんどとか小坂忠とか好きなミュージシャンがいたからね。だけど矢野さんは「風都市は理想ばっかり追いかけていて現実的じゃない。ちゃんとしたプロダクションで勉強したほうがいい」って。
で、その事務所には行かなかった僕は食えないから、ちょうど小宮がその頃に出来た「ディスクチャート」でウエイターをやってたんで、社長の後藤さんに「僕も雇ってください」と頼みに行ったの。
小宮も僕もウェイターでも何でもやったけど、音楽のディレクションやってた。どういうレコードを買ってきてかけるかと言う。
最初はブリティッシュ系のポップスが多かったんだ。後藤さんが好きなんじゃなくて、後藤さんを焚き付けた日野原幼紀さんとか周りの人が好きだったのね。だけど僕と小宮が入ってからはいわゆるシンガーソングライター系とか、アメリカ系のラスカルズ、ビーチボーイズ、スプーンフル、ヤング・ブラッズ、ローラ・ニーロ、そんなんばっかりかけるから、全然変わって来ちゃった。最初はフリーとかディープ・パープルもあったんだけどね。フリーは好きだったから、かけてたけど。で、ちょっとのっとったみたいな感じになってね。
人気の渋谷「ブラックホーク」でもあの頃はディープパープルとかハードロック特集、ツェッペリン特集とかやってたよね。当時はハードロック系、ブルースロック系のお店が多かったんだけど、アメリカン・ポップスとかフォーク、ロック、それからニューヨーク系のシンガーソングライター、バリーマンとかキャロル・キングとかかける店って無かったんだよね。
「ディスクチャート」でそういう路線を取り入れたのは単純に好きだったから、僕らが普段聴いている音楽をかけている、と言うだけ。こういうのをかけたら客が来るだろうとかは、一切考えなかった。お店を作った時は名前も「ディスクチャート」だし、チャート物の曲をどんどんかける日とか、オールディーズのシングルをかける日とか決めたりしてたんだけどね。
レコードの買い出しは僕と小宮でヤマハとか、ディスク・ロードとかへ。ボビー・チャールズやバリー・マンの新譜が出たら買ってきたり、お客さんのリクエストも受けて。多分月に10枚買ってないと思うよ。お客さんもそんなには来ないし。
シングル特集の時なんかは「平塚から来ました」とか結構マニアな人はいたけどね。ビーチボーイズ特集をすると、来る人の中にAdd Some〜メンバーの武川くんも居て、それで山下に「ディスクチャート」のこと言ったんじゃない?
当時一般的じゃないものをかけたり聴いたりしていたから、日野原さんとか矢野さんが、小宮や僕に一目置いてくれてたのね。
ター坊が来るようになったのも矢野さんにいい音楽かけてるから行きなさい、って言われてきたんだ、多分。
ター坊は可愛いかったね、まだ19歳。ジョニ・ミッチェルが好きとかね、絵も書いてるみたいな話もして、可愛いなぁって思った。人懐っこいって言うよりシャイだったと思うよ。だって初めて会ったわけだし1人で来たような気がするな。
でも、すぐ仲良くなったよ。裏の焼き肉屋に一緒に行ったりして。一時期ウェイトレスもやってたからね、ター坊。「ディスクチャート」が「いーぐる」に変わってからか、ちょっと時期ははっきりしないんだけど。店でこけそうになったとか言ってたね。
お客さんとは接触しない? そんなに突っ張ってもいないんだけどね。「パイド・パイパー・ハウス」でもそうだったけど、常連同士でくっつくの見るのが嫌なの。客の立場としても嫌じゃない。普通のお客さんも常連も同じように接したいというのがポリシー。だから別に山下だからどうとか、そういうんじゃなくてね。店のスタイルだね。
ある日、若手評論家が駆け込んできたの。僕はカウンターの中に居て、彼はシングルのテスト盤を持っていて「これをかけてくれる?」って言うわけ。見たら発売前のキャロルのシングル。僕は「ウチはそういうのやりませんから」って断ったの。どういう音楽かけるかは一応決めてやってるしね。なんだこのお店は、みたいな感じで帰っていったけど、彼もまだ業界に入って駆け出しだったんだよねw それ以来会ってないけど。今はそんなことないだろうけどあの頃は彼もイキがってたんじゃないの。
客からのリクエストは受けてた。レコードのリストもノートにして置いてあったし。特集もヤング・ブラッズ特集とかラヴィン・スプーンフル特集ってチラシに貼ってたりした。
山下達郎が最初に来た時?
山下が黒っぽいダッフルコートを着て現れたんだよね。それは覚えてる。Add Some〜は山下にもらったんだよ。もらってこれは面白い、ウチで売りたい、って多分10枚かそこら置かせてもらったの。壁に飾って1500円で売った記憶はある。
だから山下が土井くんとどういう話をしてたのかは僕もよく知らないけど、多分山下がリクエストして、何かかけたのかな。最初はヤングブラッズかなんかと思うんだよ、スプーンフルとかね。それで山下も言ってたと思うけど、Spoonfulが居たカマストラ・レーベル系が好きだったらって、彼がソッピース・キャメルを持ってなくて、僕がイノセンスをまだ持ってなくて、貸し借りをして山下の家に遊びに行ったのは覚えている。で、彼のオリジナル曲のテープを聞かせてもらったの。
山下の部屋の天井にベンチャーズのポスターが貼ってあった。♪黄色いあかり、と言うオリジナル曲、バラードなんだけどめちゃくちゃ声が良くて、すごいなと思ったのね。それが初めてだね、彼の曲を聞いたのは。
Add Some〜はみんな知っている好きな曲ばかりだし、こんなのをやる連中がいるんだと思った。あんまり上手いとは思わなかったけど、声は良かった。♪Your Summer Dreamとかね。ソロっぽい曲のボーカルはすごく良かった。コーラスは厳しいものもあったけど、でもすごいなと思ったね。あの頃は拓郎とか、かぐや姫とかの全盛時代じゃない。そういう時にディスクチャート自体がちょっと異色の存在だったから、ドンピシャ、趣味的に。こんな連中が日本にいるんだと思って。しかも二十歳前でしょ。アマチュアだし。
入っている曲が、僕が長崎で高校の時にやっていたバンドのレパートリーだったりするわけよ。でも僕らはそれをやりたくても、全然雰囲気が出なかったし、あそこまで精密にできないし、それはすごいなと思った。ディスクチャートでは全部売れたよ。まぁ身内が買ったりしてね、小宮とか。お店でもかけてた。しょっちゅうではないけどね。
<シュガー・ベイブの結成、そしてマネージャーに>
シュガーのメンバー。ター坊はあの頃美術系の専門学校に行っていた。学校の帰りにジャズ喫茶に1人で入ったり、矢野さんの紹介でうちの店に来るようになった。僕らも矢野さんから「いろいろ聞かせてやってくれ」って言われて。ジョニ・ミッチェルとかローラ・ニーロとか聴かせて。あとオハイオ・ノックスやフィフス・アベニューバンド。
僕がかけてター坊が反応したのは、ベン・シドランのI Lead A Life とか。ジャケットを手に取って「これいいね」みたいな事は言ってた。
当時「ヘドバとダビデ」の作詞もやっていた門間裕と言うワーナーのディレクター、彼の担当かな。で、矢野さんアレンジでター坊は「三輪車」と言うフォークグループでデビューすることになっていたの。でも矢野さんも僕も「三輪車」はダサイと思ってたんだよね。ター坊は声がいいし、絶対にソロでやったほうがいいと。
それでお店のオーナーに頼んで、お客さんが帰った後、夜中にター坊のデモテープを作ろうと言うことになった。僕は録音係で、他に小宮、徳武、そして当時やっぱり「三本足の椅子」と言うフォークグループをやってた野口明彦がいた。野口はあの時はドラムをやってなかったし見学かな。
それで徳武と小宮がギターを弾いて、僕がパーカッションやって、ター坊が歌うと言う感じ。
三輪車のレパートリーに♪午后の休息の元歌があったり、小宮が曲を書いて僕が詩をつけて、ター坊が歌うっていうのもあった。多分2〜3曲は録ったけど、その何回目かに山下が来たんだよ、僕が声を掛けて。で、夜中に「やまや」のお菓子のバンで来たの。実家の仕事の帰りだよね。「パン屋なんだから差し入れ持ってきてくれよ」とか言った記憶があるw
山下は最初はおとなしく見学してて、一服しようかって時に置いてあるギターをつま弾き始めて、誰もが「いいな」「うまいな」って思ったよね。
その時は歌わなかったと思うけど、クイック・シルバー・メッセンジャー・サービスの♪フレッシュ・エアーとかやったかな。お店でもクイックシルバーの山下の好きなアルバムをガンガンかけてたからね。
ター坊のデモテープには山下の演奏は入ってないと思うんだ。その時は徳武くんが居たし。
あの時は山本コウタローさんは来てたのかなあ。なぜかコウタローさん居たんだよね。その後コウタローさんは徳ちゃんと少年探偵団を作るから。少年探偵団はシュガーベイブのデビューコンサートに出てるんだよね。
で、そんな流れでシュガー・ベイブに繋がって。野口も居たしね。最初のシュガー・ベイブの曲は小宮と僕が書いた曲をやった。
あと、あの時山下も居たと思うけど、コカコーラのラジオCMをアマチュアの学生とかに作らせて流すっていうのがあったの。それで徳ちゃんがウェイン・モスみたいなギターを弾いて、ジャグ・バンドっぽくやったの。その時は小宮、僕、山下もいたと思う。山下がスプーンを2枚重ねてカチャカチャやるような。それラジオで流れたのは覚えてる。
僕は最初、Add Some〜のバンドではっぴいえんどの次のコンサートを長崎でやれないかなってアイディアがあったわけ。その話を山下にしたときに「もうバンド自体がないから。でも何か作れたらいいな」みたいな話はあったと思う。結局シュガー・ベイブの1回目のライブは長崎でやったわけだから、その話はやっぱり発展したんだと思う。
シュガー・ベイブはター坊と山下の間で秘密に進んでたんじゃないかな。ドラムのオーディションはどこでやってたんだろうね。並木さんの成増の家でやってたのかな。でもある日ター坊から「山下さんとバンドやるかもしれない」みたいな話を。「え、いつの間に?」みたい記憶がある。
で、一度リハーサル見に来ないかって僕が成増まで行ったのね。何回目かに行った時にもうだいぶ形になってた。でもバンドの名前はまだついてなかったと思う。
僕の歌でテープを録ろうと言う話もあったんだよ。遊びでね。僕が好きな歌をやろうって。♪You belong to me と♪Venusだったかな、フランキー・アヴァロンの。山下も好きな曲だって言ってた。
よくあるじゃない。NRBQ(1969年デビューの米ロックンロールバンド。 バンド名は「New Rhythm and Blues Quintet」の頭文字から)のマネージャーが下手なんだけど、NRBQバックで遊びでCD作ったりとか。あれも
♪Come softly to meだった。そういうノリで。結局録らなかったけどね。僕が照れちゃってね。山下や村松くんもやろうよって言ってたけど。
で、何度目かの時に山下に電車の中で「長門くんマネージャーやってくれないか」って言われたので「いいよ」って。
それで「ディスクチャート」が73年の春に「いーぐる」に名前が変わるのかな。ディスクチャートが期間限定っていうの僕は知らなかったんだよ。確かに区画整理で一旦移転したんだけどね。それで途中から小宮がフェードアウトして、僕があの店の音楽も全部やるようになってたの。
でも客数が全然伸びないし、何か責任感じてあーこれじゃ多分続かないだろうなぁと思ってたら、やっぱり後藤さんに「店閉めようと思うんだけど」って言われたの。最初から決まってたのかもしれない。
山下にマネージャーにならないかって言われたのもバンド名が決まった後かどうか覚えていないなあ。バンド名も、ある日練習に行く時にみんなに宿題を出したわけ。僕は成増に向かう電車の中でシュガー・ベイブって思いついて、当時は携帯とかないから、成増駅に着いたところで電話したの。ター坊が出たから「いい名前思いついたから、山下に言って」って言ったら、ター坊が「もうなんか決まったみたいよ」「えーこっちいいのあるんだけど何にしたの」「シュガー・ベイブ」って言うわけよ。偶然。
僕がなんでシュガーベイブがいいと思ったかって言うと、その前にアントニオーニの「砂丘」って言う映画を見に行ったのね。砂漠のシーンでヤング・ブラッズの♪シュガー・ベイブが車の中でかかるシーンがあるんだ。
山下はヤング・ブラッズ好きだしね。シュガーベイブっていいなって思ったの。バンド名決まった後かもしれないなぁ、マネージャーやるって決めたのは。
「ディスクチャート」は終わったけど仕事がないと困るから、そのまま「いーぐる」で今度はジャズのレコードをかけることになった。
で、マネージャー業はドゥーワー・スタジオとかそんな名前で名刺作って、「いーぐる」の住所と電話番号を連絡先にして。だから大滝さんからそこに電話がかかってきたの。
「これ聴いたけど」って。
<他の連中にも山下の歌声に注目して欲しいと思ってた>
当時「はちみつぱい」のベーシストだった和田(博巳)さんがやっていたロック喫茶「ムーヴィン」で、Add Some〜がかかってるのを(伊藤)銀次が聴いて、大滝さんに「ご注進!」ていうのは確かなんだけど、レコードがムーヴィンに行った経緯や、銀次の耳に留まるまでは諸説ある。僕が思い込んでしまってるのかもしれないけど。
あの頃、僕は忠さん(小坂忠)のバック「フォージョーハーフ」でペダルスティールギターを弾いていたコマコ(駒沢裕城/ゆうき)と仲良くなってね。彼とはユッコちゃんと言う仙台から来た、小柄なちょっと可愛い子を通じて知り合って。彼女は何をやっていたかよく覚えていないけどw高円寺の「ムーヴィン」とか渋谷の「ギャルソン」とかに出入りしてて、ユッコちゃんの紹介でコマコと仲が良くなったと思う。よく一緒に渋谷界隈で遊んでいた。で、僕の記憶の中では、銀次とコマコが「ムーヴィン」で飲んでる時にユッコちゃんがAdd Some〜を銀次たちに聞かせたんだとずっと思い込んでたわけ。
で、この前、銀次が言っていたのは、「ムーヴィン」に行った時にAdd Some〜がかかっていて「これは誰? ビーチボーイズにしてはちょっと音が悪いし」と。その時にコマコが「海賊版かな」って言ったんだって。
山下が言う「本多信介がムーヴィンに持って行った」説は、信介は和田さんの友人で、はちみつぱいのメンバーだから、信介経由は可能性が一番大きいかも。
その後の話だけど、銀次とコマコとユッコちゃんが沼袋の僕のところに来たことがあるくらいだから。ユッコちゃんの線も捨てがたいけど。
僕がAddSome〜聴いて山下の歌声に惚れ込んだみたいに誰か他の連中にも注目してほしいと思っていた。
<半ば強引にデビュー・コンサートをやった>
大滝さんからの電話連絡は「レコードを聞いたけど、今時こんなコーラスをやってるのが面白い」って。
経緯としては銀次がまず並木さんに連絡を取ったんだと思う。ジャケに連絡先有ったし。それで並木さんが、僕がマネージャーをやってるからって「いーぐる」の電話番号を教えてあげたと。それで最初に銀次が電話をかけてきたのかもしれない。それで大滝さんが僕にかけ直したのかもしれないね。
それとも大滝さんから直接かかってきたのかなあ。
どっちにしてもその夏のことだもんね。73年の夏、山下と2人で大滝さんに会いに行ったのは。
それ以前に大滝さんとは会ったりはしていない。72年に長崎にはっぴいえんどを呼んで、ライブで会ったきり。大滝さんの自宅の電話番号も知らなかったし。
でも大滝さんは僕の事は覚えてくれていた。長崎でのはっぴいえんどのライブはすごく良かったし、大滝さんも喜んでくれてた。市内観光でグラバー邸に行ったりして「ここに住みたい」みたいなことを言ってたから、印象に残ってたんじゃないかな。
それで73年の夏に会いに行ったことだけど、まず福生の大滝さんの家に着くまでが暑くて参ったのと、奥様が美しかったのが印象に残っているw
米軍ハウスで、一軒が母屋で、もう一軒のスタジオの方に僕ら通されて、大滝さんがいろいろシングル盤を聴かせてくれて、楽しかったな。やはりAdd Some〜が発端なので、どうやって作ったのかとか、山下の音楽的バックグラウンドとか、大滝さんは聞きたかったみたい。
最初は山下も構えて行ったところあったと思うけど、ポップス談義している間に打ち解けたんじゃないかな。
山下がお土産に持っていったエリー・グリーンウィッチのシングル盤の話で盛り上がったり、僕がジョニー・ティロットソンやフランキー・アヴァロンが好きだと言うと、ケイデンスやチャンセラー・レコード、エディ・ホッジスやジョニー・クロフォードの話になったり、時間を経つのを忘れるほどだった。腹減っただろうとカツ丼の出前を取ってくれてね。あのカツ丼一杯ではっぴいえんどの解散コンサート出演、承諾したって感じかなw
僕のマネージャーとしての最初の仕事は、やっぱり長崎でのファーストコンサートだね。長崎に行くのは僕が実家の長崎で、ずっとイベントをやってきたのと、あとAdd Some〜聴いたときにこのバンドでコンサートやりたいと思ってた。だから最初のステージが長崎になった。
それ以外の売り込みでは、まず学園祭だよね。だって当時ライブハウスみたいなどこでやっても5000円のギャラしか出ないし、レンタカー借りたりアンプ借りたりしても赤字。だから、ある程度ちゃんとギャラが出る学園祭には結構売り込んだよ。
例えば最初の頃、シュガー・ベイブのパーカッションをやっていた木村シンペイと言う長崎の後輩がいて、彼は後にあがた森魚のヴァージンVSのドラマーになるんだけど、彼が東洋大学に行ってたから「白山祭の実行委員会に話つないでくれ」って頼んで、それで出たり。後は跡見女子学園、いろんな友達関係のルートを使って売り込んだりね。
大学時代の同級生で学校では会わないのに、デモでは一緒になる家崎って言う人がいて、彼の友人が「浦和ロックンロールセンター」を仕切ってた滝口くんで、そのつながりで「郡山ワンステップ・フェスティバル」に出ることになったり、家崎が週刊ポストでコラムを書いていた宮原安春さんと知り合いで、青山タワーホールのシュガー・ベイブ・デビューコンサートの告知を週刊ポストに乗せてもらったり。少ない人脈をフルに使った。明治学院大学のグラウンドでやったコンサートに出たり、大宮の女子校で演奏したりね。
そんなふうに、こっちはバンドとして何とか売り出そうと必死だった時に、大滝さんから9月21日の「はっぴいえんど解散コンサート」の話があったわけ。それがコーラス・グループとしてやって欲しいと言う話だったから、山下も最初は二の足を踏んでいたんだ。「僕らバンドだし、それにAdd Some〜は数年前に作ったやつで、今とはメンバーも違うから」と。
でも大滝さんに口説かれて、結局9・21は山下、ター坊、村松、それから小宮の4人でやることになった。で、小宮も含めてシュガーベイブって言う名前で紹介されてしまった。
9・21で、大滝さんのステージが始まって、シュガーベイブのコーラスが聞こえてきた時は興奮した。山下のファルセットがホール内に響き渡ったときにはもう胸にジーンときてね。「どうだ!」みたいな。「こんなボーカル聞いたことないだろう!」って叫んでた、心の中でね。
あとコンサートには山下、ター坊、村松くん以外の2人、鰐川と野口も実はココナツ・バンクのパーカッション隊とし参加している。
それでもコーラス隊として世に出てしまったので、僕らはシュガーベイブって言うバンドなんだ、と言うことをアピールするために半ば強引に青山タワーホールでデビューコンサートを企画してやったわけ。でも、お金ないからいろいろ考えてね。
徳ちゃんが法政大学に行ってたんだけど、その大学の友達に下條高志くんと言う人がいたの。彼はまだ学生で法政大学のプロデュース研究会みたいなのをやっていたのかな。そこには兵隊もいるし、チラシのデザインもできると言うことで、一緒に組んでやることになった。そうでなきゃ、持ち出しでできないもの僕らだけじゃね。
それが73年12月17日のコンサート。このコンサートは東京でのちゃんとしたシュガー・ベイブのお披露目と言うことで”Hello! We are Sugar Babe”と言うタイトルをつけてやった。で、大滝さんと伊藤銀次を招待したわけ。山下にもこれが僕らシュガーベイブのサウンドだ!って言う意気込みはあったんじゃないかな。
オープニング、演奏が始まって緞帳が上がって、歌い出した瞬間の胸高なる気分は、生まれて初めて味わうものだった。それが♪SHOW、最初は「ショーほど素敵な商売はない」ってタイトルだったかな。
終わって大滝さんからね、「やりたいことはわかるけど」みたいなことを言われた覚えがある、僕にね。でもまぁ大滝さんがいまいちだと思ったのは演奏技術的な問題だったんだよね。それはしょうがないと思う。実質的に初めてのコンサートだったから。
でも山下がやりたい事はこういうことだったんだと言うのを、大滝さんは理解してくれたと思う、あの時に。
<「なんだこの会社は」って思ったのは覚えてるよ>
風都市とシュガー・ベイブの話だね。
いちど風都市の社長の前島洋児さんと矢野誠さんと松本隆さんとで「いーぐる」に僕に会いに来たことがあった。その時には松本隆とムーンライダースのマネージャーをやってくれないかって言われたんだ。松本さんはムーンライダースと9・21にも出ていた。
で、洋児さんにマネージャーを頼まれたんだけど、僕はシュガー・ベイブをやりたいんです、デビューコンサートも企画しているから、って断ったの。
そしたら、その後にもう一度洋児さんが来て、その時にはガラッと話が変わってね。シュガーも連れてきていいから風都市に入ってくれないかと言われたわけ。
記憶が曖昧だけど、2度目に来たのはデビューコンサートの後で、ひょっとすると大滝さんがシュガー・ベイブを推してくれたのかもしれない。で、条件を聞いたら、メンバーそれぞれに月給4、5万出すし、僕には8万出すからって。それに経費も充分出るって。これはいい話だと思って、山下とかメンバーに話したら、いいだろうってことになってね。
でも矢野誠さんは前に「風都市は理想ばかり追っててダメだ」って僕に言ってたのに、自分が先に入って、僕を引き入れようとするんだからねw その時矢野さんはムーンライダーズにキーボードで参加していたんだよね。
で、僕らも風都市に所属することになった。多分、年明けだったと思うけど僕は初めて市ヶ谷にあった事務所に出社したんだけど、事務所が開いてなかった。11時ごろ行ったんだけど、誰もいなくて扉に鍵がかかったままだったw 「なんだ、この会社は」って思ったの覚えてるよ。
風都市とは契約書も無く、口約束だった。収入の取り分の話とか、ビジネス的な話は全くなかったと思う。給料の額だけ前島社長から説明を受けただけ。
シュガーは長崎でスタートして、学園祭はやったけど最初の頃は仕事って言う感じじゃないよね。公開リハーサルみたいというか。とにかく場数を踏まないとプロにはなれないと考えてた。ただお金はほとんどなかった。山下もター坊も僕もみんなバイトしてたからね。
風都市に入ったけれど結局お金は一度も出なかった。メンバーの実家が東京にあったから何とかバンド活動できたって事はある。ボロ屋住まいの僕のところに山下やター坊が食料を差し入れしてくれたし、練馬の山下の実家でよくご馳走になってた。
僕もマネージャー経験はなかったし。とりあえず演奏する場を見つけたい、って言う感じで。演奏聞いてもらわないと始まらないしね。場数を踏まないと上手くならないし、バンドもまとまっていかないから。ただバンドとしての仕事は難しかった。
僕がまだ「いーぐる」にいた頃だけど、大滝さんのコーラスの仕事を始めたのね。シュガー・ベイブはあくまでバンドとしてやっていこうと言うことだったんだけど、大滝さんが山下の才能を買ってくれて。最初にやったのはジーガムのCMだったかな。風都市に入る前だったから、そのギャラを制作会社の人が「いーぐる」に届けに来てくれたことがあった。
その流れでCM音楽の制作会社の人に認めてもらって、風都市に入る前に山下がCMの仕事を何本かやったんだよね。「三愛バーゲン・フェスティバル(山下達郎CM作家デビュー作)」とか。それから「不二家ルックチョコレート」もやった。シュガーベイブが学園祭に出ても、まだレコードも出してないから誰も知らないでしょ。仕方ないから山下達郎が「不二家ルックチョコレート」の一節を歌ってみせたりとかね。そういう事は何回かあったな。
その意味では長崎でやったコンサートが一番良かった。レコード出してない無名のバンドでもお客さんが素直に受け入れてくれたから。
僕らが長崎と東京で「SOON!」って言う音楽ミニコミ誌を作ってたのね。それを読んでくれてた人たちがコンサートに来てくれたし、それまでも長崎にはっぴいえんどや布谷文夫を呼んだりして、何回かコンサートしていたからね。あの頃はFrom Tokyoみたいな感じで、シュガー・ベイブは全く無名だったけど、東京から来るって言うだけで注目されることがあった。シュガーベイブの時はシリーズの4回目が5回目のコンサートだったかな。
「SOON!」は3ヶ月に1度位、ガリ版で作って、広げると新聞大の。それを畳んでA4サイズにして長崎や東京で配布してた。
結局、風都市は僕にとっては好きなアーティストが所属する理想のマネジメント事務所だったんだけど、入った時期が悪かった。自分やメンバーの生活費の心配をしないで、好きなように音楽活動ができると思ったんだけど、甘かったな。世間知らずだった。僕らが入った頃には、既に運営的に行き詰まっていたんだね。結局メンバーも僕も一度もギャラもらえないうちに倒産してしまった。
今更恨みごと言うつもりはないし、30年も経ってしまえば恩讐の彼方というか。
でもあの時代、大滝さんや細野さん、(吉田)美奈子とか知り合えて、それが後に音楽的に実りある、たくさんの成果を生んだと言う事はあるかな。
【外伝1 了】