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ヒストリーオブ山下達郎 外伝2 大滝詠一インタビュー

はっぴいえんど解散でごまのはえをプロデュースすることになった>
山下くんとの出会いね。
まず、72年9月にはっぴいえんどの解散が決まるんだけど、その少し前に全国ツアーがあって、その最後の方に長崎でのコンサートがあったの、8月5日かな。その時に主催者に挨拶はしたと思うけど、それがその後の長門芳郎だっていうのは当然知る良しもなく。あくまでコンサートの主催者としての認識だったんだよ。でもそこで最初の出会いがあったんだよね。
長崎のコンサートは盛り上がりましたよ。アンコールで♪びんぼうを演ったらウケたもの、印象的でしたね。
はっぴいえんどはもう解散することになってたけど、その年、72年の10月にアメリカ録音があったの。サードアルバムのレコーディング。その時ジム・ゴードンを見たって言う話はよくしたけど、ベースはジョー・オズボーンだったんだよ、それを言うのを忘れていた。
飛行機はとにかく辛かったのしか覚えていない。あれが初めての海外だから、乗る前はウキウキしてたんだろうね。高所恐怖症だけどあんなに辛いとは思わなかった。
ハワイで1回降りたんですよ、あの頃は。もう帰ろうかと思ったもの。これ以上乗りたくないって。拷問と一緒、勘弁してくれって。まぁ着いたら「来て良かった」とは思いましたけどね。帰りもしんどくて、それでもう一生飛行機なんか乗ってやるかと思ったのね。
その時の帰りの飛行機でベルウッドの三浦光紀さんから「はっぴいえんども終わったからプロデュースをやらないか」って話があって「ごまのはえ」のコンサートを見に行こうって言われたの。ああ、その時も東京から大阪まで飛行機だったなぁ。ごめん、ごめん、飛行機はよく乗ってたよ。はっぴいえんどのツアーってみんな飛行機だった。北海道、九州、四国、それも忘れてるなぁ。それでも飛行機は嫌だったね。でもアメリカだからしょうがない、船旅ってわけにいかないから。
「ごまのはえ」を見に行ったのは72年の暮れ位だったと思う。じゃあやろうと命題与えられて。
で、73年1月に僕の子供が生まれて、住んでいるところが手狭になった。それで家を探して、1月の末に福生に引っ越して、周りの家が空いてるから、じゃあ借りてみようと。だから最初からスタジオを探して福生に行ったわけでは無いの。子供が生まれたのが一番のポイントで。
子供のいる家と音楽を聴く家を分けようとしたんだけど、いっそこれをスタジオにしたらって言う話があったの。で、3月ぐらいに銀次たちがやってきた。だから最初はごまのはえをなんとかプロデュースしなきゃならない、初プロデュースだから。
それに73年に入ってすぐサイダーのCM仕事が来た。それきっかけでCMがじゃんじゃん来て、両方やってたわけですよ。
ごまのはえは5月の春一番(大阪の野外フェス)に出るんで、そのライブ録音をベルウッドから出そうって三浦さんが言ってきた。そのライブ録音を聞いたんだけど、あまりにひどい出来だったのでお蔵入りにして、これじゃすぐにはできないって言うことで、メンバーチェンジをしたの。
ヴォーカルの末永博嗣をクビにして、ぷー(藤本雄志)をベースにしたんだけど、すぐにバンドもできないからね。
そこにたまたま布谷文夫さんがふらりとやってきた。というよりも、僕の引っ越しの手伝いを布谷さんがやってくれた。野地義行が運転手で、布谷さんが力持ちだから、荷物を運んでくれた。実はサイダー‘73のデモテープって野地がベース弾いて、ハーモニーは布谷さんがつけてるんだ。それはたまたま彼らがいたからなの。それで、布谷さんがよく来るようになったんだよ。
それで布谷さんがポリドールでレコーディングを始めたんだけど。ブルース・クリエーションのディレクターをやっていた松村さんからまたやらないかって言われて。布谷さんがそのテープ持ってきて♪5番街(アルバム1曲目)の前身のテープだけど。それを聞いて「いや、このままだとちょっとまずいんじゃないか」って。それでココナツバンクの練習の意味合いもあって、一緒にやろうって言うことになった。布谷さんもその気で、彼らと一緒に住んでたんだよ。それでポリドールで録音した。(「悲しき夏バテ」73年11月発売)。
そうしたら9・21コンサートの話が風都市の方から来て、ココナツバンクもやらなきゃいけない。しょうがないから銀次が歌えって。最初からそのつもりじゃなかったんだよ。彼らは布谷さんとやってきたから。だから9・21でも途中から布谷さんが出てくるよね。
元ごまのはえにしても誰かヴォーカルはやらなきゃいけない。
ココナツバンクのステージの練習を始めて、銀次に「お前が作ったんだからお前が歌うしかないだろ」って、それでも本人も、どうしても歌いたい、ってほどの事でもなくて、しょうがなくて歌った面もあると思う。
でも、これじゃちょっと弱いなと思ってた。バンドも3人だけじゃダメって言うんで、駒沢裕城(コマコ)を狭山から呼んだの。でもあの時、駒沢は二足のわらじなんです(小坂忠とフォージョーハーフのメンバーだった)。
だから「悲しき夏バテ」の裏ジャケットの写真で、コマコはお面をかぶってカモフラージュしてる。バレないように。だから急がなければあんな形でココナツバンクをやることもなかった。
もっと地道にゆっくり時間をかけてやっただろうと。
だけど、突貫工事でやんなきゃいけなかった。だから歌は弱いし、とにかく向こうがキャラメルママだから演奏力で普通に勝負できるわけがない。ナイアガラらしいところを何か出さなきゃいけない、と。だけどこの歌じゃなぁと。
で、それから銀次とコマコが高円寺の「ムーヴィン」に、しょっちゅう行っていたって言う話になるんだね。

<Add Some〜を聴いて、その選曲のセンスにびっくりしたんだよ>
銀次がアルバム持ってきて。「てえへんだ」って、がらっ八の。堺俊二だよ。銭形平次ですよ。それで聴いてね。「なんじゃこりゃ」って。いくつなのこの人たち、って言う。
駒沢君と銀次は♪Don't worry baby論争になったって言うんだけど、
僕はね♪Semi-detached suburban Mr. Jamesが入っていたのが非常に新鮮というか、意外だったんです。
あの頃、第二次マンフレッド・マンを評価していたのは自分だけだと思っていたから。日本中に、他には誰もいないと思ってたんだよ。だからびっくりしたんだ。そこに反応したんだよ。
これはビーチボーイズだとかそうじゃないとか論争があったっていうのは銀次たちのことで、僕はこれを全部聞いたときに♪Sincerelyの熱唱はさることながら、この選曲はただ者ではないと。そういうところを見るわけなんです、僕の場合は。その作家性に注目したと言うのかな。
センスだね、だからジャイアンツの篠塚がバッティング・コーチとしてよく言ってるけど、センスは教えられないって言う。まぁそういうこと。
細野さん達と知り合う時なんかでも、誰それのどの曲がいいのかで決まったりするのよね。大体そうでしょう。
CCRって言って、はっぴいえんどに入らなかった鈴木慶一っていうのもいるけど。バッファロー・スプリングフィールドと言おうと思ったんだけど、これではあんまりだと思って、ひねったんだって。
あの時にバッファローって言ってたら入ってたんだよね。でも、今にして思えば慶一ははっぴいえんどに入れなくてよかったんだと思う。それは日活に山田洋次が来なくて良かった、と言うのと非常に似てるんじゃないでしょうか。
で、Add Some〜に関して言えばすぐに電話して。電話は銀次がしたのか僕か、ちょっと記憶がない。
そうだ、その時に山下くんが持ってきたエリー・グリーンウィッチのシングル盤を持ってくるの忘れちゃったな。まだ実物はありますよ。
大笑いなのは、あれプレゼントなのかなと思ったら、そうじゃなかったんだよ。山下くんは異論あるか分からないけど、その日じゃなかったと思うけど、僕、ラスカルズの♪I ain't gonna eat out my heart anymoreって言うデビューシングル、アトランティックの、それと交換したの。だから持ってきたんだけど手土産って言うのでもないんだよ。
電話をしたのは銀次だったかな。

<山下くんは、まるで昔からそこにいるかのように、ピッタリはまっていた。>
山下くんに会おうと思ったのは、9.21のコーラスをしてもらうため。要するに伊藤銀次のボーカルをカバーするためにね。あとAdd Some〜でもコーラスがあったからね。まぁこっちのは、そんなにコーラス向きの曲じゃないんだけど。
シュガーベイブをただのコーラス・グループと思っていた、と言うのはちょっと違うんじゃないかなあ。間違いなくAdd Some〜は聴いてるし。
だから9.21でココナツ・バンクのステージを何とか体裁つけてごまかそうと、それしかなかったの。この人たちもナイアガラで、この後やろうなんて思いは一切ないわけ。9.21さえ過ぎてしまえばいいわけだから。何とかココナツ・バンクがごまかして、通り過ぎててくれば。
要するにコンサートの後で、ココナツバンクだけが下手だったとか言われたくないわけですよ。彼らの将来もあるしね。だか、らなんとかごまかして。
でも、コーラスって言ったってコーラスが入るような歌じゃない。無理矢理。もう滝廉太郎の♪花、以上のものがある。♪無頼横丁なんかよく入れたなって。入れ所がないんだもの、コーラスを。山下くんはそれでもやってくれたんだけれど。
山下くんと会った時は銀次も居たと思いますよ。で、山下くんは前つっぱりが強いと言う印象。卓球で言えば中国式の前陣速攻とか、ロビングがないって言う。そういう切れ味の人ですよ。
でも、レコードで聴いていた印象と全然違わなかった。だから初めて会ったと言う気がしなかったんだよね。向こうもそう思ったんじゃないかなぁ。
僕のレコード棚を見て、彼はクレイジー・キャッツが全部あるのにはびっくりしたってよく言ってたけど、そのレコード棚の部屋で、いろんな話をして、僕は多分Add Some〜の選曲の裏付けみたいなことをとってたんだと思いますよ、そういう事はやりますからね、必ず。だから、なるほどこういう選曲をするだけの人だな、って瞬時にわかったんで、もう早速やってもらおうと。
コーラス・アレンジなんかも彼は初めてなんじゃないですか。まぁ曲がりなりにもプロなわけですから、我々は。あの頃から。
山下達郎は必死だった? そんな印象はなかったような気がする。「ディスク・チャート」のセッションの話なんかでも、ター坊と長門くんがどうしようかって言う時に、いかにも昔からいたかのように「あれはね」と入ってきたという話があるじゃない。そんな感じ。昔から居るかのように、その位置に座っていた。ハナっから空席だった気がするけどね。あの当時のナイアガラ的に言うとね。いかにも自分の席だったと言う感じで。そういう感じってあるんですよ、いろんな人に。
エイプリル・フール」だって(小坂)忠さんがいなくなって、どうしようかって時に、僕がフラッと手伝いに行って、たぶん僕用の席が空いていたんじゃないか。向こうの方が先達なわけだから、こっちは後釜で。別段、先輩後輩とか、いわゆる芸人さんにあるような感じではなくて、すんなり入って行けたものね。
だから、山下くんはぴったりハマったように思った。そう思ったから9.21の後、CMも頼んだわけ。多分そういう行きがかりがあって、じゃあシュガー・ベイブをプロデュースする、みたいなことになったんだと思います。シュガー・ベイブのデビューコンサートだってそのつもりで見に行ってるからね。
銀次は喜んでいたよ。これは逸材が手に入ったと言う感じで。
それで山下くんがスタジオに来て、ピアノがスタジオにあったから、アレンジして、なんだこんな曲、こんなこと、なんでやんなきゃいけないんだ、と思ってたかもしれないけど、一生懸命やってくれましたよ。

 

<♪ココナツ・ホリデイが幻のナイアガラ・レーベルのシングル盤、第1号>
9.21で僕のコーナーがあって、そこで♪サイダー‘73のCMフィルム流したの。あれで全部吹っ飛んだんですよ、あの日のコンサート。客席の反響を全部録ったテープがあるんだけど、あそこでドカンと来て、みんな全部忘れちゃったんだよね、その前をw あそこでみんな飛んだんですよ。
自分は最近何をやっているかとの報告では、あそこしかその場はなかった。まぁみんな喜ぶと思ってやったんだけどね。
当時コンサートで映像を使うって、なかったんですよ。しかもCMでしょ。みんな見慣れたものだったから、ウケたんだね。
そのあとキャラメルママの林立夫が僕のところに寄ってきて「寝技で来られちゃったなぁ」って言ったんだよ。それをこの前、林と初めて食事した時、三十何年も一度も食事がしたことがなかった、その彼に話したら「覚えてない」って。
僕はそんなに計算ずくでやれるほど才能ないから、行き当たりばったり、思いつきでやってるだけなんだけど。
用意していたスパイダースの曲を演らなかった? 覚えていないなあ。♪あの時君は若かった? そういえば銀次が歌ってたような気がする。それから「おはよう眠り猫君」につながるのかな
司会のかまやつさんは来てくれるかどうか、わからなかったのかもしれないね。あの頃、そういうのはよくあったから。日比谷野音のコンサートなんて、いつもそんな感じだったしね。
司会の亀渕昭信さんのオールナイトニッポンには9.21の宣伝で出たと思う。
全体を通したMCは福岡風太風太が大阪ノリでやるけど、全然ウケないんだよ。「あかんなぁ、東京は」ってしゃべってるのが、ちゃんとテープに入ってるよ。
でも、確かに言われてみると「♪あの時君は若かった」って銀次が歌っている絵が思い浮かぶね。でも実際には入ってないからね、当日のテープには。練習はしたかもしれない、それはすっかり忘れていたね。
9.21、僕は一番ウケてたからね。それでね、ライブ盤には入ってないけど、僕がステージで「ココナッツ・ホリデーのシングル盤を切る」って言ってるんだよ。この前、そのライブ音源を聞いて唖然とした。でも、それってその場の思いつきで言うわけだから、練習をやっている間に思いついた、と。だから、これは完全にナイアガラレーベル構想の具体化だったと思うんです。
誰かを先頭に出すって言うのではなく、テーマソング的なもの、総括的なものを矢面に出すのが、いつも僕のやり方だから。
「A LONG VACATION」の時もシングルが♪君は天然色では弱い、って言われ。♪恋するカレンにしろって言われたんだけど。♪君は天然色から行かなきゃダメなんだ、と。そういうのと同じで。
9.21の時点でシュガーベイブは構想にはなかったけど、コーラスを大フューチャーしているし、銀次の曲だし、アレンジは僕がやっているし「カチート」って布谷さんは騒いでるし。
だから♪ココナツ・ホリデイは、あの時点のナイアガラ全体像の最初の構想としては一番ふさわしいと。それがその後の♪ナイアガラ音頭に結びついていく。ココナツ・ホリデイは何かって言うとナイアガラのスピリットなわけです。ナイアガラ音頭はココナツ・ホリデイから3年も経ってるし。それを再びということで、ナイアガラ音頭を出したのはテーマソングだからなの。
だから山下くんが「シングス・シュガー・ベイブ」のコンサート(1994年)で、ココナツ・ホリデイの中にちょこっとナイアガラ音頭を入れてくれたときには涙が出ましたね。やっぱり、わかってやってくれてるんだなぁと。
♪ココナツ・ホリデイはそういう象徴的な曲だから、ウケたのをいいことに浮かれて言っちゃったんだろうな、すっごい恥ずかしい、声が高揚してるんだよ。「売れると思う」みたいなことまで言ってる。僕が売れると思う、って言ったのはあれが最初で最後だけどね。でも、そう言いつつ、シングルが出てない所がいかにもだね。
ナイアガラの再構築するのにも、73〜74年の具体的なブツが出てないので、忸怩たる思いがある。あの時に、全部がナイアガラ・レーベルとして、サイダーのCMから、布谷さん、ココナツバンク、シュガーベイブとずっと繋がっていると分かりやすかった。
でも♪ココナツ・ホリデイが幻のナイアガラ・レーベルのシングル盤、第1号であったことに、このあいだ自分で気が付いたんだよ。

 

<9.21がすごく良かったから「ジーガム」のCMでコーラスを頼んだんだよ>
9.21が終わってライブ・アルバムのミックスをやるってステージの音を聴き直したら、シュガーベイブのバックコーラスの評判が良いわけですよ。で、周りの連中が「彼らもやったほうがいいんじゃないか」と。「ココナツバンクよりも、コーラスのあの連中の方が使えるんじゃないか」って噂がたって。だんだんココナツバンクが消えていったの。
その時に何かいろいろあって、ココナッツバンクもいつまでもシュガー・ベイブ・プラスでやるわけにいかないから。
で、お前らやめちまえって僕が言ったような記憶があるんだ。でも、その後ずいぶんやってるんだよねココナツバンクは。
公式記録は9.21の翌日に解散? 多分ね、僕が言った事はみんな正しいと思っちゃってるんだね、誰も知らないから。
でも74年のスケジュールを見てみるとココナツバンクが誰かのバックをやってるところに、僕が言ってたりするんだよ。やめちまえと言った割にはどうもおかしい。だからあれはもっと後のことだったのかな、と。それはちょっと怪しいとこなんですよ。
それで僕はずっとCMをやってたわけ。で、途中からココナツバンクをバックに使って。まぁ彼らの食い扶持も与えなきゃいけないし、あの頃はまだナイアガラと言うのはないんですよ。
僕もシティ・ミュージックと言う風都市の流れの、組織のいちメンバーであって、音楽的な流れではプロデュースとかやっていても、金銭面では全くノータッチ。でも、彼らは常に貧困にあえいでいたから。
CMは支払いが別枠で、スタジオに行ってその場で取っぱらいになるってことで、資生堂のCMとか「ココナッツコーン」とか、あの辺はみんなココナツバンクでやっていたというのは、そういう背景もあるんですよ。
最初のサイダーのCMは、原田裕臣さんと大野克夫さん、アランメリル。「サムライ」のメンバー。僕は原田裕臣さんのドラムはすごく好きだったんだよね。あの時のセッションはすごくいいですよ。大野さんもノってくれたし。
CMでは好きなミュージシャンを使えた。一年間は、はっぴいえんどのメンバーを使わずにやろうと思っていたの。
で、9.21が終わった時に来たのがジーガムのCM。ひとりでほとんど全部やったけど、コーラスをシュガー・ベイブに頼んだ。彼らは使えるっていうのが分かっていたからね。それが9.21後、最初の作品。まだ、彼らは風都市所属にはなっていなかったね。
書籍「オール・アバウト・ナイアガラ」にも書いてありますけど「ジーガム」のCMは、ミキサーの吉野金次さんが渋谷ジャンジャン下に作った「ヒットスタジオ」を借りて2日がかりで。僕は隣の東武ホテルに泊まって、アシスタントの関口さんはスタジオの中、寝袋で寝ていた。で、コマコ(駒沢裕城)のスティールを入れて、ホーンを村岡建さんで。シュガー・ベイブのコーラスも多分ヒットスタジオで入れたと思います。そんなことが、また僕が彼らをコーラスグループだと思っていた、と言うような説に繋がってるのかもしれない。
でも、そこから彼らの12月のコンサートまで、僕の記憶っていうのはあんまりないんですよ。
長門くんと初めて福生に来てから、9.21まではしょっちゅうウチに来てたんですけどね、リハーサルがあるから。

 

<レコード会社が早く決まってたらナイアガラの運命は随分違ってただろうね>
ココナツバンクは最初はベルウッドから出る予定だったと思われるんです。でも雲散霧消したバンドで契約書があったわけでは無いから。でも、少なくとも5月5日の春一番のごまのはえライブはヴェルウッドが録音している。
布谷文夫のポリドールっていうのが、訳わからなくしている原因の一つ。布谷さんはブルース・クリエイションでポリドールからレコード出してるから、彼の流れとしてそれはあるし、ブルース・クリエイションで彼が世に出る前に、僕と布やんは共同生活をしてたって言う流れがあるから、流れとしては一本じゃないんだけれども、付き合いの中では完璧に一本なんだよね。で、なおかつサイダーのデモテープまで布谷さんがやっていると言う。そういう人的なつながりで見ていくと、非常に簡単に整理できる。長門くんとの縁にしても人的なつながり。それでジーガムのCMまでうまくいって、これはいけるんじゃないかと思ったしね。
さらに73年の暮れにサイダー’74をやって、’73と違って一気にコーラスをフューチャーしたのは9.21でシュガーベイブと知り合って、あのコーラスを使って展開できると考えたから。思えばあそこがピークでしたよ、私の。
ナイアガラは何度もピークを迎えるんだけどね。でも、あそこはピークでしたね、僕の中でも。
と言うのは、いろんな才能と出会って膨らみができる時がピークなのよ。自分の作風を発見した!と言うようなことをみんなピークと思ってるかもしれないけど、そうじゃないんだね。いろんなものが集合した時が一番のピークなんだよ。
ところが、そこがピークだったのに「1974年に1枚もレコードが出ていない」というのが、自分としては、非常にね。出したかったけれど。だから74年はCMしかないわけです。
確かに、73年暮れに東芝からナイアガラレーベルを出すと言う話はありました。
そのプランが実現していれば状況は変わっていた可能性は高い。とにかく、どっちにしても9.21からジーガム、シュガーベイブのデビューコンサートやサイダー74、と言う一連の流れで、グッとシュガーベイブ・デビューの機運が高まっていって、74年に入ってニッポン放送でのデモテープ録りになるんですよ。
実は74年初頭にナイアガラ・レーベルの構想を僕は書いてるんです。
それには74年の6月に大滝のセカンドアルバムが東芝から出ると書いてあります。レーベルもナイアガラで。だから73年の暮れには東芝の話が出ていたんです。
6月に大滝のセカンドで、8月にシュガーベイブのファーストと書いてある。この構想通りに行ってたらずいぶん歴史も変わったでしょうね。
東芝に向かう気運はあって♪思い出にさようなら(幸せにさようなら)は、銀次が74年のお正月に作って持ってきたの。あれ加山雄三調でしょう? 東芝でやるって流れがあったから、こういう曲ができたんだけど、って感じだったんだろうね。多分、山下くんにしても、東芝では、って思ってる時期があったと思う。でも、それがうまくいかなかったんだね。
原因はわからない。
でも、後から聞いたんだけど、72年かな、村井邦彦さんがマッシュルーム・レコードって言うレーベルをコロムビアから出して、そのレーベルを再契約するときに値段を釣り上げたらしいんだよ。でも、コロムビアがその金額をのめないので、村井さんは東芝に行ったんだ。だから、どうもコロムビアがのちにナイアガラ・レーベルを取ったのは、その時の反省があるらしいんだな。
だからあの時にコロムビアが村井さんのレーベルと契約延長していたら、ナイアガラのコロムビア契約はないんです。荒井由美だってコロムビアから出てた可能性もある。
東芝は村井さんを取らなければ資金はあったでしょう。そうしたら東芝のナイアガラが実現したかもしれない。あとで新田和長さん(当時東芝)に聞いたらあの時ナイアガラの条件が高かったって言ってたね。
風都市側は、東芝とエレックに同じ条件を出した? それは知らないなぁ。その辺は結構謎なんですよ。でも、その時にはもうナイアガラの構想はあったわけですよ。当然プロデュースするからレーベルだし、いろいろやってるわけですから。でも東芝の前はベルウッドだったハズなんだよ。少なくとも9.21のライブ盤だってベルウッドから出てるし。僕のファーストもベルウッドから。それなのに73年が終わった後に、ベルウッドのベの字も出なくなる。
で、僕は73年の後半から福生スタジオを作り始めるんだけども、誰がお金を出すかって言う時に誰も出してくれないわけね。
だから、お袋の退職金を借りて改修したんですよ。ベルウッドの三浦さんもスタジオ見に来てるの。ベッドウッドの人とフジパシフィック音楽出版とシティ・ミュージック(風都市の制作・出版部門)の3社でお金を出すみたいな話だったんだけど、一向にどこも出さなくて、工事は始まりもしなくて。山下くんが最初に来た時は外側だけがちょっとあった。
お袋から借りたお金で、防音の真似事だけしていた。その後ベルウッド側が「スタジオにはお金は出せない」となったんじゃないかと思う。ナイアガラレーベルは構想はスタジオを持つと言うことになっていたから、だんだんベルウッドはフェードアウトしていったんじゃないか、そんな気が今にして思えばするなあ。東芝も契約以外のところで福生スタジオの援助金みたいなところでもつれたのかもしれない。
それでも、その後、東芝のスタジオにあった機械が福生に来るんだけどね。現場段階の話で来ることになったんだけど、これはこれで、また因縁と言えば因縁でね。あれは小田和正さんがリーチしてた機械だったらしい。小田さんは自分のところに来ると思っていたらしい。それが気がついたら福生のスタジオへ、って言う。因縁なんですよ。しかもそのコンソールはクレイジー・キャッツが使っていたと言う由緒ある機械だったの。

 

<同じポップスといっても山下くんと僕とでは目指しているものが違うんですよ>
73年12月17日、青山タワーホール、シュガーベイブね。何と言っても、途中のMCの「今年のアルバム、ベストテンとワーストテン」というあの覚えしかないのよ。レオン・ラッセルのをヒドいって。デビューコンサートで、そんなこと言う人が居るのかっていう話をしながら、銀次と福生まで帰ったんだけど、その話で持ちきりでしたね。あのワーストテンは面白かったね。
バンドとしては彼らはもう出来上がってたから、何もいうことは無かったよ。
野口(明彦/ドラム)がまだね、独り立ちする前だったから、どうかなっていうのはずっとあったけど。他はあのままで行けると思いましたよ。なにしろリーダーが強力だし、男女混合というバンドも珍しい。ター坊のヴォーカルも入ってくるというアンサンブルも良かったし、これは新基軸だと思った。曲目から選曲からね。曲作りはまだ荒削りだけど、もう♪SHOWはできてたし、もう本格的なポップスをやってたよね。
僕はその時はジーガムとかサイダー‘73とか、ファーストアルバムのようなポップスをやってた。単純なのが自分には合ってるんですよ。
つくづく思ったの、僕は「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」の男なんだよね。みんなはそう思わないかもしれないけど。僕はあれが大好きなんだよ、マンフレッド・マンが。
あの曲を書いたのはジェフ・バリーとエリー・グリーンウィッチだから、スペクター・ファミリーでしょ。
あの範疇で♪Be My Babyがあるんだけど、あの辺は僕の北限なんだよね。でも山下くんはバリー・マン、シンシア・ウェイルだからね。バリー・マンは高度なんですよ。やっぱり。
それはもう♪サイダー’73と♪SHOWの違いを見ればわかるけれど、同じポップスって言っても、山下君と僕とでは目指しているものが全然違うんですよ、最初から。それは感じましたよ。だからリズム隊をちゃんとやればこのままでいい、曲はよくできてるから、いじる事は無いし。それでデモも録ったわけだしね。
だから、そこから先はレコード会社が決まるかって言うことだけにかかっていたし、自分でもやりたくてうずうずしていた時期だった。でも自分自身のソロではノーアイディアだった。
だから、多羅尾伴内なんです。多羅尾伴内っていうのはCMをやるときに使っていた名前なんだけど、シュガー・ベイブとは僕自身のソロではなく多羅尾伴内と並べるのが良いと。ちゃんと差別化もできるしね。
だからできれば、大滝詠一シュガー・ベイブじゃなくて、シュガー・ベイブ多羅尾伴内って言う形で、僕はプロデューサーとしての関わり方を考えていたんですよ。
【外伝2 了】