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ヒストリーオブ山下達郎 第4回 高校時代(1968-70年)そしてドロップアウト

<ミュージシャンになろうという気持ちは無かった>
ヤング・ラスカルズ、アニマルズ、ビーチ・ボーイズ、、、
アニマルズはアレンジ力と演奏力だね。リズムパターンがすごくユニークだったんだよ。♪悲しき願い(Don’t let me be misunderstood)なんてスネアとキックで、ト・ タ・ ト・タ ・トトト って、こんなパターンは誰が考えるんだろう、ってのがたくさんあるの。イントロもタッタタ・タッタタ・ターって、オルガンとギターのユニゾンなんだよね。

そういうのとか、♪炎の恋(Don’t bring me down)のアレンジとか。後は♪孤独の叫び(Inside looking out)のB面に♪アウトキャストと言う曲が入っていて、これはエディ・アンド・アーニーと言うシカゴの黒人R&Bデュオのカバーなんだけど、オリジナルと聴き比べてみると、同じ曲?と言う位アレンジが練られている。
そういうアレンジ力の凄さ、真似じゃないんだね。アニマルズとかヴァン・モリソンは確かにR&Bに根ざした音楽なんだけど、決して真似じゃない。そういうのはライブ当時のクラブ・サーキットで培ったものなんだよね。相撲で言う稽古を重ねていくうちに体が意思とは関係なく自然に動くようになる、あれに近い。
ロックンロールで言えば、それはグルーヴだな。体が覚えてるグルーヴじゃないと嘘になる。そういう意味でヤング・ラスカルズはまさにクラブバンドだったからね。今考えてみると、結局そういう音楽が本当の意味で自分の奥底にルーツミュージックとしてあるんだね。
ヤング・ラスカルズはラジオだね。若山弦蔵がDJをやっていた「P盤アワー」って言うポリドールのレコードをかける番組で、♪グッド・ラヴィンと♪ダンス天国(Land of 1000 dances)を聴いたの。それで出たばかりのアルバム「コレクション」を買って、1年半後にはバイトした金で「グルーヴィン」のアルバムを買って。後はもうひたすらラスカルズ。何がそんなにいいのか人には説明できないけど、結局♪グッドウィンを最初に聞いたときの、あの圧倒的なグルーヴなんだよ。たたみかけられていく感じ。だから何百回でも聴けるんだ。アニマルズの♪孤独の叫び、とかも。ビートルズにも十分にそういうのがあったね。♪ノー・リプライとか、初期は特に。でもラバー・ソウルとかリボルバーになってくると、どんどんそのグルーヴが変質していく、いまだに僕は♪イエスタデイよりも断然♪This Boyなんだ。
この頃は将来ミュージシャンになろうと言う気持ちはなく、あくまで趣味。メンバーの中にも誰もそんなのはいなかった。高校に入った時は将来は天文学をやればなんて漠然と思っていた。でも高校出るときには理系はもう全く駄目だったから、さぁどうしようかと考えて。こうなると音楽に関する仕事以外には自分の生きる道は無いだろうと。じゃあ音楽著作権でもやろうかなと。他は興味がわかないし。かといってミュージシャンなんてやれるわけないと思ってたからさ。
グループサウンズを見たり、アマチュアバンドのサークルに出入りしていて自分には楽器演奏者としての才能があまりないというのがよくわかったんだよ。アマチュアバンドでも上手い人は半端じゃなくうまかったから。GSでもゴールデンカップスのルイズルイス加部とか、うまい人はオーラが違うんだよ。歌手の場合よく「華がある」なんて言うけど、楽器演奏者も上手い人にはオーラがあるの。楽器演奏者でもやっぱり華がないとダメ。歌手となるとさらに大変で、歌が上手なだけでも華があるだけでもダメで、それ以上を要求される。大衆と言う得体の知れない存在を相手にするショービジネスの世界で、長く安定した人気を保つには、例えばルックスだったり、例えば演技力だったり、様々な付帯能力が必要なんだよ。あの当時からそう思っていたし、今でもそれは変わらない。だからあの時代、歌手になりたいなんてこれっぽっちも思ってなかった。

 

<高校生活に嫌気がさしてドロップアウトした>
前回触れた教師の不祥事問題、それが高校2年の時。1969年、16歳。素朴な正義感があるでしょう。そこからだよね、正義感以上に怨念だよね。政治的・社会的な問題は後からくっついてきただけで。
だから高校2年の中頃から完全にドロップアウトするんだけど、逆にそのおかげで助かったとも言える。だから、おかしなものでドロップアウトした後の記憶よりも、それ以前の高校1年の時の方が暗澹たるものでね。この年齢になっても高校1年の夢を見るんだ。高校1年の3学期に単位が足りなくなって、留年する。留年して新しい1年生と一緒になって、嫌になって学校に行かなくなって、高校中退すると言う夢。今でも見る。
中学の時にもいろんな変わり者がいたけど、だけどそんなにコミュニケーションに窮するなんて事はなかった。それが高校に入るとガラッと変わってしまった。教師ともクラスメイトとも兎に角、馬が合わない。しかも理由がよくわからない。教師やクラスメートとの話の接点のなさに僕は、自分は異邦人になったような毎日だった。僕の行った高校は元は高等女子校で女子の数が多く、僕の学年以前はクラスも男女別で、それが学校群と言う制度改革で僕の学年から史上初の男女混成クラスになるといったいわば変動期だった。
進学校の上にまた輪をかけた、やれ補修だ、やれ模試だ、とにかく偏差値、偏差値、偏差値が人間の価値を決めてた。だけど生徒、特に男子生徒はそれに別にたいした疑問もなく授業していたように僕には思えた。偏差値だけに限らず、身長・体重・肺活量、すべてのものが人間の選別の対象になると言う、そんな雰囲気に唖然としたんだ。もし彼らにそんなつもりがなかったとしたら要するに僕とは空気・相性・ウマが決定的に合わなかったと言うことだった。人間のウマと言うのは実はとても重要でね。今にして思うと教師の男子生徒を見る目に、戦前の女子校体質の、大げさに言えば、ある種の階級概念的なフィルターというのが隠然とあったのではと思う。
あと当時の公立高校の進学校には官僚の子息が多かったと言うのもある。それが中学とは大きな違いだった。僕はそういうことに対して非常にナイーブに育っていたから、それがずっと後まで理解できなかった。僕が生まれた時代の池袋には大金持ちから貧乏人まで机を並べて一緒くたに座っていると言う環境があって、そういう意味での階級意識というのが僕には全くなかったから。
今でも一番記憶に残っているのは、高校2年の時に制服が廃止になったんで、喜び勇んでジーンズで登校したら僕の担任の女教師が「山下、なんだ、それは。学生のくせに労働者の格好して!」って。一瞬何のことかわからなかった。後は怒りを通り越して滑稽だったな。なぜ学生が労働者の格好しちゃいけないんだと。日本の戦前のコンサバティブな階級意識というのを、まだ引きずっている奴がいるんだと思って。
僕は池袋と言う雑駁(ざっぱく)なところに育って、そういうところがすごくアナーキーだった。そういう風に育つことができた環境に、今は感謝しているかね。僕が持っている抜きがたい反抗精神は全てあの高校の3年間に醸成されたものなんだ。あの時期がなければ本当に人の言うことを疑わない素直な性格のままで成長したかもしれない。信じられないだろうけど、それまでの僕は絶対に人の悪口を言わない、無垢な子供だったんだ。あの3年で人格が変わった。でも一番変えられたのはドロップアウトした後ではなくて脱落したくないと思って悩んでいた最初の1年。
それを少しも理解しようとしない教師の冷ややかな目。それはそれは不思議な1年だったな。
ドロップアウトのきっかけは、結局1年の時の鬱憤が、2年の時の教師全員の不祥事によってに一気に噴出したんだな。自分を取り巻く価値観が瓦解したわけ。そうするとそれに対する教師たちのすごく不様な振る舞いや、あるいは官僚的な居直り。それがまるで戦後民主主義のとても質の悪いカリカチュアみたいに見えた。そういうものが自分にとって激しい憎悪の対象になったんだよね。
結果アホらしいと思ってドロップアウトしたんだよ。僕はそれまで喫茶店すらほとんど行ったことがなかったの。それぐらい地味な子供でグレるなんて考えたこともない。もっともあの時だってグレたなんて、今でも思ってないけどね。
無垢な世間知らずのガキが、浮世の荒波を教えてもらった3年間だと思ってる。確かに学校の勉強はしなかったけど、あの時にあれだけレコードを聴き、本を読み映画を見ていなかったら今の自分はない。1日おきに名画座に行ってたからね。3年の時は半分近く授業に出たいないね。
家を出たら学校には行かずに、新宿か池袋か、喫茶店でお茶を飲んで、本を読んで、映画をみて。後は並木の家だったな。
大体1人で行動してた。あとジャズ喫茶。新宿の歌舞伎町にビレッジ・ゲイトと言うジャズ喫茶があってそこのモーニングサービスは何もつかないんだけど50円でコーヒーが飲めた。ビレッジ・ゲイトは24時間営業だったから朝50円で入れば1日いられるの。
その頃はジャズ・ロックの全盛期でマイルス・デイヴィス「In a silent way」やハービー・マン「Memphis underground」とかよくかかってた。スティーブ・マーカスとか。フレディ・ハバードウェス・モンゴメリークインシー・ジョーンズの「ウォーキン・イン・スペース」、、、そういう時代だったからジャズ喫茶はかなり勉強になったんだよ。フリージャズも、レスター・ボウイとかサン・ラとかアーチー・シェップローランド・カークドン・チェリー。そういうのを文庫本を読みながら浴びるように聴いた。それまではジャズはあまり知らなかったから、聴いて聴いて、聴きまくったあの経験は何物にも変えがたいね。
映画も洋邦問わずに見た。あの時期がなければフランス・ヌーベルバーグなんて知らなかったと思う。トリュフォーは好きじゃないけど、それでも一通り見ているのは、暇だったからなんだよ。増村保造とか大島渚の作品も、あの時期がなきゃ絶対に見てなかったな。増村保造の「赤い天使」とか今村昌平の「にっぽん昆虫記」や「神々の深き欲望」、あとは篠田正浩とか、おおよそそんなことでもなきゃ観なかったもの。
新宿、渋谷、池袋、飯田橋名画座の二本立てを1日1軒で、それだけで1週間が過ごしたからね。文芸坐、文芸地下、全線座、佳作座、ギンレイ、武蔵野館、京王名画座…あの時期と高校出てからの1年間の予備校の時代。みんなあの2年半位の間の遺産と言う感じだからね。バンドを始めてからは、お金も時間もなくなってパタッと止まってしまった。

ドロップアウトして別の教育機会を与えてもらった>
ジャズについては、高校に入ってしばらくしてブラバンの先輩が生まれて初めて僕をジャズ喫茶に連れて行ってくれたんだ。
池袋の「キス」と言うジャズ喫茶で、入った時にかかっていたのがBill Evansの♪what's new、フルートのジェレミー・スタイグと共演してるやつ。それは今でもよく覚えているね。
「キス」があったのが東口で、しばらくして西口に「ベッド」と言う店ができた。多分同じ経営者だったと思う。「ベッド」ではライブもやっていたんだ。そこで初めて見たのが阿部薫だった。阿部薫は何度か見たよ。何せ四、五百円で阿部薫が見られたんだよ。そういう意味ではすごくいい時代だった。

新宿のピットインに行けば菊池雅章と峰厚介のグループがいて、新宿のタローに行ったら川崎遼カルテットがやっていた。メンバーが日野元彦と沖至でね、1曲目が♪ストレート・ノー・チェイサー、2曲目が♪シャドウ・オブ・ユア・スマイル。
素晴らしかったからね。とにかくそういうのは学校サボって行ったから見られたので、あの体験がなければ今の僕の商売は成り立っていないよ。だから人間何がプラスになって何がマイナスになるかなんて全くわからないよね。ジャズ喫茶に行くお金は僕はバイトしてたから。高校1年の時から有楽町でビルの床洗いのバイトを始めた。学校が終わって5時ごろに行くのかな。会社が終わるのが夕方5時でしょう。だから床洗いは5時に始まって3時間。それを週に3日位かな。
その延長で高校卒業するまではバイトとは言えばビルの床洗いだった。結構やったよ。
当時はディスコも生演奏だったんで、踊りじゃなくて演奏を見に行くんだ。歌舞伎町のサンダーバードなんてのは相当やばい場所だったんだけど出演バンドがエムとかミルクなんて言う時にはどうしても見たくて何度か行ったよ。
高校のブラバンでは、ドラムはバンドでやってるからいいやと思ってチューバをやったんだけど、結局人数が余ってまたドラムに戻っちゃった。最後には指揮までやらされたな。
ブラスバンド部には男が学年で3〜4人しかいなかったんだけど、それが同級生では数少ない友人だった。3年生になるまではクラブの雰囲気は良かったけど3年になって、新しい1年生が入ってきたら温度差というか、またもウマが合わない。そりゃそうだよね。こっちはロン毛の落ちこぼれで相手は真面目な国立行きまっしぐらなんだから。別に彼らが悪いわけじゃない。
他のサークルに入ろうとは全然思わなかったよ。大体友達があんまりなかったもの。欲しいとも思わなかった。僕が高校の時に付き合っていたのは1年上の先輩ばかりで、同学年とはほとんど付き合いがなかった、、、それは前回も言ったよね。
それも全部全共闘関係、学生運動で知り合った先輩なんだ。現代史研究会と言うような、他の高校で学生運動の拠点になっていたサークル組織はうちの高校にはなかった。だから前回行った映画研究会のメンバー以外は雑多な集団だった。そういう先輩連中で本当に仲が良いのが2、3人いて悪い事は殆どその先輩に仕込まれた。だけど今は誰1人消息すらわからない。当時のああいう時代に遭遇して、僕なんか比べ物にならない位、複雑な人生を送っている人がたくさんいるんだよ。
多分僕なんかのこういうトラウマのあり方は、人に説明してもわからないものなんだよ。
今こうして話せるのは、そのトラウマをなんとか克服することができたからなんだよね。「芸は身を助ける」じゃないけど、あの時代のトラウマと並行して半ば偶然、半ば必然的に体験してきたようなことに助けられて今の僕がなっているわけでね。
だから60年安保も70年安保も、騒乱が新しい価値観を生んでいると言う意味では非常に消極的かつ逆説的ではあるけれども、その時代の子供たちに別の教育機会を与えてくれた出来事だとも言えるんだよ。
今はそういうことすらもないよね。笑うファシズムというか、落ちこぼれに思索の機会を与えると、ろくな事は無いから、落ちこぼれた奴にはものを考えさせるな、皆、道にウンコ座りしてシンナーやってバイク転がす、能天気なストリートギャングにしてしまえと言う、支配側の意図が働いてる感じがするよね。
勧善懲悪がまだ生きていたよね。
今はそんな単純なことでは全然人が納得しないからさ。ビッグコミックに「弁護士の口頭(くず)」と言う漫画があってね。その弁護士は一般的な正義感とは全く無縁な、とんでもない奴でセクハラだってだって「あんたの方も悪いんでしょ、誘ったんだから」とか平気で言う。真実というのは見る人の立場や利害によってコロコロ変わるんだと。弁護士がそういうことを言う漫画が描かれ始める時代と言うのは、すごいなと思う。だんだんアメリカみたいになっていくんだろうな、これから。でも、我々はそういう意味では幸運だった。ポジティブティブな意味でのドロップアウトが可能だったから。

 

<僕は今でもドロップアウトしたままだよ>
当時はドロップアウトは別に落ちこぼれじゃなかった。今はドロップアウトは落ちこぼれだからね。全然違う。
あの時代について今まで公の場で具体的に話したことなんてほとんどないんだ。
下手すりゃ今回が初めてだよ。それでもまだ口にしないことの方が多い。もう随分時が経っているから、今更学校にも教師にも誰にも遺恨なんてない。そんなの全くない。僕ももうあの頃の彼らの歳を超えてるからね。だけどだからといって、あの頃のことを酒の肴に誰かと語り合いたいとか、懐かしく分かち合いたいとか、そんなことも全く思わない。
まぁ今思い返してみるとバンドが好きだったから学校に行かなくなったのか、勉強が嫌いだったからバンドをやったのか、よくわからないんだよね。いろいろなものが複合して高校の時に押し寄せてきた。まさに運命ってやつだな。だから時代は違うけれど、尾崎 豊の作品とか、実によくで理解できるもん。僕も一歩間違うとああなったのかもしれないけど、でもこの年になって思うのは、僕は実はパニックに強い性格なんだってこと。昔は何かあるとすぐに胃が痛くなるし、気が弱いんだなと思っていた。でも胃腸は弱いんだけど、精神的には自分が考えてるより本当は遥かに強いんだと認識できるようになったのは、ようやくここ十年位の話でさ。だから、高一の時にあれから先に踏み込まなかったのは弱さではなくて、そういう意味では精神的には強かったんだね。別に気は狂わなかったし、鬱にもならなかったし、セルフコントロールができたんだよね、
自分の性格はどちらかと言えば躁より鬱の思考だと思ってるんだけど、だけど鬱病になるなんて事はなかった。学校は嫌だとは思ってたけどね、行きたくないと。
それまでは優等生タイプだったから、本人としては確かに深刻ではあったんだよ。でも3年で修学旅行には行っているし、2年の夏にはクラスの10人ぐらいで男女混合で千葉の海岸に泊まりがけで行って泳いでいる。それはアポロ11号が月に着陸した日で、1969年の8月。千葉の民宿でテレビを見ていたからね。そういうのにはノコノコ行ってるからかなりノー天気なんだよ。
ジャズ喫茶、あれも一種の知的遊戯だね。でも考えたらあの頃いろんな形で言葉にこだわって、わけのわからないものをいかに言葉で表現していくか、闇雲にやったのが今の取材なんかの時にも生きているんだよね。論争に強くなるというか。
NHKあたりの番組で今の子供たち同士が社会問題なのか何かを話し合ってるの見ると言語的なキャッチボールがいまいち深くないから、論争にならないんだよね。でも逆に「朝まで生テレビ」なんかを見るとあれも言語的に成り立っていないよね、会話になっていない。
デモへの参加? ある日、明治公園で集会があった時、僕は旗持ちだったの。でも隊の先頭で旗を持って歩く役。何の集会だったか忘れたけど。ところが旗を誰かが先に持っていっちゃって、竿を忘れているんだ。しょうがないから僕は竿だけ持っていった。そしたら千駄ヶ谷で大男の機動隊員に囲まれて「これはなんだ」「旗は先に言ってるんですよ」「嘘をつくな」「嘘じゃないですよ」って押し問答になって散々小突き回されたあげく結局竿は取り上げられちゃったの。僕はその時高2だったけどなんて理不尽でささくれだった連中なんだろうと思ってさ。そういう体験はこの年になっても忘れないんだよね。「僕は絶対にこういう連中と関係を持つ仕事はやるまい」と思った。今もずっとドロップアウトしてますよ、僕は。

 

<音楽著作権をやろうと思って大学に入ったけど>
いつごろから音楽に絡んだ仕事を考えたと言えば、高校卒業して、でも勉強なんてしてなかったし、現役ではどこの大学も受かるわけがない。それで予備校に通って、実際はほとんど行かなかったけど、一浪して大学に一応は入ったの。でも高校に入ったときの目標は完全に破綻していたんだよね。
高校に入った時は社会科系の方が弱くて、得意科目は圧倒的に理系だったのにね。だから高校に入ったときのビジョンとは全く違うことになってしまって、方向としては文系しかないんだけど、文学は嫌いだし、経済とか経営なんてとんでもないし。だったら音楽出版社か何かで音楽著作権でもやるかと思って。単純だよね。18歳だからそれで法学部を選択したの。
僕はあの頃から作曲家オタクだったからそれで音楽著作権について興味を持った。一応スクリーン・ジェームスとかシンコー・ミュージックとかそういう知識はあったから。そういう音楽出版社で働けたらいいなと思ってたんだよ。ミュージシャンになるなんて全く考えてなかったから。
浪人になった頃からまだ並木の家に人が集まるようになってきた事は言ったよね。でもその時には前のバンドのメンツはほとんどいなくなって、並木の高校の同級生ばかりだった。それでコンテストに出たりとかしていたの。僕と同じ年に、並木や彼らも全員大学に入った。だから浪人の時にまたバンド活動が再開して、大学に入ったときになんとなくマンネリを感じで解散しようと言うことになった。それで記念に何か残そうと言うことでAdd some music to your dayを作ることになるの。
結局大学なんて惰性だった。高校であれだけいろいろあって、大学にどんな夢を見れると思う? 音楽著作権なんて言っても曖昧模糊としたもので、入ったら入ったで、一般教養だか何だか知らないけどちっとも面白くない。なんだこれ、と思ってさ。高校以下だと思った。結局バイトばっかりやってたね。
とにかくやる気がない。教室には司法試験を狙っている連中とその他大勢と言う具合にはっきり分かれてて、講義なんかでも、最前列に司法試験組が五、六人いて、その後ろ十列位が空いてて、その後ろに残り全員と言う感じだった。今でもそうだろうな、きっと。
1972年、入学して3ヶ月ぐらいした頃アメリカに行こうかなと漠然と思ったの。それで金を貯めようと思って、休学して運送屋のバイトを半年ほどやったんだけど、仕事がきつすぎて腕が上がらなくなって。金は少したまったけど、でもその程度の資金じゃとても無理だとわかって、アメリカに行くのは諦めた。そんなふうにダラダラやっていて、また、だんだん何になるのか分からなくなってきた感じだったよね。
音楽は洋楽一辺倒。ジャズと、後はGSやフォークを少し見ていた位かな。
はっぴいえんどがデビューしたのは70年。
確か70年か71年だけど、渋谷の「青い森」と言うフォーク喫茶に並木と僕と3人位で行って、客は僕たちのほかに2人ぐらいしかいなかった。その時に古井戸が出ていて、
はっぴいえんどの♪春よ来い、を歌っていたのを覚えてる。暇だからたまたま行ったんだけどね。日本人が演奏するのを見るのは興味があったから。だから同じ渋谷の「B.Y.G」の地下にも見に行ったし。
印象的だったのは西岡恭蔵さん。まだ象狂象と名乗っていた。その時に♪プカプカを歌っていて、すごくいい曲だった。「青い森」でも古井戸が♪かくれんぼと♪春よ来いをやっていたのを聞いて、並木がはっぴいえんどのアルバムを買ってきた。それが僕のはっぴいえんどとの出会い。ジャケットの裏の名前を見て「これってバーンズの人じゃない?」「へえ、バーンズがこんなことやってるんだ」って。
だけど日本の音楽シーンについてはそういうライブハウスレベルの知識しかなかったね。レコードもライブも洋楽の方が優先順位が高かったから。
例えば岡林信康とかはかなりポピュラーだったけどコンサートホールまで行く余裕はなかったし、レコードも友人から借りるのがせいぜいだった。
フォーク・クルセダーズは並木が深夜放送で♪帰ってきたヨッパライを気に入って、買ってきたよ。並木は先物買いというか、そういうものにすぐ感応するアンテナがあるんだね。
ジャックスも並木が買ってきた。だからドゥー・ワップとかジャグ・バンドとかにも容易に行くんだね。ドゥー・ワップもジャグ・バンドも持ってきたのは僕だけど、ジャグ・バンドは並木がハマってね。最初はニッティ・グリーティ・ダード・バンドで、その後、武蔵野タンポポ団をどこかで聴いて「これはイイ」って。その頃ちょうどジム・クエスキンのアルバムが日本でも出て。
イムリーだったのは、バディ・ホリーとか、チャック・ベリーのような古典がようやく再発され始めた時期だったの。ビートルズ全盛の時代にはそうした50年代から60年代のアメリカの最重要なロック&ポップスのスタンダードはほとんど出てなかったのが、僕らが高校卒業する頃になって、ようやく出始めたの。それが「アメリカングラフィティ」のブームでいっきょに加速した。
RCAブルースの古典」とか、優れたコンピレーションが出るようになって、本では読んだことがあるけれど聞いたことがないものがたくさん出て、ルーレット・レーベルのロックンロールオリジナルヒッツとかを片っ端から買ってきた。そういうのが、いろいろなところで縦横にクロスオーバーしていくんだ。
【第4回 了】