The Archives

次の時代へアーカイブ

ヒストリーオブ山下達郎 第3回 初めてのバンド・中学から高校

<バンドの全員が同じクラスに>

昔はエレキバンドと言うのは実に金のかかるものだったんですよ。アンプ、ギター、ドラム。どれもどうしようもなく高くて。エレキバンドと言うのは実は当時の日本ではアッパーミドル以上のぜいたくな趣味なのね。

エレキを持つと不良だなんて言われた時代だけど、実はエレキバンドをやる人と言うのはたとえ不良だとしても、ある程度経済的に恵まれたところの子供でないとエレキなんか買えなかった。

ましてや外国製のギターなんか買える人は、プロでキャバレーとかディスコとか、そういうところでちゃんと稼げてる人たちか、金持ちしかいないわけね。だから例えば加山雄三さんのバックのランチャーズなんかは、みんないいとこの坊ちゃんだからね。あの当時の私大付属を下から通ってるような子供じゃないと、まぁ無理だった。僕の場合も中学の友人が割と裕福な家庭の息子で、彼らがエレキギターやアンプを既に持っていたおかげで接することができた。

でも楽器があったとしても今度は練習場所の問題が出てくる。今みたいな安価な練習スタジオなんて絶無だったからね。その問題も幸いに並木の実家が成増の大きな家だったので心配なかった。しかも当時はまだ周りが全部畑だったんで、夜が更けてから音を少し位出しても平気だったの。もちろんマーシャルのアンプじゃいくらなんでも無理だけど、その頃マーシャルなんてまだ存在していない時代だったから。国産の高さ60センチ幅40センチの10ワット位の小さなアンプにエレキギターを2本つないで、ドラムはまだなかったから椅子を叩いてって言う感じだったけどね。それでも音を出せるだけで革命的だった。

それが中学2年位だったんだ。ビートルズが来日した1966年。僕みたいにベンチャーズから入った人間にも、ビートルズは圧倒的な影響力があったよね。

ビートルズが来日した時は学校で禁止令が出たんだけど、関係なかったね。クラスの半分近くを見に行ったもの。あの時は歯磨きやチョコレートを買って応募すると、抽選で入場券が当たるって言うような形だったと思うけど、切符は意外とあったの。「4枚も取れちゃった」みたいな友達もいてそれをみんなで回しあっていたもの。僕は行かなかったけどプログラムを持っているよ、プログラムだけ買ってきてもらったから。

でもみんな異口同音に言ってたのは聞こえたのはワーキャーの歓声ばかりで演奏はあまり聞こえなかったと。あの時の武道館はスタンド席だけでアリーナには客を入れなかったと思う。あの時代のPAなんてあってないようなものだったからそんな状態で聞いたって演奏なんて聞こえないよね。

あの頃は休み時間になると皆でビートルズの歌を歌ってたよ。歌本なんてモノはろくになかったからレコードの歌詞カードから手書きでノートに書き写したものを何人も持っていて、それで♪ユゴナ・ルーザット・ガール、恋のアドバイスだねw俺がジョンだポールだとか言って。クラスでそういうような洋楽の仲間、コミュニティというのがあったんだよ。

洋楽が流れるラジオ番組は「S盤アワー」「P盤アワー」「9,500万人のポピュラーリクエスト」後は「ハローポップス」かな。もうちょっといけばFENだったかな。まだオールナイトニッポンはなかったからね。深夜放送はまだ生まれたてのホヤホヤで土居まさるさんがやっていた「真夜中のリクエストコーナー」がちょうど人気が出始めた頃。まさに草分けだよね。並木はそれを最初から聞いていたようなやつで、そういうコミュニティーの1人だったんだね。洋楽コミュニティーの人数はたくさんいたよ。僕たちの学年はAからIまで9クラスあって、その中でそういうのが好きな奴が自然と集まっていった。クラス単位ではなくて初めはクラブ単位でね。

僕と高山はブラスバンドでの縁だったし、並木は体操部だったんだけど、僕のクラスの体操部のやつがビートルズが好きで、並木もビートルズファンでそんな感じで20〜 30人はいたね学年で。その他にも先輩がいたし後輩もいたし。

そういう関係で話をしているうちに並木の家にエレキギターがあると言う話になった。じゃぁいちど日曜日に遊びに行こうと言うことになって成増まで遊びに行った。何回か集まって遊んでいるうちにギターには上手下手があるから下手であまり面白くない奴は来なくなってくるの。僕はその時に初めてエレキギターを触ったんだ。それまではガットギターか、せいぜいフォークギターだったから。高山はホタカのフォークギターを持っていた。当時にしてみればなかなか渋い趣味だった。エレキベースもその時に初めて触って弾いたな。誰かが♪君といつまでも、の譜面を持ってきてなんか見よう見まねで引いたらうまく弾けたんだ。それでしばらくベースをやることになったんだけど僕はもともとドラムだからさぁ。ドラムセットはまだ持ってなかったけど僕しかドラムをやるのがいなかったからそれでバンドでもドラム担当になって。

いろいろあって僕と並木と高山ともう1人、最後に4人が残ったんだ。中学2年生の終わりぐらいにこの4人で固まったの。それで前回にも言ったと思うけど、3年生になったら偶然なんだけど4人全員が同じクラスになった。それで火がついちゃったんだよ。そこで人前で演奏するときにはドラムを借りてきて。どこからか借りてきたのか記憶はもうないけどパールのバレンシアという一番安いセットで、スネアはブラスバンドの備品でヤマハが当時出したばかりのやつ。初期のヤマハのスネアはすごく良い音がしてたんだよ。

ギターは全部並木の持っているギターでグヤトーンとテスコだったかな。ベースはどこだろう。

♪As tears goes by やったり学園祭で♪And I Love Herをやってたよ。ファーストマンのベースは確か石川くんので。僕は自分のガットギターで。

並木はストーンズも好きでたくさん持っていた。ビートルズストーンズ、アニマルズ、、、並木はブリティッシュロック一辺倒。高山はとにかくビーチボーイズが好きで、いわゆるトップ40ファンでもあって。それも当時の中学生にしては突出してて、へんちくりんなものばかり聴いていた。そのおかげで僕はエレキインスト一辺倒から、徐々にトップ40に移行して、ちょうどヤングラスカルと出会ってブッ飛んだ、みたいな頃。

レパートリーは中学の時は適当。一番最初にやったのはスペンサー・デイヴィス・グループの♪gimme some lovinで日本では流行流行ってなかった。高山がかなりマニアックだったし、並木もレコードが割と買える環境にあってビートルズの♪Paperback Writerを発売日に買いに行けるような経済的余裕があったから。

高山と並木の2人はレコードを結構持っていた。そういう子供ばかりで集まったというか。僕だって他に何も買わないでレコードばかり買っていたからね。それでお互いに持っているレコードをぐるぐる回しっこして。そういう仲間が10人15人いるとかなり回せるじゃない。女の子もいたし。女の子はシラ・ブラックとか結構進んだ子がたくさんいたんだよ。

もう1人クラスの友人に医者の息子がいてThe Whoデイヴ・クラーク・ファイヴ、ブリティッシュ関係を集めていた。デイヴ・クラーク・ファイヴとThe Whoはとにかくそいつがかなり頑張って買い集めてた。そういうのをみんなで回しっこしてると、かなり知識が増えるの。

高田中学は割と進学校で遠くから越境通学してくる割とアッパーミドルの家庭の子供ばっかりだったから、そういう音楽の趣味も割と良かったんだね。それで中三になってクラスが皆一緒になっちゃったので、毎週日曜日並木のところに行って練習してたんだ。

人前で演奏するチャンスは結構あった。

当時池袋のヤマハにWIS、ワールド・インストゥルメンタルソサエティという団体があってね。結構歴史がある組織で、そこから出たのが例えば成毛滋のフィンガーズとか、サベージもそうじゃなかったかな。後に信天翁(あほうどり)を作る寺田十三夫さんが居たバンドとか。あと細野晴臣さんや松本隆さんがいたバーンズも。小杉理宇造さんもエースだった。当時のアマチュアバンドの団体としては1番大きかった。そこに入会すると毎月1回オーディションをやるわけ。それでアマチュアバンドを審査してランク付けしてくれる。

ビギナーから始まってジュニア、ジュニア・ハイ、シニア、シニア・ハイとクラスが上がっていって一番上手いのはエース。エースになるとバイトの仕事がもらえたりするんだ。

僕らが入ったときにはエースは3つしかいなくて細野さんのやっているバーンズと寺田さんがいたビーメン、もう一つはその名もシャドウズと言うシャドウズのコピーバンドだった。

シニアハイ以上になると毎年何回かWISのフェスティバルというのがあって御茶ノ水の日仏会館とか、僕が高校に入った時は虎ノ門の発明会館だったけど、そこで何十分かの演奏させてもらえる。その出場を目指して皆頑張るわけですよ。でも中学のときには全然駄目でジュニア・ハイ位のすごい低いランクだった。

その時は新宿にある御苑スタジオと言う練習スタジオでオーディションをやってた。最初中三の時、そのオーディション時にやったのはgimmi some lovinと何だったかなぁ。そういうロックンロールをやってたんだ。

それで高山がこんなことをやっても絶対上に上がれないから人がやらないことをやろうって言い出して、そこで始めたのがコーラス物のビーチボーイズやトレメローズ、でもそれは高校に入ってから後だったな。

中学の時は一般的な曲ばっかりだよ。As tears goes by、What I sayとか。後はグループサウンズワイルドワンズの♪青空のあるかぎりとか、ブルーコメッツの♪青い瞳。後はシャムロックスの♪ラ・ラ・ラとか。それでも中学生にした十分マニアックだったけどね。曲は皆で持ち寄って。ストーンズも結構やったし♪Time is on my sideとか、割とそういう一般的なロックというか中学の時はそれで終始したね。

バンド名はこの4人になった時だから中三になった時に。バンド名は「バウエルン」と言うんだけど農夫って言う意味のドイツ語。これは並木の兄貴が高校生で、ドイツ語をやっていた関係で「英語の名前なんてダサイ」とつけたの。ただのへそまがりなんだよ、東京のイキがったガキのアマチュアバンド。

中三で、先の2月にはもう高校受験、でもドラムがとにかく好きでドラムセットがどうしても欲しくて、それで親と交渉。

都立高校の1番偏差値の高い高校に合格したらドラムを買ってくれと。

池袋近辺で1番の進学学校だった都立小石川高校と、戦前までは高等女学校だった都立竹早高校学校群制度になって内申書を重視することになって僕は内申書があまり良くなくてカツカツだったんだけど、でもとにかくドラムが欲しい一念でなんとか滑り込みで合格して念願のドラムセットを買ってもらった。

 

<受験の頃も池袋のジャズ喫茶にはよく行った>

以前、高山と並木が中学のクラス会に行ってね。中学3年の時の担任は女の先生で、今はもう引退されているんだけど、当時は日教組で結構バリバリの先生だった。彼女が「自分の教師人生の中で1967年の3年H組の生徒は今でも1番印象に残っている。私の教職人生の中で1番変わっていた」って。

確かにクラス全員が妙に良いキャラクターでなかなか面白いクラスだったんだ。

中学のブラバンと、中三から高一の時のアマチュアバンドで、僕の今日の音楽的基礎が形成された。中学のときにはただ音を出しているだけで楽しかった。とにかく並木の家があったおかげで、まがりなりにもバンドができたわけで、1人じゃ全然。本当にありがたいよ。

受験の時期のバンド活動?受験勉強はみんなある程度は真面目にやっていたよ。別にグレてたわけでも無いしバンドはあくまで趣味で。プロなろうなんて誰も全く思ってなかったし。受験勉強も夜は皆ラジオを聴きながら問題集を解いて。

バンド以前にいわゆる音楽ファンだったから。例えば高校へ入る以前から池袋のジャズ喫茶「ドラム」にみんなでよくグループサウンズを見に行ったものだよ。僕と高山と並木の3人は日曜日になると並木の家家かドラムにいたね。2学期に入ってからも行ってたよ。当時の受験勉強は今ほどゴリゴリじゃなかった、例えば学校が終わってから塾に行くようなやつはほとんどいなかったし、夏休みの夏季講習、冬休みの冬季講習はあったけどね。

学校の授業が終わったらクラブ活動だったよ。今は中学生でも3年生になったらクラブを辞めるらしいけど、僕たちの時代はそんなことなかった。進学校だったから頭の良い奴はゴマンと居たけどみんな性格も良かったし、今みたいにそんなガツガツしてなかったよね。

買ってもらったドラムセットは並木の家に置いて。中学の頃は本当に夜中の2時ごろでも音が出せたんだけど、さすがに高校に入る頃になると周囲に住宅がだんだん立て込んできて。あまり夜中までは音が出せなかったけど、声だけはいくらでも出して歌えた。

15歳から20歳近くまでの1番育ち盛りの頃に声を出すだけ出せていた。あの環境がなかったら歌手になんて絶対になっていなかった。とにかく並木の家に入り浸って、てもテープを回しては歌を録音していたと言う。宅録の元祖だね。ドラムもそこで練習できたし。ドラムはその割には全然上達しなかったけどw

でもいわゆる体育会系のノリじゃない。どちらかと言うと頭脳的というか、ギミックというか、選曲とかコンセプト、そういうので勝負してた。だから演奏技術は決してうまくなかったんだ。みんな知識はあるんだけど練習してもあまり上手くならなかったな。と言うより獲得目標が高すぎたんだ。だから傍目にはお世辞にも上手いバンドとは言えなかった。コピーは僕がほとんどやってた。

高校に入ってからコーラスをやろうと言うことになって、ビーチボーイズのコピーとか、トレメローズのコピーとかをやることになったって、僕がほとんど譜面に起こしてたから、それがすごく役に立ってるね。あれがビーチボーイズでなくて、もっと簡単な音楽しかやっていなかったら、大した役には立ってなかっただろうけど、ビーチボーイズやアソシエーション、ハプニングス、イギリスではトレメローズやホリーズ、ああいった複雑で難易度の高いコーラスをコピーしたり演奏したことがすごくためになったな。

高校になってから鰐川己久男が入ってきて、バンドは五人になるんだけど、この鰐川がコピーの耳が抜群にイイ男だった。

鰐川は並木の高校の同級生。ギターがうまいので、並木が彼を誘ったの。ちなみに村松邦男くんも並木の高校の1年先輩だった。バンドの練習場所がないので並木の家でやらせてもらっているうちに僕とも知り合ったの。村松くんが出てくるのはまだ少し先だけどね。

鰐川の印象? 彼はエレキギターが好きで1人でベンチャーズ寺内タケシを弾いていたようだった。耳が良くてコピーが実に正確だった。それまで高山がやっていたギターのコピーはかなりアバウトでね。トレメドウズの♪サイレンス・イズ・ゴールデンのイントロなんかも雰囲気コピーだった。もっとも今にして思えばそれもそれで結構個性的でよかったんだけど。トレメローズの♪ビー・マインと言う曲があってね。そのイントロはDmからA7と言うコード進行なんだけど、高山が雰囲気で適当に弾いていたのを「いやそれはそうじゃなくてこういう具合に弾いてるんだ」と鰐川が弾いたらオリジナルと同じ音がするわけ。みんなびっくりしてその時から「あぁコピーってこういうもんなんだ」って僕も彼の完コピ志向に大いに感化されてビーチボーイズ何かのコーラスの譜面をとるときに、より正確にと常に考えるようになったんだ。それがのちにフォア・フレッシュメンの複雑なヴォイシングのコピーなんかにとても役立った。

高校に入ったあたりからビーチボーイズをやろうかと。それは多分WISでの見聞が大きかったと思う。

演奏テクニックでは太刀打ちできないけど、コンセプトなら勝てるのではとw で、一番最初にやったのはトレメローズの♪サイレンス・イズ・ゴールデン。だけど1ヵ月たっても2ヶ月たってもちっともハモらないんだな、これが。

だからバンドが終わるまで通してレパートリーは10曲あるかないかだったね。それをひたすらやっていたと言う。

WISのランクはシニア・ハイまで行ったよ。エースの1つ手前。高校1年の時。だって僕らしかいないんだものそんなのやってるのは。審査員の口癖がとにかく「チューニングと楽器同士のバランス」だったからさ。グルーヴとかオリジナリティーじゃないの。そういう時代だった。

当時のアマチュアバンドは洋楽コピーがほとんどでオリジナルなんて絶無だったからね。だからどういう洋楽のコピーをやっているかが、センスの良し悪しだった。

高校生になってからWISの演奏会に出られるようになったんだけど、演奏しながら歌えないの、コーラスが難しすぎて。それだったらいっそのことコーラスだけやって、演奏は録音にしよう、と。当時としてはあまりにも過激な発想に至った。ハプニングスの♪シー・ユー・イン・セプテンバーとかビーチボーイズバージョンの♪ハッシャバイを御苑スタジオでリズム録りして、それにブラバンの先輩を連れてきてブラスをオーバーダブして、そのカラオケをバックに発明会館で5人で立ってハモって歌ったって言う、だから結構カラオケの先取りをしていたんだよ。当時のスタイルとしては無い、ボーカルグループ化したわけ。その後、高山がやめてそういう過激なこともなくなったけど、精神は今に引き継がれている。

 

<馴染めなかった高校の体質>

高校受験の時は大学に行くなら宇宙物理学とか、天文学関係に進みたいと思っていた。理系志望の子供だった。だけど高校の3年間でそれがすっかり崩れてしまった。前回も話したと思うけど、学校群制度というのが僕らの一代前から始まったんだけど、それが僕の人生を決定的に変えたんだよ。それ以前の制度で受験が行われていたら僕はまず120%別の高校に入ってた。そしたら僕の人生は全然違ったものになっていた。あの学校群制度と言うやつで機械的に割り振られて、あの高校に行ったために、僕の人生が変わった。それは完全に確かだよ。

まぁ今になって高校時代の話をどういう風にしたところで、結局は人や組織の悪口になってしまう。今更そんな大人気無いことをしても何の足しにもならないので、あまり具体的なことには触れないけど、要するに学校の体質、空気、教師やクラスメイトと、僕自身の相性が全然合わなかったんだ。それまで通っていた高田中学はとても明るい校風だったんだけれど行った高校は校舎も古くて暗い。教師は屈折したやつばかりだし、同じ公立でもこんなに陰湿で官僚的な場所があるのかと驚いたんだよ。

もっともそう感じていたのは僕一人だけで、他の多くの生徒は僕とは全然違う気持ちだったかもしれないけど。高校に入ってから、これでいよいよ髪が伸ばせると思ってた。ところが学年で3人しかいなかったロン毛の生徒は、1人また1人とじわじわシメられて、親まで呼ばれて、強制的に切らされた。ほんとにいろいろあったけどまぁ世に言う登校拒否と言う心情が僕にはよく理解できる。僕もかなりそれに近い状態になって、勉強なんて、てんでやる気がなくなった。今考えると要領が悪かったんだね。もっといい子でいればよかったんだけど、そうできなかった。おかげで高校1年のときには単位が足りなくて留年しそうになったんだけど、その時は何とかカツカツで上がれた。

でも状況は変わらなくて高校2年になってこれは本当にもうだめかなと思った矢先に、学年主任の教師3人を中心にして、学校ぐるみで補習費や修学旅行費でリベートをとっていたのが発覚した。それが新聞に載ったの。

結局学年主任は1人が懲戒免職、2人が減俸、残りの教職員もほとんど全員が処分を受けた。それが原因で生徒による学校集会が続き、学校の機能が一時完全に停止した。それが1969年6月のことだった。

70年安保の前年、東大安田講堂の直後だからね。学校はガタガタになったけど、正直助かったと思ったね。これで救われたと。普通はそこからグレ始めたと言うことになるんだろうけど僕の場合はそのおかげで逆に助かった。あの騒動がなければ高校をちゃんと出られていたかどうかもわからない。

教師側から発生した事件だったので、それ以後は学校の体をなしていない時期がしばらく続いて、おかげで僕はたいして学校へも行ってないのに卒業させてもらえた。とにかく受験以前の高校1年の時はどうして自分はこんな場所にいて我慢しなくちゃならないんだろうと毎日が暗澹たる気分だったからね。そんな空気から心が逃げ込める場所は唯一音楽しかなくって、だからひたすらレコードとバンドに没入していった。それも運命だったんだな今にして思えば。

2年生になって医大志望だった高山が大学受験に備えてバンドを抜けた。だから中学時代から続いたアマチュアバンドの形は高校2年でひとまず終わったんだ。それと僕の高校の騒動とがちょうど同時進行の形だった。

メンバーは高校1年のときには4人でやってて、鰐川が1人増えて、それで高山がやめたのでもう1人、並木の高校から入ってきたりはしたんだけど、ちょうど学生運動が激しくなって、それに参加するやつも出てきて、2年の秋ぐらいにはバンドはいちど崩壊して、3年生の夏ぐらいに並木の仲間内でまた復活する。それが後に自主制作盤のAdd Some music to your dayにつながるんだ。

バンド的な概略はそれくらいだね。だから2年生の冬から3年生の夏ごろまではバンドはほとんどやっていない。それどころじゃなかった。

バウエルンと言う名前は高山が辞めた時に自然になくなって、その後はバンド名はなかった。その先は非常に不安定な集団になった。ただとにかく並木の家は、1人でふらっと行っても大丈夫だったから、そういうたまり場としての機能は継続していたんだよ。

 

<一番大事なのはグルーヴ>

その頃の記憶があまりはっきりしてないんだ。ほとんどフーテンに近い状態だったから。僕が2年生だった1969年の2学期、僕の高校は新校舎の建設のために文京区から新宿区に一時的に移転することになった。甲州街道明治通りの交差点にある新宿高校は新校舎が完成して旧校舎が空いたので、

そこに翌年の夏まで約1年間、間借りすることになった。69年の新宿だよ。狂乱罪適用の年の。学生運動、華やかりし時代。もっとも学生運動なんてそんなご立派なもんじゃなかったけど、それでも学校なんてもうどうでもよかった。ジャズ喫茶に映画館に雀荘。とにかく69年の新宿だもの、アナーキーの極致だったな。

だけど文化的好奇心は大いに満足できた。あの時代に吸収した知識は計り知れない。

学校の騒動がきっかけで結成された学生運動もどきのグループがあって、そこでは自分と同学年の生徒とは殆ど交流がなくて一年上の先輩とばかり行動していた。

ただ僕の先輩連中にしても同期の友人にしても文学少年と映画少年ばかりで、音楽がメインと言う人はほとんどいなかった。「虞美人草」の初版本を持っているとか、高橋和巳大江健三郎坂口安吾吉本隆明。映画は「グループ・ポジポジ」と言って、大島渚の「東京戦争戦後秘話」に出演しているメンバーが、学校の映研の人たちで、全員が僕の1年先輩なんだよね。その中の後藤和男という人が主演で、彼は後に映画雑誌のライターをやったり自主制作の映画を作ったりしているけど。そういう映画、演劇、文学、あとは絵も居たな。だけど音楽はほとんどいなかった。不思議なことに。だから学校ではブラバン以外にはせいぜい学園祭でフォークグループのベースを手伝ってやるとか、その程度だったな。

やっぱり高山と並木が進み過ぎてたと言うか。WISと言う組織もアマチュアバンドだから今のバンドものと何も変わらないから、演っているのは♪ホールド・オンとか♪パープル・ヘイズといった当時の定番。ジミヘン、クリーム、ヴァニラ・ファッジ。

そこにいきなりトレメローズだぜ、バンド転換の時に「お前らなんでそんなつまんねーのやってるんだ」「お前らになんかわからねーよ」とか、そういう、すごく殉教的なエクスタシーだったのね。

僕は高山みたいなマニアではなかったけど誰も知らないものを聞いて喜ぶとかそういうのでは決してなかったんだけど、最初に見たものを親だと思うというか。僕が一番最初に入れあげたのはベンチャーズだけど、本当の意味で自覚的に没入したのはヤング・ラスカルで、それも日本では確かにすごくマニアックなんだけど、アメリカでは大メジャーだったからね。でも考えてみると結局そういう15〜16歳の時から自分にとって何が一番大事かって言うと突進するグルーヴなんだね。

ロックンロールで育った人間だから1にも2にもグルーヴなんだ。

ベンチャーズもそうだし、ラスカルズもそう、ジャズもそうだし、ブラックミュージックもそうなんだろうけど、そういう噴出するグルーヴがないものはダメなんだ。だからカーペンターズはどこまでいっても本当に好きなものにはなりえなかった。

だからジャズボーカルと言うようなジャンルもそれほど感じない。それよりはフリージャズの方が断然好きだもの。別にダンス・ミュージックじゃなくていいんだ。岡本太郎じゃないけど「爆発だ」って言う、この年になってもそれは変わらないな。寝る前にアルバートアイラーとか阿部薫とか、今でも聴くからね。

その上に高山に仕込まれたビーチボーイズビーチボーイズは立派なガレージロックだからね。あと並木の持っていたストーンズやアニマルズ、そういうものは今でも本当に素晴らしいと思うんだ。

だけどそういう音楽体験とは全く裏腹な、現実の人生が複雑に交錯して、人間にとって一番多感な時期を、実に不安定な精神状態で過ごしたんだ。

それが1968年から1971年までの高校の3年間だった。今でもあの頃の光景は夢に出るものね。

歳のせいもあってあの時代のそういう話を最近とんと人前ではしなくなった。だって当時僕の髪を引っ張ってた教師と同じ位の、僕もそんな年齢だからね。

ところが不思議なことがあるもので久しぶりにこんな話をした途端に、昨日高校1年の時のクラスメイトからオフィス宛に突然メールが届いてね。

高校が数年前に創立百年を迎えた時、創立記念誌の編集に参加していた僕の代の元生徒会長は、学校側が今でも僕らの世代を学校史から消したいと考えていることに、とても悔しい思いをしたんだそうだ。その彼も昨年亡くなったとメールには記されていた。

【第3回 了】