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ヒストリーオブ山下達郎 第2回 中学時代 1965-1967

< 運命的だったブラスバンド入部/豊島区立高田中学へ通学 >
高田中学は去年(2002年)少子化のあおりで、統廃合されて名前が無くなっちゃった。あの当時は高校受験に有利なように、自分の学区じゃない遠くの中学に住民票を移してわざわざ通うというパターンが多かった。高田中学は豊島区では一番の進学校だったから、そこに行かされたの。
そこで、小学校の時に音楽の先生と出会ったのに続く、第2のターニングポイントがあったんだよ。クラブを決める、科学クラブか、ブラバンでドラムを叩くか。鼓笛隊以来、ドラムにはかなり興味はあったからね。
でも、はじめは科学にしようと思ってたんだ。その頃の夢は天文学者だったからね、どこかの天文台の職員、そういう仕事をしたいと思って。ホームルームの時間に、入りたいクラブの申し込み用紙に、科学クラブって書いた。で、僕の前の列にブラスバンドって書いてた男子が2人いたの。その時の事は今でも鮮明に覚えているんだけど、こんなにいるんだったらと、席に戻って科学クラブを消してブラスバンドって書き直したの。で、クラブの会合があって行ってみたら、なんと僕のクラスでブラスバンドを希望していたのは、その2人だけ。僕を入れて3人。あの時科学クラブって書いてたら絶対僕は今この商売をやってなかったよ。そういうきっかけで、ブラスバンドに入ってドラムに夢中になっていった。
ブラスバンドで、ドラムの位置の前がトロンボーンで、一緒に入部してトロンボーン吹いていた高山と友達になった。彼こそが僕のポップスの先生で、彼のおかげで人生が狂っちゃったとも言える。その後、彼とは高校まで一緒に、アマチュアバンドをやった。あれから37年、彼はその後、医者になって、今も付き合いがある。小学校の鼓笛隊の時は、やってたのは普通の曲だったね。「八木節」とか「若い力」とか。オリンピックだったからね。笛とアコーディオンとパーカッションと、後はグロッケンをやる子が一人とか、そんな感じで。
それが、中学のブラスバンドでは本格的になって、高田中学のブラスバンド部は、結構大きかったから。ただ豊島区には豊島十中という、ものすごく強力なブラスバンド部があって、全国トップクラスで、お金のかけ方が全然違った。OBや父兄の応援もすごくてね。それこそ学校ぐるみで力を入れてたからね。
それでも高田中学のブラバンも結構大きくて、人数もたくさんいたよ。ドラムは僕が入ったときには4人いた。よく来るOBが上手で、その人にみっちり基礎を教えてもらった。だから、かなり上手くなったよ。中学3年の頃には、音大の入試問題がそこそこできるくらいまでになったんだ。本当にドラム夢中でね、いつも学生服のポケットにスティックを入れて、黒板を叩いたり、机を叩いたりしていると、教師にどやされるの。そういう感じだったな。ブラバンの弾く楽器は自己申告制。僕はドラムしか興味なかった。だから、もうひたすら練習で。
最初は太いスティックを持たされて机に雑巾を置いて基礎練習を延々やらされるの。一日やっていると、指の皮がむけて血が出てくる。それに耐えて叩き続けていると、やがて肌が角質化して、そのうち破れなくなる。そこまでやらないとダメだ、と言われて。後は金属の重いスティックを使ったり、星飛雄馬じゃないけど、ひたすら練習しまくった。練習は楽しかったよ。だって成果がちゃんと出てくるからね。
   
<中学生の時にエレキバンドも始めた>
進学校だったので、中学は頭の良い子がたくさんいたから、小学校の時とは全然違って、なかなか成績が上がらない。当時の東京の公立エリート校ということで、遠い子は川崎あたりから通って来てた。一学年で8〜9クラス、すごく人数も多かった。僕はその時は練馬に越していたけど、仲の良かったトロンボーンの高山は護国寺で、部長は僕と同じ東上線の志木、後から友人になる並木も成増、みんな越境して通って来てた。友達は中一のはじめ頃は割と質実剛健というか、商店の息子とか、警察官の子とか。それがトロンボーンやっていた高山は医者の息子で、その後に仲が良くなった並木は体操がものすごく上手くて、小学生の時は大会で入賞するくらいだったんだけど、彼は地主の息子だった。
その2人とは今でも親密な関係で、毎年正月には会うんだけど、この2人が僕には最も古い友人なんだよ。中学時代の友人が、今でも続いている稀有なパターン。高山は本当によくポップスのことを知っててさ。並木は順当なところで、ビートルズストーンズ、アニマルズとブリティッシュロックのファンで。
並木がエレキギターやアンプを持ってたんで、彼の家に遊びに行ってジャカジャカやっているうちに、僕と並木と高山と、あともう1人入れてバンドを作ろうってことになるのが、中学の2年くらいだね。そうするとそれまで質実剛健から、だんだん交友関係が派手に見えてきて、それをお袋が嫌がってね。エレキバンドっていう言葉だけで、親は拒否反応を起こす時代だったからね。そしたら、これも運命の皮肉っていうか、それまでは全員違うクラスだったのが、中学3年生の時に4人が全員同じクラスになった。これで完全に火がついちゃった。
1967年、中学3年の時、池袋の三越の屋上でこの4人でライブをやった。高田中学のブラスバンドは、毎年夏に、池袋の三越の屋上で演奏してたんだ。ブラバンの顧問の音楽の先生がちょっとユニークな人で、僕ら下手なエレキバンドを妙に気にいってさ。昼休みに何かやるとか言って、学校の校庭で演奏させるわけ。演奏と言ったって、1台のアンプにギターとベースをつないで、後は譜面台にシンバルを下げて、スネアをチチタタやってただけなんだけど。それでブラバンが池袋三越デパートでやるときに「お前らも何か演奏しろ」っていうの。ブラバン演奏の合間に出て。
その後には、新宿小田急デパートでも同じことをやらされた。その時は動物愛護週間にちなんだ催しで「忠犬チビ公の歌」ってハチ公の二代目みたいな犬の歌があってね。それは本来ブラバンで演奏すべきものなのに、お前らが歌えって言うわけ。当時ブラバンのメンバーに、GSのパープルシャドウズのドラマーの妹がいて、彼女を通じてドラムセットを貸してもらったりして、大変だったんだよね。どうやら吹奏楽連盟の催しはギャラが出てたらしくて、ブラバンって楽器や人員の輸送費がかさむじゃない、だからバンド5人だったら経費が浮いて実入りがいいと思ったらしいの。でも僕たちはギャラをもらって嬉しくて友達と15人ぐらいで小田急の食堂で全部食べちゃった。そしたらその先生怒っちゃってさ。
だけどあの先生あの時代にしちゃ相当変わってたよね。ロックバンドなんて学校は風紀上好ましくないって言うんだけど、その先生は割と学校で力があって、そんなの関係ないと突っぱねてくれたの。だからどんどん背中を押される感じでね。
だから中学の時はブラスバンドとバンド。今にして思えばブラバンでマーチ(行進曲)とラテンでしょ。特にラテンの曲をさんざんやった事は大きいな。実践的とは言えドラムとパーカッションについての楽器法的な知識がすごく培われて、今でも自分の大きな財産になっているね。練習したもの。
勉強は進学校で頭の良い子が多いから全然歯が立たない。その上、僕が中学入った年に学校群制度が発表されて中二から実施された。学校群制度は高校の格差をなくすという名目でいくつかの高校をまとめて、グループ化して、受験の合格者を機械的に配分していく、おかしな制度だったんだ。それまでは都立高校の受験は、志望校別の一発勝負。足切りの最低得点さえクリアしていれば、どこかの高校に入れたの。要するに試験の点数さえよければ、どこでも入れたの。それが内申書重視にいきなりなって、普段の学校の成績が内申書に反映されるから、ただでさえ頭の良い連中がそこでみんな頑張って、どちらかと言えば、僕は一発勝負に強かったから、ほんとに大変だった。すごくアンフェアだと思ったんだけど、制度だからどうにもならない。まぁなんとかギリギリ滑り込んで竹早高校に入ったわけ。

      

<練馬に引っ越した頃からひたすら音楽の毎日になった>
中学1年の時に引っ越し。これは親がお店をやるとなって。親父曰く、どんな商店でもよかったんだけど、いろいろ考えてお菓子屋にしたって言うんだよね。最初はお袋が一人でやっていて、僕が高校を卒業する頃になって親父が加わって、二人で店をやるようになったの。
数年間を共働きで働いた後に、親父は元から勤め人より自営業の方が合っていたから、何年かかけての計画的な行動だった。何しろ、僕が高校出る頃までに親父にしつこく言われたのは「絶対に勤め人にはなるな」と。「どんなことでも一国一城の主にならなきゃダメだ」って。それも一種のサブリミナルだよね。だから、僕は自由業になるべく生まれてきたようなもんで、世が世なら中小企業のオヤジかもしれなかったんだよね。
練馬という場所は単にいくつも物件を見て、そこが一番いいって判断したんだ。小さな店だったけど、高度成長期が始まる頃に引っ越して商売を始めたから、時代も良くて何とか成立したんだよね。今と違って、練馬はまだたくさん畑があって田舎でね、お袋が泣いてたもの、こんな田舎に越してって。練馬の自衛隊駐屯地のそばだった。ちょうど環八の端。当時は富士街道と言って、環八予定線が川越街道のところで終わって、そこから先がなかった。反対側に行くと新青梅街道につながるっていう。今はもう広くなって全然変わっているけど。

猫の額みたいな小さな家だったけど、僕も自分の部屋を初めて持って。それまではかなりの貧乏暮らしだったからね。その分一生懸命勉強したんだけど、練馬に越して、だんだん暮らし向きが良くなるにつれて勉強しなくなったw。
音楽、音楽、ひたすら音楽。中学の後半からは成増の並木の家に入り浸ってバンド三昧になるんだけど、並木のお母さんがね、今日山下達郎がミュージシャンとしてあるのは、ひとえに彼女のおかげだと言ってもいいくらい、とにかくお世話になったんだ。
家の離れがいつも開放されていて、そこに行けば音楽を一日中聴いて、かつ歌っていることができた。あそこがなければ、今の僕はなかった。高校で学生運動や何やらあっても、グレずに済んだのは、心が逃げ込める場があったのが、何よりも大きかった。並木のお母さんは、細かいことには一切干渉せずに、我々の面倒を見てくれた。大きな家だったから、大きな冷蔵庫があって開けると、何でも詰まってるんだよ。
電子レンジも何も、皆そこで見るのが最初だった。ピザだの置いてあるのが食べ放題で、食べ盛りが3、4人で泊まり込んで、冷蔵庫が2 、3日で空になるのね。もう毎週日曜日はそこだった。
中学へは電車通学。家から東武東上線東武練馬駅まで歩いて15分。そこから池袋まで世界で一番混むと言われてた東武東上線で、20分弱。凄まじい満員電車でね。で、池袋からトロリーバスに乗って、学習院下まで行く。帰りは目白の学校から池袋まで、明治通りを歩いて帰るんだけどね。で、池袋のヤマハに寄って、西武デパートの赤木屋のプレイガイドに寄って、という。

中学に入って、最初に買った楽器はウクレレ。ギターより安かったから。ウクレレを弾いているとギターのコードフォームが同じだから、そうすると「サティスファクション」とか、そういう曲をギターで弾くとどうなるだろうかと考えて、それを学校の帰りにヤマハに行って練習するんだよ。お店に陳列してあるギターを使って。みんなそうでしょw

で、中一のお年玉でガットギターを買ったの。池袋西口のレコード兼楽器店で。当時フォークギター、エレキギターはとにかく高くて買えなかった。エレキなんて、本当に金持ちの坊ちゃんの専売特許だったから。だから加山雄三さんであり、ランチャーズであり。エレキギターなんて、普通の家では音出せなかったもの、音がでかくて。僕が初めてエレキに触ったのも、並木の家だった。ギターは完全に遊びだったけど、ドラムはエレキ以上に高いし、場所は取るし、とても手が届かない。だからせめてスティックだけはって、ベンチャーズのメル・テイラーが使ってると言われてたラディックの7Aを持ってね。スネークウッド、縞々なんだけど、今は作られていない。そのスティックで叩いてた、ナイーブだよねw
中学校1年の夏だから1965年。テレビで「勝ち抜きエレキ合戦」をやっててそれを見てたら「クルーエル・シー」って曲をやってるバンドがいて、これがすごくいい曲だったんだよね。それからしばらくして、ラジオでベンチャーズの特集があったんだよ。65年は「ベンチャーズ・イン・ジャパン」が出た年で、ちょうどベンチャーズブームが爆発してた。中学1年のクラスメートに劇団の子役をやっている子がいてね。あまり学校に来なかったんだけど、その子がやっぱりベンチャーズが好きだった。それからブラバンの先輩でクラリネットを吹いていた人がやっぱりベンチャーズが好きでさ、その先輩と2人でベンチャーズを初めて見に行ったの。
生まれて初めて買ったレコードが「クルエル・シー」と「逃亡者」と「ムーンドーグ」と「ラップシティー」の4曲入りのコンパクト盤ね。それもやっぱり方林堂で。生まれて初めて買ったアルバムが「ベンチャーズ・イン・スペース」、ベンチャーズ宇宙へ行く、でしょ。やっぱり星が好きだから、ただそれだけで。まだその頃はリンクしていたんだよ、微妙に。

ベンチャーズはグルーヴが素晴らしかったんだろうな。やっぱりロックンロールだったんだよね。彼らにノックアウトされてエレキに夢中になっていくの。ベンチャーズ以外ならエレキインストものではアトランティックスの「ボンボラ」。これもコンパクト盤で、これが2枚目に買ったレコードだね。当時は今とは違ってレコードは高嶺の花だったから、そうたくさんは買えなかった。加山雄三さんとかブルージーンズの「津軽じょんがら節」とかは、もう少し後だね。
小学生の時は「ザ・ヒットパレード」だけど僕には三波春夫さんの方が上だった、「東京五輪音頭」や「俵屋玄蕃」が小学6年の時で、あれがとにかく好きで。時に元禄十五年〜ってやってたからね。あとあの頃の歌謡ヒット、西郷光彦「君だけを」、中村ハ大関係の坂本九岸洋子あたり、後はオリジナルジャニーズ。だけど、それはそれほど邦楽は知らなかったな。洋楽のカバーものの方がよく聞いていたね。後は映画音楽だよね。
映画は小学校の時にさんざん見たからね。池袋って映画館の宝庫だから。7歳まで無料なのかな。親父もお袋も映画ばかり見ていた。リオブラボー7回見たもの。親父と4回、お袋と3回。池袋東急とか、池袋劇場とかの封切館は高いから、ひたすら文芸坐文芸坐地下、日本館、世界館、シネマセレサ、シネマロサ、日勝地下、そういう二本立てのニ番館や名画座だったよ。映画は洋、邦問わず片っ端から見たよね。「月光仮面」から「伊賀の影丸」まで。
伊賀の影丸」は松方弘樹が主演だったけど、最悪の映画だったw 少年サンデーに連載されていた漫画の映画化なんだけど。最後に宿敵の天野邪鬼と水中で決闘するんだけどさ。松方弘樹が水の中から出てきて「影丸、首尾は?」「逃した。だが必ず殺る」なんだよ、それって感じw 続編作るつもりだった? でもそんな終わり方無いよね。
だから映画音楽には悔しかったよ。「ライフルと愛馬」とかさ、小学校入るか入らないかの時に木琴で弾けたもの。そういう洋楽的な背景は、あの頃誰にでもあったから。でもなんでベンチャーズだったのかな、だけど誰に教えられたとか、誰かの真似して好きになったとかじゃなくって、ラジオを聴いてガビーンときたんだよ。あの時代は僕に限らずみんなベンチャーズだったからね。

  

<中古レコード屋さんを知ったのも中学時代>
1966年になると高山の影響が出てチャート番組を聞くようになるの。小島正雄さんがDJをしていた「9,500万人のポピュラーリクエスト」、あれが最初に聞いたチャート番組かな。後はS盤アワーとか、P盤アワーとか当時お馴染みの路線ね。そこから始まって「ミュージックライフ」にひと月遅れのアメリカの業界紙キャッシュボックスのヒットチャートが載っていて、そこからだんだんエスカレートして、ついにはFEN一辺倒になるんだよ。
ベンチャーズのコンサートプログラムの影響が大きかったんだよ。プログラムにはベンチャーズの楽曲リストが載っていて、それを見ると曲の作曲者が書いてあってさ、これを作っているのはどういう人なんだろうと興味が出てきた。「ノックミーアウト」と言うアルバムは亀渕昭信さんが解説を書いてたんだけど、♪OH PRETTY WOMANはRoy Orbisonのヒット曲だと書いてあった。それで目白駅からちょっと落合のほうに歩いたところに、目白堂ってレコード屋さんがあって、そこには立派な視聴室があってしかも1割引なんだよ。そこに行ってロイ・オービソンのOH PRETTY WOMANくださいって言ったら、ロイ・オービソンは全部廃盤ですって言われたの、中学1年の冬。
で、中学2年になった春のある日に池袋パルコ、いや丸物(まるぶつ)デパートだった時代かなあ〜その地下でジャケットに穴が空いてるシングル版を100円で売ってたの。それを何気なしに見てたらさ、ロイ・オービソンがあった。♪つむじ風に乗ってBorn on the Windowって言う。これが生まれて初めて買ったロイ・オービソンのシングルだったの。その後穴あきシングル盤セールっていうのは東武デパートとかいろんなとこであって、100円だから結構揃ってきたんだけど、ロイオービソンのシングルは全部写真が同じだったんだよね。そのうちに高校に入る頃には水道橋あたりに行くと中古レコード屋さんがあるっていうことがわかってくるの。
穴あきジャケットのシングルって多分在庫の返品処分だと思うんだけどね。ジャケットに小さなが穴が開いている以外は新品と変わらなかったんだ。当時はよくそうやって廃盤シングルが売られていた。
レコード屋さんのことで今でもでも覚えているのは、並木はビートルズのファンでPaperback Writerの発売日に池袋西武デパート5階のレコード売り場に買いに行ったら、午後2時位でまだ品物が届いてなかったの。で、店員が「もうちょっとで来るんだけどなあ。そしたらじゃあ君にこれあげるよ」って白盤(見本盤)をもらって帰ってね、得したなぁって、それはよく覚えているよ。その頃には、並木も高山の影響をすごく受けるようになってきて、ビーチボーイズのことも僕らは高山から教えてもらった。
そうそう66年の中学2年の時に、高山と数寄屋橋のハンターに行って、彼は寺内タケシのレコードを売って「ペットサウンズ」を買ったの。ちょうど発売されたばかりの時で、それでペットサウンズを借りて聞いたけど、何が何だか全然わからなくて「なんだこれは」って2人で言ってた。
この頃のトップ40はビートルズは「リボルバー」、モータウンもひとしきり来てたけどオーティス・レディングは日本ではまだ。あとはモンキーズ、ママスアンドパパス、バーズとかのフォークロックとか、そういう時代だね。67年はロックヒストリーではエポックで、ジェファーソン・エアプレインの「Somebody to Love」でしょ。ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」でしょ。あとドアーズとかがどっと出てくる時代だから、その前夜。ラスカルズの「グルーヴィン」も67年だから。
フォークではボブディランは曲はともかく、最初は歌い方についていけなかった。なんでこんな蓄膿症みたいな声で歌うんだって思って。サイモン&ガーファンクルはサウンドオブサイレンスでヒットしてから聴いてたから、あの辺はリアルタイムだった。それでだんだんベンチャーズを聴かなくなって、いわゆるトップ40の世界に行くんだけど。
結局ベンチャーズが演奏していた曲が入り口になって、要するに歌のない歌謡曲だからね、あれは。

ベンチャーズが入り口で本当に良かったと思う。おかげでドラムにも狂ったしね。
【第2回 了】