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ヒストリーオブ山下達郎 第10回 1973.9.21はっぴいえんど解散コンサート

長門くんが僕を大滝さんのところに連れて行った背景を初めて知ったよ>
長門くんのインタビューを読んで、彼が僕を大滝さんのところに連れて行った背景を初めて知ったよ。彼は意外と戦術家だったということが分かった。もうちょっとナイーブな感じかなと思ったら、意外と上昇志向があったんだね。
何より彼の、あの時代の「はっぴいえんど」というグループの影響力の大きさを利用して、シュガー・ベイブを世に出そうという考え方は正解だったよね。
当時の新人バンドは、普通だったらチューリップを売り出していた「シンコー・ミュージック」に売り込みに行くとか、ポプコンやってたヤマハのオーディションを受けるとか、そういうもんだよね。長門くんはそれをしないで大滝さんに直に開いに行こうっていう、それは実に音楽的なアプローチで、営業的なアプローチじゃない。それがその後の僕たちにとっては、とても良かった。
他からの引き合いは有ったんだよ、いくつも。徳ちゃん(徳武弘文)の関係でラジオ関東のディレクターが声をかけて来たり、山本コウタローさんの事務所(ユイ音楽工房)が誘ってくれたり。だから一歩間違えば、半端なポップグループになった可能性は有ったんだよね。変なディレクターにいじられてさ。
まあ、それだったらケンカしてすぐ辞めただろうけどね。下手にメジャーなレコード会社に入って、スタジオで「歌詞変えろ」とか「ヘタだよね、この人たち」とか言いながら歌謡曲やってる連中を相手にやらされてたら、もうこの世のものじゃ無かっただろうね。
大滝さんに会いに行くまでの諸説? 
銀次が「ムーヴィン」でAdd Some〜聴いたって言ってるでしょ。あれにも長門くんが絡んでたんだね。その話も初めて聞いたけど、とにかくジャケに並木の住所と電話番号を書いてあったので、銀次が連絡して来たんだよ。
伊藤銀次という人はそれまで「ニューミュージック・マガジン」とかでしか知らなかった。僕はその時は会ってないんだけど「2枚欲しい」って言ってきた。で、1枚を大滝さんにあげたい、ということだったんだね。僕はそれ、完全に偶然の出来事だと思ってたけど長門くんとの関わりが有ったんだね。
それで長門くんから「大滝さんから連絡あった」と。でも、大滝さんも銀次からのご注進はあったけど、大して興味はなかったと思うんだ。単に聴いて、変な連中だな、と。
この前「レコードコレクターズ」にその辺のことを話してる大滝さんのインタビュー載ってたんだけど、その頃、大滝さんはココナツ・バンクを自分のバックにしていたけど、なんかイマイチ納得がいかなかったんだね。
要するにあの時は9・21のはっぴいえんど解散コンサートが決まっていて、それが細野さん、大滝さん、松本さんの分派構想じゃないけど、そういう意識があったんだよね。
あの時、キャラメルママを結成していた細野さんが最強と言われていたのね。僕は必ずしもそうは思わなかったけど、少なくともミュージシャンのまとめ方としては、細野さんが一番先行していたんだよね。で、僕の目からは松本さんはあまりやる気がなさそうに見えたし。
松本さんは矢野誠さんらとムーンライダースやってて、それに対して大滝さんは何とか互角に戦いたいという気持ちがあって、それでココナツバンクでやろうと思ったんだけど、それだけだとちょっと弱いと思ったのかな。
そこで大滝さんなりの政治戦略としてコーラスにこいつらを引っ張り込もうと。だから僕らもタイムリーというか、運が良かったんだよね。
福生にはクルマで行ったかどうか覚えてない。多分電車だと思う。長門くんと二人で。
で、大滝さんと三人で話した記憶はある。でも大滝さんは遠回しな人だからね、なかなか本題に入らない。一番最初の話題はおみやげだったの。例のエリー・グリーンウィッチのシングル盤ね。その話は今まで何回も言ってるけど。

 

<帰り際に「コーラスで参加してくれないか」と言われた>
一番最初に大滝詠一と言う人を認知したのは、もちろんはっぴいえんど時代。これもよく言ってきたけど、はっぴいえんどのアルバムで好きな作品は全て大滝さんの曲だったので、それなりのシンパシーはもってた。でも彼の音楽的背景とか、そういうところまでは知る由もなかった。
72年に「大瀧詠一」って言うソロアルバムが出たじゃない。僕はその年の暮れに初めてあのアルバムを聴いた。1曲目の「おもい」がアカペラで、変わった人だなぁと。
僕はまだあの頃はクリスタルズの♪ダドゥー・ロンロンとか、スペクターとか、そういう知識ってあまりなかったから、そこら辺も変なアルバムだなと思って。結構聴いたんだよね。
で、洋楽ファンだというのはわかった。その頃は大滝さんが一番好きなのがプレスリーだとか、そういう詳細までは知らなかったけど、でも最後が♪いかすぜ!この恋、だもんね。
あとスクリーン・ジェムスが好きだっていうのも噂で聞いていた。あのあたりのあるアメリカンポップスの作家が好きなんだと言う予備知識があったから、僕がたまたま持ってたエリー・グリーンウィッチのシングル盤を手土産に持っていって。そしたら結構インパクトがあったって言う。まだそういう時代だったから。
で、帰り際になって「今度実は解散コンサートやるんだけど、コーラスで参加してしてくれないか」って言われた。
おそらく大滝さんはAdd Some〜を聴いて、あれがシュガー・ベイブだと思ったんだよね。それは違うんだ、って事は言ったけれど、そんな事はどうでもいい、やってくれればいい、って言う。あまり深い事は考えてなかった。
そういう意味ではあの人は不思議な人だったよね。
あの時、僕が20歳だったから、あの人は25歳だね。そんなに世の中の経験があるわけでもないし。でも当時の年代で5歳上はかなり年上で。
はっぴいえんどは日本のロックの新たなブランドだと思ってたけど、よく考えれば、彼らも立派なサブカルチャーでね。世間一般の認知度って言う意味ではごく一部での認知でしかないわけ。
知られていたのは、あくまで我々の世代周辺でのことでね。それより上も下もなんだかよくわからないって世界だったんだよね。そういう時代だった。まぁそれで福生に通うようになった。
解散コンサート参加の返事はその場でした。「はい」って。長門くんが「やろう」って言って。それも結局、仕組まれたんだな。
でも、その直前ぐらいに矢野さんがスタジオで使ってくれたことが何回かあったから、コーラスの仕事は少しやってた。亀渕友香とかね。
そういうこともあったから、その延長の感覚で村松くんとター坊に声をかけたんだけど、その時はもう1人補強したほうがいいと思って、小宮やすゆうくんにも頼んで、4人でやったんだよね。それでもクレジットは「シュガー・ベイブ」ってなってた。「シュガー・ベイブ」としてやらしてくれって言ったのは、多分長門くんだと思うんだよ。名前を出すことに意味があると。
まぁ大滝さんにとっては誰が誰だかよくわかってないしね。大体大滝さんが初めてシュガー・ベイブを見るのはずっと後で、12月のファーストコンサートだからね。
大滝さんとしてははっぴいえんど解散コンサートの後、ココナツ・バンクのアルバムをレコーディングする予定だったけど、ココナツ・バンクが分解しちゃったんだよね。シュガーベイブのファーストコンサートのときにはもうココナツ・バンクはなかったように思うね。ココナツ・バンクってかなり恣意的なバンドだったし。ごまのはえを解体して再編成したバンドで。

  

<あの日のコーラスアレンジは僕が全て受け持って作った>
練習はまずは福生でやったのね。
あのコンサートでココナツ・バンクがやったのは♪日射病、♪無頼横丁、♪お早う眠り猫君、の3曲かな。それで大滝さんが出て♪三ツ矢サイダー、♪ココナッツホリデーだったかな。あと布谷文夫さんの♪冷たい女。それだけを、もうひたすら毎日練習していた。僕らが行くようになった頃には、アレンジも全て決まっていたしね。福生には村松くんのクルマや電車で行った。
大滝さんには僕らは何も言われなかったよ。コーラスは勝手に作って、って感じだったし。実際あの日のコーラス・セクションのアレンジは僕がすべて受け持って作ったもの。
あの時の大滝さんは、とにかく「キャラメルママ」にだけは負けたくないって言う気持ちがあったんだと思う。だからいきなりCMのフィルムで始めてみたり、演出もかなり工夫していたよね。みんな必死だった。だから、えも言われぬ緊張感があった。
だけど僕は何も言われてないし、知らないから、勝手にコーラスを「あーでもない、こーでもない」ってやっただけなの。
本当はね、あの時にココナツ・バンクが演奏する予定だった曲がもう1曲あったの。スパイダースの♪あの時君は若かった、を16ビートにしたやつ。でも、あの日はかまやつひろしさんが司会で出てたので、直前になって演奏曲目から外したの。
司会はかまやつさんと亀渕昭信さんだったけど♪あの時君は若かったを元ネタの♪Fools Rush Inと全く同じメロディーで歌うと言う、いかにも、と言う、ひねった着想でアレンジもよかったんだけど。でもそれで、もしおちょくった感じに受け取られたら、と言うのを恐れて、やめたんだと思うよ。
僕は大滝さんには、音楽的な意味でなんだかんだって言われた事はそれ以降も一度もない。シュガーベイブの時にアレンジの細かい部分をこうしろとか、この曲のこの部分を16ビートにしろとか、そういうチマチマしたことでもめた事はあるけど。でも僕自身がやっていること、音楽それ自体に対して、それはそうじゃないとか、曲をあーしろとか言われた事は無い。
一番もめたのは「SONGS」のシングル選定。大滝さんは♪雨は手のひらにいっぱいをシングルにしたいって考えてたから。あとは大滝さんの一流のすごく変な替え方、♪SHOWの間奏とか、そういう細かい問題はたくさんあったけど、基本的に文句はそんなにない。そういう意味では、大滝さんの音楽の起承転結のツボとかは、僕とほとんど変わらないからね。だってルーツが同じだもの。
あえて言えばね、大滝さんは厳密な意味でのミュージシャンじゃないから、あの人のイメージを音楽の形に具現化できる能力を持った人と組むと、すごい良い結果になるの。でも、それが具現化できない人だとかなり難航したり、もめたりするんだよ。
つまり大滝さんが言ってることを、どう音楽化しようか、と考えられる人だったら、すごくいいアイデアに思えるの。
例えばね、大滝さんは自分のアルバムを作る時ですら、ブラスのフレーズなんかは口伝えで、それをこちらが譜面に書いていくわけ。その時に大滝さんが言った通りにすると、演奏技術的に吹けないことがあるの。
そういうときには、それを吹けるように変えてあげなきゃいけない。その時に大滝さんが何をやりたいかを把握して、そこを生かして脚色すれば、そこで変えたことに対してはそんなに意識しない人なの。
アルバム「ナイアガラ・ムーン」のブラスとかストリングスも僕がやったけど、大滝さんからは何のクレームもなかったよ。だって「ロシアから愛を込めて」にしろって言うんだもの。なんでこれがそうなるかな、と思ったけどね。
僕はそんなにストリングスの知識がなかったから、クラシックのスコアいくつかと、後はヘンリー・マンシーニの譜面を引っ張り出して、考えたんだよね。あんなこと、二度とやれないけど。

  

<ココナツ・ホリデイだけはコーラスを取り直してる>
解散コンサート当日のリハーサルはドタバタしていてあまり記憶がない。
それより、通しリハーサルの方が記憶がはっきりしているよ。あれは確か本番の数日前、新宿の「ヤマハ音楽センター」でやったんだ。
結構大きな部屋の真ん中に、楽器のセットが置いてあってね。壁伝いに椅子が並べてあって、そこにみんな座っている。で、確か出演順通りに演奏やったから、キャラメルママが最初だったのかな。
その時のキャラメルママはその場に来ている風都市関係者にとっては、もうカルト的な崇拝の対象みたいなところがあったんだね。キャラメルママの演奏が1曲終わるごとに「ふう」って言うため息に近い声が出るわけ、部屋中で。ちょうど僕の隣に座ってた銀次が、僕の耳元で「すごいよね」って言うから、僕は「どこがそんなにすごいの? これ要するにリズムパターンの連続じゃない? これから先はどうなるわけ? 歌はないの?」って聞き返した。小さな声で話したつもりだったんだけど、みんなシーンとしてるからさぁ、聞こえちゃってるわけよw
それで、細野さんが僕に「怪気炎」てあだ名をつけたんだよ。なんだあいつは、って。そのあと細野さんが大滝さんところに行って「お前にそっくりな奴がいるね」って言ったんだって。
でもキャラメルママに関しては正直そういう感想だった。
演奏が上手いのはわかるけど、何回も言っているように僕らはバリバリの洋楽オタクだったから、演奏技術で言えばジャズの方がもっと上手いし、表現力も全然違うでしょ。やっぱりロックンロールっていうかそういう音楽の場合、歌のないインストのみで成立させようと思ったら、かなりのオリジナリティーを要求されるからね。そういう観点で言うと、キャラメルママって確かに演奏力はあったけど、銀次に言ったように「パターンが繰り返されるその先はどうなるの? どんな歌が乗るの?」って感じで、何て言うのかな、歌伴のカラオケみたいに聞こえたんで、あんまりグッとこなかったんだよ。
そういうことで言えば、むしろ「はちみつぱい」なんかの方がよっぽど個性があるっていうかさ。そういう感じがしてた。
今でもキャラメルママに関しては同じ印象だな。ただ、今まで自分が知らないプロの音楽のやり方っていうか、そういうものが見れたと言うのは勉強になったよね。
僕は覚えていないんだけど、当日リハの時もさ、ステージ下手(舞台向かって左側)にハモンドオルガンが置いてあったの、僕がステージに上がって「おお、いっちょまえにハモンド置いてあるじゃない」って言ったんだって。マンタ(松任谷正隆)がリハしてたら僕が上がってきて、そう言ったんで「なんだコイツ」って思ったって。本当にツッパってたんだよ、あの頃はw
ステージ本番は平気だったよ。僕自身ライブはアマチュア時代からある程度はやってたからね。だから別にアガりもしなかったし。そうそう、あの時はマイクの調子が悪くて♪ココナツ・ホリデイの音が脱落したの。
だから、あのライブレコードでは♪ココナツ・ホリデイだけはコーラス録り直されたものなの。後の曲はそのままだけどね。
録り直しは渋谷「ジャンジャン」の下の階にあった吉野金次(9・21録音エンジニア)さんの個人スタジオ「ヒットスタジオ」でやったの。
フルパワーでスタジオで歌ったら「それじゃあ音が歪むよ」って言われた。ガキだったよな、20歳だもん。スタジオなんてあまり行ったことがなかったから張り切っちゃって、3テイク目位で声が出なくなっちゃった。
ブースの中には音を吸い取るためのパラシュートが広げてあった。でも、あのスタジオは当時としたら革新的だったよね。ジャンジャンのステージで演奏した音が、その下のスタジオで録音できるようにラインが引いてあったり。よくあんなの作ったよね。吉野さんは偉いよね。

  

<青山タワーホールのファーストコンサートは必死だった>
1973・9・21が終わって大滝さんは♪サイダー‘74のレコーディングに入ったんだけど、大滝さんに来てくれって言われて、僕はそこにべったりいたんだよ。
で、コーラスやった後にも色んなことをやってる。僕はお調子者だから、やたらと口を出してさぁ、ギロ(打楽器)はこういう風にやったほうがいいとか、メレンゲ(ラテンリズムの一種)がどうしたとか、いろんなこと言ってたわけ。
大滝さんはその頃ナイアガラレーベルを立ち上げようとしてたんだけどココナツバンクが解散しちゃったこともあって駒がないんで、シュガー・ベイブに目をつけたんだろうね。
で、その時にはさっきも言ったみたいに、シュガー・ベイブにはいくつか引き合いがあって、ユイの関係者とかも結構誘ってくれていたのね。だけど僕らは興味がなかったし、長門くんはやっぱりどうしても風都市に行きたかったんだね。
それで秋は、山本コウタローさんがいくつか文化祭の仕事に誘ってくれたの、跡見女子大とか。それとは別に長門くんのラインで明治学院とかね。そうだ思い出してきたぞ。
で、文化祭をやって、スタジオちょっとだけやって、それでファーストコンサートをやろうって長門くんが言って、青山タワーホールを押さえて、12月17日かな。その時には風都市に入って、ナイアガラをやるって言うことになってたんだよね。
青山タワーホールでのファーストコンサートは必死だった。大滝さんだけじゃなくて、それこそ業界の人が結構いたからね。「ニューミュージック・マガジン」のレビューにも載ったし。北中正和さんが書いてくれた。でもそれも長門くんとしては予定の行動でしょう。
はっぴいえんど解散コンサートでシュガー・ベイブって言う名前を出して、ファーストコンサートでメディアを呼んで。でもあの時のお客さんはどれくらい入ったんだろう。満員じゃなかったね。青山タワーホールってキャパ450人ぐらいで半分位だったかな。
あれはまだお金のない時代だから、並木の家でリハをやったのかな。
風都市に入った74年からは新宿の音楽センターを使い合わせてもらえるようになったから。並木の家も周囲にかなり建物が増えてきて、練習もずいぶん気を使いながらやってた。でもなんだかんだで1年近くシュガー・ベイブの練習をやらせてもらったから、ありがたかったよね。
ファーストコンサートはさすがに鮮明に記憶に残っているよ。たいした曲数じゃないんだよ、まだレパートリーが少なくてさ。自分のオリジナルだけじゃ持たなかったから、3曲は小宮くんだし、ター坊が2曲。
ファーストコンサートは成功と言っていいのかなあ。北中さんは割と好意的に書いてくれたよ。まぁあの時代だからね。正直言って、今自分であの時の音を聞き直してみると、まだ全然形が決まってないね。本当の意味で形が決まり始めるのは「SONGS」のレコーディング始まってからじゃないかな。
このファーストコンサートのために書いたのが、前回話した♪SHOWなんだよね。ステージで1曲目に歌う曲を作ろうと思って。
【第10回 了】