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ヒストリーオブ山下達郎 外伝3 大貫妙子インタビュー

<矢野さんが来たために三輪車は壊れてしまったのw>

シュガー・ベイブ以前は、私と男性二人で「三輪車」というフォークグループをやっていて、その三人でデビュー予定だったんです。

その頃私は御茶美(お茶の水美術学院)に通っていたの。音楽は小さい頃から好きで、ギターも弾いていたけどあくまで趣味だったし。美術の方に進もうと思ってたのね。御茶美は受験するための学校だから、ものすごい競争なんですよ。課題がすごくて、1週間休んだらもうついていけなくなっちゃう。毎日デッサンの日々で、巨大な画板を持って中央線で。ラッシュだから画板を頭の上に抱えながら、そのうち肩こりになって腕が上がらなくなって、デッサンができなくなったの。それで赤外線治療に通うようになって、リハビリをしている間に、これはもうついていけないと、学校行かなくなったんですよ。

牽引機って首のところにベルトをかけて引っ張り上げるんだけれど、あんなもの今は無いよねw まぁそういうことを続けて、いつの間にかだいぶ良くなって。何もしないわけにはいかないから、手っ取り早く喫茶店でアルバイトを始めたんです。

五反田の「緑園」と言う、昼間は労働者がずっと新聞を読んでるようなw 3階まであって、2階にちっちゃいブースみたいなのがあって、そこにマイクとかあるんですよ。そこでレコードをかけたりしてたのかな。有線とか無かったので。結構暇な時間もあって、それで店の子と「何やってんの?」「何もやってないけど音楽が好きで」なんて話をしてて「ギターなんかも弾くんだよ」って、歌もカヴァーとかしてたので。そしたら店長が「それならそこのブースで歌えば」ってw「ここで歌えばレコードをかけるのと同じじゃん」「午後の1、2時間やっていいよ」って。

一番お客さんがいない時に私としてはコーヒー運んでいるよりは歌っている方が楽しいわけ。同じバイト代もらうなら歌っている方がいいなと思ってwもうほんと若い頃って怖いものはないっていうか、恥ずかしいとか、こんなとこじゃ嫌とか思わない。それで歌ったの。結構迷惑だったと思うよお客さんはw

ギターの弾き語りでキャロルキングの♪It's too lateとかね。

でも同じ曲ばっかりやっているわけにいかないし。レパートリーを増やそうと思って楽曲集を買いに渋谷のヤマハに行ったんです。その頃は髪の毛が腰ぐらいまであって、マキシというのが流行ってた時代で、床から10センチ位の長さの真っ黒なベルベットのコートを着ていて、喫茶店の帰りだったからギターを持って。それは目立つよね。

その時2人の男の子が声をかけてきて「もしかして音楽やっている方ですか?」「アマチュアですけど」って。でも、ギター持ってなかったら声かけてこなかったと思うのね。ちょっとお話ししてもいいですか?「まぁいいわよ」みたいなw それで話したら彼らはフォークなんだけど2人でやっていて、バンドの中に女性ボーカルが入ると良いな、と思っていると。私は高校時代からアマチュアでいろんなバンドを掛け持ちでやっていたのね、他校の子と。だから、そういうのは結構慣れていて。

「僕たち実はワーナー・パイオニアってところにいて」「えー、レコード会社じゃん」とか思いながら「よかったら僕らのプロデューサーに紹介したので、いちど会ってください」って、そんな話あるわけないと思って最初は信用してなかったけど。でも、まあいいや、行ってみようと思って行ったら本当の話だった。で、大野和子さんとおっしゃる女性のプロデューサーの前で歌ったら気に入ってもらえて、3人でバンドを組むことになったんです。

曲は基本的にオリジナルで、私も書いたし、他のメンバーの書いた曲も歌ったけれど、あまり私の趣味じゃなかったw そのバンドでいろいろなイベントにも出たんですよ。当時2人だったオフコースとか、かぐや姫とか一緒に。ちょうど赤い鳥の♪竹田の子守唄が大ヒットした頃で、そういう和製フォークを目指していたらどうかと言われて。

私の声も、どっちかって言うときれいな声の方でしょ?憧れはジャニス・ジョプリンだったんですけどw それで北原白秋の詩に曲をつけて、歌ってみたりしていたんです。それで次にレコード・デビューをしようってことになって、音楽監督として矢野誠さんがいらしたわけです。

それが矢野さんとの初対面で、矢野さんが来る以前に、シングルを出すとなればやっぱり作品はプロに頼む、みたいな話にどうしてもなって、山川啓介さんが詩を書いてくださって、曲はメンバーの広瀬くんて言う人が書いたんですけど、ちょっと演歌っぽい曲で、えーこれでデビューするのって思って、ものすごく気が重かった。

そんな時に矢野さんが来て、いろいろ話してる間に、私が好きなものとか、私の歌詞とか、オリジナルの曲とか聴いてくれて「ター坊はこのバンドには合わないよ、もっといい連中がいるから、その子達に会ってみれば」って言うので、もう私、喉から手が出るくらい嬉しくって「そうします!」って。それでディスク・チャートに集まるメンバーと会うようになって結局バンドは自然消滅。矢野さんが来たために三輪車は壊れてしまったのw

 

<ディスク・チャートの頃がそれまでの人生で最高の日々だったと思うw>

初めてディスク・チャートに行った時ははっきり覚えていないんです。連れて行ってくれたのかな。なんか「夜みんなで時々セッションしてるんだよ」みたいな感じだったと思う。そこには今ではテレビのプロデューサーになった人とか、いろんな人が集まっていた。日野原さんとか。ギターの徳武くんや小宮くんとか。それで大貫妙子をソロデビューさせようと言うことになって、デモテープを作りましょうと毎晩みんなでやってたんです。店がハネてから朝まで。録音係を長門さんがやってくれて。その頃に録った楽曲が最初のソロアルバムに入ってる♪午后の休息なの。

曲作りは三輪車時代と多分あまり変わってないと思います。まぁ今の方が多少はあの頃よりもわかりやすくなっていると思うけれど。三輪車当時はメロディーが難しいって言われてたんです。でも矢野さんだけはいいって言ってくれたw

私は井の頭線沿線で生まれて育ったんで、テリトリーは吉祥寺と渋谷だったんです。そのどっちかにいつもいたわけ。高校時代からあまり友達がいなくて、自分と同じように考えたり自分と同じくらい音楽が好きな人間ていなかったんです。

それでつまらないからひとりで居たんです。ジャズ喫茶の「ファンキー」とか「メグ」とか、渋谷だったら「ブラックホーク」、そのどっちかにしょっちゅう行ってたわけ。音楽聴いている方が良かったし。まだヒッピーの時代だから70年初頭って。そういう系の人がいっぱいいたり、渋谷に東由多加さんの事務所があったりして、東京キッドブラザース、そこの事務所にも入り浸っていたの。

そっちは芝居系だから、音楽よりももっと深刻な感じなんだけど、ただそういう何か共有できる仲間が欲しかっただけ。私たちは学生運動の一番最後の世代で、そういうものに参加しているつもりもあって。難しい本だと思いながら授業中に「日本イデオロギー論」とか読んでいたから。先生に「あなた、なんでそんなの読んでるの?」とか言われて。「別にいいでしょ」って感じだった。嫌な生徒だと思われていたと思う。

本当はそういうところに入っていく時も、すごくドキドキしているのよ。ものすごく緊張しているんだけど顔には出さないというかw 今はそういうドキドキする場所はなくなってしまったけどw

ディスク・チャートには馴染めましたよ。だって、自分の好きな系統の音楽だし「ブラックホーク」とか言っても会話禁止だし。今思うと閉鎖的な感じでしたよね。だからディスクチャートの仲間はすごく楽しくて、多分あの時代、あの頃が、それまでの生きてきた中で人生最高の日々だったと思うw

ウェイトレスもしていたので毎日行ってましたね。でも、デモテープ録りは週一位だったと思う、多分。そこに山下くんが登場したわけです。山下くんのAdd Some Music To Your Dayはお店に飾っていたような気がします。山下くんが現れる前にはそのレコードは聴いてなかったですね。

 

<山下くんにバンドやりませんか?と言われたような気がする>

山下くんはおとなしかったです。遠巻きに観てたような感じ。積極的に参加するでもなく。

それである日、また朝方まで練習していて、もうやめようかって言う頃に、その辺にあった誰かのギターで、彼が弾き始めた記憶が。長門さんのインタビューを読むとギターしか弾いてないって書いてあるんだけど、私は歌ってた記憶があるのね、何かのカバーを。何の曲だったか、ちょっと忘れてしまったけれど。この人は「歌がうまい!」ってすごく強く印象に残っている。それから話をするようになって。でも、彼は私のデモテープ作りには参加しなかった。俺にもやらせて、とか言う人いるじゃない。そういう人も好きだけど、彼はその時全然そういうタイプじゃなかった。今ならいいそうですけどねw でも全然そんな感じじゃなくて、聞いているっていうか見ているっていうか。とにかくギターを持って、そこで歌っていた姿は強烈に覚えているけど、他の事はあまり思い出せない。クマみたいなあの歩き方で、ウロウロしてたのは見ているけどw

とにかく私は昔のことを右から左へ忘れてしまうので。

多分私と山下くんが話をするようになって「バンドやっぱりやりません?」って言われたような気がするんですよね。「ハーモニーもできるバンドをやりたい」って彼が言ったのを覚えてる。で、「そこに女性の声があると嬉しい」と、そんな話でした。「よかったらやりません?」みたいな。そしたら自分のより、そっちのほうが面白そうだなって、デモテープ作りもどこかに消えてなくなったw そのデモテープはいまだに残っているんだけれど、それはもう完成しないまま、どこかで終わっちゃって、私はシュガー・ベイブの方へ行っちゃった。

マチュア・バンドはいくつもやっていたし、バンドでやるのはすごく楽しい事は知っていたし。やっぱりバンドのほうがいいって気持ちがあったんです。山下くんて話すと、意外と強引というか熱心なんです。もちろん良い意味で。私たちの世代は学生運動の一番最後の世代なんだけど、オルグ(組織化)って言葉が残っていて、多分そういうことが上手な人なんだろうなと思いましたw

とりあえず練習場所どうするのって言ったら、並木さんて言う友達がいるから彼の家を使わせてもらおう、と言うことになったんです。「私、ギター弾くんです」って言ったら「あんたさぁ」って。

「あんた」と「ター坊」がいつも混ざってるんだけど「ピアノ弾けるんだよね?」「いや、ピアノは習っていたけど、いま家にはピアノがないし、もう何年も弾いてないから」と。「しかもクラシックピアノだから、CとかAマイナーとかの世界じゃない。コードネームとかわからないよ」って言ったら、「練習すればすぐ思い出すし、並木さんところにピアノはあるんだよ。古いやつだけど」みたいな感じでw

で、「ギターは3人もいらない」「女の子はピアノがいいんじゃない」って。女はピアノ弾き発言はそこから出たw。確かに3人でギターも変だって納得させられちゃった。それから紙のピアノの練習が始まるのよ。紙に鍵盤書いて、机に貼って、紙の上で練習して。それで三浦ピアノ、渋谷の宮益坂の。あそこに小さいピアノの練習部屋があって、そこ行って紙の上で練習したものを、音に出して弾いて覚えたの、次のリハーサルまでに。もう大変な努力ですよ。簡単に言うけど山下くんは。

私は努力家じゃないけど、やらなきゃならないでしょ。でも三浦ピアノのスタジオ代は自分で出してたから、バイトはしてるわけです。その間もずっと。でも好きな音楽の為だったから、嫌じゃなかった。だってピアノは小学校3年から弾いてなかったから。

でもおかげで譜面は読めたし、意外と思い出すのは早かったかな。一番の問題は、手が小さいので、右手がオクターブ届かないんです。ギリギリなの。特にフェンダーローズみたいに鍵盤のタッチが重いエレクトリックピアノは良い音が出ない。スカスカ。だから自分はピアノには向いてないと、自分の中で決めつけていたところがある。でもまぁ、できるところまではやろうと。

シュガー・ベイブ組んだのは私が20歳位の時なんですけど、それで親が20歳のお祝いを買ってくれると。それで「着物はいらないから電子ピアノ買って」とお願いして。で、ビートルズが使っていたホーナーの電子ピアノ買ってもらったの。それで、やっと紙のピアノともお別れできたんです。

その電子ピアノは、途中からPAの会社に預けたら、なくなっちゃって。でも何故か未だにピアノの足だけが家にあるw なんで足だけ取ってあるのか、わからないんだけど。すごく良い楽器だったの。鍵盤も軽いし。ただ、ちょっとチューニングが他の楽器と合わなくて、ステージではなかなか使えなかった。だからシュガー・ベイブのキーボードって言うと、ウーリッツァーって印象が自分の中にありますね。

 

シュガー・ベイブでは自分の表現なんて考えてもいなかった>

シュガーベイブは私の中では山下くんのバンドですね。彼がリーダーだったし、音楽の主導権を全て彼が握ってたわけじゃないけど、彼以上のアイディアを中々みんなが出さなかったのもあるし。私が書いた曲って、バンドではできないようなものが多かったんですよ。山下くんは曲を書く時に、サウンドを想定して書いてくるから形になりやすい。このバンドだったらこういう曲って、アレンジが頭の中で先行している。

私の場合は、ただメロディーを書いて、コレって言うとみんなで「ん〜」って考える。すごく時間がかかって色々やってみるんだけど、なかなか形にならない。で、ボツになったのもあるし。それに山下くんと私は、音楽の趣味が被るところもあるんですけど、違うところもあったし。例えばビーチボーイズとかって私はそんなに好きな方ではなかった。

シュガー・ベイブの中で自分の表現なんて考えてもいなかった。今、自分の目の前にあることをこなすだけで精一杯で。バンドの練習はよくしてましたね、仕事はないのにw

でも、その時が一番楽しかった。喧嘩もいっぱいしたけど。それにこの先このバンドで食べていこうなんてことも考えてないし、だから表現とかそんなこと以前の状況。とにかく次のライブがあるから、それまでに練習を一生懸命しよう、と。それでライブをやって、その録ってみたものを聴いたら、ものすごく下手で落ち込み、みたいな繰り返しですよw

それはデビュー後ももちろん。ソロになってからも「いや〜ひどい!」って、もうずっと続きましたね。

私、シュガー・ベイブ組むまでは、自分の歌がそんなに下手だとは思ってなかったんです。もうちょっと普通に、素直に歌ってたんです。でもシュガー・ベイブ組んでから、「ワーッ」って声出すようにしなきゃいけないのか、って、それが合ってなかったっていうか。だから、もうちょっとボソボソとした普通の細い声で歌っている分には、下手じゃないのにと思っていた私が、シュガー・ベイブになった途端にやっぱりものすごく歌が下手、そういう自分に出会って。そのコンプレックスばかり引きずりました。

山下くんが上手すぎたと言うのもあったけど。音楽っていうのは私だけじゃなくて、デビューしてくるみんなもそうだろうけど、自分が思い描いているようには完成しないんですよ。必ずどこかで自分を乗り越えなければならない時がある。あるいは新しい出会いで、自分を発見することもある。それは長く続けて振り返った時、初めて自分のやってきた道が見えるって言う。

だから私、一昨年に2枚組のアンソロジーを出したときに、やっと自分でやってきた事がそれで少し見えた程度なの。だから分かるわけないんですよ、シュガー・ベイブ時代なんて。

山下君は「僕はスタイルがあって音楽をやる。ター坊はアイデンティティで音楽を作る人間だから、曲なり、歌詞ありきだから、それをどうやって形にしていくかは組む相手によって違うし、探すのは大変だよね。だから変わっていくのは当然だし、それは君と僕との圧倒的な違いだね」て言ってましたけどね。

村松くんも良いポジションにいたんですよね。全員が東京出身で、東京って言うものの空気を閉じ込めていたところも大きいですよね。

とにかく私はほとんどステージの時は幕の中だったんで。ステージの横に幕があるじゃないですか、そこに入っちゃうわけ、ステージが狭いと。私の逆方向のお客さんにしか見えない。♪風の世界とか自分がエレピを弾く時だけ前出て行くだけだから、髪も長くて顔が半分隠れていて。

常にフロントに立っていた山下くんのように客席は見えていなかったので、どんなライブだったか印象が希薄なんです。

ステージはあまり好きじゃないと思います。今でも怖いですw

1993.9.21も、あの頃はルネ・シマールのコーラスもやっていたし、あまり覚えていません。はっぴいえんどを初めて見たのは三輪車の頃かな。すごくかっこいい音楽を作るグループだと思って見に行ったら、全員が下向いて演奏していて。その時の演奏が良くなくて、すごくがっかりしたのを覚えてますwどこかのホールでしたけど。とにかくメンバーは誰も前を見てる人がいない。大滝さんもポケットに手を突っ込んで、下向いて歌ってる感じ。でも風都市に入るって言う話になった時は、やっぱりはっぴいえんどの事務所って言うイメージがあったので嬉しかったけど、実現しなかったですね。

その後、山下洋輔さんの事務所にお世話になりましたが、シュガー・ベイブってやっぱりそういう方が合ってたかな、と、今思えば。その時代、ジャズの世界って何でもあり、無茶苦茶な話もいっぱい聞いてて、なんだかたくましくなった気がします。何か問題があっても「何とかなるよ、そんなの」って言うノリで、ほんと何とかしちゃうマネージャーだったし。

私たちはエスタブリッシュじゃないバンドだったから。

 

シュガー・ベイブを聞く人は山下君のルーツまで遡るべきですよね>

(73年夏の)長崎のシュガー・ベイブの初ライブは良かったですよ。長崎まで私と山下くんと、もうひとり、車に乗って行ったの。フェリーを使って。帰りにラムネを買って帰ってきたのは覚えてる。飲み口のところにビー玉が入ってる。長崎でそれを見て「懐かしい、こんなの東京で今どき売ってない」って1ケースか2ケース買って車の後ろの席に積むから、私の場所がなくなっちゃって、ものすごく帰りしんどかったの。ステージよりそんなことばかり覚えてるw 若い時は体力ありますよね。

亀淵友香さんのライブに遊びに行ったら、急にステージにあげられた…あった気がするそんなこと。山下くんは仕事のこと、よく覚えてるんですよね、びっくりするくらい。でも、私ほとんど覚えてないんです。

めんたんぴんと一緒になったりとか、金子マリバックスバニーと一緒だったりとか。そういう人たちがいたのは覚えてるんだけど、どこで演奏したのかは覚えてない。フロントにいる立場じゃなかったからか、後ろに引っ込んじゃってるからか。ホントに幕の中で隠れちゃう時もあったし。そういえば「あんたはゴキブリみたいにいつも隅っこにいるね」と山下くんに言われたことがあったw 好きで隅にいたわけでもないのに。

でも社交性はなかったですね、私は。

自分の曲をやるのがすごく嫌だったの。シュガー・ベイブの山下くんの曲って、かなり完成されていたんです。当然自分でアレンジしてるからだけど、私の曲も完成はしてるけど、どこかこのアレンジは違うと思いながらやっていた曲もあって。でも、それをどうすればもっと良くなるかがわからなかったし、多分それをするにはもっと高度な演奏が必要だった。それもできない自分がいて、だから自分の曲を歌う場面になると、今までの流れが壊れちゃうんじゃないかと、それがものすごく嫌だった。お客さんも退屈だろうな、私の歌なんかじゃ、とか思ってたもん自分でw

シュガー・ベイブはメンバーチェンジして、よりシェイプアップされた感じしましたけどね。それまではお友達バンドって感じだったけど。多少プロフェッショナルにやらなきゃいけないのかな、っていう気にはなりました。特にリズムセクションはすごく大事だから、アレンジの幅も広がりました。

他バンドとの比較? 聴けば分かるものね。リハーサルの時に他のバンド見るでしょ、めんたんぴんとかバックスバニーとか、うまいなぁ、私たち下手だなぁと思うわけです、心の中で。それは最後まで思ってました。

ただ、私たちは演奏が上手いとか、そういうことじゃないカラーを持ったバンドだと思っていましたから。実は結構難しいこともやってたんですよね、考えてみると。全部キメごとばかりだったし。

解散して、すぐにバンド組みたいって思ったんです。ソロってつまんないんですよ。やっぱり一緒にやってくれる仲間がいないと。でも結局1人で来ちゃった。バンドを作ろうとした気も何回かあったんですよ。でも人をまとめる才能がないんですね、きっと。ある意味マメでないと。それに私は演奏家ではないので、楽器を弾く人同士だとわりあい集まりやすいんですけど。でも幸運にも、その都度音楽パートナーとの出会いがあったので。

1994年シングス・シュガー・ベイブはできてよかった。その前にもシュガー・ベイブ再現のライブをやろうって言う話はあったんですけど。その頃みんなリユニオンとかしだして。でもそれで喜ぶのはほんとに一部の人で、その人が若い時に見た、心の中にあるシュガー・ベイブのままでいたほうがいいんじゃないかっていうのが私の考えだったんですね。

でもこの話が来た時は、これはシュガー・ベイブ再結成じゃないし、こういうのならいいよって。ずいぶん自分も大人になったと思いました。ステージもなんて堂々としているんだろう、ってwやってみて。

いま若い人が「SONGS」を聴いてくれていて。山下君が言っていましたけど「サブカルチャーはやっぱりサブカルチャーのまま、今はサブカルチャーがないから。僕たちみたいなサブカルチャーな音楽を新鮮に思うんじゃないかな」って。でも嬉しいですよね、30年も前なのに。

例えば、私の音楽のルーツはクラシックも含めて全部洋楽なんですよね。

シュガー・ベイブを聞く子達がシュガー・ベイブを経由して私たちが聞いてきた音楽のルーツまで遡ってくれると良いんですよね。

私たちの下のある世代って、日本の音楽を聴いて、そこで止まっちゃってるのね。自分たちが聴いている音楽家たちが何を聴いてきたかまでなかなか遡らない。私の頭を踏み台にして、その向こうにあるもののところまで行ってくれるといいんだけど。良い音楽がいっぱいあるから。

だからシュガー・ベイブを聞く人は山下くんのルーツまで遡るべきですよね。もちろん山下くんのコアなファンの中には、そういう方がいると思いますけど。シュガー・ベイブぽいバンドとか、コードが似てるとか、時々聞きますけども、私たちを真似するより、私たちが手本としてきた音楽を勉強したほうがいいと思いますw

ちなみに私のこの時代のステージ衣装って自分で作ったりしてました。フラワーチルドレンな時代でしたから。巻きスカートとかそういうの流行ってたんです、70年代は。ジーンズのスカートとか。だから一回りして、そんなに古くない感じだと思うんですけど。とっておけばよかったかなw

【外伝3 了】