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ヒストリーオブ山下達郎 第47回 94年4月発売、SONGSリマスター盤と”SINGS SUGAR BABE”

<”SINGS SUGAR BABE”というアイデアは以前からあった>
1994年1月にシングル「パレード」発売。これは「ポンキッキーズ」(フジテレビ)のエンディング・テーマになったので、シングル発売となった。この曲はシュガー・ベイブ時代のナンバーで『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』(1976)に収録されている。このシングルになったテイクは82年リミックス・ヴァージョン。このリミックスに関しては背景があって、アルバムに入っているオリジナルの「パレード」はイントロに長いピアノ・ソロ、エンディングにはサイケなSE。おまけに曲の始まりがフェード・イン。つまり、本編だけのストレートなテイクがなかったので、どこかでそれを作る必要があった。僕は80年代に初CD化された時のリミックスじゃなくて、オリジナル・ミックスの方が断然良かった。だから大瀧さんに頼んで、再度ミックスし直してもらったら、大滝さん、多分イメージを一新したかったんだろうけど、楽器の定位を変えたりして、バランスをいじっってしまった。「ダメ、それじゃ」って言ってw オリジナル・ミックスに限りなく近づけてもらった。この翌年に出たTREASURES(1995)にも収録されたこのテイクがベストミックスで、OPUS(2012)にも、このテイクが収録されている。
このタイアップやリリースに関して、僕は全く感知していなかったので、なんで「パレード」が「ポンキッキーズ」に使われることいなったのか、内情は何も知らない。おそらく版権がフジサンケイ系列だったから、その流れだと思う。当時は「ポンキッキーズ」からヒットがたくさん出ていたから。その「パレード」が、その後のSONGSのリマスターにつながるなんて全然考えてもいなかったし、そもそもSONGSには「パレード」は入っていない。今となっては、なぜあの時点でSONGSをリマスターしようと思ったのかも、あまりはっきりした記憶がない。一つの要素としては大滝さんが新作を出さないので、ナイアガラの作品をリサイクルして救済しよう、みたいなのもあったような。あと当時は、自分にとってリマスターがマイ・ブームだったから、リマスターできるものがあったら、何でもやってみたくてw SONGSは1975年4月にリリースされたから、この1994年は19周年。変なタイミングだけど、これについてはナイアガラ設立20周年という理由付けをしていた。リリースの背景にはそういう、いろいろなものがあった。
91年『ARTISAN』、92年『QUIET LIFE』、93年にクリスマス・アルバムも出して、自分のアルバムにはまだ早い。その上メンバーの都合とかもあって、ツアーができなくて、それで考えていたところにリイシューの話が出てきたので、どうせならついでにシュガー・ベイブの曲を演奏するライヴをやろうと。”SINGS SUGAR BABE”のアイデアは前からあった。ただ、青山純シュガー・ベイブの音に合わない。何度かトライをしたんだけど、全然、彼のキャラクターじゃなくて。シュガー・ベイブの再現なら島ちゃん(島村英二)かなと思って、じゃあその線でライヴをやろうとなった。ライヴ・ツアーができなくなって、どうしようかという時に、このコンセプトが出てきた。
まあこの時期は、それまで順調だったいろいろが狂いだして、長期戦略があまりたてられなかった。この93年には、MMGがイースト・ウエストジャパンに社名変更していて、レコード会社の状況は良かった。イースト・ウェストジャパンはワーナーグループの洋楽では、アトランティック・レコード等のレーベルを受け持っていて、当時はスノーとか、ミスター・ビッグとかのヒットが出ていて、そこにブルーハーツX JAPANも来て、邦楽も結構よかった。だから小杉さんも好きにしていいよ、って。
ARTISANから2年。アルバムが出せる状態じゃなかったけど、事業計画の中でリリースの要請はいつもあった。それならSONGSかなあ、と。いろんなファクターが重なり合った。普通なら20周年まで待つでしょ。事実、SONGSは2005年に30周年、2015年に40周年の記念盤が出ることになるし。
いろいろと整って、リマスター盤を出すことになったけれど、レコードはともかく、正直言って”SINGS SUGAR BABE”で全国ツアーをやれる自信はとてもなかった。シュガー・ベイブは東京インディーの典型みたいなバンドだったから、シュガー・ベイブの再現ライヴじゃ、地方ではお客は入らないと思ってたから。だから、東京でしかやらなかった。ファンクラブを作ったばかりだったけど、あの公演はファンクラブの優先受け付けもしなかったし。消極的というか、ごく地味なアプローチだった。
だから、まさかSONGSのリマスター盤がオリコンのベスト10に入るなんて、思ってもいなかった。初登場7位で、2週目に3位。それはそれは予想外の、嬉しい誤算だった。そういえばSONGSは16チャンネルのマルチトラックテープが長い間、行方不明で、この時期にようやく発見された。
このリマスター盤制作の現場には大滝さんやター坊(大貫妙子)はいない。誰にも触らせなかったw もともと大滝さんが、シュガーベイブは僕に帰す、と言っていたことがあって。80年代の頭くらいかな。だけど、僕はいいって言ってた。ナイアガラでずっと持つべきだ、って。
でも、この時はプレスの管理やプロモーション一切を自分のスタッフでやりたかったので、リリースはイーストウエストでやらせてもらうことにした。ようやくこの時代にデジタル・リマスタリングが満足するクオリティーになったのが大きかった。5年前だったら無理だった。マスタリングした原田(光晴)くんも当時は絶好調で、一番いい時だったから。
帯にあった「え?そんなの20年前にシュガー・ベイブがやってるよ!」というコピーは僕が考えたw 70年代の大昔から、帯のコピーなんて誰も考えてくれなかった。だから、必要に迫られて、そういうのも全部自分で考えていかざるを得なかった。70年代からずっとそうだったから、その延長で、代理店の作る陳腐なコピーなんかより、自分で考えたほうが早いし、なんたってタダだしw そうやってSPACYの頃から続いてた。まりやに関しても、そうやって決めていた。さすがに最近は、もうそこまで関与していないけれど。
シュガー・ベイブの音は、アーバンなくせして、とてもインディな、それこそドゥーワップじゃないけど、ローファイな音なんだ。それが、あの時代にはどこにもなかった。それが、偶然の産物だとしても。録音したエレックのスタジオは狭くて湿気は多いし、だから音色も暗い。でも、そういう特性がむしろプラスに働いた。当時はソニーにしろコロムビアにしろビクターにしろ、メジャーなところは皆、普段は歌謡曲をやっているレコード会社の専属エンジニアが、ひどい場合には、ロックのドラムの録り方も知らないような人が録っているから、そういうのはリマスタリングをいくら頑張っても、今の鑑賞には堪(た)えない。そういう意味では非常に奇妙な環境で。最初は不安だったけれど、今になって考えると本当に幸運というか、特殊なレコーディング環境で録れたから、94年盤も普遍性という点では何も変わらない。
  
<プロデューサーとしての大滝さんとはかなりぶつかった>
2015年の40周年のリマスター盤で、大滝さんを「エンジニア笛吹銅次の多大な貢献と功績」と称したけど、本当に変なミックスだからw でも、何をしたいかという意思は、よくわかる。村松(邦男)くんをフィーチャーしたギターサウンド主体で組み立てよう、とか、いくつかの明確な意図があったと思う。村松君はそれに応えて努力して、ちゃんと大滝さんとディスカッションして、作ってた。ター坊も作曲能力があるので、当然ながら構成とか編曲的なセンスを持ち合わせているわけで、ここで自分のピアノがどう入るとか、自分なりに考えていて。今聴くと、そういう点ではバンドの音というより、作家的な視点になっている。
大滝さんもエンジニアとしては、まだめちゃくちゃ初心者。それにこんなアーバンの音楽は録ったことがない。布谷文夫さんとか泥臭いやつを、オーバー・コンプレッションのギターサウンドで、みたいなことがあったけど、シュガー・ベイブはメジャーセブンスの音楽だから、こじゃれたコード進行は初体験だったと思う。ギターにコンプをたっぷりかけるリトル・フィート風のアプローチは、村松くんもリトル・フィートが好きだったので、そういう価値観が合っていたから。大滝さんも、村松くんをその後も長く使っていて、そういうところでは人間関係が機能していた。
僕は、大滝さんとはずいぶん喧嘩もしたけど、根本的なところに関しては共通項も多かったから。当時の大滝さんはいわゆる「キャラメル・ママ・コンプレックス」が強固にあったから、8ビートを16ビートに変えたがって、そういうところではもめたけど、コード進行とか、サビがどうとか、そういうことに関しては言わない。ドラムパターンをトリッキーにしたがったりとか、そういう事はあったけど。でもそんなのは、他のレコーディングでも日常的にあることだし。その後センチメンタル・シティ・ロマンスや、めんたんぴんのレコーディングを見る機会があったんだけど、的確なアドバイスとか、そういうことをするブレーンがほとんどいなくて。だから放任状態というか。抑制するとか、折り合いをつけるとか、本当の意味でのプロデューサーがいない。でも、大滝さんはそういうところを、根本的に把握している人だから。エンジニアとしては、大滝さんは本質的にかなりアーシー、つまりイナタいんだよね。そのアプローチがメジャーセブンスのコードと混ざって、独特の色合いが生まれた。佐橋佳幸くんが感動したっていうファクターは、そういうところにあったんだと思う。変な言い方だけど、フリーソウルとか、シティ・ポップとか称されるような、表層的な柔らかさやおしゃれさだけでやっていたら、絶対に残っていない。大滝さんのロックンロール的なイナタさと、僕らのアーバンな感じが合体したからこそ、残れた。歴史の試練に耐えられた。
大滝さんはすごく専制君主だけど、僕も専制君主だから、めちゃくちゃぶつかった。彼が主張して通ったところもあるし、僕の主張が通ったところもある。一番もめたのはシングル曲の選定で、大滝さんは「雨は手のひらにいっぱい」を、松本隆さんに詞を書かせて、シングルにすると言ったけど、僕が頑強に抵抗して「DOWN TOWN」で押し切った。当初「雨は手のひらにいっぱい」は、シンプルなサザン・ポップというか、そういうアレンジだったけど、あれをフィル・スペクター風にするというのは大滝さんの要望だったから。ここまでは受容する、ここからはイヤだ、そういうのはあった。
音楽的なことや、オーディオ的なことよりも、とにかく問題だったのは契約的なことでw 演奏料が出ないとか、食事代が出ないとか、給料がもらえないとか、(事務所である)風都市の問題で。
それにエレック・レコードも、既にかなり危ない感じだったし。
オーディオ的な不満としてはスタジオの天井が低くて、湿度もすごかった。僕も自分で(自主制作盤の)「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」を作ったりしていたから、オーディオについては、それなりの知識はあった。大滝さんも本当は自分の所(福生45スタジオ)で録りたかったんだけど、まだ機材が入ってなかったから。もし福生で録っていたら、どうなっていたか、とも思う。でも、ミックスダウンは六本木ソニーでやっているので、最終の仕上がりはちゃんとしている。
SONGSは完全なガレージ・ポップ。でも、大滝さんはエンジニアとして才能あるよ。今聴いても、そう思う。だてに音楽、聴いてない。例えばトッド・ラングレンはマルチミュージシャンだから、彼のエンジニアリングって割と偏った部分がある。大滝さんは楽器弾きじゃないぶん、逆に観察眼とか、そういうものを持っている。何でもできる人よりも、そうじゃない人の方が、分析力があったりするものなんだ。
大滝さんはずっとSONGSに関しては引け目があったと思う。プロモーションとか、展開とか、そういうの思うようにやって来れなかったと言う。だから原盤を返すとか、そんなことも言っていた。この最初のリマスターの時も、あまり口を出さなかった。結果として、出来に関してはそんなに不満はないし、彼もエンジニアとしてはそんなに不満はなかった、と僕は思ってるんだけど。
大滝さんの感想は、この94年盤のライナーノーツに書かれてた通りだと思う。そのことについて、特段、彼と話した事はない。サンソンで新春放談を始めていたから、SONGS特集もやったけど、大滝さんと何を話したかはあまり覚えていない。これは聞いた話だけど、”SINGS SUGAR BABE”を大滝さんが観に来てて、あまりにナイアガラ色が強いので驚いて、「ココナツ・ホリデー」でついに泣いたらしい。自分では言ってないけど、見た人が何人かいる。恥ずかしいから、トイレに駆け込んだらしい。大滝さん、見えっ張りだからw まさか「ココナツ・ホリデー」をやるとは思わなかったんだろうね。
CDのボーナストラックには「LF(ニッポン放送)デモ」から4曲。74年にシュガー・ベイブをやるにあたって、LFの銀河スタジオで4曲、4トラックレコーダーでオリジナル・メンバーで録音。そのデモを持って、レコード会社と契約することになっていて、東芝に内定してると言われてたのに、結局エレックになった。この94年盤リイシューではその4曲と、荻窪ロフトの解散ライブ(76年3月31日、4月1日)の音源が3曲。2チャンネル一発録りで、バランスは最低で、音質的な問題もあるけど当時はオーディオ的には一番これがマシだった。次の30周年記念盤のボーナストラックはさらにローファイになっていくけれど。
この頃はCDのリイシューっていうのが、ボーナストラックをつけて付加価値を上げるというマーケティングになっていった時代で。アナログ時代って、3、4年経つと廃盤になって、それで歴史の彼方に消えていくんだけど、CDが出てきたので、そうやって一度精算されたものが、まるで亡霊のように復活する。そこからレディメイドとか、エレベーター・ミュージックとかが、始まる。商売くさい話も含めて、付加価値の一環としてボーナス・トラックが付く、という。あとはCDの方が収録時間が長いので、それへの対応という意味もある。
  
<あくまでも、シュガー・ベイブの”再現”としてのライヴだった>
89年に青山のレコード店「パイド・パイパー・ハウス」が閉店した時、六本木ピットインでクロージングパーティがあって。シュガー・ベイブの初代マネージャーで、店長の長門芳郎くんが、パーティで再結成して演奏してくれないか、と頼みに来て。でも鰐川も寺尾くんも引退してるから、ベースがいないし、ドラムのユカリも当時は足を洗ってた。ター坊も絶対にイヤだって言うから、それはできないって断ったの。でも、僕も芸人なんで、最後にステージに上げられそうな予感がして、その当日、酒は飲まないでいた。案の定、何かやれということになって。ドラムの野口とギターの村松くんはいたけど、エレキギターがなかった。あったのは生ギターが2本とエレキベース。ター坊はイヤだって言ってるし、そんなんじゃ、やれって言われても、と。そしたら佐橋が「僕、DOWN TOWNのベースなら全部わかります」って言うんだ。でもピアノが居ないな、ってところにアッコちゃん(矢野顕子)が「私がピアノ弾いてあげようか」って。「曲知ってるの?」「何とかなるわよ」って。それで始めたんだけど、村松くんはヘベレケ、佐橋も、本当に曲知ってんのかよ、という状態w そんな中でアッコちゃんだけが、僕とアイコンタクトで完璧に演奏してくれて。ありゃ天才だと思ったw その夜の一件で「シュガー・ベイブの再結成はない」と確認できた。
シュガー・ベイブへの回帰はPOCKET MUSICの時にその気持ちはあったけれど、デジタルへのストレスで、もろくも崩れ去った。「土曜日の恋人」が1曲目で、「SHOW」みたいな幕開けになるかと思ったら、全然望んだ音にならなくて、あえなく挫折、なかなか思い通りにはいかない。常にシュガー・ベイブへの思いはあった。僕のルーツだから。「MY SUGAR BABE」なんて曲も書いてるし。みんなシュガー・ベイブは僕のワンマン・バンドだったというけど、実際その通りだった。
まりやのシングル「幸せの探し方」(1992)で、ベースの寺尾くんがフランス語の歌詞をつけてくれたけど、歌詞が必要だったから彼に頼んだだけで。まりやが慶應の学生だった時に、彼が一学年上で、シュガー・ベイブのメンバーだったから、その時から寺尾くんのことはまりやは知っていた。歌詞を頼んだ時、僕は彼と何年かぶりに会ったけれど、シュガー・ベイブの話などしてないし、彼は既に字幕翻訳者として、立派な成功者だったから。彼はオーディションで、入った時、シュガー・ベイブの曲をよく知っていて、完コピしてた。才能があって、ベースはうまかった。それにユカリとよく合ってた。
いずれにしろシュガー・ベイブの再結成は100%あり得ない。だったら自分のライヴのメンツでやろうと。それで島ちゃんに叩いてもらえば、シュガー・ベイブを再現できる、って。
結果、メンバーはドラム島村英二、ギター佐橋、ベースが広規、キーボードが難波弘之重実徹、コーラスに楠瀬誠志郎、佐々木久美、高尾”candee”のぞみ。ゲストにター坊。佐橋に関してはもともと目をつけていた。もっとも”SINGS SUGAR BABE”に関しては、全部書き譜だったから、佐橋の目が点になってたw
当時は再結成と勘違いする人もいたけれど、そうではなかった。元のメンバーからしたら、なぜ呼んでくれなかったのか、というのがあったかもしれないけれど、演奏力は別として、時間がないし、書き譜で全部やるから、読譜力があるか、アンサンブルの能力があるか、僕の要求に応えられるかが、大事だった。ワンマン・バンドですから。その後の30周年や40周年でゲストで出てもらうとか、そういう価値観を持っていない。アマチュアの同窓会じゃあるまいし、お金をもらって人に聴いてもらう以上、そんな和気あいあいみたいなことをすべきじゃない。「革命とは、客を招いてご馳走することではない」という言葉がある。
公演は中野サンプラザでの4公演のみ(94年4月26日、27日、5月1日、2日)。そんなにお客が来るわけないと思っていたから。本当にそう思っていた。そしたら、あっという間にチケットは売り切れ。アルバムもあんなに売れるとは思わなくて、本当に意外だった。アルバム発売に関しては、今までやったことのないような宣伝も、いろいろした。チラシをライブハウスに置いてもらったり、自分と同世代の人たちのコンサートでも配ってもらったり、全国のイベンターが協力してくれて。そういうのも意外と効果があったのかもしれない。
シュガー・ベイブの評価で言えば、活動当時、すべてのミュージック・ジャーナリズムは、自分の持っている既存の知識の中でしか解釈できなかった。本来、幅がなければいけないものなのに。ロックンロールというのは一言で言ったら、寛容さ。悪く言えば、ロックンロールは雑居ビル。雑多なものを何でも吸収して、それをロックと言えば、全部ロックになる。寛容さの音楽。
   
<演奏に対するパッションがあれば、古いも新しいもない>
中野サンプラザでのライヴで、シュガー・ベイブはほぼ再現できた。非常に満足のいくライヴだった。JOY2を出すときは、この”SINGS SUGAR BABE”だけで1枚にするつもり。声もよく出ていたし、非常によくまとまっている。シュガー・ベイブコピーバンドだと思えばw 僕もまだ40歳だったし。「ドリーミング・デイ」なんかはJOYに入ってるのより、全然出来が良い。3348(デジタルレコーダー)が良い時の録音だから、デジタルのコンディションが良いし。アーカイブもできている。
ライヴのメンバーはほぼ全員が、同時代の東京の人間。広規はあの時点で15年ぐらいやってやるし、難波くんも同じ。佐橋は何といってもシュガー・ベイブを中学の時に観ている。結局は空気なんだ。テクニック的なものは同じようにできても、1975年の空気がわかっていて、その時の洋楽、邦楽も含めての、空気感みたいなものをわかっていないとダメ。島ちゃんもその時代からバリバリの現役で、面白いことにユカリと野口の中間の味わいで、ちょうど良かったというか。島ちゃんしかいなかった。あのラインナップは鉄壁だった。
シュガー・ベイブが作家的なバンドだから、そういう意味でははっぴいえんどに似ているかな。ただ演奏力がついていかないw そういうきらいがあるんだけど、演奏力が全体的にもうちょっとあったら、もっと仲良くなれたかもしれない。ター坊がゲストというのは必須で。彼女と僕でシュガー・ベイブだから。このアルバムに入ってる曲はもちろん「約束」とか、入ってない曲も重要で。彼女も最初は出るのを渋ってたけど、あの時のステージは、結局自分のライヴ・アルバムに入れているから。
鈴木茂砂の女」や伊藤銀次「こぬか雨」、愛奴の「二人の夏」を演奏したのも意図的。1975年の時代感覚というか。実際に「砂の女」は当時も歌っていたし。「ココナツ・ホリデー」もその延長で。後は大滝さんの「指切り」。全部、当時の自分の周りにあった曲。愛奴はしょっちゅう一緒にライブをやっていた。
懐メロとかそんな意識でやったことは一度もなくて。何度も言ってるけど、パッション。演奏に対するパッションがあれば、古いも新しいもない。1年前に出た曲だって、やる気のない演奏なら、立派な懐古趣味になる。とかく新しいものが一番優れているという、妙な錯覚があって。それで10年20年経つと、あれはオールドタイムだ、オールドスクールだって。そんなのはただの営業戦略でしかない。新しいことが売りになるのは、粗雑な純真史観で。
例えば、人は無限に曲を作り続けられるわけがないし、人生で8曲、シンフォニー(交響曲)を書いたら、大作曲家だし、作ったって演奏もされない作品なんて、いくらでもあるわけで。そういう中で何をもって現役になるかというと、結局、基本的には演奏のポテンシャル。あと音楽は、特にコマーシャル・ミュージックは生活の対象化だから、それを聴いていた時に彼女と海辺を歩いていたとか、そういう記憶と不可分で。それに対し、審美的な音楽というのは、それよりも、もうちょっと先へ行くというか、生活の対象化の中に、現代的な今の自分の視点がオーバーラップすることによって、普遍性が生まれる。だから、94年のライヴの時だって、懐メロ・ショーをやろうとか、そんな意図は全くなかった。古いなんて言うやつは来なくていい。
エリック・クラプトンとかジャクソン・ブラウンとか、そういう人は全然古びていかないけど、ゲイリー・ルイスとかスタイリスティックスとか見ていると、悲しくなってくる。アース・ウィンド&ファイアーもそう。でもP-FUNKは大丈夫なんだ。その差は何か。現役とは何か。
その意味で、今まで一番印象が強かったものの一つが、B.B.キングだった。東京ドームでやったU2のライヴ(1989年)の前座で観たんだけど。それまでは、もっとずっとエイギョー臭いショーだった。だけど、映画「Rattle & Hum(魂の叫び)」で、のU2B.B.キングを引っ張り出してきて、そこから明らかに変わった。もともとBBキングは本物だから。いきなり神がかってきて、その後は死ぬまで変わらぬポテンシャルを維持してた。
同様のものにチャックベリーの「HAIL!HAIL!ROCKN’ ROLL」がある。テイラー・ハックフォードが監督した映画で。詳しい説明は省くけど、キース・リチャーズが、不安ではあるけど人間的に問題のあるチャック・ベリーのために、いびられながらも、彼の還暦ライブを企画する。有名なシーンが、間奏でチャック・ベリーキース・リチャーズのところに来て、キーを変えていいか聞くんだけど、ダメだと首を振られて、苦笑いしながら帰っていく。でもチャック・ベリーも一流だから、30分、1時間と経つうちに、だんだん本気が出てくる。これはすごいなと思った。
現役とそうでないものの差って、本人がコントロールできるものもあるけど、そういう環境とか、秘められた自意識によるものが、すごく大きい。だからB.B.キングチャック・ベリーも、自意識を外から引っ張り出されて。まあチャック・ベリーは元の日常に戻るんだけどw B.B.キングはそこから本当に生まれ変わる。あれは不思議。
そういうことって、実はたくさんある。昔「サンデーソングブック」に「ブライアン・ウィルソンも、エリック・クラプトンも、もう歳で、これからは衰えていくだけ」なんて葉書が来たことがあって、「いや、それは違う、クラプトンはルーツ・ミュージックだから、基本的に本人のパッションさえあれば、いつまでもエヴァーグリーンでやれる」と反論したことがある。ルーツ・ミュージックってそういう質だから、うらやましいと思う。ドクター・ジョンなんかもそう。もともと古いからw 
ドゥーワップもまさにそう。ON THE STREET CORNERのコンセプトって、もともと古いものだから。それ以上、絶対に古くならない。そういうことを、ずっと考え続けざるを得なかったのは何故かと言うと、シュガー・ベイブのような音楽をやったから。ロックじゃないだの、古臭いだの、散々言われたけど、自分はそれがいいと思っているわけで。自分がいいと思っている音楽をベースメントにして、構築しているだけだから。
“SINGS SUGAR BABE”では、和気あいあいと、ただの同窓会になるのは嫌だった。それと無意味な扇動性のない、抑制された表現というか、ひとつのまとまりというか、その上で観客に対するアピールする力。そういうのがないと、所詮、滅びていく。観客と演奏者側とが、それを相互に感じられる能力がある限りは、継続できる。このライヴも、自分の中で過去と現在を重層的にフォーカスする、という発想でやっているから。あれは、なかなかよくできたライヴだった。ツアーをやっても、よかったかもしれない。SONGS40周年記念盤が出た2015年の自分のツアーでは、シュガーベイブのナンバーを結構意識的にフィーチャーした。ちょうどコーラスにハルナが入ってきて、声キャラがちょっとター坊に似てるから、やれるかなと思って「すてきなメロディー」をデュエットしたら、いい仕上がりになった。
“SINGS SUGAR BABE”のライヴで、最後に「MY SUGAR BABE」を歌ったけれど、それで終わろうと思っていたから。RIDE ON TIMEがヒットした時に作った曲で、ブレイクしたらシュガー・ベイブの歌を作ろうと思っていた。
そういえば”RCA/AIR YEARSツアー”(2002年)でも、最後に「おやすみ(KISSING GOODNIGHT)という、これもRIDE ON TIMEの最後に入ってる曲をやった。企画性の強いライヴはそういう細かいところの工夫がとても大事なのでw
【第47回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第46回 クリスマス企画アルバムSEASON'S GREETINGS(93年11月発売)

<過去の経験則がだんだん踏襲できなくなって来た>
ARTISANのツアーが91年暮れから92年、その頃からまた、だんだん思うようなレコーディングができなくなって来た。まりやの『QUIET LIFE』(1992)が終わってから、シングル「MAGIC TOUCH」へ(93年6月発売)。続いて(10月発売の)「ジャングル・スウィング」も録ったけど、うまくいかなくて。一人多重で全部作り直した。このあたりから生ものが出来なくなって、同期ものが多くなる。シングルの前作「BLOW」(92年2月発売)が最後、ちゃんと出来たのは。この頃はこういうものが、だんだん流行らなくなる。
「MAGIC TOUCH」も「ジャングル・スウィング」もチャートアクションがそんなに良くなくて、ベスト10には入っていない。80年代もそういうことがあって「ゲット・バック・イン・ラブ」まで7年くらい、ベストテン・ヒットがなかった。「さよなら夏の日」だって入ってないし、このあと「ヘロン」を98年に出すまで。そういう時期だった。「もう盛りは過ぎたから」って、小杉さんに言われたからw 自分としては曲もアレンジも新しい感じで作りたいと思うんだけど、それが結局、一般大衆には好まれないという。

「MAGIC TOUCH」はのちにアルバムCOZYに収録されるんだけど、この曲はマクセルのCMソングで、そのCMが、僕の顔をCG、ピンアートで再現するみたいな企画だったんだけど、出来上がったものが全然良くなくて。ピンアートが歌ってるんだけど、その頃のCG技術がお粗末で。そのCMの問題で、インスパイアされないというか、モチベーションが上がらない。久しぶりのマクセルで「RIDE ON TIME」以来のCMで、期待感もあったけど。そういう大仰なことをしてしまったので。でも、曲はそんなに嫌いじゃない。テクノにしては良く作られた曲なんだけど、あまりヒットパターンじゃない。チャラチャラするのがイヤだったという。
そんなことがいつもあって、次の年、94年にスマイルガレージを閉めることになって、スタジオ・ジプシーの弊害が出てくる。結構シングルは出してるんだけどw
この「MAGIC TOUCH」と前後して、93年6月にはTBS朝の情報番組「ビッグモーニング」で(「モーニングシャイン」に続いて)「鳴かないでHERON」がオンエアされた。サウンドシティでの録音で、音が全然気に入らなかった。だから、この時はシングルカットしないで。それで改めて98年に「ヘロン」としてシングルで出した時は、ウワモノだけ残してリズムセクションを録り直した。スペクターの”ウォール・オブ・サウンド”を目論んだけど、最初の上がりが全然良くなくて、ボツにして。”ウォール・オブ・サウンド”と言っても、楽器は大滝さんみたいに多くはなく、ピアノは1台だし、生ギターも2本しか入っていない。多いのはパーカッションくらいで。ナイアガラのパーカッション部隊(浜口茂外也、鳴嶋英治、川瀬正人、菅原裕紀)が参加してる。でも、例えばスレイベルにしても、重ねたからといって音が厚くなるわけじゃないから。
BIG WAVEなんて本当に薄いし。でも”壁”としては、同じニュアンスが作れるから。アナログとデジタルの違いで。これがBIG WAVEの頃と同じシステムでやれていたら、全然違ったと思う。それはデジタルに移行して通用しなくなった点で、さっきのCGも同じで、性能が全然追いついていかないんだ。何かとモノは新しくなるけど、それがなんでも良いというわけじゃない。その一例。
ようやくデジタル・リマスタリングが向上した時代だけれど、今思うと、やはり何よりもスタジオが変わったのが大きかった。 過去の経験則を踏襲しようとしてもダメ。昔良かったスタジオでも、一旦行ってみたら、もうすでに古くなっている。ミュージシャンも同じ。必ず前へ行かないとダメ、と思った。こっちももう40歳になるところだったし。過去の経験や体験が通用しなくなって、85年以降は、その繰り返し。それはトライ&エラーだから時間がかかる。僕に限ったことじゃなくて、みんな口に出して言わないだけで。あたかもバッチリ、みたいなふりをしているだけで。そうじゃなければ、よっぽど耳が悪いかw
少なくとも70年代からやっている人間で、今の音楽環境に満足している人間なんてひとりもいないと思う。長くやると大変なんだ。歌だって、今、僕がライヴで使っているベイヤーのマイクはスタジオ用の1本と、ライヴ用の2本、この3本が壊れたら、もうどこにもない。
このまえツアーパンフレットの企画で、日本画家の千住博さんと対談したんだけど、彼の世界も同じで、筆を作る職人がいなくなっていて、使っている筆がもうないんだって。一番危機的なのは膠(にかわ)で、職人さんがいなくなったら、もう作れない。やっぱり同じ問題があるんだね。絵の世界は未来永劫、変わらないと思っていたけど、そうじゃない。そんなのばっかり。墨とかも同じで、職人の後継者が少ない。今AIって言ってるけど、昔聞いた話では、旋盤の世界は20ミクロンくらいまでは機械でできるけど、それ以上は人の手でないとダメ。職人技だからね。
これからどうなっていくんだろうね。ものを作るのが、悪いことのように言われる。93年はいい思い出がない。ここからしばらく、通常のライヴができなくなった。だから94年は山下達郎シングスシュガー・ベイブにした。ちょうどシュガー・ベイブのSONGSをリマスターしたから、苦肉の策。92年は最高に良い状態状態だったと言えるのに、あっという間に悪くなった。以前も言ったけど、組織って5年で陳腐化する。音楽に限らず、基本的に5年はいいんだけど、それを過ぎると、いろいろ問題が起こってくる。5年持てば良い方。
  
<レコーディングには限界がない。だからライヴより難しい>
93年10月発売の「ジャングル・スウィング」は日産CMタイアップ。ボ・ディドリー・ビートを使いたかった。昔から好きだから。でも4リズムでやると、ボ・ディドリーのインディー感が出ないというか。これはドラムを基本マシンでやっている。生で弾いているのはギターとベースぐらい。キーボードも基本的には打ち込み。狙いとしては「PAPER DOLL」に近い。リード・ギターは自分でやった。「PAPER DOLL」の時と同じで、足で踏みながらできないから、手でワウペダルを動かして。「PAPER DOLL」はライヴで意外と映える。3人の時でも良くやっている。
当時、いわゆるクラブシーンが始まった。DJが入るクラブ。その光景というか、それを描こうかと思って。テクノ全盛期で、どんなものかと見に行ったんだけど、共感できなくて。だからフェイクなビート、ああいうナイトスケープというか、夜のクラブシーンの情景を音楽化したいと思って。4リズムだと全くその光景が見えないけど、このやり方だと、割とスモールな、上の階でDJをやってるクラブの光景というか、空気感や色合いが見えてくる。「フェイクなビート」「12インチのグルーヴ」という歌詞で合わせて。ヒップホップが出てきた頃だから、12インチ(レコード)が全盛。ニュー・ジャック・スウィングとか、そういう感じの時代。そういうクラブシーンなんかの歌で、もっといいグルーヴがあるだろうと。だからボ・ディドリーというのはちょっとレトロ。誰もそんなこと聞いてはくれないけどw
そういう色彩感を出すにはバンドじゃなくて多重録音、それしかない。曲の持ってる色彩感。生の人間がやるものってフォーミュラ(ありふれたもの)なんだ。スタジオ・ミュージシャンは1日に2本も3本もレコーディングやって、他の仕事は歌謡曲とは言わないけど、いわゆるニューミュージックだから、こういう風変わりなやつだと、どうしていいかわからなくなる。どこにもない個性的な、特徴のあるオケを作るのは、スタジオ・ミュージシャンには無理。ディスコのムーブメントだと、スタジオ・ミュージシャンはいくらでも活用できるけど、ちょっと脇にそれると難しい。でも、彼らの責任じゃない。スタジオでの仕事のタイプが違うだけで。バンドだったら、せいぜい3つか4つで、バーサタイル(万能)に、いろんなバリエーションは作れない。この頃からはそういうふうにしか作れなくなって、例えばまりやの「マンハッタン・キス」なんかは普通に作ればよかったけど、この「ジャングル・スウィング」や「MAGIC TOUCH」は定型じゃなく、主張したいことがあるから、しょうがない。
それでだんだん追い詰められてきたw だから、そういうときにはクリスマス・アルバムとかSINGS SUGAR BABEとか、そういうコンセプトに逃げる。追い詰められたという実感がものすごくあった。ライヴはそんなに破綻しない。でも逆に、ライヴでできる事は限界があるから、そこで収まってくれる。でもレコーディングには限界がないから、エスカレートしていく。だからレコーディングの方が圧倒的に難しい。ツールがだんだん変わってきて、それも辛かった。まあでも今聴いてみると、どっちもそれなりに切り抜けているという感じはするw
「ジャングル・スウィング」は”都市生活者の孤独”がテーマ。
いわゆるドラムンベースみたいなのとか、普通のレコードをかけてるようなクラブにも行ってみたけれど、照明がジュリアナ時代とは若干変わってきていて。音楽もサンプリングになってきたり。うまく言えないけど、例えば「バットマン」みたいなダークな感じもある。ディスコはもう少し軽薄だったけど、クラブになってからは、内向的というか、いわゆるディスコのチャラっとした感じとは違ってきた。色合いとか照明の使い方とか、若干違う。
あとは世代が若返っているから、違和感も結構あったりして。行ったところが悪かったかな。音楽がかかっている所には興味があるから、ディスコだって散々行った。踊らないけどね。BPMが速すぎると思ったりね。「BOMBER」がディスコで流行った時は、ディスコにも行った。ジュリアナ東京には行かなかったけど、似たようなところは。もっと前にはだとツバキハウスとか。アン・ルイスに引っ張っていかれた。市場調査と言ったら、それまでだけど。ツバキがいちばん行ったかな。
あとは西麻布の交差点に、小さなディスコが地下にあって。必ずクロージングには30分間RIDE ON TIMEをノンストップでかけてくれた。そこも結構行った。やっぱり、クラブビートの、そういうものの歌を作りたくて。それがドンチャカ、ドンチャカじゃ、つまらないから。お忍びじゃなくて、レーベルのスタッフ何かと一緒に行って。みんな知識があるし、93年だったらアトランティック・レコードの他にもいくつかの洋楽レーベルの発売権をMMGが持っていて、それこそスノーとか、そういうのをやっていたから。
   
<クリスマス・アルバムを出す事は昔からの憧れだった>
(93年)10月に「ジャングル・スウィング」、11月に『SEASON’S GREETINGS』を発売。ジャングル〜のカップリングには「BELLA NOTTE」と「HAVE YOURSELF A MERRY LITTLE CHRISTMAS」が入っているけど、これはもっと前に録音したもの。確か89年のARTISANのツアーでも歌っていたから。
89年に「クリスマス・イブ」がいきなりヒットして、1位を獲って。クリスマス・アルバムを出すことには、昔から憧れがあった。フランク・シナトラとか、クリスマス・アルバムを出せる人は一流、ビーチ・ボーイズしかり、フォーシーズンズしかり。クリスマス・アルバムを作るなら、例えば「BELLA NOTTE」をやりたいな、と。ディズニー映画の「わんわん物語」が好きだったから。「HAVE YOURSELF〜」は90年前後に、僕とまりやのメドレー形式でレコーディングしたのが、すごく出来が良かったので、その延長でオーケストラとのレコーディングもやりたいと。でも全曲オーケストラだと制作費がかかるのと、あとそういうのは、思ったより面白くない。オーケストラの編成に関しては自分の中に条件付けがあって、いわゆるリズム・セクションが入ったオーケストラはイヤだった。このSEASON’S GREETINGSのオーケストレーションはドラムを入れない編成にしたかった。その方がクラシックの格調が出るから。全部アカペラで作ってみようと思ったけど、結局オーケストラと、ひとりアカペラの混合で行くことに決めた。ドゥーワップクリスマス・ソングもいろいろあるけれど、まずは「BELLA NOTTE」から初めて。そういうアルバムの具体的なプランが固まったのが、93年の頭くらい。この頃は、自分でリリースの意思を決めていた。
93年の夏にニューヨークで5曲だったか、ストリングスを録った。チャーリー・カレロのアシスタントだった古い友人の、ジミー・ビヨンドリロの推薦で、ヘレン・メリルの旦那さんのトリー・ズィトーの指揮でオケを取ったんだけど、あまりに気に入らなくて。レコーディングはパワー・ステーション・スタジオ。でも結局、服部(克久)さんでやり直して。ニューヨークで録音したうちの「IT’S ALL IN THE GAME」だけが収録された。あれも服部さんにお願いできればよかったんだけど、時間がなかった。
気に入らなかった、というのは、一言で言えば「ロックンロールじゃなかった」から。「いくらカネがかかってると思ってるんだ」と怒られたよ。でも、ダメなものはダメだから。曲はかぶらないように録ったんだけど、結局「BLUE CHRISTMAS」は、服部さんで録音し直した。
1週間近く服部さんの家に通いつめて。服部さんはめちゃくちゃ忙しい人だから、何とか4、5日、時間をもらって、ああでもない、こうでもないと詰めていって。だけど、意思疎通も非常にスムーズだったし。服部さんはコンセルヴァトワールパリ国立高等音楽院)出身で、いわゆるフランス近代の人で。僕はとにかくフランス近代が好きだったから、色々と注文を出して。その結果、例えばSMOKE GETS IN YOUR EYES(煙が目にしみる)」のイントロは、ビオラとチェロの掛け合いから始まって。かなりユニークなアレンジだけど、「お前の好きなフランス近代にしてやったぞ」ってw だいたい「BE MY LOVE」とか「SMOKE GETS〜」とか、なんでそんなのをやりたいんだ、なんで知っているんだ、って言われたけど、「昔から好きな曲だったんです」と答えた。服部さんはそういう曲は、文字通りリアルタイムの人なので「BE MY LOVE」だったら任せておけ、という世代の人だから。SEASON’S GREETINGSの時は服部さんはまだ50代で、元気いっぱいだった。ライナーノーツのタイトルが「シーズンズ・グリーティングス・アンド・モア」となっているのは、クリスマス・ソングだけじゃない、クリスマス企画であって、クリスマス・アルバムのようなもの、であると。
理想のクリスマス・アルバムなら、ベンチャーズビーチ・ボーイズフィル・スペクター、ジャッキーグリースンしか聴かない。毎年、わが家ではそれプラス、まりやのアンディ・ウィリアムス、オズモンズ、カーペンターズしかかからない。
僕は実家がヤマザキパンの契約店だったから、クリスマスケーキの予約というのが、けっこうあった。小さい店だったけど、20個か、多い時には30個ぐらい。それを仕事帰りのお父さんたちが取りに来て、少しづつ減っていく。それがクリスマスの風物詩だったのを覚えてる。初めの頃のバターケーキからチョコレートケーキ、アイスクリームケーキに変わっていく。店番もしていたから、クリスマスというと、その記憶が一番大きい。練馬に住んでいた頃の記憶。今みたいに商売っ気がそれほど強くなかったし。
ロックンロールって基本的にクリスチャニティ(キリスト教)だから、ロックを聴くこととキリスト教を知ることは同義的なところがあって。誰でもクリスチャンになれるというか。僕は特にイタリア系の音楽が好きだから、カソリックの方が近いような感じもするし、アイリッシュもそうでしょう。ジョン・フォードラスカルズ、どっちもカソリックだし、U2にシンパシーを感じるのは、そういうところもあるのかもしれない。
池袋ではキリスト教の幼稚園だったので、日曜学校にも行っていて、今でも「主の祈り」はソラで言える。キリスト教は意外と身近だった。讃美歌もそこで歌っていたし。讃美歌の知識がなかったら、このアルバムを作れなかった。賛美歌集もかなり買い込んで、その中に載っていたグルックを採譜して作ったのが「グルックの主題によるアカペラ」。それと青山学院だったかの先生が編集した絵本の讃美歌集。このスコアがよくできていて、歌いやすい。ライツフリーだったし、本家の譜面よりソフィスティケイトされていて、すごくよかった。そういう意味で下準備はあった。企画性もあったし。アカペラとオーケストラと間にインタールードがあって。計画は練った。『ON THE STREET CORNER』のクリスマス・ヴァージョンでも良かったんだけど、それだけだと面白くない。オーケストラとのライヴもやろうかという話もあったけれど、それももって1時間だろうと。だからと言って、前半はオーケストラ、後半はバンド、なんてことにしたら、予算がいくらあっても足りないから。
歌唱では「SMOKE GETS IN YOUR EYES」の最後のG#、これが出なくなったら引退する、そんな話をした。僕の声域はG#が一番キレイに響くので、つとめてメロディーのトップがG#になるように作ってある。ロングトーンは耐久戦だから。まあ今まで本当に出なかった事は無いけど、ハイトーンは年齢を重ねれば、衰えてくるのはしょうがない。若気のミックスト・ボイスみたいな発声法はもう有効じゃないけど、普通にベルカンティックな発声をしたら、G#はまだ全然大丈夫。そこが無理となると、ちょっと自分の歌手としてのやりたいことができなくなるから。
   
<3人ライヴの始まりも、このアルバムがきっかけ>
いつも言っているけど「SMOKE GETS〜」の詞曲は、僕が考える楽曲としての完全性を持っている。昔から好きだったから、オーケストラとやることがあったら是非やってみようと思っていた。コンボでやっても面白くない。さっきも言ったように、ドラムは入ってなくて、マシンのパーカッションだけでやっているのがミソ。
あとはクリスマス・ソングには好きな曲がいっぱいあって、「BLUE CHRISTMAS」もそうだし、「HAVE YOURSELF〜」は既にレコーディング済みだった。試しにやってみたら良かったので、そのまま使ってる。意外とちゃんと考えてるw 「クリスマス・イブ」の英語ヴァージョンは、逆カヴァーがいくつも出てきたから、オフィシャル版を作らなければと。それでアラン・オデイに頼んだ。アランは僕の作品では独占的な英語詞のパートナー。彼は作曲家として本国で一流だっただけでなく、僕のためには日本人でも理解しやすい歌詞を書いてくれた。
クリスマスイブの英語詞は、あの時点で確認できただけでも、勝手に作られたのが3つか4つあって、冗談じゃないと思って。(達郎の英語カヴァー集となった)ニック・デカロのアルバム『LOVE STORM』は日本制作だから、ツメが甘くて。僕だったら、もっとちゃんとやってあげるのに。もしあれをトミー・リピューマがプロデュースしてたら、全然違うものになってたと思う。ダメなのはニック・デカロじゃなくて、制作サイドの責任かと。
僕の「クリスマス・イブ」も30年もチャートに入れば、スタンダードなのかなw 前にも言ったけど、ビング・クロスビーの「WHITE CRISTMAS」がビルボードのHOT100チャートに17年間入って、季節商品だから入るのが当然、というクレームがあった。それでクリスマス・チャートなるものが別に作られた。日本ではそういう事は無いけれど、それでも30年以上も入るなんて、そうそうないから。ありがたいこと。
そもそも、そんな「クリスマス・イブ」のヒットがなければ、こんなクリスマスのアルバムなんて企画は、不可能だったから。その後もクリスマス関連の音源を求められたから、リマスター盤(20周年記念盤)にあれだけのボーナストラックが入ったわけでw クリスマスに限定された企画だけど、まあいろいろ作った。クリスマス・ソングに対する造詣はあって、もともと嫌いじゃないから。それに僕の場合、幸運なことに、親が子供に聴かせるというのがすごく大きくて。最近の新宿ロフトのライヴを見に来るような若い子たちも、親がかけているのを聴いて、育っている。サブリミナルで刷り込まれているんだね。
この93年にも「クリスマス・イブ」はTBCのCMソングに起用されてヒットして、12月11日にはTBSホールでのイベントに出演した。TBSラジオ「赤坂ラジオ」の150回記念で、松宮一彦くんに拝み倒されて。急だったから、東京在住のファンクラブ会員を無作為に抽出して、招待状を出したら、ほぼ全員来た。3人ライヴはあれが最初だった。3人で演奏したのは5曲くらいで、他はアカペラと弾き語りだった。最後に3人でやった「IT‘S ALL IN THE GAME」はアルバムに入っているのより、出来がいい。リマスター盤のボーナストラックに入れてある。TBSホールは300人も入らないけど、なかなかいいホールだった。ピアノも、良いピアノを置いてあった。色々細かい体験が、糧になっていく。普通のバンドでは予算の都合で、とても無理だったから、3人ライヴを考えて。ちょうど、このアルバムが出たから、1曲目を「MY GIFT TO YOU」から始めて、アカペラ、弾き語り、3人で、という構成で、2時間ちょっと。20曲くらいやった。
次への萌芽というか伏線というか、そういうのは結構ある。だから色々やると良いんだ。クリスマス・アルバムを作っておいて、良かったと思う。夏フェスに出ると、夏フェスのノウハウみたいなものが身に付くし、それが何かに役立つ可能性もある。なんでも経験、人生に無駄なことはない。
この時期の、作品的な低迷というより、技術的な低迷、メンツの問題とか、そういう時期だったけれど、そんな体験がなくて、90年代にコンスタントに活動していたら、結構大変だったかもしれない。あの時期に休めてたからw 妙に押し出さなくて良かったと思う。バブルの時代、アルバムのセールスが200万、300万枚っていう時に、無理にツアーをやっていたら、行き詰まっていたかもしれない。
【第46回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第45回 ツアーPERFORMANCE ’91-’92と『QUIET LIFE』(92年10月発売)

<ツアーメンバーが安定したし、体も鳴っていたから、やりやすかった>
ARTISANのツアーPERFORMANCE ’91-’92から、難波(弘之)くんが戻った。彼はレコーディングメンバーだし、そのままツアーもできるから楽で。
あとはコーラスのトップをCINDYから高尾キャンディに変えて、男性コーラスに佐藤竹善を入れた。CINDYがロスに行っちゃったので、佐々木久美が代わりに連れて来たのがキャンディで、彼女はとても気立の良い女性で、僕とはとてもウマが合った。それに重実(徹)くんがそのまま残ってくれた。彼の演奏には不安なところがなくて、安心して任せられる。演奏メンバーが安定して、スタッフも変えたので、お互いの軋轢みたいなものも減った。ミュージシャンにしろ、スタッフにしろ、メンツを変えると新たな緊張感が生まれて、それがイイ方に働く。ところが5年くらいするとまた、アイツが嫌だ、こいつが嫌だ、が始まるw
ツアーメンバーは青山純伊藤広規椎名和夫難波弘之重実徹土岐英史佐藤竹善、佐々木久美、高尾”キャンディー”Nの9人。難波くんに加えて、土岐さんも椎名くんも帰ってきて、ほぼ全員がレコーディングメンバーだけど、ARTISANはほとんど一人きりで録音したから。生リズムを使ってるのは「SPLENDOR」とドラムだけを被せた 「ENDLESS GAME」だけで。
『僕の中の少年』の時に色々試したけど、全部生ドラムだと時代性というか、真新しさが不足してきて、マシンの音像の方がいいかな、という時代の変わり目だった。『POCKET MUSIC』『僕の中の少年』『ARTISAN』の3枚がそうで、ARTISANは特にそうだった。あとはローランドD-110と、パソコンで動かせるシーケンサー、それを手に入れて、自宅でリズムを構築できるようになった。だから「アトムの子」みたいな曲もドラムのパターンを家で一生懸命、ああでもない、こうでもないと打ち込んでた。シンセで作った世界観は、あの時代に合っていた。
この時のツアーは1曲目がアトムの子で、そこから「ターナーの汽罐車」に繋げて、あの頃はちゃんとアルバムの曲をやってたんだな。「SPLENDOR」も「ENDLESS GAME」もやっている。メンバーが変わって本当に安定した。やっぱり、難波くんが戻ったのは大きかった。
ライヴで再現できなかった曲もあった。今になって考えると、あのあたりから曲想の幅がまた広がって、一人のドラマー、一人のベースでは再現しきれなくなっていった。ARTISANだと「さよなら夏の日」や「MIGHTY SMILE(魔法の微笑み)」なんかが、自分の意図通りにならなくなって。特定の曲ができないと、座付きとしては困る。まあ僕に限らず、日本人は欲張りなので、あらゆるスタイルを一人のミュージシャンでやろうとしてしまう。ライヴはその人の特性に合うようにするしかないのに。そういう具合に時代が変わっていって、今もそれは続いている。
結果、ARTISANのリリースツアーであっても、取捨選択してセットリストを組む。このあとのCOZYのツアーはもっと悲惨で、アルバムから2曲しかやっていない。「DREAMING GIRL」や「ヘロン」はステージでの再現性がないから、そんなのばっかり。ARTISANはCOZYに比べると、まだ再現性があった。もっとも「ターナーの汽罐車」はあの時よりも、今のアコースティック・トリオでの方が、曲本来の情緒が出せている。だからこのツアーは、ギリギリのところで成立させていた。
エポックだったのは「アトムの子」のドラムループ、ジャングルビートをステージでやるというのは、なかなかのアイデアだった。あと「LA LA MEANS I LOVE YOU」がJOYに入っているテイクより、このツアーの時の方が良かったw やっぱりキーボードが大きい。
セットリストを改めて見ると、意外と80年代を踏襲して「プラスティック・ラブ」や「RAINY WALK」、「風の回廊(コリドー)」もやってる。なかなかいいセットリストw それと「クリスマス・イブ」がヒットして、だからそういうのもあって、クリスマス・ネタが少し増えてきた。「BELLA NOTTE」もそうだけど、ライヴの構成に「クリスマス・イブ」効果が出ている。このメンバーでできるようになって、それまでは人間関係で、いろいろあったから。
佐藤竹善はコーラスとしては新人で、人のバックでコーラスやるなんて初めてだったから。でもライヴの進行やアレンジの持って行き方、つなぎ方とか、このツアーは彼には相当に勉強なったと思う。
80年からツアーを始めて、91年だから、コンサート・ツアーも12年目。途中で1、2年のブランクはあるけど、基本的には毎年、最低でも1年おきにやっていて、回数だと10シーズンか。これだけやっていれば、体が鳴っている。体は楽器だから、オペラと同じで発声に対して体が共鳴する。声帯は使わないと共鳴しなくなってしまうから、10年もブランクがあると歌えなくなるけど、この時代はこれだけライヴをやっていて、コンスタントに声も出しているから。もっとも今の方がもっとやってるけど。
体が鳴ってる時にレコーディングすると、音域が、特に下が伸びる。だいたい僕の実用音域って、EからEまでの3オクターブなんだけど、ライヴの直後だと下のCぐらいまで出せる。その時に歌うと、ベースがとにかく鳴るからいい。やっぱり声は出してないと、ちゃんとは出ない。当たり前だけど。
この流れがアルバムSEASON’S GREETINGS(1993)へ続いていくんだけど「クリスマス・イブ」景気もあって、バブルだし、クリスマス・アルバムのアイデアはあった。当初は全部フルオーケストラのアルバムを作ろうとも思ったんだけど、そういうのってあまり自分の好みじゃなかった。だったらアカペラとのミックスにしようと。
ツアーが92年3月に終わって、まりやの『QUIET LIFE』、続いてシングル「MAGIC TOUCH」や「ジャングル・スウィング」があって、それからSEASON’S GREETINGS。この時代はよく働いているw
新曲では、ツアー中の92年2月にリリースしたシングル「アトムの子」のカップリング曲「BLOW」。このシングルはアルバムARTISANの後発シングルで、「BLOW」はアメリカズ・カップというヨットレースのタイアップ曲だった。作業は発売の間際、1月ごろにやっている。制作はだいたいいつもそんな感じ。前回のレースのビデオをもらってきて、それを見ながら曲を作ったんだけど、はまるリズムパターンがあれしかなくて。あのリズムパターンだと本当にヨットの疾走感とバッチリ合う。演奏の難易度が非常に高い曲で、(伊藤)広規が全部チョッパーのダウンストロークで弾かなきゃいけなくて。でも、そのおかげで良いテイクが録れた。いま聴いても、ヨットとか、クルージングの映像とだったら、世界で一番合うだろうと。そういう意味では自信作。
「BLOW」はTBSの番組のテーマソングだけど、タイアップにはそれほど大した関連性はない。例えば日音(音楽出版社)が音楽の権利を獲得して、誰を候補にしようか、くらいの、そんな深い理由はない、まがりなりにもバブルだからw それが今(2019年)はだんだん3年先くらいまで、戦略を練るようになってきてる。この曲はRARITIES(2002年)に収録、そのライナーにも書いたけど、この曲のコーダのファルセットのメロディは、カーク・ダグラス主演のアメリカ映画「ヴァイキング」(1957年)のテーマからの引用で。戦いに敗れて死んで、船に火をつけて、海へ流すというのがラストシーンで。小学生の時に池袋で見た。急にそのテーマを思い出したから入れた。それだけw
シングルA面の「アトムの子」はキリンビールのタイアップ。いつも言ってるけど、あの時代のシングルはアルバムのためのパイロットで、B面は積み残しでずっと未発表、という形になる。それで2002年のRARITIESで回収、アルバムに収録させた。
  
<「シングル・アゲイン」の路線は完全に歌謡曲。アレンジには試行錯誤した>
92年のツアーが終わった次の日から、4日間で「マンハッタン・キス」(1992/同名映画の主題歌)を仕上げた。この時は青山純が旅行に行っちゃって、ドラムは島ちゃん(島村英二)。テナーサックスも人が居なくて、本田雅人くんに頼むことになって。まりやとは1枚ごとに交替でリリースしていたから順番で。この頃はまだ30代で、お互いにタイアップの依頼も割と来てて、コンスタントに仕事をしていた。まりやはその前の年は、子育てもあって、1年間仕事をしてない。僕も90年はラジオのレギュラー(プレミア3)が始まったり、レコーディングはしていたけれど、ツアーはしなかった。そういう時期だった。
まりやの『REQUEST』がロングセラーになっていて、レコード会社からは早く次のアルバムを出せと言われていた。90年にムーンをワーナーに売却してMMGのレーベルになって、そうすると事業計画がいきなりタイトになって。僕の中の少年、JOY、ARTISANと続いたあとが『QUIET LIFE』で、二人分やっているから、ほぼ毎年出しているのと変わらない。ツアーが終わってすぐ通夜でレコーディングというのは何回かあるけど、この「マンハッタン・キス」の時は一番大変だった。その前は「恋の嵐」で、それも実質5日間であげなくてはならなかった。自分の詞曲じゃなかったから何とかなったけど。映画の公開も迫っていて、本当に締め切りギリギリだったから、本当にキツかった。
実は「マンハッタンキス」のオケは「ENDLESS GAME」の同じ音源を多用している。フレットレスベースの音とか、サンプリングのストリングスの音とか、そのまま流用して。そうじゃないととてもじゃないけど間に合わなかった。この頃はもうデジタル3348のレコーダーで、だいぶいい音で、コンソール卓も変わって、スペックもレベルアップしていたから、あまり時間もかからなくなって来ていた。ARTISANで結構良くなって、そこにまりやの新作が来て。常にこちらが塗炭(とたん)の苦しみを味わった後に、悠々とw アルバム・タイトルは静かな生活が好きだから、でしょう。アルバムには同名の曲もあるから、思想的なもの。彼女の中のポジティブ・シンキングさが出ていて、ペシミズムはあまりない。
アルバム『QUIET LIFE』は『REQUEST』と同じで、提供曲のカヴァーとか、そういうようなものを入れて、アルバムにまとめた。それよりも、この頃は子供が小学校に入ったくらいで、育児をずっとやっていたから、そんな中で母親同士のコネクション、リレーションが強くなっていって。”ママ友”というやつで、そこから得るコミニケーションに、情報がたくさんあったらしい。そういう一般の人との会話は、芸能人のスキャンダルなんかより生活感があって、面白い。まぁ面白いと言うのは変だけど、社会性があるというか。しかも、いろいろなライフスタイルの、インテリな人が多かったんで、そういう人たちとの交流や経験というのが、結構歌に反映されてると思う。「家に帰ろう(マイ・スウィート・ホーム)」とか。それは男の仕事の世界とは全然違うもの。市場調査というか、変装してファイレスに行くとか、そういう話も聞くけれど、ウチの場合はたまたま子育ての中で、良い人間関係が生まれて。純粋な主婦もいるし、働いている方もたくさんいて、それぞれに生活している、そういうコミニケーションはとても大事だね。作られたものじゃないから。いわゆるパーティーピープルとか、そういう作為的なものとは違う。本当の意味での生活レベルで、やりとりをしている。それはとても重要なこと。
シングル「マンハッタン・キス」が先行して92年5月に発売。それ以前にも「シングル・アゲイン」(1989)と「告白」(1990)がシングルで出ていた。「シングル・アゲイン」っていわゆる「イチバツ」と言われることを、なんとなくそう呼び始めた時代で、そこから発想して作った歌なんだそう。30代後半は学生時代からはもう遠ざかっているし、結婚もして、出産もする。世界観、社会観が変わっていく。昔の彼氏がどうしているか、そういうことを思い出したり、今のパートナーとの行き違いがあったり。
「告白」もなかなかよくできた曲で、どちらも日テレの「火曜サスペンス劇場」とのタイアップ。実は火サスの主題歌でヒットした曲って(8代目の)「シングル・アゲイン」(9代目の)「告白」の他は、岩崎宏美の(初代)「聖母(マドンナ)たちのララバイ」しかない。ベストテンに入ったのはこの3曲だけ。「聖母(マドンナ)たち〜」以来、久々にヒットしたのが「シングル・アゲイン」だった。この曲は前にも言ったけど、1位が獲れるはずだったのに、当時CDシングルの生産が間に合わなくて、工藤静香に負けた。品切れしていなければ1位を獲れた。
こういうミドル・オブ・ザ・ロード(MOR)ミュージックって、ありそうでない。当時日本の”こっち”の音楽シーンでは、そういうのをどこかでバカにして、誰も真面目にやらないし、やっていても、どこかで後ろめたさを感じている。それがダメなんだ。堂々と胸を張って、ミドル・オブ・ザ・ロード・ミュージック!って表現すれば、聴く人はちゃんといるのに。インチキロック文化人が、そんなのは軟弱だの、歌謡曲だのと言う。それで、わけのわからない路線に走ってしまって、アイドルとかもどんどんダメになっていく。アイドル歌謡というのはプロジェクトなんだ。アイドルというアイコンを頂点とした制作プロジェクト、それをフォローするのは作曲であり、編曲であり、演奏。でもそれは、しばしば金稼ぎの道具だったり、文化人の自己満足だったりに陳腐化する。
仮に他の人が「シングル・アゲイン」をやったって、あのオケにはならないから。それはすごく重要なことで。ゲイリー・ルイス(&ザ・プレイボーイズ)だって、確かにただのアイドルポップだけど、レオン・ラッセルみたいなバックアップで制作されているから、あのクオリティーになる。それより以前の、例えばポール・アンカのオケなんかは今じゃ、ちょっと古びてしまっている。スティーブ・ローレンスとかも。そこの差は何なのか。フィル・スペクターはあそこまで持っていっちゃって、やりすぎだという傾向もあるけれど、そういうこだわりは、とても重要で。
「シングル・アゲイン」のデモを最初に聞いた時、「これは、もろ歌謡曲だな、さぁどうしよう」って思った。だからアレンジに関しては、かなり試行錯誤した。「シングル・アゲイン」は本人も結構プレッシャーがあって、火サスの主題歌として、いろいろ考えた結果、この路線しかないと、この曲調になった。「駅」の有線でのヒットの結果を鑑みて、次の路線を考えるようになって。「シングル・アゲイン」がヒットして、やっぱりか、って半分安堵、半分失望があった、って当時は言ってた。やっぱり日本のヒットシーンはこういう路線じゃないとダメなのか、ってね。
そういう感覚については、桑田佳祐くんも同じようなことを言っている。昭和歌謡への寄り方というか。ヒット曲ってそういうものらしい。僕にはそういったことが全然わからないから。「シングル・アゲイン」のオケは結構苦労した。でも本当にヒットしたから。見ていて気持ちいいくらいに。服部克久さんのストリングス・アレンジにすごく助けていただいたんだけど、服部さんも歌謡曲のツボをよくご存知だな、と思ったw 歌謡曲と、そうでないモノとの境目というのがある。
僕は“門前の小僧”みたいにして、マッチの曲を、筒美京平さんがずっとやっておられたのを横で見ていたから。自分の中には、そういうまさに歌謡曲の“寄っていく”という感性を持ち合わせていないから、学習して、研究して、自分の中で作っていくしかない。だから、しょっちゅうはできないけど、時々「硝子の少年」みたいな時に、それを思い出す。
  
<『QUIET LIFE』は時期的にも、技術的にも、幸運なアルバム>
まりやの活動方針を「在宅の歌手」とか「シンガーソング専業主婦」とか言ったのは、ただのシャレでしかなかったんだけど、妙に言葉だけひとり歩きしちゃってw 彼女はテレビに散々出て来た人なんで、それによる消耗というか、そこに対しての拒否感がすごく強かったから。そんなことをやりたかったんじゃないのに、アイドルの代わりをさせられたというか。アイドル不在の時代だったから。ピンクレディー松田聖子の間にデビューして。あの時代の同期は、杏里とか桑江知子とかみんなそんなスタンスで戦わされたけど、彼女たちも同様の不満を持っていて、脱却したかった。
でも、まりやは自分で曲が書けた、たまたま。欲がなかったと言えば、それまでなんだけど。だからこの頃になると少し欲が出てきた。作家的な欲というか、それが一番顕著に出たのが「シングル・アゲイン」だった。テレサ・テンが歌ったら、とか、シミュレーションしたとか。まりやも桑田くんと同じで、幼少の頃からの歌謡曲に対する造詣がある人だからね。僕なんかとは違う。もともと身に付いているものだから。
私小説じゃなくて、全部フィクション。そういう意味では非常に作家的。だから不倫もしてないのに、どうして不倫の歌が書けるんですか、とか。まりやの提供曲も含めて、不倫がテーマの歌は意外と多い。鈴木雅之に書いた「GUILTY」なんかはそういう歌にしようと狙って作った。雅之はあれだけR&Bをやっているのに、不倫の歌がほとんどなかったから。R&Bにはそういう歌が多い。
不倫というのはクリスチャニティーにとっての背徳だから。GUILTY(道徳的な罪)というか、そういう背徳的なものに対して敬虔(けいけん)なクリスチャンはものすごい拒否反応を示すけど、背徳的なものへの密かな欲望は、人間の業だから。そういうスキャンダラスなものを題材にした作品の需要は、昔から途絶えたことがない。近松門左衛門の心中ものと同じ。フィラデルフィアサウンド最重要アレンジャーだったボビー・マーティンなんかは、それがイヤで仕事を辞めたんだと言う。「こんな汚らわしい歌を僕はアレンジしたくない」って、それがイヤなシンガーは、みんなゴスペルの方に行ってしまう。世の中の需要というか、生活の中での、ある種の憧れでもあるし、でも自分は踏み出せない、そこで、精神的な代用品としての歌だったり、小説だったり、というね。
この『QUIET LIFE』の数年後、制作の拠点だったスマイルガレージ(スタジオ)が閉まる。スタジオが閉まる前に作ったアルバムで、同期モノが多い。4リズムでやっているのは「家に帰ろう」と「COOL DOWN」と「シングル・アゲイン」くらい。これもARTISANの成果。それでバリエーションもかなり出てきた。アレンジに関しては、今みたいにプロツールスのスイッチを入れて、コンピューターを立ち上げて、リミッターを入れて、みたいなのがなくて、8チャンネルのアナログのテレコに、D-110をMIDIにつないで、すぐに電源を入れれば打ち込みができる。今とは全然違うから、楽だった。シンプルで明瞭。
技術の進歩と言われても、何が進歩しているのか、本当は良くわからない。そう思うとこの頃はなかなか良い時代だった。社会的な状況も、日本もバブルの最後のところだけれど、まだ本当に深刻なところには至っていない。だから技術的にも時期的にも、滑り込みセーフという幸運なアルバムだったと思う。バブルといえば、メッシー、アッシー、ミツグくんみたいな歌詞の曲(コンビニラヴァー)もあって、そういうの好きだからで。
これは余談だけど、この頃にレコード会社が採った新入社員の話がいろいろあって。「サタデー・ソングブック」が始まった時代、夜中の収録に、女子の新入社員が宣伝で来てたんだけど、夜の11時になったら、いきなり「勤務時間が終わったんで、帰ります」って勝手に出て行っちゃった。そしたら外にボーイフレンドがポルシェで待っている。結局、彼女は1ヵ月ぐらいしか、もたなかった。他にも、最初の出社日に、書類を届けに外出して、そのまま戻って来なくて、翌日に親から「辞めます」って電話がかかってきたりとか。そういうのは今でも鮮明に覚えていて、変な時代になったなぁと思った。
でも前にも言ったけど、文化の爛熟(らんじゅく)には、そういうばかばかしいものがないと、ダメなんだとも思う。そういう下世話で無駄なものも、文化を育てるかな、なんてね。逆説的だけど。
いずれにせよ、良い時代だった。このあとからが、大変なことになる。SEASON’S GREETINGSまではまあまあだったけど、だんだん自分の牙城が崩れてくる。スマイルガレージがなくなって、リズム・セクションも崩壊が始まる。スマイルガレージがなくなったのは、とりわけ大きかった。85年にできて、なくなったのが94年だから9年か。そこから4年間、ツアーもできなくなる。
  
<いい音楽を伝えようという使命感はもちろんある>
1992年にラジオ「サタデー・ソングブック」が始まる。向こうから話が来たんだけど、ちゃんとパーソナリティーをしたのはNHK-FMサウンド・ストリート」以来だったから。でも、レギュラーをやるんだったら、オールディーズの番組でなければイヤだと言った。新譜をかける番組だと、新譜をチェックしなければならない。そのストレスに耐えられないと思った。同期もののラップやヒップホップが出てきて、だんだん音楽の方向性も多様化してきていたから、番組制作のために新譜をチェックするのは無理だと思った。その点、オールディーズだったら、自分の既存の知識だけでできるから。
当時、土曜日は、昼の1時からが邦楽のベストテン、2時からが洋楽のベストテン番組。その後、オールディーズ番組ということで「サタデー・ソングブック」が始まった。土曜日の3時というのは難しい時間帯だったけど、割と評判が良かった。それが日曜の2時に移ってくれと。完全に向こうの都合で。当時一番難しかったのは日曜のゾーンで、イヤだって抵抗したんだけどw 移った最初は前の時間帯がキムタクで、後ろがドリカムだった。
土曜日の方が全然良かったし、やりやすかった。前が音楽チャート番組だから。それに日曜の2時というのは、行楽帰りの人や、日曜に営業してる店の人も多くて、聴取者層が雑多なので。いろんな人たちからハガキが来るので、それを受け入れて、いろいろ受け答えしていたら、レーティング(聴取率)が上がってきた。以来、日曜の2時を定位置にやっているけど、他の番組は、あの頃のものはひとつも残っていない。オールディーズ番組ということで、いい音楽を伝えていこうという使命感はある。啓蒙主義というか。それはNHKの番組をやっていた頃と同じ。「オールナイトニッポン」(1976年1月〜9月)でそれをやろうとしたら、毎週呼ばれてダメ出しされた。
そういうことをきちんと伝えられる人が今ではいなくなっている。ラジオに力があった時代は、レス・トーク・モア・ミュージックが最上だとか。イントロにナレーションの乗せ方の上手いDJとか、いろいろあったけど、もう時代が全然変わってしまったから。これだけ雑多な何でもありの時代では、きちんとした根拠とか解説を加えて届けないと、説得力が得られないから。それでもラジオの一期一会みたいな意外性や驚き、そういうものの力は今も大事だから。いわゆるシャッフル機能で垂れ流しされても、何も残らないでしょ。本来は聴くものは自分で選ぶのが、一番血肉化するんだけど、今は選択肢が多過ぎて、しょうがないところはある。
きっちりとした選曲と、あとはリマスタリング。 リスナーから「自分の持っているCDよりもいい音してる」ってよく言われるけど、それは四半世紀の努力の成果。オールディーズはその名の通り古い音源だから、技術的にもオーディオ的にも新しいものよりは、音がショボく聴こえる。番組を始めた時から、前後の番組が最新の新譜をかけているその間で、僕がバディ・ホリーなんかかけても音圧が負けて、どうしようもない。そこでリミッターとかEQとかを買い込んで、家でリマスタリングの真似事を始めた。はじめはそれをDATに入れて曲に持ち込んでた。その後、プロツールスができてきたおかげでデジタルリマスターのノウハウを導入して、クオリティーがさらに向上した。そうすると、それが自分の作品のリマスタリングにも応用できるようになった。人生無駄なものはない。それはそれで勉強になった。
憧れたDJは、ジム・ピューター。 オールディーズ、とりわけドゥーワップの基礎はジム・ピューターに教わった。ジム・ピューターはFENでポップスやロック、カントリーなど50〜60年代の曲を中心に「ジム・ピューター・ショー」を放送していた。有名なウルフマン・ジャック、あの人はDJというよりエンターティナーだから。僕はR&B好きだったから、ドン・トレイシーとかローランド・バイナム、このふたりがFENR&BのDJで、放送時間が夜だったり、昼になったり、コロコロ変わったけど、追いかけて一生懸命聴いていた。もうFENオンリー。
日本のDJだと、やっぱり福田一郎さんと中村とうようさんといった解説派。それに、どっちかと言うと「パックイン・ミュージック」(TBS)派だから八木誠さん。それから金曜深夜の宮内鎮雄さん。宮内さんはアナウンサーだけど、超マニアックな人で、とにかくオタク度がすごかった。「今夜の私のお客様はレターメンです」とか言ってw あの時代、そんなのどこにもなかったから。
2018年2月に雑誌ブルータスのサンソン特集、あれは大和田俊之さんと、彼の先輩の佐藤豊和さん、このふたりの功績が大きい。サンソンもずっと聴いてくれていて、大和田さんは「文化系のためのヒップホップ入門」の著者(共著)でもある。これは知らなかったんだけれど、ふたりともまりやの大学のサークルの後輩なんだよ。
雑誌で特集されて、まさかあんなに売れるとは予想もしてなかった。昨今は雑誌は売れないと言われていたけど、そんなことないんだな、って思った。雑誌はダメだとか、もうテレビの時代じゃないとか言われるけど、コンテンツさえしっかりしてれば、大丈夫なんだ。つまりは怠けているだけ。そういえばこの号はすぐに売り切れて、増刷もされた。僕の番組を聴いていた人が大人になって、こうしたものを作る、ありがたいことです。だから、音楽がなるなくなる事はないんだ。我々が聞いていいなと思った初期衝動みたいなものは、滅びる事は無い。ただ、その方法論が変わってきているだけなんだ。
【第45回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第44回 1991年6月アルバムARTISAN発売

<ARTISANは不満のほとんどない珍しいアルバム>
デジタル・レコーディングにも慣れ、作品作りもほとんどコンピュータを使ってやっているので、曲想が広がった。そうなると逆に、生楽器でやる演奏に不満が残るようになった。全部どこかで聴いたような音に感じて。POCKET MUSICの時は、ウワモノの変化で何とかなったけど、この時代になると生ドラムと生ベースでは違和感が出てしまうというか、CDの音世界がありふれたものになってしまう。リバーブがデジタル化して来ている時代で。いわゆるゲート・リバーブの音が全盛で。
それとサンプリングものがドッと増えてきて、ラップやヒップホップもかなり力を持ち始めてきたので、そういうものとどう対抗するか、と考えると、生ドラムと生ベース、生ピアノと生ギターでのんびりやっていることが、古びてコンテンポラリーじゃないな、と。だから結果的に生音なのは「ENDLESS GAME」「SPLENDOR」だけになった。「ターナーの汽罐車」も、普通にリズム隊で録ってみたけど、全然気に入らなくて、コンピューターに変えたり、それの繰り返し。「さよなら夏の日」もそう。「アトムの子」はもともと家でコンピューターを組み立てたジャングル・ビートの曲だから、生では再現が不可能で。POCKET MUSICからの延長で、いろんなものがどんどんデジタル化していく時代。この頃にはアナログのテープレコーダーも無くなって、完全に3348(デジタル48ch)になっている。いろいろ抵抗して、マスターもアナログのハーフインチにしていたけど、それすらもう1630のUマチック(SONY PCM-1630)になってきていた。
ちょうど「クリスマス・イブ」が1位を獲った時だから、知名度も上がったり、しばらく遠ざかっていたシングル・ヒットも「ゲット・バック・イン・ラブ」「ENDLESS GAME」がベストテンに入るようになって、思った通りの展開になって来てはいた。ライヴは人間関係がちょっとぎくしゃくしたこともあって、レコーディングの方に集中するっていう意識で。一種の逃避かなw POCKET MUSICから延々と、コンピューターで作曲してパターンを作っていたけど、D-110(ローランドの音源モジュール)が非常に優れていたので、それを使って、家で打ち込みで形を作れてしまう。それをスタジオにそのまま持ち込んで、家で作ったデモと同じ音像で構築できるから、デモと本チャンの音の差が縮まって。「さよなら夏の日」とか「ターナーの汽罐車」とかが、そうで。楽曲選択の尺度が変わって、MELODIESと比較すると、バリエーションが広がってきた。
全てがデジタル化してきて、いろんなイクイップメント(機材)も替わったことに、やっと順応できるようになった。POCKET MUSICの時は自分の責任ではなく、ハードの進化が、自分の要求に追いついてなかったわけだけど、ようやくそれが叶ってきたというか。だからARTISANはそういう不満の無い、珍しいアルバム。リスナーの中には、機械的だナンだと文句を言っているのもいたけどw 何をやっても、何か言わないと気が済まないヤツがいつの時代にもいるのでw ライヴは割と交通整理して、 このアルバムが出たときのライヴは、その当時の数年のうちではスムーズに進行した。
理想と現実の落差がだいぶ少なくなって来て。具体的には楽器と、リバーブとかリミッターなんかの付帯機器、あとはレコーディング卓の性能が向上して、コンピューター・ミックスもだいぶ実用的になってきた。スマイルガレージ(スタジオ)でずっとやってきたけど、スピーカーのアンプの調整とかも、この時期にかなり改良した。スタジオそのものは、1985年に建てたんで、機能を新しくすべき時期だった。
スタジオには相当予算をつぎ込んだ。 誰もやってくれないから自分で。チャンネル・デバイダーっていう周波数を分割して、それぞれの帯域をスピーカーに分配する機材があるんだけど、それが安物だったから全て替えたり、パワーアンプの駆動もスマイルガレージはブースが大き過ぎて、それまでのスタジオで使ってたアンプのパワーじゃ全然音が鳴らないので、BTL駆動にしてパワーをあげたり。低予算で建てたスタジオだから、初めはそういうところにお金をかけられなくて、仕方がないので自費でなんとかした。誰もやってくれないから。
ソニーの乃木坂スタジオとか、昔の信濃町スタジオなんかは、金がかかってるレベルが違いすぎるしw 我々みたいに小さな事務所が持ってるスタジオが、敵うわけがない。どこの部分を改善するか、色々と勉強して対処してきた。スマイルガレージは当時いろいろなレコーディングをしていて。渡辺美里から始まって、ハウンドドッグや、槇原(敬之)くん、小室(哲哉)くん、TM NETWORKもほとんどここでやっていた。そういうところで、どこに手を加え、お金をかけるべきか。オーディオの知識が、それで鍛えられた。いろんな人の所へ聞きに行ったりもしたし。
フォークの人たちが売れたら別荘やボートは買ったけど、スタジオなどは作らなかった。銀座でお金を使うとか。細野さんはLDKスタジオ作ったでしょ、そこがミュージシャンとそうじゃない人との違い。
  
<「アトムの子」はあくまで個人的なトリビュート・ソング> 
ARTISANは曲を片っ端から作って、その中から選ぶ方式。先行シングルとして「ENDLESS GAME」や「さよなら夏の日」は出ていて。FOR YOUの頃からオーバーフローして常に録っていたから。
収録曲1曲目「アトムの子」は一番最後に作った。どうしても、もう1曲欲しかった。このリズムパターンは打ち込みの練習というか、いろいろ研究していて、ジャングルビートを使って何かやろうと思ったときにパッと浮かんだのが手塚治虫さんで。手塚さんは数年前に60歳で亡くなっていたから(89年没)。その時に書いた訳ではないけれど、亡くなった時に「鉄腕アトム」を単行本で買い直していた。そうしたら、月刊雑誌「少年」で読んでいたアトムの別冊付録の、ストーリーはもちろんのこと、吹き出しからコマ割りまで、恐ろしく鮮明に覚えていた。手塚さんの作品で一番好きなのは「火の鳥」の望郷編や未来編なのに、記憶の中の泉が「火の鳥」よりも「アトム」の方がはるかに大きかったという驚き。これは凄いと思って、「僕らはアトムの子である」と発想した。ドラムのパターンは打ち込みでいろいろ作っていたから、これに乗せてしまおうと、締め切り前の最後の一週間くらいで、歌詞を書いてダビングして、間に合わせた。
ジャングルビートの実験というのは、ローランドD-110を使って、シンセのドラムで、ドラムソロが作れるか試していた。最初はベンチャーズの「WIPE OUT」(オリジナルはザ・サーファリーズ)とか、ボ・ディドリーとかをやってみたけど、平坦であまり面白くなくて、もう少し厚みが出ないかな、って考えついたのが、メル・テイラーのカヴァーで知った「DRUMS A-GO-GO」で。まずはサンプリング音源のタムを何種類も重ねてやってみたけど、音が厚くならなくて。当時のサンプリング音源は、メモリー容量が少なくて、一つの音のベロシティ(音の強弱を表す数値)を調整して、あとはVCF(電圧で音声信号の倍音成分を制御する機能)で音を固くしたり、甘くしたりするだけ。でも、それだとリアリティーが全然出ないので、同じタムを強、弱、中、で6段階くらい別々にサンプリングして、それで変化を出した。さらにその上に、本物のタムを数種類重ねて、ようやく厚みが増してきた。こういう話をしてると「DRUMS A-GO-GO」のパクリなどと言われるけど、とんでもない。リズムパターンの再現性を目指すだけで、大変な手間と時間がかかってる。まあ、やってごらんよ、こんなグルーヴなかなか出せないから。アトムが大きな石を持ち上げたり、地球をぐるぐる回ったりする、そういうイメージw
この曲はのちに「手塚治虫2009」(NHKの企画/2009年)のテーマソングになったり、他にもビールのCMとかに使われたけど、娘のるみ子さんが手塚さんのことをやるようになったら、いろいろ話が来て。別にそういうつもりで書いた訳ではないんだけど。一応、手塚さんへのトリビュートソングでもあって、歌詞カードにも”Tribute to The King O.T.”とは入れたものの、あくまで個人的なもので。タイアップは結果論だけど、当時はそういうものもあっていいかな、と。音楽、特にロックンロールで鉄腕アトムとか、手塚治虫を題材にした人はあまりいないけど。自分にとってのアトムだから、人と共有しようという腹は全くなかった。かなりの共感を得たのは事実だけど「クリスマス・イブ」と同じで、リズムパターンがずっと続くだけで、楽曲的にはそれほど面白い曲じゃないし。むしろ歌詞の方に重要度があるので、わかりやすくするためにメロディーを簡単にした。大サビのところでクライマックスが来るから、そこで変化をつけるために伏線を敷いたり。
昨年の「REBORN」(2017)とあまり発想は変わらない。ピンク・フロイドがやっていることにも似ているかな。「REBORN」は”魂は決して滅びることはない”っていう一点に集中した曲で、そこで歌が終わってしまうとつまらないから、ギターソロを入れた。同じ理由で「アトムの子」は後半にコーラスを杉真理くんと、まりやにも手伝ってもらった。あとタイトルは「アトムの子”等(ら)”」にするつもりだったけど、各方面からの反対にあって実現しなかったw SFっぽくていいと思ったんだけどw
2曲目「さよなら夏の日」は少年時代の、流れるプールの思い出。音のことを言うと、本当は当時のブラコンみたいな感じを想定して作ったんだけど、R&B風にメロディーを崩したりすると、面白くも何とも無くなって。だから、あくまでメロディーラインに忠実に歌っている。「ゲット・バック・イン・ラブ」なんかと同じで。そのかわりに代理コードに凝ってる。一番、二番までは普通なんだけど、大サビに行って、途中で半音を上がった後のBメロのところで展開する代理コード、それを考えてた方が、メロディーを作っている時間よりも長かった。代理コードを使うかはアレンジャーの領域だろうけど、あの頃はみんなそうやっていた。
今の潮流は、アレンジが複雑怪奇になって来ている。コードだけでなく、ビートまで変わったりする。表現主義というか、いきなり止まったり、楽器がなくなったり。それじゃメロディーが頭に入らないだろうって、僕なんかは思うけど。時代だね。楽曲の構成が単純化してたり、バンドの演奏力が不足している分、勢いを出そうとするとそうなるのか。僕らの時代はそうじゃなくて、リズムパターンは同じで、コードだけを変える。それは非常にジャズ的な発想で、なぜならジャズはダンスミュージックだから、ビートは止めない。今の若いバンドの音楽は踊れない。こっちはグルーヴを殺しちゃいけないから、コードだけを変える。そういうのを好きだからやってる。
「さよなら夏の日」と、次の「ターナーの汽罐車」はコンセプトが全く違って、「ターナー」はそういうコード・チェンジが全くない。”トレイン・ソング”だから、淡々と行く。「恋のブギ・ウギ・トレイン」も同じで、汽罐車の歌だから、そのイメージがないとダメ。途中で止まっちゃういけない。「ターナー」は曲先で、シドソド、シドソド、っていう音に合うコードを考えた。結局は循環コードで、8ビートにして、このビートで歌詞はどうしようか、と。曲自体が耽美的なものになったから、だったら、難波(弘之)くんにピアノ・ソロを弾いてもらおうと思って。彼はこういうの、上手いからね。部分部分をだんだんと、粘土細工みたいに作っていくっていう、そういう発想はシンガーソングライター兼アレンジャーだから、可能なんだ。
  
ターナーの絵が掛かっているような店があればいいな、と思っただけ>
青山のCAYっていうレストラン・バーにドラマティックスを観に行って。終わってから飲んでいて、トイレに行こうとしたら、通路の廊下で黒いボディコンの女の子がうずくまって泣いてたの。多分、彼氏とケンカしたかなんかで。それでひらめいた。そうか、ケンカしたんだ、会話がないんだ、店の壁に絵が掛かってるとしたら何だろう、そうだターナーにしよう、って。一種の連想ゲーム。泣いてた女の子のインパクトから生まれた歌詞w バブル全盛、ボディコン、その時観たライヴより印象が強かったw ターナーは好きだったけど、ポンと思い付いただけ。当時のカフェ・バーなんて、ろくな絵が掛かってないし、掛かっていたとしても、センスが僕の好みじゃない。せめてモンドリアンくらい掛かっていれば。ターナーのでっかい絵が掛かっているような店があればいいな、と思っただけで。
この”雨、蒸気、速度——グレート・ウェスタン鉄道”は、ターナーの作品の中でも特に好きな、印象派の先駆というか、朦朧体(もうろうたい/描法のひとつ)というか、そんな絵で、僕にはちょっと特別なもので。おぼろげな汽罐車、それを男女間の倦怠とのタブルミーニングにした。発想はずいぶん昔からあって、でもそれをどういう曲にするかが難しくて。生ドラムと生ベースでやったんだけど、これもドラムマシーンじゃないと、アーバンな情感や汽罐車の疾走感が出なくて、いくつもテイクを録った。
4曲目の「片想い」は音源モジュールのリズムパターンから作った曲。専門的に言うとシックス・ナインスというコードの響きと、シンセの音色をD-110で作った、このリズムパターンとコード進行で想定する空気感があって。5月の、春の温もりの中でデートしてる彼女に、このまま友達でいて、と言われてしまうという、これは高校とか大学時代のワンシーンという想定なので、出てくるのは記憶の中の彼女なんだけど。歌詞に”ビデオ”ってあるのはまだビデオテープの時代だったから。”ピンクのカーディガン”は単なる小道具。優しいことがいつも正しい訳じゃなかった、そういう片想いを歌ったけど、タイトルは平凡だよね。浜田省吾くんの曲にもあるし、どうしようかなとは思ったんだけど。タイトルは難しい。
マービン・ゲイの「SEXUAL HEALING」みたいな、いわゆるテクノ・ソウル、R&B。あんなチープなのは嫌だから、もっと厚くしないと。アイズレーとかジャム&ルイスとかみたいに。
とにかくこの時期の音作りは、全てにおいて、日本では他にあまりやっていないことだった。そういう意味では、割とバリエーションが多かった。でも、もし「片想い」をヤオヤ(TR-808)で「SEXUAL HEALING」くらいの厚みでやってたら、たぶん今じゃ古びてるだろうね。自分で言うのも何だけど、このポリリズム、凝りに凝ってるから。
5曲目の「TOKYO’S A LONELY TOWN」はトレイド・ウインズ「NEW YORK’S A LONELY TOWN」のカヴァー。これは萩原健太と飲んでて、デイヴ・エドモンズの替え歌「LONDON’S A LONELY TOWN」の話になって、じゃあ、TOKYOがあってもいいじゃないか、と。エドモンズのヴァージョンは海賊盤だったけど聴いていたし。だいたいオリジナルの「NEW YORK’S〜」も向こうでの発売当時は、日本では聴いてる人なんてほとんど居なかった。レッド・バード(レーベル)系のコンピレーションに入ってるって、長門芳郎くんが教えてくれて、それが僕が20歳かそこら。アンダース&ポンシアなんて、その頃は誰も知らなかったし。「NEW YORK’S〜」はオンリー・サーファーボーイの歌だから、ロンドンも寒いところだし、東京も寒いから、意外と合う。これ鹿児島とか暖かいところだと、ちょっと難しいねw
6曲目「飛遊人ーHumanー」はANAのCM曲。後半のインストがCM用に作った部分で、前半を弾き語りにして仕上げた。MELODIESに入ってる「黙想」って曲があるでしょう。あれと似たような感じ。時代は完全にCDになっていて、このアルバムはアナログ盤が発売されなかった初めての作品だけど、僕の中にはまだアナログレコード、LPに対するこだわりがあったから、A面、B面という括りを作らないと落ち着かなくて、これを繋ぎにした。「TOKYO’S A LONELY TOWN」がA面の5曲目、「SPLENDOR」がB面の1曲目で、この曲は接着剤。
こういうのって散々やっていて、SPACYの「朝の様な夕暮れ」と発想は同じ。
ビーチ・ボーイズの「SMILEY SMILE」とか「FRIENDS」とか、あの辺の発想で1人でこもってやるやつ。「NIAGARA TRIANGLE Vol.1」(1976)を作ってる時、当時の国鉄のストで1週間、福生に閉じ込められて、その時にスタジオの16チャンネルを大瀧さんが使っていい、って言うから、それで作ったのが「朝の様な夕暮れ」で。その時から一人多重が結構好きになっちゃって、それが高じて”オンスト”になるわけ。初めは「SMILEY SMILE」みたいにノー・エコーのすごく暗い、ああいうのがやりたくて始めたんだけど。ピンク・フロイドとかキング・クリムゾンとか、いわゆるプログレの影響もある。あとはホリーズの「BUTTERFLY」とか、スモール・フェイセスの「OGDEN’S NUT GONE FLAKE」とか。
タイトルの「飛遊人ーHumanー」というのはCMのコピー。冬の歌だから、歌詞に”吹き越しの白い息”というのを入れた。 山の向こうでは雪が降っていて、こちらが降っていないんだけど、雪だけが山を越えてくるのを、吹き越しって言うんだ。高校の頃に、本か何かで読んで、どこかメモしてたのを思い出して。
7曲目の「SPLENDOR」はたまたま5リズムでレコーディングしたら、出来が良かっただけで。映画「未知との遭遇」(1977)で、宇宙船が降りてくる、あの感じで作りたいと思って。歌詞に出てくる”君の船”がそう。象徴的なもの。救済願望というか、こういうのはあんまり話さない方がいろんな受け取り方ができて、抽象性が保てるんだけどw 天文学が好きだった頃に感じていた、人間の歴史感覚とは違う時空感覚があって、広さや大きさもそうだけど、そういったものに、子供の頃から考えていたことやSFがくっついたりして、妄想が生まれる。この場合は自分の歌じゃない、君の船が降りてくるんで、救われるのは僕じゃなくて君かもしれない、そういう共同幻想が常にある。自分の願望とか、欲望とか、そういう共通認識みたいな、人も同じことを考えている、というのがある。党派制とかそういうもののいやらしさを味わったことがあって、それが嫌でアナーキーな性格になったんだけど、それでも社会的な存在というのは必ず、好むと好まざるにかかわらず、誰かとつながっていかざるを得ない。もうちょっと肯定的な、人と仲良くなりたくないと言う自分もいるんだけど、で、相手もそうなら何とか共通項ができる。「私はあなたとは違うんだ」と党派的になってくる。もし自分と同じような感じで、他人だって嫌いな部分と好きな部分が同じようにあるんだったら、嫌いな同士なら好き同士っていう、集合論的なものもあるから。そんなことを考えて作っている歌なんだけど、まぁ別にそんな事どうでもいいw 打ち込みでもやってみたけど、この曲に関しては5リズムで録ったもののほうが良かった。
  
シュガー・ベイブへの回帰、という方法論は常にある>
8曲目の「MIGHTY SMILE(魔法の微笑み)」は打ち込みのドラムとベース。生リズムでも録ったんだけれど、古色蒼然たるオケにしかならなくて、マシーンでやることにした。ピアノとギターは生で。ニューヨークでよくあるキース(KEITH)とかのシャッフル。まあ、ルーツはモータウン。ニューヨークとか、フィラデルフィアモータウンのシャッフルを真似している。ヒットするから。あの頃はフォーシーズンズから何から、フィラデルフィアサウンドと言っても、もともとはモータウンの真似だから。バリトン・サックスが入って。それまで、そんなのはなかったんだから。
この曲はなかなか歌詞が書けなくて、うちの奥さんに頼んだ。当時のライヴでは、アオジュン(青山純)のドラムが重くてできなかったんだけど、小笠原くんならできるかも。とにかく日本人ではこういう曲をやる人があまりいない。明るい音楽はあまり作れない。作れる人は疲弊していっちゃう。
この曲はシュガー・ベイブっぽいかもしれない。シュガー・ベイブに回帰しようという方法論はある。「土曜日の恋人」(1985)の時は”Back To Sugar Babe”でやろうとしたんだけれど、出てきた3324(デジタル24ch)がひどくて実現しなかった。「ミライのテーマ」(2018)だってそう。シュガー・ベイブは僕の独裁バンドだったから。特に初期はアレンジにしろ、ドラムのおかずひとつからピアノのフレーズまで、細かいところを全部自分で考えて決めていた。
9曲目「”QUEEN OF HYPE” BLUES」は(フランク)ザッパと言うか、
詞の内容というよりも曲想というか、音源モジュールをいろいろいじってて、ベースを思い切り2オクターブくらい下げたら、変な音になったから、そいつでなんか作れないかな、と。それでこのリズムパターンを作ったら、変なファンクだなあと思って。こういう音だと普通には歌えないから。それでバブル全盛ではびこってた”ヤラセ”をテーマにした。過去にも「HEY REPORTER!」や「俺の空」も、先にリズムパターンがあって作った曲。「俺の空」は家の前にビルが建って、空が二つに割れてしまった、という曲だけど、テーマから作った訳ではなくて、リズム素材から考えた曲。後付けだからあまり深刻なものじゃない。でもなぜか、女性リスナーにはウケが悪いw
10曲目「ENDLESS GAME」はドラマがあったから、こんな曲ができたけど、異色の曲。でも、ステージ映えする。自分のために作ろうと思ったら、できなかった曲だと思う。タイアップには、自分の作風が広がるという利点があるから、作家的な人間には良い。このあいだ、ある映画プロデューサーが言ってたけど、今の人はパターンが少なくて、よく言えばパーソナルな、悪く言えば内向的な、そういう表現しかできない。「これをもうちょっと明るい感じに」と伝えても、「いや僕はこれしかできないです」って。それじゃあ、映画の主題歌にならない。それに加えて利権が絡まって来たりもするし。僕はCM作家で鍛えられた座付きだから。ちゃんとドラマの世界を反映させないと。
11曲目の「GROOVIN’」はテーマソングだった(TOKYO FM)「プレミア3」のレギュラーが終わったばかりだったので、入れた。もったいないからw これは番組(放送は日曜午後12時台)エンディングのムードでアレンジしたんだけど、本当は、もうちょっとレイド・バックしても良かった。音源は100パーセント、D-110。「GROOVIN’」は映画「限りなく透明に近いブルー」のサントラ(1979)で歌ったり、山岸潤史が参加した「GUITAR WORK SHOP Vol.1 」(1977)内で、この曲のコーラスをしたりしてるけど、サントラは他人のアレンジだし、コーラスの方が全然マシだった。もともとリードヴォーカルを入れる企画じゃないから。インスト・アルバムだから、コーラスでいいわけ。
カヴァーが2曲も入っているのは、たまたまで。あくまでも流れの中でのカヴァーで。このあと、いろいろ問題が出てきて、スマイルガレージを閉めることになる。それが運命の分かれ道になって、スタジオジプシーが始まる。結果、次のアルバムCOZY(1998)まで7年、間が空いてしまった。
91年の大晦日にはARTISANが第33回レコード大賞のアルバム大賞(ポップス、ロック部門)を受賞した。レコード大賞は80年のMOONGLOW(ベスト・アルバム賞)以来で、その時は番組に出た。ARTISAN受賞の時は電話出演でいいと言われたけれど、ビデオ素材がないとダメだからと、スタッフがハンディカメラで「さよなら夏の日」のビデオを録って、それが放送された。まだ大らかな時代だった。 別に賞を獲ったからって状況も劇的には変わらない。MOONGLOWの時も出たくないと言ったんだけど、スタッフが「達郎さんがテレビに出てくれたら、田舎の親兄弟に自分の仕事をわかってもらえる」って泣きつかれてw それで、しょうがないから出た。ARTISANの時は電話インタビューで黒柳(徹子)さんに「なんで会場にいらっしゃらないの?」と言われて、「テレビが嫌いなんです」って答えたのかなw
【第44回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第43回 クリスマス・イブが初のシングル1位、89〜91年ARTISAN前夜

<「クリスマス・イブ」が人生最大のヒットになるとは、夢にも思わなかった>
89年11月ライヴアルバムJOY発売後、「クリスマス・イブ」が12月にオリコン・シングルチャート1位を獲得。88年にJR東海のCMに使用されて再ヒットし、翌89年も引き続きCMに使用されて1位になった。もう、これはきつねにつままれた感じw 
ただ、あのプロデューサーは古い知り合いなんだけど、彼に聞いた話によると、あのプロジェクトは”クリスマス企画”なので、古今東西クリスマス・ソングを数百曲単位で、1週間ぐらいかけてみんなで聴いたらしい。それで最後に残ったのがあの曲。つまり純粋に「クリスマス・イブ」という楽曲ありきで、全てが始まったという。よって、CMの映像が立派なPVになっている。バブルの時代に重なって、当時の好景気の中で、クリスマスの夜にレストランで食事をするとか、ホテルに泊まるとか、そういうものにうまくリンクした。ビジュアルが楽曲に合うものだったから、それが絶大な効果を及ぼした。
「クリスマス・イブ」は発売されてから1位になるまで6年6ヶ月かかっていて、これは最長記録らしい。その後も32年間連続でチャートに入っていたり、変わった記録ばかりw もともとはムーン移籍第一弾アルバムMELODIESの中の1曲で、83年6月に発売されたけど、当時の新聞の取材か何かでは「なぜ6月の発売のアルバムにクリスマス・ソングが入っている?」と言われたw  このことは前にも言ったけど、あの時代はアイドルは年に3枚、つまり4ヶ月に1度のペースでアルバムを出すようなローテーションで、必然的にそれは季節商品としての色合いが増す。それに比べて、僕らは年1度のリリースで、下手したら2年に1度くらいのペースになる。だから一過性のものよりも、曲がどれぐらいの耐久性を持っているか、に着眼して作っているから、別に発売が5月だろうが6月だろうが、クリスマス・ソングには関係ない。5年、10年は持つものだから。それをいくら新聞記者に説明しても「ああ、そうですか」みたいな反応だった。当時の文化部の記者は、毎日毎日タレントのインタビューを、しかも1日に複数とかやって、くたびれてる。だから、そんな程度の質問しかできない。
それはともかく、せっかく作ったクリスマスの曲だから、クリスマス向けに何かしようということで、最初にやったのは12インチ・ピクチャーレコード。あれは2万枚作ったけど、レコード屋の店員が持って行って、ほとんど市場には出回らなかった。その後も、カラーレコードとか、カラーレーベルとか、趣向変えて何度か出した。
それにしても、CMに使われた初年度は15位で、翌年は1位。ベストテンにも数年連続で入っていたし。クリスマス・ソングというのは季節商品だから、やはり一発当てるとビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」と一緒で、ロングセールスになる。
実は「ホワイト・クリスマス」というのはビルボードのHOT100に17年間チャートインして、クレームが出たんだそう。クリスマス・ソングだからその季節にチャートインするのは当然だろう、と。で、クリスマス・チャートというのが別に作られた。いわゆる季節チャート。それで「ホワイト・クリスマス」はHOT100からは外れるされることになる。
ところが、日本にはそれがないから、僕のは30年以上チャートインしてる。その後も「ホワイト・クリスマス」は30数年間クリスマス・チャートに入り続けたけど、条件さえ整えば、あのままHOT100にずっと入れ続ける可能性もあった、と聞いたことがある。とはいえ、まさか自分の人生で最大のヒットが「クリスマス・イブ」になるとは夢にも思わなかった。1位を獲ったのはシングルではこれだけだし。僕の活動の主体はアルバムのリリースで、テレビにも出ないし、MTVにも興味がないから、PVも作らないので、大ヒットシングルなんて出にくい。
ましてやナンバーワンなんて、とんでもなく難しいんだよね。89年のまりやのシングル「シングル・アゲイン」はある理由で1位が獲れなかった。あの当時はCDシングルの生産量が、まだそんなに充分じゃなくて、工場の生産量が注文に追いつかなかった。その結果、大幅に在庫切れが発生した。あの時きちっと手当てできていれば、1位が獲れたんだけど。その直後に「クリスマス・イブ」でも同じ問題が起こって、またもや在庫切れが起こりそうになった。
そこで緊急対策として、ドイツにプレスを発注した。そのおかげで品切れが防げて、1位が獲れた。だから、あの年の「クリスマス・イブ」には、ドイツ・プレスと日本プレスの2種類が存在する。ドイツ・プレスは日本語表記ができないから、ラベルが英語表記だった。CDシングルが登場したばかりの頃だから、生産能力が整っていなかった。ジャケットが縦長サイズで。でも「シングル・アゲイン」の教訓が「クリスマス・イブ」で生きた。
あの時代は、僕はレコード会社の役員だったから、歌う取締役とか揶揄されてたw  小さい会社だったので、販促や営業に十分なパワーがなかった。だから根回しや、無理押しができなかった。「シングル・アゲイン」で、そういうことが起きたおかげで、その教訓が生かされた。それまでは、シングルはあくまでアルバムを売るための起爆剤であって、例えばFOR YOUからはシングルカットはなく、収録されている「LOVELAND, ISLAND」はCMのタイアップだったけど、シングルカットしないことでユーザーをアルバムに向かわせて、アルバムの売り上げを上げる、そういう戦略論が昔はあった。(「LOVELAND, ISLAND」はその後2002年にフジテレビ系ドラマ「ロング・ラブレター〜漂流教室」の主題歌としてシングルリリース。)
「クリスマス・イブ」の場合は、突如起きたことだから、バタバタはしたけれど、まあ、ありがたいこと。何度も言うけど、まさかあんなにヒットすると思わなかった。でも作品的には、自分の作ったものの中でも、ベストに入るクオリティーだし、それがロングセールスになってくれた。結局、その先は”時の試練”だから。当時はドラム・マシン全盛で、しかもまだ物珍しさ優先の、チープな音の時代だったから、そういう点では差別化ができた。
例えばワムの「ラスト・クリスマス」のオケなんか、そんなに耐久性はないと思ったもの。さらにああいう洋楽のヒット曲はレコード会社が、いわゆるコンピ(レーション)物とか、通販で売ってるようなベストのものにどんどん入れてしまうから。いわば売り切ってしまう。「クリスマス・イブ」はそういうことを一切やっていない。そんなにいろいろ入っていたら、いくら大ヒットしたクリスマス・ソングといえども、シーズンのたびにチャートインするなんてアクションも起きない。
それにしても僕の「クリスマス・イブ」が、数百曲の中からの1曲に選ばれた。その当時の古今東西クリスマス・ソングのコンペに勝った。それまで大体負けることが多くて、コンペには弱いんだけどw  あの時はシンパシーを持って、推してくれる人がいたから。
相手側からは途中経過の報告などはなく、既成の曲だし、許諾の確認があっただけ。多分ユーミンの「シンデレラ・エクスプレス」とか、一連のそういう流れがあったから。こっちは「クリスマスですか。ああ、そうですか、ありがとうございます」という具合で。こちらから戦略的にプロモーションをかけたわけではなかった。全く営業なんてしていない。そういうおおらかな時代だった。
バブルの時代だから、制作費の予算も潤沢で、クリエイティブなものにも、すごくお金がかけられた。そうすると、純粋に自分の審美眼とか、そういうもので動ける。JRも余裕があって、特にJR東海にはあったのか、一連の映像素材は、夜中にCMだけのために電車を走らせたり、終電後の駅を貸し切ってロケをしてた。JRの土地だから、自由自在にできたじゃんじゃないか。エキストラも大勢いて、実は僕もワンシーン出たことがあるんだけど(92年の”クリスマス・エクスプレス ’92”)すごいなと思った。いい時代だった。CMにお金が掛けられ、クリエイターの腕の見せ所、みたいな時代。
文化というのは、経済的に豊かな平和な時代にこそ、花開く。疫病が蔓延していたり、内戦に明け暮れたりしている場所では成熟しない。文化どころではないから。あの時代、いろいろ批判はあったけど、文化にとってはすごく良い時代だったと思う。今からすれば、そんなバブルのチャラチャラした生活しやがって、みたいな言われ方もするし、そういう連中には、僕なんかは「クリスマス・イブだけの一発屋」なんて言われるようになっちゃったw  笑っちゃうよ。過去の事は、今の尺度ではわからないこともたくさんあるのに。
ひとつだけ言えるのは、作品の耐用年数には絶対の自信があった。クリスマス・ソングって「クリスマス・イブ」がヒットしてから後も、当然数え切れないくらい出た。だけど、どうしてもクリスマス狙いというか、一発当てようとか、そういうあざとさが出てしまう。「クリスマス・イブ」はそういう下心が一切ないから、それはとても大きな要素だと思う。それに当時のアレンジの多くは、いわゆるニューミュージックの、デジタル・リバーブに中域がスカスカのトラックで、それじゃあすぐに陳腐化する。トラックとしての完成度については、初めから当てることを目論んだ季節商品では、なかなか深くは突き詰められない。
「クリスマス・イブ」がヒットしたことで”夏だ、海だ、達郎だ”だけでなく、夏と冬の2つが揃った。季語が2つあるのは僕だけ、って言われたよ。でも何度も言うけど、交通事故みたいなものだから。
要因はいくつもある。若い頃からずっとCMの仕事をしてきたでしょう。僕が21、2歳の頃から15年くらい一緒に仕事をしてきた同世代というか、少し下の世代も上の世代も含めて、当時クリエイターとしてイニシアチブを取れる年代の人たちが仲間だったから、そういう意味ではシンパシーというのはすごくあった。そういうところで支援してもらったというか、その結果だと思う。
   
<個性的な構築を実現するためにトライ&エラーを繰り返した>
「ゲット・バック・イン・ラブ」に続いてシングル「クリスマス・イブ」もヒットしたけど、自信みたいなものは全然芽生えなかった。88年発売の「僕の中の少年」くらいから、ようやくソニーのPCM3324が3348(48chデジタル・マルチ・レコーダー)になって、デジタルも、フィルターとか、クロック・ジェネレーターとか、周辺機器が発達してきて。
デジタルというのは波形が汚れるとダメだから、きれいにするためのデジタル・フィルターというのが開発され出して。アナログの場合はもともと位相は悪いし、帯域(音の振動の幅)がそんなに広くないから、少々ギザギザでも、それがかえって歪みになってよかった。でもデジタルはすごくシビアだから、きちんと時間軸や音の出入り口の管理をしないと濁る。ジッター(デジタル信号の揺らぎによる音の乱れ)とか、そういうのを防ぐためのいろいろなノウハウがだんだん発達してきて。
あとはデジタル・リマスタリングという方法論が出てきた。僕が初めて本格的にデジタル・リマスタリングをしたのが89年で「クリスマス・イブ」がヒットした頃、まりやの「告白」(1990)からデジタル・リマスタリングがちゃんとできるようになった。それでARTISANに続く。ライヴ・アルバムJOYの時は、まだちゃんとしたデジタル・リマスタリングというものはなくて。ARTISANが、ちゃんとしたデジタル・リマスタリングでアルバムを作った最初だから、結構インパクトがあった。
ARTISANは、いろんなノウハウをつぎ込んで出来たアルバムだけど、逆に批判も受けた。あのアルバムは、ほとんどマシン・ミュージックで制作しているから。
前にも言ったけど、ずっと前からコンピューターはいじってて、自分の使っていた8801、その後の9801でシンセを鳴らせるソフトが出てきたおかげで、家で打ち込みして、曲が作れるようになった。それは作曲の手段としては、本当に役だった。それまでは、スタジオにドラムやベースを連れて来ては、試行錯誤していたけれど、一人で家で無限にトライ&エラーができるようになって。あれがなかったら「新・東京ラプソディー」や「アトムの子」のようなパターンは絶対生まれなかった。人間ではできないことが、できるようになってきた。ARTISANはそこを狙ってうまくいったというか。そうすると、それまでのファンが「なんで生楽器でやらないんだ」とw 生ドラムでやっているのは「SPLENDOR」と「ENDLESS GAME」くらい。
POCKET MUSICの時は、ドラムやベースは比較的(生が)多かったけど。曲想がどんどんバラエティに飛んでくるというか、曲想を変えていくと「アトムの子」みたいに、機械じゃなければ、絶対にできないものが出てくる。あとはあの時代「さよなら夏の日」みたいな曲では、ドラムとベースが生だと、どこにでもあるような、ありふれたオケにしかならなかった。他とは違うものを作るための、コンピューター・ミュージックだった。
オーディオ的にもデジタルが発展してきて、何でもかんでもデジタルになって、例えばSSLのコンソールとかはいいんだけど、デジタル・リバーブの可能性の低さというか、何をかけても同じ、というような問題点があった。それを補填するためのマシン・ミュージックでもあった。僕の場合、アレンジも一緒にやっているから、そのファクターも大きい。詞と曲だけだったら、普通に作れるけど、それにどうイントロをつけて、どういう楽器編成にするか。それをバンド編成で、ドラム、ベース、ギター、キーボードという編成のレコーディングにおける他との差別化に、限界を感じてたから。
音色というか、音場、音世界というか、それをどうやれば、もっと個性的に構築できるか、それでいろいろやって、こうなった。ちょうどライヴ・アルバムも出して、その時に生音でやった手ごたえはあったけど、いろいろ問題があって。
それまで一緒にやっていたメンバーが、スタジオ・ミュージシャンとして売れてきて、忙しくなった。そうすると、こちらが最優先じゃなくなる。毎日3本、4本と仕事をしていたら、どれもがただのONE OF THEMというか、集中力が昔と違うとすごく感じて。あとはライヴでも、メンバー間がぎくしゃくしてきたりで、こんなことに神経すり減らすなら、機械でやったほうがいいと思った。
その頃のインタビューで言ったのは、生音(人間)でやるのと、機械でやるのとでは5人でやったら8人分ぐらいのことができるのは人間で、そんなのは当たり前のことだけど、それでもくたびれたミュージシャンよりは機械の方が良い、と。
当時は、打ち込みもシンセの音作りも、何もかも全部ひとりでオペレートしていたから、入れては消し、録っては消しを繰り返していた。今みたいにMIDIが一度にたくさん同期しないから、キックを録って、スネアを録って、ハイハットを録って、一つ一つ別録り。そんなことを延々やっていた。生音でやるのが良いのは当たり前、そんなことはわかってる。いろいろ言われてきて、もう27年ぐらい経ってるけど、結局、今でもこのスタイルだから。それで良かったと思う。
  
<”時代の音”にしないことが、楽曲の耐久性を生む>
だから、全て耐久性。最低でも、その曲を10年経って聴いたときに、チープじゃないもの。前にも言ったけど、ゲート・リバーブを一度も使わなかったから。時代の音を使わない事はとても重要。あの当時だと、デュラン・デュランとかジャパンみたいな音像、ああいうのは絶対にイヤだった。自分自身が聴いて、いいと思う音場。アンビエンスとか、なるべくデッドに、とか、そういうものに愚直なまでにこだわる。
あとは使い古された楽器編成に対する疑問。例えばARTISANに入っている「ターナーの汽罐車」も「さよなら夏の日」も「MIGHTY SMILE(魔法の微笑み) 」も一応、全部生音でトライしている。でも全然気に入らなくて。何か、古臭い。何を持って、新しい、古いというのは一言では言えないけど、あの時代の空気の中では古色蒼然に感じた。今考えると、演奏のテンションとか、そういうのがいっぱいあった。これじゃ70年代に僕がイヤだった、スタジオ・ミュージシャンたちと同じこと。だから自分専用のメンバー、ミュージシャンを集めたのに、やっぱり上手いから、取り合いになってくる。なかなか大変だった。
以前は基本的に年に1枚というか、そのくらいのノルマで(アルバム制作を)守ろうというのがあったけど、まりやがどんどん売れて来たので、交代で1年おきになった。91年のARTISANのあとが『QUIET LIFE』(1992)で、その前は『REQUEST』のあとが『僕の中の少年』(1988)。88年からツアーをやって、89年に『JOY』が出て、それから『ARTISAN』のレコーディングに入った。純粋にアルバム制作のためのスケジュールを組んで。スマイルガレージ(スタジオ)が、かなり機能してきたから。
アルバム・タイトルはPOCKET MUSICとARTISANは、完成する前からそのタイトルにしようと決めていた。
アルバムのタイトルでコピーとして好きなのは、この2作と『僕の中の少年』で、この3つは甲乙つけがたい。この3作品はある意味「シンガー・ソングライター三部作」。POCKET MUSICには”反文化人音楽”という主題が背景にあった。YMOの残滓(ざんし/残りかす)というか、インテレクチュアルな人たちによるプロパガンダに対する疑問というか。それなら職人のほうがいいなと思った。最近はちょっと考え方が違うけど、あの頃からアーティストという言葉がよく使われるようになってきて、自分で自分のことをよくアーティストなんて言えるなって、それがすごくイヤだった。それならばアルチザンかなと。この歳になると、職人には職人の抱える問題がある、ということがわかってきたけど、あの頃は職人気質というか、そういうものに憧れがあった。
例えば、これは当時もよく話してたことなんだけど、そろばんを作っている職人が、物差しを使わずに材料をはめ込んでいく、すごいと思う。他にもiPhoneが出始めた頃に、表面を研磨するのに20ミクロンまでは機械でできるけど、その先は人間の手じゃないとダメ、だとか。僕の祖父が職人の家系で。親父も長男だから、一応工業学校行って、技術者をやってた。僕も長男だから、そのまま行けば継いでたんじゃないか。
どっちかって言うと、僕は理系。理系で職人の血が流れている。だから、職人は本当に好きだった。官僚みたいなのがいちばん理解できない。それから芸能人とか文化人とか言われる人たちって、それこそ毎日、誰かと飯食いに行ったり、飲みに行ったりしてる。知らない人と交際し、盛り上がって、連絡先を交換して、みたいな事は、僕、ほとんどない。そういうことが好きじゃないというのもあるけど、そんな暇がない。ライヴだって交際のためにやってるんじゃないから。忙しい人ってみんなそう。
反文化人としてのアルチザン、だから、アナーキーなの。プロパガンダとレトリックが大嫌いだって、昔インタビューで言ったら、それだって立派なプロパガンダじゃないですか、って突っ込まれたけどw
    
<あの頃マイナスだと思った経験が、今ではプラスになっている>
アルチザンということで、2011年7月から8月までの4週にわたって、朝日新聞の土曜版の「仕事力」という連載で、「職人でいる覚悟」というタイトルで、取材を受けた。取材する側の視点がはっきりしている、いい企画だった。その2年くらい前に坂本(龍一)くんのインタビューがすごく良かったので、アルバム『Ray Of Hope』を出すタイミングで取材してもらった。
自分の中には、きちんと仕事をして堅実に生活をしていかなければならない、という思いがある。僕だって最初からミュージシャンになりたかったわけじゃないし。小学校の頃は結構貧困だったんだけど、生活が向上するとともに、あんまり勉強しなくなってきて、それで70年安保の騒動があって、これ幸いとドロップアウトしてしまった。他にもいろんなファクターがあって、例えば学校や教師とそりが合わないとか、あとは学生の空気。あの時代の都立高校の進学校というのは、そこかしこに競争意識が充満していて、僕みたいなドラム命のお菓子屋の息子には、違和感の連続で。あとは学校ぐるみの不正があったりとか、そういうのはサボるには最高の理由で。そのおかげで映画を観たり、本を読んだり、ジャズ喫茶に入り浸ったりして、今まで聴いたこともないジェレミー・スタイグ(フルート)とか、レスター・ボウイ(トランペット)とかを知って、勉強以外の見聞が広がった。それが今の自分を、とても助けている。
ロックやフォークのインタビュアーというのは、意地が悪いから、それに負けないように、こちらの理論武装ディベート能力がものすごく問われる。音楽好きでギターが好きで、でも、ただそれだけでは、全く評価されない。口数の少ない、心優しい、おとなしいやつは論理展開ができないから、一段低く見られる、そういう時代をくぐってきた。十代のあの頃にはマイナスだと思ったことも、後になったらプラスになる。すごく貴重な体験だった。
僕は60近くになるまで、高校卒業できない夢を半年にいっぺんぐらい見てた。3年生の時に留年して、1学年下の後輩と一緒になって、それがイヤになってやめる、そんな夢。ずいぶんと長い間見てたんだけど、最近ようやく見なくなった。高校3年生の時は、授業に半分ぐらいしか出ていないから、留年してもおかしくなかったんだけど、教師は僕みたいな生徒を置いておきたくなかったから、追い出すために卒業させたんだろうと。不満分子を学校に置いておきたくない。でも、授業中に勝手に教室を出て行ったりもしてたけど、それは自分が本当にやりたかったことではなくて。ここにはいられない、という十代の心理がトラウマになって残っているから、そういう夢を見ていたんだろうと。
シュガー・ベイブ時代は小遣い帳をつけていた。”夕刊フジ20円”とか。堅実というより、あの時代は本当に金がなかったから。風都市という事務所に入ったけど、給料はくれないし、印税ももらえない。そんな理不尽な話ないだろうって抗議に行くと、六本木の料理屋に連れていかれて「まぁ一杯」なんてごまかされたり。
若い時はいいかもしれないけど、しょせん浮草稼業。昔はバンドマンなんて、5年やって稼ぐだけ稼いで、スナック持ってやめる、とか。だから、もうちょっと賢い裏方というか、レコード会社の社員とか、セールスマンはできないけれど、制作でやれればいいな、なんて事は思っていた。自分の音楽はそんなにメジャーになれるわけがないだろうし、歌謡曲は書けないし。今もってなぜ現役でいられるか、自分でもわからない。ただ、その時その時の作品はこだわっていたし、一生懸命作ってた。みんなそれなりに作っているんだろうけど、執着度の問題か。
僕はシンガー・ソングライターで、アレンジも手がける。大抵の人はそこまではしない。若い頃はそこまでしないと、食べていけなかったから。アレンジもずいぶんやらされた。コーラス・アレンジをしていると、他人のオケを聴く機会がある。スタジオ・ミュージシャンだとパーツでしかないけど、コーラスってほぼ出来上がったときに聴くから、全体像が見える。そこで学習する努力をするかしないかで、差が出てくる。
当時はメセナという企業の文化、アート活動が盛んで、アーティストと言われる人たちも、そういうものにタイアップする風潮があった。レコードが売れていた時代。要するにニューミュージックというものが完全に市民権を得ていた時代。何百万枚も売れる人がいて、それが可能性と言えば聞こえはいいけど、逆に考えれば、一攫千金の野望を、ものすごく増幅させる。あるレコード会社ではミュージシャン同士が肩組んで「俺たちファミリーだ」なんて言ってたんだけど、重要なのはそこではなくて、個人のイデアを持ち得るかどうかなんだ。
レコードの音世界にしろ、ライヴの音世界にしろ、きちんとした自分のビジョンがどれだけ持てるか。それを100%担えるようになるまでは時間かかる。特にアレンジはある程度の知識がないとできないし、本音を言えば、ピンで歌っているやつがそこまで関わると、歌がおろそかになってくる。僕だって、もしもアレンジも作詞も作曲もできなくて、ただ歌だけ歌って40年やってきたら、もうちょっと歌も上手くなっただろうと。歌入れが最後の作業だから、いつも締め切りギリギリで歌わなければいけなかった。
予算も限られていて、最終的な仕上がりに不満が残っても、我慢するしかない。それにどうやって決着をつけるか。そのためには枚数を売るしかない。コーダのところにあと一小節足したいと思ったら、まだコンピューターを使う前の話だから、もうワンテイク録らなければいけない。だけど「今の君の売り上げではそれはできないから、やりたかったら、売上を上げなさい」と言われた。何のためのレコードを売る努力をしたかと言うと、もうワンテイク録りたいからで、別に有名になりたいとか、お金が欲しいとか、そういうのでは全然なかった。欲求があべこべなんだ。
ARTISANが出る前年、90年4月にシングル「ENDLESS GAME」を発売した。これはTBS系ドラマ「誘惑」の主題歌。連城三紀彦の「飾り火」が原作のドラマで(出演:篠ひろ子紺野美沙子林隆三吉田栄作宇都宮隆)、脚本は荒井晴彦さん。脚本家としては非常に有名な人で、荒井さんはどちらかというとバリバリのサブカルチャーで、のちに笠原和夫さん(仁義なき戦いの脚本家)のインタビュー本を出したりしている。「ENDLESS GAME」は原作の内容に倣(なら)って、不倫の歌。89年のツアーが終わった翌日からレコーディングして、三日間徹夜した。これも初めに打ち込みで作って、当たりをとって、それでドラムだけ本物にした。
この曲は「ゲット・バック・イン・ラブ」の完全な延長戦みたいなやり方で作っているけど、演奏もいいし、なかなかよくできている。3348(デジタル48ch)になっていたから、音も良い。ドラマのために書き下ろした曲だから、アルバムに入れる予定で作ったわけではなかった。確かいろいろ迷って、3パターンぐらい作ったと思う。ARTISANはもともとストックが少ないアルバムで、これが最初にできた曲じゃないかな。ムード歌謡と言うより、むしろユーロポップだと思うけど。いつもの歌い方だと全然オケにハマらなくて、マイクを低くして、うつむいて歌わないとダメだった。声を張っちゃダメ。そういう記憶があるw あんまりドロドロしてもイヤだから、「あまく危険な香り」のような抽象的な内容にした。このくらいじゃないと、こういう歌はダメなんだ。恥ずかしくてw ドラマの結末がわかってしまうような歌詞ではダメだから。発注側からの内容の指示は一切なかった。この頃は、そういうのは殆どなかった。
   
<「さよなら夏の日」のアレンジは打ち込みの勝利>
翌年の91年5月には(アルバムARTISAN発売に先行する)シングル「さよなら夏の日」が出ている。 これは第一生命のキャンペーン・ソング。バラードにしてくれというオーダーはあった。先に曲を書いて、詞をあとからはめた。なんでこのテーマにしたかは、あまりよく覚えてない。「さよなら夏の日」は『POCKET MUSIC』から『僕の中の少年』までの過程で、やりたい詞のテーマが具体的になってきた成果で。
これはいわゆるジュブナイル(少年期)ソング。まあ、時代も良かった。この時、僕は37か38くらいだった。高校の時にガールフレンドと、としまえんのプールに行ったことをふと思い出して。夕立が降って来て、虹が出て。その回想。美しい思い出。ジュブナイルから大人に転校していく。それが夏の終わりとオーバーラップする。そんなテーマでどういうものができるか、昔から考えていた。「悲しみのJODY」もそうだけど、秋が、人生の後半部分に入る、というイメージに重なって、それを膨らませた。
この曲も普通にドラム、ベース、ギター、キーボードと生楽器だけでレコーディングすると、ものすごく古臭くなる。だから、いじって、いじって、打ち込みで代理コードを色々考えて。ビーチ・ボーイズによくあるような、ルートに行かないコード進行を考えた。これは打ち込みの勝利。現場で考えながらアレンジしてたら、全然ダメだったと思う。打ち込みのデータは視覚的に全体像を把握できるので、そうすると、すごく、合理的なコード・プログレッションが作れる。「ゲット・バック・イン・ラブ」なんかも同じなんだけど、この時代はコンピューター・ミュージックにとても助けられた。ヘンテコなコード・チェンジが楽しめるというか。「さよなら夏の日」はドラムマシンとシンセベースの演奏だけど、このちょっとソリッドな感じじゃないと、夏の日の終わりの、東京の遊園地の流れるプールの、アーバンな感じは出ないと思った。関係ないけど、としまえんの流れるプールは水が冷たくてねw
「僕の中の少年」での少年時代の回帰、その流れと同じ。モラトリアム世代だから、そういう歌ばかり。”ピーターパン症候群”というような、そういうものと発想の源は同じ。高度経済成長からオイルショックを経て、再びバブルの時代でしょう。似たような背景がある。でも僕のは圧倒的に言葉数が少ないから、それほどの具体性は提示できないけど、その分、解釈の幅が広がる。
バラードと言っても、黒人系のバラードではなく、メロディーがはっきりしてる。黒人系のバラードでは、しばしばリズムパターンが主で、メロディーがあってないような曲がある。でも、日本ではメロディーの顔立ちがきちっとしてないと、受け入れられない。1991年だからデビューしてから16年経ってて、それは実感としてあった。だから「ゲット・バック・イン・ラブ」にもきちんとしたメロディーを乗せた。後はある程度の歌い上げとか、いろいろなファクターを散りばめていけばいいと。それに呼応する詩的な情感、そういうものを、どう加えられるか。そういうことがわかってきた。これまでの学習の成果。
ARTISAN(1991)は、アルバムのほとんどすべてをローランドD-110(音源モジュール)で作っていて、それをコンピューターで動かして、いくらでもトライ&エラーができたことが大きい。毎晩延々とやっていたから。事前に自分でシンセの音を作りながら。それだって、70年代、22、3歳の時に事務所で買ったシンセサイザーARP ODYSSEYで、シンセの音をまがりなりにもいじってたから。それに横には坂本くんがいたから、わからないことがあれば聞けばいいし。変なテクニック、たくさん知っていたからw
【第43回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第42回 Performance ’88-‘89とライヴアルバムJOY(89年11月1日発売)

<「僕の中の少年」のツアーは本当に大変だった>
「僕の中の少年」のツアーは、公演の延期や中止などもあった試練のツアーで、大変だった。いろいろなネガティブな要素が、複合的にどんと押し寄せてきた。組織やプランが円滑に運営できるのは、大体5年まで。
例えば”ベスト・オブ・ベスト”みたいな組織ができたとするじゃない? だけど、それは5年も経つと、どこか綻びが出てきて、修正を施さなきゃならなくなる。芸事の山谷(やまたに)って、7年周期とか10年周期とか、いろんな説があるけど、ライヴのプランやシステムなど、僕の場合、大体5年でどこかに問題が出るんだ。しかも、ほとんどの場合、僕にはあまり責任のない部分で。メンバー同士や、スタッフとメンバーの軋轢とか。例えばスタッフが5人いるとして、僕とそのそれぞれがなくても、スタッフ間のどこかが険悪になって、この人とはできないというか、この人といるんだったらやめるとか、そういうことがよくある。
80年代は毎年コンスタントにツアーをやっていたけど、いろいろな事情で演奏メンバーもそれなりに代わっていた。キーボードだけでも、82年で一旦難波(弘之)くんが抜ける。レコーディングには参加してるけど、その後ARTISANまでツアーには参加していない。その代わりに、野力奏一と中村哲が加入して、82年から85年の間までやってもらった。それで野力くんがやめて、86年には松田真人がキーボードに入るけど、その時に中村哲もやめて、その代わりに重実徹が加入した。重実くんは90年代から2000年代の頭まで、ずっとやってもらったけど、そういう入れ替わりの中で、メンバーやスタッフ同士でゴタゴタすることが少なからずあった。まぁ僕のところに限らず、他のほとんどの面でも同じようなことが起こっている。ジャンルや時代を問わずにね。
88年のツアーを始める前にいろいろあって、一番大変だったのはキーボードを代えたんだけど、その人のテクニックが僕の要求を満たすものじゃなかった。彼は「ゲット・バック・イン・ラブ」のイントロが弾けなくてね。あと同時に男性コーラスも新しくしたんだけど、テンション・コードの音を取れないの。彼らはどちらも一応フォークの世界では有名だったりしたんだけど、僕の曲は難しくてできなかった。これはよく言ってきた話なんだけど、僕のレコーディングは坂本(龍一)くんと難波くん、あとは佐藤博くんと中西(康晴)くん、大体この4人でやっていて、メインは坂本くんと難波くんなんだけど、この2人はとにかくどんな曲でも普通に軽々とできるので、変な話だけど、そんなもんだと思ってたんだ。弾けない人がいるということに、この後に及んでようやく気づいたという。「ゲット・バック・イン・ラブ」はキーがG♭なので難しさが半端じゃない。難波くんが91年に復帰したときにリハーサルで「難しいね」って言ってたけど、レコードでは自分で弾いてること、忘れてるんだよねw
結果、キーボードとコーラスにはやめてもらって、人選をやり直したけど、そのおかげでツアーの初日までに、リハーサルが間に合わないという事態に陥ってしまった。それで仕方なく、頭から7カ所の日程をキャンセルして、後日振替公演にせざるを得なかった。けれど初日の戸田市文化会館と2日目、3日目の大阪フェスティバルホールは既にチケットを売ってしまっていたので、中止の告知が間に合わなくて、お客さんが来てしまう。しょうがないので、僕が当日会場まで一人でお詫びに行って、アカペラとピアノで何曲か弾き語りしたんだけど…
それをスポーツ新聞が嗅ぎつけて、意地悪く書かれてね。今と同じで”マスゴミの切り取り報道”さ。その前のツアーでは”楽屋でメンバーと大乱闘”みたいに書かれて、そんなの嘘ばっかりw 
ともかく、あの年はそういうのが三つも四つも重なって。おかげで体調を崩してしまって、ますます三重苦、四重苦みたいになった。それが「僕の中の少年」のツアーだった。
88年から89年の頃はバブルの真っ只中で、スタジオもライヴも、いいミュージシャンはスケジュールすぐ抑えられてしまうので、代わりがなかなか見つからない。結局、あの時は倉田(信雄)くんに頼んだ。彼はツアーをやらない人だったので、無理矢理お願いして。彼のおかげで助かった。そんなふうに「僕の中の少年」が出た時のツアーは、それはそれは大変だったんだけど、表から見ると全然そうは見えなかっただろうね。
もともと予定していたキーボードは、練習すればなんとかなると思ってたのが甘かった。もっとも反省すべき点は他薦で、自分の目と耳で選んだ人じゃなかったこと。スタッフの「あいつ、うまいですよ」ってよくあるでしょ。それが何しろ迂闊だった。人からの推薦でいい人に当たることもあるけれど、それはほとんどがミュージシャンからのものでね。例えば佐藤(博)くんの推薦とか。それだったら、同じような目や耳を持っているから信じられるけど。スタッフの推薦は基本的にダメだねw
でも、僕も当時は35歳だったから、そこまでなかなか読めなかったんだよね。それは何も僕んとこだけじゃなくて、どこにでもあることでね。あの当時はライヴ全盛時代だったから、スタッフもみんな他との掛け持ちで、ヘタすると年間300日以上、外に出ている。そうすると家にも帰れないというストレスもあると思うんだけど、スタッフ同士で揉め出すんだ。あとPAモニターもハードやソフトの転換期で、入れ替わりが激しくてね。なかなか良い人材が確保できない。あの時代は、PAマンやモニターマンには本当に恵まれてなくて。特にモニターにはバックメンバー、みんなうるさいから。そういうしわ寄せが、全部僕の所へ来るわけ。「達っつぁん、あんなんじゃできないよ」ってね。直接言わないで、全部僕に来る。僕がバンマスだから仕方ないけど、80年から本格的にツアーを始めて、6〜7年やって来て、それまで溜まっていた問題点が、88年のツアーで一気に吹き出したって感じ。「POCKET MUSIC」から、まりやの「REQUEST」、そして「僕の中の少年」とレコーディングはようやく落ち着いてきたと思ったら、今度はライヴの方がおかしくなってきた。いろんなことが重なってそりゃ体調も悪くなるわけ。
89年2月の神奈川県民ホールでは、途中で喉の調子が悪くなって中止。これはまた別の話でね。あれはほんとに馬鹿な話なんだけど、あの時代は結構タイトな日程のツアーだったんで、声が嗄(しわが)れるなんてのは、日常でね。今みたいに節制なんてしてないし、タバコも吸うし、酒も朝まで飲んでたし。あの日もリハーサルを結構なガラガラ声でやってたんだけど、そうしたらコーラスの子が「私がいつも飲んでる水素なんだけど、よく効くから」と勧めてくれて。ところが飲んだら、声がなおさら出なくなった。単なる声がれなら30〜40分もやれば戻ってくるんだけど、薬で出なくなったから、これはもう全然ダメで。1時間以上頑張ったんだけど、Gから上が全く出ないままで。薬にやられたw
ただ、コーラスの彼女は善意でしてくれたことだから、文句は言えない。例えばサプリメントとかでも相性がある。その人にはすごく効くけど、別の人には全くダメというのがあるんだよね。それこそ喉飴でも相性があるから、気をつけないと声帯を悪くする。あの時も、新聞が面白おかしく書いたっけ。数年前の盛岡(2015年12月26日岩手県民会館、喉の不調でGの音が出ず90分で中止、振替公演)と同じだねw
この(神奈川での)エピソードはライヴのMCで言うこともあるけど、普通は歌手がライヴで声が出なくなると「頑張って」とか「しっかりー!」とか励ます声が掛かるもんなんだけど、僕の観客は違ったんだよ。「会社休んできてるんだから、ちゃんとやれ」って。血も涙もないw  あの時はしょうがないから演奏中にメンバーとスタッフ全員のスケジュールを確認して、振替公演の日程を決めて、改めてもう一回やりますからって途中でやめて、お客さんには帰ってもらったんだけど、幸運なことに振替日はほとんど(お客さんの)キャンセルがなかった、だけど、びっくりしたのは、膝に子供をのせてる人がずらっーと並んでてね。1度目は子供を預けてきたけど、2度目は預けられないからって。今では笑い話だけど、あの時はどうなるかと思ったよ。
このツアーの終わった89年暮れ、「クリスマス・イブ」がオリコンのシングルチャートで1位になった。だけど、まだファンクラブもできてないし、そんな(1位になるような)気運は、ツアーでは感じなかった。
まりやは「REQUEST」のレコーディングが終わった後も、子育て優先だったけど、前にも言ったように、このアルバムのロングセラーが始まって、状況は素晴らしく良かった。で、「僕の中の少年」も、自分の中では比較的地味な作りのつもりだったんだけど、「ゲット・バック・イン・ラブ」がヒットしたこともあって、同じく音楽的な状況は決して悪くはなかった。そうこうしているうちに、まりやの「シングル・アゲイン」(89年9月)が売れて、続いて「告白」(90年9月)も売れる。あれが彼女の復帰後のひとつのピークになった。「REQUEST」がミリオンになって、僕の方は「クリスマス・イブ」がヒットして。周りを取り巻く状況は良かったけれど、唯一この時期のライヴだけは、それに見合わなくて。84年にしろ86年にしろライヴは自分でも、それなりの出来だと思えたんだけど、88年(〜89年)のツアーだけは、どうしても満足できなかった。だから自分のヒットよりもライヴの方が気になっていた。
ツアーの動員についてはお陰様で83年以降、空席が出たことはない。僕が35、6歳でしょ。客層は僕の少し下の人たちと、あとシュガー・ベイブ時代、RCA時代のお客さん。それが30代、僕より5つ、6つくらい下の子育て世代。CIRCUS TOWNから始まって、RIDE ON TIMEがあって「ゲット・バック・イン・ラブ」までの10年くらいで、お客さんの積み重ねっていうのが結構あったから、それがうまく機能したんだと思う。 だから、昔の“夏だ、海だ、達郎だ”じゃなく、MELODIESからの戦略が功を奏した、と。今でも、その辺が一番コアな客層なんだよね。
ライブでは打ち込みの曲も出てきて「新(ネオ)・東京ラプソディー」はテープを使っている。ライヴでテープを使う事はあまりない。「僕の中の少年」は一回しかやったことがないし、「THE GIRL IN WHITE」も一回だけ。他に「僕の中の少年」でライヴ演奏したのは「ゲット・バック・イン・ラブ」と「蒼氓」くらいかな。
マーマレード・グッドバイ」はずいぶん練習したけど、楽曲の構成に問題があって、結局やらなかった。歌詞にちょっとでも重きを置くと、演奏できない曲が増えるw あとは編曲的な問題もある。コンピューターでは人間の演奏とは違って、しばしば荒唐無稽なパターンになるので、それをライヴで再現しようとしても、なかなか難しい。リハーサルではいろいろ試してはみるけど、例えば「僕の中の少年」みたいな曲は、生楽器だけのアンサンブルだと、なかなかああいう雰囲気が出ない。そういうのは、今でも頭を悩ませる問題だね。
  
<ライヴ・アルバムらしからぬものを作りたかった>
ツアー終了から7ヶ月後の11月1日にはライヴ・アルバムJOYをリリース。これは出したかっただけw
でも、なかなかチャンスがなかった。あとアルバムを出すインターバルが開いてきた。MELODIESからPOCKET MUSIC、僕の中の少年、と。開いたと言っても、今(2018年)の比ではないけどw  少し開いた間をどうするか。ムーンレコード時代には従業員数も少なかったし、僕とまりやが働いているだけで、他にはそれほど大きなバジェットがなくても、何とか成り立っていた。それが(ムーンを)ワーナーに売却して、MMGという大きな組織になっちゃった。それまでも企画ものとして、BIG WAVEとかオンストの1や2を出して、でもオンストの3はまだ出せない。リリースのローテーションは、なんだかんだ言いながら、僕とまりやが毎年交互にだったけど、89年は子供が学校に入る大事な時期で、新作を制作することができないから、ライヴ・アルバムということになった。
どっちにしろライヴ・アルバムは出したかった。音源も豊富にあったし。アオジュン(青山純)で始めた79年の音源から、ずっと録音をしていたし、86年以降はデジタルで録音もしてる。85年以前のライブ音源はアナログだから、デジタルに起こしてDATにコピーして、それをツアー中に聴いて、一覧表を作った。テイク数は267と膨大だったから、それぞれの曲の、どのテイクがOKかを何ヶ月もかけて、多分3ヶ月ぐらいかかったかな、全部聴いて選曲して、それをミックスしてJOYが完成した。
CD 2枚組、アナログ3枚組。”史上最後の3枚組レコード”が売り文句だったんだよね。もうすでにアナログとCDが逆転していた時代だった。本当はもっと入れたかったけど、CD3枚にする勇気はなかったw  目一杯詰め込んでも、当時はCD 2枚組ではこれが限界でね。ただライヴ・アルバムなんてもう二度と出せないと思ったから。今65歳になって、ライヴができてるから言えるけど、当時はまさか、この歳までやってるなんて思わなかった。あの時は36だったけど、普通なら30過ぎて40の声を聞いたら、絶対に人気は下降していくと思ってた。実際そういう人がほとんどだったし。それならライヴ・アルバムは、出せる時に出してほうがいいと思ったの。MTVが始まって、みんな映像にシフトしているから、あえてそれを音楽だけで訴求するには、どうしたらいいか、とも考えた。そういう時代だからこそ、集大成として残しておこうと。30年も前の話だけどねw
選曲の基準は何より演奏の出来。あとライヴのヒットチューンと、レコードのヒットチューンは違うから、そこも意識した。実はライヴ・アルバムってそんなに好きじゃないんだよね。他の人のを聴いてもこれは、というものはなくて。だから自分のライヴ・アルバムを作るときは、そうでないものにしようと。それはすごく念頭に置いて。変な言い方だけど、ライヴ・アルバムじゃないようなライヴ・アルバムにしたかった。参考にしたライヴ・アルバムは無いかな。いわゆるロックンロールのライヴ・アルバムとは違うし、かといってブラック系でもないし。
ブラック系のライヴ・アルバムってたくさん聴いてるけど、ろくなのがないんだよね。特にソロ・シンガーのライヴって、バックがステージバンドじゃない? レコードにははるかに及ばない。だから聴けるのはバンドものだけ。コモドアーズ、クール &ザ・ギャング、アース・ウィンド&ファイアーなんかはレコードと同じ音がしている。アースのライヴがなぜ良いかと言うと、レコーディングと同じミュージシャンだからね。ダニー・ハサウェイのライヴが良いのも、演奏メンバーが一流だから。ローラ・ニーロジョニ・ミッチェルもきちっとしたメンバーでやっている。だから聴けるんだ。僕の場合もレコーディング・メンバーでライヴをやるというのが夢で、80年代はそれが実現したから、ライヴ・アルバムにフィードバックできた。
当時受けたインタビューで、バンドブームだけどメンバーが演奏していないことを指摘したことがあって、それはバンドとはいえ、レコーディングではスタジオ・ミュージシャンが演奏しているバンドなんてたくさんいたから。スタジオ・ミュージシャンが演奏したものを、あとからメンバーがコピーする。名前を明かしたら、騒ぎになるから言わないけどw
ヒット・レコードというのは常に底上げ文化で。少しでも売り上げを伸ばすために、バンドの演奏力を不足していたら、スタジオ・ミュージシャンを使う。考えたらバーズにしろ、アソシエーションにしろ、ビーチ・ボーイズだって、レコードでは演奏していない。ハル・ブレインやグレン・キャンベルといったスタジオ・ミュージシャンたちが演奏している。それは古今東西変わらない。その点、JOYは全曲同じドラムとベースで、それは非常に重要なことでね。
    
<原風景の街の緊張感が、僕の音楽の要素ほぼ全て>
アルバム発売の時に、メディアやバイヤーに配布されたプレスリリースに過去10年間のライブの方針というコーナーがあって、そこには「大量動員のコンサートは行わない」「観客に要求はしない」「総立ちなどの現象は演奏の良否とは全く関係ない」などと書いた。それはプロパガンダでw でも、まぁ本音でもある。じゃなきゃ今まで続けられてないし、とっくに日和ってる。
あの時代はとにかく自己定義というか、どういうところで存在証明を求めてやっていけばいいのか、そんなことばかりを考えていた。ドロップアウト感覚、自分の持つ階級概念、そういうものが間違っていないかどうか。もし高校をまともに卒業して、どっかの国立大学で滑り込んでいたら、親父も工場だったし、自分も町工場の技術者になっていたかもしれないけど、踏み外してミュージシャンになって、何とか今も生き残っている。
だけど、あれから長い時間が経って、どうしても戻るのは、子供の頃に住んでいた池袋のアパートなんだよね。そこから見た東京オリンピックの日の空の景色とか、そういうものに戻っていく。
原点回帰というか、あまり背伸びしてやってもしょうがないというか。そんな中で音楽だけが、”好きこそものの…”ではないけど、身を助けてくれた。自分の表現の原風景は、池袋から渋谷までのJR山手線の両端の景色なんだ。池袋や新宿、渋谷の、街の緊張感というのが、僕の音楽のほとんどすべての要素だから。JOYが出た頃は、ちょうど東京ドームができたばかりで(88年オープン)、だけど僕はそういうものに夢を抱かなかった。どこまでいっても荻窪ロフトに回帰するんだよね。
2016年に新宿ロフトに40年ぶりに出て、難波くんと広規の3人でアコースティック・ライヴをやったけど、強烈に確信できた。でも人によっては、僕はまだまだこんなもんじゃない、もっと上に上がりたいとか、例えばグラミー賞を獲りたいとか、そんな事は毛ほども思ったこともない。なぜかと言うと、原風景で生きてるからで、それがブレると人生、誤る。それが武道館でライヴをやらない理由でもある。それからお客に要求するというのも。あれは弱さだから。ノってる?とか、あれ、なんて言えばいいのかな、パワハラに近いねw
例えば、盆踊りみたいなノリというか、あれが命です、とか言ってる人いるんじゃない、パーティ・ピープルというか。それはそれで別に全然構わないし、やりたい人がやればいいけど、僕はやりたくない。やらないんじゃなくて、やりたくない。武道館の次は東京ドーム。そんなの東京の人間にはあまり関心がない。それが東京なんだ。そんなもの抱くのは田舎者だけだって。断っておくけど、これは僕が考えたセリフじゃないよw  昔からいろんな人が言ってることでね。ネイティヴ東京ピープルにはそういう上昇志向はない。多分に見栄もあるかもしれないけど、そういうのはないよね。
当時コンサートは熱狂とか、総立ちとか、そういう価値判断が出てた。何もしてないのに、何で1曲目から総立ちなんだ、って。それに強烈な違和感があって。まあ、それはパーティだから、って、分かってはいるんだけど、イヤなものはイヤだから。それにシュガー・ベイブ時代のトラウマも加わって。関西ブルースやヤンキーロックの”偽りの熱狂”というか、そういうものに対する違和感もあった。あとは、その対極にある、おクラッシックのお世辞の拍手ね。そういうものを見回して、どっちを見ても自分の居場所がないという、そんな世の中を恨んでる片鱗が、まだ心に残っている時代だったからw
だけどこの基本方針、当時の状況をよく反映しているよね。だから日本でもロックが本格的にビジネスになってきて、大量動員で観客を煽り、ノセなければならないようになった。僕は煽らないことで集中力を増す方が、観客の心に残ると思っていた。”総立ち”とは全く逆の考え。そういえば、さっきの基本方針のところに「チケットが取れないというのはジレンマで、横浜アリーナのような音響的に優れた大ホールが生まれている以上、考慮する問題だと考えている」と書いたら、すごく抗議されたんだよねw  まぁあの時代はそういう考えもあったということで。
ライヴは、今日出来る全てを表現する。その日にやり切っちゃわないと、明日死ぬかもしれないし。そうじゃなくても、いつ落ち目になるかっていう恐怖感は今でもあるから。人気とか動員とかじゃなく、例えば声が出なくなるとか、フィジカルな意味でいつ落ちてくるか。そういう不安はずっとあるから。最近はお客さんも歳をとってきたのか、中には「トイレタイム休憩を作れ」とか、「土日じゃないといけない」とか、「3時間は長い」とか、色々と言ってくる人もいるけど、そういうことが重要だと思ったことが、まだ一度もない。そうじゃなきゃ、とっくにディナーショーに行ってるw
JOYにはビーチ・ボーイズの「GOD ONLY KNOWS」やデルフォニックスの「LA LA MEANS I LOVE YOU」など洋楽カヴァーも入ってる。洋楽を織り込むのは自己満足で、1曲目を「ラスト・ステップ」にしたのは、ザ・バンドのラストワルツの真似なの。ラストを頭に持ってくる、あれはマーティン・スコセッシのアイデアでしょう。グッド・アイデアだよね。
曲順はいろいろ考えたの。頭の方に「SPARKLE」を持ってきたのは、当時そういう曲順でやっていたからね。まりやの「プラスティック・ラブ」は84年に出た「VARIETY」に入ってる。まりやの曲で、彼女はライヴをやってなかったから、代わりに何かをやってみよう、と。これなら自分に合うかなと思ってカヴァーした。
僕の場合、曲が長いので、そんなに曲数が入らないから。これも140分で22トラック(曲目は21曲)だし、惜しむらくは「蒼氓」が初演だったから入れたんだけど、今の方が演奏密度が高いw  まぁそれは次に入れようかと。それからこのアルバム、演奏も歌もほとんど修正がない。それが誇り。歌詞が数カ所間違えていて、意味が通らないから歌い直したとか、その程度で済んでる。
「蒼氓」でのお客さんのコーラスは正直苦し紛れの部分もある。さっき言ったみたいに、このときのツアー全体の完成度にいまひとつ納得がいかないというか、そんな状態だったんだw  だから、そんなときには弱さが出る。今だったら、もうそんなことはしないけど。「僕の中の少年」を出した時の、アルバム曲のお披露目ツアー、初めてやる曲の中のベスト・テイク。
「蒼氓」の中でカーティス・メイフィールドの「ピープル・ゲット・レディ」やマーヴィン・ゲイの「What’s Going On」 とともに、U2の「PRIDE (IN THE NAME OF LOVE)」をカヴァーしている。新宿にコタニっていうレコード屋があって、そこは日本盤シングルの新譜に強かったの。1ヶ月にいっぺん行って、日本盤のシングルを買ってた。U2やポリス、クラッシュの「I FOUGHT THE LAW」とかは、そこで出会った。コタニは結構情報源でね。あの時代は真面目に全米トップ40とか、ビルボードとか見ていたし。
U2は80年代中期から好きで、「THE UNFORGETTABLE FIRE」とか、「THE JOSHUA TREE」とか、ずっと追っかけていた。一番聴いたのは「RATTLE AND HUM(魂の叫び)」かな。R&Bがどんどん同期に走り始めた時代なんで、やっぱりマニュアルの方が好きというのがあった。U2はメッセージ性があるでしょう。だから「蒼氓」には、あの時たまたまU2の楽曲を入れたけど、いずれにしろ、その時の気分。あるときは、それが岡林信康になっていったりする。のちに岡林信康の曲を入れたりするようになるけど、それも本当に好きだったから。そういう意外性です。邦楽とか洋楽ファンとかにこだわらないもの。それが僕なりのこだわり。「蒼氓」は入れたかったから。
ライヴ・アルバムというのはスタジオ・アルバムのプロモーションという意味もあるから。そうじゃなければ、RCA時代の音源で全部やればいいんだし。基本的にはヒット曲を入れるという前提だけど、それでも全然、曲数は入りきっていない。だから純粋に出来の良さで選曲している。「THE WAR SONG」はPOCKET MUSICの時の演奏だから、本当に優れているし、「DANCER」と「LOVE SPACE」は六本木ピットイン(1981年3月11日)の演奏で、メンバーは酒飲んでヘロヘロになりながら、難波くんなんて間違えてるところもあるけどw それも勢いだから。「DANCER」は声もあんまり出てないけど、そこでしか演奏してなかった。この日のライブは4時間45分やって、酸欠でお客が2人倒れたw
だから、入れたい曲を入れたらこういう選曲になったという感じで、「ドリーミング・デイ」も入れたくて、その年のツアー(Performance ’83-’84)でしかやってなかったから、そのツアーでのテイクを使用している。「ドリーミング・デイ」は「NIAGARA TRIANGLE Vol.1」の収録曲だし、「DOWN TOWN」はシュガー・ベイブ。だからこの「JOY」は収録曲によっては録音時期とのタイムラグが8年以上あるけど、そこに違和感が全くないというのが売りだから。それは同じリズムセクションだから。ドラム、ベースは重要でね。ドラムとベースが変わらなければ印象は変わらない。ドラムを替えるのは非常に勇気がいる。まぁでも僕の場合は一番キモになっているのは広規の音だから。ベースの方が精神的にはイニシアチブを取らないとリズムセクションを健全じゃない。広規が入ると山下達郎の音になる。
ベースとドラムのインプロビゼーションもちゃんと収録している。僕の音楽スタイルは常にそれだから。自分が元ドラマーだから、ドラムとベースを中心に音楽が回っていく。どうしてもライブでマシーンを使うという発想にはならない。ジャズに影響受けているというのもあるし、マニュアル・プレイというのがなくなったら、ライヴじゃないし。
   
< ライブではある意味、常に戦闘モード、それは一生変わらない>
音楽には作品論だけでなく、演奏論というのもあるんだけど、特に日本の歌謡シーンでは、作り上げたものをいかに完璧にライブで演奏するか。それがなかなか実現できないんだよ。理想はみんな同じなんだけど、それを実現する人材と、ミュージシャン同士の親和性とか、あとは予算もねw  いろんなものが絡むから。特にツアー長いでしょう? 一回だけなら和気あいあいとかできるかもしれないけど、一回だけの演奏だと、どうしても最高の質のものが録れない。ツアーで40本とか50本やって、千秋楽を録って、それだけの密度のあるものになる。逆に言うと40回ちゃんと同じことができるか。大体途中で飽きて余計なことをしだすから。崩しに入ろうとするけど、それを崩させないという、その難しさはある。
バンドの統率は昔からしているんだけど、それが88年にはちょっと崩れたというか、統率しきれなかった。だから不満なものもあるけど、それ以外は、ほぼ理想的な環境でやってこられたから。
でも完璧なものを求めても40本、50本のライブになると、山あり谷ありで、中だるみもある。いかにテンションを維持して、完璧なものへもっていくか。だから映画「ジェームス・ブラウン 最高の魂(ソウル)を持つ男」(2015年公開)を観てもわかるでしょう? ドキュメンタリーでも、みんな悪口言ってるけど、「お前ら、ほっといたら何もやらないだろう」ってジェームス・ブラウンが怒鳴りまくって、自分のことをSIR(サー)って呼ばせて、ようやくあの演奏ができる。そうでなかったらジェームスブラウンじゃない。
わきあいあいと言うのは幻想だね。基本的に音楽は喧嘩だから。山下洋輔さんは音楽は勝ち負けである、と言ってたけど、その通りだと思う。だからある意味JOYは闘争の記録。本当に戦闘モード。だからよく言われるんだ、なんでそんなにガチンコでやるんだって。去年氣志團万博に出た時(2017年9月17日)も知り合いに言われたよ、ここで全力を出さなくてもいいじゃないですかって。でも本当はもっと全力を出したほうがいいってみんなわかってるんだけど、持続ができないんだよねw
これも前に行ったことがあると思うけど、世の中には道が二つしかなくて、僕みたいに一生変えないか、細野(晴臣)さんみたいにどんどん変えていくかw
2011年にリリースしたアルバムRay Of HopeにボーナスCDとして「JOY1.5」カップリングしたけれど、早くJOY”2”へは行きたい。出すなら5枚組とか。今度は”史上最後の5枚組”でw  CDというパッケージもきっと終わりになるから、出せるうちに出しておかないと。紙ジャケットでボックスに封入するとか。青純パターンで1枚、シングス・シュガー・ベイブで1枚、今のライブで1枚、アコースティックで1枚、そしてカヴァーで1枚、そういう感じで集大成は続いていく。それができたらもういつやめてもいいかもしれないw

●メディア向けプレスリリース「JOY/TATSURO YAMASHITA LIVE」ライヴアルバム制作ノート
<経過報告>
やっとライヴアルバムを出すことが出来ました。「イッツ・ア・ポッピン・タイム」以来実に11年ぶりであります。
本当は86年ごろに出したかったのですが、「ポケット・ミュージック」の大幅な遅延以来、私のアルバムリリースのスケジュールは狂いっぱなしで、それに加えて竹内まりやのレコーディングもこなさなければならず(これは私にとっては実質的に2人分のレコードを作っているのと同じ状態なのです)とてもライブまでは手が回らないといった状況が続いていました。
今回のライブアルバムには、1981年から89年まで、文字通り私の80年代におけるライブ活動の歴史がおさまっています。
1980年にまとまった形でのホール・コンサートをスタートさせて以来、この10年間で私がこなしてきたライブの本数は約270本、他のミュージシャンの人たちと比べればたいして多い数ではないかもしれません。でも私の場合、レコーディングとライヴの制作に関する、ほとんどの作業に参加しているため、例えば作家とアレンジャーが脇でサポートしてくれるような、そんな一般的なシンガーのような活動は不可能で、もし仮に年間100本のコンサート・ツアーこなすとすれば、それはすなわちその年のレコードリリースはできなくなるとことを意味するわけです。
それでも、私はもともとバンド出身で音楽活動の始まりはライヴと言う人間ですから、ライヴ活動に関しては出来る限りの努力を続けてきたつもりです。

<過去10年間の山下達郎のライブに関する方針>
私のライブにはこの10年間、変わらずに守られてきたいくつかの方針があります。

1)武道館に代表されるような大量動員コンサートは行わない事。ノーマイクで声が届く範囲は半径50メートル程度であり、それ以上は観客に対して責任が持てない。

2) 観客に「要求」しない。すなわち”SAY YEAH!”の類の行為を出来る限り排除すること。

3) 表面的な熱狂、例えば「総立ち」などの現象は演奏の良否とは全く関係ないという認識。

4) 今日できる全てを表現すること。したがってコンサート時間は必然的になくなります。もっともこのことについてはスタッフの協力、特にコンサートホール側の理解なしには実現できる行為ではありません(現在まで私のライブにおける最長時間は、本アルバムに収録された六本木ピットインでの4時間45分です)。

私のコンサートは現在数少ない「座って見られるコンサート」であり、私と私のコンサートを支えるスタッフたちはそのことに非常にプライドを感じています。今の若いミュージシャンの人たちから見れば、それは一風変わったことに感じられるかもしれません。彼らにとってはコンサートとは「乗り」であり、客が辛気くさくい座っているなど、おそらく我慢がならないことなのだと思います。したがって彼らの目からすれば、私の方針は非常に前時代的な感覚、あるいは客を乗せられないことの言い訳と映るかもしれません。しかし私の考えてる事はそのような次元とは全く異なったものなのです。
ロック関係の音楽に観客が熱狂するのは、別に今に始まったことではなく、私がシュガー・ベイブでバンド活動を行っていた15年前も、状況は似たり寄ったりでした。しかしそうした中で私は、総立ちで騒いでいる観客よりも、座って耳をすましている人々を納得させるほうが、はるかに難しいのではないかと言う疑問が常にあり、所詮音楽は絶対にスポーツにはなりえず、あくまで音楽として成立していなければ、最終的には敗北していくのだという確信が、次第に私自身の中で体験的に形成されていきました。それを自分のコンサートへとフィードバックさせて行った結果、現在のコンサート・ノウハウへと帰結したのです。

まず、絶対に観客をマスとして捉えないこと。あくまで観客一人一人対自分という図式でコンサートを実践すること。観客の成熟なくして、自分の音楽的成熟もありえないという考え。いかに観客に対して誠実であり続けられるか、これが自分にとっての音楽活動を支える最も根本的な命題であり、武道館をやらないのも、不必要な熱狂を嫌うのも、演奏時間が長いのも、すべてはこの感覚に対して常に誠実でありたいと戦う気持ちの表れだと理解していただければと思います。ただ、こうした方針の結果、特に東京のような大都市圏では2,000人クラスのホールを数日程度では、とても観客を収容しきれないという問題が生じてきました。それなら日数を増やせばいいじゃないか、とおっしゃるかもしれませんが、演奏時間が長いため、連続公演は3日が限度であり、昨年のリサーチではレコードユーザの70%がコンサートに行ったことがない(チケットが取れない)という結果が出てしまいました。これは私にとっては大変なジレンマで、例えば横浜アリーナのような音響的に優れた大ホールが生まれている以上、これから考慮していく問題だと考えています。

<このアルバムについて>
さて、今回のライヴ・アルバムはそんなわけで、この9年間に録りためたマスターが計12日分、延べ267曲の中から選んだ21曲が収録されています。録音された年代ももちろんですが、録音場所も東京、大阪、横浜、仙台、郡山と多岐に渡っていて、ライブハウス(六本木ピットイン)での音源も収録されています。
このため音源の良否(演奏・録音状態など)のチェックに13日間、トラックダウンには25日間、はっきり言って、もうクタクタであります。
選曲の内訳についてですが、今回のライヴアルバムは、現在までに発表した9枚のオリジナルアルバム(ソロ)の中から、ほぼ均等に14曲が選択されています。さらにシュガー・ベイブ時代のものが1曲、NIAGARA TRIANGLEから1曲、洋楽のカバーが2曲、まりやの曲が1曲、他人(アン・ルイス)に提供した曲が1曲、それに「おやすみロージー」の、計21曲となりました。
主としてアルバムの企画性から生じる問題により「ストリート・コーナー」と「ビック・ウエィヴ」からのものは含まれていません。
選曲の基準は非常に難しく、一概に述べる事は困難ですが、まずヒット曲、次にライブでの人気曲、ライブ・アルバムが望まれていた新旧のレパートリー、純粋に演奏の優れたもの、玄人受けのするカバーといったところです。何しろ曲数があまりにも多いので、涙を飲んで割愛しなければならなかった曲も大変な数に上がりました。
以上のような経過により、出来上がったライヴアルバムはCD2枚組140分、アナログはおそらく史上最後の3枚組となりました。これ以上1曲も入らない状態であります。私のプロとしての活動歴はかれこれ15年になりますが、豊富なストックに助けられて、ほぼ全活動歴をカバーすることができました。
   
<リアル・ライヴ>
ライヴというのは文字通り一発勝負の世界であり、その意味でライヴアルバムは、レコードというメディアの原初的特質である「演奏の記録」という要素を最も濃厚に残している数少ないフィールドであると言えます。
ところが現在のレコード制作は、単なる音の記録ではなく、レコード(あるいはCD)でしか表現できない独自の世界を創造することの方が、遙かに重要な命題であり、またその大量頒布性、長期保存性などから、歴史の試練に耐えうるようなものを目指すのも、また必然となっています。現在のバンドブームの中で、ともすれば本人たちはレコードでは演奏させてもらえず、(スタジオミュージシャンが起用され)空中に消えていくライブパフォーマンスでのみ、演奏が許されるというのは、
このような原則から生じているのでしょうあまり褒められたことではありませんが…。
さらにライブビデオによる表現が主流となってきた昨今では、音の良し悪しが赤裸々に予定されてしまうライブアルバムの方が、悪く言えば、視覚的なごまかしで逃げのきくビデオの方よりもずっと困難な作業となって来ているともいえます。
このような理由により現在ライヴ・アルバムの制作においては、ほぼ100%「差し替え」という作業が行われています。歌や演奏のアラを目立たなくさせ、長く鑑賞に耐えうるものにするためで事は言うまでもありません。ただこうした現象が、あまりエスカレートしてきますと、一体ライヴとはそしてライヴアルバムとは何かということになります。
今回のライヴアルバムは、幸運にも差し替えを殆ど行わないで作り上げることができました。作業を始めた当初は、相当の手直しを覚悟していたのですが、思ったより出来が良くて、ヴォーカルは最小限、歌詞の間違いの修正(意味不明になりますので)といった作業で済み、楽器関係に関しても、メンバーの優秀な演奏に支えられて、ノイズの発生でやむなく行ったベース1曲、キーボード2曲分ほどで済みました。
このような結果、このアルバムは限りなく「リアル・ライヴ」として成立させることが出来たと思います。
【第42回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第41回 アルバム「僕の中の少年」(88年10月19日発売/オリコン1位)

<「僕の中の少年」というタイトルは子供が生まれたときに思いついた>
子供が産まれた時に思い付いた詩のテーマは「僕の中の少年」の歌詞と、ほぼ同じで。それで詞が先というか、こういうような内容の歌にしようと思っていた。象徴詩とかが好きな時代があってね。あの時代の歌謡曲はあまりに具体的で、生活感に溢れていた。もともとそういうのが嫌いだった上に、フォークの勢いもすごかったから、そういうものにもすごく抵抗があってね。なんか、より抽象的な詩の世界というか、そういうものを常に追っていた。その結果、ああいう感じになった。「僕の中の少年」というタイトルも、子供が生まれた時に思いついた。
我々はモラトリアム世代だと言われる、少年性をずっと持つ持ち続けた世代で、永遠の少年とか、永遠の青年に憧れていた。子供が生まれたのは、僕が31歳の時で、その時に「ああ自分はもう少年じゃなくなったんだ」という思いが強く湧いてきて。だけど、自分の中の少年性は、次の世代へと受け継がれていく。その考えを、歌に込めてみたくなった。でも、かといって”娘よ”みたいなのはイヤなのでw、散文的にもしたくない。抽象的な、イリュージョナルなものにできないかと思って。
エンディングのコーダの部分は、ほとんどプログレに近いし。そういうテーマでやると、ピンク・フロイドの世界みたいに、必然的に歌詞は音に引きずられる。キング・クリムゾンも同様でしょう。歌詞が隣の女の子の話なら、もっとハードロックでしょ。ディープ・パープルの「Highway Star」(1972)なんてまさにバイクと女の子の歌じゃない? 同じようにハードなサウンドでも、ディープ・パープルはロックンロールの価値観の中での言葉を使っていたけど、ピンク・フロイドやクリムゾンは、そういうものからもう一つ超えた、哲学的なものを志向していた。レッド・ツェッペリンも歌詞に同様のベクトルがあった。
20歳くらいのときには、そういうことをいろいろ考えてた。だから、いつもと違う特別なものをやりたいという衝動が時々出てくる。自分の人生の中での出来事、例えば子供ができるというのはとても大きい出来事だったので、それをどんなサウンドに、どんなメロディーに、そしてどんな言葉で歌うか考えた結果、あの形になった。何も知らない人が聞いたら、何の歌かわからないかもしれないけれど、それはまさに、あの時の自分の目指すものだったから、それはそれでよかった。
「僕の中の少年」という日本語のタイトルをアルバムに使ったのは、後にも先にもこれ1枚だけ。あの時の自分の心情や内面性が、顕著に出ているアルバムでもある。特にサウンドに関しては、端境期に作ったということが大きいね。POCKET MUSICはどちらかと言うと作品主義、曲の良し悪しに気を遣って、作ってたけど、これは作品主義というより、一言で言うと”ニュー・デジタル時代の中で自分の音楽スタンスを模索した”アルバム。そうすると、言葉の選び方も変わってくるというか、内向的な作品になった。そんなふうにいろいろ考えながら作ったアルバムで、曲で言えば「蒼氓」と「僕の中の少年」がそのクライマックスだった。
 
<自分のテリトリーとかけ離れた異文化と出会う空間が銀座だった>
アルバム・ジャケットにタイトルが入ってないのは、それが流行だったから。ただ自転車のジャケットにしてくれというのは言っていた。 「新(ネオ)・東京ラプソディー」の歌詞に“緑色の自転車”というのがあるから。ジャケット写真の撮影はフォト・スタジオだったけど、スタジオの奥がスロープになっていて、その途中に僕が座っている。カメラマンは伊島薫さん。感光紙でとって、そこで現像して焼き付けるから、動かないで1分間じっとしてなければいけなかった。カット数は5、6枚しかなかったかな。インナー・スリーブには自転車の設計図が描かれているけど、これは自転車メーカーのSHIMANOに提供してもらった。
僕は自転車には乗れるけど、自転車そのものにインスパイアされたわけじゃない。昔テレビCMで、ユニオン・ジャックがはためくところに、ビルのガラスがパンニングしていく映像があって、それを見て、シュガー・ベイブの「SHOW」を作った。1973年頃のこと。それと同じようなCMが、この当時にやっぱりあって、「SHOW」のことを思い出した。そういう、街のスピード感があるような曲が欲しいと思って。
イメージは銀座。銀座4丁目の、あの界隈のムードを描きたかった。銀座にはガラス張りのビルがずらっと並んでいて、マンハッタンに近いものがあると思った。昔の銀座だと、まだ、もう少し古風なビルが多かったんだけど、あの当時はずいぶんリニューアルされて、ビルの外壁がガラス張りになってきて、マンハッタン化してきた感じがしたんだ。東京ってどんどん変化するから。
あの時期は、伊藤大輔山中貞雄といった、戦前の日本映画をだいぶ観ていて、東京行進曲(映画「東京行進曲」の主題歌)とか、音楽も映画に付随して色々と知って、それで「東京ラプソディー」じゃなくて、「新・東京ラプソディー」。”新”じゃつまらないから、ネオと読ませた。「僕の中の少年」は1988年のアルバムだけど、この「新・東京ラプソディー」のオケそのものは、85年くらいからあって、ずっと温めていた。だから、これはPOCKET MUSICのアウトテイクなの。従って、間奏のトランペットのソロはジョン・ファディスが吹いている。POCKET MUSICの時に、ニューヨークのスタジオで2曲録った、そのうちの1曲で、85年の秋かな。曲は嫌いじゃなかったけど、歌詞がうまく書けなくて。
「新(ネオ)・東京ラプソディー」だからコーダに「東京ラプソディ」をサウンド・コラージュとして一節入れようと思ったら、古賀財団からクレームが来たw 最終的には小杉さんが話をつけてくれたけど。
あの頃はプランタン銀座ができたり、ブランド店のビルのリニューアルでも始まっていた。ああ銀座も変わるのかな、って思っていた時期だから。もっとも銀座といっても「銀座百点」みたいなものには、あまりシンパシーはなかった。僕は池袋の生まれなので、丸ノ内線に乗ると銀座は意外と近い。東京駅から銀座駅、東京中央郵便局でオリンピックの切手を買ったり、皇居の前をぶらぶらして、いわゆる”銀ブラ”だね。高級店には足を運べないから、まあ、お茶飲んで帰るくらい。あとは映画館ね。池袋にも映画館はたくさんあったけど、やっぱり銀座にはみゆき座があり、有楽座があり、錚々たる映画館が並んでいたから。後は日劇。そういう文化の拠点というのが結構多かった。イエナ書店にはよく行ったよ。洋書や楽譜を買った。
あとは外盤(輸入盤)を頼みに行く時は、銀座のヤマハ。「Schwann(シュワン)」っていう、アメリカのレコードや、テープのカタログがあるんだけど、それを見て書類を書いて、申し込む。1ドル360円の時代で、日本盤のLPが1枚1,800円くらいの時に、外盤は送料込みで2,800円ぐらいとられた。輸入代行だね。船便だから3ヶ月くらいは待たされたけど。
中学時代は友達と行ってた。男女4人だけど、カップルというわけではなくて。銀座行っても、お金もないから、日比谷公園のベンチで佇むくらい。タバコも知らないし、今みたいにテイクアウトもなければ、スタバもなかった。本当にぶらぶらしていただけだね。思い出しちゃうなぁw
そういう意味では遊び場としてではなく、異文化と出会う空間だった。適切な言葉かどうかわからないけど、モダニズムというか、近代化というか、自分の生活テリトリーとはかけ離れた、のちに日本からマンハッタンに行った時のような感覚に近い。後から考えると、六本木とか麻布十番なんかは、もっと排他的なんだ。銀座のほうが全然、人を受容しているというか。もっとも、和光のビルは入りにくいし、山野楽器は大丈夫でも、隣にあるミキモトは敷居が高かったね。
子供が生まれたというのもあって、子供を連れて、いろいろ動くようになるでしょう。ディズニーランドでも連れて行かなきゃいけないし。そういうので記憶がよみがえってきたんだね。お袋はこういう感じだったな、とか。そういう意味では、この曲は特殊な作品だね。
   
<映像よりも音楽が強いという確信があった>
2曲目の「ゲット・バック・イン・ラブ」は元々マーチン(鈴木雅之)のために書いた曲で、TBSドラマ「海岸物語、昔みたいに…」の主題歌に起用されて、オリコンチャートで最高6位まで上がった。前にも話したけど、最初これは自分でやった方がいいと言われて。体よく断られただけかもしれないけど。でも曲としては、アレンジも含めて渾身の作だった。この曲以降、レコーディング・エンジニアも代わったし、人生に何回かある、区切りの曲でもある。
まりやの「REQUEST」(87年)をやっていた頃、僕の宣伝スタッフの周りでは、MELODIESやPOCKET MUSICは”夏だ、海だ、達郎”じゃない、っていう不満が多かった。それで作ったのが「踊ろよ、フィッシュ」だったんだけど、そんなに売れなくて、ほらみたことか、って。もう34歳から35歳になろうとしているときに、今さら”夏だ、海だ”もへったくれもないんだよ。時代が変わってるんだから。TUBEとか杉山清貴とかC-C-Bとか、他にもたくさんいたし、それでいいじゃない。何のためにMELODIESで路線変更したのかと思って。これから自分がヒットを飛ばすならバラードしかないから、タイアップ取ってきて欲しいって言ったら、小杉さんがドラマのタイアップをとってきてくれた。それが「海岸物語」で、その主題歌がこの曲。RIDE ON TIME以来8年ぶりにシングル・チャートのベストテンに入ったから、アルバムはこの路線で行けるだろう、ということになった。
脚本は1話分しかなかったので、結末は分からなかった。しょうがないから、第1話の脚本では昔の恋人が帰って来て、それでやけぼっくいに火が付くか、という話だっから、ああいう歌詞になったんだけど、段々とドラマが歌詞に沿って行ったというw 当時はトレンディ・ドラマ全盛期で。曲そのものは時間がなくて、短時間で完パケしなくちゃならなくて。でもBIG WAVEもそうだったけど、映画の上映は終わっても、曲は残るから、妥協するのは絶対に良くないし、おもねるのもイヤだった。それはCM音楽をやってた経験で、音の方が強いっていう確信があったから。
とにかくシングルを切ってしまえばこっちのもの。ドラマがヒットしなくとも曲は売れる。「あまく危険な香り」がそうだった。視聴率は散々だったけど、シングルはそこそこヒットした。今だったら、そういうことはありえないでしょう。面白いよね。でも、結局残っているのは音楽だもの。
3曲目「THE GIRL IN WHITE」はセルフ・カヴァー。最初、サントリーから”サントリー・ホワイト(ウィスキー)”のCMソングを、アカペラのグループでやりたい、という話が来て。パースエイジョンズとかが候補に挙がっていたけど、それだったら、フォーティーン・カラットソウルがいい、とアドバイスした。パースエイジョンズより若くて、立派な現役、それにギャラも安いからw。本人たちもCMに出たし、本当にバブルだよね。CMにも潤沢な予算があった。アラン(・オデイ)に歌詞を頼んだら、シンプルな構成の曲だったので、大サビを入れた方がいいって、彼が大サビを作って、送って来た。だけど、コード進行があまり好きじゃなかったから、ここではコード進行を大きく変えて、メロディーラインも若干変わっている。完全にこの頃のブラコン同期もの、マシーン・ミュージックにしようと思ったんだけど。もとの計画ではもっとベースが細かい、ギャップ・バンドみたいなベースラインだったけど、結局変えちゃった。これはもともとドゥーワップ仕立てで、ディオン&ベルモンツのコンテンポラリーなアレンジみたいにしようと思ったけど、結構難しかった。こういう曲を当時のドラム、ベースというリズム・セクションでやると、古色蒼然たるものになるので、コンピューター・ミュージックしかないと思ったんだけど、ちょっと凝りすぎたというか。ベースのパターンは変えなきゃよかった。かえすがえすも残念。細かいベースのパターンだったの。今聴いても古くないし、データが残っているから、30周年記念盤を出す時は、もとのベースでボーナス・トラックを作りたいと思ってる。
4曲目の「寒い夏」。ジム・ウェッブみたいな、ヘンテコな転調の曲が作りたかった。こういう曲だとマシーンでやるとチープな時代だし、スタジオ・ミュージシャンだと雰囲気が出ないから、一人で演奏して。だけど、もとのテンポが遅くて、テープ・スピードを上げてミックスしたので、ピッチが少し上がってる。その分ストリングスの演奏に負担がかかったけど、今はもうそれも、いい思い出。ちょうどまりやの「REQUEST」で服部(克久)さんとやった後で、ストリングスの編曲がすごく良かったので、それでお願いした。転調の段取りはなかなか渋いんだけど、メロディーが難しくて、詞が書けなくて、まりやに書いてもらった。彼女には「ジム・ウェッブはペシミスティックな歌ばかりだから、そういう歌ににしてくれ」と言ったけどね。本当はこの曲もライヴでやりたいんだけど、なかなか難しい曲なんだ。厚みがあって、ライヴとレコーディングの温度差が大きいんだよ。
   
<ライヴはコンスタントにやっていたから結構声は出たんだよ>
5曲目、アナログA面最後は「踊ろよ、フィッシュ」。何度も言ってるけど、”夏だ、海だ、達郎だ”を復活させなければ、というので、取って来たのが、ANA沖縄キャンペーンのタイアップ。タイトルは7、8人でディスカッションして「踊ろよ、フィッシュ」に決まったから、それに基づいて歌詞をつけた。こういうリゾート・ミュージックというか、ビーチ・ミュージックって、リズムのバリエーションがそんなにないの。ディスコでやるのも今更だったから、ポリリズムで何か作ろうと思ったけど「愛を描いて-LET'S KISS THE SUN-」から始まって「LOVELAND, ISLAND」「高気圧ガール」である程度やり尽くしているし、パターンはそんなにない。そうなると、細かいところをどんどん複雑化していくしかない。これはコード・プログレッションとかも含めて、エグいこともずいぶんやっている。それに加えて、これでもかというくらいキーが高いから、これもライヴでは演奏不可能だし。このアルバムはそういう曲が多いね。「マーマレード・グッドバイ」もそう。
この時代はライヴをコンスタントにやっていたから、声が結構出たんだよ。でも、結局このシングルはスタッフが思っていたより売れなかった。おそらくリゾート・ミュージックにしては音が複雑すぎるし、グルーヴも重いから。当時はテクノやアイドル歌謡の全盛でしょ。ビーチでラジカセ聴いたり、バーやレストランで有線から流れているとか、マスで聴く音楽は、僕には合わない。家でひとり、ヘッドホンで聴くようなものでなければ、ヒットにはならないと思っていた。作品的には決して嫌いなわけじゃないんだよ。ただ、シングルには向いてなかった。こっちもだんだん進化していくというか、退化かもしれないけど、アレンジの構築性とか、プログレッシブじゃないと自分もイヤになるし、そう思って構築していかないと、変な言い方だけど、歴史の試練に耐えられないから。
次はアナログB面1曲目、CDで6曲目の「ルミネッセンス」。
アナログだと”明るいA面”から”暗いB面”というか、”大作のB面”になるw 当時はブラコンにどっぷりハマってたから、毎月、新譜をいっぱい買って、ソウルチャートのトップ100を見て、片っ端から90分のカセットにダビングして、それを持ってツアーに出て、一日中聴いていた。
SOSバンドとかミッドナイト・スター、アトランティック・スターとか、浴びるほど聴いていたけど、それをそのままやりたくはないから、歌詞でフォローするしかない、と。夜中の3時ごろレコーディングから帰って、犬の散歩に出たら、夏なのにオリオン座が見えたんだよ。それで「オリオンは西に沈んだ」というフレーズがひらめいて、その言葉から始まった曲なんだ。象徴詩をむさぼり読んでいた頃もあったんだけど、歌詞の具体性がもてはやされていた時代だったから、へそまがりとしては抽象性にこだわった。
マーチン(鈴木雅之)のアルバムの話の時にも言ったけど、この頃ソウルミュージックが明らかに変わってきた。マイケル・ジャクソンのベクトルとしては、MTVとダンスがあって、その逆のベクトルにはマシーン・ミュージックがあって。それからマシーンすらなくなって、ラジカセでのサンプリングになっていく。もうラップが始まっていたし、ヒップホップも始まっている。そういう時代だから、明らかにアフリカン・アメリカンの音楽が変化してきて、それに影響されて、白人音楽も変わって来ていた。ヘビーメタルもどんどん過激になっていく。録音技術がアナログからデジタルに移行してきた時期でもあるし、いろんな要素が重なってる時代だったから、そういうところで、さあ何をやるかという。それはPOCKET MUSICの時から問われていた。
B面2曲目「マーマレード・グッドバイ」は、16ビートに乗せる上で、この曲はメロディーの緩急がちょっと短い。本来なら、コードのパターンをもっとゆったり取らなければいけないんだけど、このメロディーだと性急な場面展開にならざるをえなくて、その結果、演奏が難しくなって、結局ライブでの再現が不可能になるという。でも、どうしてもこの詞で、このメロディーにしたかったから、他に方法がなかった。作品としては自分でも気にいっているので、ライヴで演奏できないというのは惜しむらくでw
イマジネーションとしては映画の「ファイブ・イージー・ピーセス」みたいな感じかな。男が女と居られなくなる。放浪癖があって、出て行く。日本映画の降旗康男作品的なものではなく、車で去っていくような、もっと大陸的なもの。すべてを捨てて、小さなカバンをひとつだけ持って、突然いなくなるとか。そういう逃避願望って、男って誰でもあるじゃないですか。「男はつらいよ」の寅さんみたいに。実際に行動できるかは別だけど。
まあ、僕にも子供が出来て、子供を育てるというプレッシャーってすごく大きい。青春小説が原作の、昔の映画みたいに、行員と事務員の間に恋が芽生えて、子供が生まれて、「よくやった、俺の子だ」みたいなのが全然なくて。自分に子供が育てられるのだろうか、という不安の方が大きかった。それは僕の世代の多くが、同じ思いを抱えていたのだと、あとで分かったけど。特に僕は、音楽業界という不安定な世界で生きているので、なおさらだった。友達の中には、自分の内面を阻害されることにどうしても耐えられなくて、女房、子供を捨ててしまった人さえいたからね。
   
<市井(しせい)に対する讃歌の様な曲を作りたかった>
B面3曲目は「蒼氓」。昔からこういう歌を書きたいという願望はあった。市井の人間が一番尊く、生高いという。僕の祖父は戦前の日本電機(NECの前身)の職工だった。三羽烏と言われるくらい優秀な職工だったらしいけど、それで独立して、自分の工場を持って、それなりに栄えたそう。その長男が僕の父親で、彼も親の後を継ぐべく、職工になった。戦前だから旋盤とか、ねじ切りとか、そういうやつなんだろうけど、飛行機の部品なんかを作っていたらしい。だから職人の血は、僕も色濃く持っている。戦後、祖父が事業に失敗して、親父は一人で池袋に出てきて、店を一軒持って、隣の店で働いていたお袋と結婚する。そして僕が生まれたんだけど、1953年だから、朝鮮戦争の真っ只中。朝鮮特需目当てで工場を始めたら、途端に戦争が終わって、鍋底景気で潰れてしまった。以来ずっと共働きで、僕が中学に入る頃に、ようやくまた店を一軒持てた。だからルーツをさかのぼると、そうした職人の血というのがあって。それが自分にも大なり小なり影響与えている。
普通に生きている人間がなぜ一番偉いかと言うと、僕の生まれ育ちの環境が生んだ思想なんだよ。貧しくても、教育投資がうまくいけば、成り上がれた時代のおかげで、日本には中産階級というものが形成できたけど、イギリスはできなかった。だからイギリスには、いまだに伝統的な階級格差が厳然とある。でも、日本もまたそういう格差社会に戻りつつある。戦前なんて大学の進学率なんて2%とかそれくらいだった。でも、その時代の大卒は、本当に国を引っ張る原動力だったし、義務や自覚もあった。残念なことに、今はそうじゃない。結局戦後の経済成長から70年、ある程度成長できたのはミドルクラスの教育と、それに見合った消費力なんだ。僕は学生運動もかじったし、本を読んで考えさせられることも多かった。昔は国立大学に入ると親孝行と言われたけど、今は国立、特に東大に入れるような偏差値は、普通の教育では得られないから、それ以上の教育を受けさせる財力が、親にないとだめなわけで。
そんな中で自分が音楽で何を主張するべきか、何についての歌を歌うべきかずっと考えていて、それを具体化でき始めたのがPOCKET MUSICあたりからなんだよ。「THE WAR SONG」なんて、まさにそう。同様に市井に対する讃歌、そういう歌を作りたいとずっと思っていたけれど、それをどういう形で歌にするのかというのが、すごく難しかった。
でも、ある日そのパターンが、メロディーとともにふと浮かんだ。のちに親父が曲を聴いて、「お経か?」って言ったぐらいだからw 宗教的なニュアンスの歌にしようと、パッと思いついたのが「蒼氓」という言葉だった。民草(たみくさ、人民を草に例えて言う)という意味で、石川達三の小説のタイトルだから、ちょっと硬いかなと思ったけど、他に表現できる言葉がないから、そうした。
コーダはほとんどゴスペルに近いニュアンスなんだけど、だからってゴスペル・クワイヤーを連れて来てもしょうがない。コーラスのレコーディングはいつもと同じで全部一人でやったけど、最後の”ラララー”だけ、何かいい案がないかなと思って。それで「よし、桑田夫妻に頼もう」ってひらめいた。彼の声には非常に聖なるもの、潔癖なものがある。だから、いろんな歌を歌い分けられる、稀有な存在なわけで、それで来てもらった。
この曲は明らかに、一つのターニングポイントになった。自分の中で音楽的な大きなもの。ロックンロールでは”表現する意思”というものが、とても重要だからね。20代で試行錯誤して、30代で何をするか。30代でできれば、40代でも曲は作れるけど、そこでネタ切れになってしまえば、そこで終わり。結局、突き詰めるところ、最後は思想なんだ。大げさかもしれないけど何を歌いたいか、というのはすごく重要だよね。
B面4曲目、アルバムを締めくくるのはタイトルトラック「僕の中の少年」。最初は”タンブル・ウィード(Tumble Weed)”って言って、転がる草、そういうものをモチーフにした「マーマレード・グッドバイ」みたいな放浪の歌にしようと思って作り始めたら、タンブル・ウィードではあまり面白い詞にならないんだよね。そんな折、ちょうど子供が生まれたので、子供の歌を作ろうと。でも前にも言ったように”娘よ”みたいなのはイヤだからと悩んでたら、“Sweetheart”という言葉を思いついた。そうしたら、具体的に何を言っているかわからないけれど、自分の中では意味が通じている、というような詞になってきたんだ。ひと頃のフランス象徴詩とか、そういう世界に近づいてきたから、それでいいやと思った。
イントロのギターのリフとアコギ、コーダのハモンド以外は全部、コンピューターでの打ち込みなの。形がだいぶ出来上がった頃に、ふとコーダのアイディアがひらめいた。前にも言ったけど「蒼氓」から「僕の中の少年」に続くところはトータリティがあって、ほとんどプログレに近いものがある。この2曲は組曲とも言える。そのためのコーダ。正確に言えばB面の「ルミネッセンス」から「マーマレード・グッドバイ」もトータル感で作っているから。あの当時はヒットを作れと言われても、もうヒットはそうは出ないと思っていたから、じゃあ好きなようにやらしてもらおうと。それで37歳になる1990年に武道館公演をやって引退、という計画を立てて、その準備段階に入るつもりだった。
そうそう、ムーン・レコードをワーナーに売却したのはこの頃だったかな。
アルバム「僕の中の少年」が出たあと、MELODIES(83年6月発売)に収録されている「クリスマス・イブ」がJR東海のCMに起用された。これで”1990年に武道館公演で引退”というプランが音を立てて崩れ去ったw 人生、何が起こるか分からない。ムーン・レコード自体、僕とまりやがメインだから、そう簡単には止められなくなっていたし。運が向いてきたと言えばそれまでだけど。80年代からツアーを続けていて、新譜を毎年出している。3年に1度くらいだけど、まりやのアルバムも出して、村田(和人)くんもやって。でも景気の良さは続かないだろうけど、仕事はたくさんしていたから、自分自身の事はそんなに心配なかったとはいえ、イケイケ競争みたいなのもイヤだった。だから、もうちょっと内省的な作品を作ろうと。そう思ったのが、今(2017年)は正しかったと思える。

【再録】
●「僕の中の少年」制作ノート 山下達郎
「僕の中の少年」は私にとって、ソロとして通算14枚目のアルバムとなります。(うち新作9枚、ベストもの1枚、ライブ1枚、アカペラ2枚、それに「ビッグ・ウェイブ」)
ムーン・レコードに移籍したあたりから、 私のアルバムのリリース感覚は伸び始め、ここ5年半でオリジナルアルバムが3枚と、非常にスロースペースになっています(もっともその間、5枚のシングル、それに「ビック・ウェイブ」と「オン・ザ・ストリート・コーナー1」の再発、さらに「オン・ザ・ストリート・コーナー2」が出ていますが)。
特に前作「ポケット・ミュージック」はかなりの難産で、アルバム制作に10ヶ月を費やしてしまった為、前々作「メロディーズ」との間隔が大幅に開いてしまいました。「ポケット・ミュージック」がそれほどまで苦労したのは何故かという理由を、今になって考えてみますと、「ポケット・ミュージック」を始めた1980年頃はレコーディング・スタジオを取り巻くテクノロジー、楽器や楽器編成(アンサンブルの構成)の変化、従ってそれに伴う編曲上の諸問題といった、レコード制作に関する、ほとんどすべてのノウハウが激変していた時期であったことが、まず第一に挙げられます。
主な変化を列挙してみましょう。

1.アナログ録音→デジタル録音
2.スタジオモニター・スピーカーの大出力化
3.付帯機器の激増(デジタル・ディレイ、デジタル・リバーブ等)
4. シンセサイザーの一般化と多様化(従来のアナログ・シンセに加えて、デジタル・シンセ、サンプリング、ドラムマシン等)
5.いわゆる同期もの、コンピューター・ミュージックの本格的普及

これらの変化が音楽のスタイルに及ぼす影響は計り知れません。 
特に編曲に関しては、従来の生楽器だけによる編曲のテクニックはほとんど通用しない、と言っても過言ではありません。何よりも最も問題なのは、音の聴こえ方です。アナログとデジタルでは、音の届き方に根本的に違うのですが、人間の肉体は、そう簡単にはそれらの変化に順応できないため、それがデジタル・レコーディングに関してよく言われる「冷たさ」とか「迫力の無さ」という表現となって現れます。そこで、さまざまな試行錯誤が繰り返されることになるわけです。
私の場合は特にそれがひどく、なぜなら、それまでの生楽器のアンサンブルの雰囲気をそのままデジタル音楽とコンピュータの世界へ持ち込もうとしたのが「ポケット・ミュージック」というアルバムのコンセプトだったからです。しかし当時のノウハウは、私の要求を実現してくれる能力を持っていませんでした。自分のせいではなく、使っている機械が良くないのだということに気づいたのは、「リクエスト」の頃になってからで、「ポケット・ミュージック」の時点では、それこそ気違いじみた再試行の連続でした。「ポケット・ミュージック」はまさに、自分とデジタルとの格闘であり、そこで得た成果は「リクエスト」というアルバムに結実することになるわけです。「リクエスト」の実績は「ポケット・ミュージック」なしには決して生まれなかったと言って良いでしょう。
 
●ニューアルバム「僕の中の少年」について
「僕の中の少年」は「ポケット・ミュージック」から数えると、2年半ぶりのオリジナル・アルバムということになりますが、その間に「オン・ザ・ストリートコーナー」の2枚があります。「オン・ザ・ストリートコーナー」は自分にとってはオリジナル・アルバムみたいなものであり、ことさら2年半ぶりと言う風な意識は自分の中にはありません。
今回は「メロディーズ」から「ポケット・ミュージック」の間の時とは違い、政策的な問題でリリース時期が開いたわけではありません。
「ポケット・ミュージック」、それに続くツアーで、肉体的精神的にかなり疲れてしまい、80年以降、毎年ツアーを繰り返してきたのでここらでちょっと一休みの意味もあり、またここ数年、自分の仕事ばかりで、変化に乏しいということもあって、87年は自分以外の仕事をしてみようと思い立ち、竹内まりやの「リクエスト」のプロデュース・アレンジ、それに鈴木雅之氏のアルバムのプロデュース、作曲、アレンジで3曲。そして、サントリーホワイトのCMに出演したブラック・アカペラ・グループ、フォーティーン・カラット・ソウルへのシングル曲提供と、プロデュースを手がけました。
「ポケット・ミュージック」「リクエスト」と、この2枚のアルバムによって、新しい時代環境の中で、自分の志向する音世界というものが、かなり実現できる気配になってきました。もっともこれは機材の向上に、かなりの部分を背負っていますので、次のアルバムではもっと改善されるでしょう。それにしても音楽を作るという精神的作業が、技術力に左右されるというのは、どう考えても良いことではありません。
今回のこのアルバムは曲、詞、アレンジ、スタイルとどの店をとってみても今の日本の流行とか音楽ムーブメントといったものとは何の関係も持っていません。
「メロディーズ」以降のアルバムは多かれ少なかれ、こういった私的な部分を有していますが、今回は更にそれが顕著です。
全9曲中、5曲はコンピューターの演奏によるキーボードを軸として、ドラム、ベース、ギター、キーボードがそれに加わったもの、ギター以外は殆ど全てコンピューターによる演奏が2曲、「普通の」4リズムによるレコーディングと、一人で全部演奏したテイクがそれぞれ1局づつ、という構成になっています。
このアルバムは「僕の中の少年」というタイトルですが、いわゆる少年性がテーマではありません。タイトルソングの「僕の中の少年」という曲は、詞を読んでいただければお分かりの通り、自分の中からいなくなった「少年」が、自分の子供へと受け継がれていくという内容の曲で、言うならば「少年性」との決別と、次世代への継承がテーマであり、決して「少年性」がテーマの歌では無いのです。
このアルバムは10代の若年層から、30代後半までに通底するものは何か、大げさに言えば、時代、世代、オジン、実年、若者、新人類、などといった通り一遍の表現を超える何か、時代や年齢では変えられない心性がテーマになっています。
日本のロック・フォークは生まれてからまだ20年足らずであり、今までのほとんどの作品はせいぜい20代後半あたりまでの世代感を反映すれば、事足りていました。しかし私は今年35歳であり、これから先40に向かっていく時、一体、何を歌っていくべきなのかは、非常に切実な問題となってきます。
ロック・フォークはもともと青春音楽だったこともあり、30代後半以降のミュージシャン、そしてリスナーに対してのビジョンを持っていません。ここを切り開いていかない限り、未来への展望は望めないと思うのです。
このような立場である以上、世の中の流行や、「最新」などという一時的現象に目をくれている暇はなく、従ってこのアルバムもまた、私的な色彩が強いのであります。
だからといって、このアルバムが若年層向きでないと言っているのではありません。むしろこのアルバムは、デジタル・レコーディングに習熟してきたことにより、前作以上にコンテンポラリーに聴こえるはずです。つまりこのアルバムは割と広い年代の方々に聞いていただける可能性があるのではないか、と思っています。実際の私のレコードの購買層は、割と広い範囲で散らばっているというリサーチ結果もあり、そうした事柄も考えつつ、これからも皆さんに楽しんでいただけるアルバムをと、努力していくつもりです。
        
それぞれの曲について
1)新(ネオ)・東京ラプソディー
戦前の昭和初期の文化に対するシンパシーと、現在性との接点のようなものを目指しています。「東京ラプソディ」は古賀政夫男作曲、藤山一郎歌による昭和11年のヒット曲で、実際にコーダの部分に東京ラプソディーのメロディーが登場します。
  
2)ゲット・バック・イン・ラブ
イントロのコーラスを、シングルではほんの少しカットしたのを、アルバムではノー・カットで入れた以外は、シングル用ミックスと全く同一のものです。
    
3)THE GIRL IN WHITE
サントリー新(ネオ)・東京ラプソディーホワイトの宣伝でフォーティーン新(ネオ)・東京ラプソディーカラット新(ネオ)・東京ラプソディーソウルのために書き下ろした曲を、自分でやってみました。ギター以外は全て同期もの。オールディーズと最新テクノロジーの接点を目指したという点では「新(ネオ)・東京ラプソディー」と指向性が類似しています。
    
4)寒い夏
ジム・ウェッブの線を目指した、このアルバムの中では、一番懐古的アレンジでしょう。一人で全て演奏した曲です。
   
5)踊ろよ、フィッシュ
トラック・ダウンをやり直して、ずいぶんと今日的になったと思います。エンディングのコーラスはシングルには入っていませんでした。
       
6)ルミネッセンス
A面とB面(アナログとカセットの話)で、全く雰囲気の違うのが本アルバムの大きな特徴です。「明るいA面、大作のB面」とでもいったところでしょうか。この曲は(前作)「ポケット・ミュージック」のストックで、深夜に犬を散歩していたら、真夏なのにオリオン座が見えたのに驚いて、出来た曲です。
  
7)マーマレード・グッドバイ
今年(88年)のホンダ・インテグラのCM用に書いた曲です。一種のホーボー・ソング、そして、ドライヴィング・ソングで詞が割と気にいっています。
  
8)蒼氓(そうぼう)
今回最も力の入っている曲です。というより、私にとってここ数年間、最も気に入ってる曲です。「蒼氓」というタイトルは石川達三の小説の題として有名ですが、人々を青草が茂っている様子に例えて言った言葉です。歌のタイトルとしては少々固い感じもしたのですが、この曲の内容を表すのに、これ以上の表現はなく、このタイトルで行くことにしました。無名生への熱烈な讃歌であり、その意味では私の志向する「反文化人音楽」の到達点だと思っています。コーダのユニソン・コーラスは山下夫婦と桑田夫婦4人でやりました。桑田佳祐氏の無垢な声が、実に素晴らしい響きです。
   
9)僕の中の少年
86年のホンダ・インテグラのCMソング。この曲も自分では非常に気に入っているものです。歌詞の内容は前述しました。娘が生まれた時に作った曲です。これもギターとサウンド・エフェクト以外は全部コンピューターによる演奏です。
   
【第41回 了】