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ヒストリーオブ山下達郎 第40回 1987〜88年「RADIO DAYS」から「僕の中の少年」へ

<良いものができればいいじゃないですか、って言ったんだけど>
88年はマーチン(鈴木雅之)の2枚目のソロ・オリジナルアルバム「RADIO DAYS」発売(4月)だね。レコーディングとしては「REQUEST」の後だった。86年のツアー(Performance ’86)が10月で終わって、87年はツアーをせず、前半はまりや、後半はマーチンのこのアルバムを作っていた。自分のアルバム作りも並行していたかな。「GET BACK IN LOVE」(88年4月発売)はもともとマーチン用に書いた曲だからね。で、マーチンのレコーディングが予定よりも大幅に延びちゃって。なかなか曲が、うまく当てはまらなくてね。何曲も試して、ようやく3曲決定したところで、向こうのレコード会社から「もういい」って言われたw
初めに打ち合わせた段階では、アルバム片面、5曲提供することになってた。「おやすみロージー」と「Guilty」はすぐ上がったんだけど、その次がなかなか。マーチンのキャリアはR&Bというより、どちらかというと、ロックンロール寄りだったから。最初がドゥーワップだからね。
ドゥーワップというのは、50年代から60年代初期にかけてのR&Bなので、その先の60年代後期のサザンソウルとかそういうR&Bの声質とは違うんだ。そこが僕の予想していたのとは、少し違っていた。だからと言って、僕はオールディーズのロックンロールを書きたかったわけじゃなかったし。あの頃、86、7年にはR&Bも新しい流れに変わってきて、プリンスやジャネット・ジャクソン、そういうコンテンポラリーなものを睨んでやらなければ、ダメだろうと思ったんだけど、なかなか上手くハマらなくてね。
6、7曲くらい、ああだこうだと試して、ようやく3曲目の「Misty Mauve」が上がった頃に、レコード会社のプロデューサーに呼ばれて「(制作費が)いくらかかっているか、知っていますか?」って言われて。そこまでもう3ヶ月くらいかかってたんだけど。「別にいいものができればいいじゃないですか、レコードは一生残るんだから。良いものを長く売ればいいんだから」と言ったら、「それはあなたの考えでしょう。うちの会社はそういう方針じゃないんです」「おたくってつまらない会社ですね」ってw それで「もう結構です」って、結局、3曲だけで終わらされちゃった。
マーチンとの出会いはね。77年の秋の終わりに電話がかかってきて、スネークマンの主催者の桑原茂一くんから。彼とは仲が良かったんだけど、彼が「スネークマンショーのプロデュースでクリスマス・シングルを出すんだけど、パンクとドゥーワップで作る。ドゥーワップの良いグループがいるから、見て感想を聞かせてくれ」って頼まれたの。それで、六本木のフォノグラム・スタジオへ行ったら、そこにいたのがシャネルズだった。「I Saw Mommy Kissing Santa Claus(ママがサンタにキスをした)」を「So Much In Love」のアレンジでやっていた。まだみんな、現役のヤンキーでねw 東京では当時はヤンキーじゃなくて、ツッパリって言ってたけど。でもマーチンは音楽好きで、礼儀正しくて、愛想も良かった。その日、帰りは彼が、僕を練馬の家まで、車で送ってくれたんだけど、その時に乗ってたのが、紫色というか藤色のカマロで、窓ガラスどころかフロントガラスもないんだ。びっくりして、「窓がないけど……」「これ箱乗りするのにちょうどいいんすよ」ってw あれはすごく鮮烈に記憶してる。
その頃からシャネルズは新宿ルイードでライヴを始めてて、何度か見に行った。飛び入りで歌ったこともある。あの頃もドゥーワップが好きな人がいて、業界の人も何人かいたけど、そういう中では、彼らはプロにならないほうがいい、って共通認識で、お互いに手を出さないでおこうという、紳士協定を結んでいた。
そこに、後に所属することになる事務所の社長が唾をつけて、さらって行っちゃったw それで初っ端から「ランナウェイ」の大ヒットで。で、シャネルズがデビューした時は、僕もちょうどRIDE ON TIMEの頃で、イベントで一緒にもなったし、マーチンとはラッツ&スターになってからも、時々会ってたんだよね。曲の依頼とかそういうのもあったんだけど、あの時期は僕自身もツアーとアルバムの制作で忙しくて、なかなか機会がなかった。ある日サウンドシティで、自分のレコーディングをやっていたら、隣でマーチンの1枚目のソロアルバム「MOTHER OF PEARL」の録音をしていた。翌日マーチンに電話をかけて、2枚目は僕に曲書きと、プロデュースをやらしてくれって伝えた。
一方、彼の記憶の中でよく言う、僕との最初の出会いは、レコード屋のフェアー(スネークマンショーのクリスマス・シングルの1年前、神保町のレコード屋の中古盤セール)でだね。その時、僕は彼をまだ認知していなかった。僕がゴム引き軍手を使っていたという。レコードは滑りやすいので、ゴム引き軍手を使うと、早く検索できる。 レコードの段ボール箱は、アルバムは後ろから、シングルは前から見ていくのが基本なんだけど、アルバムの場合はゴム引き軍手があれば、両手で2箱同時にいける。これで誰にも負けないw そうやって僕がどんどん持っていっちゃうので、マーチンが焦ってね。で、マーチンが狙ってたキャデラックスを僕が先に取っちゃったんだけど、既に持っていたものなので、僕は箱に戻した。それを彼が捕まえて買えて喜んだ、という話。
ゴム付き軍手の話は本当の話ですよ。都市伝説じゃありませんw (大学休学時に?)運送屋のバイトでゴム引き軍手を使ってて。運んでたのが紙だったのね。1ロール25キロを100本、なんていう過剰積載で、2トン車で運んでたんだけど、素手だと手を切るし、紙は滑るからね。それでこれ使えるなと思ってレコード屋のバーゲンでも試してみたら、抜群だったw 今もバーゲン行くとなったら、絶対ゴム引き軍手。速さは誰にも負けない。
    
<心残りもあったけど、完成した3曲にはどれも渾身の思いを込めている>
POCKET MUSICやREQUESTの経験を経ても、マーチンのアルバム制作は難産だった。POCKET MUSICの頃から打ち込みを一生懸命やるようになったけれど、打ち込みで曲を作ると、それまでにない空気感の曲ができる。それを生かして、例えば「おやすみロージー」はドゥーワップだというのに、全部打ち込みで、一人多重で作っている。スネアドラムだけは生演奏だけど、キックはマシン、ウッドベースも打ち込み。そういうコンピューターと、生の演奏をミックスする形で、逆に新鮮さが出た。同様のやり方で、よりコンテンポラリーなサウンドを作ろうと(マーチンの現場でも)トライしてみたんだけど、なかなか感じが、彼と合わなかった。
僕の個人的なマーチンに対するイメージっていうのがあって、そこに近づけようとするんだけど、なかなか近づかない。曲が近づいても、今度は声がフィットしない。歌詞にも違和感があって、ウダウダとやっているうちに会社にストップをかけられた。相手のレコード会社のスタッフには、僕のそういう思いは伝わらなかった。
原因は他にも色々とあるけど、やりたいことにコンピューターの性能がついていかなかったというのも大きい。マシン・パワーがなかったんだね。今(2017年)のコンピューターのクロック・スピードは3.5ギガヘルツとかまでなっているけど、当時のPC-8801は確か4メガ程度だったからね。
その後のNECPC-9801シリーズは、マシンパワーが上がって、10メガくらいまで向上したけど、でも、その程度だった。まだフロッピーディスクも、5インチが3.5インチになる前で。容量も、700キロバイトが1メガになっただけで大騒ぎになるくらい。ハードディスクはあるにはあったんだけど、すごく高くてン十万はしてね。それも容量が10メガバイト程度でしょう。今は4テラ、5テラが普通だもんね。ディスプレイだって1台30万円くらい。
そういうふうに、テクノロジーが高価な上に、まだまだ不十分で。レコーダーもまだSONY PCM-3348(48chデジタル・テープレコーダー)が出る前で、3324(24ch)だった頃だね。POCKET MUSICがめちゃくちゃ難儀してて、その延長だったから、1曲あげるのに、ものすごく時間がかかって。詞だけ、曲だけを書くのは楽なんだけど、録音するともうダメ。アレンジが全然、生かせない。そういう環境だった。
それと(音楽的には)ニューウェーブがもの凄く全盛だったから、ゲート・リバーブとアンビエンスが席巻していた。何が嫌いって、アンビエンスとゲート・リバーブ。ゲート・リバーブは自慢じゃないけど、自分の手掛けた作品では、1曲も使ったことがない。あれは僕の好きなグルーヴを殺すんだ。
「Sparkle」とか、ああいう曲をゲート・リバーブでやってもあのノリは絶対に出ない。レキシコンとかAMSとか、新しいデジタル・リバーブも出てきたんだけど、響きが暗くて嫌いだった。何でもかんでもデジタル化し始めた時だから。そんな中で、ソニーのデジタル・リバーブDRE-2000は唯一の救いで。今でも使っているけど、これも、もう作られていないから、壊れたり終わり。
まあ、マーチンのレコーディングはそういう具合に、心残りもあったけど、完成した3曲には、どれも渾身の思いを込めた。あともう2曲できてたらと悔やまれるよ。
まりやの「REQUEST」にも、とにかく時間をかけたんだけど、「駅」が有線でもの凄く反響があったのがきっかけで、注文が急増した。そのおかげで半年くらいかけて、ミリオンセラーを達成して、その後もロングセラーになった。それに気を良くして、マーチンの次は「僕の中の少年」のレコーディングに入って行ったんだ。
ツアーの間にレコーディングをやる、というのが、ずっと何年も続いていたけど、ようやくこの辺りで一段落した。86年のツアーから88年の「僕の中の少年」のツアーまで、1年くらい空いているから。この頃にはもう、スタジオ用にシンセやコンピューターなどの機材をひと揃い持てるようになってたから、自分一人で打ち込んで、シンセの音も自分一人で作るという具合に、レコーディングの段取りが大きく変わった。
80年代の末に、ローランド音源モジュールD-110に出会って、これがなかなか優れものだった。それを主役にして、自分一人だけで「僕の中の少年」(88年)、「ARTISAN」(91年)、まりやの「QUIET LIFE」(92年)までやり続けた。あの時代の音は、D-110にかなり依存している。「僕の中の少年」の「The Girl In White」は、ほとんどD-110で組み立てたもので、あの時代はD-110にだいぶ助けられた。
シンセサイザーの楽器としての能力も、MIDIのノウハウも少しずつ向上してきた時代。シンセやMIDIの扱い方にも慣れてきて、トライ&エラーでレコーディングしてた。アナログ・シンセは、機種によって発音のタイミングが違うので、そこを揃えてやらないといけない。それをオフセットというんだけど、今は波形を見て視覚的に合わせることも可能だけど、昔はそれができなかったから、方法を色々と考えなければならなかった。そういう無駄な時間が多かった。
シーケンサーは80年代前期はローランドのMC-4で、NEC PC-8801用に開発されたカモン・ミュージックのMCPというソフトが出たおかげで、「僕の中の少年」の頃には、打ち込み音楽をかなり突き詰められた。その後、PC-9801へとハードは替わったけど、ソフトもハードもまだまだパワーが足らない時代で。もっともMacだって同じで、パフォーマーなんかのMac専用シーケンスソフトだって、最初は危なっかしかったからね。
フェアライトについては、そもそも使用できるような財力が無かったw あの当時はシンセを一通り揃えるにしても(プロフィット)T8が300ン十万で、オーバーハイムマトリックスが200ン十万。そういう基本的な機材のセットを揃えるだけで、1千万近くかかるのに、シンクラヴィア、フェアライトなんて高くてとても買えない。サンプラーE-MU(イーミュレーター)が精一杯だった。
プログラミングについては、僕はMC-4から始めたから、カモンはやりやすかった。キーボード・プレーヤーは、みんなパフォーマーでいいわけですよ。リアルタイム入力ができるから。だけど、僕はキーボード・プレーヤーではないから、数値打ち込み派になっていく。譜面には起こさないね。頭の中で数字を考える。だからエンジニアは大変だったよね。もっともコーラスなんて、昔から譜面は書かないからね。今でも書かない。
あの頃は、今、僕のメイン・エンジニアをやってくいれている中村辰也くんがアシスタントで。彼はすごく勘が良くて、「さっきやったところの、もうちょっと前」っていう指示でわかる。アシスタントはそれくらいじゃないと務まらない。締め切りがタイトな時はなおさら。当時はアナログのテープレコーダーなので、プロツールスみたいに、やり直しが効かない。間違って消したら、一巻の終わりで、徹夜続きで間違って消してしまった、なんてことが昔はしばしばあった。どんなベテランでも、一度や二度はそういうことがあった。
でも、ともかく、あのハードウェアの転換期に七転八倒したおかげで、機材の知識やシンセのノウハウ、コンピューターの打ち込みといった、色々なことに習熟することができた。それは、その後の曲作りや、アレンジ作業に計り知れないプラスをもたらした。曲と詞だけでやっていたら、今頃は全くお手上げだったろうね。生楽器の世界ですら、機材の変化から逃れることができない。例えばデジタル・クロックの問題や、タイム・コードの問題とか、いろいろあって、あの時、オーディオから何から何まで、デジタル機器への対処をせざるをえなくて、必死だった。あの時代の3、4年は、本当に試行錯誤の連続で、でもそのおかげで、あとの時代を何とか乗り切って来れた。
    
<打ち込みには聴こえない、リアルな”揺らぎ”を出したかった>
当時はデジタルの勃興期というか、非常に混沌とした時代でね。あの時代のレコーディング作品は、あまり歴史に残ってない気がする。デジタル・テープレコーダーもまだ標準器が確定していなかったから、スタジオによって違っていて。それ以上に、問題は楽器の方で、特にドラムマシンLINNとか、オーバーハイムDMXとか、この時期の初期のドラムマシンは、本当に音がチープだったから、それゆえに、今はもう鑑賞に耐えないものが多い。
ワムの「LAST CHRISTMAS」(1984年)だって、今聴くと、ドラムの音がチープだもの。僕の場合、運が良かったのはPOCKET MUSICの時代は、ドラムとベースは生だったこと。コンピューターはキーボード演奏のために使っていたから。ドラムマシンは音がペラペラで、使うときには、音を徹底的にいじらざるを得なかった。
録音に関して言えば、デジタルの世界はよく言えば音がクリア、悪く言うと聞こえすぎで、隙間が見えすぎる。それは近年、さらに顕著で、プロツールスだと、どんなに音を埋めても、なかなか埋まらない。アコースティック・ギターもそのままではスカスカになってしまうので、最近はブズーキとか、ノイズの多い民族音楽を足している。それを一台入れるだけで、昔の12弦の厚みが出てくるんだよ。賑やかなものはそれでいいし、おとなしいものは8弦ウクレレとかあって、まぁウクレレの12弦版だね。それを使うと、音の隙間がうまく埋まるんだ。最近だと「CHEER UP! THE SUMMER」(2017年)なんかは、音の壁を作らなきゃいけないので、そういう工夫を一生懸命考えるわけ。
オペレーターについては、昔は頼んだこともある。「スプリンクラー」なんか、若いオペレーターを使って。なかなか優秀で、BIG WAVEなんかも頼んでたけど、行方不明になっちゃった。その後、何人かトライしたけど、あの時代のシンセ屋さんはみんなトンガってる音楽が好きだったから、音色がミドル・オブ・ザ・ロード(MOR)に合わないんだよね。
僕はコンピューターを使っても、自分がそれまでやってきたのと同じ空気感を出したかったの。そんなふうに考えてる僕みたいのは、ごく少数派で、そのおかげでかなり苦労した。コンピューターを使っても、打ち込みには聴こえないリアルな”揺らぎ”なんかを出したかったんだ。シンセサイザー音響工学や音響理論に基づいて考案された楽器で、生楽器の持つ音響特性を、機械でシュミレーションすることを意図したものだから、例えばマリンバとか、ビブラフォンとか、ピッチの良くない楽器は、シンセで再現した方が、良い場合も多い。
そういうメリットもあったから、若い時からシンセを使ってきたし、勉強もしたよ。だけどそれは、新しいというだけで飛びついて、なんでもデジタルドラムでやるとか、時代の音色だというだけの、例えばヴァン・ヘイレンの「JUMP」みたいなアプローチではなくて、以前作っていたようなサウンドを、コンピューターとシンセを使ってやれないか、というのがPOCKET MUSICからARTISANまでの、基本的な流れだったの。
「僕の中の少年」でも同様のアプローチで、例えば1曲目の「新(ネオ)・東京ラプソディー」は、イントロから始まるシンセは、コンピューターによるデータ演奏で、クリックを聴きながら、ドラムとベースとギターが一緒に演奏してる。そういうテクノとマニュアルの融合がどれくらいできるかという、試行錯誤だった。それでようやくARTISANの頃には、望むものがある程度出せるようになった。
そういう試行錯誤は僕だけじゃなくて、各方面にあったと思う。例えば、YMOはテクノの帝王みたいに言われてるけど、実はドラムは生で、いかにドラムがシーケンサーに合わせられるか、っていう能力を(高橋)幸宏さんなんかは競っていたわけ。できそうで、実は誰にもできることではなくて、60年代的な考え方のドラマーには、あれはなかなかできない。幸宏さんだからできた。だからYMOも、実はかなりユニークなんだよ。僕なんかとは、音楽的に全く逆のアプローチだったけど。
ともかく何度も言うように、シンセとシーケンサーとコンピューターからは逃げられないから、自分が取り入れるならどうしようかと考えた。そのトライをPOCKET MUSICで始めようとしたら、ついでにデジタル・レコーディングになっちゃって。それは予想外だった。
どっちかひとつだったら、まだやりようがあっただろうけど、変化がいくつも同時にやってきた。一番困ったのは、レコーディングのシステムがデジタル化したことの方で、音楽的なシンセやコンピューター・ミュージックについては、むしろ利点もたくさんあった。それまでの作曲の仕方と、違うやり方のおかげで、今までになかったタイプの曲が書けるようになったり。「蒼氓(そうぼう)」なんかはそこからの産物だね。ああいったパターン・ミュージックは、昔だったら青山純伊藤広規とで練習スタジオに入って、シンセのF♯の音にガムテープを貼って通奏音を出しながら、パターンを考えたり。「LOVE TALKIN’」なんかはそうやって作ったんだけど。それが家で一人でできるってことで「蒼氓」なんかも、かなりの部分まで、家で追い込めるようになった。全員の一発録りだったら、あの緩急は作れなかっただろうね。そこいら辺から、ようやく少し道が見えてきた。
「僕の中の少年」がリリースされた1988年は、CDが生産量でレコードを上回った年だったけれども、自分にとっては、アナログの時代がまだ圧倒的に長かったから、例えば曲順を決めるときは、あくまでアナログ・レコード(のやり方)が優先だった。前作POCKET MUSICの場合は、基本的に5曲目までがA面で、6曲目からがB面ということになる。「僕の中の少年」も同様で、「踊ろよ、フィッシュ」までがA面、「ルミネッセンス」からがB面。発売がCDオンリーになったのは1991年のARTISANからで、それでも5曲目の「Tokyo’s A Lonely Town」までをA面と想定している。
それまで20年間ずっとそうだったんだから、そう簡単には変えられない。アナログ盤のA面からB面へという精神的な切り替えは大事だったんだけど、メディアがCDになって、その価値が失われてしまった。片面18分から22分というのは人間の集中力を保つ、ベストな長さで、それでA面、B面がある。人間の集中力って45分だと言われていて、アナログレコードは音楽を聴くのにドンピシャなメディアだから、あれだけ興隆を保ったわけなんだよね。たとえばB面1曲目には、それまでと変わった曲調を入れる、そういう価値観も今や化石だけどねw
   
<コンピューターで自分が出したいフレーズやパターンを実現できるようになった>
1985年にホンダの新車インテグラのCM用に「風の回廊(コリドー)」を書いたんだけど、車がマイナーチェンジした86年に「僕の中の少年」を書いた。それをアルバムのタイトルにしたんだ。CM用に作った曲はフック(曲のサビ)しかなかったんで、それをフルサイズに膨らまして。歌詞は、84年に子供が生まれた際に思いついた詩のテーマから起こした。あのトラックは、完全に一人きりで仕上げたもので、ギター以外は完全に全部打ち込み。エレキギターだけ人力で、後はキーボード、ドラム、ベースと全部MIDIデータで演奏してる。
コーダ部分でのドラム・ロールも全部打ち込み。あの当時のドラムマシンはドラム・ロールができなかったんだよ。ドラムマシンのスネアは、一つの同じ音しかないから、早く演奏するとダダダダーって、今のヒップホップみたいになってしまう。だから叩く分だけ、全部別々にサンプリングしなくちゃいけない。スネアを6段階くらいに強、弱で分けて、ピアノからフォルテを撮って。それを右手2種類と左手2種類の4種類でまた6つ。だから24種類か。当時のサンプリング・マシンは、望む音を作るのに相当な時間がかかった。曲を書いている時間より、アレンジと打ち込みに費やす時間の方がはるかにかかっている。歌入れなんて1日で終わるからねw
その上、当時はドラムの音を構築するにも、生ドラムと違って、キック、スネア、ハイハット、タムという具合に、一つ一つ別々に録っていかなきゃならない。今はそれらをみんな同時に鳴らして、普通の生ドラムのように録れる時代になったけど、あの頃はまだ別々で、しかも発音のタイミングがそれぞれ違うので、それを合わせるまで、また時間がかかった。1日中レコーディングして、家に帰ってから聴くと、テンポが遅い。それで翌日、全部消してもう一度。そしたら今度は速くて、また全部クリアにしてもう一度。毎日そんなのばっかりw
コンピューターで試せるから、逆に選択の余地があって、そうなってしまう。昔だったらどんなにドラムのチューニングが悪くても、それでやるしかないし、我慢するしかなかった。それがコンピューターで自分が出したいフレーズやパターンを、スタジオ・ミュージシャンに頭を下げてお願いしなくても、実現できるようになった。それもコンピューター・ミュージックの一つのメリットで、より内向的な音楽を作る上で、かなり役に立った。
ちょっと話がそれるけど、昔から思ってることを、今ふと思い出した。大滝さんはどうしてコンピューター・ミュージックに手を出さなかったのかなって。80年代にはデジタル・レコーディングもほとんど未導入だった。僕は、彼に何度となくパフォーマーでもカモンでも何でもいいから、シーケンサーを使えば「NIAGARA MOON」(1975年)でドラマーに要求したトリッキーなパターンも、機械に打ち込んで一発で可能なのに、って言ったんだけど、絶対に手を出さなかった。何故かわからないけれど。デジタルの音色が好きじゃなかったのかもね。「EACH TIME」(1984年)で迷ったのは、曲の問題もあるだろうけど、時代のデジタルへの変化もあったからだよね。
でも僕が、あの時”生”に固執していたら、おそらく90年代に入る頃は、技術的にも音楽的にも行き詰まっていたと思うよ。あの頃苦労したおかげで、基本的なノウハウを理解することができたから。今の時代、もうデータの打ち込みは、キーボードで手弾きで演奏したデータを細かく修正して作る、というのが、世の中のほとんどの作業形態だけど、僕は今でも、数字入力のままなんだよ。家で作業するには、それで充分なんだ。今のソフトは機能が多すぎて、面倒くさい。単純に家でデモを作るだけなら、そんなに多くの機能はいらない。ドラム、生ベースかシンセベース、後はエレピとギター、そんなもんで、もう十分に家での作業はできるんだから。後は家で作ったMIDIデータをネットでスタジオに送って、本番の作業はスタジオでやればいい。
今はレコーディングの時間は短くなったようには思う。少なくともPOCKET MUSICや「僕の中の少年」の時代みたいに、朝の4時、5時なんて事はもう全然ない。体がもたないもの。その意味では、昔よりは随分改善していると言える。あの時代はシンセでも一つ一つ別々に録音しなければならなかったけど、今は全部一緒に音が出せるし、極端な話、録音しなくても音が聴けるようになった。すべてはコンピューターのマシン・パワーが向上したおかげでね。プロツールスを使って、シンセやサンプリング・マシンといった機材を10台でも20台でも同時に鳴らせるから。生楽器は録音しておいて、一緒に馴らせば、レコードと同じミックスが、録音するより良い音で聴けたりする。実際、録音しないで最後まで作業する、という人たちもいるみたいだし。機材の発展が時間を短縮してくれる。昔と違って、テンポだって自由に調整できる。全部録り直しなんて事は、もうしなくていい時代になっていた。
【第40回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第39回 ON THE STREET CORNER 2(86年12月10日発売)から「REQUEST」(87年8月発売)へ

<「オンスト2」に対する創作意欲は、ものすごくあった>
86年5月にスタートした”PERFORMANCE ’86”。このツアーの時から、ステージ・デザイナーが、今(2016年)もやってもらっている、斎木信太朗さんに替わった。斎木さんは僕のステージ・プロデューサーの末永博嗣(ひろし)と同じクリエイト大阪の人でね。クリエイト大阪は舞台監督の会社だけど、ステージ・デザインもやっている。それで彼に頼むことになったんだけど、彼は僕と同い歳で、メンタリティも割と合ってるんだよね。
85年からスタートする予定だったツアーが、POCKET MUSICのレコーディングが遅れに遅れて、その影響でツアーも初めて夏場になった。でも、その時には既にON THE STREET CORNER 2(以下オンスト2)を準備していたから、ツアーもストリートのイメージで行こう、となった。
「オンスト2」に対する創作意欲は、ものすごくあった。あの頃はコンスタントにツアーをやっていたから、ツアー用にアカペラをどんどん先行して作っていたんだ。「AMAPOLA」もBIG WAVEのツアーの時にやっていたからね。「AMAPOLA」は、ちょうどその頃に観た映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」で流れていたというシンプルな理由。僕はセルジオ・レオーネとか、エンニオ・モリコーネとか、イタリアの映画監督や、映画音楽作曲家が好きだった。あの映画は傑作だと思うし、ロバート・デニーロも大好きだしね。映画の中で鳴っていた「AMAPOLA」はメロディーは知っていたけど、もっと知識が欲しくて、いろいろ調べた。1920年代に作られた曲で、作曲者はホセ・ラカーリエというスペイン系アメリカ人。40年代にジミー・ドーシーのレコードで大ヒットした。僕個人は中村とうようさんに教えていただいたレクオーナキューバン・ボーイズのレコードを聴いて勉強した。
「オンスト1」は80年に出た「オンスト」のリミックス盤。リード・ヴォーカルをもう一度、全部歌い直した。なぜかというとBIG WAVEの時にアラン・オデイに英語の指導をしてもらったから。80年の「オンスト」は決してデタラメというわけではないんだけど、でも細部を検証すると、かなりアバウトな発音で歌ってたんだ。要するに耳英語、雰囲気英語で。BIG WAVEでアランにしごかれた後でそれを聴き直すと、かなりの改善の余地があると感じた。
そこで「オンスト2」を作る際に、ついでに「1」の歌もやり直すことにした。だから86年10月に出た86年盤「オンスト1」は最初のアナログ盤とバックトラックは同じだけど、より正確な発音を目指してリード・ヴォーカルを全て歌い直した。元の音源をデジタル・マルチトラックレコーダーのPCM3324にコピーして作業している。12月に出た「オンスト2」は最初から全部デジタル・レコーディングしているけれど、「オンスト1」はアナログ・レコーディングしたものをデジタルにコピーして、ミックスし直している。
「オンスト2」になってのレコーディングでの変化で言えば、曲のテンポ管理の技術が大幅に向上したおかげで、フォー・フレッシュメンのようなスタイルができるようになったことが一番大きかった。だから「オンスト2」は大作志向。長尺ものもやりたいと思ったので、スタイリスティックスの「YOU MAKE ME FEEL BRAND NEW」をやったりとか。
「オンスト1」に入っている曲は基本的には全部ドゥーワップ。昔は、取材の時にドゥーワップとは何か、っていうのを説明するだけで、冒頭の30分を費やしてしまう。そういう時代だった。だけどシャネルズが出てきてくれたおかげで、ドゥーワップについて余計な説明をしなくてもよくなった。けれど、そうなってくると、今度はシャネルズが売れてきて、僕がアカペラをやるんだったら、もうちょっと間口を広げないとダメだと思った。
そんなことを考えていたときに、ちょうど「AMAPOLA」が出てきて、ああこれはいいや、と思ってね。それで「オンスト2」では1曲目が「AMAPOLA」で、2曲目のザ・ムーンクローズ「TEN COMMANDMENTS」は50年代のドゥーワップ。4曲目のリトル・アンソニー&ジ・インペリアルズの「MAKE IT EASY ON YOURSELF」なんかは60年代の曲だから。そういう具合に少しずつ「オンスト1」とは違うテイストの曲を入れていった。「CHAPEL OF DREAMS」は81年か82年の録音で。元々ライヴ用に録音したものだから。
後は、その時点では「WHITE CHRISTMAS」がCD化されてなかったので、それを入れて。「SILENT NGHT(きよしこの夜)」もライブ用に作ってあったもので。この2曲がいわゆるフォー・フレッシュメン・スタイルで、これらはボイシングがより複雑なので、アカペラの間口を広げる意味ではとても効果的だった。そうやって「オンスト2」のコンセプトをまとめて、POCKET MUSICができたら、すぐやろうと思っていたんだけど、その完成がものすごく遅れちゃったので、こっちのリリースも押してしまった。でも、創作意欲はすごくあったんだよ。
 
<「WHITE CHRISTMAS」の完成度は、83年のヴァージョンから格段に向上した>
フォー・フレッシュメン・スタイルを解説すると、フォー・フレッシュメンは男性4声のコーラス・グループだけど、アカペラの場合、演奏のテンポが自由なの。つまり1曲の中で、テンポが伸び縮みする。ドゥーワップのような場合は、イン・テンポって言って、一定のテンポで演奏する。ドゥーワップにはダンス・ミュージックの要素もあるから。だから、ドゥーワップはアカペラでも、大体インテンポでやってるんだけど、「WHITE CHRISTMAS」とか「SILENT NGHT」みたいなアレンジは、本来はメンバー同士が顔を見合わせながら、テンポを自由に変えていくことで雰囲気を作っている。
だけど、それを一人アカペラでやろうとすると、どうやってそのテンポの緩急を揃えるか、それが本当に大変になる。フォー・フレッシュメンは4声のコーラスなので、僕の一人多重の場合には基本1声について3回ずつ声を重ねて、合計12回歌うんだけど、その12回をフリーなテンポで完璧に合わせるテクニックが「オンスト」を始めた1980年の時点では、まだなかった。
だから、83年に「クリスマス・イヴ」をピクチャー・レコードにして出したときに、B面に「WHITE CHRISTMAS」を入れてるけれど、あれが初出だけれど、あれと「オンスト2」のテイクは全く別のもので、しかも作業の方式が全く違うんだ。
例えば、歌い出しの♪I’m Dreaming of a White Christmas♪のところ、語尾のリット(テンポが落ちる)から、またテンポを戻して、次の♪Just like the once I used to know♪に行くっていう、そういうテンポ・チェンジのところを一人多重で合わせるにはどうしたら良いかと、いろいろ考えた。一番最初は、自分が指揮しているところをビデオに撮って、それを見ながらやろうとしたんだけど、実際にやってみると全然ダメだった。そこで次に考えたのは、フレーズごとに別々に録音する方法で。最初の♪I’m Dreaming of〜 ♪までを録って、今度はその次の♪Just like the once〜♪を録って、という具合に1フレーズごとに別々に録音して、その後でマルチテープにつないで、一曲にしてミックスした。 これはかなりうまくいった。ものすごく時間はかかったけど。ブレス(息継ぎ)に注意してやれば、あたかも全部通して歌っているように聴こえる。でも実際はそうやってバラバラに作ってる。
ビーチ・ボーイズの「SUMMER DAYS(AND SUMMER NIGHTS‼︎)」(1965年)に入っている「AND YOUR DREAMS COME TRUE」っていう曲は、まさにフォー・フレッシュメン・スタイルのアカペラ・コーラスなんだけど、あれも1フレーズづつ別々に録っている。あの時代はアナログLPだったので目立たなかったけど、CDで聴くと、テープの繋ぎ目がはっきりわかる。ブレスが途中で切れたりして、部分部分を別に録って繋いでいることがわかる。それだけ難しい曲なんだけど、でも、フォー・フレッシュメンはビーチ・ボーイズより20年近く前に、ああいうハーモニーを一発録りしてたんだからね。しかも、彼らはそれを演奏しながら歌ってたわけだから、すごいとしか言えない。
そういう話は世の中に色々あって。1970年代に冨田勲さんがシンセサイザー・ミュージックを始めた時代は、まだシーケンサー(演奏の同期)がそれほど発達してなかった。だから冨田さんはマイクを使って、”ワン、ツー、スリー、フォー”という具合に、ドンカマならぬ、くちカマ。つまり口で語ったテンポ・データを先にテープに録音して、それに合わせて演奏を重ねていったそうなんだ。あの名盤「月の光」(1974年)は、そうやって作られてるんだよ。あれも気の遠くなるような作業だったと思う。
83年に「WHITE CHRISTMAS」をレコーディングした後に、ローランドからSBX-80というシーケンサーが発売された。こいつはそれまでと違って、ボタンをタップする(叩く)ことによって、手打ちで、自由なテンポを打ち込める機能がついていた。つまり先程の富田さんのくちカマが、データ化できるようになった。これで、自由なテンポの増減が可能になった。しかも数値で打ち込むデータではなくて、自分の生理に合った、自然なテンポ感で作られたクリックなので、複数回の多重録音でも、合わせるのが格段に容易になった。おかげで「WHITE CHRISTMAS」はテンポや語尾が、完璧に合わせるようになって、83年のバージョンから比べると完成度が格段に向上した。
「オンスト3」(1999年)でもフォー・フレッシュメンの「Their Hearts Were Full of Spring(心には春がいっぱい)」をやっているけど、 自分の生理に沿ったクリックが作れる、それはハードウェアの性能アップがあったからこそで。一人多重アカペラというのは、非常にアナログな粘土細工のようなレコーディング方式なんだけど、その裏にあるテクノロジーの向上と、支援がなければ不可能だった。まぁそんなバカなこと、他には誰もやってなかったけどねw
だから、デジタルにはいいこともあるんだ。聴いてみるとわかるけど、83年に出した最初の「WHITE CHRISTMAS」は縦の線が、まだ粗い。音のタイミングが揃ってないんだ。それが、あの当時の一人アカペラの限界だった。
でも、新しいバージョンはデータ化されたクリックが導入できた事と共に、そういうクリックに体を合わせる訓練を何年か続けていて、歌い方も確立できていたから、完成度を上げることが可能になっていた。
だから、80年の最初の「オンスト」を出してから、86年に「オンスト2」を出すまでの5〜6年間、一人アカペラのノウハウは蓄積されていったわけ。
その間に新しいシーケンサーが出てきて、ガイドのピアノも手弾きでやらないで、デジタル・キーボードで、同じテンポ・データを使ってやるから、キーボードのタイミングもちゃんと合う。80年版「オンスト」のときのガイドのキーボードは、僕の手弾きなんだけど、下手だからテンポがずれたりして、一人多重のタイミングに悪影響を与えた。それがクリックとか、ガイドのピアノとか、そういうものを全てマシンで制御できるようになったおかげで、多重録音も、より完璧に合うようになった。
おかげさまで「オンスト2」はオリコン3位に入って、あの時、僕は32、3歳で、それなりにネームバリューもあったのと、一人アカペラなんて誰もやってなかったから、そういう希少価値もあったんだと思う。それに「オンスト1」の時よりも、選曲も少し分かりやすくしている。日本では比較的有名な「SO MUCH IN LOVE」とか「WHITE CHRISTMAS」があるだけで、ずいぶんと親しみやすさが増すからね。
後は80年以前から、ライヴではずっとアカペラをやり続けていたし、ツアーの本数もだいぶ増えてきた。だから、地方にも僕のアカペラが浸透してきた。「CHAPEL OF DREAMS」とか好きだから、ツアーでもずっとやってたでしょ。そういう曲がレコードになったとか、いろいろなファクターがあるよね。でも、今から考えるとBIG WAVEにオンストだからね、バカだよねw しかも、ある意味では、そっちの方がやる気があったっていうか。今でもあまりいないよね、そういう人。
ツアーを重ねていて、声も戻ってきて。80年に「オンスト」を作ったときには、まだ声がそんなに出てなかったんだけど、「オンスト2」のときには体が鳴っているから、スタイリスティックスの曲なんか、ロングトーンが信じられないほど伸びる。そういうところをうまく利用して、作っている。だから、ライヴと同時進行しているのも大事なんだ。まあ、いいことが重なってきているの。
  
<マルチ・プレイヤーって消耗が激しいんじゃないかと思う>
「オンスト1」と「2」を出すその間の月(86年11月28日)に「クリスマス・イブ」の7インチEPシングルが発売されているけど、あれには僕は関与してない。小杉さんの発案。
「クリスマス・イブ」は83年にMELODIESが出た後、年末に12インチのピクチャー・シングルとして、限定2万枚で出したんだけど、あっという間に売れちゃった。後はそれと別に、日音の村上(司)さんとか、シンコーミュージックの草野(昌一)さんとか、洋楽系の音楽出版社の人たちが「オンスト」をとても気に入ってくれて、ずいぶん後押ししてくれた。草野さんに「WHITE CHRISTMAS」の日本語詞を依頼されたり、村上さんにも非常に高く評価していただいた。「オンスト2」に入っている楽曲を管理している音楽出版社が、合同でオリコンに広告を出してくれたこともあった。スタンダード曲を掘り起こすというのは、実は結構大変なことなので、「オンスト」のような試みを喜んでくれたんだと思う。
そうなってくると「クリスマス・イブ」は「WHITE CHRISTMAS」みたいに、季節商品として成立するんじゃないかって、多分、それは小杉さんのアイディアでしょう。でも、この86年11月の「クリスマス・イブ」にはタイアップはなかった。だから、本当に限定的なものだったの。それが88年にJR東海のCMに使われてもらったのがきっかけで、ああなっちゃった。でも、そうなることがわかっていたら、83年に12インチシングルとして出した後も、84年、85年と続けて出しておけばよかったね。そうしたらクリスマスイブの連続チャートイン記録が、もうちょっと早く達成できたwまぁ当時はそんなこと夢にも思ってなかったものね。
だけど、こうして振り返ってみて思うけど、やっぱり20代、30代が大事だね。新基軸への挑戦とかも含めて、この時期にどういうことを、どれぐらいやるかっていうのは、本当に大事。単に人気や、売れることばかりを追いかけていくと、やっぱり自己模倣とか、そういう停滞現象が起きてしまう。逆に歳をとったら、今度は良い意味での自己模倣ができないとダメなんだけどね。声がちゃんと出てるかとか、そういうことも自己模倣なんだけど。若い頃のアタックがちゃんと出せるかとか、そういうものは必要なんだ。
でも若い時代には、音楽的な幅を、どういうふうに広げていくか、っていうことが大事なんだよ。その意味では、BIG WAVEや「オンスト」で、横道にそれまくったのは大正解だなって思う。そういうものが何もなくて、オリジナル・アルバムだけで続けていたら、そんなに面白い音楽人生じゃなかったね。
基本的には、ずっと一人でやってきたからね。高校の頃から一人多重録音とか、そういうことが好きだった。要するに僕は録音オタクでもあったんだよ。最近思うのは、一人で音楽を作るマルチ・アーティストって、共同作業でチームでものを作っている人たちよりも、消耗が早い気がする。例えばトッド・ラングレンなんかすごく才能あるけれど、いろんなことに手を出していく。コンピューターだったり、ネットの世界に行ってみたり。そういう、いろいろなことに手を出すパッションを、全部音楽に振り向けていたら、もっと息の長いものができたんじゃないかと思うんだよ。
ステーヴィー・ワンダーなんて正真正銘の天才だと思うし、10代の時からすごかった。ただのシンガーじゃイヤだって、音楽学校に行って、理論もちゃんと勉強して、そこでモータウンと契約し直して、自分のプロデュース権を獲得してから、ものすごいことを始めたわけじゃない。でもあれだけの天才でも、ある時点から創作のスピードが、急に落ちてしまった。その理由がよくわからない。
だからマルチプレーヤーって、実はすごく消耗が激しいんじゃないか、と思うんだよね。日本でもマルチな人って意外と大変だよね。最近はスタジオの衰退やら、予算削減やら何やらで、家で一人で音作りする人が増えてきていて、それが音楽の消耗を増しているような気もする。その意味では僕もずっとマルチでやってきたんだ。BIG WAVEもオンストも一人っきりで作っていたから。だから、そういうところで、他との差別化を図れているのは当然あるんだけど、それがキープできてるのは、90年代に僕があまり活動できなかった時代があったでしょ。あれが良かったのかなって、思ってるんだよね。
200万枚、300万枚ヒットが当たり前だった90年代に、メンバー問題やスタッフ問題、スタジオ問題や何やかやで、思うような活動ができなかったから。それで、ある意味、時代に消費されずに、マイペースを守れたのかもって。最近、よくそういう話をするんだけどね。
   
<「踊ろよ、フィッシュ」はステージでは演奏不可能>
87年5月、シングル「踊ろよ、フィッシュ」発売。 この曲はムーンレコードのスタッフからPOCKET MUSICが非常に地味だって言われて、まぁ、実際地味なんだけど。定例会議で「山下達郎はやっぱり夏に戻らなければいけない」ってハッパかけられてw タイアップを持ってこられたの。ANAのタイアップだね。だから、このシングルは、当時の僕の意向とは別のところで進んだものなんだ。チャートアクションも悪くて、85年に出した「風の回廊(コリドー)」のほうが全然よかった。
先の話になるけど「だから言ったでしょう。僕は30代半ばになるんだから、ヒット曲を出すんだったらバラードしかないんだよ」って。それでスタッフが「GET BACK IN LOVE(88年4月発売)」のタイアップをとってきてくれた。TBSドラマ「海岸物語〜昔みたいに」の主題歌。
話を戻すと、「踊ろよ、フィッシュ」は有りものじゃなくて、CMオファーが有ってから、その時に作ったの。沖縄キャンペーンの曲を作って欲しいって。高気圧ガールと同じ。でも、あの時は正直、そういうのにあまり興味がわかなかった。だって、夏から脱却したくてMELODIESを作ったのに、また夏か、って。あの時、僕は34歳で、もう時代が違うんだから。しかも周りはアイドル全盛で、さらにはTUBEとか杉山清貴とかC-C-Bとか居るんだから、夏は彼らに任せればいいじゃない、って。僕は僕でやりたいことがあって、だってPOCKET MUSICやその次の「僕の中の少年」とか、レコーディングの技術的な問題はあったけど、コンセプトは非常に明快。
そういう自分の中の表現したいものがあるんだから、もう明るい夏の歌はイヤだって言ったんだけど、否応も無い、半ば強制的だったw
僕がTUBEやC-C-Bのようなトラックを作ってもしょうがないからね。結果的に非常に複雑なポリリズムの曲が生まれた。だから、この「踊ろよ、フィッシュ」はステージでは全く演奏不可能なの。演奏難度がすごく高いし、複雑なテンションコードをちりばめているから、まずギターを弾きながら歌えない。歌の難易度もめちゃくちゃ高い。あらゆる意味で難易度の高い曲。カラオケでもダメだもの。これは実験作っていうより、そうしないと個性が出せないっていうか。他人と同じことをやってもしょうがないという。杉山清貴とかTUBEのお客が、山下達郎の客になるわけがないと思ったしw 実際そうだからね。山下達郎のライブに来る人は、TUBEとかC-C-Bどこのファンとは違う層だと思ってた。
僕の観客の中核は、僕よりちょうど10歳前後年下なんだけど、彼らはちょうど大学を出て、就職をするような歳まわりになっているわけね。だからもう結構仕事が忙しいとか、そういうユーザーの世代感を常に考えてた。何しろPOCKET MUSICのキャッチフレーズが”同世代音楽”だからね。そういう世代の人たちのメンタリティーを考えたら「踊ろよ、フィッシュ」じゃないんじゃないかって。まだ、何にも人生が決まってない大学生なんかが考える夏と、お盆休みをようやく取ったけど残業がまだある、という社会人の夏とは違うだろうと。そういう事は、その頃から考えていたの。曲自体は嫌いじゃない。嫌いな曲なんて書けないし、そんなの歌えない。タイアップのコンセプトがあまり好きじゃなかっただけで。演奏はいいんだよ。でもデジタル・レコーディングのショボさは依然、悩みの種でね、なかなか音圧が上がらない。だから、楽器を厚くしないといけない、ということもあってね。
それでもレコーディングについては「土曜日の恋人」の時よりは良かった。B面はアカペラの「YOU MAKE ME FEEL BRAND NEW」で、缶コーヒーのCMタイアップになった。テイクは86年の「オンスト2」と同じテイク。
  
< エピックのA&Rに「”駅”は有線放送でかけたら売れるよ」って言われて>
87年8月、まりやの「REQUEST」発売。このアルバムのレコーディング自体は87年に入ってからかな。
84年に「VARIETY」を出した後、彼女は出産して、子育てに入ったので、全く家から離れられなくなった。それなら家でできることをしようと、他の人への楽曲提供が中心になっていた。前にも言ったことがあるけど、家に帰ったら彼女は洗面台でミニ・キーボードを弾いていて、「子供が起きるので、ここで曲を書いてる」って。あれは確か「色・ホワイトブレンド」か、そのあたりだったと記憶してる。そんなふうだから、当時はオリジナル・フル・アルバムを作れるほどの余裕がない。じゃあ、人に書いた曲を自分でレコーディングしよう、ということになった。今で言うセルフカヴァーの草分けみたいな形だね。ただ、それでもシングルはちゃんと作って、出したんだ。「恋の嵐」とかね。そこはちゃんとやってた。
「VARIETY」で結果は出ていたからね。 小さな会社だし、新譜がなければ、たちまち困窮するw  会社的には「次も早く」というのが本音だったと思う。だけどその反面、当時は出産して、育児中の女性シンガーがアルバムを出す、なんて例はまだなかったし、メディアからも、そういうのはもう現役からは半引退といった見方をされる。それもまた厳然たる事実だった。
だけどこれはその分、製作時間はたっぷりかかってる。僕のツアーの最中にシングルが決まった「恋の嵐」は4日で録ったけど。アルバム用に一番最初に録ったのは「元気を出して」だったかな。POCKET MUSICで七転八倒したデジタル・レコーディングの研究成果が、ここでちょうど良い具合に反映される結果となった。アナログと比べて、デジタルの良いところは、すごく差し替えが楽になったこと。クリックも正確になってきて、後からドラムをダビングするにもやりやすい。
「元気を出して」は、僕がアコースティック・ギターを弾いているけど、僕の技術では演奏が難しい曲でね。それでテープを止めながら、部分部分で、少しずつ録音していった。アナログのテレコだと消し残りが出たりして、そんなやり方はできずに、スタジオ・ミュージシャンの力を借りるしかなかったんだけれど、デジタルだときれいにつなぐことが可能になった。おかげで、思い通りのギターのニュアンスを作ることができた。
「元気を出して」は普通にリズム隊で、「けんかをやめて」は僕の一人多重で、「OH NO, OH YES」はマシンで、という具合にバリエーションをつけながら、カヴァーも何曲かやって。曲の粒はものすごく揃っていた。中山美穂に書いた曲、薬師丸ひろ子に書いた曲、そういうのがズラッとあって。オリジナルは既発のシングル曲が中心で「時空(とき)の旅人」とかもそうだね。それを並べて。
ヴォーカル録音は87年の5月か6月あたりかな。POCKET MUSICのツアーが86年の秋に終わって、「REQUEST」のレコーディングが始まったのは、それから。歌入れの時は、昼の12時くらいから夕方の5時まで彼女がスタジオに入って、その時は僕が子供を見ていて、5時で交代する、そういう生活だった。リリースは当初7月末予定だったんだけども、あの頃はアイドル全盛でリリース・ラッシュだったから、一番リリースの少ないところを狙うってことで8月半ばになった。昔はニッパチって言って2月や8月に出しても絶対にヒットしない、って言われていたんだけどね。でもこの時は、8月が一番薄いから、そこにしようって逆転の発想で。それは結構狙っていた。
あの頃、彼女が人に書いていた曲は、先方への提出用のデモテープを、僕が全部作っていたんだよ。家の仕事場にFOSTEXの16チャンネル・レコーダーと、イギリス製ミキサー卓を買い込んで、小規模なマルチトラック・レコーディングができるようになっていた。値段は安いんだけど、一人使い用のよくできたシステムだった。そこにリバーブとかリミッターとか、一通り機材を導入して、ちょっとした自宅プライベート・スタジオになっていた。そこでシコシコ、彼女用のデモ・テープ作りをやった。そうやって、基本のアレンジを僕がやったものを、デモで渡してたので、作品を全て知っていた。だけど出来上がった先様の作品の多くに対して、僕は、特にオケの仕上がりにかなりの不満を持っていた。アルバムでセルフカヴァーをやるなら、そこんところを改善しようと考えた。ただストリングス・アレンジは、それまで僕がほとんど自分でやってきたんだけど、「駅」とか「けんかをやめて」みたいな曲は、自分のストリングスじゃ歯が立たないかなと思って。だから、前から狙っていた服部克久さんにお願いをしに行って、そこから服部先生との縁が始まる。それはもう、本当に素晴らしいストリングスだった。
演奏に関しても「VARIETY」と同じで、青山、伊藤のリズムセクションの曲と、ユカリ(上原裕)がドラムを叩いている曲と、あと「VARIETY」の時にはなかった、マシン・ミュージックの導入という新基軸もあって。なかなか思い出深い一枚なんだよ。北島健二がギターソロを弾いてくれたりとか、あれは素晴らしいソロだった。「元気を出して」の冒頭の佐藤博さんのキーボードの解釈とか。あの時代のレコーディング人材の豊かさとか、アイディアの豊富さっていうのが、よく出ているアルバムだと思う。
ヒットするかどうかは、彼女はシングル以外何にも活動していなかったからね。レコード店から来る最初のイニシャル(出荷枚数)も消極的だったし、バックオーダー(追加注文)もそこそこだった。
だけど、当時エピックのA&Rで鈴木雅之を手がけて、今はワーナーのCEOになっている小林(和之)さんが、ある日「”駅”は有線放送でかけたら売れるよ」って。それを宣伝会議にかけたんだけど、ムーンは有線のノウハウがないから無理だ、って乗り気じゃない。そこを「でも、やってみようよ」ってハッパをかけて。そしたら、有線で本当に1位になっちゃった。そこからバックオーダーが激増して。最終的にはミリオンセラーにはなるわ、当時のロングチャートインの記録も作るわで。あれは全て小林さんのおかげw
どこにヒットのきっかけがあるのか、本当にわからない。今や「駅」は竹内まりやの代表曲になっているから。それは小林さんのあの一言で決まったんだよね。なかなか面白い話でしょ。このアルバムはそういうエピソードがたくさんあるんだよ。
     
竹内まりやは出産後も活躍する女性アーティストたちの先鞭なんだ>
やっぱり「REQUEST」で目指したことは、セルフカヴァー集だから、彼女の作家としての特徴を出そうとしたこと。そのせいで「VARIETY」もサウンドの幅が広いけど、こっちも負けず劣らず。僕のアレンジャー/プロデューサーとしての立ち位置は変わらないけど、今回は本人が稼働しなくていいように、作業しなければいけなかったし。
でもね、前作での実績があったので、クオリティーに対しての自信はあった。録音の場所も自分たちのスタジオ、スマイル・ガレージができたから、時間がかけられるようになった。しかも、同じ場所でずっとやれるから、レコーディングの時間はかかったけど、そんなに苦ではないっていう。レコーディングのノウハウの部分でもPOCKET MUSICで七転八倒縛したおかげで、こっちはスムーズに作れた。あの人はいつもこっちが七転八倒をした後に出てきて、一番おいしいところ持っていく。だから、こっちが非常に整合性の高いアルバムになったのは、POCKET MUSICでの苦心のノウハウが、このアルバムに生きた。だから悩みはないw
曲順は彼女が決めた。ヴォーカルのディレクションは、あの頃は僕がやっていた。最近(2016年)はもう自分で一人でやっているけどね、ヴォーカル入れの時はしょうがないから、スタジオに子供を連れてきて、ピアノの下に寝かせておいて。アッコちゃん(矢野顕子)もよくそう言ってたっけ。でも、そんなふうにレコーディングやってたおかげで、まだ2歳の娘とずっと毎日一緒にいられた。コミュニケーションが取れる環境だったんだね。だから僕は自分の事を、昼はベビーシッター、夜はプロデューサーって言ってた。そういうこともあって、これはなかなか記憶に刻まれているアルバムなんだ。でも、やっぱりツキとかあるよね。だってあの時代にああいった育児状況がなかったら、レコーディングはごく普通にやってたでしょ。そしたら、このアルバムはこんなふうには、なっていなかったんじゃないか。つまり必要に迫られて、この内容になったんだ。仕方なくそうなったんだけど、結果的にはセルフ・カヴァーっていうのは、なかなか斬新なアイデアだったんだよね。今から考えると。
あの時代って、基本的に女性シンガーは結婚すると、現状維持も難しい、って言われてたから。ましてや出産して、現役を続けている人なんて、当時は絶無だったからね。もちろん活動してる人はいたけど、チャートにアルバムを送り込むなんて、不可能って言われていた。今はもう安室奈美恵さんとか、出産しても活躍してる人はたくさんいるけど、竹内まりやはそういう人たちの先鞭なんだよ。だから、そういう意味でのシンパシーは、今でも続いてるんだと思う。
でも、大変なんだよ。子育てしながらだから。あの状態でよく曲が書けるなと思うんだよね。夜中に何かごそごそ音を出しているし。子供を寝かせてから、やっているわけ。あの頃は子供と一緒に寝ないといけなかったから、子供が昼寝している、ちょっとの時間とか、そういうところで曲を作っていた。作家としての仕事はやっていたから、誰にいつまで書かなきゃいけないとか、そういう必要に迫られる仕事。
彼女は今でも、曲作りはミニ・キーボードでやってるんだよ、机の上で。あの頃はまだ子供が幼稚園に入る前だったけど、小中高と12年間、弁当を作ってたから。”シンガーソング専業主婦”だからね。男は男で、子供がいるとどうかっていうのはあるし、僕は僕で、作品にフィードバックしたりはするけれど、女の人はもうそれどころじゃないっていうね。だから、次の「QUIET LIFE」(1992年)になると、ちょっと落ち着いてきて、そういうものが出てくるけれど。まあでも、映画のタイアップとか、ドラマの主題歌にとても助けられたね。
だから何度も言うけど、意外とポップな人がいなかったんだよね。MORミュージックで、タイアップに適合するというのが。あの時代は特にアイドル全盛じゃない? 大人の人ってあまりいなかったから。
でも、いわゆる芸能界的見方としては、子持ちの主婦は、もう盛りを過ぎた、ってことになってたんだよ。それが、あの時代の普通の見方だったの。だからそれは、非常にユニークっていうか、「REQUEST」は本当にミリオンセラーまでいったからね。それには僕たちもびっくりした。だから、これは作家のアルバムでもあるんだけど、作家のアルバムが本家より売れるなんて、まずないことだから。それは非常に不思議なことなんだ。でもまぁプロデューサーの側から言わせてもらえば、作品の完成度は高いから。いつも申し上げているように、カヴァーはオリジナルとの喧嘩だからね。
彼女自身がカヴァーしたいって言った中でも「色・ホワイトブレンド」には苦労した。なかなか思った音にならなくて。今はもっと出来ないだろうな。3324デジタル(・レコーダー)であれをやるのは、本当に大変だった。難しい曲だね。
このアルバムに入っているカヴァー曲は、僕がほとんどデモテープを作っていたがゆえに、こだわりがあったんだよ。もともと僕が作ったデモに沿った形で、「駅」のイントロとか、「色・ホワイトブレンド」のベースのパッセージとか、どれもみんなデモテープのアレンジを基にしている。作った本人が歌うわけだから、それが一番合ってるんだよね。今でも持ってるけど、そのデモテープはなかなか良いんだよ。今YouTubeなんかに上がってる、宅録みたいな音がしているんだよねw
【第39回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第38回 初デジタル・レコーディング・アルバムPOCKET MUSIC(86年4月23日発売)

<コンピューター・ミュージックは作風を拡大する意味ではプラスだった>
デジタル・レコーディング問題がなければ、POCKET MUSICはシュガー・ベイブでやってたことを、もう一段階上げられる作品になるかなと思った。あくまでも個人的な思い入れだけど。でも、これはコンピューター・ミュージックの問題よりも、デジタル・レコーダーでの問題の方が圧倒的に大きかった。
コンピューター・ミュージックは作風を拡大するという意味では、とてもプラスになっていた。コンピューターを使うことによって、自宅でアレンジの細部をシュミレーションできるようになったり、生楽器では演奏ができない曲でも、成立させられるようになったから。そういうプラス面もいっぱいあった。あの当時はまだ初期段階だったので、LINNドラムとか、そういう楽器のクオリティーの問題はあったけど、でもアナログ・シンセサイザーに関して言えば、今のものより音は断然良かった。実際僕は、今(2015年)も、あの当時のアナログ・シンセで音を作っているから。シンセサイザー・ミュージックについては、そんなに悪いことばかりじゃないんだ。シンセサイザーはあくまで楽器のシュミレーションとしての、明確な設計思想があったからね。
例えば、マリンバのような楽器はレンタル楽器だとコンディションが悪くて、難儀する場合が多々あった。だからといって新品を買おうと思ったら、何百万円もするし、小さなスタジオでは場所も取るから。そういう場合には、シンセサイザーを使うことで、ピッチもバランスも完璧なマリンバの音を作れる。ことほどさように、マイナスばかりじゃないの。使い方次第で、とても便利なもの。
そうやって、自分一人で、以前より複雑なデモテープが作りができるようになった。自宅でLINNとキーボードの打ち込みで、リズム録りの真似事をやれる。スタジオでリズム・パターンをトライして、あまりうまくいかなくて、翌日またもう一度、みたいな作業が、随分と緩和されるようになった。POCKRT MUSICの「MERMAID」といった曲は、そうやって作っている。「THE WAR SONG」なんかも、間奏の部分でのコードの積みなんかを家で納得いくまでやれた。
最終的な音世界が家で想定できるようになって、詞のイマジネーションにもすごくプラスになった。「THE WAR SONG」とか「十字路」なんかにその成果が出てる。「風の回廊(コリドー)」の頃のデモテープは、ヤオヤ(TR-808)とピアノの弾き語りで作ってたんだけど、だんだんそういうデモテープ作りが、コンピューター上で出来るようになっていった。それで利便性がとても向上した。
発売された直後のデジタル・テープレコーダーは、音の厚みや奥行きが全然出なかった。アナログ・レコーダーの時代は、音を重ねれば、重ねただけ厚みが増して、遠近の奥行きもごく自然に作れた。ところがデジタルになって、そういう当たり前だったことが、全然思うようにならない。楽器をダブルにしても、ダブルの効果が出ない。エンジニアも初めはアナログ・レコーディングと同じ方法論でやってたから、なおさら駄目だった。「土曜日の恋人」にはピアノがダブルで入ってるんだけど、それをひとつにまとめてリミッターをかけたら、ガッツが全然出なくなった。アナログの時代にはありえないことだった。
もう一回録り直して、別々にすればよかったんだけど、原因についてのノウハウがまだなかった。ダビングして音を厚くしようと思っても、少しも厚くならない。だから、やたらと楽器の数が多くなってしまった。
POCKET MUSICでは何曲録ったかと問われても、即答はできない。というのは、FOR YOU以降、毎回かなりの曲数を録ってて、こぼれたものでも出来の良いのは次作に回していった。「僕の中の少年」に入れた「マーマレード・グッバイ」や「ルミネッセンス」はPOCKET MUSICの時に作ったもの。そのPOCKET MUSICに入ってる「MERMAID」はその前に作ったもの。だから、前に作ったり、既に録音済みのものが、常に何曲かあったんだ。
だから、この時に何曲か録ったかと問われても、もう既にそういう録音形式じゃなくなってるので。でも、一番多く録ったのは、おそらくこの時だったと思う。20曲以上録ったかな。FOR YOUの時は17曲。MELODIESの時はFOR YOUのときのストックがあったから、そんなに録らなくてもよかった。
79年くらいからメロディーやリズムパターンのモチーフを、家でカセットに入れてたんだけど、モチーフのカセットが20本ぐらいになって、何が何だかわからなくなってきた。だから80年くらいに、それから使えるものを取捨選択して整理した。それでカセット6〜7本になった。そのモチーフに順に番号を振って。バカラック風とかハチロク(8分の6拍子)とかメモをつけて、それを土台に曲やアレンジを起こしていった。だから、80年代はかなり凝縮した作業ができた。
でもPOCKET MUSICあたりから、デモテープをLINNとコンピューターで作るようになったら、またリズム・パターンのモチーフが爆発的に増えてしまって。そうすると、また収拾がつかなくなる、そんなこともあった。
で、完璧な同期ものだと、ライヴでは演奏できない曲も生まれる。「メロディー、君の為に」のベースパターンを、打ち込みのデモ通りにやっても、グルーヴが全然出なくてね。LINNでやると思い通りなんだけど、実際に生で演奏すると全然ダメで、結局、別のパターンへ大幅に変えることになった。今のライヴの6人編成では、演奏はかなり難しいね。「踊ろよ、フィッシュ」とか「マーマレイド・グッドバイ」も同様で。コンピューターでやると、そういう曲が生まれる。それで、ライヴで演奏できない曲がどんどん出てきた。ビートルズの「サージェント・ペパーズ」なんかも、まさにそういうジレンマを持ったわけでしょ。
個性化とか差別化というものを追い求めると、演奏が可能かどうかというのは、二の次になってくるんだね。ピンク・フロイドは「狂気」の時に、楽器を用いずにゴムバンドとか、下敷きとかで音を作ろうとして、苦心惨憺したというじゃない。やっぱりレコードの音世界を追求し始めると、必ずライヴのジレンマが出てくるから。それをカヴァーするために視覚要素の追求に走ったり場合もある。ビートルズの「A DAY IN THE LIFE」は4人では演奏できないものね。フィル・スペクターも全くそうで、大滝さんのように14人がかりで演奏するナイアガラ・サウンドになるしかないわけ。だけど、やっぱりそういうものは、あまり普遍的とは言えないよね。
サウンドを自分で作るようになっての変化で言えば、MELODIES(83年)、POCKET MUSIC(86年)、僕の中の少年(88年)、ARTISAN(91年)、この4作は僕の中でも、とりわけ自分の強い意志が働いている作品と言える。コンピューター・ミュージックを導入したということもあるんだけど、僕がそういう試行錯誤をし始めた一番の大きな理由は、一緒にやってきたミュージシャンが売れっ子になってしまったことがきっかけ。スタジオ仕事で、どこでも使われるようになって、僕のレコーディングに戻ってきても、他の人と同じ音になってしまう。もともとは同じような音になるのが嫌だったから、スタジオ・ミュージシャンから離脱して、自分独自のリズム・セクションをやりだしたはずなのにね。
自分のオリジナリティーとか楽曲のオリジナリティーとかを追求していくなら、その時代のリズムの流行とか、トレンドとか、そういうものとは常に距離を置いて行かなきゃいけない。だけど、そうすると最先端の楽器演奏者たちは、あまり面白いと思ってくれなくなる。それが売れっ子のスタジオ・ミュージシャンのメンタリティーなんだ。なんだかんだ言って、ミュージシャンは生活のために仕事してるわけで、3時間で2曲録りのセッションを1日何本もこなす日常が続いていけば、まぁ仕方がないことなんだけどね。こっちの意図をそこまで深く理解してくれるほど、他人は寛容じゃないから。
当時の僕には、自分の個性をどれだけ進化させていくかっていうテーマがあって。そのためには音楽のスタイルとか、最新のリズム・パターンとか、流行の楽器とかよりも、楽曲の美しさとか、楽器構築のユニークさの方が重要なのね。だけど、そういうオリジナリティーの追求は、アイドル歌謡の世界で、常に過不足のない演奏を要求されるスタジオ・ミュージシャンとは、対立する大きなポイントとなるんだ。
そういう問題の中にデジタル・レコーディングが入ってきたから、もう三つ巴で大変だった。でもね、曲を書くというその部分では、すごく改善されているわけ。ただ僕にとって、あの路線が間違いでなかったと今でも思うのは、あの時代に入ってきたリスナーの残留率が一番高いということで。それは、いろいろな意味で、70年代の観客とはかなり違うんだ。
リスナーが入れ替わる、その何回かの節目があるんだよね。RIDE ON TIMEを出した時に、裏切り者って手紙に書いてきたヤツもいたw そうまでして売れたいのか、って。ファンは過去を引きずるというか、インディーズの人がメジャー・デビューした途端に、売り上げ枚数が落ちるっていうようなね。そういう転換点がRIDE ON TIMEの時にも、MELODIESの時にもあった。POCKET MUSICでもあった。毎回あるんだよ。ARTISANのときには、ほとんどの曲が同期モノだったから、なんで生演奏を放棄するんだ、と批判する人もいた。でもね、「ターナーの汽鑵車」は生演奏で何テイクも試みたけど、あのはかなさが全然出ないんだよ。
僕の打ち込みは、精神的には弾き語りの要素に近いかもしれない。でも、それをあくまでロックンロールの精神で行いたいと思うので、難しいんだよ。
    
<僕は言葉のイントネーションを無視した歌詞は歌えない>
高校の頃から好きな歌詞の形があってね。例えば岡林信康さんの詞とか、一時期のユーミンの詞とか、本当に素晴らしいと思ってた。だけど、自分が書きたい詞は何かって考えると、結局シュガー・ベイブ時代に戻っていく。シュガー・ベイブの時に目指していた心象風景、あれが一番自分に合っていると思った。それを意識し始めたので、MELODIESを作った。少ない言葉数で、絞り込んでいく作り方っていうかね。
この前、SONGS40周年関連で取材をやった時、ター坊(大貫妙子)と対談したんだけど、彼女が「私は詞なんてどうでもいいの。別に詞なんてなくてもよかった。歌わなければならないので、仕方なく詞を作った」みたいなことを言ったのね。それがすごく意外で驚いて。「昔からそうなの?」って聞いたら、「シュガー・ベイブの頃からそうだ」って。シュガー・ベイブの時代、歌詞を書くときに、僕は言葉数のマス目を作って、そこに言葉をはめてたの。ター坊は僕のそのやり方を見て、「今でもそうやってる」って言うのね。初めてそんな話、聞いたんだ。まあ僕も今でもそうなんだけど。その時に、この言葉数で、どういう詞ができるのかって、考えてやってるのね。だからお互い似てるなって。
作詞術って色々あるんだけど、短歌と俳句ってかなり異なったものに思える。韻文と散文はそれ以上に違う。そういうところで生まれてくる情感や景観の差異の、どこに自分を置くかで、大きく変わるんだよね。個性が出る。
詞を先に作って、そこにメロディーを無理やりはめる、フォーク系のやり方もあるしね。1975年に僕が黒木真由美の曲を書いたときに、作詞家が喜多条忠さんで、打ち合わせの時に彼と論争になった。喜多条さんは「日本語の歌は字余りじゃなきゃいけない」って断言するんだ。 僕が「それは音楽的に違う」って反応したら、「いや、君は曲を作る人間だからそういうけど、日本語で内容を伝えるには字余りソングじゃないと成立しない」って、ずいぶん論争したんだ。だけど、僕の曲に喜多条さんがつけてくれた詞は、全く字余りじゃなかった。ちゃんとはまってるんだよ。でも、それは仕事で、本当に書きたいのはこういうところじゃないって。でも、喜多条さんの言いたかった事は、今はよく理解できる。職業作詞家は本当は曲先なんてやりたくない、って思ってる人が大部分だと思うよ。
で、話を戻して、そうやっていくと、シュガー・ベイブにどんどん近づいていくっていう。シンプルな言葉っていうか、そういうものが多くなる。僕は詞が先だと書けないということはない。詞が先の曲は何曲もあるし。POCKET MUSICには詞先の曲は無いけど、ARTISANに入ってる「アトムの子」は詞が先だし、COZYの「セールスマンズ・ロンリネス」とか。自分が書いたものでなくても「LET'S DANCE BABY」なんかも詞先。
僕の詞が状況説明をあまりしないっていうのは、もともとそんなに音数がないからね。状況説明なんてしていたら、半分いかないうちに曲が終わってしまうから。そこにその言葉を入れたいんだけど、入らない、みたいなのがすごくある。でも、そこでその言葉を無理に入れてしまうと、結構チープになったりする。だからMELODIESに入っている「あしおと」でも、あと2コーラスぐらいあると、もうちょっと具体的に説明できるんだろうけど、そうすると曲の長さが6分コースになる。それがイヤだったから。
だから、聴いた人が勝手にイマジネーションを広げてくればいいと思ってる。僕は詞が最優先じゃないからね。言葉がきれいに響いてればいいんだよ。でも僕は、常に音と言葉を一致させて考えてる。山田耕作と同じ見解で、言葉のイントネーションを無視した歌詞は歌えない。それを基本的にはかなり守っている。だから大滝さんが好むようなトリック、例えば単語を分断するとか、韻をずらすとか得意じゃない。僕にそういうセンスはないから。
僕の詩の原点と問われれば、紙に書かれた詩というものをほとんど通ってこなかった。日本の詩歌、「古今和歌集」「新古今和歌集」「奥の細道」、ほとんど知らない。近現代史はもっと分からない。ベルネールかとボードレールみたいなフランスの詩や、アメリカの詩、ラングストン・ヒューズ、アレン・ギンズバーグとかジャック・ケルアックとか、そういう外国の訳詩に少し知識がある程度。だから結局はどこまで行っても、歌に乗せれた言葉だね。例えばボブ・ディラン。言葉遊びみたいな詞もあるし、「DON’T THINK TWICE, IT’S ALL RIGHT」みたいにちゃんとストーリー・テリングの詞もある。
そういうことはシュガーベイブ時代にター坊とは随分話したけど、自分にとってはやっぱり韻律がスムーズなものが一番きれいだって思える。だから歌詞は字面だけで見ちゃダメだということ。どんな陳腐な内容の歌詞でも、それがメロディーと合わさった時に、全然別の情感が生まれてくる。それは僕とター坊の共同認識なんだ。少ない字数しか載っけられなかったけど、そうすると結局シンプルな、俳句のようなものになっていくんだよね。でも、それなら俳句が作れるかっていったら、作れないけどね。俳句はあくまで読むもので、やっぱり言葉の意味論が優先される。そういうのだったら(種田)山頭火や(尾崎)放哉(ほうさい)とかの方がむしろ直感的で好きだな。そういうことは詞を書く時に随分考えてたんだ。で、結局のところ、僕が描きたいテーマは”疎外”なんだよね、今も昔も。
“都市生活者の疎外”が自分の一番のテーマ。戦後の作家よりも、もっと昔の樋口一葉であったり、宮沢賢治のそれであったりするんだけど。どんな明るい世界にも、どこかに疎外感とか孤独感がにじんでいるっていう。そういうものじゃないとつまらない。POCKET MUSICだと例えば「十字路」。あれは銀座の交差点の情景を想起してるんだけど、でも何かこう、手の届かない、淡いぼんやりとしたイメージ。あと映像に触発されることが多々あるね。細田守監督の「時をかける少女」を観たとき、あの空気感に「風の回廊(コリドー)」とちょっと似たものを感じた。それは「サマーウォーズ」の主題歌の要請が来たときにも同様だったので、やらせてもらうことにしたんだ。
    
<僕はシンガー・ソングライターの方向にシフトしていった>
「THE WAR SONG」を書いた直接の動機は、当時の中曽根首相の「不沈空母」発言。日本を不沈空母化するという。あれはむちゃくちゃインパクトあって。僕は社会党支持でも何でもなかったし、社会党共産党はある意味で、もっと嫌いだったかもしれない。でも、あの不沈空母発言はあんまりだと思った。これは何か歌を作らないとダメだなと。僕は70年安保をくぐった人間として、政治プロパガンダに対する不信がとても強くて、とにかく、なるべく政治にコミットしないっていうか。だから右にも左にもいけないんだよね。自分の政治的スタンスは”心情的アナーキスト”ってずっと言ってるけど。とにかく30代前半で、子供も生まれた時期だったしね。だけど中曽根発言を直接批判する歌なんて作っても、しょうがないから、なんていうか、静かな傍観というか、そういうもので曲を作ろうと思った。それをビーチボーイズとか、トッド・ラングレンが使うようなコード進行にして、ギター・ソロは大村憲司に頼もうと思って、作ったんだよね。やっぱり子供が生まれたってこともあるけど、とにかくあの発言が大きかったんだよね。結局日本に限らず、人間社会はいつも同じようなところをぐるぐる巡っているような気がする。
「シャンプー」はアン・ルイスの1979年のアルバムに書いた曲で、康珍化(かんちんふぁ)くんの作詞家デビュー作となった。あれは100%打ち込みで曲を演奏するための素材としては、もってこいの曲だったというのが理由でね。サックスソロとスネアドラム以外は全部データ打ち込みで、MIDIデータで音の強弱やテンポの変化を細かく設定して、演奏している。コンピューターでテンポを管理する場合、今はSMPTEと呼ばれる時間管理システムを使って、動かすんだけど、あの時代はもっとシンプルなFSK信号という方式があった。楽器同士を同期させるのに、常に曲の頭からスタートさせなければならない、面倒くさい方式なんだけど、これを使ってウッドベースの音源とアナログシンセ、それとヤマハDX7といった鍵盤楽器を当時出たばかりのNEC PC-98パソコンと、これも新発売の数値入力式MIDIシーケンサーソフトを使って動かしてた。だから例えばリタルダンド(テンポを次第に落としていくこと)なんかも、全て数値化してデータ化してるんだ。それが人間に行っているように自然に聴こえるように、家で何日も試行錯誤して作った。ソフトはカモンミュージックのMCPで、このアルバムから使うようになった。シングル「風の回廊(コリドー)」の時はまだそのソフトは出てなかったから。
打ち込みの勉強というか、実験をするために、最初にトライしてみたのがラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」でね。ピアノの譜面を強弱から始まって、ダンパーペダルとかテンポの変化を研究して、一曲全部を数値化して打ち込んだ。そうやって慣れておいてから、応用して考えついたのが、「シャンプー」で、バラードということもあったよね。
アップの曲はテンポが一定だけど、「シャンプー」ではスローな曲を手弾きで弾き語りしたような感じを全部データで成立させる試みをやったわけ。例えばベースのポルタメント(弦に指をすべらせて、音程をなめらかに変える)とか、全部リアルに聴こえるように。時間はかなりかかったね。2週間じゃきかなかった。当時はMIDIといっても、今とは比較にならない単純なものだったから。同じベロシティ(音の強弱を表す数値)を与えても、楽器ごとに反応の仕方が全然違うので、それぞれの楽器ごとに個別に設定しなきゃならない。そういう作業に結構時間が取られる。あの頃のパソコンもソフトウェアも、まだ生まれたてで、おもちゃみたいなものだった。
英語詞の曲が2曲入っているのは、BIG WAVEのおかげでアラン・オデイとの意思疎通が数段上がって、送られてくる歌詞が実によかった。「MERMAID」はそのちょっと前に描いた曲で、「LADY BLUE」はこのPOCKET MUSIC録音期間中にニューヨークに行って、ソロ楽器とかを録ったついでに、コーラスも向こうの人にも頼もうと思って、ゴスペルぽい曲がいいかなと作ったんだけどね。
この時「POCKET MUSIC」で、ジョン・ファディスにフリューゲルホーンを吹いてもらっているけど、「僕の中の少年」の「新(ネオ)東京ラプソディー」でのトランペットのソロモ同じ時に録ったものなんだ。あの頃は年に一枚とかそういうペースでアルバムを作っていたから、曲は結構かぶっているんだよね。次に回そうとか、デットストックとか、そういうのが結構あった。
アルバムPOCKET MUSICは基本はMELODIESの延長だけど、音楽的にはもう一歩、内省的になっている。こういう作り方を始めてから、客層も微妙に変化し始める。こういった内政的なものを好まない人はもっとダンサブルなものに去っていった。僕は逆にシンガーソングライターの方向へとどんどんシフトしていった。それは正解だったと自分では思っているけどね。
そうしたら不思議なことに、この頃から「ミュージック・マガジン」とかそういうメディアでの評価が上がってきた。まぁ評論家の体質なんて、そんなものなんだけど、同じようにリスナーも変化し始めた。あの頃はプロモーションも一生懸命やってたよ。雑誌にラジオにレコード店、テレビ以外の全方位で力を入れていた。あの頃はラジオもパワーがあって、ラジオからヒットが出ていた時代だったから。コンスタントにライヴもやっていたし、レコードとライヴの循環が円滑にできていたんだよね。そうすると自然と新しい客層が開拓できていくのね。時代のおかげもあって、ムーン・レコードはインディーの割にはプロモーションがスムーズにできていた。
ワーナーになる以前でも、いろんなことがちゃんとできていて。タイアップも取れていたし、テレビもドラマやCMとかがちゃんと機能していたし、今とは全然状況が違っていた。今(2015年)POCKET MUSICのような作品を作っても、なかなか世の中には浸透しないだろうね。今はあの頃ほどにはちゃんと聴いてくれないもの。今のミュージシャンの悲劇は、どんなに誠心誠意を込めて作品を作っても、それがなかなか広範な共同意思にはなっていかない。ドームでやったとか、YouTubeで再生何千万回とか、そういう表層的な注目が誇大すればするほど、肝心の音楽の内実が語られなくなる。それは残念だよね。あの時代は本当に音楽状況が良かった。今より全然健全だった。
今なら囲い込み、新興宗教化だよね。あとはライヴかなあ。ただ、今はライヴって言っても、若い子はオールスタンディングでしょ。Zeppとか。我々の時代だと2,000人の多目的ホールが中心だったけど、2,000人クラスのホールっていうのは意外と重要だったんだよね。座って観るか、立って観るかみるかとか、そういう矮小(わいしょう)な事柄以外に、音響的な問題とかもね。今の中高生とかZeppでワーッとかやってて、大人になった時に行く場所としてどこがあるのかなって。だってZeppに60歳までは行けないわけで。やる方も観る方も。40を過ぎたらオールスタンディングはきついでしょ。でも20歳くらいのオールスタンディングの人たちが40歳になって、どういう環境で音楽ができるかって考えると、多分音楽自体を聴かなくなるんじゃないかと、心配になるんだよね。
   
<ステージセットのコンセプトも、ちゃんと考えられるようになった>
86年4月にPOCKET MUSICが出て、5月からツアー”PERFORMANCE 86”を開始。このツアーからコーラスを替えた。シンディー(CINDY)と佐々木久美が入ってきた。RIDE ON TIMEのヒットのあと、本格的に全国ツアーを始めた頃は、シンガーズ・スリーの若いふたり(和田夏代子、鈴木宏子)にやってもらっていた。歳が近いし、譜面が読めるから。83年から85年の頭までは寺尾聡のバックをやっていた人とか、いわゆるステージ・コーラスの人を使っていたんだけど、POCKET MUSICのツアーからは心理と佐々木くみちゃんにしてコーラスのクオリティーを上げて充実させた。これ以降のツアーはトップをシンディ、キャンディー、国分友里恵とソロシンガー上がりの優秀な人にずっとやってもらってきた。そういう意味で86年からコーラスはクオリティーがどんどん上がっていった。
同じメンバーで続けていると、どうしてもぎくしゃくしてくる。常にそういうのはあるんだ。だからある時点で、かなりのリニューアルを試みる。それが86年は吉と出たんだけど、88年のツアーのときには、またメンバーで問題が起きてね。だから88年は大変だったんだけど。
曲的にステージでの再現が難しいという点では、86年のツアーに関しては、演奏不可能とはいっても、このころはまだ大丈夫だった。この当時、同期ものによるコンピューター・ミュージックってそこらじゅう席巻していたんだけど、普通は、ドラムとベースをコンピューターにする。でも、僕の場合はドラムとベースはほとんど生で、キーボードをコンピューターで演奏していた。それが他の人たちと僕のコンピューター・ミュージックの一番大きな違いで、だからライヴでの再現はそんなに苦労はなかった。
ライヴでの一曲目は「POCKET MUSIC」で、次が「SPARKLE」。「プラスティック・ラブ」をやったのも、この年が最初だね。うちの奥さんが84年に子供が生まれたから、当分の間、育児でレコードは出せない。当然ライヴなんて夢の夢。そんな時だから、僕が彼女の曲を何かやってみようと選んだ。「THE WAR SONG」では、途中にテープのSEを挟んで、かなりの長尺でやっている。その辺はライブアルバムJOY(89年)に入ってるので、ご存知だとは思うけど。
この年のライヴはかなり良かった。メンバーが新しくなって、リフレッシュしたからね。なんといってもコーラスが良かった。村田(和人)くんとシンディと久美ちゃんだから。シンディとはデュエットでマーヴィン・ゲイとタミー・テレルの「YOUR PRECIOUS LOVE」をやったりしてた。だからあの時のツアーは、そんなにストレスがなかったね。
それで、あの時からステージセットのデザインを、今でもやってもらっている斎木信太朗さんに代えたんだ。この時は映画「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」のような感じのセットにした。この後(86年12月)にON THE STREEET CORNER 2が出るので、その要素も加味してね。「オンスト2」は、そのステージセットの写真をアルバムのカヴァーにした。あれは非常に僕に合ったセットだったよね。あのあたりからステージセットのコンセプトも、ちゃんと考えられるようになった。だから、今のセットのコンセプトっていうのは、ここから始まってるんだ。この頃には、ツアーも全箇所ソールドアウトするようになっていたから、セットにもお金をかけられるようになっていた。だから状況的にはそれほど悪くなかったんだよね。ただレコーディングの方がね。あっちが立てば、こっちが立たずで。
お客さんはそんなに変わらなかったかな。でも、当時は毎回来るお客さんなんて、そんなにいなかったんだよ。僕はエリック・クラプトンのライヴは素晴らしいとは思うけど、毎回は行かないもの。だから毎回来るなんて、本当に大したもんだよねw そう思う。そうやって毎回入れ替わり立ち替わりで、長い間にリピーターが増加していく。僕のお客さんて、大体僕と同世代から一世代下で、僕が32〜3歳だったら、大体20〜25歳くらい、そういう層は大学を出て就職するとか、Uターンするとか、そういう時代で。これもいつも言うんだけど、その世代はものすごくUターンが多かった。だから地方に行っても、あんまり差異がない。都会でライヴ体験のあるUターンの人が多かったから、地方のギャップが少なかった。それは非常にラッキーだった。
あとは、83年にNHK-FMの「サウンドストリート」を始めた。あれは3年間やってPOCKET MUSICが出る直前にやめたの。あの番組をやれたのは、すごく大きかった。木曜日だったね。当時のNHKはタイアップのスポンサー名を言ってはいけないとか、NHKなりの制約がいろいろあって、うるさかったけど、音楽に関しては逆に民放のようなヒット曲最優先、一般認知度の低い曲はダメ、長い曲はダメ、そういうのが一切なくて、放送コードに引っかからなければ何をかけてもよかった。だから新譜はもちろん、ソウル、ジャズ、サーフィン・ホットロッドドゥーワップ、それこそ好き放題にかけまくった。「風の回廊(コリドー)」が何のCMかは言っちゃいけないけど、そういうことさえクリアすれば、天国だった。組合の関係で、スタジオ技術の人が、特定の番組に専任しちゃいけなかったので、毎週違うエンジニアで。癒着しないように、ってことらしいんだけど。そうすると毎週、人によってやり方が違う。マイクの種類からEQ(の掛け方)、部屋の残響を録るためのマイクを一本別に立てる人、リバーブをかけたがる人、いろいろ癖がある人がいて、それが結構大変だったんだけど、面白くもあった。NHKは全国津々浦々で聴けるから、僕には最強のメディアだった。あれをやったことで知名度も上がった。
のちにボーナストラックになった「MY BABY QUEEN」はこの時にレコーディングした曲なんだけど、その時は詞が書けなかったんだ。それで91年のリイシューの時にボーナストラックにしたの。そうやって詞が書けなくて、ボツになる曲も結構あるんだよ。
【第38回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第37回 初デジタル・レコーディング「風の回廊」(85年3月発売)からPOCKET MUSICへ

<ブランクの原因はデジタル・レコーディング>
BIG WAVEからPOCKET MUSIC、84年から86年まで。このブランクの一番大きな原因は、デジタル・レコーディングへの移行だった。ソニーのPCM-3324というデジタル(マルチ)レコーダーが登場してね。それまでのアナログ・レコーディングが行われなくなってしまった。
僕にとって最初のデジタル・レコーディングがシングル「風の回廊(コリドー)/潮騒(ライヴ)」で、85年の春にホンダ・インテグラのコマーシャルソングになったんだけど、曲は(84年の)ツアーやりながら書いてた。どこかの旅館みたいなホテルだったけど、ライヴの移動日で、本当は曲を書かなきゃいけないのに、ゲームをやっちゃってw そういうサボったことだけ、妙によく覚えてる。レコーディングは年が明けてからで。シングルが出たのが、ツアーが終わった後の85年3月25日。この時から、デジタルに変わったの。
レコーディングは六本木のソニースタジオで。まだ自分たちのスタジオであるスマイル・ガレージができてなかったから。アナログのレコーダーもあったけど、エンジニアがデジタルじゃなきゃやらないって言い始めてね。僕はアナログで続行したかったんだけど。そういうことで、あそこがひとつの転換点になったんだよね。自分にとっての技術的な転換、その時が一番大きかった。それまではビジネスというか、仕事のマーケティングとか、そういうことの問題はあったけど、テクノロジー的な転機というのは、そんなになかったんだ。機材が替わったことによって、制作が停滞するなんて、それまで考えたこともなかった。
    
シンセサイザーのいじり方は、かなり習熟してた>
デジタル化による問題。 まずテープレコーダーの性能が、アナログ・レコーダーの足元にも及ばない。結果的に音が退化してしまった。もう全然しょぼくて冷たくて、平板な音像で、楽器同士が全然ブレンドしない。もう「なんなんだ、これ」って思ってた。それはもう一発目の「風の回廊(コリドー)」からそうで。おかげで制作が滞って、ミキサーが次のハワイのレコーディングに行っちゃった。それで「風の回廊(コリドー)」は自分でミックスした。
でも、このシングルはまだいいんだ、自分でミックスしてるから。バランスとかね、エコーも少ないし。問題はその後の「土曜日の恋人」(85年11月発売)で、あまりに出来が不満で、そこからエンジニアを替えて、ミックスしたんだけど。さぁアルバムをどうしようか、ってことになって。
とにかくPCM-3324がつまづきなんだけど、その一方で、BIG WAVEの。あの時代はテクノ、いわゆるコンピューター・ミュージックの最盛期で、シンセサイザーが音楽業界を席巻していた。シモンズにLINN(リン)リアルドラムといったドラム・マシンやシンセベース。生楽器からシンセサイザーに、こぞって替わりつつあった。後はそれをコンピューターでどう駆動させるかというノウハウ。
1980年代初めにコンピューター・ミュージックをやるためにはMC-4というローランドのシーケンサーが必須だったんだよね。それがすごくいじりにくいっていうか、4声しか出ないしね。8声出るMC-8もあったんだけど、それらを使ってやるのは結構わずらわしくて。後はヤマハDX7というシンセ・キーボードが出た。それまでのオーバーハイムとか、プロフィット5などのアナログ・シンセサイザーはまだいいんだ。でもDX7は本物のエレピと比べると腰が弱かった。今はそういうのを、デジタル的に改善する方法はいくらでもあるんだけど、あの時代はまだなかった。そういうのを音圧的にきちっと再現させる付帯設備がなかったから、やっぱり全体的に演奏がしょぼくなるの。
でも、当時はDX7にあらずんば人にあらず、っていうくらい、みんな使ってたからね。みんな何の疑問もなく使ってたけど、僕はとにかくあの音の細さがイヤでね。フェンダーのローズピアノを使ってると「まだそんなの使ってるの?」とか言われて。新しい物好きって呼ばれる人たちから。だけど、そういうテクノロジーの氾濫は、僕には後退とすら思えていた。事実、ある部分では後退していた。でもコンピューター・ミュージックというか、同期モノからはもう逃げられないっていう時代だったんだよね。
ちょうどそんな時に、RCPっていうシーケンス・ソフトが出た。それはNECPC-8801で動かすソフトでね。僕はあの頃、仕事とは全く関係なく、ただの遊びとしてパソコンを持ってたのね。このソフトでだったら、自分でも何とかできるんじゃないかと思って。それから僕とコンピューター・ミュージックとの取り組みが始まった。
MC-4の使い方も知らないわけじゃなかったんだけど、めんどくさい。シンセサイザーARP(アープ)のODYSSEY(オデッセイ)が最初に出たとき、まだシュガー・ベイブ時代だったんだけど、事務所でARP ODYSSEYを買ったのね。で、初めは事務所のみんなで、ワイワイガヤガヤいじってたんだけど、難しいからみんなすぐ飽きちゃって。で、転がっていたのを、僕が家に持って帰って、勉強した。それを例えばアルバムSPACYの「言えなかった言葉を」や「きぬずれ」、GO AHEAD!の「潮騒」のベース、他にもCMでしばしば使っている。
シンセの基礎はARP ODYSSEYのおかげで、かなり学ぶことができた。でも時代的にはYMOが出て来たので、80年代初めはテクノの世界、シーケンサーシンセサイザーはなるべく使わないようにしよう、なるべく人力で行こうとやっていたんだ。 
とは言え、シンセの音は時代の音だから、これはもう逃げられないかも、と思い始めた頃に、パソコンで動かせるシーケンスソフトが出て来た。それで中古のARP ODYSSEYを1台買って、それでリハビリして。そこからシンセとドラムマシンを買い込んで、家でも作り始めた。それがPOCKET MUSICになるんだ。
そうやってデジタル・レコーディングに取り組んでいくんだけど、僕の場合はちょっと変わっていたというか、その当時のテクノ系の人たちとは違っていたのは、彼らはドラムとベースをマシンにして、キーボードなんかのうわものを手引きで演奏する、というのがほとんどだった。でも僕は全く逆で、ドラムとベースは生でやって、キーボードをシーケンサー駆動で演奏するというやり方。POCKET MUSICはそういうやり方で作っている。
「風の回廊(コリドー)」もそう。あれはシンセベースを使ってるけど、ドラムは本物。LINN(リン)とかオーバーハイムDMXとか、当時のああいうドラムマシンの陳腐さがすごく嫌いで。それは自分がドラマーだったからだね。
ドラムの音のサンプリング・データを使ったE-MU(イーミュー製のイミュレーター)もあったけど、あれはまだVer.1だったからね。いわゆるローファイ過ぎて使えないんだ。
POCKET MUSICをやってる途中にVer.2が出て、Ver.3になって、ようやく使い物になっていった。「風の回廊(コリドー)」のイントロの左右のコーラスはサンプリングなんだよね。あれはE-MUでサンプリングしてる。途中で出てくるハープとかね、そういうのもE-MUを使ってる。
だから、使えるものは使ってるんだ。世の中の趨勢には逆らえないけど、何をどういう具合に導入するかっていう事は、神経質にいちいち考えながらやっていた。とにかく何が嫌いって、ゲート・リバーブ(リバーブを深めかけて作った残響を、ノイズゲートで意図的にカット。80年代に多用された手法)。あれは16ビートには鬼門なんだ。グルーヴが死ぬから。8ビートだったら、まだいいんだけど。だから僕の作品でゲート・リバーブは今に至るまで、ほとんど使ったことがない。
70年代に僕が一番影響された音楽のミックスっていうのは、リズム・セクションにはリバーブを一切かけないで、ストリングスやボーカルにリバーブを深くかけて、それで奥行きを出すっていう手法で。だから音像的にはリズム隊が目の前にあって、後ろにブラスとか弦か居て、リバーブで距離感が出ているっていう。そういうある意味でシンフォニックなものだったけど、この時代になると、それがガラッと崩れていくのね。だからそういうところも、受けられるところは受け入れて、受け入れられないところは拒否するっていう。
でも、それまではローランドのリズムボックスとか、それに808(ローランドTR-808、通称ヤオヤ)も出て来たから、808に自分で打ち込んで、例えばピアノで弾き語りでデモテープを作って、レコーディングする。もしくは青山純伊藤広規と3人で練習スタジオに入って、ああでもない、こうでもないってリズム隊の構築をやってたのを、一人でできるようになったから。これはこれで、なかなか面白いものがあったんだよ。で、そのやり方で、最初に作った曲が「ポケット・ミュージック」かな。パソコンでデモを作って、実際にドラムとベースを再現してやるっていう、そういうやり方。「MERMAID」とか「ポケット・ミュージック」とか「ムーンライト」とかは全部そうやって作っている。まだ「風の回廊(コリドー)」の頃には、RCPがなかったから、あれはMC-4でやっているんだけど、85年の春の作品だから、ちょうどその端境期(はざかいき)。POCKET MUSICのレコーディングを始めたのは、多分(85年の)夏前くらいだから。それまでは曲を書いてて。
85年に出したのは、シングル2作「風の回廊(コリドー)」と「土曜日の恋人」だけで。前の年に子供が生まれたから、それがけっこう大変だったよね、子育て。ツアーをやってたけど、終わったらちょうど生後半年だからね。よくやってたよね。
  
<いったんデジタルに行ったら、アナログには戻れない>
当時流行っていたバンドで聴いてたのは、SOSバンドとか、アート・オブ・ノイズとか。SOSバンドはもうちょっと前か。あとはアトランティック・スターとかミッドナイト・スターとか聴きまくっていたね。(ドラムとベースが生で他が打ち込みの)スクリッティ・ポリッティは全く通ってない。定位感が全然違うもの。
あの当時は激変期で、新しいものは、何でも取り入れたがる人ばかりだったよ。今でも忘れないけど、あるスタジオで、「今日どうする? 本物にする? ニセ物にする?」ってミュージシャン同士が会話してたのをすごく覚えている。レコーディングで本物のピアノを使うか、DX 7にするかっていう事なんだけど。そういう発想が、とにかくイヤでね。倍音が変われば、違う音楽になってしまうのに。でもあの頃、知り合いのアレンジャーにそういう話をしても、鼻で笑われたから。
新しい機材に関して、他の人の使い方は聴いてはみるけど、共感がなければそれまでで。もちろんトップ40はいつも聴いてる。だけど、例えばあまり良い例が思い付かないけど、80年代の終わりの頃の、M/A/R/R/Sの「PUMP UP THE VOLUME」とか、確かに面白いと思うけど、自分でやろうとは思わない。何が凄いとかになると、みんな猫も杓子も追随が始まるじゃない。そういうのがキライなんだ。
そういう意味では、日本の方がデジタル環境は全然先行していた。80年代中頃、世界で一番デジタル・レコーダーがあるのが、東京だって言われてたから。欧米は80年代の末ぐらいまでは、みんなほぼアナログだったからね。僕はそういう日本の環境に置かれてしまったけど、それは今のカメラマンが、デジタルにしないと仕事が来ないとか、そういうのと全く同じで、プロツールスもどんどんバージョンアップしないと、仕事にならない。最新のバージョンで録音したものがかけられないと、そのスタジオには仕事が来ないとか。そういうことの繰り返しだよね。
みんなやっぱり一旦デジタルに行ったら、アナログには戻れないんだ。ピークの管理とか全然違うから。だからもう一回アナログに戻りたいって、僕は何回か言ったんだけど、エンジニアは「もう2年もこのデジタルのピークをどうやって抑えようかって、一生懸命みんなで苦労してるのに、今さら戻れって言ったってイヤです」って言われるわけ。ドラムのマイクの配置からして、アナログとは違う。それを試行錯誤しながら、みんなでやってきたわけで。
やっぱりエンジニアに言わせると、当時のアナログ・レコーディングはアンペックスの456というハイ・バイアス(高感度)のテープを使っていたから、録って1時間たったら、もう音が変わってくる。高域が劣化してくるの。ミックスをするときに、それをまたEQ(イコライザー)補正して、いわゆる情報管理みたいなことに、ものすごく気を使うんだけど、デジタルは基本的に録った時と音が変わらないの。一旦録ったら劣化しない。だから、それは彼らにとっては、すごく魅力的だったんだ。僕なんか音が劣化しないって言ったって、初めから劣化しているじゃないか、って思ってたけど。見ている視点が違うんだね。
僕がこの仕事を始めた時代は、アナログ時代でね。4リズムでレコーディングして、そこに例えばコーラスを加えると、世界が明確に変わってくれるわけ。ところが、デジタルは全然変わらない。ただ音が増えるだけで、印象が全くそのまんま。いくらダビングを重ねても、アナログのように情景が変化してくれない。
   
<スタジオ・ミュージシャンの時代に戻っちゃった>
そういう問題を「風の回廊(コリドー)」で実感していたんだけど、やっぱり「土曜日の恋人」が極致だった。音が全然埋まらないというかね。「土曜日の恋人」はご存知のように「オレたちひょうきん族」のエンディング・テーマだったけど、あれはね、そうやって家でデモを作っていた時に、一曲できて、ひょうきん族に売り込みに行ったの。ひょうきん族EPOの「DOWN TOWN」や、僕の「パレード」を使ってたからね。
「土曜日の恋人」は結構好きな曲なんだけど、とにかく録音にも演奏にも苦労してね。あの時代、ああいう曲調ってプレイヤーには嫌われてね。スタジオに来るプレイヤーが、みんな嫌そうな顔して演奏するんだよ。つまり血にないの。そういう問題もあったんだよね。時代はちょうどバブルの始まりの頃。まぁいろいろな問題があってね、本当に。
スタジオ・ミュージシャン全盛期でしょ。売れっ子になると一日に何ヵ所かハシゴして、日銭を稼いで、それでハワイかどこかに遊びに行って、みたいな世界だから。いわゆるアイドル歌謡とニューミュージック全盛期で、通りいっぺんのアレンジを、譜面を初見でパッパとこなして、「シブい!」とか言って、やってるわけでしょ。そんな中で細かいこと言ってたら、煙たがられるんだよね。多分大滝さんは、それに疲れたんだよ。本当はもっとやりたいことがあったんだけど、言っても通用しないんだもの、時代の趨勢としてね。
でも、その時に僕が救われたのは、逆にコンピューターがあったからなんだ。コンピューターでリズムパターンが作れるでしょ。構築できる。くたびれたスタジオ・ミュージシャンよりは、コンピューターの方がいいからね。本来はそれこそ5人が一緒に演奏したものが、グルーヴのカオスとなって、10人分ぐらい価値になるのが本当の演奏なんだけど、みんな譜面を見て、一回練習して、はい本番っていう、そういう時代でしょ。もう一回やってくれとか、そういうのを嫌がる。「時間、押してんだよね」とか、そういう時代。だから70年代にあったスタジオ・ミュージシャンの時代に戻っちゃったんだ。期せずして。
70年代から80年代にかけて育ってきたミュージシャンが、みんなスタジオ・ミュージシャンとして売れちゃった。業界はね、人を育てる気なんて、さらさらないから。勝手に出てきたのを「あいつ最近売れてるんだってね、ちょっと呼んで来て」「君、いいねえ。今度、僕のところでやってくれない」って、札束で横面張り倒して。それでそいつが疲れたら、次をまた呼んでくる。一から育てるという発想なんて皆無だから。だから、ちょっと才能が開花してきたら、みんな雲霞(うんか)のごとく、寄ってくる。もう、それはいつの世も同じで、今も変わらない。まぁ結局それが商業音楽の宿命だから、仕方がないんだけどね。
つまりこの時期、デジタルの問題だけじゃなく、プレイヤー的にもそういうサイクルに差し掛かっていて、全てがそんな感じだった。でも景気は良かったの。音楽市場は盛況だったからね。だけど、とにかく僕が運が良かったのは、僕がコンピュータをいじれて、シーケンサーもいじれた。シンセサイザーも運よく扱えた。だから、ここから先、「僕の中の少年」から「アルチザン」に行けたのは、テクノロジーの知識があったからなんだ。作曲の面でも、編曲の面でも、それはとてつもなく大きかった。ワンマンだけどね。でも、どうしようもなかった。
シュガー・ベイブの時代からオーディオ的な好奇心は、それなりにあったんだ。素人は素人なりに、自分で追求したいとも思ってた。なんでこの音はここで伸びないんだとか。普通はそんなことを聞いても、「だってそういうもんでしょ」って言われる。カッティングでも、何でもうちょっとアメリカみたいな音がしないんだ、って思っても、別に疑問に思ってない人が多いんだよね。
そんな中、僕の周りには優秀なオーディオの先輩がたくさんいた。エンジニアだと、ユーミン吉田美奈子を手がけていたアルファ・レコードの吉沢典夫さん。僕の所属していたRVCのチーフで、日本のミキサー界のドン、内沼映二さん。松本隆さんの弟で、エンジニアの松本裕さん。あと、吉田保さん。そういう人たちは、聞けばたいていのことを教えてくれた。スネアのEQ、マイクの立て方、リバーブの使い方や特性。そういうことを彼らからたくさん教わった。そういうレコーディングに関する疑問を、根掘り葉掘り、別に自分がミキサー卓の前に座りたいとは全然思わなかったけど、歌の硬さ・甘さとか、大御所でもちゃんと教えてくれた。だから独学の悪さもあるけど、メリットもあるんだよ。もし人が全部完璧にやってくれてたら、神輿に乗ってるだけで色々と成立しちゃうよね。そしたら、それがどういうメカニズムで動いているかなんて、知ろうとも思わないだろうね。でも、あまり恵まれない状況が何年も続いたから、それこそ販売促進のノウハウまで覚えちゃうっていうか。それは今でもいざとなれば、一人で何とかなる、っていうね。そういうことになったんだけど、逆境に立たされたとき、それを突破できるのはそのおかげだよね。
アナログ・シンセのことでもそう。ちょうどこの時代は、シンセサイザーがものすごく普及し始めた頃なんだけど、単価が高くてね。まだ1ドルが180円かそこいらの時だから、今より全然円安なわけで、リース料も高かった。シンセサイザーを山積みにして持ってきて、スタジオ・ミュージシャンのギャラの何十倍も取っていく。それが制作費を圧迫するって小杉さんが怒って、シンセの会社を作ったの。その時に僕も自分用に一揃い、同じものを買って、それで一人で家でごそごそ始めていたんだよ。だから「僕の中の少年」から「アルチザン」にかけては、そうやって打ち込みから何から、全部一人でシコシコやっていたの。オペレーターはほとんど居なくて作ってた。「シャンプー」なんてその典型で、一人で演奏データを打ち込んで、音色を作って。だから、なおさら時間がかかったというのもある。
    
<「土曜日の恋人」はミックスを3回やり直している>
85年11月10日、シングル「土曜日の恋人/MERMAID」発売。これは完全に、締切りでOKを出した。前作シングル「風の回廊(コリドー)は、この「土曜日の恋人」ほど苦しまなかった。「風の回廊(コリドー)」は、音がちょっと薄かったんでね。もっとも、この頃はまだスレーブ(トラック数を増やすためにメインのレコーダーと同期させる、マルチレコーダー)がアナログだったから、まだ良かったんだよ。まだデジタルレコーダーは1台しかなかったから。それがそのうち2台になって、全く逃げが効かなくなった。
特に「土曜日の恋人」は、曲調が全くデジタル向きじゃなかった。アナログの最後は「スプリンクラー」で、それは16chレコーダーでリズムを録ってるので、ドラムもベースも音が太いんだ。
とにかく、誰もがみんなデジタル、デジタルと言い出して。デジタルにあらずんば、人にあらず。シンセにあらずんば、人にあらず。まだ生楽器なんて使ってるの? みたいな感じだよね。だから、今(2015年)のボーカロイドの風潮とかと同じだよ。これからはこれだ! っていうやつでね。
85年にスマイル・ガレージ(スタジオ)ができて移ったんだけど、始まったばかりだったんで、機材的にもまだ不足してたし、スペックも不満だったから、途中で色々と努力してね、ルームがライヴ(残響が多い)で、それが非常に気に入らなかったり。
結果、「土曜日の恋人」の満足度は、低かったどころの騒ぎじゃなかった。ただ、それは自分の個人的な満足度ということでね。楽曲的には別に嫌いなわけじゃないから。要するに、僕の理想とするグルーヴがオーディオ的に実現できなかったということで、一人納得できないでいる、ただそれだけなの。この曲はミックスを3回やり直している。ベスト盤「TREASURES」の時にもやり直していて、だからこの曲のミックスは、全部で4つある。
やっぱりこの時期は大きな転機だったね。レコーディングの仕事を始めて、85年でちょうど10年経ってる。その10年間の経験則、22歳から32歳までの経験則って大きいんだよ。もうほとんど一生を決めると言ってもいい。それが、楽器法から、レコーディングのやり方から、急に変わり始めて、ついていけなくなるんだ。でも、RIDE ON TIMEからBIG WAVEまでのレコード制作は、順調にいってたから、曲はたくさん書けてたんだよね。
POCKET MUSICというタイトル曲を初めから思いついていた。フィル・スペクターのポケット・シンフォニーって言葉があってね。だからポケット・ミュージックというのもあるなって。それで最初に「POCKET MUSIC」をLINNとDX7と2台のシンセ音源、あと宅録の機材を買ってね。
それまで、まりやの「VARIETY」のデモとかは4チャンネルのカセットで作っていた。その時に秋葉原に行って、リバーブとか買い込んでやってたんだけど、もうちょっと良い機材が欲しくなって。FOSTEXの16チャンネルのレコーダーが出て、38cm/秒を改造して76cm/秒にしてもらった。そのテレコとコンパチ(互換)のイギリス製の調整卓を買って。これはスグレモノで。その機材を使って、その後の「駅」から何から80年代の全てのデモテープを作っているんだ。
デジタル・レコーディングに苦戦してるのに、アルバムを出さなければならないというのは、単にムーン・レコードの事業計画があるからねw でもアルバムは結局10ヶ月かかった。当初は85年11月に発売してツアーをやるっていう計画で。84年のBIG WAVEも、83年のMELODIESも一応全部普通に作って、ツアーをやって、その間にまりやの「VARIETY」、村田(和人)くんの「ひとかけらの夏」も作った。そういう意味ではPOCKET MUSICも同じシステムでやってたら、ちゃんと出来てたんだよ。曲もあったし。それなのにPCM-3324という代物が出てきちゃったおかげで(大苦戦することになった)。こうやって総括してみると結構大変だったね。
   
<いま打たれ強いのは、この時代があるから>
とにかく、まだマシンパワーも低かったからね。PC-8801はクロックが4メガ(ヘルツ)。マシンパワーが無さすぎて、キックのタイミングがちゃんと揃わない。でも、最初はそういうことも、全て自分の耳が劣化したせいだと思ったの。最初にPCM-3324の音を聴いた時も、当時僕は32歳だったけども、やっぱり30歳を過ぎると聴覚が衰えるというか、音楽に対して感動しなくなる、そのせいじゃないかなと思ったの。なんでも最初は自分のせいにするんだw 
でも1ヶ月、2ヶ月やっているうちに、ちょっと待てよ、と。家に帰ってレコード聴くと普通なの。ところがスタジオで聴くとなんの感動も呼ばない。これは、もしかして僕が悪いんじゃなくて…。それに気付くまで3ヶ月くらいかかった。コンピューターだと、リズムがうまく合わないんだ。リズム感が悪くなったなあと思ってたけど、ちょっと待てよ。マシンがついていかないから、こうなるのかなって。「ムーンライト」って曲が入ってるけど、おかげでアレはひと月かかった。
POCKET MUSICを作ってる時に、PC-9801、いわゆる98シリーズが出たの。で、98に換えたら、今までは何だったんだろうというくらい、タイミングがぴったり合うようになった。容量1メガバイトのフロッピーが出るのが、86年の話だから。それまでは700キロバイト、それも5インチのしかない。まだ3.5インチは出ていなかった。
そんなパソコン事情について、みんな何も疑問に思わなかった。僕だけなの。まあ専門的なことを言ってもしょうがないけど。例えばドラムをサンプリング音源で構築するときに、キックとスネアとハイハットの音を漠然と入れると、タイミングがズレるんだよ。それはサンプリングした音の頭にブランクが残っているとか、色々原因はあるんだけど、それを合わせなければいけない。
でも合わせるノウハウがまだなかった。右に入れたシンセと、左に入れたシンセがズレるの。それはクロックの問題なんだけど、当時だと引っかかり具合の差で、平気で100ミリ(1/10秒)くらいズレるの。こうなると手弾きの方が早いんだけど、それをシンセでやろうなんて馬鹿なことを考えて、そうなっちゃった。
でも他を見渡しても、そういうことをあまり気にしてない。他の人のレコードを聴いて、なんでこんなにスネアが遅れてるんだって思ったり。でも、誰もそういうことを口にしないんだよ。たくさんある、そういうのは。
例えば、優秀なシンセのオペレーターもたくさん居たけど、彼らがやってる音楽は僕のような音楽じゃないから、彼らの作る音色は僕の好みじゃなかったりする。自分の求めるものを口で説明するのは、とても苦労するんだ。結局、自分の好みに合った音を作るオペレーターがいなかったから、自分で作るしかなかった。みんなそれぞれ技があって、音を作る技も十人十色だから、いろんな人に聞いて、自分なりのやり方を見出していかざるを得ない。
結局85年から始めて、94年位までの8〜9年は、たった1人きりで全部音を作っていた。今はもう任せる部分は、人に任せているけど、でもあの時代の実践体験は何物にも替え難いね。あのおかげで打ち込みと、MIDIシンセサイザーサンプラーの基礎知識と、その応用が頭に入ったから。人に作ってもらう時でも、例えば生楽器だってドラマーに対してだったら「こういうパラディドル(ドラムのテクニックの一つ)で」とか、なるべく具体的に言わなければ、抽象的に指示しても伝わらない。同様にシンセでも「VCFのそこのところ、もう一目盛り、上げ」とか、そういうことを言わなければ、自分の望むことにはならない。それが今やれているのは、やっぱりあの時代に苦労したからなんだよね。もし、めちゃくちゃ上手いオペレーターがいて、あの時代に完璧なサポートをされてたら、今の自分は無いかもしれないね。
今打たれ強いのは、ないないづくしでやってきた、それぞれの時代の数年間があるからだと思う。
今になって後悔するのは、むしろ21世紀になる前後に、プロツールスの導入が、2 〜3年遅くなってしまったことかな、その出遅れがすごい響いてね。そうすると、追いつくのに倍かかるから。だから都合6年くらいを棒に振ってしまった。それは非常に後悔していることだね。
POCKET MUSICのコンセプト的なことで言えば、本当はシュガー・ベイブみたいなことをやりたかったの。大体アルバムのコンセプトなんてものは、どういう具合にしようっていうふうには始めない。曲ができたものから行こう、っていう感じで。だけどこの頃は意外と詞が書けてた。自分の好きな感じで詞が書けるようになってきた。
だから「土曜日の恋人」を作った。シュガー・ベイブの復活みたいなことが、できるんじゃないかと思って。なんか、その世界観っていうかね。いつも言うように、東京の渋谷と池袋の音世界と、その心象風景としての歌の世界っていうのは、詞の表現としてやりたかったものがいくつかあって。「POCKET MUSIC」とか「風の回廊(コリドー)」もそうだし。「十字路」なんかは銀座の交差点みたいな場所をテーマにしてるんだ。そういう自分の心象というか、風景の印象、そういうのがいかに伝わっていくとか。長いこと、そういうのが出来なくてね。MELODIESの時には会社の立ち上げとか、背景にそういう事情があったりするんだけど、そういうんじゃなく、内政的な「THE WAR SONG」とかを、やりたいなと思って。曲とか詞とかそういうトータリティとか、そういうものがまた出せるんじゃないかと思ってね。だから”シュガーベイブ・ストライクス・バック”じゃないけど、そんな感じかな。MELODIESからのシンガーソングライター的な流れを進めていこうというか。
特にレコード業界の景気が、あの頃は良くて、今みたいなあざとさがなかったから、純粋に音楽的なコンテンツでプロモーションするっていうか。アイドルはアイドルの良さがあって、アイドルが歌っている世界があるし。テクノはテクノで、前衛としての、ある程度啓蒙できるっていうか。今みたいなサブカルチャーやインディーな感じでもない。みんなメディアも含めて、全体で音楽をやろうっていう空気があったから。時代の中に、いろいろな音楽のアプローチに対する許容量みたいなものがあった。
だから何度も言ってるんだけど、POCKET MUSICが本当にBIG WAVEと同じ状況、システムで作られていたら、おそらくこれが自分にとっての最高傑作になっていただろう、と思うんだけどね。
【第37回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第36回 84年4月「VARIETY」から6月「BIG WAVE」発売へ

<全曲本人のオリジナル作品でいけると確信した>
1984年は「VARIETY」から「BIG WAVE」の年だね。まりやのプロジェクトは前年から動いてた。実際には83年秋かな。レコーディングは本当にツアーの合間を縫ってやってたから。まりやは81年12月に新宿厚生年金でライヴをやって、休業する。それで82年4月に僕と結婚する。休業中も、作家活動はいろいろとやってたんだけれども、本人はRCAとの契約は終わっていたし、ムーンもまだ新人がいないしで、移籍は当然の成り行きだった。
もうとっくの昔話だから言えるんだけど、当時の業界の目から見れば、彼女は盛りを過ぎたアイドルだった。一度休業して、まして結婚してなんて、女性シンガーにとっては、明らかなデメリットだった。そういう形からカムバックして、成功した例はひとつもなかったし、まだそういう時代だった。だから「VARIETY」は一種のご祝儀という意味もあった。それでも新興レーベルにとっては、せっかく出すんだから、みんなでがんばってみようということで始めた。
アルバムの内容については、僕が当然プロデュースをすることになるので、最初に考えたプランは定石通り、それまでのRCA時代の延長路線だった。彼女のスタッフ・ライターとして曲を書いてくれていた人が、RCA時代には何人かいて、その中から林哲司さんに4曲くらい頼んで、僕が4曲くらい書いて、彼女が自分で4曲くらい書いて。それで最後は桑田(佳祐)くんにシングルを頼んで、なんて感じで行こうかなと思ってた。
で、準備を始めようという時に、彼女が「休業していた2年間で曲を書き溜めたから聴いてくれ」って持ってきた。それで最初に聴いたのが「プラスティック・ラヴ」だった。「なんだ、これ!」ってびっくりした。「なんで、こんな曲書けるのに今まで黙ってたんだ」って。そしたら「RCA時代には、そんな時間的な余裕はなかったし、誰からもそういう方向性を求められなかった」って。で、その次が「ONE NIGHT STAND」で「何曲ぐらいあるんだ?」って聞いたら、12〜3曲あるって。何に驚いたかというと、それらの曲のヴァリエーションだった。その前の「けんかをやめて」とか「リンダ」なんかのオールディーズ風味の曲だけじゃない。カントリーにボサノバに、マージービートにロックンロール。シンガー・ソングライターというより多分に作家的なアプローチの作品ばかりでね。
これだったら他の作家はいらない、全曲本人のオリジナル作品で行けると確信した。うまくいけば、これは結構なインパクトがあるぞ、と思ってね。そこで、それまで自分が持っていたプランを全部捨てて、全曲本人の作品で行くことにした。曲は「もう一度」以外は既に全部できていて、まりやのピアノ弾き語りと、後は当時の4トラックのカセットレコーダーを使って、リズムボックスで、簡単なリズムパターンを作って録音したテープをもとに、レコーディングを始めた。
小杉さんにデモを聞かせたら、やはり驚愕してね。僕と小杉さんで、ひょっとしたらこれは化けるかも、って。でも、反対する人も結構いた。まず言われたのは、さっき言ったような「まりやはもう既に盛りを過ぎている」という見方。そうなると、僕のやり方だと制作費がかかりすぎて、元が取れないって。制作の途中で、小杉さんに経理から相当な突き上げがあった。「山下を甘やかし過ぎだ。10万枚売れなきゃ元が取れない」って。小杉さんは頭にきて奮起して、そこから「もう一度」のタイアップを取ってきてね。プロモーションでも、その頃の僕のプロジェクトはディーラー・コンベンション、つまりレコード店最重視の戦略が全盛で、新譜が上がったら、ラジオや雑誌のプロモーションのほかに、大体7大都市くらいの規模で、レコード店の現場スタッフを集めて、試聴会を行っていた。79年にこの方式を最初に始めて、この時代、僕らにはそれが最高に機能していた。
ところが悪いことに、このアルバムの完成が間近になって、さぁプロモーションをどうしようかっていう時に、彼女が妊娠しちゃったんだ。それで地方キャンペーンができなくなってしまった。なので、本人を稼働せずにどうするかっていう。宣伝は頭を抱えてね。どうするんだ、ってね。
じゃあ、彼女が地方に行けないのなら、全国のディーラーに東京に集まってもらって、東京でコンベンションをやろうということになった。それが逆に、ものすごく効果的に作用した。ホテルの宴会場にPAを持ち込んで、ラウドな音量で「VARIETY」を鳴らして、聴いてもらった。このディーラー・コンベンションのおかげで、予約イニシャル枚数がそれまでの倍に跳ね上がった。これで経理は文句が言えなくなるだろうって、喜んだw 
ここでちょっと説明しておくと、レコードという商品は、発売日前にまずレコード店から予約注文を取る。発売日に出荷されるこの初回受注分を、イニシャル・オーダーと呼ぶ。発売日以降、今度は追加注文が来るんだけど、それをバック・オーダーと言って、レコード販売はこのイニシャルとバックの兼ね合いがとても難しい。イニシャル・オーダーをあまり取りすぎて商品がだぶつくと、返品が来て、レコード会社は困るし、かといって少なすぎても、今度はいわゆる売り逃しになる。まぁこういう事はレコード会社でなくても、どんな商行為の世界でもあることで。
それはさておき、あの当時、初日のバックオーダーの伝説が、矢沢永吉さんの「アイ・ラヴ・ユー、OK」での一万数千枚。すなわち5桁というものだった。これは要するに、予想はるかに上回る出だし、ということを意味した。5桁のバックオーダーは、それ以外に聞いたことがなかった。ところが、初日に会社の様子を見に行ったら、なんと一万数千枚、5桁のバックが来ていて、全員、狂喜乱舞。その時、そこにいた全員が、生まれて初めて5桁のバックオーダーを見た、と言うわけ。
結果的に「VARIETY」は50万枚近く売れて、当時としては堂々たる文句なしのヒット・アルバムになり、竹内まりやのカムバックは大成功。何よりこれは、小杉さんの意欲とプランニングの賜物だった。音楽的な面でも、青山純伊藤広規といったプレイヤーは全盛期だったし、センチメンタル・シティ・ロマンスとか、いろいろヴァリエーションをつけることもできた。ロス(LA)に行っても、彼女の人脈があって。コーラス隊とかね。セッション・マンもアーニー・ワッツ(テナー・サックス)、チャック・フィンドレー(フリューゲル・ホーン)、みんなバリバリだった。まだスタジオ・ミュージシャンが、ちゃんと機能していた時代だったから。結果的に、全てがうまく行った。
        
<「VARIETY」があんなに成功するとは思わなかった>
84年4月25日発売「VARIETY」はシンガーソングライター的じゃない、非常に作家的な作品。
曲のヴァリエーションがすごくある。「VARIETY」というタイトルになったのも、それが理由。こういうヴァリエーションがたくさんあるアルバムは、僕は得意だから。全部同じ曲調だと、かえって考えちゃうんだよね。全編ロックンロールのアルバムを作る方が、曲ごとの差別化ができないから、むしろ難しいんだよ。一般的な話でも、どれも同じ曲調ってなると、音のみで説得するのが難しくなってくる。そうなると頼るのは詞だったり、ダンスだったり、ルックスだったり、映像だったり、そういうものの助けが必要になっていく。そうするとビデオやステージにお金がかかっているか、そういう方向にどんどんなっていく。歌じゃなくなっちゃうんだよ。
とにかく「VARIETY」があんなに成功するとは思わなかった。だけど、彼女はいつもそうなんだよね。運がいいっていうか。同じ頃に出てきた女性シンガーたちは、結局、まりやみたいにはできなかった。
「VARIETY」や「REQUEST」(87年)の成功で思ったのは、プロデュースとアレンジのプロモートが的確ならば、こうした形でのカムバックが可能な人って、ひょっとしたら他にもたくさんいるのかもしれない。今でもそう思うけど、実際にはチャンスがなかったり、通りいっぺんの制作ルーティーンで終わらざるを得なかったり。多分、そういう原則は、いつの時代も同じだと思う。
まりや自身が言っていた「誰からも求められなかった」ことや、あとは、後になって「あれは私の本当のやりたいことじゃなかった」とかね。でも、そんなの絶対に本音じゃないんだ。それは何か他の要素があるから言っているだけで。ヒットは諸刃の剣だから、自分のヒットに押しつぶされてしまう人もいるからね。
まりやの反応といえば、彼女はあの時はある種の傍観者でね。面白がって居られた。どう料理されるかって。だからだんだんエスカレートしてきて、89年後半になると「シングル・アゲイン」みたいなアプローチを始めたりする。意地悪っていうか贅沢だよね。
あの頃は”歌謡曲対ニューミュージック”みたいな構図があってね。松田聖子の初期のシングルは歌謡色が強いけど、アルバムは杉(真理)くんとか、ニューミュージックのライターに書かせたりして、次第にシングルにもその色が反映されて来ていた。でも、僕はそういうものに加担するんだったら、自分自身でやったほうがいいと思ってたんだ。
僕は職業作家じゃないし、シンガー・ソングライターの断片をそんなところに寄せ集めて、アイドルがステータス・アップする御先棒(おさきぼう)を担ぐのは、まっぴら御免だって。だから、そういうところでは喧嘩してたんだよね。近藤真彦の「ハイティーン・ブギ」だったら、そういうことがないんだけど、女性アイドルだとプロデュースまでは絶対やらせてくれない。アレンジの面でも、こっちが気を使わないと、歌がオケに負けちゃうし、本人のキャラには、それがデメリットだからね。そういうのは絶対に許されないんだよ。そうした面での僕のアレンジは、女性アイドル向きじゃないと思ってた。男性アイドルはそうでもない。男性アイドルは、基本的に切迫感の勝負だからね。
      
<女の人はいろいろなキャラができるでしょ>
謡曲と洋楽的なものの間を狙ったとか、「VARIETY」はそういうことではなくてね。ただ、当時は歌謡曲っていうジャンルが厳然だる力を持っていたし、売れるオケとか、売れる歌、曲とか、歌謡曲的なものがシングルヒットの重要なファクターだった。僕にはそんなものは全くできないから、それだったらシングルじゃなくてアルバムで、っていうコンセプトが、そこから生まれたわけだよ。僕の側のフィールドは、みんなアルバムのトータリティとか、クオリティとか、歌謡曲とはそういう部分で勝負するしかない。アイドルのアルバムが売れるようになったっていうのは、まさにそういう我々のノウハウを、歌謡曲が取り込んでいった結果なんだよね。
70年代のアイドルはシングルは30万枚売れるけど、アルバムは3万枚だったから。アイドルはそれが普通だったんだよ。それを、ニューミュージックの作家とアレンジャーを引き入れることによって、もうちょっとクオリティーの高いものを作るようになった。でもそれって、自分で自分の首を絞めることになるんだよ。我々の存在基盤だったアルバムというフィールドを、歌謡曲が侵食していくわけじゃない。それに対する恐怖感がすごくあった。あとはYMOが活動していた時代だから、テクノ系の音楽に対する恐怖とかもね。「VARIETY」は全部人力で演奏しているアルバムなんだよ。MELODIES、VARIETY、BIG WAVE、全部人力だから、あの時代はシンセすらも、本当は使いたくなかった。そういうところで喧嘩してたんだ。
まあ「VARIETY」はフォーシーズンズから始まって、16ビートあり、カントリー、リバプールサウンドやボサノバに、っていう、実に面白いアルバムなんだよね。今考えると。
男は着せ替え人形ができないからね。僕なんか、特に不器用だから。でも、女の人はそういうところは、着せ替えがけっこう出来るじゃない。ユーミンなんかもそうで、いろいろなキャラが出来るでしょ。それは女の人の特性なんだよね。男はもうちょっと統一フォームというか、いろいろなキャラを演じにくいんだよね。やっぱり、歌の世界を演じるということに対しては、男は女の人には負けるから。だから、他の人の音楽をいじって遊んでみたい、っていうねw 自分の音楽ではできないアプローチだね。でもCMではずっとそれでやれてたからね。CMだったらハードロックやっても大丈夫だし。それと同じ。
だから、逆にまりや自身もそういうところがね、これを僕にやらせたらどうなるか、みたいに、だんだんなっていくんだよ。やりたくとも、誰もそんな要望に耳を傾けてはくれなかった。でも、休業してからはアイドルに曲を書いて、河合奈保子に書いた82年の「けんかをやめて」はヒットしたし。そういう成功も創作意欲を増進させた事は間違いない。
これは昔からずっと言ってることなんだけど、竹内まりやは歌い手として立てるスタンスというスタンスを、全て経験している、珍しい存在なんだよね。最初はアイドルもどきというか、職業作家の曲をテレビカメラの前で歌ってたし、逆に作詞・作曲をして、テレビカメラの前で歌う人に曲を書くこともした。カムバックした時は、シンガー・ソングライターになってた。シンガー・ソングライターは他人の曲は歌わない。演歌歌手のほとんどは曲を与えられて、それを歌うけど、中には自分でも作詞・作曲をする人もいる。歌手に作品を提供する作家の中には、自分でも歌う人がいる。ことほどさように、歌手として立つべきスタンスっていうのは5つか6つあるんだけど、竹内まりやはそれを全部経験してる。しかも、そのすべてのスタンスで一定程度の成功を収めている。そういうのは日本の歌謡史においては竹内まりや、一人だけなんだよ。もっとも「VARIETY」の時は、そんな事はまだ考えてもいなかったけどね。
とにかく、彼女にそんなに作曲能力があるとは、誰も思っていなかった。僕ですらね。それまでにも曲は書いていたけれど、それほどのヴァリエーションはなかったし、それに結婚した当初は、僕はツアーの毎日だったから。(84年に)子供ができた後なんて、子供が寝てる隙にヤマハのミニ・キーボードを洗面所に置いて、それで作ってるんだから、凄いと思って。僕は絶対にできない、そんな事はw
「VARIETY」はとにかく色々な曲調なので、五目味っていうか。五目味アルバムっていう呼称は、大滝(詠一)さんの発明なんだけど。大滝さんのファースト・アルバムはまさに五目なんだよね。それまでの、音楽体験の披露という意図が大きいと思う。作家的な特性を内包している人のアルバムには、必ずそういうのが何枚かあるんだよ。大滝さんはそれをかなり意図的にやっていたし、まりやの場合は、それよりは無意識だけど。GO AHEAD!も五目味のアルバムだけど、あれは曲ができないとか、苦し紛れでそうなっただけで。でも、それができるかできないかで、同じシンガー・ソングライターでも方向性が違っていく。まぁ、その色々なパターンを全て歌えるかどうか、っていう問題もある。それも、なかなか難しいことなんだよね。自覚的にしろ無自覚にしろ、みんなそうやって自分の行くべき道っていうか、居場所を見つけていかざるをえないから。
まりやは声域がアルトでね。アルトの人はフレキシビリティーがあるんだよ。ソプラノの声は特徴というか、クセが強い分、難しいんだ。日本の歌謡史を見ても、長続きしている人はアルトが多い気がする。淡谷のり子さんのような基礎を身につけた人は別として、ソプラノは自己流だと、なかなか長く続かない。アルトの方が、年齢を重ねても、声質があまり変わらないとかもあるんだろうけど。美空ひばりさんが好例だね。
    
<「VRIETY」制作中にBIG WAVE(84年6月20日発売)も始まった>
ムーン移籍後、ビーチ・ボーイズのカヴァーをちょくちょくやってた。シングルの「高気圧ガール」や「スプリンクラー」のB面がそう。あれを小杉さんが聴いて、これもったいないからアルバム化したい、と思ってた。その時、たまたまサーフィン映画の話があった。「BIG WAVE」って日本ヘラルド(のちに角川ヘラルド・ピクチャーズを経て合併され、ヘラルドの名前は今は消滅)の制作で、その話が来たんで、小杉さんが飛びついて。それで全曲英語詞のアルバムで、ビーチ・ボーイズのカバーで、みたいな企画を考えたんだね。
小杉さんはちょうどその頃、ムーンの社長に加えて、スマイル・カンパニーの社長を兼任することになったので、長年勤めていた僕のディレクターから外れたばかりだった。MELODIESは小杉さんがディレクターだからね。とは言え、彼はまだ僕のレコード制作には深く関わっていたので、MELODIESを出した後の作品として、これをプランニングした。
でも、その時はまりやの「VARIETY」をレコーディングしてたから、あまり濃い作品は作れないだろうと。企画的なものだったから、楽にできるだろうと。それでいろいろなことを考えたときに、ビーチ・ボーイズのことを思い出して、サーフィンの映画ならコレだって、最初はそうそういう感じだったと記憶してる。だから、小杉さんから持ちかけられたんだよね。で、アルバムのプロデューサーのクレジットは小杉さんと僕になってる。
小杉さんからその話を聞いた時は、それはそれで、初めはどうしようかと思ったけど、それじゃあオリジナルとカヴァーの二本立てにしようということになった。英語のカヴァー曲は、以前の「THIS COULD BE THE NIGHT」とかと集大成して、オリジナルは新曲もないとダメだろうし、一応「BIG WAVE」という映画だから、主題歌も必要っていうことでね。
僕の英語詞作品はアラン・オデイと組んで4年目になっていたから、詞は当然、彼に頼もうということになったんだけど、あの時代はまだネットがなかったからね。(RIDE ON TIMEに入ってる)「YOUR EYES」なんかは、カラオケにラララで歌ったカセットをアメリカに郵送して、その郵送したカセットに、アランが自分で歌ったやつと、歌詞カードが返送されて来てた。だけど、このアルバムは実質3ヶ月くらいで作らないといけないから、それじゃ絶対に間に合わない。(4月25日発売の)「VARIETY」が出来上がったのが春先。そこから即BIG WAVEに切り替えて、その先にはツアーが待ってる。そういう労働量の時代だったから、じゃあアランを日本に呼んでしまおうということになって、それで2月くらいかな、来てもらったんだ。
このアルバム用に新たに録ったのは「THE THEME FROM BIG WAVE」と「MAGIC WAYS」「ONLY WITH YOU」「I LOVE YOU…Part Ⅱ」の4曲。「I LOVE YOU…Part Ⅰ」は前年(83年)のサントリーCM音源だから、オケはもう出来ていた。カヴァーの新録は「GIRLS ON THE BEACH」で、アルバムでの新録はそんなものかな。あとは既成の曲を英語詞化したもの、「JODY」がそう。既成曲は「YOUR EYES」を初め、全部リミックスした。
そういう細かい部分は僕が考えたけど、この企画そのものは小杉さんの思いつき。BIG WAVEの30周年記念盤のライナーノーツにも書いたけど、あの当時の英語ヴァージョンというのは、今とは意味合いが全然違う。海外進出とかではなくて、洋楽ファンを取り込むっていう方法論なのね。日本語で歌っている、ニューミュージックのシンガー・ソングライターとの差別化を図るっていうか。ON THE STREET CORNERもそういう意図の作品だけど、あれはドゥーワップだったでしょ。だったら、今度はサーフィン・ホットロッドでいってみよう、ということでね。“夏だ、海だ、達郎だ”の時代だったから。たまたま、そこにサーフィン・ムービーの話が来たので、その企画に乗ったということ。
   
<デジタル・レコーディングだったら、こんな音にはなっていない>
映画自体は全然ヒットしなかった。今は映画がヒットしなかったら、アルバムも絶対にヒット作にならないけど、BIG WAVEのアルバムは40万枚以上売れた。そんな事は、今は絶対にありえない。だから、あの時代はレコードがいかに力を持っていたか、ということなんだよね。このアルバムは自分の作品の中では、一番グレー・ゾーンにフィットしたアルバムだと言える。つまり、それまでの自分のリスナーじゃない人にも支持されたんだね。そういう意味では、制作意図とドンピシャだったと言える。このアルバムによって、新しいユーザーも増えた。それが、この先のツアーともリンクしていくことになったんだ。
それは小杉さんの狙いだけど、僕もそれはグッド・アイデアだと思ったから。そういう、人のやってないことというか、新しい切り口というか、そういうのを、みんないつも一所懸命考えてた。BIG WAVEもそうしたものの一環だから。その意味で、本当の企画ものなんだよね。
A面はオリジナルで、B面はビーチ・ボーイズで。だけどビーチ・ボーイズというのはカヴァーするにはなかなか手強い相手でね。トラックの作り方、コーラスの色合い。一歩間違えれば、ただの自己満足か、お笑いになる。
まず考えたのは、トラックをどう作るか。あの当時はビーチ・ボーイズの人気は底辺も底辺。だからスタジオ・ミュージシャンでビーチ・ボーイズを再現しようにも、彼らはなんの基礎知識もない。そうしたリズム隊でやったら、摩訶不思議な懐メロトラックが関の山だもの。彼らの責任とか、そういうのじゃなくて、あの時代はそういう時代だった。
それを克服するには、自分の一人多重で作るのが、ベストだと思ったの。ドラムも全部自分で叩いてね。「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」(1972)に戻って。ビーチ・ボーイズの音世界を知っている僕の方が、空気感が自然に出せる。コーラスも一人多重で全部やれるし。結果的にA面のオリジナル曲も、自分で演奏しているのが多いし、これも一種の差別化かな。BIG WAVEは最後のアナログ・レコーディング作品だから、そういう意味ではぎりぎりセーフだったんだよ。これが1年後に登場するSONY PCM-3324(24chデジタル・レコーダー)を使ったデジタル・レコーディングだったら、全然こんな音にはなっていないから。それは幸運だったっていうか。
   
<リゾート・ミュージックとしては、最高に機能したよね>
アルバムBIG WAVEは、制作的にはそれほど大変でもなかった。本当に5〜6曲でしょ。一番大変だった曲は「THE THEME FROM BIG WAVE」かな。 これはまた青山純伊藤広規と僕の3人でやってるんだけど、僕のギターがあんまりロックンロールっぽくないというか、ライン録りのプレーンなトーンで弾いてる。今から考えると、これはアンプを通して、もっと音を太くすればよかった、と思ってる。それはちょっと後悔してるけどね。ギターソロもいろんな人に頼んだんだけど、全然ホットロッドにならなくて、結局自分でやったんだよね。今から考えると、もうちょっとオーバーコンプにして、アンプから出すなり何なりして、少しパンクな音にすると、もうちょっと本当のサーフィン・ホットロッドになったんだけどね。やっぱりFOR YOUとかをやってた後だから、ライン録りなんだよね。
時代ごとにいろんなファクターがある。このアルバムでは全編DRE-2000ていうソニーのデジタルリバーブを使っているの。EMT(プレート/鉄板エコー)を使っていない。エンジニアの吉田保さんが興味を示して、これだったら全部いけるのかなって、全部使っちゃった。既成の曲も、基本的に全部リミックスしてるので。「DARLIN’」と「PLEASE LET ME WONDER」はシングル(B面)のテイクを使ってるから、これはEMTだけど、後は全部DRE-2000。細かいところではそういうこととか、色々あるんだけどね。企画物にしては、まぁ時代もあるけど、ちょうどウォークマンの時代だから、やっぱりリゾート・ミュージックというか、そういうところでは最高に機能したよね。
映画はあまりヒットしなかったんだけど、最初の段階では72分くらいの純粋なサーフィン・ドキュメンタリー映画だったんだ。それが、どこか海外に売れたんだ。でね、その当時の規定では、外国に輸出するフィルムは90分以上じゃないとダメだったらしくて、それで何をやったかと言うと、売ってるフィルムを買って、尺を伸ばしたの。そこから変になったんだ。映画を観てると、途中で訳が分からなくなる。あれが元の72分の純粋なサーフィン・ドキュメンタリーのままだったら、地味だけど、それなりに、きちっとまとまった映画になっていたんだよね。それがビキニの女の子とか、いろいろ入って、すごいことになって、ナレーションとか向こうの人がやってるんだけど、どんどん下品になっていった。届いたラッシュを観たら、あまりにひどいので、小杉さんが下品なSEとかそういうのを全部やめさせて、それで何とか公開に踏み切ったという。小杉さんは、映画会社とは昔から関係が深いからね。あの頃はマッチの映画とか、桑名(正博)くんの舞台とか、演劇、映像ともかなり関わってた。で、サーフィン映画というと、その前に「ビック・ウェンズデー」がヒットして、サーフィン映画が結構望まれていたんだよね。そういう意味では、柳の下(のドジョウ狙い)だね。
   
<結果的に映画がレコードを手助けしてくれた>
映像とのシンクロはオープニング以外は全くしてない。 だから、どこに何をはめるのかという事は、向こうに任せていた。映画では、僕以外にパイナップル・ボーイズっていうインストバンドが音楽を担当していて、その音もいろんなところに出てくるけど、細かいところはこっちはタッチしていない。あと映画の冒頭の「THE THEME FROM BIG WAVE」、あの曲だけドルビー・サラウンドのミックスなんだ。当時まだアナログの3.1チャンネル・サラウンドで、今聴くとそれがひどい音像なんだ。今売ってるDVDを観ても、アナログ・ドルビー特有の音像で、焦点が定まらない。映画のオリジナルマスターにはナレーションが乗っているから、音だけの差し替えができない。これをやり直すには、音を一回抜いて、それにナレーションから全部、差し替え直さなければいけない。そんな事は不可能だから。レコード用の2チャンネル・マスターはあっても、どうすることもできない。ナレーションを新録しなければいけないからね。だから、映画をリマスターして欲しいとか言われても、アナログ・ドルビーをいくらリマスターしたところで無駄骨だから。そうやって切り捨てられたハードウェアに、常にソフトは犠牲になるんだ。
BIG WAVEは映画のサントラだけど、映画の主題とは全然関係ない。イメージ・レコードだから。結果的に、映画がレコードの手助けをしてるっていう、今とは全く逆の形だよね。テレビ・スポットもそれなりに流れてたし。それがレコードのプロモーションにもなった。それはちょっと例としてはないでしょう。「戦場のメリークリスマス」とかは、きちっと映画も成功しているし、映画と音楽の相乗効果があったけれど、BIG WAVEみたいにレコードだけ突出してというのは、珍しいよね。今もカタログとして残ってるし。そういうメディア・ミックスみたいなことで、連関して語られるようになったのは、90年代になってからなんだよね。だって82年に出した「あまく危険な香り」も、同じタイトルのテレビドラマ主題歌だったけど、ドラマの視聴率はあまり良くなかった。でも「あまく危険な香り」は結構売れたからね。当時はあまり関係なかったんだよね。
   
<アランの徹底的なスパルタで、英語の発音は大幅に改善>
BIG WAVEの制作では、アラン・オデイ(1940-2013)に日本に来てもらって、作詞をしてもらい、あとは、歌唱指導もしてもらった。
アランとの出会いは、79年頃に小杉さんが彼を紹介してくれて、何曲か歌詞をもらった。僕は以前から、英語バージョンを作りたいと思った時に、当時の日本だと、在日の外国人に書いてもらうことがほとんどだったけれども、どうせやるんだったら、本当のプロじゃなきゃとずっと思ってて。そのアランにもらった歌詞に曲をつけて、最初に世に出たのが、まりやの「MISS M」(1980)に入ってる「EVERY NIGHT」。あのアルバムはLAでのレコーディングだったので、アランがその時に来てくれて、コーラスとか手伝ってくれたんだ。そこからFOR YOUでの「YOUR EYES」につながっていく。
これも前から話してることだけど、アランは小杉さんがまだ音楽出版社(日音)の社員だった時代、南沙織のレコーディングでLAに行った時に、彼がレコーディングを手伝っていて、知り合ったの。アランはワーナー出版の専属ライターで、ヘレン・レディーの「アンジー・ベイビー」とか、ライチャス・ブラザースの「ロックンロール天国」とかヒットさせていて、彼自身も「アンダーカバー・エンジェル」で、77年に全米ナンバーワンになっている。でも、年に10曲書かない非常に寡作な人なの。ある意味、完璧主義者っていうか。「アンバーカバー・エンジェル」がヒットしたので、すぐにアルバムを出す予定だったんだけど、レコーディングをもう一回やり直したいとか言って、半年以上遅れちゃって、それでチャンスを逃した。あのアルバムもちゃんと良いタイミングで出てたら、ヒット作になってたはずだったんだけど。そういうところが、ちょっと頑固者というかね。
まぁとにかくアランに来てもらって、作詞を始めた。どうせ来てもらうんだったら、英語の歌唱指導もしてもらおうということになって。ひと月ちょっと日本にいたのかな。まずはBIG WAVEから作り始めた。BIG WAVEの映画のビデオをアランにも見てもらって、サーフィンというスポーツは何かという話から始まって。僕がサーフィンというスポーツに対して持っているイメージを彼に話した。BIG WAVEのライナーにも書いてあるけど、サーフィンというのはとても孤独なスポーツに思えるんだ。実際サーファーには、社会生活に適応できない、心の持ち主も多い。年に半分肉体労働をやって、後は海に入っているという人とかね。彼らにとっては、一般の社会生活よりも、波の上の生活、波を待っている時間、波に乗る喜び、それこそが自分の属する世界だと。その意味では孤独なんだけど、同時に安住の地でもあるんじゃないかと。そういうイメージをアランに話した。
彼は、それは非常に面白い意見だと言って、「THE THEME FROM BIG WAVE」はそういう歌になった。他の曲「ONLY WITH YOU」と「MAGIC WAYS」は、彼がいつも書いている感じの内容で、あの人はロマンティストだからね。「JODY」もこの時に英詞を依頼して、歌い直している。彼に元の日本語詞の翻訳を見てもらって、それに準じて書いてもらった。
そうやってやっているうちに、彼が「I LOVE YOU」を聴いて、「なんでこれI LOVE YOUしか歌ってないんだ?」「いやこれはCMでね」「この上にもう一つ歌詞を乗せたら面白い」って。それで、歌詞入りの「I LOVE YOU…Part Ⅱ」を考えたの。いわゆるコラボレーションなので、曲も共作クレジットになっている。
アランと毎日会っているんで、飯を食いながら話をしていると、色々広がっていく。それで結構うまくいったんだよ。でね、それをする中で、歌っていると、発音が違うって言われてね。彼が歌詞を書くから、歌入れにも付き合うでしょ。一番言われたのが、”summer”で、お前の発音はプエルトリカンだって。僕はその頃、発音が良いなんて言われてたけど、でもネイティブ・スピーカーなわけじゃないから、いわゆる耳英語なわけで、そういう人間の持つ発音上の細かな問題点は、アン(・ルイス)とか、うちの奥さんからもよく言われてた。それだったら、この際だから徹底的に指摘して、直してくれって。
で、この辺の記憶については、小杉さんと僕とで若干違うんだよ。僕はそう言って徹底的にやってもらったんだけど、小杉さんはね、アランがあまりに徹底的にやるんで、そこまでやることないじゃないかって言ったんだって。そしたら彼が「いや違うんだ、タツが徹底的にやってくれと言ったんで、やってるんだ。僕だってここまでやりたくないけど、彼がそうしてくれって言うんだから、しょうがないだろう」って。小杉さんはそう聞いてるって。僕はそこまで言った記憶はないんだけどね。
でも結果的に、それは凄まじいスパルタだった。でも、あの時の徹底的なスパルタで(発音は)大幅に改善されたんだよね。歌を歌うときの発音の基本、それも日本人が歌うときの発音ね。黒人の真似をするなとか、そういうところまでやったから。正確な発音、それも日本人がコレクトな発音するときの考え方、っていうことをね。自分はカリフォルニアなまりがあるんだって言うんだけど、でも、日本人はそういう形のなまりを真似をしてはいけないって。だからコレクト・スピーキングでやる。本当に勉強になったね。うちの奥さんみたいに自分でしゃべれる人って、他の人に教えられないんだよね。「私は通訳じゃない」って言って。
アランはそういうことが理論的にできる人だった。それで本当にわかるようになっていった。それからさらに3年、5年と経つうちに、なるほどアランがあの時言ってたのは、そういうことだったのか、とかね、そういうふうになってきた。だからあのスパルタがなければ、本当にSEASON’S GREETINGS(1993)とかあり得なかったからね。その後の英語の歌詞を歌うときにも、必ず気をつけるべき事は、これのおかげで、本当によくわかったから。何か新しい英語の、オリジナルでもカヴァーでも、ON THE STREET CORNERのレコーディングやってる時なんかも、歌詞カードに赤を入れて、必ず発音の確認を事前にするように心がけている。
若い頃の「LA LA MEANS I LOVE YOU」や「TOUCH ME LIGHTLY」とかが、いかにいい加減だったかっていうのは、よくわかるよね。それをきちんと自覚できるようになると、だんだんちゃんとしてくる。セルフ・チェックというのは大事なんだよね。意味がわかって歌っているのと、わからずに歌っているのとでは、全然違うのと同様に、発音もちゃんとやらないと。雰囲気英語でも、ある程度のところまでは行くんだけど、それだと完璧じゃない。あの時、それを発音の面から、アランにしごいてもらった事は、何物にも代えがたい僕の財産になった。
   
<BIG WAVEのレコードは素晴らしい音をしている>
考えてみると、BIG WAVEは面白い立ち位置のアルバムなんだよね。今は企画ものっていうと、カヴァー集とかばっかりで、リゾート・ミュージックとか、そういう発想は無くなっちゃってるものね。クルマで流す音楽っていっても、大音量ものだったり。このアルバムでのオリジナル曲の英語ヴァージョンは、やっぱり自分のメロディーは、圧倒的に日本語よりも英語が乗りやすいからね。それは今でもそうで。だから、英語詞の方が楽なんだけど、それじゃ身もふたもないから。
あとBIG WAVEはビーチ・ボーイズのカヴァーが大きな比重を持つ作品だから、ビーチ・ボーイズのオリジナルに勝てないまでも、負けないようにするにはどうするか、ビーチ・ボーイズにどう肉薄するかが、重要な課題だった。基本的に完コピという方針だったけど、どう完コピするかが実に難しくて。僕は中学の頃からビーチ・ボーイズを聴いて育っているから、ビーチ・ボーイズの空気感は理解できてるつもりだった。だけど、日本を見渡して、ミュージシャンでビーチ・ボーイズを再現できる仲間なんて、ほとんどいない。それなら自分で、ドラムから何から全部やる、一人多重の方がいいかなって結論になって。ベースだけ(伊藤)広規に手伝ってもらって、後はキーボードからコーラスまで全部一人で作った。一人でやれる曲しかやってないけどね。このアルバムで海外に、とは全然考えていなかったね。提案はされたけど、僕は興味ないから。
自分の海外(進出)については今(2015年)も興味がない。アメリカのSIREレコード社長のシーモア・スタインに誘われれたりはしたけどね。ON THE STREET CORNERを聴いて、「アメリカで出さないか」って声をかけて来た。あとは「ブライアン・ウィルソンとか、ディオンと一緒にやらないか」とか。「何にも興味ない」って言ったら、「お前は変な奴だと」と言われたw でも、そういうことのためにやってるんじゃないから。
先行シングルとして、6月20日発売のアルバムに先駆けて、5月25日に「THE THEME FROM BIG WAVE/I LOVE YOU Part 1&2」を発売した。これは単純に、アルバムからのシングルカット。このシングルは映画の割引券付きでね。本来はアルバムも同時発売予定だったんだけど、アルバムはひと月遅れた。歌詞カードの誤植があって。
そういえばBIG WAVEは、信濃町ソニースタジオでアナログLPのカッティングをしたんだ。ちょうど大滝(詠一)さんの「EACH TIME」の直後で、同じエンジニアだった。ところがテスト盤が届いたら、どう聴いても「EACH TIME」よりも2〜3デシベル、レベルが低いんだよね。なんだこれは? 陰謀か? と思ってw 「音が悪い」ってソニーの浜松工場まで、文句を言いに行った。で、クレームを入れまくって、カッティング・エンジニアが何度も切り直して。おかげで大幅に改善されて、納得する音になった。後日、カッティング・エンジニアから電話が掛かって来て、「達郎さん、その『EACH TIME』、テスト盤でしょう。それってマスターサウンド(高音質重量盤)なんですよ」
そりゃ違って当たり前だわw だけど、でも、そんなの全然知らなかったから、「いいじゃん、同じ音圧になったんだから。やればできるじゃん」「ひどい」ってなもんでw おかげでBIG WAVEのレコードは素晴らしい音質なんだw あの当時、浜松工場に工場見学に行ったのは、僕と松田聖子だけだって。聖子ちゃんは当然表敬訪問だけど、音が悪いって文句を言いに行ったのは、後にも先にも僕だけだって、後々まで言われた。でも、粘っただけのことがあって、本当に良い音なんだよ。
実はCIRCUS TOWNのアナログ盤も、ビクターの工場では特別な高品質塩化ビニールを使って、プレスしてくれたんだ。アメリカからラッカー盤を持って帰ってきたので、せっかくだからって。通常より値段の高い。高品質塩ビって何が違うのか分からなくて、工場関係者に聞いてみても、企業秘密だ、って教えてくれなかったw
BIG WAVE映画版はアナログ・ドルビーなので、オーディオ2トラックのようなリマスターは不可能なんだ。だからDVD化された映画BIG WAVEはオリジナルのままのストレート・コピー。映画もちゃんとリマスターができたらいいんだけど、日本の映画会社はそういうのに冷たいからね。
   
<84年12月、BIG WAVEをたずさえてツアー開始>
BIG WAVEが出た後、84年もツアーだね。12月から年をまたいで。毎年そういうスケジュールだった。ライヴは1曲目が「ONLY WITH YOU」のアカペラから始まって、割とBIG WAVEの曲がメインで。アルバム連動だね。「AMAPOLA」「I LOVE YOU」のメドレーもこの時にやった。ツアーの年内最終公演、12月25〜27日の中野サンプラザの前には風邪をひいちゃって、最終日には38度6分の熱でやらされた。今ならキャンセルだよね。まだ31歳だったから。このツアーの最後が名古屋で。そこで、それまでのメンバーは、とりあえずひと段落となるんだね。この頃も僕は不摂生の時期だね。タバコもバリバリで。
ツアーでのお客さんの層は、変わらなかったと思う。 この前のツアーくらいから、全国でソールド・アウトという状況がようやく達成できていた。MELODIESのヒットは大きかったね。作品もずっとコンスタントに出ていたし。今と違って、当時はまだライヴに行くっていうのは、かなり特別の体験だったから。例えばこのツアー、30本で、約6万人でしょ。レコード買う人の方が、はるかに多い。
ライヴに来る人は、やはりそれなりの特別な人っていうかね。僕のようなスタイルで地方ツアーをやってる人が、特にポップ系の男性ミュージシャンでは、まだあまりいなかったから。後はイケイケなロックばっかりだったからね。そういう意味では噂を聞いて、次第に集まってくるんだ。そういう時代だったね。
【第36回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第35回 83年後半「スプリンクラー」から「WHITE CHRISTMAS」

<ノー・タイアップのシングルを出してみたかった>
83年9月28日、シングル「スプリンクラー/PLEASE LET ME WONDER」発売。これは、ノー・タイアップのシングルを出してみたかったんだ。 やっぱり”夏だ、海だ、達郎だ”からの脱却という動きの一環で、少し秋口の発売で、LPに入ってなくて、ツアーの中で演奏して、どういう反響になるのかっていう。それでも、オリコン34位まで上がった。あの頃は今と違って、30何位に入るのは大変なことだったから、十分だと思ったけど。でも、ムーン(レコード)のスタッフからは大ブーイングだった。「曲が夏っぽくない」っていう。 とにかく口を開けば、夏っぽいか夏っぽくないか、そればっかり。お前ら、それしか価値観はないのかよ、っていう。そういう時代だった。だからイメージっていうのは、恐ろしい。
スプリンクラー」の録音はMELODIESのレコーディングをやった直後、新曲として、アルバムとは完全に分けていた。自宅でフルサイズのデモを作って、珍しく詞も全部上げて、結構やる気だったの。レコーディング現場では、ちょうどMELODIESの時に2台のマルチ・トラックを同期させて、調走させるシンクロナイザーが入ってきた。それでダビングが随分楽になった。ただ当初、六本木のソニースタジオには、まだ24チャンネルのテープレコーダーは各スタジオ1台づつで、もう1台は16チャンネルだった。
なので、最初はその同期システムで24チャンネルと16チャンネルのレコーダーを並走させた。それで合計40トラックになった。79年以降はリズムトラックは24チャンネルのレコーダーで録ってたんだけど、24チャンネルのレコーダーはヘッドの幅が狭いので、それ以前の16チャンネルのレコーダーに比べて、音のダイナミック・レンジが狭い。だったら昔みたいに16チャンネルでリズムを録って、24チャンネルをダビング用にすればいいんじゃないかと。そうすればリズムセクションのダイナミック・レンジが昔のように確保できるから。で、「スプリンクラー」は16チャンネルでリズムトラック、ダビングとかは24チャンネルで録って、シンクロさせてる。だから、太くて良い音がしてるんだ。でも84年のBIG WAVEからは、16チャンネルは廃棄されて使われなくなって、24チャンネルが2台になった。スプリンクラーは、そういう分岐点の作品なんだ。どういうシングルかと言えば、暗い歌だけどw 
あの頃、曲のデモはローランドの808(ヤオヤ/TR-808 リズムマシン)で作ってたんだけど、808とシンセベースを同期するソフトがあって、それが結構重宝したんだ。ティアックのカセットの4チャンネルでデモを作ったんだけど。欲しかったフェンダー・ローズを買って。それからほとんどの曲をローズで作ったかな。
アルバムを作るときは、5曲か6曲を並行してレコーディングして、アレンジを考えていったりすると、ちょっと散漫になる時がある。でも、シングル1曲のためにやると、結構集中できる。で、そのリズム録りは青純と広規と僕の3人だけでやってて、割とシンプルなレコーディングだった(B面はベースのみ伊藤広規が参加)。それはMELODIESの「あしおと」とか「メリー・ゴー・ラウンド」と同じなんだけど。だから集中力のベクトルが、全然歌謡曲のスタジオ仕事じゃない。カルトな感じですよ。
    
<「スプリンクラー」の舞台は、表参道の地下鉄の入り口>
スプリンクラー」の(セールス)結果は、こんなものかな、という感じ。 僕は本来はアルバム・アーティストなので。だからシングルは、あくまでもアルバムのための呼び水でしかなくて、そういう意味では、チャート成績はそんなに良くない、常に。「高気圧ガール」で17位とか、「あまく危険な香り」が12位。ベストテン・ヒットのシングルなんて、90年代までは4曲しかない。「RIDE ON TIME」と「GET BACK IN LOVE」と「エンドレス・ゲーム」と「ヘロン」。でもシングルのエアプレイは、全部アルバムにフィードバックされた。
その辺が伝わりにくいのは、90年代の、あのミリオンセラー・ラッシュが悪いんだよね。数字至上主義というより、基本的に何も分かってないんだよ、コンテンツを語ることが全くないから。そんなの昔からだから、今更ぶつぶつ言ってもしょうがないんだけどね。
とにかく、このシングルで(自分にこびりついたイメージの)夏とかリゾートじゃない路線、シンガーソングライターとして意識して、自分で詞を書き始めた。
歌詞の舞台になった表参道の地下鉄の入り口って、今も変わらずあるけど、自分の中では、情景的にとても強いものがあった。あの時代の表参道の賑わいっていうか、それが池袋育ちの自分にとっては、非常にモダンだったんだね。それと、僕が行ってた美容院が、83年だったかな、表参道に引っ越したんだ。そこにひと月にいっぺんくらい通うでしょ。そこに行くと、表参道が窓からちょうど見えるんだよね。その眺めは大きかったかな、今から考えると。その意味では、僕は職業作家じゃないので、詞のアイデアはいつもそういうところから生まれてた。で、作詞にも少し自信を持ててきたっていうか、そうなると人の作品も結構注視するようになった。それまではどちらかというと、女性の作詞の方が目に入ってきてた。
ユーミン松任谷由実)とか、ずば抜けてたからね。でも自分で作詞するようになって、男の作詞家を注視するようになって。そういう意味で、あの時代の詞で素晴らしいと思ったのは、忌野清志郎とか大塚まさじとか、昔ながらで加川良とか、ああいう人たちの方が、職業作家より優れていると思った。フォークの流れの、割とキャリアのあった人たちだね。男の場合、何か都市のファッション性みたいなものを、歌のセールスポイントにするっていう姿勢が嫌いなの。生活の歌なんて、たくさんあるんだから、他と違った生活の歌にしてほしいとか、そういうのがすごくあって。だから、ジャクソン・ブラウンか何かの感じに、もっと日本的な温度を加えたような歌にならないか、と思って作ったのが、「スプリンクラー」だった。
スプリンクラー」っていうタイトルは、大阪フェスティバルホールに隣接していたホテルのエレベーターを降りると、”スプリンクラー制御弁”っていう看板があって、そこからとったんだけどね。それがどうして表参道の歌になるかと言えば、イメージの飛躍だけど、壊れたスプリンクラーというイメージが、雨とくっつく、とか、そういうのがだんだん広がっていったんだ。
あとは、あの頃ツアーメンバーを全面的に替えて、リズムが5人編成から6人編成になって(82年10月から青山、伊藤、椎名、野力奏一、中村哲)、ちょっと厚くなったから、その分いろいろなことができるようになった。83年に、ツアーのチケットを前売りで売り切れるようになって。そういう時期だからルーティーンっていうか、毎年毎年やるスケジュールが固まってきた。4ヶ月レコーディングをやって、4ヶ月ライヴをやって、後は4ヶ月プロモーションをやるってね。
  
<観客が立つようになったのが、ちょうど83年ごろだった>
82年秋からのツアーで大きく変わったことと言えば、リハーサルひとつにしても、箱根や河口湖で合宿形式でするようになった。それまではお金がないから、合宿もへったくれもない。コーラスもずいぶんオーディションして、そこまで超絶的にうまいわけじゃないけど、言う通りにやってくれる人たちに参加してもらって。そういう欲求を、少しずつ具体的に実現できるような環境になってきた。結果、本当の意味でのツアーっていうか、セットをちゃんと作ってとか、そういう今に至るやり方で、ここから動き始めた。
舞台監督が就いて、ステージセットの設計者もいて、照明も替えて。だからスタッフが全部変わったの。で、(舞台監督として)ヒロシ(末永博嗣/現ステージ・プロデューサー、元ごまのはえ)が、いよいよ本格的に入ってくるようになった。そういうスタッフの変化も大きい。要するにツアーの動員が良くなって、お客が入ってきたので、待遇が改善されたんだ。泊まるホテルとかのグレードも改善されて、少し楽になった。
ステージのことで言えば、最初の頃80〜81年は地方に行くと、お客さんがこっちのやってることがよくわからない。まず、裏声で歌う男の歌手っていうのを観たことがない。インプロヴィゼーションの長い演奏なんてのもね。そういう意味では、あの時期、精力的にツアーやっていた経験が今につながっていると思う。今考えてみると、それはとても大きいね。もし何年もあのツアーをしてなかったら、早晩行き詰まっていたと思う。ただ当時は、そんな意識もへったくれもなかった。だって、この先どうなるかわからないんだもの。だから「いずれ僕は制作の人間になるんだ」って思ってはいたけど。
かといって、あまり先のことなんて考えてなかった。僕に限らず、そんな人、誰もいなかったと思うよ。とにかくムーンを作ったから、回さなきゃいけないしね。まだ、まりやも休業中だったし。僕ひとりで、稼がなければいけない時代だったから。その自覚はありましたよ、村田(和人)くんが客が呼べるようになるには、もう少し時間がかかるなと思っていたし。当時ムーンで安定してお客さんを呼べるのは僕だけだったから、自覚はありました。
このツアーの手ごたえと言えば、何せお客はお馴染みよりも、一見さんの方が多い時代だからね。RIDE ON TIMEを聴いて、来てくれるお客さん。時期的にはFOR YOUやMELODIESのあとだからね、CIRCUS TOWNの曲もやってたし。それまでのアルバムの曲は一通りやってた。そうそう客が盛り上がって立つようになったのが、ちょうど83年頃だった。それまでは中野サンプラザ大阪フェスティバルホールではあったけど、地方に行ったらそういう事はまだなくて、それがだんだん広がっていった。そうなると煽りのパターンとかできてくる。馬鹿なことたくさんやったからね。青山純伊藤広規のソロも結構長くなるようになって、3時間コースが定着した。クラッカーもあの頃から全国的に広がっていった。
時代はいわゆるニューミュージック勢が、全国ツアーをやるようになって来た時だった。僕は幸運だったのはね、僕らの世代のお客さんてUターン世代なんだよ。みんな東京とか大阪の大学から、ちょうど故郷に戻る時期だった。僕が30歳だったって事は23〜24歳のユーザーでしょ。その人たちが故郷に帰って、結婚して、子供を産むっていう、ちょうどそんな時代だったから。だからローカルな所でも、そんなに違和感なくコンサートができたんだよ。今はそういう状況がないから、地方のツアーが大変なんだよね。テレビの情報しかないから、ギャップが大きい。でも、僕の時代は実際に東京のライヴシーンで僕らを観てたとか、そうした経験をして、故郷に帰ってるような人が結構いたからね、やっぱりUターンのプラスっていうか、それはすごく感じた。
地方では、それまでずっとラジオやタウン誌で、地方プロモーションやってきて、そういう人脈があるから、きちっとエアプレイとかしてくれる。そういうのは本当に大きい。僕らが今も生き残っていられる大きな要因は、テレビメディアを使ったプロモーションとは違うやり方を、あの時代に一から構築せざるをえなくて、それをみんなで模索した結果だと思ってる。テレビもラジオも、有線もあったし、雑誌、ラジオでも、音楽が売れた時代だから。それは今の時代は全く不可能だもの。
今(2014年)はそういうのをやっても、メディア自体が弱いから、機能しない。あの時代は、景気も今よりずっと良かったし、音楽業界の活況もアイドル全盛だったけど、ロックやフォークだって、大いに盛り上がっていた。みんなが試行錯誤しながら、それぞれに盛り上がっていた時代だったからね。 例えばフュージョン系にしても、カシオペアやスクエアから渡辺貞夫さんまでたくさんいて、きれいに音楽マーケットが成立していた。そういう状況じゃないと、やっぱりムーブメントになりえないんだ。
音楽が文化のフロント・ラインだった、そんな時代だったわけだから、それは今とは状況が違うよね。お客だって、いろんなものを見て、比較して楽しんでいたし、そういうものにお金を払おうという意思もあったよね。
   
<あの頃は音楽の力がはっきりあった>
この83年の暮れには「クリスマス・イブ」のピクチャー・レコードが発売されてる。 あれは小杉さんが「せっかくクリスマス・ソングがあるんだから年末に限定でもいいからやらないか」って言ったから、じゃあピクチャー・レコードかなって。雪の結晶の絵でね。あれのミソは何といっても、B面に「WHITE CHRISTMAS」のアカペラを入れたことなの。結構インパクトがあるだろうって、狙いでね。
もともとあのアカペラはMELODIESが出たときのツアー用に作ったんだ。ライヴでの初演で、ON THE STREET CORNERから(選曲した)アカペラを歌った後に、そのまま「WHITE CHRISTMAS」のショートバージョンのアカペラにつなげて、そこから「クリスマス・イブ」に移行するアイデアだった。これは絶対にウケると思った。ステージが暗転して、メンバーには動かないようにと指示して。それで「クリスマス・イブ」に入ると、それはもう熱狂的だった。ところが、初演の神奈川県民ホールでは、その「クリスマス・イブ」のイントロがPAのミスでフロントからコーラスの音源が出てなくて、でも、その時は本当の初演だから、お客さんはそういうものだと思って聴いていた。で、間奏でブレイクしたら音が出てなくてシーンと沈黙があって……w そういうこともありました。
で、その「WHITE CHRISTMAS」の素材をピクチャー・レコードのB面にして、限定2万枚で出した。 だからあれはほんとに純粋な音楽的企画性っていうか。だけど、あのピクチャー・レコードはレコード店の店員たちがほとんど買ってしまって、店頭にあまり出回らなかったというw
ピクチャー・レコードへのこだわりはあんまりない。ピクチャー・レコードは普通のレコードより音が悪いからね。でもまあ販促目的だから。飾って楽しむものっていうか。でも企画性としては素晴らしかったと思うよ、自画自賛だけど。いま「オンスト2」に入っている「WHITE CHRISTMAS」は、後にデジタルで録り直したものなんだ。最初に録ったものは、アナログマルチをつないで作った。ワンフレーズずつ歌って、それを個別に録って、そのマルチテープをつなぎ合わせた。ブレス(息継ぎ)をちゃんと組み立てて、それにエコーをかければ、繋いだなんて全くわからなくなる。だけどそうは言っても、テンポの緩急が完璧にはいかなくて、それで、86年に打ち込みのテンポデータを作って、デジタルで録り直した。それで細かいところが完璧に揃った。そしたらうちの奥さんに「あまり合いすぎてて、面白くない」って言われたけどw 
ライヴではその「WHITE CHRISTMAS」から「クリスマス・イブ」の流れがあまりにウケたので、その翌年は「SILENT NIGHT」にして、その後もたくさんバリエーションが生まれた。でも、最初の動機は、単にフォー・フレッシュメンのスタイルをやってみたかっただけで。フォー・フレッシュメンのヴォイシングは、高校時代から結構研究していて、かなりの量の採譜もしていたんだけど、それを実際に生かせる場ってなかなかないんだよね。ジャズじゃないので。あの「WHITE CHRISTMAS」は絶好のチャンスだと思ってね。いわゆるフォー・フレッシュメンのオープンヴォイシング。イントロの段取りとか、結構考えた。
それまではいわゆるドゥーワップで、スリー・パートのシンプルなハーモニーだったけど、こっちは和声がはるかに複雑だし、歌唱の難易度も高い。そもそもひとりアカペラで、フォー・フレッシュメンをやろうなんていうのが、とんでもなく奇想天外な試みなんだよねw でも、それもさっき言った、引き出しを増やすという作業の一環だったんだ。だから、なるべく拡げられるところは拡げて、それで差別化を図ったということなんだね。
「WHITE CHRISTMAS」の許諾は、すごくうるさいよ。出来たものを向こうに送って、聴いてもらって、使用許可をもらうの。あの「WHITE CHRISTMAS」をシンコーミュージック草野昌一さんが聴いて。当時、草野さんは「WHITE CHRISTMAS」の日本の出版権を取るのが夢だったんだよね。で、シンコーがついに獲得した時に、僕のところに日本語詞のオファーが来た。「オンスト2」を作った時に、草野さんに呼ばれて食事したことがあって、「あれは非常に良い」と喜んでくれた。なんたって漣健司(さざなみけんじ/草野昌一さんの訳詞家としてのペンネーム)さんだからね。そういうところも、洋楽的なものをやることによって、日本の音楽出版社の人とも接点ができたというか。それはなかなか有意義な体験だった。
許諾については、ディズニーなんかも曲の解釈にはすごくうるさい。過度にアヴァンギャルドなアプローチはダメだし、下品なものは絶対に許可が降りない。だけど、一旦許諾が出たら、そんなに使用料は高くない。要するに曲の格調を下がるような事はさせない、っていうことなんだよね。「WHITE CHRISTMAS」は特殊中の特殊でね。あの一曲のための出版社があって、スタッフは3人しかいないっていう。あれはすごいよね。まぁ歴史上一番売れた楽曲だからね。
クリスマスソングの定番と自分のクリスマスソングを結びつける。でもあの頃はまだ音楽マーケットが豊かだったから、そういうアイディアがちゃんと浸透したけど、今はそんなことをやっても一人相撲だもん。今だって結構いいことやってる人はたくさんいるんだけど、それが届かない。あの頃は、音楽の力がはっきりあったんだよね。大滝詠一さんの「イエロー・サブマリン音頭」だって、あれは大滝さんの趣味が反映されたものだけど、考えている事は僕と同じなんだよ。人と違うことをやろう、っていうね。
でも、今の人は、人と同じことをやろうと努力してる感じだよね。カヴァーソングの選曲のやり方とか。それは、僕らのあの時代の価値観とは、全く相反するものになってしまっている。
【第35回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第34回 アルバムMELODIES(83年6月8日発売)

<常に差別化なんだよ、考えていることはね>
このアルバムから自分で詞を書くようになって、レコーディングのメンバーも全部固定されて来たから、この辺りのことは結構鮮明に覚えている。それ以前の、スタジオ・ミュージシャンでレコーディングしていて、今日誰と、とかやっていた時代だと、純粋に曲がどうだったとか、そういう記憶はあるんだけど、アレンジの段取りがどうだったかとかは、意外と覚えていない。でもRIDE ON TIME、FOR YOU、MELODIESの3枚は、同じセクションでやっているから、経過をよく覚えている。 それにMELODIESはFOR YOUと比べて、圧倒的に、一曲に対してかかっている人間の数が少ないんだ。自分でやっている部分が多いの。だから、なおさら明確に覚えている。
レコーディングをスタジオ・ミュージシャンでやってると、結局、他の人が作っている音と似てしまうんだ。当時はスタジオ・ミュージシャン全盛時代だったでしょ。それこそ当時のウエストコースト・ロックじゃないけど、演奏に誰が参加してるとか、そんなのが日本でも売りになった。僕も70年代にソロになってしばらくは、ポンタに岡沢(章)さん、松木(恒秀)さん、佐藤(博)くん、坂本(龍一)くんといったメンツで、レコーディングしてたんだけど、当時はどこに行っても、ポンタ、岡沢だったの。そうなると純粋に詞と曲、編曲だけじゃ、特色を打ち出し切れないんだよ。
だから、どうしても自前のセッション・メンバーが欲しかった。その前のシュガー・ベイブの時はバンドだったから、当然、他の人はそのメンバーではやっていなかったから、音の特徴は出てたんだよね。GO AHEAD!の時は予算がなくて、ギャラの高いプレイヤーを使えなかったので、ユカリ(上原裕)と田中章弘、難波くんに椎名くんというメンバーが中心になったんだけど、でも結果的にそっちの方が、今聴いても音としての個性があるんだよ。
だから、そういうスタンスに戻りたい、というのが、ずっとあった。じゃ、どうしようかって時に、たまたま青山純伊藤広規が出てきた。何より彼らは読譜力があったの。椎名くんもそうだし、難波くんも譜面は完璧。そうすると曲の仕上がりもすごく早くなるんだ。
それと、MELODIESでは自分で作詞をしようとか、8ビートのロックンロールをやろうと思ったんだけど、8ビートって本当に個性が出しにくいから、他と違う色合いを出そうとすると、必然的に一人多重とかになっていくんだよね。MELODIESの次のBIG WAVEなんてモロそうでしょ。だから、スタジオミュージシャン全盛の時代に、音世界をどう個性化するかを考えてたらこうなった、というのが一番大きな理由なんだよね。
だから、常に差別化なんだよ、考えてることはね。ただ最初の頃は、考えてはいても、なかなか思うようにはできなかった。だけどこの頃から、ある程度レコーディングに予算もかけられるようになったし、トライ&エラーもできるようになった。同じ曲でも違うテイクを録ることができる。その分制作費もかかるし、時間もかかるんだけど、それで個性化が進められるようになったんだよね。同じ頃に一世風靡した細野さんのYMOも、やっぱりそういう個性化の動きと言えると思うし、すべてそうなんだと思うよ。ただスタジオ・ミュージシャンを呼んでレコーディングして、はい出来た、っていうことを続けていくと、差別化はできない。だからそういう時のプロデュース感覚って言うのかな。
何度も言うけど、ここからどうするのか。30歳を超えたロックという展望が見えない。フォークと違って、制作費がかかる。歌謡曲シンガーのように”営業”には行けないしね。その結論として、僕の場合レコーディングもそうだけど、やっぱりツアーをやらないとダメだって思ったんだ。そうじゃないと、サザンオールスターズとかツイストとか、年間何十本もライヴをやっている人たちは、とても太刀打ちできないからね。そういうところから始まって、自分なりの方法論をだんだん考えていったの。
そうするとギターのレコーディングでも、例えばまりやの「元気を出して」の時は、僕が生ギターを弾いたんだけど、本当に4小節ごとに弾いてはやめて、またやって、みたいなさ。スタジオ・ミュージシャンに頼んだら15分で弾けることを、延々1時間以上かかってやってる。でも、スタジオ・ミュージシャンに頼むよりも、その方が個性的な音が作れるわけ。そういうのに近いんだ。
スタジオの技術も進んできて、僕が自分でドラムを叩いても、アナログのレコーダーでもパンチイン(一部だけ録音をし直すこと)が、すごくきれいにできるようになったし、テープの切り貼りもできるようになった。だから、そういう技術を駆使すれば、ヘタウマが形になるようになったんだ。それとは逆に「高気圧ガール」みたいな曲は、青山純たちのテクニックがないと、できない。そういうふうに、表現の幅が出てきたんだよね。
  
<このままやっていったら、絶対にダメだと思った>
自分の音楽の個性化。でも、僕のはムーブメントじゃないからね。1979年あたりからYMOのテクノが全盛になった頃は、ある意味で恐怖したっていうかな。テクノクラート・ミュージックというか、機械が人間を規定する。今のボーカロイドじゃないけど、ああいうものに感じるのと同じような恐怖感が、あの頃はあったんだ。
だから、自分は絶対にシーケンサーは使わないぞと思った。実際、僕がシーケンサーを使ってレコーディングしたのは「風の回廊(コリドー)」(85年)が初めてだった。それまではシンセベースも何も、全部手弾きだった。シンセサイザーもなるべく使わないで、生でやってやろうっていう、そういう意識はすごく大きかった。
だったら、どうやって個性化していくかということで、例えばギターを5本重ねるとか、コーラスをどんどん厚くしていくとか、そういう方法論を考えていかないと、いわゆる平凡なニューミュージックのアレンジになっちゃう。それじゃあYMOのムーブメントには絶対太刀打ちできない。僕らがやっているのは決して流行の先端じゃないけど、それだからこそ、誰もやれていない音が出ないとダメなんだ。多分、大滝(詠一)さんも「ロンバケ」の時は、同じような考えでやっていたと思う。
曲を作って歌うだけじゃなくて、編曲に興味がある人間は、細野さんたちがやったことにものすごく憧れるか、恐怖するか、どっちかだった。僕がやっているのは歌謡曲じゃないので、音楽的な先進性とか、前衛性っていう部分では勝てなくても、他とは違う独自性を打ち出さないとダメだっていう事はその頃から考えていたからね。そういうことが、MELODIESにはすごくよく出ているんだ。
FOR YOUのときには、絶対にこのままやっていたらダメだと思った。なぜかっていうとそういう音世界って、あの時のトレンドを結構吸収していたものだったから。僕としてはMOONGLOWからFOR YOUという流れは、時代のトレンドを吸収してやっていたんだけど、でも本当の時代のトレンドは、やっぱりテクノだったんだよ。だからMOR(Middle Of The Road)ミュージックで、時代のトレンドと、音楽的に拮抗できるように個性化をするには、どうするかっていうことを、ものすごく考えてた。まぁ時代がそういう感じだったから、それに自分が反応したっていうかね。
CIRCUS TOWNは、あの時代に売れたのが2万枚とか言われてたけど、もしも25万枚売れてたら、その先はどうなっていたか、わからない。多分そうなっていたら、当然その路線を踏襲していたと思う。シュガー・ベイブでも、もしヒットが出ていたとしたら、当然その自己模倣をしてたでしょ。だって20〜22歳くらいで他にできないよね。だから若い頃に売れた人たちは、そういう感じで、自己模倣を続けることを強制されることになるから、後になって「あれは僕の音楽じゃなかった」とか言い始めるわけでね。売れた時にどういう選択をするか、だよね。
僕の(2枚目のアルバム)SPACYは、完全にCIRCUS TOWNのチャーリー・カレロの譜面に倣(なら)ってやったから、ああなった。でも、売れなくてIT’S A POPPIN’ TIMEの後、これが最後だと思って作ったGO AHEAD!。これを、これから作曲家でやっていくためのカタログの一つにしよう、とかね。それなりに考えて作ったわけ。でもBOMBERがヒットしたんで、その路線に全部合わせて作ったのが、MOONGLOWなんだよ。だから分かりやすいよね。
でも、こんな風に言うと、そこまでして売りたいのかって言われる。当たり前だよ、売れたくなくて始めた奴なんて、誰もいなくてさ。でも、今みたいに「とにかく1位を獲りたい」とか、そういうんじゃない。少なくとも自分の音楽を何らかの形で認知されたいとか、そういうものを、20代の初めに持たないで始める奴がいたら、お目にかかりたいよ。まあ、おかげさまでRIDE ON TIMEがヒットして、FOR YOUも(セールスが)良かったけど、これでまたアンヴィバレントなものがあってね。MELODIESを作る時、ここで押し流されたら大変だなと思うから、揺り戻しになるから。だから当座、どこに焦点をおけばいいのかなと思うと、やっぱりメロディー的にもバリエーションがたくさんある、GO AHEAD!みたいな形で、アルバムを作るほうがいいと思ったんだよね。
     
<8ビート復活、ター坊に「絶対に自分で詞を書いた方が良い」と言われた>
(MELODIES内の)「悲しみのJODY」も「クリスマス・イブ」も、8ビートのロックンロールなんだ。MELODIESには8ビートを復活させようというコンセプトがあった。シュガー・ベイブの時代、8ビートをやると、ヒップなメディアからはまず馬鹿にされた。古いってね。フォークの世界だったら別に構わないんだけど、僕の周りは、テクニック至上主義の業界だったから。しょうがないから、もうちょっと16ビートの曲をやろうと思って、メンバーも替えて「WINDY LADY」を作ったんだ。
それで、ソロになった後はCIRCUS TOWNからずーっと16ビート路線で行ってたでしょ。で、逆にスタジオ・ミュージシャンでは8ビートはやれない。普通の8ビートの、それこそ「クリスマス・イブ」みたいな曲を、スタジオ・ミュージシャンでレコーディングしたって、ああいう音にはならない。それに8ビートっていうと当時のスタジオ・ミュージシャンは馬鹿にして、「なんだこれは」って、いい加減に演奏されるのがオチだからね。スタジオ・ミュージシャンを使うんだったら、彼らをきりきり舞いさせるようなアレンジにしなければいけない。スタジオ・ミュージシャンを真面目に演奏させるための楽曲っていうかね。
でもね、いつまでそんなことをやればいいんだと思ってね。そんな時に、折良く青純と広規が出てきてくれたおかげで、自分のリズム・セクションを持って、それだったら絶対に8ビートをやりたいと思ったの。彼らはロックンロールもうまいから。
僕は76年から82年までほとんど16ビートとか、それに準ずるような曲調しか作ってこなかったんだ。その方が音楽的に高級だとみなされる、そういう時代に生きていたからね。でも本当のことを言えば、8ビートのメロディーの方が日本語詞には乗る。 16ビートは本当に詞が乗りにくい。しょうがないから「SPARKLE」でも何でも、初めにパターンを考えて、後からそれに合うメロディーを考えて作ったんだ。でも、それじゃあ本当の意味で詞は突き詰められない。詞は、やっぱり何を歌いたいのか、というある程度のアウトラインを考えて、それにメロディーをはめていかないといけない。
だから、自分で作詞しようと思った時から、絶対に8ビートを復活させなきゃダメだと思ってた。「クリスマス・イブ」にしろ、「悲しみのJODY」にしろ、みんなそういう目論見で作っている。そうしないと詞の情緒をしっかりと表現することができないというか。
アルバムMELODIESが、詞を本当に考えて作ろうと思った、一番最初のアルバムだからね。82年の終わりごろから、詞のモチーフを本気で考えるようになった。それまでは、詞なんてちゃんとやってなかった、というかそこまでの精神的余裕がなかった。
シュガー・ベイブの時代なんて、本当に適当な感じで詞を書いてた。自分にそれほど作詞の才能があると思ってなかったし。でもある時、ター坊(大貫妙子)に「あなたは絶対に自分で詞を書いたほうがいい」って言われたんだよね。あの時、彼女に背中を押されなかったら、詞のことなんて、おそらく考えなかったよ。あの時はそうかなあ、と思ったんだけど。今思い返すと、その意味がよくわかるけどね。
でも、シュガー・ベイブの時代から、大学ノートに詞を書きとめることは、ずっとしてたんだよ。例えば「2000トンの雨」なんかは、そのノートから言葉を拾って書いたんだ。そういう詞のスケッチみたいなものは、結構たくさんあったから、メロディーを作るときにそういうものを見ながら、自分で歌詞を書くんだったら、どういう感じにしようかって、半年間くらい、いろいろああでもない、こうでもないって考えてた。そういう意味では、MELODIESは結構計画的だったんだ。
その他にMELODIESの根源にあったのは、FOR YOUで広がっていた”夏男、山下達郎”っていうパブリック・イメージをどう減らしていくか。あとは、現役でやれる時間が残り少ないんだったら、もうちょっと自分の原点に戻って、それでどれぐらいできるかのトライしよう、って。そういうことが盛り込まれたアルバムなんだ。ちょうどRVCからムーンにレコード会社を移籍するから、そういうイメチェンをするにはいい機会っていうのもあったしね。
でもあの頃はね、できたものを聴いて、みんないろいろ言うんだ。褒めてくれる人ももちろんいたけど、逆に「失望した」とか「イメージが違う、もっと夏っぽくならないのか」という批判も多かった。スタッフでも言う奴がいたよ。MELODIESの後、83年9月に出したシングル「スプリンクラー」なんか、「なんですか?これ」って言われたw「全然夏っぽくないじゃないですか」って。スタッフだってそんな感じだったからね。だからMELODIESが発売されて1位を獲った時は、本当に一安心だった。
「メリー・ゴー・ラウンド」は結構自分では好きなんだ。この曲はアイズリー・ファンクなんだけど、あの当時、あんな曲調にあんな詞を乗っけるなんて発想はなかった。それこそ、海の向こうで、ああいう音楽をやってる人は全部、「今夜俺とメイク・ラブしようぜ」みたいな歌しかなかった。あんな、あるんだか、ないんだかわからない夜中の遊園地なんて設定はありえない。大体夜中の遊園地なんて真っ暗で、こんな話あるわけないんだ。でも、この歌にはあたかも「メリー・ゴー・ラウンド」に明かりが入っているかのような、そういうイリュージョンを持たせたかったんだよね。そういう形にしたかったの。でも、今から考えると、よくこんなメロディーやリズム・パターンにあんな詞を乗っけたな、っていう気はするけどね。でもやってみたかったの。

だから、ある意味ピンク・フロイドとか、ムーディー・ブルースとかに近い世界観があってね。ピンク・フロイドなんて非常に荒唐無稽なところがある。「この曲でこの詞かよ」みたいなところがね。イギリス的というか耽美的っていうか。アメリカでもパールス・ビフォア・スワインとか、ベルベット・アンダーグラウンドの初期の作品とか、トーキング・ヘッズとか、それに近いものがあるけどね。でもそういうのだって、大体UKからの影響だよね。
僕はUKには本当に影響されているんだ。60年代末のサイケの時代だね。特に詞はね。ムーディー・ブルースなんかは、すごいなといつも思ってた。「IN SEARCH OF THE LOST CHORD(失われたコードを求めて)」や「A QUESTION OF BALANCE」あたりの詞の持って行き方とかね。「RIDE MY SEE-SAW」なんて典型的でね。「メリー・ゴー・ラウンド」のような詞は、確かにそういうものに、ものすごく影響されているね。
30歳くらいになると、だんだん自分のスタイルが定まってくるっていうか。特にあの時代は、もうそのくらいでも遅いくらいでしょ。20代の半ばくらいで、これは俺の音楽だ、って決めないと競争に勝てないっていうか。
   
<MELODIESの方向転換がなかったら、今の僕はない>
シンガー・ソングライターとしてのスタンス、そこは押し出したからね。だって結局そういう道しかないと思ったから。今更言ってもしょうがないんだけど、MELODIESの時のレコーディング環境が90年くらいまで継続されていたら、その後の作品も全然出来が違ってたと思うけど、85年にデジタルが出てきて、そこで運命が変わってしまったんだよ。 デジタル・レコーディングとの格闘だね。
ただ作詞作曲というか、作品を作るという部分での方向転換に関しては、MELODIESでやった事は絶対に正しかったって、今でも思っているよ。MELODIESのあの方向転換がなかったら、今の僕はないからね。それはもう確実に言える。
だけどMELODIESが出てから、89年に「クリスマス・イブ」がヒットするまでの何年間かは、やっぱりそれ以前のお客さんたちの中に、抵抗があったのは事実で。それはシュガー・ベイブからソロになったときの抵抗と、同じような感じなんだ。そういう時期は何度かあった。SPACYとかを聴いてた人たちが、RIDE ON TIMEを聴いた時の抵抗とか。それと同じようなことがRIDE ON TIMEやFOR YOUの時から、MELODIES以降の時にもあったんだよ。ファンは新しいものに抵抗を感じる。でもね、88年に「僕の中の少年」が出た時、 その年の「ミュージック・マガジン」の年間アルバムのベスト4位だったんだよ。すごいストレンジな感触だったんだけど、でもその時に、この5年間でやってきた事は間違ってなかった、と思ってね。まぁそれでいいかなって。MELODIESは、そのとっかかりだったからね。
スタッフの戸惑いなんかは、全く気にしなかった。これしかない、と思ってやったからね。とにかく、それでダメだったらしょうがない。あそこで”FOR YOUパート2”みたいなものを作っちゃったら、自分が満足できないし、そんなのイヤだもの。
リスナーや観客とのズレ、芸能界ではよくあるけどね、客はワーッと乗ってるけど、本人は全くやる気がないとかね。そういう人がたくさんいるじゃない。ほらジャズのインプロビゼーションは、観客の期待を50%は叶えて、50%は裏切るのが最高だって言うし。表現というのはみんなそうなんだよ。その時に、確信犯的な決断がすごく必要なことってあるんだよね。僕にも何回かそういうことあったけど。もちろん成功したこともあれば、失敗したこともある。でも、失敗したとしても別に後悔はしないな。そんなもんだと思ってるし。
ひとつだけ言える事はFOR YOUの後、あのまま行ってたら、僕は絶対に終わってた。もちろんそういう決断をしていくことがいいのか悪いのかって事は、その時にはわからないことがほとんど。だからといって、流されて行って、気がついたら何もなくな、っていうのは嫌だったからね。
あの頃シンガー・ソングライターとしての音楽を打ち出していた人は、男ではあまりいなかったと思う。女性だと、ユーミンは少し前に出した「紅雀」(78年)で、そういうことをやっていた。あれはすごく優れた作品だと思ったよ。意図は、僕がやろうとしたことと同じだったんだ。
美奈子も「FLAPPER」(76年)の後に「TWILIGHT ZONE」(77年)を出していた。 そういう変化の時期っていうのは、必ずあるんだと思う。そういうイメージチェンジをどんなふうにやっていったらいいか、っていうのを、結構真面目に考えたんだ。その意味で手ごたえはあったよ。売り上げはFOR YOUより良かったからね。
MELODIESについての一番最初の取材が、天辰保文(あまたつ・やすふみ)さんで、天辰さんに「クリスマス・イブ」を聴かせたら「これはすごい」って言われたんだ。あとレコーディング中だけど「クリスマス・イブ」のアカペラ間奏を一日がかりで作って、それをカセットに入れて持って帰って、まりやに聴かせたら、「これはすごい」って。そんな感じで、これは結構大丈夫かなって思った事は何回かあったけどねw
あの当時は1年に1枚アルバムを出してた時代でしょ。アナログLPだから10曲入りだよね。今みたいにCDだと1枚で15曲以上入るから、それはそれで1つの完成した作品として作るのは、大変な作業だけど、あの頃はアルバムって、曲数が少ないこともあって、常に次への通過作業みたいなものだったからね。今年出して、次はまた来年っていう。だから内容も、少しずつ進化してはいけばいいっていう話だから。で、後はライヴがちゃんと機能している時代で、レコードプロモーションとしてのライヴの存在がちゃんとあったから、それがすごく大きかった。82年のFOR YOUのツアーは20本くらいだったけど、翌年から30本になって、コンサートの本数も多くなっていったから、それはすごくMELODIESを後押ししてくれた。
    
<その曲を特徴づける楽器を決めないとダメなんだ>
MELODIESのレコーディングは結構長くやってた、1年くらい。ダラダラと。コンセプトはFOR YOUが出た後に考えてた。82年の夏くらいかな。

原盤権もRIDE ON TIMEのシングルまではPMP(パシフィック音楽出版、現在のフジパシフィック音楽出版)だったけど、RIDE ON TIMEのアルバムからはスマイルになっていたから、制作予算もFOR YOUの時代からはたっぷり使えるようになっていたから。それまではアルバム制作費が1,000万円でもお金のかけすぎだって言われたけど、例えば制作費が2,500万円だったとしても、たった2倍半になっただけなんだよ。お金をかけたとしても、売り上げが見込めるんだったら、それを相殺すれば良い話なんだ。そういう事は今までも散々言ってきたけど、結局レコード会社も原盤会社も事業計画だから、許してくれなかった。そういうことを言うと「あんただけが(所属)ミュージシャンじゃない」って言われる。でも自社原盤だったら、そんなこと関係ないからね。
実質のレコーディング時間は、MELODIESは割と短いかもしれない。曲も事前に揃っていたし。12、3曲かな。この時はね、FOR YOUの(曲数の)3分の2くらいはやってると思うけど。でもね、今と比べたら、どんなに長いったって、結局リズム録って、それにパーカッションか何かダビングして、後は弦を入れるか、ブラスを入れるかして、コーラスを入れたら終わり。後は別に何もないんだもの。今はマシンでやるか、生ドラムでやるか、マシンでやるならキックの音はどうするのか、の決定から始まって、やっぱり生でも一回やってみようとか、ループでやってみようとか、エレピの音はこれじゃなくてとか、選択肢が多すぎるよね。昔はエレピの音といっても、もうローズかウーリッツァーくらいしかなかったんだもの。
当時のレコーディング・セッションは1日、ワンセッションで2曲。下手したら1日3曲なんて日もあった。だからリズム録りはすぐに終わる。一人多重でやるのは、一日で撮らないとダメだしね。だからレコーディング自体、それこそリズム取りは延べ10日とか、それぐらいで全然取れちゃうの。それから永遠、ああでもない、こうでもない、っていうのが始まるんだよ。アレンジもそこからが大変。特にその曲を特徴をつけるためのが楽器を何にするかっていうのを決めないと、ダメなんだ。音色をね。
例えば「クリスマス・イブ」だったら、あのイントロのギターの音とか、コーラスの段取りだとか、「ひととき」だとトーキング・モジュレーターとかね。それは今でもそうだけど、その曲を聴いたときに特徴として耳に起こる音色っていうか、それを決めないと曲の個性が出ない。そういう作業をしないと、流れ作業の歌謡曲みたいな個性のないものになってしまう。今流行っている曲の多くは、曲を特徴づける音色も何も、全部ソフトシンセで個性がないから、カラオケだけでは判別がつかないし、歌もピッチ補正の繰り返しで、結果みんな同じような印象になってしまうんだよね。何かひとつでもいいから、例えばモジュレーションされたハープの音とか、そういうイントロひとつでもあれば、その曲はそういう色になるんだけど。今は何でもソフトシンセの既製品だから、なかなか違いが出せない。
   
<作った直後はダメなんだよ、自己評価ができないの>
アルバムを作ってるときは「クリスマス・イブ」の位置付けなんて考えてない。だって、あれは何度も言うように、うちの奥さんが「PORTRAIT」(81年)を作るときに書いた曲なんだよね。 それを当時のまりやのA&Rがボツにした。その人はロックンロールが嫌いだったから。じゃぁ自分でやってみようかなってことで、MELODIESに入れたんだ。MELODIESの30thアニヴァーサリー・エディションのボーナストラックに「クリスマス・イブ(Key In D)」っていうのが入ってる。あの曲のキーはAなんだけど、Dで歌ってるマルチテープがあった。倉庫で発見してね。それをリミックスして、ボーナストラックにした。このキーDでは裏声で歌ってる。最初はクリスマスの曲じゃなかったし、詞と曲も同時に書いてたんじゃない。メロディーとコード進行はあったんだけど、 それをある程度重ねていって、あのギターを5、6本、真ん中で重ねるっていうのは、村田(和人)くんのレコーディングでやった時に思いついたノウハウなんだけど、それをそのまま使ってね。そんな感じでアレンジをやっていく中で、この曲は何かバロックの感じがいいのかなと思ってね。バロックの曲だったら、クリスマスの曲かな、っていうアイデアが出て、それであの詞にたどり着いた。
そういう具合にオケが完成に近づくにつれて、曲のテーマ付けも決まっていく。その間、前段階ではどういう曲になるか分からないから、キーが高いのと2つテイクを録ってたんだね。で、キーがDのテイクは、仮メロを裏声で歌ってるんだけど、なんと「クリスマス・イヴ」の歌詞で歌ってるんだよね。 という事は、ある程度のところまで、どっちにしようか悩みつつやってたんだね。
このアルバム、一曲目の「悲しみのJODY」は裏声で歌っているから、もし(アルバム最後の)「クリスマス・イブ」のキーがDのテイクを選んでいたら、最後の曲も裏声になっていたかもしれないんだよね。今考えると、間奏に使った「パッヘルベルのカノン」の音域が、たまたま僕のAの歌とドンピシャだったから、それでキーがAのテイクにしたんだと思う。だからアルバムにおける「クリスマス・イブ」の位置って言っても、それは作って発売されてから後の話でね。発売されて「これはいい」と言われたりしてからなんだよ。作った直後はダメなんだ。自己評価ができないの。
  
<アルバムの中でキーになる曲は、やっぱり「高気圧ガール」なんだ>
アルバムの軸、やっぱりMELODIESは「高気圧ガール」でしょう。シングル曲だし。今現在は「クリスマス・イブ」になっちゃうけどね。MELODIESは前2作に比べるとすごく作家的なアルバムだからね。シンガーソングライターというより作家的なんだよ。もうやりたいことをやって、行けるところまで行ってみようという。だから曲をたくさん作って、たくさん録ってたけど、そこからセレクトされたのが、レコーディングがよくできた曲、歌いやすそうな曲、あとは自分で詞を書くから、詞が乗りそうな曲。そういういくつかのセレクトのファクターはあるけど、非常にバラエティに溢れている。
でもアルバムの中で、何が一番キーになるかと言えば、やっぱり「高気圧ガール」なんだよ。色々と考えて作った曲でね。「LOVELAND, ISLAND」から始まったトロピカル路線、ラテンリズムの曲と言うことで、我ながら非常によく出来たと思った。他にもいろいろファクターがあって、まずアカペラでスタートしている。日本語の曲で、ああいったアカペラでスタートしている曲というのも、なかなかなかったし、いわゆるポリリズムというか、複合リズムのパターンも非常にうまく構築できた。コピーライターの眞木準さんが作った「高気圧ガール」というコピーも良かったしね。CMを前提として作った、先行タイアップ・シングルで。30thアニヴァーサリー盤のボーナストラックに、これのロング・バージョンが入ってる。
RIDE ON TIMEはアルバム・バージョンを作ったでしょ。でも、あれはシングルと別テイクなんだ。別テイクだとやっぱり良くないんだよ。その反省を踏まえて、同じレコーディング・バージョンなんだけど、シングルはラテンとアカペラのヴォーカルで入るのね。でもロング・バージョンの方は、純粋なアカペラで始まる。僕がライヴの時に使ってる、あのイントロね。アカペラでスタートして、エンディングは、シングルはフェードアウトしてるんだけど、ボーナストラックの方はイントロに戻ってからフェードアウトする。だからシングル・バージョンより30秒くらい長い。それをアルバム・バージョンにしようと思って、ミックスまでして、ちゃんとマスターも作った。だけどイントロがアカペラだけで始まると、ちょっとインパクトが弱い。やっぱりシングル・バージョンのインパクトには負ける。あと収録時間が長くなるので、その30秒のカッティングタイム超過が嫌だから、結局シングル・バージョンをそのまま入れることにしたんだ。まぁいろいろ考えたんだよ。で、このアルバム・バージョンのテープもどこかに行ってしまって、長いこと発見できなかったんだけど、今回倉庫に眠ってたのをついに発見して収録できたと言うわけ。
   
<曲順の効果とかはもう結果論でしかないんだ>
MELODIESがバラード・アルバム的というのはどうかなあ。 僕はもともとアップの曲が少ないんだよ。今のCDみたいに全20曲みたいな感じだと、もっといろんな曲が入るんだろうけど、アルバム1枚で10曲、時間も40分位でしょう。今の感覚で言うと、ちょっと物足りない感じもあるんだけど、昔はそうじゃなかったからね。昔は片面17〜18分だからその間、精神集中して聴いて。それをひっくり返して、17〜18分のB面を集中して聴くという、あのパート1、パート2の世界で、ものを伝えようとしていたわけだよね。
だから、聴く方の心構えが違うんだよ。カセットテープをカーステレオで聴くにしたって、片面23分だから、46分テープを使って、アルバムの表裏を入れて、ちゃんとひっくり返して聴けるように作るわけだよね。ソフトを、わざわざカセットテープで買う人もたくさんいて。やっぱり、音楽の鑑賞態度が全然違う。
でも、そういうことを思い出せと言ってもなかなか難しいしね。だから曲順の効果とか、そういうものはもう結果論でしかないんだよ。でもとにかく「悲しみのJODY」を裏声で始めて、ああいう流れでアルバムを作ろうというのは確信犯だったね。なんたって片面20分前後で収めなきゃならないから、どう頑張ったって5、6曲しか入らない。両面で12曲入らないからね。結局10曲しか入れられないんだったら、どうするんだ、ってなる。どうバリエーションを作るか。でもGO AHEAD!を作った時だって「散漫だ」って言われたんだよね、作風が。「ひとりの人間が、こんなにあっち行ったりこっちに行ったりしたらいかん」と地方局のディレクターとかに言われたよ。それは何を基準に言ってるか全然わからない。根拠がわからない。
僕は日本のミュージシャンでは、最もトータル・アルバムが好きな人間だって自負しているから。人生で一番好きなアルバムはほとんどがトータル・アルバムで、リチャード・ハリスの「A TRAMP SHINING」とか、マーヴィン・ゲイの「WHAT’S GOING ON」や、ラスカルズの「ONCE UPON A DREAM」とか。そんなアルバムばかり聴いて育っているから。でも、日本はそうじゃないんだ。日本は外来文化なので。僕自身は引き出しの多さとか、作家性の方が重要だと思ったから、そっちの方に向いていたんだ。それをとらまえて、統一感がないと言うんだよね。たった10曲で。あの頃は本当にそういうことをね、新聞社とか地方局の人によく言われたよ。
自分の範疇超えてるからだと思うよ。特に新聞の文化部の記者なんて、クラシックはクラシック、ジャズはジャズ、みたいにカテゴライズで全部やってるから、それから外れたりクロスオーバーするのがダメなんだろうね。だからYMOみたいなのがわかりやすい。これは何をやりたいのかっていうのが一目瞭然でしょ。でも、僕は何をやりたいのかっていうのがわからない、と。大滝さんも、ずいぶんそういうこと言われたじゃない。
   
<今と違って、思った音が思った以上に出た>
移籍第一弾アルバムという意識は強かったね。あとFOR YOUがあれだけ売れたことも、やっぱり自分の自信になってるし、何よりリズム・セクションが安定したことと、レコーディング環境。

1982年から83年の六本木ソニースタジオの音。ニーヴのコンソール、スチューダーの24チャンネルのレコーダーと、マスターレコーダー。アンペックス456のハイ・バイアステープ。EMTの140プレート・リバーブのあの音。もう今と違って、思った音が思った以上に出るんだ。それが、あの時代の音楽をあそこまでにした勝因で、それはテクノロジーと不可分で、もう我々の努力とかじゃないの。この頃はナチュラルな自分たちの演奏が、きれいにマイクで録られて、それがテープにうまく入って、エコーやトータルリミッターの質も良い時代で、欲しかったロックンロールの音に仕上がってくるという、そういう全てのものがうまく転がっていった時代だから。MELODIESは曲調は若干地味なんだけど、そういうものが十分にサポートしてくれたんだよね。
あえて地味というか、チャラチャラさせたくないというか。RIDE ON TIMEもそうだったんだ。FOR YOUはその反動というか、たくさん録った中でのベストトラックを選んでいるから、やっぱり派手好みになるというかね。でもこれからはFOR YOUとは違うんだっていう、これからは自分はそういう事はしないんだっていう意思表明をしないとダメだと思ったの。それがプラスと出るか、マイナスと出るかわからなかったけど。
A面3曲目の「夜翔(Night-Fly)」からの曲の流れは、わけわかんないよね。まぁ大体「GUESS I’M DUMB」を入れるなんてのもバカだよねw すごいレアなシングルで、ようやく手に入れたから、今度はカヴァーしたくなるという。まあ、ただの道楽だよねw でもこの頃は、確実に1年に1枚、アルバムが出てたから、こんなこともやれたんだよね。この後、リリース・タームがドーンと空いていくと、カヴァー曲もガクッと減る、それはもう仕方ない。
MELODIESの内容は、要するにやりたかった。それだけ。あとは洋楽のリスナーにアピールするっていうか、ニューミュージックとは違うんだっていうアピールかな。こういうことを言うと必ず「お前だってニューミュージックだろう」って言われるんだ。ポピュリズムだからね。まあしょうがないんだよ、それは。いつの時代もそうだし。テレビの歌番組の最前線でやってる人は、流行の実感とかあるんだろうけど、我々はそうじゃないから。
だから、日本の音楽人口が何百万人かいるとして、どこのターゲットにどれくらいの量、どれくらいの質を目指すか、だよね。そういう情勢分析がきちっとできていれば、例えばCDのセールスがそれほど多くなくたっていいんだ。数少ないけど、そういう人ってずっといるんだよね。例えばブルーハーツなんて、そうだったじゃない。あれはあれで全くいいんだ。忌野清志郎さんも、多分それに近いものがあったんだよ。そういう人たちは美しいんだよ。ジタバタしない。
メディアは、すぐに何百万枚売ったとかそういうことばかり言うよね。そんなもの音楽で決められるわけないのに、まだやってる。だからAKBが史上最高売り上げだとか、ああいう馬鹿なことを言うわけで、今も昔も何も変わってないんだよ。
【第34回 了】