The Archives

次の時代へアーカイブ

ヒストリーオブ山下達郎 外伝8 小杉理宇造インタビュー

<あの人とやってみたいな、それが達郎さんの最初の印象ですね>
僕はRCAで日本のロックをやりたかったんです。でも、日本のロックの分布図が分からなかったんで、牧村憲一さんに会いに行った。そしたら牧村さんが、荻窪ロフトでシュガー・ベイブの解散ライヴ(76年4月)があるから観に来ないかって。それが最初で最後に観たシュガー・ベイブw ライヴは素晴らしかった。歌が上手い人だなあと思った。ギターもうまいと思ったし、何よりもおしゃべりが素晴らしい。普通のミュージシャンっていう雰囲気はしなかった。僕は声の良い人が好きなので、やっぱりあの人とやってみたいな、っていうのが最初の印象ですね。それはいまだに変わらない。
だいたい同時期に見ていた人が桑名正博さんで、彼ももうソロになっていました。僕は歌が上手いことと、かっこいいというのが、アーティストを選ぶ基準だと思いますね。
CIRCUS TOWNのレコーディングでは、達郎さんからこういうメンバーでと言う提案が出て、僕は無から有を得るのは大変ですけど、質問されたら答えられるので。ボールは投げられた方が受け取りやすいですし。目の前のテーマをどう解決するかってことだけで、絶対にうまくいくとも思っていないし、ダメだとも思っていない。
まず、やるべき事は達郎さんから出された答案用紙に、答えを入れていくこと。つまりそれは、イコール、動かなきゃダメと言うことですよね。まず第一関門は、チャーリー・カレロというアレンジャー・プロデューサーをセッティングすること。住所も電話番号もわからない。だけどアメリカに電話すればわかるだろうと、RCAインターナショナルに電話したんです。向こうも「なんだこいつ」って思ったでしょうね。でも「I’m working for Tokyo RCA」って言ったら、教えてくれたんです。それで電話をかけた。自宅に。チャーリー・カレロはもっと驚いて「なんで俺なんだ」みたいな。「なんで東京から電話してきたんだ?」「実は、自分がこれからやろうと思う新人アーティストが、あなたのファンで、とても高名なアレンジャー・プロデューサーであるあなたと、ぜひお仕事をしたいと思ってる」「え?俺、東京で有名なの?」「いやあ、僕はよく分からないんだけど、ウチのアーティストがそう言ってて。お会いしに行きたい」と。それで本当にわずか数日で、ニューヨークに行っちゃったんですよね。
だからテーマがあれば、それに乗っかって動けば良い。ダメならダメで、ごめんなさいっていうことで。
で、第一関門突破。第二関門は達郎さんの作ったミュージシャンのリストを出したら、「これはわかる」とか「なんで、このベーシストなんだ?これじゃないよ、ベースは本当は」っていう話をチャーリー・カレロとして、80%は多分達郎さんの思い通りのミュージシャン。20%はチャーリーが「こっちの方が良い」と言うミュージシャンになったんです。
ミュージシャンへのコンタクトは全部チャーリーがやった。僕がコンタクトを取ったのはチャーリーだけ。彼からすれば、もうそんなの楽勝って感じのメンバーだったんじゃないでしょうか。
    
<NYで音が出てきた、グルーヴがすごかった>
NYのスタジオで一番に印象に残ったのはチャーリー・カレロがピアノを弾けないってこと。どうやってアレンジしてるんだろうって。これが一番びっくりした。それと音が出てきた時もびっくりして、ひっくり返りそうになった。嘘だろこんなの、生まれて初めて生で聴いたって感じですね。もう感動、グルーヴがすごかった。達郎さんの求めてるのはこれなのか、って思いましたね。
それと午前中からセッションしたのもびっくりした。会社員じゃないだから。夜中から始まって朝までやるのが、我々の慣例でしたから。それが逆転したからびっくりした。それにスコアがすごかった。なんとなくコードがあって、要するに決まり事があってというわけじゃなくて、びっしり譜面が書いてあるのを見て、嘘だろロックなのに、って思った。ドラムのフィルまで譜面があってね。それでグルーヴが出て、素晴らしい。NYは本当にそうでした。
ロサンゼルスに行くと逆にフリーな、そこでみんなでなんとなく譜面書き始めて、ちょっとリハーサルしながらって感じだった。達郎さんにとってはその対局を一度に見られた、東と西の文化を一度に経験できた事は良かったでしょうね。
ロスでミュージシャンの変更が起きた時、全部僕がクビにしていくわけ。「お前明日から来なくていいから」って。そしたら「俺、ダメなの?」って明るいわけ。「だめなんだよ」と。いつも達郎さんのせいにして「わかってないんだよー」ってw「俺はお前の演奏が好きだよ」なんて言いながら「わけわかんないこと言うだろ。だから明日は来なくていいから」って。それで他のミュージシャンにギタリストを替えてくれと。そういう感じでしたね。
コーラスも最初違ったんですよ。今思い出すと黒人のコーラスだったのが、達郎さん気に入らなくて。僕はいいじゃん、そこそこいけるよ、って思うんだけど、ダメなんです。困っちゃって誰を呼ぶか話しているところに、ジェリー・イエスターとか、そういう名前が出たら、達郎さん興奮し始めて、嘘だろって。「ジェリーでいいの? じゃあすぐ呼ぶ」「明日? OK!」みたいな。ビジネス的なNYとは逆に、本当にフレンドシップで楽しくやっていたのがロサンゼルスでしたね。
達郎さんのジャッジは尊重しましたよ。今に至っても、全て達郎さんのジャッジです。だけど彼は直接言わないから、まあ言う場合もあるけど。特にアメリカでは語学の問題もあるんで、基本的に採用、不採用に関して、採用は彼が言うかもしれないけどね、「お前なかなかいいじゃん」とか。だけど「明日から来るな」って言うのは僕の仕事。
仕事を受ける時も、受けるか受けないかは達郎さんがジャッジする。相談はしますよ。だけど、音楽的には僕は相談を受けたことないんじゃないかな。NYでやりたいって言うのは彼で、それをセットアップするのが僕の仕事。セットアップして音楽を作っていく中で、人間的なフィーリングが悪いとか、ハモリが悪いとか、なんとなく違うって言う時は僕の出番。伝達する仕事だし。ネガティブな要素に関しては、僕サイドですね。別にポジティブな良いところばかりを達郎さんがとってるんじゃなくて、最終的な決断は全部、達郎さんです。僕はそういう意味では優柔不断で、いいじゃん、あのギターでもおかしくないぜ、って言う方だから。でもそこで絶対に嫌だっていうのが達郎さん。結果的には彼が正しいって思ってるから。
それはシュガー・ベイブを見た時からですね。あとは彼に人間として触れて、RCAに遊びに来てくれたり、話していくときに、やっぱり信念があるから。例えばなんとなく、まぁこのギタリストでもベーシストでもいいじゃないって、僕なんか思っちゃうの。でも達郎さんはわかると思ってるんです。だから絶対に譲らない。それがやっぱり良い形になって現れてるんですよね。達郎さんは職人気質だからARTISANというアルバムを作ったように、どちらかと言うと完璧主義者で、真剣に物事に対して取り組んでいる。僕は楽観主義者だから、どっちでもいいんじゃないっていう部分があるし、僕は否定するっていう事は人生においてもあんまりない。だから、僕の話になっちゃいますけど、ある意味対極の、達郎さんとジャニーズを、同じようなマインドでできるんです。普通はできそうもないじゃないですかw
僕の仕事を例えて言えば、彼が曲を作った、でもやっぱり初めはヒットしないわけですよ。じゃあどうしたらいいか? それもまた質問なんですよね。テレビには出ない、一般紙にもあまり出ない、ラジオは出る。ラジオだけでヒットが出る時代だったとはいえ、それでシングルヒットが作り出せるような生易しい時代じゃなかった。でも「それじゃあヒットは作れないんだよね」って言ってしまったら、普通じゃないですか。いや、参ったな、どこのパズルを埋めようか、っていうのが、コマーシャルソングのタイアップに変化していくわけです。
達郎さんと話したんだけど「テレビには出ないでしょ。でも、テレビっていうのは音声と画像が合体したものだから、音のほうでテレビが出るのはどう?」「何言ってるの?」っていう話ですよね、彼からすると。でも、それがもしかするとヒットへの早道かもしれない。桑名さんの時も、カネボウとタイアップさせていただいて、見事に成功した。だから、それを考えればいいだけなんです。多分、なんとかしたいのが好きなんですよ。何とか課題をクリアしたいと思うと、何かをしなくちゃいけない。
そんな状況に燃えはしないですよ、苦しむだけ。たとえそれでうまく成功しても、ヒットしたら嬉しいのは一瞬で、ああヒットしちゃったから、次もヒットさせなきゃいけない、まいったなぁ、と。ハードルがもっと高くなるんです。
     
<SPACYはアレンジャーを使ったりせず、全部自分でやったほうがいいと>
CIRCUS TOWNで、とにかく新しいし、すごいものができた。メディアやディーラーの方など、本当に全国津々浦々に行って、音楽好きの人に聴いてもらおう、これだけですよね。そしたらかなり反響があった。とは言っても何枚売れたか、記憶にありませんけど。音楽好きの人には圧倒的に支持された記憶があります。全く売れないお店がある一方で、神戸にあった「アオイ」ってお店では何百枚も売れた。あるところではゼロ。あるところでは30枚とか。やっぱりコア層には支持されるな、というのは分かってたんです。
僕は結構売れたなって感じました。達郎さんとはそのことについて話したんでしょうけど、当時僕たちの仲間のレコードの売り上げは、何千枚というのが普通でしたから。CIRCUS TOWNは2〜3万枚売れたと思うけど、結構売れたなって感じでしたね。次については記憶は曖昧ですけど、僕はとことん新作を発表した方がいいと思ってました。彼は寡作の方なんで、とにかくしょっちゅう書いているということはない。だから生意気ですけど、今度は僕が達郎さんに「新曲をどんどん書いてください」「次のアルバムすぐやりましょう」「まだできないんですか?」って、テーマを与えたと思います。「こういう曲を作ってください」とは言ってないと思います。とにかく作りましょうと。CIRCUS TOWNがこれだけうまくいったから、それを凌ぐものを作りましょう、ファンはいます、という感じですよね。曲がなくともスタジオをブッキングしちゃうんです。そうすると行ってやるしかないって雰囲気になったり。やっぱり目標を掲げると、彼は真面目ですから。もしかすると、小杉になめられられたくないと思っていたかもしれないけど、何でもいいから頑張ってくれればいいんですから。
2枚目がセルフ・プロデュースになったのは、どうせ売れるわけじゃない、だとしたら将来的に自分のスキルに繋がるように、自分で全部責任を持った方がいい。
CIRCUS TOWNはそういう意味では、NYサイドでは達郎さんはシンガーで、LAサイドではミュージシャンなんです。シンガーの山下達郎とミュージシャンの山下達郎、そのふたつは初めからあったんですよね。で、こう言ったら大変失礼ですけど、SPACYでチャーリー・カレロに勝つ事は多分できない。だとしたら、アレンジャーを使ったりせず、全部自分でやったほうがいい。そのほうが納得いくでしょ。達郎さんは本当に探究心とか、向上心がすごい。それまではストレングス・アレンジをしたことがないと思うんです。ロック・ミュージシャンですから。でも、やろうと思う気持ちが強いんですよね。
前にも言ったかもしれないですけど、嬉しかったのは達郎さんがNYでチャーリー・カレロの譜面に異常に興味を持ったこと、興味がなければ、何にもヒントがないですよ。僕が「興味あるならコピーをもらってあげようか? もらってくる?」って聞いたら「うん」て。で、「チャーリー、ちょうだい」って言ったら、「いいとも」みたいな感じでした。もしかすると、彼はそこから勉強しようと思ったのかも。
日本でやってきたシュガー・ベイブや、自分を取り巻く音楽環境との違いを、NYで知ったのかもしれない。それについて話した事は無いけど、今考えるとそうかもしれないですね。あの時の興味が、2枚目のSPACYにつながっていった。
    
<SPACYは成功したと思います>
CIRCUS TOWNのロサンゼルス・サイドは彼そのものですから。セカンドアルバムでの僕らの目的は、ニューヨーク・サウンドみたいなもの。それに達郎さんがどれぐらい挑戦できるか、という感じだったと思います。
SPACYはCIRCUS TOWNと比べると地味だなって。でも、まあいいやって感じでしたけどね。一番大事だったのは彼がセルフ・プロデュースしたっていうこと。ああ、出来るんだってことですよね。
曲目とか、そういうディテールは覚えてないですが、どっかで僕は「詩も全部書いたら?」って言ってるんですね。吉田美奈子さんの詩はとても素敵だったけれど、彼も表現力あるんじゃないかと思ったんです。達郎さんは完全主義者なんだから、自分で全部パズルを埋めていった方がいいんじゃないかと思っただけです。それが良かったかどうかは別として。
販売戦略は1枚目と同じですよ。達郎さんのことを、7つの顔を持つ男とかプロモートしてた記憶があるんです。要するに歌唱・演奏・アレンジ・プロデュース・作詞・作曲…全部やる奴いないよ、日本人で。それに何歳だと思っているの? という感じで、天才・山下達郎を売って歩いたんです。注目してください、って。多分それが僕の宣伝マンとしてのセールストークだった気がします。コア層に対して。コア層にしか行ってない。渋い!素晴らしい!おおー!っていう。
SPACYは成功したと思います。売り上げは大してなかったんですけどね。いきなりヒットはあまりないことだから、やはり積み重ね。多分僕はヒット曲が好きな人なんで、ヒット曲がないアルバムがバカ売れすると思ってないんですよ。
それにシングル・ヒットって当時はなかなか出せなかったんです。だって「夜のヒットスタジオ」とか、そういうのに出られない。お願いに行っても知らん顔されるの、当時ね。出してもらえないし、出すのも怖いし。
     
<PAPER DOLLはヒットしないなって思った(笑)>
シングルにPAPER DOLL。これはシングルがないと、どうしてもオンエア・プロモーションとか、集中的なプロモができないんですよね。アルバム・アーティストとして売っていける可能性は高い。とはいえ、10万売れると思ったことはない。その環境を変えるには、シングルがないと。でないと、ヘヴィー・ローテーションができないんです。
多分最初の頃、自分の記憶ではDJコピーなんてのを作ってました。放送局だけに「シングル・リリースしてないですけど、これをかけてください」って。そうすると宣伝マンの方から「バカ野郎、発売してないものはシングルって言わないんだよ!」って言われて揉めたのは記憶にありますね。そんなのウソつけばいいじゃん。発売してるって言っても、放送局の人たちは買いに行かないじゃん。でもウソはダメだとか。あーだこーだ言いながら、シングルやらなきゃいけないなって、どっかで思ったんですよね。
PAPER DOLLの時は(達郎さんへのリクエストは)ほとんど何も言ってないです。でも「タンタンスタンタン」ってイントロが出た時に、ああヒットしないなって思った。ああ地味ってw だけど本人は詩とか、そういうことを、シングルの時はどうやったらもっと広く理解してもらえるか、って、そういう切り口で、努力してることは確かなんですよ。
「イントロは長くしたらダメよね」とか。「やっぱりエンディングはなきゃ」とか。「間奏もなんでそんなに長いの? 無理だよ」っていうような話は、僕もシングルの時はしてたと思う。ほんとに細かいことは僕は言ったことはないんですけど、そういう投げかけをする。そうすると、彼はそこで一生懸命、我々の期待に答えようと努力はしてくれてた。とは言え、PAPER DOLLは絶対にヒットしないだろうと。
当時は編成会議というのがちゃんと機能してて、宣伝マンとか営業マンとかみんなで検討して、たぶんボツったんでしょうね。だけど僕も別に、そこで戦おうと思わなかったんです。だって、ヒットしないんだもん。
目標はシングル作にアプローチする、それはもう永遠のテーマだなって。でも、達郎さんは一生懸命作ってくれたけど、RCAの宣伝とか営業とかが票を入れてくれなかった。それも真実だなと思った。僕自身、僕が向こう側だったら入れないだろう。だってシングルって、当てるために出すんですよ。これ当たるか当たらないかって言った時に、限りなく当たらない方に近い。
とは言え、僕は運命共同体だから、達郎さんが一生懸命やって、彼の中では良いと思ってるんだから、それを応援しなきゃという気持ちもある。それと一般の人たちが当たらないだろうと言ったら、そりゃそうですよね、って言っちゃう自分もいた。だからボツったことに、僕はそんなにショックはなかったんです。
達郎さんに悪いなという気持ちはあるけれど、まあこれが現実だから。やっぱり、もう少し当たりそうな切り口のもの、次のステップに行くことを理解してもらわなきゃ、という感じで。その辺は達郎さんと話したと思いますよ。でも曲ってみんなアルバムに収録できるじゃないですか。だって自分がいいと思ったら、自分が全部選曲していいわけですから。だから、やったことは決して無駄にはならないんです。
     
<僕にとっての美学はダブルジャケットなんですよ>
次はIT’S A POPPIN’ TIME(78年5月25日発売)ですね。たぶんSPACY(77年4月25日発売)からしばらく間が空いてたと思います。この頃は、なかなか曲を書いてもらえなかった時期だったんです。でも、僕は発信し続けないとファンが逃げると思っていたから、失礼な言い方ですけど、何でもいいから新作を出したかった。でも必然性とか、価値観を感じるものを発表しなければいけないと思ったんですよ。
当時、紙パルプが高騰していて、全世界的にダブルジャケットの禁止令が出ていた。まだアナログ時代。で、このままダブルジャケットがなくなっちゃうのかという心配があった。これが僕にとって一番大きい理由でした。ダブルジャケットのレコードは売れないに決まってると思ってたけれど、どこかで美学がないとイヤだった。僕にとってはダブルジャケは美学。それは前から思っていたんです。
当時、アナログ盤はA面、B面合わせても45分くらいしか収録できなかった。達郎さんのライブは2時間以上あるに決まってるわけですから、編集しても1枚に収録できない。だから2枚にしてダブルジャケットにしたいと、会社と達郎さんを説得したんです。
ダブルジャケットだけでもカッコよかったんです、当時は。イエスサンタナのジャケットが素敵だったという記憶はあります。だから一度やってみたいと。ライヴだったら、レコーディングも1週間で終わる。編集作業は時間がかかるとしても、リハから演奏までコンパクトですむ。当時はそんなに直しもないし、達郎さんのバックは上手いミュージシャンたち、そんな色々なファクターがあってSPACYからPOPPIN’ TIMEに行ったと思います。でも、キーワードはダブルジャケットw 他の人がやれないことをやろう、かっこいいだろう、と。
どんなライヴにするかは、達郎さんにお任せですね。録音当日の六本木PIT INNのステージはすごかった。緊張感と演奏力と。お客の興奮で酸欠が出たくらいですから。本当にチケットがびっくりするくらい取れなくて。ライヴに関しては素晴らしいものがある。ただライヴだけではペイしない、このメンバー、超高い。でもいい意味での一流のメンバーならではの緊張感っていうのがありました。 
   
<日本でどうしてもアルバム・アーティストを育成してみたい>
僕は出来上がったものの感想は言わないんです、全く。聴かないですもん。このライヴもコア層に向けて。ラジオ局の人たちに聴かせながら、全国駆け回りました。だって演奏はすごいに決まってるじゃないですか。びっくりするようなメンバーが、コーラスを含めてやってくれて、こんなライヴが出来るの?って。でもそのライヴは、全国津々浦々ではお聴かせ出来ない。だからひたすら、ほらすごいでしょプロモーションでした。
でも、そこからシングルヒットが生まれるとも思っていない。とにかくコアをきちんと固めて、積み上げるってことでは、SPACYからPOPPIN’ TIMEという流れは、地味だったけど一貫性があったとは思いますね。2枚組については、だってライヴだから必然性があると、何となく会社を説得した記憶がありますね。でも、たぶんSPACYよりも売れないだろうな、とは思いました。
ヒット曲がない人はライヴ・アルバムは出せない、そんな慣例のようなことは考えなかったです。ミュージシャン山下達郎はライヴ・アーティストとしてもこれだけ素晴らしい、それを一貫してコアなファンに対してアピールする、大売れすることは本当に思ってなかったので、アルバム・アーティストとして、長く出来る人が憧れだったんです。
それは22、3歳の時に初めてアメリカに行った時に、グリニッジ・ヴィレッジのライブハウスに行くと、みんなコンサートできるんですよ。日本の当時の歌謡曲の歌手たちは、シングルヒット1曲で勝負していて、持ち歌があまり無かった。だからアルバムデビューって言葉は、70年代初頭の日本には無かったんです。
だから、日本でどうしてもアルバム・アーティストを育成してみたいと思ったんです。だからシングルがなければ売れないっていうのも、やってから言い出したことで、日本のロックを始める時には、シングルの価値なんて考えて無かったんですよ。
でも、アルバム・デビューするってことはコンサートができるということなんですね。コンサートができる人は、少なくとも15曲は演奏しなくちゃいけないですから。でも、歌謡曲の人たちは、シングルが当たってからアルバムを出す、という流れ。僕は別に、歌謡曲の逆をやってたわけじゃなくて、限りなく欧米のミュージシャンに近いものを出したかったんですね。その部分で達郎さんは、CIRCUS TOWNからSPACY、そしてPOPPIN’ TIMEと、ひとつもズレてないんですよ。
ただ、欲が出てきた僕は、どうしてもシングルヒットが欲しくなりました。それまでは、あまりシングルヒットにこだわってないんです。でもGO AHEAD!の時に、これはアイドルだって歌える曲だなって思ったんですよ、特に「BOMBER」は。だから、GO AHEAD!で見えたんです。これで当たると。「BOMBER」はCIRCUS TOWNのA面の派手さがあったんじゃないですかね。僕はステジオで聴いて、「来たー!いけたな」って感じでした。
    
<GO AHEAD!が色んな意味で分岐点だったかもしれないですね>
僕は時々スタジオに遊びに行くんです。ずっとスタジオには居ないディレクターでしたから。どういうものやってるのかな、と。だって、僕はレコーディング前にデモテープ聴かせてもらったことないですから。だからスタジオに行って、僕の表現力で言うと、地味だなあとか、おお来てるなとか、いい感じじゃん、とか。それをチェックしに行って、応援する感じでしたね。「BOMBER」とかは「来たぞー!」って感じでした。
渋谷公会堂で初めてコンサートをやったのもその時期で、これで勝負できると思ったんでしょうね。ソーゴー東京に行って「山下達郎というのがいて」って説明したら(後に社長になる)黒田さんは音も聴かないで「どこでやりたいんだ?」と。出まかせに「渋谷公会堂」って答えたら、「12月20日か26日に空いてるからやれ」「はい、わかりました」って。
それを達郎さんに言ったら怒られて。「渋谷公会堂なんか満杯にできるはずないじゃん」「大丈夫だよ、やんなきゃ。だってもう受けちゃったんだから。断れないよ」「ふざけないでよ、人に相談もしないで。ライヴは俺のもんだんだよ。なんで勝手なことするんだよ」って、結構怒っていた記憶があります。でも僕は「しょうがないよ。だってブッキングしちゃったんだもん。やるっきゃないよ」って、そんなやりとりしましたね。だからGO AHEAD!が色んな意味で分岐点だったのかもしれませんね。
渋谷公会堂はもちろんソールドアウトにはなっていなかった。開演前に達郎さんと、緞帳をそっと開けて見たんですよ。足が震えた。でも2階までお客さん入っていたんですよ。やったー!すげーって思ったことを今でも鮮明に覚えてます。ああ、来るぞ、って感じですね。ヒット曲が出るぞ、というのではなくて、時代に向かってヒットする可能性があるな、って感じたんですね。だからGO AHEAD!まではミュージシャン山下達郎の形成時期ですね。渋く3万〜5万売れてれば良い。でも達郎さんの場合は、スタジオ時間が長かったんです。
スタジオ代やミュージシャンのギャラが一番高い時代で、僕の記憶では、当時の原盤はフジパシフィックさんが持ってましたけど、それが回収できなかったんですよね。レコード会社的には大丈夫だったんですけど、フジパシフィックさんからすると、多分何万枚か売らないと採算が取れない。だからGO AHEAD!までは回収できてないと思います。だからと言って、フジパシフィックさんからは一言も文句言われたことはないですが。
僕が達郎さんにいつも数字についての小言を言ってたから、彼もそれは気にしていたかもしれないですね。リクープ(費用回収)できて初めて、フジパシフィックさんに投資してくれてありがとうと言えるけど。投資してもらっても俺たちは返してない、というような話はしてたかもしれない。
でも、だからといって、スタジオ時間短くしてください、ということはない。とことんやればいい。でも、作品が売れないと、投資家たちには失礼なことになる。それとも時間を短縮、バジェットを圧縮したりして自分の場所を守っていくか。どっちの選択をするのも達郎さんの決断だから、というメッセージをしてたんでしょう。
でも、ミュージシャンとしてすごいという評価は確実にあった、それは一作目から。SPACYも地味だと言われてるけど、アレンジを全部自分でやっちゃって、CIRCUS TOWNから1年も経ってないのに。この人、言えば何でも出来ちゃうかもしれない、ってことですよね。
正直に言うとPOPPIN’ TIMEまでは、この人はヒットを出せないんだなって思ってました。素晴らしいミュージシャンとして、5万枚をキープできるような人だろうって。圧倒的に、コアなファンにはウケるのは分かってました。だけどGO AHEAD!のスタジオに入った時に、いけちゃうかも、って思ったんです。GO AHEAD!が、僕をも変えてくれた。欲が出た。
      
<一番大切なのは、アーティストとアーティストたちが作ったサウンドなんですよ>
やっぱり自分がやってるアーティストが、プロモーションが悪かったから売れなかった、って言われたくないじゃないですか。元はと言えば、達郎さんと出会ったのだって、たまたま日本のロックをやりたいと思って、会いに行ったのが牧村憲一さんで、牧村さんがシュガー・ベイブのライヴに呼んでくれた。それを見て、良いと思って、何とかしたいと思った。そしたら宿題が出来たんで、それをやれば次に進めると。それがうまく進んだ。
でも色々やるんですけど、一番大切なのは、アーティストとアーティストたちが作ったサウンドなんですよ。作品が悪かったら、売れるはずがないんです。
ただ、作品が良いのに売れ損なうっていうこともある。その時に僕らは嫌だなって思う。作品が悪かったら、言い逃れというか、言い訳はいくらでもできる。だって、あれで売れるはずないでしょ、て。評論家の人だって、いくらでも言えちゃう。でも、作品が良いと自分たちが感じたのに、一般の人に届かなかったときに、何か罪の意識を感じるんです。少なくとも次の場所へ運ばなきゃ、と思いますよね。もう3歩先とか5歩先。でも、次の場所にたどり着くと、次の目的の地図が見えてくるわけですよ。果てしないけれど、それをやってたら良い作品に巡り会えて、結局当たるわけですよ。だから、例えば同じボリュームで、同じ条件でタイアップしたって、ヒットする楽曲とヒットしない楽曲とかありますから。結局、最後は曲の力なんですよ。アーティストのキャラクターによって、どうバックアップしていくかが見えてくる。十人十色だと思う。もちろんテレビの主題歌を取れたら幸せだし、大きなコマーシャルタイアップが取れたら、ヒットへの近道というのは変わらないけれど。でも、やっぱりアーティストによって、それぞれ違うんじゃないですかね。
     
<僕の仕事は作り手に対するリスペクトから始まってるんですね>
僕の場合はクリエイティブじゃなくてマーケティング的で、どうしたらこのアルバム、このミュージシャンを数多くの人に知ってもらえるか、それをビジネスとして成立させるか、っていうのがテーマですよね。それがカラオケ時代だったら、カラオケを中心とした戦略を考えるだろうし、インターネットになればインターネットの戦略を考えざるを得ないし。だからその時代に、どうやったら多くの人に届けられるか。でも、それだけじゃ売れない。すべては作品力とアーティストの力です。
達郎さんで言えば、作品力とグレードに関してはこの人はいくなと。でも多分ヒットはないな、と思いました。達郎さんはヒットを避けて通る道を、選んでたような気がします。彼は一般の人と勝負していない。自分の仲間と、ミュージシャンに対してメッセージを送り続けている、と僕は感じてた。だから難しかった。POPPIN’ TIMEまでは僕から見ると、同世代とか、先輩の日本のミュージシャンたちに対する戦いだったんじゃないか、って感じがします。その時には売れないなと。でもすごい人だから、いろんなスキルは磨いたほうがいいし、経験したほうがいいし、っていうスタンスでしたね。
その時点で、達郎さんは30歳を過ぎて食っていけるミュージシャンなんて思っていませんでした。僕だってディレクターをいくつまで出来るか、なんて考えたことないし。でも達郎さんは30歳を超えても、アレンジャーとしてはやれるかな、って。ヒット曲を書く人ではなかったから、作曲家として生きていけるとは思わなかった。まずアレンジャー。あとはプロデューサー。でも当時は印税が取れるプロデューサーはいなかったから、会社に入ってくれたら、良いディレクターやプロデューサーになってくれるだろうなと思ってました。
会社員ですから、当然人事異動はあります。人事異動、僕はいつも悩んでましたよ。半年に一回、人事異動が出るたびにドキドキして。その理由はヒット曲が出ないから、いつでも移動させられるというのと、俺って洋楽もできそうだし、宣伝マンなんか向いてそうだな、そんなうぬぼれもあって、宣伝部に行かされるんじゃないかって、それが怖かったんですよ。
宣伝部は嫌じゃないんだけど、僕がレコード会社に入りたかったのは、自分がミュージシャンをやってたときのトラウマがあって、アーティストを育てられなかったら、そのトラウマが消えないんです。宣伝マンじゃダメなんです。作るってことなんですよね、売るだけじゃなくて。だから(僕の仕事は)作り手に対するリスペクトから始まってるんです。
ミュージシャンの時に馬飼野康二さんが曲を書いて、僕が詩を書いて、みんなで演奏して、ディレクターのところにもっていくと「バンドマンがどうして曲書いてるの? ふざけないでくれ」って。歌手として契約したんだから曲なんか書く必要ないって。それでもレコード会社の言いなりになって、一生懸命頑張った。でも、それが天国行きの切符だったはずなのに、地獄行きだった。売れない、プライドは傷つく。キャバレー周りしてカッコ悪い。
そういう紆余曲折を経て、27歳で初めて制作マンになるわけですから、制作としてアーティストたちの出口を作れなければ、自分は人間としての価値を損なうかも、というトラウマを背負ってたんでしょうね。だから制作でアーティストの出口を作ってあげたいと。
会社という機構の中に、新しい風を起こすことが自分のテーマだったんでしょう。自分が現役の時に散々だったから、ミュージシャンの言うことを少しでも聞いてあげられる、そんなディレクターが一人や二人いても良いじゃないか、と思ったからなったんで、達郎さんをどうするかって問題よりも、僕の価値観がどこにあるかって、ことだったんでしょうね。
背負ったトラウマは十分消えました。十分消えたけど、本当にヒット曲を出すのは大変で。そしてスター・アーティストを育成するのは至難の業で、これは運命とも言えるくらい大変なことです。
【外伝8 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第22回 77年〜78年、IT’S A POPPIN’ TIMEへ

<シングル盤「PAPER DOLL」がボツになってるんだ>
SPACYからIT’S A POPPIN’ TIMEへの時期は、あまり自分の仕事をしてないかな。「PAPER DOLL」のレコーディングを77年10月にやっているね。他の仕事で特徴的なところでは、77年6月頃だったと思うけど、マザー・グースのプロデュースかな。その他にも、スタジオでコーラスものはけっこうやっている。あとはCMもね。
ライヴはまあまあ。あと、大滝さんのレコーディングでシリアポール。10月に中原理恵に2曲書いてるね。10月27日まで書いていて、28日にレコーディングしている。ようやく曲のオファーが少しづつくるようになった、という感じかな。でも、まだ散発的だね。
77年7月31日、下北沢ロフトで「スペシャル・ジャム」、これは山岸(潤史)に声掛けられたやつ(同所で7、9、11、12月と5回開催)。キーボードは緒方泰男で、彼は僕が美奈子のバックをやっていた時代の知り合い。ドラムは最初はユカリだったけど、その後、りりィの旦那の西(哲也)さんとか、ジョニー吉長とか。そういう人たちとやっていた。確かにセッション・ライヴは意外とやってたね。
で、「PAPER DOLL」のレコーディングだけど、小杉さんがシングル盤を出そうって言うんで、10月26日にモウリ・スタジオで「PAPER DOLL」と「2000トンの雨」の2曲を録ったんだ。坂本くん、ユカリ、田中章弘というメンバーで。
ところがレコード会社の会議で落とされたんだ。昔は編成会議っていうのがあって、制作部長の元で、演歌からロックからクラッシックまで、全ての制作ディレクターが集まって、試聴するの。ああだこうだ言って、これは出しましょう、これはダメとか。それで「PAPER DOLL」は見事にボツになった。それがGO AHEAD!に入ってる「PAPER DOLL」と「2000トンの雨」なんだよ。
この時期が、僕自身の活動にとっては一番底の時代だね。でも、生活のためにCMはけっこうやってた。IT’S A POPPIN TIMEの最後に入ってる「Marie(マリー)」って曲は、資生堂のCMでね。一人多重コーラス。あの頃は自分でドラムを叩いていたのも多いんだよ。セブラ・パスカラー(文具)なんてのがあって、15秒だったから、寺尾(次郎)だけベースで呼んで、あとは全部一人多重。
   
<僕が人をプロデュースした初作品がマザー・グース
77年で一番印象的な仕事が、マザー・グースだね。初めてプロデュースのオファーをもらって、やった仕事だったから。マザー・グースは金沢の女の子3人組で、東芝のエクスプレス・レーベルからそれまでに2枚のアルバムが出ていた。アルバムは吉川忠英さんとラストショウが手掛けていたんだけど、僕のいた音楽出版社のスタッフから、僕のプロデュースでシングルを1枚作って欲しいとオファーがあったんだ。
インディアン・サマー」というファーストアルバムに入っている「貿易風にさらされて」という曲を出版社が気に入ってて、それと「パノラマ・ハウス」というセカンドに入っている「マリン・ブルー」という曲とのカップリングでプロデュース・アレンジしてくれないか、って。確かセカンドは、ユーミンがジャケットを描いていた。で、林立夫と細野さん、鈴木茂、それと坂本くんでレコーディングした。なので元のアルバムのテイクとは全然違う。
マザー・グースは高校の同級生で作ったグループで、リード・ヴォーカルの子が書く曲が、とてもセンス良かったんだよね。本人たちの作詞、作曲。すごくソフィスケートされた曲なの。だからアルバムのフォークっぽいアレンジよりも、もうちょっとモダンな方がいいんじゃないかと思って、フィフス・アヴェニュー・バンドみたいな感じを狙った。A面はコンボ指向のアレンジで、彼女たちがライブでやってる、コーラスのハーモナイズをフィーチャーするのが最善だと思ったので、そのままのコーラス・アレンジでオケに乗せた。B面の「マリン・ブルー」はストリングスの入った、もう少し広がりのあるアレンジなんだけど、本人たちはステージではギター2本とヴォーカルで歌ってて、間奏でメンバーがハーモニカを吹くんだよね。そういう部分も活かそうと思って、間奏にそのままハーモニカをフィーチャーしている。このシングル・ヴァージョンはマザー・グースのアルバムが紙ジャケ再発されたときに、ボーナストラックとして入っている。
これが、僕が人をプロデュースした史上初の作品なんだ。まあプロデュースといっても、あの頃の話だからアレンジャーに毛が生えた、名前だけのものだけどね。印税なんてもちろんなかったし、なんちゃってプロデューサーだね。このプロデュースでは、僕にシュガー・ベイブみたいな音を求めてたんだろうね。マザー・グースの子もシュガー・ベイブを金沢で観てたらしいから。マザー・グースのシングルの予算は知らないな。でも、リズムをモウリ・スタジオで1日で2曲録って、ストリングスを1曲分録って、歌入れはフリーダム・スタジオでやって、それで終わり。でも彼女たちにとっては、自分達がステージでやっているままの歌い方で歌えたから、すごく嬉しかったって言ってた。そういう僕のやり方は、今も変わらないからね。
マザー・グースみたいなグループものは、なるべくその子たちがやってるそのままの形を生かして、そこに何を乗せるかっていう考え方でやるのが、一番いい出来になるんだ。僕はバンド上がりだからね。シュガー・ベイブ時代には、とにかく自分でアレンジをやるしかなかったおかげで、アレンジの基礎の勉強が出来たのと、その後はチャーリー・カレロとの出会いだね。それが合わさってる。自分でモノを作る人間が、外部から不必要にああしろ、こうしろと指図されると、意欲が減退しちゃうからね。プロデュースっていうのは実は難しくってね。こちらがどんなに一生懸命やってあげても、相手は「オレは好きな事をやれなかった」ということになったり、何もやらなくても、名前だけ貸して、プロデュースしてもらったんです、ということになったり。八方うまく収まるなんて、なかなかないからね。
マザー・グースのシングルは全く売れなかったけど、いい出来の作品だよ。彼女たちが喜ぶように作れたからね。オケのゴージャスさとか、そういうのもちゃんと作れたし、録音もいいし。それはCMで培ったノウハウなの。結局、編曲のノウハウって場数だからさ。でも、本当の専門はコーラスだったから、コーラスグループをやらせてもらえば、細かいところのボイシングをちょっと直すだけで、すごく良くなるし。そうするとキレイ!とかって喜ぶし。性格もいい子たちだったから。これは実働3日、ごく低予算。でも有意義だったよ。自分のやりたいようにやらせてもらったし、音楽出版社もそれなりに仕事を世話してやろうというか、そういう感じはあったんだろうね。
78年になると、毎月一定の給料を出す代わりに、毎月3本のCMをこなすっていう契約形態になるのね。76年から契約していた音楽出版社とは78年頃に契約更改になるんだけど、この前言ったように、その時には契約を解除しようかというのがあって、それを小杉さんが止めて、続行という話になったんだ。
その出版社からは、昔から作家契約をしろって言われてたんだけど、それは絶対に嫌だった。自由度が縛られちゃうからね。それでまあ、その代わりにCMで給料みたいな形で、それまでの出版社と契約続行になったんだ。
     
<自分がコーラス・アレンジを出来ない仕事はやらなかった>
77年5月にSPACYを出してから、自分のことはしばらく何もやらなくなるんだよね。夏から秋にかけては人とのセッションばかりだね。CMもそれほど多くないし。精神状態はあまり良くなかったね。この頃は経済的に困窮したという記憶は全然ないから、多分それなりに生活は成り立っていたんだとは思うけどね。スタジオ・ミュージシャンっていうか、コーラスは結構やってた記憶があるなあ。
山岸潤史の「ギターワークショップ」もこの年だし、あとは石川セリ太田裕美、ミッキー・カーティスのポーカー・フェイス、アグネス・ラムとか、コーラス仕事は結構やってるね。
あの時代、基本的には自分がコーラス・アレンジを出来ない仕事はやらなかった。他人の譜面でやったのは、78年に岸田智史をやった時くらいだね。行ったら譜面があってね。インペグ屋(ミュージシャン仕出し)に騙されたw 
あとは太田裕美のコーラスを筒美京平さんのご指名で「書き譜でもいいか?」って聞いてきたから「京平さんならいい」って。譜面を渡されて「あなたたちには、あなたたちの音楽があると思うけど、まぁこういうのも世の中にはある、と思ってやってよ」って言われてね。
いろんな人に曲を書いているのは、作曲してデモテープ作れ、っていつも言われていて、何曲か書いたから。そういうのを出版社がどこかに売り込みに行って、何曲かレコード化されたの、知らないうちに。ピアノとリズム・ボックスだけで、ラララって歌ってるデモテープを作らされて。そういうのが何曲もあったの。雑多な仕事はたくさんしてたな。手帳を見ると、78年の7月ごろまでは自分でスケジュールを書いてたんだけど、そこからパタッと書かなくなるんだよね。ここで事務所が出来たんだね。
77年には事務所がなくて、78年に入って、最初は細野さん、美奈子、僕で事務所を立ち上げたんだけど、うまくいかなくて、その後、今度は小坂忠さんの元マネージャーをやってた人間とかを2人雇って、事務所を作った。それは78年12月にスマイルカンパニーを作るまで続けていた。だから半年位かな。ほんの一瞬だね。でも、クールスのレコーディングなんかはその時のスタッフが持ってきた仕事だし、コカ・コーラもそうだった。
   
<自分としては普通のライヴは嫌だったのね>
六本木ピットインで初めて演奏したのは、IT‘S A POPPIN’ TIME(78年5月発売)のレコーディングの時が初めてだよ。というか、僕がやるまでは、ロック系の歌手はあそこでは誰もやったことがなかった。すべてジャズだったから。あれが六本木ピットインで初めてのシンガー・ソングライターのライヴだったんだ。
あそこでやった一番の理由は、同じビルの上にあるソニーのスタジオとラインがつながってた、それが一番重要だったのね。ピットインでやろうと言ったのは僕。小杉さんがライヴアルバムを録ろうって言うんで、それなら六本木ピットインはどうだろうと。小杉さんがライヴアルバムのプランを言い出したのは「PAPER DOLL」を録った後かな。アルバムの予算が出なかったから。でもライヴだったら1日で録れちゃうからね。だからそれでいこうと考えたんだね。
要するにSPACYの売れ行きがレコード会社の予想を大幅に下回ったんで、僕もブツクサ文句ばっかり言われるのもしゃくだから。それで77年の終わりから78年のアタマにかけてどうするか、ってことで、小杉さんは「もっと作ろうよ、作品を」って、シングルで「PAPER DOLL」をレコーディングしたら、ボツられた。じゃあライヴ・レコーディングで行こうって。77年は比較的ライヴやってたから、抵抗は無かった。メンバーがみんな上手いからね、なんと言っても。所属の音楽出版社も、予算がかけられないから、しょうがないだろうと。
でも、自分としては普通のライヴは嫌だったのね。まだ曲数もそんなにないし。だから1曲目はスタジオ・レコーディングで、一番最後はアカペラで。で、A面は新曲のライヴなんだ。それなりに考えてるんだよ。でも、会社としては1枚ものだと思ってたらしい。それが2枚組になっちゃったんで、それでまたガクっとね。僕は当然2枚組だと思ってたよ。だって「エスケイプ」なんて曲は、あのメンバーでやるんだったら、インプロビゼーションを入れないと面白くないから。それとあの当時はオイルショックの直後で、見開きのダブル・ジャケットが禁止の時代だったから、2枚組にすればそれが出来るから、豪華なものが作れるという狙いがあった。
ライヴ盤のイメージとしてはカーティス・メイフィールドとかダニー・ハサウェイのライヴ盤みたいな感じでやろうと。ピットインでやると言った時から、カーティス・メイフィールドダニー・ハサウェイの、トルバドールとかビターエンドあたりの雰囲気でやりたいと。
2枚組については、小杉さんも見開きジャケというのが目論見だったから。でもレコード会社は焦ったんだよ。だけどしょうがないじゃない。1枚組だったら4曲入りだよ。ライヴ盤で、それではね。だから構成は良く出来てるの。A面は新曲で、B面は既成の曲で、C面は長い曲で、D面は「サーカス・タウン」で終わって、最後にアカペラ。そういうある程度の計画はあったの。早い段階で。
まだソロ3枚目だしアイデアはいくらでもあるから。ライヴ作るんだったらああいう感じにしようって。「スペイス・クラッシュ」のスタジオ予算の確保ができていたか? それは知らないw
  
<ライヴが終わってから、スタジオ録音の曲を入れたいって思った>
不思議なことに、僕はここまで一度もシングルを切ってないわけ。CIRCUS TOWNでは「WINDY LADY」を切ると言って、結局切らなかった。多分、当時の世情で考えたら、「WINDY LADY」なんかシングルで切ったって、売れるわけがないと会社は思ったんだろうね。だって桑名くんはシングル出てるもの。僕はとにかくGO AHEAD!まで1枚も切らなかったということは、小杉さんは切りたかったかもしれないけど、小杉さんもやっぱり派手志向の人だから、ちょっと渋すぎると思ったんだろうね。
だけどSPACYは全然売れなかったんだけど、「プレイヤー」とかそういう音楽雑誌では、評判が良かったアルバムなの。ヤクルトホールのライヴで、あんなに人が来るなんて、小杉さんは全く想像してなかったから、それでライヴ・アルバムだったのかもしれねいね。今考えると。その後のライヴ動員も良かったし、小杉さんもそういうのを見てたから。それかな。
まあ動員力といっても1,000未満だもの。もっとも今(08年)は逆にアルバムが50万枚売れても、動員が苦しいっていう人もいるしね。ライヴハウスしか入らないという人もいるし。時代かなあ。でも、自分としてはそんなものだと思ってたんだよね。
例えば今の時代尺度から見れば、ライヴの構築パターンとか、セオリーとか、まだそんなに習熟してない時代だから、それほど明確な価値観もなかったけど、シュガー・ベイブの経験から40分じゃ自分のやりたいことは完結できないと思ってた。
だから野音で40分やっても全然消化不良で、物が飛んで来て終わりだけど、下北沢ロフトで2時間やって15曲全部並べれば、そこではお客が納得した。そういうライヴの流れ方を自分なりに見せる場合には、ある程度の時間が必要だと考えてた。あとは音のバリエーションね。それは自分の「売り」だと思ったから。シュガー・ベイブのライヴでも途中でラスカルズの曲をやったり、そういう遊びっていうか、そういうサウンドの変化づけが、ター坊もいたし、色々あるでしょ。だからサウンドの引き出しがたくさんあるというのは、実は重要なことで。
だから、ヤクルトホールのSPACY発売コンサート(77年5月)の時に、もう「三ツ矢サイダー’76」をやって、すごくウケたし。それから、ビーチ・ボーイズのGOD ONLY KNOWSもやってるんだね。それもけっこうウケた。そういうものは、シュガー・ベイブ時代のライヴから培ってきたものがあるから。シュガーベイブの時なんてボビー・ダーリンが死んだら「ドリーム・ラヴァー」を演るとか、そんな事ばっかりやってたから、そういうバリエーションが、自分のライヴには必要だと思ってた。だからIT’S A POPPIN’ TIMEには入ってないけど、ピットインのステージでも途中で弾き語りとかやってるしね。
そういうことで、レコードもバリエーションが無いとダメだから、ライヴだけじゃイヤだと思って。1曲目はスタジオレコーディングの「スペイス・クラッシュ」にした。実は実際のステージ1曲目は「LOVE SPACE」で、アルバムもあれで始めても良かったんだけど、あの頃はとにかくひと月に一回くらいしかライヴやってないから、声が出てないの。シュガー・ベイブから2年経ってるでしょ、思うようにハイトーンが伸びない、だから「LOVE SPACE」の出来が非常に不満でね。それで考えたのが、あの1曲目だったの。だからそれは、ライヴが終わってから考えた。アルバム1曲目はスタジオ・レコーディングを入れたいって。最後はアカペラにしようっていうのは、最初から決めてたんだけど。最初に持ってくる曲は「LOVE SPACE」しかないけど、それもちょっと弱い。
だから「スペイス・クラッシュ」から始めて、2曲目が「雨の女王」。それだったらライヴとはいえ、新曲ばかりのA面になるから、新鮮だし、良い感じだと思ったんだよ。
           
※以下、IT’S A POPPIN’ TIME、78年5月発売当時の販促パンフ用コメント。
上記インタビュー内容と比較すると、本音とのギャップが垣間見える、、、
「僕のアルバムもやっと3枚目になりました。今回はライブ・レコーディングを中心とした、しかも2枚組という大変な(?)ものになってしまいました。本来、僕にはライブ・アルバムという発想も、ましてや余程のことがない限り、2枚組などという恐ろしい(??)考えなどあるはずがなく、事の成り行きというものは、誠に不思議だと言わざるを得ません。
当初僕が考えていたのは、「一発録り」でアルバムを作ることでした。すなわち、現在普通のレコーディングで行われている、リズム・セクション、次にもろもろの装飾的楽器(例えばパーカッション)、ストリングスにブラス、コーラス、そして最後に歌を録音するといったやり方ではなく、リズム・セクションとコーラスと自分の歌を同時に録音し、それだけでいっちょうあがり、というアルバムを作りたかったのです。このことに関して理由はいろいろあり、詳しくは述べませんが、早い話が”Circus Town”, ”Spacy”と続いて、また少し違うことをやりたかったと言う、いつものへそまがり根性からだと思ってください。
そんなわけで初めはスタジオでレコーディングをする予定だったのですが、誰かが、それならいっそのこと、観客を呼んでスタジオ・ライブにすればいいじゃないか、と言い出し、今度は他の誰かが、ライブをやるんだったらコンサートホールがいい、と言い、それじゃあ全部平行して打診してみて、一番やりやすい方法でやってみようということになり、最終的に六本木ピット・インでのライブ・レコーディングという結論に達するまでには、結構時間がかかってしまいました。このようなわけで、今回のアルバムは一般のライブ・アルバムとは少々違ったニュアンスを含んでいると言えます。
普通日本で制作されるライブ・アルバムは、アーティストのエンターテイメント、すなわちステージでの躍動や観客の熱狂(ちょっと大げさかな?)、レコードで出せない感じを求めるために作られます。もっとひどいときには、いわゆる枚数消化のために作られる場合すらあります。
僕の今回のアルバムは、先ほど述べたような理由で、それらのどれにも当てはまりません。もちろんライブですから、来ていただいた人たちが満足できるような努力はしていますが、まず第一に違うのは、未発表曲に重点を置いたことです。前にも述べたように初めこのアルバムは1枚ものとして企画されました。僕はそれをほとんど新曲で固めるつもりでした。正確に申しますと新曲が6曲、今までのアルバムに入っている曲が2曲、そしてスタジオ録音が1曲、計9曲入りのアルバムにしようというのが当初の予定だったのです。
ところが全部終わって聞いてみると演奏時間が予定を大幅にオーバーして(まさか本番の時にストップウォッチで測るわけにはいきませんから)、とても9曲では入らないことがわかりました。色々と相談した結果、予定に入っていない曲の中にも出来の良いものがたくさんあったこともあって、2枚組にしようじゃないか、ということになった次第なのです。
ですからこのアルバムは、全14曲中9曲が新曲です。うち1曲はアメリカの曲ですが。トラック・ダウンにあたっては、拍手その他をできるだけ抑える方針をとっています。たとえライブでも、レコードはレコードとして成立させなければならない、というのが僕の考え方です。「ライブのためのレコード」ではなく「レコードのためのライブ」でなければならないと思うからです。コンサートの現場では視覚的な部分も大きな比重を占めています(あまり視覚的な部分の自信は無いですが?!)。しかし、レコードを作る作業にまで、それを持ち込んでは、至極自己満足的なものしかできません。したがって、曲によってはフェイドアウトしているものもありますし、1曲だけ歌を録り直しました。
さて、僕のライブパフォーマンスについて少し触れておきましょう。今回のアルバムでバックを務めてくれているミュージシャンたちは、ここ1年ほどずっと付き合ってもらっています。彼らは皆様よくご存知の、日本でも有数のセッションマンたちですが、彼らとステージをやるときは、あまり色々と約束事をせずに、できるだけ楽に演奏してもらうことにしています。そうした方が、彼ら一人ひとりの特色が自然に出てくると考えたからで、僕個人としては非常に満足した結果が得られています。したがって僕のステージは比較的地味な(渋い!)、統一された色彩になりました。このアルバムのB面を貫いている感じが、僕のこのメンバーとのひとつの成果だと思っています。特に”Windy Lady”に関してひと言申し添えれば、この曲はシュガー・ベイブ時代からのレパートリーですが、このメンバーで演奏されているヴァージョンが、最も僕の考えに近いものなのです!
最後にもうひと言。アルバムの最初と最後に2曲のスタジオ録音が収めてあります。最後の曲は昨年の夏に、資生堂のCMで使われたもので、アカペラ、つまり無伴奏のコーラスであり、自分一人でダビングしたものです。これらの2曲は次の、ひょっとするとその次になるかもしれませんが、きたるべき僕の意欲作(自分で言ってるから世話はない)の予告編だと思ってください。内容はーーーそれはできてからの御楽しみ。」
【第22回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第21回 スペイシー(1977年5月25日発売)

<次を作りたいって思ったこと、80年くらいまではあまり無いんだ>
1977年のアタマは1、2月が(吉田)美奈子の「トワイライト・ゾーン」で、それが終わって大滝さんのストリングス・アレンジ、たぶんシリア・ポールだったと思うけど、それをやって、その後にSPACYだから、割と忙しいことは忙しい。
あの頃は、自分の作品がそんなに売れてたわけじゃ無いから、僕みたいに副業で食べてる人は、けっこう居たと思うよ。それでこの時代あたりから、シンガー・ソングライターとスタジオ・ミュージシャンの棲み分けは、大きくなっていったような気はするね。
まだ実家に住んでたからね、練馬の。あの時代、23〜24歳の頃はスタジオにはしょっちゅう遅刻するし、ほんといい加減だったw まあ僕に限らずツアーが嫌で、東京駅に来なかったなんていう人の話もあったし。だけど僕の場合は不思議なことに、CMの時は絶対に遅れなかった。他人の仕事だとちゃんと行くし、大丈夫なんだけど、自分の仕事だとダメなのw
責任のあり方って言うかな。ファーストアルバムを作ったから、次はセカンド、という前進思考もあまりなかったしね。次を作りたいって思ったこと、実は80年くらいまでは、あまり無いんだ。ON THE STREET CORNERのあたりからかな。RIDE ON TIMEがヒットして、これでア・カペラが作れると思ったから。GO AHEAD!なんて、小杉さんにお尻叩かれて、ようやく作ったアルバムだものね。
あの頃は契約していた音楽出版社をやめたかったりとかもあって、なおさらだった。他の出版社から誘いが来てて、そっちへ行こうかなって思っててね。そういう人に言えないような細かい事情が、色々あったんですよ。まだ20代の小僧だからね。もっとも事情という点では今(2008年)だって色々あるけどw
小杉さんはとにかく行動力のある人だから。それに彼とは話のウマがよく合ったんだ。小杉さんのことを何も知らない人だと、しばしば本当にアバウトに見えるところがあって。確かに実際アバウトなところも多いんだけどw でも、すごく誠意のある人なんだ。NYとロスでCIRCUS TOWNを作った時も、えらくブロークンな英語なんだけど、物事を仕切っていく感じがすごかった。NOをちゃんと「NO」と表明できる力。何でもないことのようだけど、それが誰でもできそうで、実はできない。そういうところはたいしたもんだと思ってた。
小杉さんは元々サッカーの選手になりたくて、高校に推薦で入ったんだけど、サッカー部は坊主にならなきゃいけない、っていうんでやめて、野球部に変わって、その後ブラスバンドに引き込まれて、そこからドラマーを目指して、馬飼野康二さんと一緒にGSバンドをやったんだけど全然売れなくて、20歳までに目が出なければやめろ、っていう兄貴の言いつけを守って、20歳でやめて、NYの大学に行って、途中で帰ってきて、音楽出版社に入って、でもどうしてもレコード会社のディレクターになりたくってRCAに入って、っていう人でw
初めて会った頃は、バンダナしてヒゲをたくわえてて、ダビデの星のペンダントを付けて、アルパカのジャケットに蛇皮のロンドンブーツっていうスタイルだった。もう、誰が見たってヒッピーだよねw 小杉さんのことは、最初はレコード会社のディレクターということでしか見ていかなったけど、70年代の末から、それ以上の役割になって行った。
とにかく70年代は、結果的にだけど小杉さんが常に「次、作ろう」ってしつこいくらいに要求して来たので、しょうがなく作った、っていうのが正直なところで。特にIT’S A POPPIN’ TIMEとGO AHEAD!は完全にそうだった。SPACYの時はまだ編曲のスコアを書くのが面白かったから、どんなアレンジにしようかって、それで一所懸命だった。低予算でも限られた中でどういう曲を書くか、っていうアイデアがすごくあったし。もっとも、それは売れる売れないとは、全く別だったけど。手抜きが出来ない性格だから、始まればやるけど、でも怠惰な性格だからw 始めるまでは、あまりやる気が起きなかったんだよね。
とはいえ、例えば「ソリッド・スライダー」なんかは坂本(龍一)くんとやっていて、あの長尺のソロは当時そんなもんだと思ってたけど、今から考えると、坂本くんはとても上手かったし、そういう部分では上手いミュージシャンと一緒にやれていたのは幸運だった。人にはとても恵まれていたと思うね。自分ではあまりモチベーションが上がっていなくても、そういう人たちが、結果的にいい演奏で助けてくれた。
だから「ラブ・スペイス」にしても何にしても、あのメンツであの演奏でなかったら、ああいう感じにはならなかったしね。それは計算が上手い具合にはまったというか、予想以上のものが出来たのね。
   
<だいたいは2テイクくらいでOKだった>
あの頃はスタジオ・ミュージシャンなんてのは、見知らぬ人間にはみんな無愛想だった。ティン・パン・アレイの人たちも無愛想だったけど、それ以上に(大村)憲司とか大仏(高水健司)なんて、もろ職人気質だし、空気が怖くて、とても人間関係なんて作れなかった。松木(恒秀)さんも東京人らしいベランメエな人だったから、何かというと「あいつ生意気だ、ポンタ、ヤキ入れろ」w そういう世界だった。
ポンタはそんな中で、そういうところがすごく優しい人でね。ずいぶん助けてもらったよ。SPACYのレコーディングでも、松木さんは初対面の細野さんが気に入らなくてさ、愛想が悪いって。まあ松木さんが気に入る人なんて、あまりいないんだけどw それをポンタが一生懸命とりなしてね。
細野さんのベースって、パッと見はまったりとして、地味なの。だけど、次第にじわじわとくるベースだから、あの良さが初対面の5分や10分でわかるわけもないからね。細野さんは本当に優秀なベーシストだからね。フレーズのバリエーションの豊富さといったら、驚くべきものでね。そういう部分は短時間のスタジオじゃ、なかなかわからないもの。SPACYの解説でも書いてるけど「キャンディ」のセッションの間に、あの人がピアノでコードを確認している姿を見た時には「この人は研究熱心な人だな」と思ったよ。本当の音楽家だよね。時代もそういう空気に満ちてたんだよね。
今はそういうのが希薄になってしまった。とにかくスタジオでは知らない者同士は、ほとんど口をきかない。それは今でもそうさ。ニューヨークのセッションは、フレンドリーな人とそうじゃない人が両極端だった。ミュージシャン同士も、見知った間柄と、そうでないのとでは感じが違ってたな。日本だって、いつも一緒にやってるメンバーだったら和気あいあいとしてるけど、SPACYの場合は初対面がいたからね。
何度も言うように、僕の妄想から生まれたセッションだからね。それは他人行儀だよ。みんな黙っていて、ポンタが一生懸命それをとりなすの。その上、みんな僕より年上だったしね。細野さんが6つ上でしょ。佐藤君はもっと上(実際は細野さんと同年)、松木さんが5つ上、ポンタが2つ上。僕が圧倒的に若かったんだよね。僕のひとつ年下となると美奈子、ユーミン、ター坊とか居たけどね。
若いアレンジャーもいないかな。まして歌を歌うやつが詞や曲を作ったり、編曲しても、自分で弦やブラスのスコアまで書くってのは、あまりなかったよね。今でもそんなにはいないでしょ。
テイクのOKはもちろん僕が出した。「もうワンテイクやりましょう」って。そういうところで、ぐずぐず言う人たちじゃなかったよ。だけど、大体は2テイクくらいでOKだったから。「ラヴ・スペイス」ではエンディングで細野さんが間違ってるんだけど、そんなの関係ないの、別に。グルーヴが良いんだから。本人も直すとも言わないし、誰も何も言わない。
          
<ポンタと細野さんをくっつけたらどうなるか、聴いてみたかったんだ>
SPACYの曲は割と早く出来たかなw ある程度プレイヤーを想定して。ちゃんとスコアを書いて、それでレコーディングしたから。今みたいなコード譜じゃない。すべてパート譜だった。全くCIRCUS TOWNの真似で、書き譜でキーボードの押さえ方まで書いてある。チャーリー・カレロからの学習、それを踏襲してね。
もっとも、ストリングスは完全な素人だから、いろいろああでもない、こうでもないっていうのがあったけど。吉沢さんていう指揮の方がいてね。その人がすごく親切で、ずいぶん助けてもらった。そう考えればSPACY以来丸10年、他の人に弦とブラス(のアレンジ)頼んだことがほとんどないな。書きたかったんだね、自分で。
今聴くと「アンブレラ」のストリングスとかへんてこだけど、あんなの今はできないからね。シュガー・ベイブの時代のストリングスなんて、まったくの我流でさ。そこいらで売っている参考書とかでやったんだけど、その分、結構キテレツのアイデアがあるんだよね。でも、これもありがたいことに周りの友人で、編曲の知識のある、例えば坂本くんなんかは、そういう素人芸を否定しなかったし、ずいぶんいろいろと教えてもらった。そのおかげでアバンギャルドなモノにも結構知識を持てたし。
一方の佐藤君は、もともと関西エリアのミュージシャンだったけど、鈴木茂ハックルバックあたりからティン・パン・アレイと関わりができた。僕は佐藤くんが関西で活動していた時代から、彼のピアノがすごく好きだったんだ。74年かな、シュガー・ベイブでまだ野口明彦がドラムだった時代に、新宿に「サムライ」っていうピットイン系列のライブハウスがあって、そこで2回ほどやったんだ。2回目の時に大阪から「オリジナル・ザ・ディラン」と言って、トン(林敏明)のドラム、田中(章弘)のベース、石田長生くんのギター、それに佐藤くんというリズムセクションに、西岡恭蔵さんや大塚まさじさんあたりから始まって、入道だとか、ホトケだとか、いろいろな関西ヴォーカリストが、入れ代わり立ち代わり乱入してくるって言う、一種のセッション・ユニットだったんだけど、僕はそのリズムセクションに、とてつもないカルチャーショックを受けた。特に石田くんのギターと佐藤くんのピアノには驚愕したんだ。演奏力の凄さね。一晩、悩んだもんね。
その後、佐藤くんはトンや田中とハックルバックに参加して、そこからティン・パン・アレイにも加わるんだけど、ティンパン時代の佐藤くんて、本当にカミソリみたいな演奏態度でさ。スタイルもまるでダニー・ハサウェイだったから、なんで日本人にこんなことができるんだろうって。彼は作曲、編曲にも秀でていて、美奈子のRCAでのファーストアルバムの「レインボー・シー・ライン」っていう彼の曲で、そのピアノを聴いて、いつか是非お願いしようと思ってた。口数の少ない、愛想の悪いオヤジなんだけど、上手かったもんなぁ。ユカリと同じで、自分の思い通りにしか演奏できない。人に合わせられないというか、不器用なんだけど、他の誰にも弾けないピアノなんだよ。しかもピアノは完全な独学と来てる。SPACYでは3曲弾いてもらったけど、使ったテイクは2曲だった。残りは坂本くんが2曲、彼には他にもダビングでいろいろ頼んでいる。あと残り「ダンサー」や「アンブレラ」なんかは自分で弾いてる。
佐藤くんとはこれ以降、ここぞ!と言う重要なポイントにはいつも頼んでいる。特にバラードはね。最近でも(竹内)まりやの「明日のない恋」(2007)とか、還暦越しても、全く衰えていない。あの人は、僕より歳がすごい上なので、当時はとてもミステリアスで、人を寄せ付けないオーラというか、そういうのが強かったけどね。今ではすっかり丸くなって、ドリカムのバンマスやってるw
まぁあの頃はみんな尖ってたよね。今から考えるとポンタ、松木さん、細野さん、佐藤くん、よくこのメンツでやってくれたよね。でも、まぁそれが目論見だったんだから。細野さんはエンディングとか間違えたり、全然そういう意味ではスタジオな人では無いから。もっともそんなことに限らず、誰も譜面なんかろくに見てやしないw 結局スタジオ・ミュージシャンといえども、本当に優秀な人たちなら、そんなにコテコテに譜面に書かなくとも、ある程度自由裁量を残した方が良い結果が生まれる、そういうことなんだ。で、これ以降譜面がどんどん簡単になっていくw
細野さんとも、元はあまり交流もなかったんだけど、シュガー・ベイブのマネージャーだった長門芳郎くんがティンパン(の事務所)にいたでしょ。76年初めに長門くんの結婚式で、細野さんと一緒に長崎に行ったんだよね。その時4日間くらい細野さんと一緒にいて、色々と話をして。その時も、別に思い切り打ち解ける、というほどでもなかったけど、でもまぁその辺からかな。
細野さんはどんなドラムでも大丈夫なの。だってミッチ(林立夫)とか、ユカリともできるし(高橋)幸宏でも、ポンタでも、要するに、誰でも大丈夫なんだよ。はっぴいえんど時代には松本隆さんでしょ。実はリズム・セクションではベースの方が牽引役なんだよ。ドラムとベースで一見ドラムの方が華やかでリードしてるように見えるけど、実はベースの方が重要でね、ベースがイニシアチブを握っている方が、良いリズムセクションの場合が多い。ベーシストってキャッチャーなんだよね。ピッチャーの方が派手だけど、バッテリーは優秀なキャッチャーなしには成り立たないからね。夫婦と同じで、ベースは女房役だから。細野さんはそういうところがすごいよ。ある意味日本で最高のベーシスト、世界に出したって遜色は無い。
そのうえ細野さんは楽器扱いの天才だからね。インテリな人だから、いろいろ他にも興味あるんだろう。だからYMOになるんだと思うよ。細野さんは当時の僕にとっては、かなり年上だったし、はっぴいえんどというステータスも大きかった。どんなにすごいミュージシャンでも、その人とパーマネントにやりたいかって言ったら、それは無理だなっていうのがある。だからSPACYの時に、これは千載一遇のチャンスだと思ったんだ。ポンタと細野さんをくっつけたらどうなるか、っていうのも、すごく聴いてみたかったんだ。
音楽の世界っていうのは、東京生まれか、田舎で育ったか、金持ちなのか、貧乏人なのか、中卒なのか、東大を出ているのか、階層とか階級とか、出自の違いなんて全く関係なく、そういった属性の格差より、音楽性のレベル、表現技術の力量っていうのが、もうどうしようもない格差となって立ちはだかる。
下手な人は、上手い人とはできない。一緒に演奏できる身の丈、資格っていうのが厳然とあってね。音楽での意思疎通、音の中で言いたいことが言えないと、音楽ではコミュニケーションが取れない。それでもね、悲しいことに、人間の相性っていうのはいかんともしがたくてね。同じ技量の人たちが、みんな仲良しになれるわけでもない。そこで再び属性のしがらみが顔を出す。
まぁそれはともかく、もうちょっと予算があったら、違う順列組み合わせでもできたんだろうけど。でも、ここから何年間か、そういう模索をして、いろいろ試したんだけど、結局スタジオ・ミュージシャンとやることの限界、っていうのがやっぱりIT’S A POPPIN’ TIMEあたりから出てきてね。スタジオ・ミュージシャンというのは時間単位で雇用する、短期決戦型の職業演奏家。だけど、彼らも人間なので、今僕が言ったみたいな人間のウマが合うみたいなことが必ずある。一見しがらみのない仕出し屋みたいに呼ばれてきた仕事でも、あいつは嫌いだとか、あいつとあいつは仲が悪いとか、そういうことを結局、誰が気にするかって言ったら、バンマスなわけだよね。結局長いことやって、だんだん人間関係の軋轢が出てきて、あいつを替えろ、とか始まって、そのストレスが溜まってくると、行き着く先は、自分のパーマネントバンドを持ちたい、と。
さらに何よりの最大の問題は、スタジオ・ミュージシャンは誰でも雇えるが故に、音を独占できない。つまりサウンドの個性とか、差別化が作りにくくなる。どこに行っても、誰もがポンタや岡沢(章)さんのベースでレコーディングしてるから、結局、今のマシン・ミュージックと同じことになってしまう。僕はバンド上がりだから、自分だけの音じゃないと嫌なんだ。
そこの結論に行くまでに、だいたい2年ぐらいかかってるんだよね。これらの2つの問題は自分の作品のオリジナリティーを考える上で、やがて非常に大きな問題になっていった。
      
<CIRCUS TOWNとSPACYは段取りを整えるための実験作>
ミュージシャンの技量を考える上で、CIRCUS TOWNとSPACYの時代は、実に貴重な教訓を与えてくれた。SPACY(77年4月25日発売)を出した後に野音開きのライヴに出たんだよ。
4月29日だね。その時には、知人の紹介で知り合ったドラムとベースに坂本くんのキーボード、それに僕の4人でリハーサルを始めたんだけど、練習スタジオで2日やっても、出来に全然満足出来ないの。僕はそれまでライヴでスタジオ・ミュージシャンを使おうなどとは、夢にも思ってなかった。だって、ステージのギャラがめちゃくちゃ高かったから。だけど、背に腹はかえられない。しょうがなく中野サンプラザ野口五郎だったか、あいざき進也だったかのステージをやってる大仏に会いに行って、直接交渉してスケジュールをもらった。ポンタにも同じようにして、それで再び練習スタジオでリハやったら、4曲が15分で出来ちゃった。そこで考えが変わったんだよね。これはスタジオ・ミュージシャンとかの問題ではなくて、絶対に一流を使わないとダメだと思った。CIRCUS TOWNでも同じような体験をしたけど、やっぱりミュージシャンの一流、二流って厳然としてしてあるんだと。それを予算とか時間とか、そういう問題で妥協しちゃいかん、ていうね。ソロになった1年くらいで痛感した。
だからCIRCUS TOWNとSPACYの2枚は、そういう意味では、行動的な習作というか、音楽自体よりも、それを作るためのいろいろな段取りというか、ライヴも含めてね、段取りを整えるための実験作ってことなんだね。だからコーディネーションでもって、すごくクオリティが左右されるっていう。当たり前なんだけどね。やってみて、わかることがたくさんあった。そういうことの学習として、すごく役だったんだ。
で、運が良かったのは、事務所がすごく脆弱だったこと、レコード会社も無関心だったから、そういうケアをする人が誰も居なくて、交渉を一人でやったこと。それでわかったんだよね。楽器を自分で運ぶとか、そういうことより、もっと大事なことがあるって。だからSPACY以降のライヴはスタジオ・ミュージシャンに頼むことにした。いくらギャラが高くても、結局上がりが早いし、クオリティも高いから、そっちの方が得だってことが分かって。
そこからポンタ、大仏、松木、坂本のリズムセクションで、時々ライヴをやるようになった。途中からベースが岡沢さんに代わって、その結果がIT’S A POPPIN’ TIMEになる。そういうとっかかりっていうかね。そこまで、バンドをやめてから1年ちょっとなんだね。その間に「トワイライト・ゾーン」で良い経験をして、そこで吉田(保)さんと出会って、吉田さんがエンジニアをやって、ストリングスの録音とかに関わりだして。NIAGARA MOONや「夢で逢えたら」のスコアを書いている時分は、まだそんな裏側の事なんて、何もわからなかったから。若い頃っていうのは1年、2年でスポンジみたいに。どんどんいろんなことを吸収していくからね。機材の入れ替わりも、当時は日進月歩だった。僕がCMを始めた頃は、まだ卓が4チャンネルだったけど、77年には16チャンネルで取れるようになって、すぐに24チャンネルになる。そういう進歩の時期だった。
      
<会社に戻ってマスターを渡したのが朝9時だった>
スケジュールのタイトさならCIRCUS TOWNよりもSPACYだね。だって、自分で全部作ってるんだもの。当時RCAは、渋谷の宮益坂上の朝日生命ビルというプレハブ・ビルの中にあってね。そこに第一編集室、略して「一編」と呼ばれる小さなレコーディング・スタジオがあった。既成のスタジオは、予算がなくてとても使えなかったから、レコーディングはそこでやってたのね。スタジオはいろんな人と共用だったから、集合時間は12時〜17時と、18時〜23時に分けられていた。その上、保険会社のビルだったからセキュリティーがすごく厳しくて、23時を過ぎる場合は前日に稟議書(りんぎしょ)を出さないと、使わせてくれない。だから1日5、6時間しかレコーディングができない。だから、ますますタイトになる。歌入れなんか、間に合いやしない。
ミックスダウンの最終日、つまりマスター納入の締め切り日、まだ大量に作業が残っていた。18時からミックスを始めたけど、全く間に合わなくて、深夜に既成の貸しスタジオに移って、そこで朝の3時に「朝のような夕暮れ」にシンセを入れたいって言ったら、スタッフがみんな呆れてね。だって、入れたかったんだもんw 会社に戻ってマスターを渡したのは、朝の9時だった。でも、SPACYの時は本当にノー・プロモーションと言っていいよ。チラシ1枚で、取材もほとんどなかったし。
5月27日、ヤクルトホールでのセカンドアルバム発売記念コンサート。この時は、お客はよく入ったな。600人のキャパに880人も入れてたんだよね。スシ詰め。しかも事務所の方針で、招待はたったの二人w この時に「三ツ矢サイダー’76」の一人アカペラを初めてやったの。それがめちゃくちゃウケたんだよ。これはいいなと思って、そこからドゥーワップの多重に発展していく。
ライヴはこれ以降も時々やるけど、僕の場合、幸運なことに、東京ではいつもお客はいっぱい入ってた。それはシュガー・ベイブ以来ずっとで、それだけはありがたかったな。人のライヴに行くと1,000人のホールに100人とか平気であったから。この時はGOD ONLY KNOWSをステージでやってさ、間奏の大仏のベースソロが素晴らしくて。「ラブ・スペイス」でのポンタのプレイも良かった。覚えているのはそんなことばかりで、歌の出来とか全然覚えてないw 
声が出ていたのかとか、そういう自分への評価が全然残ってなくて、ただひたすら段取りだけ考えて、やっていたというかね。セットリストも覚えてないし。アンコールは何をやったのかなあ。「DOWN TOWN」はこの頃、やってなかったしね。なぜか嫌がったんだよ、みんな「DOWN TOWN」を。GO AHEAD!が出て、渋谷公会堂でライヴをやる78年暮れまで「DOWN TOWN」はステージで出来なかった。スタジオ・ミュージシャンのお好みじゃなかったんだ。
【第21回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第20回 サーカスタウンからスペイシーへ

<CIRCUS TOWNは自分探しのレコードだった>
1976年10月25日CIRCUS TOWN発売。アルバムの一般的な評価という部分では、実はあまり実感が無かった。ミュージシャンからの反応は概ね好意的だったけど。シュガー・ベイブの時と比べても。CIRCUS TOWNは自分探しのレコードだったから、自分の中ではある程度の成果とは思えたけど。不満な部分ももちろんあった。
一番不満だったのは、やっぱり歌。歌入れに時間が掛けられなくて、2日で全曲上げてるからね。その上、生まれて初めてのアメリカで、精神的にビビってたし。英語なんてほとんど喋れなかったから、相手の言ってることもよくわかんなかったし。僕がもし帰国子女かなんかだったら、ずいぶんと違ってたかも知れないけど、サブカルチャー出身だもの、生きてる世界が狭いからね。
後になってつくづく思うのは、スタジオの中でしか生きてなかったんだよね、それまで。ライブといったって、あくまでライブハウスじゃない。ライブハウスの中なんて狭くて閉鎖的だもの。
だからツッパてったところはある。客だって変なのがたくさん居たしね。普通、ステージ出て行っていきなり「佐渡おけさ、やれ」なんて言うか? 僕は結構そういうところマジだったから、心では「それで洒落てるつもりかよ、面白くねえよ、そんなの」って思ってた。それが80年代近くまで続くのね。「帰っていいよ!」って、よく口にしていたけど、半分は本気だったんだよ。少ない人数だと、さらにそれが常連だったりすると、客が演奏する側に、自分の好みを強要することがあるんだ。客の甘えというより独善だね。俺は特別だっていう意識。
とはいえ、日本に戻って来てライブをやろうにも、パーマネントバンドが無かった。シュガー・ベイブ解散後に下北沢ロフトで(76年7月30日、31日)初めてソロ・ライブをやった時に客があまり入らなくて、それが結構ショックだったんだよね。結局ライブハウスの世界ですら、人気なんてそんなもんだと思って。それに(上原)ユカリがこのときにはバイバイ・セッションバンドのメンバーだったから、実質的に使えなかった。その後、寺尾(次郎)も(音楽業界から)足を洗っちゃうし。だから、この時期にライブをほとんどしてないのにはいろんな理由があるけど。
77年にSPACYが出た後、野音でポンタ(村上秀一)たちとやるまでは(吉田)美奈子のバックバンドの寄せ集めとかでやってたの。そのレベルだとCIRCUS TOWNはとても難しくてできない。そんないろんな理由があってライブできなかったんだよ。
とは言え、ライブが好きなわけでは決してなかったんだ。シュガー・ベイブの時だって、やらなきゃならないからやってた。対バンと張り合うとか、そういうのがすごく嫌だった。あとイベントだと客ダネの悪さとかね。ようやくライブが好きになってくるのは、レコードがブレイクして、ワンマンでツアーがちゃんと成立するようになってからだね。
    
<僕にしたら、2万というのはすごく売れた感覚があった>
CIRCUS  TOWNについて、小杉さんにとってはかなりの努力の産物だったから、それは喜んだよ。ただこれは、小杉さんの性格なんだけど、基本的に出来上がったものには興味がない。あの人は自宅で僕のレコードをターンテーブル乗せたことが一度もない。彼にとっては常に、企画段階が最重要なの。企画とか、後はタイアップ、そういうものが決まったら、精神的にはもうできたと同じ。あの人は昔からそういう人なんだ。
彼は制作ディレクターだったんだけど、具体的なスタジオ作業にはあまり興味がなかった。この企画でこう作ろうとか、そういうプランニングが第一で、音楽制作のミックスダウンだ、なんだと言うような細かい作業は苦手だった。だから、出来上がったものに対する感想はそんなにない。それ以前の段取りが良ければ、結果も悪いはずがないと。
だから、デモテープにはすごくシビアだし、鋭いよ。制作ディレクターであると同時に、プロデューサー、コーディネーターの特質も強いんだ。とにかく僕と小杉さんがなんで30年以上も一緒に続いてるかと言うと、タイプが正反対だからなんだ。僕は制作的な、チマチマした作業を最終点まで見届ける忍耐力があったから、彼は制作面ではどんどん僕に任せきりになっていた。GO AHEAD!あたりになると、小杉さんはスタジオにはほとんど来ないで、有線でレコードをかけるとか、何かの宣伝企画とかね、そういう方に力を入れていた。
僕には事務所もなかったし、宣伝スタッフもいなかったから、彼が宣伝マンの代わりもやってた。それに、まだ社内では一介のディレクターだったから、他の制作仕事もやらされてたしね。アイドル歌手とかやらされるわけ。それが僕のレコーディングの真っ最中だったりするから、ミックスの時に韓国に行ってたり。その間、スタジオでは僕と吉田(保)さんの2人だけでね。でも、そのおかげで僕もそういうレコード制作のノウハウ、編成表の書き方を覚えたりとか、何が幸いになるか、わからないよね。CIRCUS TOWNが2万枚超えたっていうのは聞いた。オリコンは50位くらいだったかな。
その数字についても、やっぱりエレックとは違うなって。だってSONGSは100位にも入ってないもの。宣伝費もろくに出なかったし。メジャーな会社だと、ちゃんとやってくれるんだなあと思ったよ。
僕にしたら、2万と言うのはものすごく売れたという感覚があった。だってあの当時ロック系の音楽で売り上げ最高峰は、あっこちゃん(矢野顕子)の「ジャパニーズ・ガール」で3万何千でしょ。そんなものだもん。だから上出来だと思った。もっともレコード会社側は、かなり期待はずれだったんじゃないかな。大きな制作費がかかったからね。だからもっと売れてしかるべき、ということだったんだろうね。だけど今から考えたら、別に事務所に力があるわけじゃないし、バンドも持ってないからライブはできないしさ、何よりこういう音楽に対して、レコード会社もプロモートの具体的な展望や方策が、よくわかってなかったんだよ。あの頃は、どこにもそんなものだった。
CIRCUS TOWNの達成感? 難しい問いだね。でもエレック時代とは明らかに違うと言うのはあったよ。何しろ、SONGSは店頭で見たことすらなかったからね。CIRCUS TOWNはちゃんとポスターがレコード店に貼られていたもの。
前回も話したように、地方プロモーションもそれなりにしたし、取材もしたけど、すごく好意的に捉えてくれる人と、全然わからないって反応の人と、はっきりと二派に分かれてた。だって、当時の日本の流れから全く外れた作品なわけじゃない。チャーリー・カレロなんて日本じゃ誰も知らないし。もちろんグローバルに言えば、アメリカの最先端のスタジオ環境でレコーディングされたものであるはずなんだけど、日本での知名度がないから、非常に不可解なものとして捉えられているっていう。だけどそれでも、シュガー・ベイブの時よりはマシかなって。あの頃はそれよりも、CMとか外の仕事がコンスタントに入ってきて、ようやく食えるようになってきた。そっちの方が精神面では良かったかな。
    
<事務所を辞めたけど、CMで食いつないでた>
76年後半、とりあえず契約していた音楽出版社PMP(パシフィック音楽出版/現フジパシフィック)が、作家契約をすれば給料はくれるって言うんだけど、それは何のことはない、印税の前払いなのね。それに日本で作家契約なんてやったら、ひとつの会社に縛られて他では書けなくなるから、作家契約はやめて、その代わりにCMのノルマを作って、その見返りで給料をもらえるシステムになったの。月に3本やって、そのギャラが月給になるという、今から考えると変な契約だけどね。
ようやく75年くらいからCMで何とか食えるようになったから、CMやコーラスのスタジオ・ミュージシャンをやって、あとは時々作曲の依頼が来て書いたり、PMPに曲を渡したりね。それでも忙しいというほどでは無かったけどね。あとは10月(25日)にCIRCUS TOWNが出た頃には、当時のマネージャーとうまくいかなくなったの。
今も昔もサブカルチャーの世界ではレコードづくりの制作的な問題よりも、契約とかギャラとかのビジネスやお金に関する知識が圧倒的に不足している。畢竟(ひっきょう/結果)、金銭トラブルがしょっちゅうある。シュガー・ベイブの時にかなり懲りてたから、CIRCUS TOWNの時には、後々トラブルにならないためにも、マネージャーに契約をちゃんとしてくれと何度も言ったんだけど、そういう問題には無頓着だった。何かそういう事柄を語るのが、品のないことみたいに考えていたんじゃないかな。
例えば、作曲した曲の出版契約書が来ないから、音楽出版社に問い合わせると、とっくに送ったって。そしたら、マネージャーの机の引き出しにしわくちゃになって入っていたり、実務感覚が全く無かったんだよね。
で、そのマネージャーと別れて、完全なフリーになった。レコード制作に関しては、契約していた音楽出版社と担当ディレクターの小杉さんで続けることになった。それまでは小杉さんはあくまでもレコード会社のディレクターだったんだけど、ここから徐々に関係が深くなっていくんだ。小杉さんは元々音楽出版社の出身だから、契約と権利に関してはエキスパートだった。それが後々とてつもない力になっていくんだよね。77年以降のことだけど。
事務所をやめてから、僕はPMPRCA預かりの身で。でも、CMの仕事がコンスタントに来たので、それで何とか食いつないでいた。CMは広告代理店から直接家に電話で依頼が来て、自分で打ち合わせに行って。当時の僕のCMは「ONアソシエイツ」と「PMP」と、J&Kという音楽出版社の子会社で制作会社の「グローバル」、その3社がメインだった。
76年12月23日、福岡での学園祭出演。この時はユカリと寺尾、キーボードが緒方(泰男)と、ギターが徳ちゃん(徳武弘文)かな。これ、博多のどこかの大学の学園祭だったんだけど、ライヴ自体は普通のホール(福岡県立勤労青少年文化センター)でやったの。このライヴのための急造バンドだった。学園祭は2日間あって、ムーンライダースとか美奈子とか、あとは忘れた。僕は初日に自分のステージをやって、翌日は美奈子のバックをやった。あの時は「ウィンディ・レイディ」とか「ラスト・ステップ」とか何曲かやったかな。
終わって楽屋でタバコを吸ってたら、中年のオジサンが入ってきて、「君のCIRCUS TOWNというアルバムがすごく良くて、ライヴをやるっていうから観に来た」って。それがKBCラジオ九州朝日放送)の岸川均(ひとし)さんだった。その時から岸川さんとの関係が始まったんだけど、そういう人間関係が少しづつ出来ていったんだ。
   
<美奈子の「トワイライトゾーン」がSPACYの伏線になった>
セカンドアルバムについては、小杉さんが早く次を作ろうって。70年代はいつも小杉さんがせっついていたんだ。内容についてはもう僕にお任せだよね。曲を書いて、聴かせてくれって。実際にSPACYの録音が始まるのは77年の2月26日かな。この頃に大滝さんのストリングス(・アレンジ)をやってるよね、確か「青空のように」だと思うけど。
それと美奈子の「トワイライト・ゾーン」だよね、1、2月はそれがあって、大滝さんの弦をやってそれからSPACY。だから割と忙しかったんだね。
トワイライト・ゾーン(77年3月25日発売)」というアルバムは、ポンタと大仏、松木(恒秀)さんと(大村)憲司が参加して、キーボードは美奈子自身が弾いて、一発録りでやってるの。それに7管のブラスと、あとはストリングスを入れて、レコーディングはモウリ・スタジオでリズムと弦、ブラスを録って、細かいダビングと歌入れはRCAとアルファでやった。
彼女は75年にRCAと契約して、76年のアタマにRCAでの3枚目「フラッパー」を出したんだよね。だからRCAでは彼女が先輩になる。「フラッパー」に関わった延長で「トワイライト・ゾーン」になって。
「フラッパー」の時は、僕は単に曲を提供する人間で、リズム・セクションに関しては矢野(誠)さんにお任せだったから。その頃は僕はまだ、ポンタとかああいうスタジオ・ミュージシャンたちと人間的な接点をほとんど持ってなかった。だけど、美奈子からの要請で「トワイライト・ゾーン」では僕がオーケストレーションをやることになった。このアルバムのお陰でポンタとか大仏とか、そういう人たちと知り合いになったというか、一緒に仕事をするようになって、それがSPACYの伏線となったんだ。
僕がスコアを書いて、バンドがスタジオの中にいて。僕は演奏しなくて、ディレクションだから。だから「トワイライト・ゾーン」がなかったから、その後たぶんポンタとかそういうチョイスは出てこなかったね。その前から上手いとは思ってたんだけど、スタジオ・ミュージシャンという人種は、僕みたいなバンド上がりとは違って、テクニックはすごいけど、無愛想だったり、人当たりが悪かったり、仕事がしにくい印象が強かった。
唯一、ポンタは最初からすごくフレンドリーな人で、そのおかげでずいぶん助かった。逆に松木さんは最初はとにかく怖い人で、打ち解けるまでには時間がかかったけど、でも、松木さんのギターは好きだったから、色々勉強になったし、教えもくれた。まあ、そもそも「トワイライト・ゾーン」というアルバムはその前の「フラッパー」が、美奈子本来の路線とは違っているんじゃないかというところから始まっているんだよ。
美奈子のデビューアルバム「扉の冬」(1973年/トリオレコード)の頃と、ずいぶん方向が違って来ていた。「扉の冬」に戻った方がいいんじゃないか、っていう制作意図で「トワイライト・ゾーン」が始まったんだよ。アルファレコードとしては、美奈子をエンターテイメント界のスターにしたかったから、RCAとの契約後は、そうした色合いの強い作品を作ろうとしたんだよね。だから「フラッパー」はアルバムとしてはすごく優れているとは思うけど、アルファのエンターテイメント感が強く出ているというかね。アルファの感覚っていうのは、全然ロックンロールじゃない。あの時代にそぐってないというか、新しい時代に適応してなかった。
アルファという会社は、元々は慶應大学の音楽サークル出身で、みんな楽器ができるというという感じの人たちが作った集団なんだよ。だけどそれは、あくまでもビッグバンドかモダンジャズで、ロック感覚はゼロだった。
コンサートを企画するのも日比谷公会堂とか、一時代前の感覚で、なんか「サウンドイン”S”」(74〜81年放送)的な匂いが強いという印象が、アルファには強かったね。
僕もアルファからは契約しないかって何回も誘われて、本当に行く寸前までなったこともあるんだけど。でも縁がなくて、結局契約はしなかった。美奈子の場合、「フラッパー」は歌手としての吉田美奈子を使ったコンセプト・アルバムだけど、彼女は元来はシンガー・ソングライターだからね。そこのギャップをどうするかっていうのが、大きなテーマとしてあったんだよね。あの時は「夢で逢えたら」をシングルに切るか切らないかと揉めてた。
夢で逢えたら」をシングルカットしていたら、ヒットはしていただろうけど、そこから先の重心はどこに置くんだ、って言うね。何がよくて、何が悪いかわからないけど、あの時点では「トワイライト・ゾーン」の路線のほうが絶対に正解だと思ったね。まあ純粋に音楽的で考えれば、どちらも遜色は無いから、インかアウトかって言う問題なんだけどね。
     
<ポンタたちと、ユカリたちのユニットを使い分けたんだ>
CIRCUS TOWNはとにかく自分探しのためのコンセプトだったからね。シュガー・ベイブの価値観から抜けるための、ひとつの通過儀礼だった。これはたからシンガー・ソングライターの作品とはあまり言えないんだよね。
SPACYもCIRCUS TOWNの延長と言う意味では、シンガー・ソングライター的ではないはずなんだけれど、結果的にそう聞こえると言うのは、今から考えると、特にB面なんだけど、低予算で制作費をかけられないんで、コンパクトに作らざるを得なかったために、非常に内省的なサウンドになっているんだ。でも本来の僕の習性からするとGO AHEAD!なんかの方が普通なんだよね。
「ラブ・スペイス」「素敵な午後は」「ダンサー」「アンブレラ」の4曲はポンタたちのユニットで、2曲目に入っている「翼に乗せて」と「ソリッド・スライダー」は同じ日にとっていて、それは坂本(龍一)、田中(章弘)、(上原)ユカリ、それに僕っていうメンバー。これはあの頃CMをやるときのセクション。
その後の「ペーパー・ドール」とかも同じ陣容で、「2000トンの雨」もそう。アオジュン(青山純)たちが出てくるまでは、ポンタたちとのユニットと、ユカリたちのユニットを交互に使い分けていたのね。
アルバムのレコーディングにしても、例えばクールスのレコーディングとかはユカリたちだったけど、中原理恵のはポンタって言う、そういう曲の傾向に合わせたやり方だね。でもひとつ言えるのは、ドラムはほとんどポンタとユカリだけで、ベースはポンタだと大仏か岡沢(章)さん、ユカリだと田中、ベースも数人しかいない。キーボードは坂本くんか、佐藤(博)くんだから、僕の使ってたリズム・セクションはほんのわずかなの。
2つのユニットは曲調で使い分けた。ユカリはジェイムズ・ギャドソン的な16ビートが苦手で、逆にそういうのはポンタの得意技。逆にユカリはポリリズムのような独特なビート感を持ってる。それぞれに個性というか、独特のタイム感があって、それを活かしたかった。だから1曲目の「ラブ・スペイス」なんか、これをポンタが叩いたらどうなるか、って言うのを想定して作った曲だからね。ああいう16ビートっていうのは、ポンタの自家薬籠中のものだから、そこに細野さんのベースを合わせたらどうなるか、って言うことをやってみたかった。だからもう完全に座付き作家だよね。
SPACYのCD解説にそういった要点を書いてあるけど、とにかく短時間でレコーディングしなきゃいけなかった。1日2曲ずつ、5日間しかスタジオ予算が取れない。それで10曲録らなきゃいけない。お試しなんてことができなかった。リハーサルの予算もないし。でも何とか10曲、アルバムに入れなきゃいけないから。そういう時代だったんだよ。
だけど、それで得られる満足度は限られている。だから僕がよく昔言ってた「作ったものを聞きたくない」っていう、もっとこうしたかった、ああしたかったっていうのが、常に積み残しで状態で。そんな形でやらざるを得なかった。
カツカツのスケジュールだから、当然押せ押せになって、最終ミックスは1日に4曲ぐらいあげなきゃいけない、というような。
だからSPACYはCIRCUS TOWNのノウハウをどう受け継ごうかとスタートしたんだけど、予算がなかったので、少々形が変わったんだよ。スポンサーの音楽出版社も、大した予算はくれなかった。一方では、原田真二とかすでにブレイクした人たちも出ていたからね。彼らに比べたら全く売れてなかったし、金を出す方からすれば当然だよね。僕みたいなスタンスのミュージシャンは、みんな同じような境遇だったんじゃないかな。
【第20回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第19回 サーカス・タウン 1976年10月発売へ

<悔いが残るとしたら、歌が追いつけなかった>
チャーリー・カレロは確かに変わった人だったけど、今にして思えば、彼も日本人と仕事をするのは初めてだったし、向こうは向こうなりに構えていたんだと思う。だけど、仕事してる時は集中力の鬼だったよ。
最初に言われたのは「なぜ自分を選んだんだ?」ということと「なんでNYでやりたいんだ?」ということ。これも一生忘れないけど「お前の音楽はNYというより、シカゴの感じがする」って。それはすごく意外な台詞だったけど。
で、「あなたは60年代のロイヤル・ティーンズの頃からやっている人だから」って答えたら、「なんでロイヤル・ティーンズを知っているんだ?」「いや、僕はフォー・シーズンズが好きだから。だからロイヤル・ティーンズからフォー・シーズンズフランキー・ヴァリからローラ・ニーロまで、アメリカ音楽の歴史で、現在まで第一線でやっている人はなかなか居ない」って言ったの。そういう人じゃないとダメだ、と思ったからと。そしたら「ふーん」って感じで、納得したような、しないような。
でも、忘れられないことはいくつかあって。「お前はどういうミュージシャンが好きなんだ?」って、僕はここを先途(せんど)と、ハル・ブレインだ、ジョー・オズボーンだ、と言いまくったら、彼はただ一言、「彼らは確かに67年には有名だったが、今はもう違う」と。あの一言が、僕の一生を決めたね。
そんな答えは予想だにしなかったからね。今考えたら当たり前だけど、ヒットソングの世界は「今」だからね。好むと好まざるに拘わらず。チャーリー・カレロの言葉だから、説得力というか重みがあった。
何しろスコアの凄さ。無駄が無いんだよ。なんでこういう音の積み方をするんだろうって。あの時に、もっと突っ込んで聞ければよかったんだけど、とても聞けなかった。チャーリー・カレロのスコアってオーソドックスなんだけど、アイデアに溢れてた。そういうのは見たことが無かった。グレン・ミラーとかトミー・ドーシーとかのフルバンドのやり方とも違うし、その後いろんな仕事をしてきたけど、あのチャーリー・カレロにやってもらったスコアが一番刺激的だった。ウィットが効いてるというか。「サーカス・タウン」のイントロとか。
アレンジに対して僕からの注文なんてないよ。あるわけないじゃない。予想以上だもの。ただただ驚愕で。一つ悔いが残るとしたら、歌が全く追いついて行けなかった。緊張しちゃって声が思うように出なくてね。ヴォーカル録りはエンジニアのジョー・ヨルゲンセンとの二人きりで。だからOKは自分で出した。でも、もし今だったらって言ったら変だけど、もう少し精神的に余裕があったら、もうちょっと良い歌が歌えたんだけど。一曲、「言えなかった言葉を」をボツったのはキーの設定を誤って、高くしすぎて声が出なかったの。
演奏のOKに関しては、ほとんど1テイク、2テイク。1回練習して、次にもう本番。チャーリー・カレロは全部書き譜で、練習時の細かい注文など無し。OKテイクでも別に褒めない。ソロ楽器のダビングではずいぶんヨイショしてたけど。
でもね、あの時のNYのミュージシャンは愛想が悪いっていうか、そういうのはあったけど、音楽にはとても真面目だったよ。スタジオの中でキーボードとギターとチャーリー・カレロを囲んで、何か話し合ってるんだよ。「永遠に」なんかで。何やってるんだろうって見ていたら、10分ほどして呼ばれてさ。「なんでここのコードはこういくんだ、ってあいつらが言ってる。ここはこう行った方がプログレッション的にはいいだろうって」「それは確かにそうだけど、メロディーがこうだから、こうした方が良いと思った」なんて感じで説明したら、納得した。
だから真面目に取り組んでいるんだな、と思ったよ。決して手抜きじゃない。まあ、当たり前なんだけど。そういうスタイルなんだろうね。
僕とチャーリーがすごく揉めた時もあったのね。ラテン・パーカッションを入れるかどうかで。僕が「サーカス・タウン」にコンガを入れたいと言ったら、「いらない」って。どうしても入れたいんだ、って言ったら、「お前にその理由を教えてやる」と。
どこまで本当か分からないけど、その時僕が言われたのは「俺が一番好きなカルロス・マーティンというラテン・パーカッショニストが居たけど、彼は最近死んだんだ。俺の一番好きなプレイヤーが居なくなったから、ラテンは要らない」って。不思議な人だったなあ。
いまだにあのレコーディングくらい記憶に残っているものはないよ。リズム・セクションの緊張感というか、あれだけの演奏のテンションを見たことも、あれ以来ほとんど無いし。それに匹敵するようなテンションはRIDE ON TIME以降の青山純伊藤広規が入ってきたセッションで、何回か有るくらいでね。
やっぱり、本当の意味での世界の16ビートの頂点だった時代。おそらくチャーリー・パーカージョン・コルトレーンモダンジャズ時代のスタジオって、本当に凄かった、って思うよ。スタジオはライヴを越えられない、って言うけど、越えられる人もいるんだよね。だからあのレコーディングは返す返すも、もう少し歌がちゃんとできれば、なんの問題も無かったんだけど。
  
<ロサンゼルスでは途中でやめて帰ろうかと思った>
NYではリズム録りが2日、ブラスが1日、いや2日あったかもしれない。ストリングスが2日。すごいよね、ストリングスを1日3曲録っちゃうんだから。ヴォーカルは2日もらったかな。あとソロ関係。ミックスダウンに2日。ミックスも2日で5曲やっちゃうんだよね。
でもね、何が一番手応えあったかというと、サウンドは思い通りだったの。自分の着想は間違ってなかったという、それははっきり感じた。スタッフを選んだのは僕だからね。それは目論見通り、NYはね。ロスはドタバタだったけど。
NYで5曲録って、2週間弱いたのかな。8月16日に日本を出て、9月の頭に帰ってきているから、アメリカには3週間いたんだよね。NYに2週間だから、ロスが1週間。
ロスはジミー・サイターがセッションを仕切ってて、弟のドラムのジョン・サイターがホンダ・シビックに僕らを乗せて、スタジオに連れて行ってくれた。
で、最初に来たギターがビル・ハウスで、ベースは名前忘れちゃったけど、フィフス・ディメンションのステージ・バンドの人でね。その後、メリサ・マンチェスターのバックで日本に来た時に観たことあるけど、これがどうしようもなくてさ。ビル・ハウスはいつもラリってて、音色はひどいし、どこが良いのか全然分からなかった。
キーボードのジョン・ホブスは上手い人だったし、ドラムもピーター・ゴールウェイとかでやってる人だから、そっちは良いんだけど、とにかくベースがひどくて、OKテイクが全然録れないんだよ。1日で2曲録ったけど、良いの全然録れなくて。一応スケジュールは3日あったんだけど、このままじゃダメだ。しょうがない、どうしようかと煮詰まっちゃった。
ホテルに帰る道すがら、車の中で「明日やってダメだったら帰ろうか」なんて小杉さんと話してたら、ジョン・サイターが「コーラスはジェリー・イエスターとケニー・アルトマンに頼んである」って言うんだよ。「ちょっと待ってよ、ケニー・アルトマンがいるんだったら彼にベース弾いてもらってよ!」「あいつでいいの?」「今日のベースより全然良いでしょ」って。ギターはどうする?って言ったら、ジョン・ホブスが、自分のバンド仲間を連れてくるって言ってくれて、ビリー・ウォーカーっていうブルース・ジョンストン(ビーチ・ボーイズ)と瓜二つの顔の人が来て。この人は上手くてね。
それでケニー・アルトマンとビリー・ウォーカーにメンバーを替えて、2日間で4曲録ったの。それでセーフ。で、ジェリー・イエスターとケニー、それにジョン・サイターと僕の4人でコーラスをやった。実質3日。
NYのスタジオでは緊張しちゃってた。でも、今でもスタジオ行く行く時だって、そんなにルンルン気分じゃ無いもの。スタジオくのが楽しくて、みたいなのが有るけど、そういう人の気が知れないね。今だって思い通りの音が出なかったらどうしようかとか、色々考えるもの。ソロ楽器のプレイヤーが来てダビングする時は、それなりに緊張するよ。特にスケジュールが詰まっている時にはね。本当の意味でスタジオで冷静にやれるようになったのは、80年代の固定メンバーになってからだね。
だから、海外レコーディングはカルチャー・ショックって言うのが正直なところだね。まず日本で朝10時からスタートっていうのがあり得ないでしょ。朝の10時に全員揃っているというのが不思議で。あまりに日本のミュージシャンと体質が違う。朝の10時なんて、当時の日本ではCM以外あり得なかった。とにかく、最初に一流のものを見ておかないとダメだね。あのレコーディングがソロ活動のとっかかりでしょ。あれが今までと同じようなことでやっていたら、その後の音楽の作り方が全然違ってたね。
ロスが先でなくて本当に良かった。やっぱりロスとNYの差ってあそこなんだな、って。シビアさの違い。でもロスはロスでね、結果オーライだったけどね。もう一回やってみたいもの、あのメンバーで。特にジョン・ホブスはすごく上手い人で、人間的にも素晴らしかった。
  
<あんな上手いミュージシャンとやったら、もう何も怖くない>
NYからロスに行くのは、くたびれたね。当時のNYは治安が悪かったから、なんたってホテルをチェックアウトする時に、セーフティ・デポジット(貴重品預かり)したのが無いって言うんだよ。パスポートから何から全部入っているって言うのに。それも小杉さんが大暴れしたら、隣のボックスに入ってたって。わざと言ったんだね。すごい世界、あの当時は。だから、しっかりカバンを握りしめて歩いてた。
ロスでは基本的にクルマ移動だからね。当時の治安はロスの方が少しマシだったみたい。泊まるのもモーテルだったし。
レコーディングの方はリラックスしてたかと言えば、そうでもない。だけどロスの方が人間的には他人行儀じゃないから。それこそジョン・サイターの奥さんが食事を作ってくれたり、そう言うのがあったから、フレンドリーといえばフレンドリーだったけどね。小杉さんの友達だったし。でも、レコーディングはそれとは別だよ。
ロスでのプロデュース・クレジットは共同で、僕とジョン・サイター。でも、編曲は僕だから。それはシュガー・ベイブの延長みたいなものだったからね。NYでは曲作りとシンガーだったけど。
だから、ロス用に持って行った「夏の陽」なんかロスでやるからいいんだけど、あれ以降あんな曲は一曲も書いたことないもの。でもレコーディングの経験があるといっても、やっぱりシュガー・ベイブの時代でしょ。録音にそれほど習熟している訳でもないから。結局、仲間内っていうか、内輪の友達とレコーディングしてたんで、赤の他人とやったわけじゃないからね。だから、本当の意味で習熟してきたのはSPACY以降、スタジオ・ミュージシャンを使ってやるようになったり、他人の曲を書いたり、そういうことをしていってからだよね。
だからまあ、あんな上手いミュージシャンとやったら、もう何も怖くない。誰が来てもビビらない。あと考慮すべきは人間関係であってね。
演奏の上手い下手って、人間性には関係ないんだよね。それを得てして逃避的に考えるというか、スタジオ仕事でも、ともすれば気の合う人間同士で和気藹々とナアナアで行きたがるじゃない。でも、それじゃダメなんだよね。それは本当に学んだよね。
例えば佐藤(博)くんなんて、コミュニケーションが取れるようになったのは、ずいぶん後になってからだからね。佐藤くんもすごく個性的な人だから、レコーディングはずいぶん頼んだけど、実は人間的コミュニケーションなんてそれほど無かった。それでも、ひとたび弾けばすごいんだから。それでいいんだ、って思えるのは、あのNYの経験があったからね。大仏(高水健司/ベース)とか細野(晴臣)さんとか、みんなクセあったし、松木(恒秀)さんなんて気難しくてホントに大変だった。
77年だから、24歳くらいから、そういうクセ者のスタジオ・ミュージシャンとやってきて、その時には大して話してなかった人が、それから25年くらい経って「なんで最近俺を使わないんだ」とか言われるっていうのは、だったらあの時もうちょっと愛想よくしてよ、みたいなw 
だからすごく意外なのが、佐藤くんは当時そんなこと、おくびにも出さなかったけどRIDE ON TIMEやFOR YOUの時に「それなりのインパクトを感じてた」って、後で言われて、よく考えたら、そうだよね。
だから歌以外の部分では、NYレコーディングはすごく自信になったよ。本当にCIRCUS TOWNはあと3、4歳、歳をとって経験を積んでやれば、もっとちゃんとできてたんだろうけど、まあ、ないものねだりだよね。
とにかくスタジオミュージック全盛の時だから、NYではちょうど24トラックのレコーダーが導入されたばかりで、AMPEX456っていう高性能録音テープが出てきた頃、どちらもまだ日本には導入されてなかった。それがCIRCUS TOWNの音なんだよね。トータル・リミッターなんてまだ使われてなくて、それであの音像は凄いと思うよ。2002年にRCA/AIRイヤーズのリマスターしたでしょ。あの時に久しぶりにマルチを出してきて、CUEシートを見ながら音を聴いたけど、素晴らしかったね。
マスタリングはロスのRCAでやったの。その違いを感じたのは、実際のお皿になってからだね。せっかく向こうでレコーディングするんだから、マスターもカッティングも向こうでやらなきゃって言ったのは僕なんだよね。A面とB面を別にやるわけには行かないから、ロスのRCAのカッティングルームに行って、ラッカー盤は72時間しか持たないんで、手荷物で持って帰って、そのままビクターに持って行った。ビクターはそれだけの手間ひまかけた海外レコーディングだからって、初版は高音質盤用の良いビニールを使ってくれたの。これは良い音がした。
あの時、ロスでカッティング作業を生まれて初めて見たんだ。SONGSの時には行ってないから。
NYレコーディングで、自分の音に関するセンスっていうか、こういうものをやりたい、というのは正しいと思った。あとはそれをどう実現するかだな、と思っていたら、チャーリー・カレロがスコアをくれたんだ。ミックス・ダウンが終わった時にスタジオで、これをやるから勉強しろって。
で、スタジオにいる人に「誰にでもやるのか?」って聞いたら、そんなことないって。今でも持ってるけど、鉛筆書きなんだよね。凄く綺麗に書いてあるの。リズム・セクションの譜面と、ストリングスの譜面が別にあってね。もう、その後の僕は、完全にそのクローンというか。他人のスコアとか、見られそうで見られないからね。グレン・ミラーとかドン・セベスキーのスコアとかは出版されてるけど。
  
<取材ではケンカをしたり途中で帰ったりしたよ>
CIRCUS TOWNのジャケットについては、あの頃はアート・ディレクションとかの発想なんて何も無かったから、あれは(吉田)美奈子の推薦でペーター佐藤さんに頼んで、カメラマンはペーターの関係で小暮徹さんが出てきた。そこから小暮さんとペーターとのラインでずっと行くことになるの。結局、何だかんだ言ってRIDE ON TIMEまでそのコンビなんだね。ペーターがNYに行ってる時代には、奥村(靫正)さんが入ってきたりはあるけど。でもね、あれは非常に手の掛かった優れたアートワークだと思うよ。一度撮った写真をブラウン管に写して、それを色調整して、もう一回撮ってという、非常に工夫があるの。
ペーターはユーミンの「コバルト・アワー」とか、美奈子の一連のアルバムとかやってたから。小暮さんも「シーズンズ・グリーティングス」まで頼んでいるからね。僕は小暮さん大好きなんだけど、フォト・セッションがえらく長いんだよ。すごく時間が掛かるんだ。でも、人の縁には恵まれているよね。
レコーディングから帰国して、すぐ業界紙のインタビュー受けたけど、ケンカしたw
人を30分待たせて、で、「どうも」ってジャケットを机の上に放り出して「聴いたんですけど、かったるいよね、これはっきり言って。何でこんなの海外レコーディングしなけりゃいけないの?」「てめえのツラの方がよっぽどかったるいよ」って、帰ってきたw
レコード会社の宣伝担当は焦っちゃって。そいつの名前も忘れちゃったけどね。ただ、その後会ったことあるけど、本人は全然覚えてないんだ。なお悪いことに、それが一番最初の取材だったんだよ。あの頃はそんなのばっかりだったな。途中で帰ったりとか。今は丸くなったよね。シュガー・ベイブの時からそういうの多かったからね。でも、ちゃんとした人にはちゃんと応対したよ。
SONGSが出た時に野音のライブの後で、何かの取材があって、そのインタビュアーが洋楽ワケシリ顔で「君たちのギターってミック・ロンソンみたいだね」って。あんた、ちゃんと勉強してきなよ、って。ハンチクな評論家もどきが多かったからね。もちろん全部がそうなわけじゃない。「プレイボーイ」の長沢潔さんとか、きちっとした人はきちっとしてたよ。音楽誌でも「新譜ジャーナル」とか「ライトミュージック」とか、そういうのはごく普通にやれてた。
この時のRVCは、結構大きな予算をかけて宣伝してくれた。とは言え、RCAって企業力が弱い上に、特にニューミュージック関係のラジオ番組なんて、ほとんどなくて。栃木放送のローカル番組が1本とか、築地のラジオ制作会社のローカル番組が1本とか、そんな有様だった。後はFM東京の「ニューミュージック共和国」と小室(等)さんの「音楽夜話」ぐらいしかなかった。それ以外の取材を取って来いって、歌謡曲セクションの宣伝マンが駆り出されて、いろいろ頑張ったんだよね。
でも、取ってきてくれても、僕が嫌だって断ったり、現場でもめたりしちゃうから、怒ってさ。頑張って取って来たのに。「もう絶対あいつはやらない」って、そういう時代だったんだ。まだあの頃は、日本のフォーク・ロック関係の宣伝なんて、何にも形がなかったからね。歌謡班の持ってくる取材やラジオ番組には、とんでもないのがいくつもあって、僕がそれに反発するから、あいつはやりたくないと言うことになってね。あとRCAには一応、北海道、仙台、東京、横浜、名古屋、広島、博多に営業所があったから、地方プロモーションもちゃんとやってたんだ。むしろ地方の方がスムーズで、名古屋で東海ラジオミッドナイト東海」に出て、その時には(笑福亭)鶴瓶さんと初めて会って。彼は優しい人だったな。地方のラジオ・ディレクターにはずいぶん可愛がってもらってたね。
そういう人がいるかと思うと、FM東京の番組にゲストに出た時、何の番組か忘れちゃったけど、その人は司会兼ディレクターみたいなことをやっていてね。カフが落ちて、曲がかかってるあいだ中「君さぁ、こういうの合わないからやめなさいよ」とか、「君は歌を歌うより、作曲家とかの方が向いてるよ」とか。僕は「プロモーションに来たんだから、そういうこと言わないでください」って。オンエア中は普通にやってるんだけど、曲がかかると「また、君さー」って始まる。もう頭にきて「いい加減にしろよ」って言ったら、「そんなことをお前に言われる筋合いない」って。
要するに評論家というか、プロデューサー気取りなんだよ。だから、お前が黙るか、俺が帰るか、どっちかにしろって。そうすると「あいつは生意気だ」ってことになるの。そんなの繰り返し。まぁやっぱりシュガー・ベイブから1年経ってないでしょ。オールナイトニッポンも、前に言ったみたいに亀裂がありながら、やってたからね。
だから、今のバンドの子みたいに、コンビニでバイトしながらインディーズでデビューして、メジャーになって、では業界のことが全くわからないじゃない。でも、僕は74年からCMやってたから、この時点で2年以上やってたし。他の人のレコーディングとかもやっていたでしょ。だからひと通り業界には通じていた。だけど、相手は僕がぽっと出の新人歌手として見るから、そのギャップがすごくあったんだよね。
自分としてはRCAに来て、ようやくメジャーな会社に来たなと思ったよ。それこそ会社に行くとちゃんと「ウェルカム」とか書いてあって、廊下で「いらっしゃい」とか言われたり、それが2年ぐらい経つと「あれ?まだ君いたの?」とかなるんだけどw
RCAは「演歌のRCA」って言われていて、藤圭子和田アキ子、クールファイブ、西城秀樹、そうそうたる布陣だったからね。ニューミュージックでまともに成立してたのは吉田美奈子だけだった。桑名(正博)くんはまだブレイクしてなかったし。やっぱり美奈子は村井邦彦さんだったからね。小杉さんとしては美奈子のプロモーションを見てるから、それには負けたくないというのがあって、結構頑張ったんだよね。
で、僕は理不尽なことに対して、喧嘩っ早かったんだよね。だからといって従順に何でも言うこと聞いてたら、今頃どうなっていたことか。今も昔もみんなおとなしいというか、言うべきことはちゃんと言わない、いや言えない。こちとらは、あの頃からスタジオの扉に張り紙して「部外者立ち入り禁止」とか平気だったものねw
そういう意味では音楽こそポップだったけど、精神的にはパンクの連中とあんまり変わらなかった。
今はよくも悪くも、ビジネスとして成立するようになったでしょ。だから取材する側も、きちっとした対応が義務付けられるじゃない。ライターにしても、あの頃はさぁ、ロックだフォークだニューミュージックだなんて、何だかよくわからないモノだったんだよね。日本の芸能界にとっても、それまでの主流の音楽フィールドとは全然違っていたし。ある意味、今のインディーよりもマイナーだったからね。
【第19回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 外伝7 牧村憲一インタビュー

<試験のヤマかけが当たって、早稲田大学に進学>
僕は東京の渋谷生まれ(1946年11月3日)です。90年代にあった渋谷系ブームの渦中にいた時、「渋谷生まれの渋谷育ちですから、渋谷系」と言って、適当にかわしていたんですけど、それは本当で、日赤が取り上げられた場所なんです。父親も母親も渋谷育ちです。
父親は生涯、労働運動をやっていまして、晩年には、いま「連合」と呼ばれている組織の前身を作って、60代の初めに亡くなったんです。僕が物心ついた頃には、父親は労働運動に夢中になっていて、家にはあまり戻れないし、今思えばデモの責任をとって所轄の警察で1泊2日ぐらいしていたな、という環境で育ちました。
ごくごく普通の家で、ひたすら勉強して、今にしてみれば鼻持ちならない典型の、学業優秀、学級委員。下北沢の近くには駒場東大がありますから、やがて自分が進む学校は、自転車で行ける距離だと。生意気ですね。もう小学校の時に東大に行くもんだと思い込んでいた。というか、与えられた役目のような気がしていた。強要されたわけじゃないけど。現実に僕だけじゃなくて、学校で真面目に勉強のできる子は、時代もあって、そういう期待をされていたんです。
ところが小学校5年生の時に、音楽の先生に呼び出されて、「キングレコード音羽ゆりかご会の試験を受けなさい」って。それまで自分に音楽的素養があるなんて、これっぽっちも思ってなかったのに、言われたっていうことは才能があるのか、ってことになるでしょ。で、僕はすっかりその気になって。もしかして自分の人生は学業だけじゃなくて、もう一つあるかもしれないって。ところが、折悪しく変声期が始まって、ボーイソプラノのきれいな声を出していた僕が、声が出なくなる。それで結局、試験は受けなかった。でもこれがいい意味のトラウマになるんですね。君は音楽的な才能があるね、って言われた事はずっと自分の中に残っていた。
母親はごく普通の専業主婦なんだけど、家にオルガンやギター、三味線など楽器がいっぱいあったんです。で、母は習ったことがないのに、自己流で演奏できた。教則本もないのに適当に弾いちゃうわけ。
一方、父親はすごい音痴で、もう聴けたもんじゃない。母親は暇さえあれば楽器をいじっている。それで僕は、一応優等生の道を歩く反面、音楽が自分の中で逃げ道というか、心の支えになっていた。
中学に入ると、小学校の時の優等生だった僕も、だんだん成績が落ちます。これはもうよくある話で、入った時に確か1番だったのが、あっという間に100番台に落ちた。
で、中学生の頃は、和製ポップスがテレビのゴールデンタイムに登場して、僕らは夢中になって「ホイホイ・ミュージックスクール」とか「ザ・ヒットパレード」とか。
中二になると、レコードを買って、友達の家に集まる。みんな、わずかしかないお小遣いで買うから、買ったレコードをお互いに持ち寄って聞き合う。それは毎日やっても飽きなかった。それで学業をますます放り出して(坂本)九ちゃんだ、加代(森山加代子)ちゃんだ、パラキンだ、そういう毎日になります。さらに加山雄三ベンチャーズとか、だんだんロックっぽいものも出てくる。
早稲田に進学できたのは、普段は不真面目だけど試験のヤマ当てが上手だったの。過去の問題を揃えて、これが出るだろうって予想する。それだけを一生懸命にやる。出なかったらおしまい。持って生まれた知恵、それで何とか切り抜けていく。普段は全然ダメなのに。で、大学受験が近づいた時に、またいつもの方法しか思い浮かばなくて、ギリギリでやっと本気になる。自分の学力がどの程度か分かっていたから、期待に応えつつ、間に合うって言うことで。
こういうことを言うと、すごく偉そうに聞こえるけど、早稲田の過去10年の問題集を買い込んで、そればっかり、来る日も来る日もやる。最後には自分で予測問題集を作るわけ。第一志望が、もう今はないけど政治経済学部の新聞学科。それが初日だった。さあ、どうなるかなと思ったら最初の英語の試験、全部予測が外れていた。一問も解けずに失敗。もう他の科目も受けずに、負けた、と。
次の日が法学部。そしたら見事に予想が当たって。うまくいったと思ったら、入学してすぐに、早稲田は学費値上げ闘争に突入して。労働運動をやっていた男の息子ですから、逃げたり見過ごすわけにはいかないと賛同し、スト突入。でも、この時は法学部だけでも6000人ぐらいがストに入ったので、一般学生も普通の神経だったら、ストライキ側に行きます。
ただ、一年経つとだいぶ様変わりして、ストを続けていた6000人が一割の600人になって。残りはさっさとレポートを提出しちゃって、進級します。僕は意地を張って1年目は進級しなかったんです。そういう義理を果たすというか。でも、結果的には1年間授業がなかったし。もう落ちていくにはこれ以上のシチュエーションは無いっていうのが、19歳までのいきさつなんです。
      
<早稲田のグリークラブでマネージャーを体験>
まだストになる前、キャンパスでウロウロしていたら、勧誘に引っかかってね。連れていかれたのが、グリークラブ。こんな男ばっかりのクラブに入るつもりないし、ポピュラーをやりたいと思ってたんだけど、なんとなく断れなくて。で、声を出して「あ、あー」とかやる。「低い声だね、バスに決定だよ」って。まあ考えてもしょうがないから、とりあえずいいかって入っちゃった。
グリークラブ内でもポピュラー好きはグリーとは別に、好きなようにグループを組めたし、グループと言ってもフォーク全盛期だから、アコースティック・ギターを持てば流行のカレッジ・フォークやブラザーズ・フォアをやれる、だったらクラブに属しながら、そういうことをやればいいんじゃないかって。いいや、ここでって。
クラブ活動は演奏が中心なのですが、花形ポジションが3つあって。代表である部長と、学生指揮者がクラブ員の音楽的頂点なわけ。
もうひとつが、普通は渉外っていうんだけど、僕らは「外政」って言ってたマネージャー役。東京6大学、東西4大学、朝日新聞社内にあった東京都合唱連盟などで学生理事をやり、他の大学との交渉の窓口も。当然女子大も含まれていて羨ましがられ、ラジオやテレビの出演交渉もするっていう、いわゆる派手な部門なわけ。で、何を間違えたか、1年生の時に、その手伝いをしてたの。
そしたら周りから「お前はマネージャーに向いてるね」って、それであとは既定路線。だから練習にあまり出ず、外に行って「はい、題名のない音楽会、出演」とか「クリスマスひとり2万円、横浜グランドホテルでコーラスのバイトです」とか、そんなことやってた。つまり僕の職業が、そこで既に訓練されちゃったんです。そういう素地があったのでしょう。ただ合唱連盟に出入りしてる時に、朝日新聞に五十嵐さんという女性記者がいらして「牧村くん、フォークルって知ってる? あんなたと同い年の人間がちゃんと世の中に出て行くようなことをやってるのに、君は今のままでは志が低い」って言われたんですね。もやもやしていた時なので、その言葉がすごく残っちゃって。僕はいったい真っ当な就職をするんだろうかっていう疑問が、長い間自分の中であったわけ。
そんな思いでいる時に、グリークラブで1年上だった三浦光紀さんが、キングレコードに就職して、教養部に配属されて。教養部というのは学芸ですから、中心は童謡ですね。そのうち三浦さんはフォークは新しい童謡だと言い始めて、フォークをやり始めた。
それがベルウッド・レーベルになって行くんです。でも、当時は入ったばかりでアシスタントがいない。手助けがいるということで、僕に授業が出る必要がない時、手伝いに来てくれないかと。
で、70年の初め(23歳の時)の頃だと思うけど、キングレコードに行くと、社内のスタジオでレコーディングをしている最中だという。何を作っているのかと覗いたら、ギターの教則レコードを作っている。そこで初めて小室等さんと、小林雄二さんに出会うんです。それまで僕が思っていたフォークというのは、森山良子さんに代表されるカレッジ・フォークや、URC反戦フォーク的なイメージだったのが、小室さんたちが、実に素晴らしい技術者でもあると知ります。
   
小室等さんとの出会いから、「出発の歌」が生まれる>
僕のバンド経験ですか? 僕らの時代はキングストン・トリオとかPP&Mの時代で、上手いやつは学校にギターを持ってきて、放課後やってるの。
でも、僕はガット・ギターで練習したから、最初はお約束の「禁じられた遊び」で。もちろんコードは覚えたけど、自己流でスリー・フィンガーができないから、ツー・フィンガーでごまかすわけ。だから上手い人がいると恥ずかしくなって、出来なかった。そんな調子で、ひたすら帰宅部になったの。
それで、さっき言ったように、僕は小室さんと出会って、ギターの奏法にも深い技術っていうものがあるんだって分かった。それだけでなく、小室さんは現代詩にメロディーを付けて歌っている。そういう歌があるのか、って。そして状況劇場の音楽を担当、別役実の芝居に楽団として出てる、もう好奇心がものすごく湧いてきて。
最初に小室さんと知り合えて、音楽業界に入ったっていうことは、僕の一生の財産なのね。日本に初めてきちんとフォークソングを紹介し、フォークギターを自ら分析して教則本を作り、なおかつ現代詩人や演劇人、アートワーカーたちとも交流がある人だったんで、なんだか自分が大学時代に託せなかった思いが、一気に花開くようで、あっという間に引き込まれていったんです。
ただ、まだまだフォークがお金になる時代じゃなかったので、キングレコードに手伝いに行っている僕は、ご飯は出るけど、交通費が自分持ち、くらいの状況だったので、他でバイトしたお金で手伝いに行っていた。で、三浦さんが見るに見かねて「牧村、給料払ってくれるところに行ってみるか」って紹介されたのが、照明がメインの、労音に居た人が独立して作った事務所だった。
行ったら、ジョー(上條恒彦)さんが居て、「さとうきび畑」の作曲家・寺島尚彦さんが居て、という会社だった。当時普通に就職してデパートに行っていたら、給料が4万5千円くらい。そこでは約2万円。それでも当時は無収入に近かったわけだからね。
で、僕が最初に企画したのが、小室さんのコンサートだった。それまでは三浦さんの後ろにくっついているに過ぎなかったのが、初めてそこで、一本立ちしてコンサートメイクをしてくれと言われたわけで「僕が作るとしたらフォークコンサートしかない。やりたいのは小室さん」と言ったら、逆に喜ばれてね。
で、結局それが縁になって、「小室等六文銭」の初代マネージやーになるんです。その時のコンサートのゲストが吉田拓郎高田渡だった。翌年になると、ヤマハが主催する「合歓(ねむ)の郷フェスティバル」という作曲コンテストがあって、そこで持っていった歌が「出発の歌」だったの。小室さんは上條さんにも曲を頼まれていたのだけれど、2曲は出来なくて急遽一緒に演奏することになった。上條さんも小室さんもメンバーも僕も、参加するだけと思っていたから、終わってさっさと帰ろうとしたら、ムッシュかまやつひろし)に止められて「優勝だよ」って。で、あれよあれよという間に、第二回世界歌謡祭の代表になって、グランプリってことになる(71年11月)。
僕の音楽業界の1年目は模索ばかりだったけど、2年目は突然階段を駆け上がるような話になっちゃった。2万円だった給料が、一時期ですが35万円。信じられないでしょ。初任給4万円の時代に、最初はタダで働いて、次に2万円で働いて、1年経ったら35万。それからは、ひとつひとつの出会いがチェーンのように繋がっていって。
で、(上條恒彦と)六文銭がヒット曲を出したときに、エレックから独立した吉田拓郎の事務所を始めようとしていた後藤由多加さんから声がかかり、「ユイ音楽工房」に合流した。ユイというのは小室さんの娘の名前でね。ユイはコンサートメイクとマネージメントの会社だけど、すぐに後藤さんは原盤出版会社を作ろうというんで「ユイ音楽出版」を作った。それで僕と、創立メンバーのひとりの陣山くんで出版にまわって、陣山くんが吉田拓郎+α、僕が「南こうせつかぐや姫」+αという形で、協力し合った。音楽出版社に入って、制作ディレクターを始めるわけです。六文銭には新しいマネージャーが来て、僕はマネージメントからは完全に離れる。
   
<「神田川」そして大森昭男さんとの出会い>
ちょうど「第2次かぐや姫」になった頃で、その新メンバー(南高節、伊勢正三山田パンダ)のファーストはクラウンで作られたんだけど、セカンド(かぐや姫おん・すてーじ/72年12月発売)から僕らが参加して、ライヴを一枚のアルバムにしたんです。当時のフォークシンガーやグループって、むしろライヴの方が魅力あったから、で、その後にシングル盤を作るという仕事があった。
当時、ガロの「学生街の喫茶店」がものすごくヒットしてたから、負けたくないと思い、その曲を作ったすぎやまこういちさんのところに曲を頼みに行くんだけど、すぎやまさん、勘が鋭いから、こうせつとかぐや姫を見て、カントリー・グループっていうイメージを浮かべたらしい。なので、出来た曲がカントリー・フレーバーで。全然「学生街」じゃない。
それで、自分たちで作っていたデモ曲に入っていたのが「神田川」。当時、元ジャックスの木田高介さんがサウンドづくりのパートナーになってくれてたんです。「出発の歌」のアレンジも木田さん。その縁もあって、自分でディレクションするのは心細いから「神田川」も木田さんにアレンジを頼んだんです。
で、木田さんが呼んだのが、はちみつぱいのくじらさん(武川雅寛)。これは誰にもわからないかもしれないけど、ガロがCSNならば、こっちはグレイトフル・デッドで行こうというジョークから、はちみつぱいのメンバーを呼んだ。そこでコード譜しかないのに、即興であのイントロを弾いてくれて、ああいう曲になったんだよね。
こうせつはウエスト・コースト系の音楽が好きで、年中僕らとそういう話ばかりしていた。それで僕としては、はちみつぱいとか、はっぴいえんどのメンバーが参加してくれるのが望みだったし、木田さんがいたからあれが完成した。最初は「かぐや姫さあど」(73年7月発売)に収録されていた「神田川」を(9月に)シングル・カットした。
僕はディレクターといっても、本当は全然分かってないのに、トラックダウンまでやるんだよね。で、あの曲ではバイブを最初に入れてあったんだけど、トラックダウンの時に忘れて、抜いちゃったのね。で、発売後になんか違う、あ、バイブ抜いちゃった、って。慌ててトラックダウンし直したんだけど、もはや売れてて差し替え出来ない。最初に担当したシングルなのに、一気に30万枚くらい行ったのかな。今どうやってカウントしているか分からないけど、色々合わせて260万枚相当売れているそうです。ともかくディレクターを始めて3、4ヶ月でそういうことが偶然起こっちゃった。それが制作マンになろうっていう、きっかけなんです。
で、記憶が順番バラバラなんですけど、その頃ONアソシエイツの大森昭男さんと「出発の歌」のコマーシャル使用の話をきっかけに、知り合ったんですが、どうも僕は、大森さんにはっぴいえんどを売り込みに行ってるみたいなのね。はっぴいえんどをコマーシャルにどうですか、と。一方で僕は「神田川」がヒットしたことによって、日本的な、いわゆるフォークのディレクションを望まれることが多くなっていった。あれはあれで、ものすごく知恵とエネルギーを必要とするものだし、同じことを繰り返したくないし、それと時期的にいろんなことが重なっちゃって、僕はもうこれ以上フォークのレコードを作るのは出来ないと思ったんですね。
フォークが四畳半的になり、歌謡曲化し、洋楽的なものではなくなった。小室さんと知り合った時には、非常に洋楽的なものを感じて憧れたのが、だんだんアコースティック・ギターが入ってれば、イコール、フォークになってしまった。そして、これははっきり言っていいけど「フォークシンガー・ブーム」になっちゃった。キャラクターの世界になった。ステージも半分歌って、半分しゃべりになって、しゃべりが面白くなければフォークじゃない、みたいな。
それで自分が目指す洋楽の影響を受けた音楽と、だんだん遊離していった。のちにフリッパーズ・ギターをやる前もそうなんだけれど、切羽詰まってくると、思い切って真反対を選ぶ。
だから、フォークからCMにドーンって。商業主義なんてクソくらえっていうところから、一番商業主義の先兵のところに行っちゃった。それは性格だと思う。
それで大森さんが一緒にやりませんか、って誘ってくださった。それほどの経験もない僕に、割と早い時期に、資生堂アサヒビールのCMに参加させてくれて、大森さんが「牧村さんならどなたを推薦しますか?」と言った時に、はっぴいえんどは事実上解散していたので、細野さん、大滝さんの個人名を挙げたと思うのね。当時(ベルウッドの)三浦さんは、大滝さんのソロ曲を録るたびにテープをくれていたから。多分そのテープを持って行って、聴かせたんでしょう。そしたら大森さんが「いいですね、大滝さんに連絡しましょう」と。それが結局「サイダー」のきっかけになるんです。
で、その少し前、ユイにいた時に、「山本コウタローと少年探偵団」のギターだった徳武くんとか、そのメンバーみんなが洋楽の話が出来る同士で、仲が良かった。そこでコウタローさんが「牧村さん、日本にもラスカルズがいますよ」って。ちょっと信じられない。「四谷のディスク・チャートって店に出入りしてるバンドで、シュガー・ベイブっていうのがいて、ラスカルズみたい。絶対好きになるよ」「じゃ、なんかコンサートか、いいチャンスがあったら教えてね」と。でも、言ったままそのままになっていた。
それで、ON在籍時に大滝さんのCM録音に立ち会っていると、若いコーラス・グループが連れて来られた。それがシュガー・ベイブだったの。僕の中では、コウタローさんが言ってた、あのシュガー・ベイブだと。
  
<山下くんは僕がやってもいいかなと思ったんです>
実際にコーラスが始まると、ワクワクして嬉しくなりました。当時の僕たちのコーラスの常識は、3声、4声が声質に合わせて役割分担をする、いわゆるグリークラブ的なものでした。しかし聴こえてきたコーラスは、これぞポップ・コーラス。リーダーの声が飛び抜けて大きいので、マイクから遠ざかったり、場合によってはスタジオの後ろに行ってワーッとかやるでしょ。いやー、若いってすごいな、と。こっちもまだ若いのにね。そんなポップな音楽に出会えた喜びでいっぱいになりました。運命的な感じで。
その頃よく出入りしていたキングのベルウッド・レコードにはアルバイトだった竹ちゃん(竹内正美/のちのセンチマネージャー)がいて「はっぴいえんどみたいなグループ作ります」って、いつも夢見るように話してくれました。間も無く「センチメンタル・シティロマンス」として実現させるんですが。シュガーとセンチの出会いが立て続けにあり、そのふたつのバンドが僕の人生を大きく狂わせましたw
山下くんと初めて会ったのは多分サイダー以前の大滝さんのスタジオだったと思います。なんのCMだったかはよく覚えてないのですが、シンガーズ・スリーだけじゃ足らないというのでシュガーのメンバーが呼ばれて来て。その時山下くんとは特別の話はしてないのですが、コーラスの録り方やバランスなどを話したと思います。
(73年12月17日)青山タワーホール(シュガー・ベイブ、ファースト・コンサート)で初めて彼らのステージを観ましたね。日本のラスカルズってインプットされてたでしょ。イコール・ラスカルズは無かったのですが、洋楽嗜好、願望を満足させてくれるバンドがいるというのが驚きでした。
でも山下くんが、曲の合間合間で(73年)今年のベストテンとか始めると止まらない、止まらない。他のメンバーも苦笑しているような。結局演奏が半分、喋りが半分というライヴでしたし。今から思えばレパートリーもあまり無かったのでしょうね。上手いか下手かというと、それは微妙で、技量的には多少は問題あったけれど、それを補って、十分魅力的でした。だから73.9.21「はっぴいえんど解散コンサート」で、大滝さんのバック・コーラスでしか聴けないというのは残念でした。
山下くんの印象は今(08年)と同じです。誰よりも音楽を知ってるぞ、という自信家に見えました。でも、そのことは歓迎、全く気になりませんでしたね。僕たちはそれ以前に「大滝さん経験」を十分に積んでありましたから。音楽を知ったかぶりすれば、キツいお仕置きがね、もう、分かっていましたから。
僕はその頃、稼いだお金のほとんどをレコードや本につぎ込んでいました。70年代は吉祥寺のレコードショップ芽瑠璃(めるり)堂という嗜好の強い輸入盤屋さんがあって、「ニューミュージック・マガジン」で広告を見つけると、朝から並んだものです。もし音楽知識でコンプレックスを感じていたら、いたたまれなくなったかもしれませんね。それよりも何よりも、全ての思惑を吹き飛ばす”声”が、そこにあったということです。
山下くんのCM起用はすぐには無理でした。僕はまだ見習いでしたから。でも大森昭男さんは企画段階で「どなたがいいですか?」と毎回聞いて下さる。日本のフォークから解放され、持っている洋楽知識を使える環境にはなっていました。もちろん大森さんは大滝さんをいち早く高く評価なさった方だから、山下くんの才能にもとっくに気づいていたと思います。「牧村さん、あまり予算は大きくなくてオンエアーは東京のみなんですけど」と言われた時、すぐに「山下くん」と言ったら「いいですねえ」と。大森さんが大滝さんと組まれてたので、山下くんは僕がやってもいいのかと。
それが「三愛バーゲン・フェスティバル」で、山下くんに頼んだら、彼も待っていたのだと思います。大滝さんを手伝っていた時から、そういう日を。

「三愛」「三ツ矢フルーツソーダ」「不二家ハートチョコレート」
この3本は大森さんがプロデューサー、僕がディレクターでした。当時はネットもメールもないから、出来た曲を電話口で山下くんに歌ってもらって「それで行こう」と。電話でやっても全然問題なかった。流れてくる音楽に求めているものが全部あった。やっぱり引き出しがたくさんあるんだなあ、と思った。今思えば頼んだのがキャッチーなバーゲンに飲み物とお菓子、それも運が良かったのかもしれないですね。
不二家ハートチョコレートをやった時かな、山下くんのお父さんが画面から流れてくるのを聴いて、音楽をやっていることを納得してくれたんだって。お菓子屋さんだったから、お菓子のコマーシャルを息子がやっているのを嬉しかったんじゃないかな。当時、「親父が喜びました」って言ってくれたのを生々しく覚えています。シュガー・ベイブ・ファミリーの一員になったような気がして、喜べましたね。
   
<シュガーやセンチたちと音楽出版会社をやりたい>
ONアソシエイツに居たのは短かったんですよ。当時CMの世界の中でだんだんフラストレーションが溜まり始めていました。それは来る日も来る日も15秒、30秒であること。もうひとつ、後ろにスポンサーがいること。大森さんはタフだから、ニコニコしながらスポンサーの無理難題を聞き流しているんだけど、僕は時々怒っちゃう。音楽を知らないで、ああだこうだと言いやがって、って心の中にあるから、ごまかしても顔に出てしまう。このままじゃ絶対に迷惑をかけると思って、大森さんに「1年ちょっとしか居なかったけれど、スリーミニッツの音楽の世界に戻りたいんです」って許しをもらいました。
その時に、泉谷しげるさんがエレックから独立して作った「パパソングス」っていう会社の伊藤さんが声をかけてくれた。泉谷さんは自分の稼いだお金を、ロックに回すって言って。僕を含めて何人か参加して、シュガーとセンチ、上田正樹山崎ハコとか、エレック周辺も含めて、そういう音楽の出版プロモーションの会社を起こそうとしました。実際のところはなかなかうまくいかなかったんですけどね。
当時エレックの宣伝には(沓沢/くつざわ)玄ちゃんが居て、シュガー・ベイブの強力なシンパでした。僕は吉田拓郎さんの在籍時からエレックとは付き合っていましたが、玄ちゃんの存在も大きかったと思います。ある日、彼を通じてエレックのスタジオにあるシュガー・ベイブのLFデモ(の8chマルチ)テープが消されそうだと聞きました。それで色々やって何とか救出したのですが、長い間行方不明になってしまいました。数年前のシュガー30周年にはなんとか間に合って、大滝さんの手元に戻したのです。本来は4曲入っていたんだけど、最後の1曲のイントロの頭まで既にオーバーダビングされていました。その1曲のみSONGSの30周年盤に入っています。
シュガーがエレックに決まった時には、ユイ以前からも吉田拓郎さん関連でエレックの内情は知っていましたから、ナイアガラがエレックと契約したことを大丈夫とは思えなかった。でも、ナイアガラは僕がマネージメントしていたわけでもないし、それ以上のことは言えませんでした。
僕が「パパソングス」にお世話になって1年過ぎたくらいでした。パパソングスのスタッフから、出版セクションの赤字の相談が出ました。そりゃそう、これといった収入がないのに、給料を払い続けてくれていた訳だし、これはもう外に出るしかない。でもせっかく日本にロックが芽生えるかもしれない大事な時期に、このままやめるわけにはいかないとPMP朝妻一郎さんのところに会いに行きました。で、「シュガーやセンチたちと音楽出版会社をやりたい。しかしお金がない。相談に乗ってくれますか」と頼んだら、貸してあげるって。
それで「アワハウス」を作るんですが(75年11月)、借りたお金を1年で使っちゃうんです。事務所維持と原盤製作費で消えました。当時ロック作品にお金を出してくれるレコード会社は皆無でした。どこに行っても「原盤制作費をそちらで持つなら考えるけれど、こちらでは持てない」と。そんな中で唯一CBSソニーの洋楽部が全部持つと。窓口は堤光生さん。そこまでこぎつけた時、なんとシュガー・ベイブが解散状態だと言う。僕はシュガーのセカンド制作とプロモーションを担当すると思ってたら、解散に出会ってしまった。
それで結局、山下くんとター坊のソロの手伝いをします。それが75年の暮れぐらいから始まった話。もうひとつのセンチの方は、すんなりソニーで決まった。ソニーは両方やるつもりだったのですが。それでも(堤さんの)洋楽セクションで邦楽をやるっていうコンセプトは、気に入ってました。それが出来ていたのは、吉田美奈子のRVCだけだったからです。
  
<一番熱心だったのは小杉さんのRVCでした>
シュガーのセカンドはなくなったけど、ここで諦めるのは嫌だったので、荻窪ロフトの解散コンサート(76年4月)の頃、山下くんのソロを提案したと思います。彼は「やるとしたらプロデューサーは誰々で」と考えていた。僕は海外録音を視野に入れていた。と言うのは、解散状態だったはっぴいえんどに、ベルウッドの三浦光紀さんが海外レコーディングを試みたのを見て、強く刺激されていました。憧れて真似するんじゃなく、本場に行ってしまった方がいい、プロモーションとしても有効だと。
山下くんからは、複数の海外プロデューサー候補が出てきました。第一候補がアル・ゴルゴーニで、二番手か三番手にチャーリー・カレロ。フジパシフィックから借りていたお金を持って行こう、戻ってこないかもしれないけど、と考え、原盤制作をやろうと覚悟を決めました。
フジパシフィックと、原盤と出版を共同で持つ、という前提で、手を上げてくださった2、3の会社に話しを始めました。一番熱心だったのが、日音の国際部を辞めたばかりの小杉さんが居たRVCで、山下くんと相談して決めました。小杉さんは英語が堪能ということもあり、プロデューサーの交渉にアメリカに行きました。ご存知のように、朗報を持って帰国してくれました。
最後まで理解を持って対応してくれたのは、ソニーの洋楽とRVCの2社しかなかったんです。あとは口はやりたいって言うけど、条件の話をすると、リスクは背負いたくないと逃げました。
僕がやれたことは、シュガー・ベイブが解散しても諦めなかったこと、ソロを作るように話しかけたこと、海外録音実現にお金の工面に走ったこと。そして、その後をノウハウを持ってた小杉さんに、リレー方式で託したこと。
アルバムCIRCUS TOWNはプロデューサーがチャーリー・カレロで、小杉さんと僕は裏方スタッフ。マネージメントだったり、コーディネーターだったり。今だったら、それも広義のプロデュースワークかもしれないけど、当時はプロデューサーという言葉は、もっと権威を持っていたんですね。
アメリカ・レコーディング。スタジオで起きたことは、山下くんが色々と話してくれているようだけど、言葉が出来る小杉さんには現場に居てもらって、僕はマネージメント業務。アメリカには小切手を持って行った方がいい、って銀行にそそのかされて持っていったら、「こんな銀行知らない」って言われて、スタジオどころじゃなかった。お金を下ろすのに2日間、朝から夜まで銀行に詰めてたり。
NY録音の最後の日に、チャーリー・カレロにギャランティを払いに行ったら、「お前のマネーが俺にいいアレンジをさせた」とか言われるわけです。アメリカンビジネスの現実を目の前で見ました。ユニオンという制度も初めて知って、ビジネス的には大変勉強になりました。今でもリアルなのですが、NYに着いたその日、下見に行ったメディアサウンド・スタジオ、扉を開けた瞬間のその音量、とんでもない音量で音が体にぶつかって来ました。そうか、アメリカのレコーディングって、ヒソヒソじゃないんだって。で、中に入ったらドラマーがヘッドフォンをつけてやってる、なんだこれは! 異次元に来たような気分。あの時は、もう本当にお上りさんでした。
   
<山下くんから正論が出た時に一番困りました>
CMの現場での山下くんですか? 若い時はクマってニックネームがありまして、その名にふさわしく、スタジオでグルグル歩き回り落ち着きがない。それはアイデアを考えてる時の無意識の癖なんですね。それと、音楽のこととなると話が止まらなくて、もともと豊富な知識を持っていて、声が人一倍通るから、山下くんを知らない人たちには攻撃的に見えて、まるでクマ。脅威でしたね。
僕はそれが好印象だったんです。生意気だって言う人もいましたけど、自分の芸術に対して強いエゴがなければ、音楽家はできないと思っていました。生意気OK、癖が強いのもOK、そこまで真剣だからこそ、一緒に仕事をするのが面白かったのです。僕がその頃気にしていたのは、むしろ経済的なことで、ステージに出てもメンバー全員で何千円しかギャラがなくて、それを分け合ってる。どれだけ厳しいかっていうのが分かっていたから、一円でも多くお金が渡るようにしてあげたい。そういう心配の方が問題でした。
CM制作の現場では山下くんと僕の共同作業でもあったから、クライアントへの応対も含め、ぶつかったりすることが起こらないよう、お互い注意深くしてたと思います。クライアントと喧嘩すれば、「あいつは外せ」となるだけだし。その辺の事情は山下くんも理解してくれてて、心の中でイラッときていたとしても、実際に困ったなあとなったことは一度もなかったのです。「うーん、これは…」なんて声が出た時も「こう言うのもあるんですけど聞いてもらえますか?」みたいに。大森さんや僕の立場を理解してくれていた。
本当にコマーシャル制作で、山下くんとやりにくいと思ったことは、一度もないですよ。5時間といったら5時間ですし、3時間なら3時間で仕上げてくれました。楽しかったですよ、一緒に仕事をするのが。
そんな中、シュガーがレコーディングを始めて、すごく大変で、その悩みを聞くことや、相談が増えて、それまで以上に話しようになったかな。それとお互いセンチやセンチのスタッフと親しい間柄だったので、そんなこともあって、ざっくばらんに話をしてくれるようになったと思います。
ぶつかったこと? そうですね、ソロを作るようになったあたりからでしょう。いいモノを作れば自信も出来、山下くんはもっと山下達郎の考えを出したい。僕らは山下くんと同じように主張すれば、まだ強権を持っていた側からはスポイルされました。結果、妥協もして、山下くんから正論が出た時に一番困りました。
僕はレコーディングのお金をどう作ろうとか、スタッフに給料を出さなくてはというところで、そろそろ精一杯でしたし、技術的にもまだ未熟でしょ。音楽的な面では大丈夫だと思っていましたが。同じ側にいたのですから。
そう言えば、マスコミ側からよく言われたんだけど、「なんで男なのに裏声出して、気持ち悪いねえ」って。音楽の基礎知識がない人たちは、せいぜいフォークの延長で聴いてますからね。まあ見当違いな批評ばかりだった。
  
<絶対に売れるレコード作ってやるからなって>
山下くんからの影響も、もちろんありましたよ。僕はまずフォーク側の一員でいた頃に、かなりはっぴいえんどの音楽に刺激を受けました。幸運にもその一員だった大滝さんのコマーシャル仕事を通じて、山下くんと出会います。彼に会えたことで、また新たな出会いが起こるのです。
僕には誇れる才能があります。それはまず、人に出会える才能。出会った人たちが持っている、それぞれの極めたすごい知識や技術、それに触れて、影響される才能。それを自分の中でかきまわしているうちに、自分なりのものがいつか出来てくる、運ですね。
大滝さんや山下くんと出会う前はビーチ・ボーイズの全レコードを聴こうなんて思いもしないし、ひょっとすると「サーフィンUSA」一曲で終わりだったなんてね。フィフス・アヴェニュー・バンドなんて知らないよ、って。
やはり出会ったことによって、たくさんの技術と知識、夢を教えてもらいました。そういう蓄積が30代になってプロデューサーになろうとした時、たいへん役に立ちました。未だにずっと学びっぱなしだし、ものすごく吸収しぱなっしです。
竹内まりやさんのことで言えば、彼女のレコードで山下くんに曲(ブルー・ホライズン)を書いてもらい、歌入れのレコーディングでスタジオに来てもらいました。僕たちはかなり良い出来のボーカルが録れていると思っていましたが、「歌い方が違う。今から歌うから」って。曲が見違えるように変わりました。それはシャッフルの曲で、シャッフルぐらい知ってるはずなのに、シャッフルってこういう風に歌うんだって、初めてそこで知ったわけです。万事勉強ですよ。山下くんからだけじゃなくて、その後いろんな方から学んだけれど、その時の事はまだ光景を思い出せます。
キングレコードのお手伝いから、六文銭マネージャー、ユイ、ONアソシエイツ、パパソングス、そしてアワハウス立ち上げ…そのアワハウスがダメになった時、朝妻さんから「良いレコードは作るけど、売れるレコードを作れないね」って言われたんです。本当に頭にくるでしょう。次は絶対に売れるレコードを作ってやる。それは復讐劇でしたね。いや、ある意味では褒めてくれたのかもしれないですが。
ミュージシャンは、良いレコードを作るのが、まず大事なことだと思います。だけど、スタッフまでが一緒になって良いレコードを作ってる自己満足を、多分冷やかされたと思うんです。喧嘩してでも売れるレコードを作れ、って言いたかったんだろうと思うんです。トノバン(加藤和彦)はね、若い時、僕にすごいことを言うんですよ。「プロデューサーの仕事はチャートで1位を獲ることでしょ」って。これが頭にこびりついていましたね。
本当に1位を獲りに行って、獲ったのは「い・け・な・い ルージュ・マジック」(1982年)かな。他はね、なんか定番の4位とか6位とかね、今一歩なんですよ。まりやさんも大体4位くらいだったかな。でも僕には1位にならなくてもベストテンなら十分でした。少なくとも「売れないねえ」とは、もう言われませんでした。山下くんがソロデビューしたのは76年。78年11月にまりやさんがデビューして、79年には出るシングルが、すべて一応チャートインするようになっていました。
本当は1位にそれほどこだわっていたわけじゃなく、むしろ1位を取る辛さ、売れる辛さっていうのは、売れてから初めて知りました。山下くんも多分そうだと思います。売れなかった辛さもあったと思いますけど、売れてしまえば、あることないことの中傷や、勝手な期待がのしかかってきます。そういう意味では、この73年から76年と言う時期は、経済的には辛かったけど、すごくまっすぐな楽しい時だったと思います。シュガーやセンチのメンバーやスタッフが、へとへとになりながら自分たちで楽器を運んでセットし、バラしていました。できたらスタッフを雇ってカバーしてあげたい、音楽や演奏に集中させたいなと思っても、そんなお金なんかなかった。山下くんもボロボロの車を運転しながら、黙々と運んでいたしね。
振り返ってみればその苦労も幸せのうちですよね、って言う人もいるけど、それはとんでもないですね。音楽をやる前に、もうボロボロになっているんですからね。体験していない、他人が言うセリフだと思います。76年に会社を作って1年ちょっとで事実上の破産。当時はロックやポップスでは収入がなくて、出ていくお金ばかりなんだから、そんなの分かり切ったことなのにあえてやってしまった。
でも、よく生き残ってきましたよね、お互いに。
【外伝7 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第18回 NY海外レコーディング 1976年8月

<セカンドアルバムをやるんだったらソニーでやりたいなと思ってた>
まず、牧村憲一さんについて。
牧村さんは74年、僕に最初にCM仕事をくれた人なの。その時、彼はオン・アソシエイツというCM音楽制作会社に居た。彼はもともと早稲田で後藤由多加さんと同期で、六文銭に関わっていたんだね。後藤さんがユイ音楽工房を創った時は、牧村さんも創設者のひとりだったそうだけど、その後ユイを辞めてCMの世界に入ったんだ。
彼は日本のフォークとロックの、一種のオタクでね、やたら詳しかった。広告業界には入ったんだけど、その頃の広告は今と違って、純然たるコマーシャルの世界でね。そこに自分が志向していた日本のフォークとロックの血を、何らかの形で入れたいと考えたんだね。

それで牧村さんは、大滝さんに声をかけてCMの世界に引っ張り込んだの。「三ツ矢サイダー」だね。その時、僕が後ろにいて、彼がシュガー・ベイブを知ることになる。それで僕に声をかけてくれて、僕はCM仕事をするようになったんだ。牧村さんは東京の人なので気が合うというか、自然に仲良くなったんだよね。この延長で75年あたりからCMをすごくやるようになったの。
その後、牧村さんはオン・アソシエイツを辞めて、パパ・ソングスっていう出版会社を始めて、泉谷しげるとかの楽曲を手掛けるようになった。もともとエレックと近い人で、ナイアガラがエレックに行って、シュガー・ベイブのアルバムが出たあと、エレック社内の動きとか、随分情報をもらった。だから牧村さんとはCM仕事上の関係でスタートしているんだけど、その後、個人的に親しくなってね。牧村さんは日本のフォークとロックのお皿(レコード)を、とにかくたくさん持っていたんだよ。「ごまのはえ」のシングルとかもらったものね。
ちょうど同じ時期、当時のCBSソニーに堤光生さんという人が居たの。堤さんは当時の洋楽制作のエグゼクティブで、元々はポニーキャニオンの渡邉有三さん、ユニバーサルの石坂敬一さんらと慶應大学で一緒で、ランチャーズのメンバーだったの。で、堤さんはCBSソニーの創設メンバーとして入って、洋楽を担当、当時の洋楽の世界ではかなり有名な人だったんだ。BST(ブラッド・スウェット&ティアーズ)、サンタナ、シカゴなんかのロックものをやって、その後はエピックに行って、ミッシェル・ポルナレフノーランズなんかをヒットさせた。堤さんは自分もバンドをやっていた人だから、どうしても邦楽、それもロックをやりたくて、いろんなところを片っ端から回っていたんだ。
で、伊藤銀次に声を掛けて来たんだよね。その時たまたま僕も事務所に居て、話をしているうちに、僕がシュガーベイブだってことで、僕にも名刺をくれて。その後何回か会ったんだよね。
堤さんはすごくいい人で、ランチャーズを僕も実際に観たことがあるし、そんな話をしてね。その後、堤さんはついにソニーで新しい邦楽セクションを作って、そこから一番最初に出たのがセンチメンタル・シティ・ロマンスなの(75年8月デビューアルバム発売/CBSソニー)。
センチには牧村さんも非常に深く関わっていた。センチをみていた(福岡)風太と古い関係があったから。センチのマネージャーの竹ちゃん(竹内正美)とか、風太とか、牧村さんとか。それから沓沢(くつざわ)玄ちゃんとかっていう、いつも話に出てくるような人たちがセンチに関わっていたの。
で、僕もシアターグリーンの時代からセンチとは知り合いだったんで、そこでナイアガラとは違うグループになっていたのね。だからそういう付き合いで、センチのデビュー・ライブにゲストで呼ばれるというのがあったわけ(75年8月21日/日仏会館)。
あの時代のソニーのね、堤さんの制作スタッフ、センチの宣伝チームとかも、みんな良い人たちだったのね。でも、そのチームはセンチを出して、四人囃子を出して、その後、頓挫するんだ。本当は三つめがシュガー・ベイブになるはずだったんだけど。
前にも話したけど、当時のソニーって洋楽と邦楽のヘゲモニー(覇権)争いがものすごく有って、洋楽が邦楽に手を出したんで、色々な軋轢があってね。結局、そのプロジェクトが頓挫して、堤さんは洋楽に戻るんだけど、ほとんどのスタッフは辞めちゃうの。
あの頃のスタッフに金弘くんという人が居て、この人とは本当にウマがあってね。彼はその後ワーナーに来て、今はCDジャケット関係の会社をやってるけど、今でもいい飲み友達だよ。もう30年以上になるな。そういうむしろ人間的な関係が深かったの。
そんな感じで牧村さんがシュガー・ベイブソニーに持っていくという話は、いく寸前でセクション自体が無くなっちゃった。その時期はシュガー解散が先だったか、セクションがダメになったのが先だったか。どっちが先だったかな。前後していたんだ。
でも、それは僕が勝手に進めていた話で、ター坊も村松くんも全く関係なかった。
ただ、僕は、セカンドアルバムを作るならソニーというか、堤さんのところでやりたいなと思ってた。で、シュガーが解散してソロになったんだけど、そのまま牧村さんがマネージャーをやるということになったの。この前も話したように、ここで人間関係を一旦リセットしようとした。変えたかったんでね。
で、牧村さんが居て、テイクワンに生田(朗)っていうのが居て、生田はのちに(吉田)美奈子の旦那さんになるんだけど、彼も来て、生田はその後、坂本(龍一)の現場をやるようになって。そういう縦糸、横糸が色々あってね。それが76年の前半の話。
      
<これは海外レコーディングしかないなと思ったの>
ソロをソニーで出すという話にはならなかった。その時にはおそらくもうプロジェクト自体が無くなっていたと思う。で、牧村さんが各社打診していて、いろんな話はあったんだよ。東芝とか。誰と会ったのかは覚えていないけど。
牧村さんにはソロをやるにあたって、ニューヨークでレコーディングさせて欲しいって注文を出した。それで全部ダメになったの、経費がかかり過ぎるって。海外レコーディングなんて、そんな一般的な時代じゃなかったからね。鈴木茂が「バンドワゴン(75年3月発売)」を作ったときは一人で行って、お金をあまり掛けないようにってやったしね。まだ1ドル300円の時代でしょ。
NYレコーディングの条件を付けたのは、まだ若かったから突っ張っていたというか、海外レコーディングがどういうものか知らないのにさ、それより自分のこと、自分のスタンスにこだわっていたんだね。
今までも言ってきたけど、シュガー・ベイブが無くなって、いったい僕はどうするのかなと思ってさ。でも、どうするのかなっていうのは、経済的なことじゃないんだよね、精神的な意味。
20歳でバンドを作って、23歳になって。3年くらいやったけど、一体何の為にやってるのかよく分からなくなってきて、特に音楽的にね。だって評論家のウケは悪いし、言われている事の理不尽さに、自分がやっていることが正しいのか、正しくないのか分からなくなって。
レコードが何枚売れているのかも分からない状態でしょ。下北沢ロフトとかでいくら客が入ったって、なんかあんまり実感がないというか、そんなものが何の確認にもならない。逆にそういうお山の大将になる余裕もないっていうか。それでバンドをやっても結局統率力というか、そういうことを考える。結局人と共有できるガラじゃないと思うようになって。だんだんそういう人間はこういう商売には向かないなと思ったりして。
だから、ソロになりたいとかそんなのは全然なくて。ただ自分が音楽家としてやっていくのであれば、どういう音楽をやっていくべきか。そういうのが全然見えなかった。何をやっていいのか分からない。
だからオリジナル曲を作る意欲が湧かない。曲が書けなかった時っていうのは何度かあるんだけど、この76年の中期っていうのは、本当にだめだったの。それを打開するには、と考えたけど「もう一回バンドを作って」なんてことは全く考えなかった。
牧村さんは僕のソロアルバムを作りたかったの。でも、ソロを作るんだったら、一回、自分を俯瞰してみないと、わからなかった。自分がどれくらいの力量を持っていて、本当の意味での音楽的ポテンシャルがあるか。どういう傾向の音楽をやるべきか、とか。そういうことが自分では全然見えなくてね。
でも、一つだけ言えることは、自分が好きだった60年代中期のアメリカンポップスをやるといつも叩かれたけど、もしあれで成立していたら、僕はその後もいわゆるオールドタイプのアメリカンポップスをやっていただろうね。
ビートルズオリエンテッドのもう少しアメリカ・テイストという。でもなぜかビートルズオリエンテッドだと、そんなにあれやこれや言われないのに、どうしてあの時代にアメリカン・オリエンテッドなものをやると、あれほど言われたんだろう。今でもよくわからないんだ。
アメリカンポップスとビートルズは別物という誤解、それもあるかも知れない。確かにロックの時代とか、「ニューミュージック・マガジン」じゃないけどロック幻想の真っ只中にいたから、それこそジェリー・ロスみたいな、そういう世界をやると、いろいろ言われたんだろうけど、どうしてあれほど蛇蝎(だかつ)の如く否定されなければいけないのか、わからないんだ。でもわからないって言う事は、要するに僕が外れてるんだよね。
今にして思うとね、日本のロック・カルチャーっていうのはインテリジェンスがないんだ。それこそジャック・ケルアックとか、アレン・ギンズバーグとか、そういうアメリカの屈折が伝わって来なくて、「ローリングストーン」みたいな、ある種偏ったロック思想を日本のインテリが規定のものとして、こねくり回すと言ったらアレだけど、そういう悲喜劇があったんだね。
だけど、それも面白いもので、ずっと30年ぐらい言い続けていると、それが誇張されているって言い出す奴が出てくるの。シュガー・ベイブはそんなに悲惨な存在じゃなかったって。悲惨だったんだよ、自分が悲惨だと思っていたんだから。なんでこんなふうにに扱われなくちゃいけないんだ、って。それが本当に22歳の時の偽らざる気持ちだったんだ。
だから、はっきり言えるのは、80年の「ライド・オン・タイム」までの4、5年の客層の、それはあくまでもほんの一部分なんだけれども、でも、そのそのある一部分の客っていうのが人生の中で一番嫌いな客でね。
「ライド・オン・タイム」で何が良かったって、そういう連中と縁が切れたんだ。それを通り過ぎて残ってくれた人たちは、まだファンクラブに居てくれている。
だから僕が大阪が好きだって言うのは、大阪は全くそれまでとは違う、ブランニューな価値観で山下達郎を見てくれた。で、そっちの方が全然、僕のメンタリティに近いっていうかさ。だからシュガーベイブから綿々と続いたあの「日本のロック」の価値観は何だったんだろうね。
でも23歳の時から、その時代、バンドをやめた何ヶ月間というのは、そう言うことを非常に深刻に考えたんだよね。やっぱり作家になろうとか、CMで行こうかとか思ったのも、全部それで。何をしようかという道が全然見えなかった。
ちょうどアイズリー・ブラザーズとかに凝り出した頃なんだけど、アメリカンポップスのそういうものは日本ではダメかな、って言う思いもあったし。
WINDY LADYを作ったのは、そういうファクターがあったからなんだ。でも、そうすると一時はすごく忌み嫌った16ビートみたいなものでやらなきゃいけないのかな、って思い始めた。僕はブラック・ミュージックが好きだけど、そんなのでできっこないしなと思ってさ。当時の関西ブルースのバンドを見ていたって、楽器はうまいけど歌が違うなと思ったし。だから、どうすればいいのかなって悩んだんだよね。僕はB.J.トーマスみたいな歌だったら、何とか人並みにやれるけど、アイズリーなんか全然できないし、どうすればいいのかなと思って。で、ぱっと思いついたのが自分のイリュージョンというか、そういうものが現代的にどこまで通用するのか、どこかで俯瞰してみりゃいいんだなと思って。これは海外レコーディングしかないなと思ったの。
それで条件として考えたのが、60年代、70年代を並列的に捉えるプロデューサー、もしくはアレンジャーだったの。いろいろ考えて出てきたのが、チャーリー・カレロ、トレード・マーティン、アル・ゴルゴーニ。そういう何人かのアレンジャー、もしくはプロデューサー。その中でやっぱりチャーリー・カレロがベストかなと思ったんだ。ローラ・ニーロを60年代からやっていて、もちろんフォー・シーズンから、ちょうどその頃フランキー・ヴァリのMy Eyes Adored Youとかヒットして、あとエリック・カルメンとか、ケニー・ノーランとかいろんなものを手掛けていて、この人が一番かなと思って、まずその名前を出したの。牧村さんにそう言ってそれで各社に話したんだけど、ことごとくダメで。「誰ですか、それ」っていうのもあるし。そしたら一人やりたいって人がいるって。それが小杉(理宇造)さんだったの。小杉さんはチャーリー・カレロなんか全然名前は知らないけど「ニューヨークの人でしょ」って。らしいよね。それであの人、チャーリーに直接交渉に行って、取ってきたんだよね、それが6月位だったかな。もうそれは完全に縁だね。
      
<レコーディングが決まったら曲が書けるようになった>
チャーリーのOKが出てアルバム制作準備にかかった。小杉さんは「やっぱりギャラがもの凄く高かった。だからこれも破格なんだけど、レコード会社は2,000万くらいの予算を出してくれるって言ったんだけど、そのうちの1,500万くらいはニューヨークで消えちゃう。それでようやく5曲録れるくらいのギャランティーになる。そうするとアルバム1枚は無理だ。ついては自分はニューヨークには住んでいただけで、音楽関係のコネクションはない。ロサンゼルスだったら、日音にいた時に南沙織とか色々とレコーディングやってるから、その時のスタッフでジミー・サイターというパーカッショニストが居る。フライング・バリット・ブラザースにいた人で、彼はコーディネートが得意だ。で、彼の弟がジョン・サイターってドラマーだ」って言うの。
ジョン・サイターの兄貴か。ジョン・サイターはタートルズだったし、スパンキー・アンド・アワー・ギャングだった。そういうメンツではどうだろうか、って。いや、それだったら良いって言ったの。それもだから縁というかね。そこから曲が書けるようになったの。ロス用とニューヨーク用に。
ニューヨークはチャーリー・カレロでしょ。一番最初に作ったのがCIRCUS TOWN。で、WINDY LADYはシュガー・ベイブのセカンド用に書いてたんだけど、これはもうニューヨークに持っていくのはバッチリだって。WINDY LADYとか何曲かデモを録って、チャーリー・カレロに送ったの。
あの時に書き下ろしたのは「CIRCUS TOWN」「MINNIE」「言えなかった言葉を」の3曲で、「永遠に」は美奈子の「フラッパー」に入っている曲で、チャーリー・カレロだったらあれをやろうと思っていた。本当はNYでは5曲録ったんだけど、結局カッティングの問題で4曲しか入れられなかった。でも、レコーディングの初日に3曲録っちゃったからね。すごいなと思って。
B面はロス用に。「夏の陽」「迷い込んだ街と」。ウェストコーストのメンツを考えたらLAST STEPもいいかなと思って。ジョン・ホッブスがピアノだって言うから、バリーマンのサードアルバムみたいな感じかなと思って。CITY WAYって言うのは向こうで書いたの。もう1曲あったんだけどやってみたら全然ダメだった。それで現地でCITY WAYを書いて、やり直したの。そんな感じかな。
曲が書けるようになったのはイメージができたからだね。人に書く曲はできるんだけどね。
宅録でアルバムづくりという発想は無かったよ。第一、当時は機材自体がないもの。ピアノの弾き語りがほとんどだった。リズムマシンはあったけど何十万円もして、すごく高かった。リズム発生機みたいなすごくチープなものはあったけど。だってあの当時16チャンネルのレコーダーが800万円とかでしょ。サラリーマンの初任給が7〜8万円の時代で。
   
<初めてのニューヨーク、すごい所だなあと思った>
チャーリーに送ったデモテープは坂本、寺尾、ユカリに頼んで、4人で作って送ったんだけど「このピアノを弾いてるのは誰だ、ピアニストを連れて来い」と言ってきた。チャーリー・カレロはちょっと変わった人でさ、その頃は37、8歳で、一番とんがってるときだったから。怖いし、牛乳瓶の底みたいなメガネをして。
最初はメディア・サウンド・スタジオに行ったの、誰かのレコーディングをしている時に会いに行った。そしたら僕を小杉さんと間違えているの、小杉さんには2回も会ってるのにさ。変な人だね。76年でしょ。僕は23歳だし、こっちは貧乏人の子せがれだから、アメリカなんて行ったことないし。初の海外だからね。
あの時は怖かった。NY自体の空気がピリピリだったから。行ったその日にホテルの予約が通ってないの。47丁目くらいの三流ホテルだったけど。小杉さんがゴネたんだけどダメで、1日だけタイムズスクエアのど真ん中の4流ホテルに泊まらされて、すごいところだった。廊下に裸電球が下がっていて、ドアキーもスペアのスペアのスペアくらいで、開かないの。で、部屋に入ると、テレビのアンテナは針金だし、ベッドは湿ってる。こんなところに居たくないから、飯食いに行こうと表に出たら、街のさなかで撃ち合いやってるしさ。なんてところに来ちゃったんだろうと思ってさ。すごいところだなあと思った。ビビるなんてもんじゃない。英語が分からなかったでしょ、日常会話ですら分からなかったからね。
チャーリー・カレロは今でも変な人だと思うよ。10年前(1997年)に会ったんだけど、もっと変になっていた。STAND IN THE LIGHTかなんかの弦をやってもらったんだけど、結局ボツったんだ。どうしてボツったのかというと、あまりに難解な弦なの。すごいんだ。
その後、人に聞いたら「なんでお前、彼に頼んだんだ。知らないって言うのは恐ろしいな」って言われた。で、何週間かしたらベルディとプッチーニにのスコアを送ってきて「これ読んで勉強しろ」って。最高でしょ。
でも76年の時は緊張感がすごかったよ。もうセッションをやってる時のミュージシャンの罵倒の仕方っていうかさ。
ミュージシャンのセレクトは僕がした。それが条件だったから。ドラムがアラン・シュワルツバーグで、ベースがウィル・リー、キーボードがパット・リビロット、ギターがジョン・トロペイかジェフ・ミロノフかヒュー・マクラッケンかっていう感じだった。キーボードは3人、ギターは4人くらい挙げたけど、ドラムはアラン・シュワルツバーグじゃなきゃ嫌だって。それは、チャーリーから「何でだ」って何回も言われたけどね。
でも僕の後で、フランキー・ヴァリのレコーディングを同じメンバーでやっているから、チャーリー・カレロはけっこう気に入ったんだろうね。
で、何でこのメンバーを選んだか聞いてきたから「アラン・シュワルツバーグは南部でもやっているし、バリー・マンとかもやっている。白人的なものと黒人的なもの、両方できる人が欲しかった。それだったら、どんな曲を書いても安心して出来るから」って、そしたら「もっと上手いプレイヤーは沢山いるんだから、俺に全部任せたら、この5倍くらいのポテンシャルの演奏になった」って言うの。
じゃあ誰だって聞いたら、スティーヴ・ガッドとゴードン・エドワーズだって。それじゃスタッフじゃないか、そんなのって。だけどウィル・リーはとにかくダメだって。譜面が読めないから。やっぱりワンランク落ちるんだって。
CIRCUS TOWNの最後でドラムとベースが残るところがあるでしょ。トロペイとミロノフと、みんなで「フフン」ってバカにするんだ。
確かに読譜力は大事だよ。でもウィル・リーは耳だけであれだけできれば、大したもんだと思うけどね。だけどアメリカでは楽器ができないアレンジャーも多いんだよ。チャーリー・カレロも楽器はほとんど出来ないからね。アメリカには楽器ができなくとも作曲、編曲できるノウハウがある。
アカデミックなプロの作曲家は、基本的にはピアノなんて使わないからね。そういじゃないとダメなんだよ、本当は。でも、チャーリー・カレロが楽器を使わずにアレンジをしているのには驚いたけどね。
で、レコーディングが始まるとミュージシャンをいじめまくってね。メディア・サウンドは教会を改装したスタジオで、一階が教会なの。そこはストリングスとブラスを録るアンビエンスのあるスタジオなんだけど、地下にリズム隊を録るスタジオと、ミックスダウンルームがある。
そこに初日にファイブ・リズムが来た時に、チャーリー・カレロに「ちょっと来い」って言われて、プレイヤーの前に連れて行かれて「彼は4000マイル彼方から君らの音を欲しくてやって来たんだ。だから真面目にやれ」って。変な人だよね。だけど、とにかく社交辞令の嵐なんだよ、全員。ちょっとやると「ファンタスティック!」、最高の賛辞は「インクレディブル!」。それで一曲終わるたびに「タツ、グッジョブ!」って。なんだがよく分からない。
今度はブラスとコーラス隊のレコーディングになると休憩しながら、あのプロジェクトには何万ドル出たとか、金の話ばかりなの。詳しいことまでは分からないんだけど、金の話をしていることは分かる。
ところが演奏が始まると、チャーリー・カレロは「キープが甘い」とか。極め付けだったのはWINDY LADYでソロを吹いているジョージ・ヤングに、吹き始めて30秒くらいして突然テープを止めて、卓を叩いて「ジョージ!ドント・プレイ・ジャズ!プレイ・ロックンロール!」って。そんなに威張んなくてもいいじゃないか、って。それが、生まれて初めて見たアメリカのセッション。もっとも、いまだにあれ以上のすごいセッションは見たこともない。ロスに行ったらもう穏やかでね。
   
<プレイヤーの演奏が本当にすごくて、音楽的にカルチャーショックだった>
ロスとNYは雰囲気が違ったけど、NYは得てしてそうだね。僕はNYで5人くらいのアレンジャーとやったことがあるけど、だいたいミュージシャンに対して挑発的なことを言うのが好きだね。
クールスの時にジェフ・レイトンというジャニス・イアンの「17歳の頃」をやった人にブラスを頼んだんだけど、けっこうハイノートのキツいところまで書いて来たんだよね。トランペットはランディー・ブレッカーとジョン・ファディスだったけど。かなりスケジュールを無理して突っ込んだセッションで、彼らはその日、もう何セッションもやって疲れて来てるから、ヘラヘラやってたら最後のハイノートのところで「そんな音も出ないの?」って、アレンジャーが言うんだ。二人の顔色がパッと変わって「アゲイン!」 で、一発パーっと吹いて「どう?」ってブースを見る。
「やれば出来るじゃない」って。凄いよね。そう言うのはNYの色だね。ロスはそう言うことはないから。
だからフィル・スペクターのミュージシャンを追い込んでいくやり方なんかも、やっぱりリーバー=ストーラあたりで学んだんだろうね。リーバー=ストーラがNYでバリバリやっていた時代にね。
チャーリー・カレロが「リズムが甘い」って言うけど、いいや、どこが悪いんだろうって感じ。あの頃はドンカマなんかないじゃない。WINDY LADYはドンカマなんか全く使ってないけど、CIRCUS TOWNはやっぱり結構タイトな16ビートだから、チャーリー・カレロがドンカマ使うって言い出して。それも半端な音のクリックじゃなくて、カン!カン!って凄いキツいテンションを出して、これで行け!ってそれでも彼らはやっちゃうから凄いなって。
当時のアラン・シュワルツバーグは全盛期だから本当に上手かったよ。そのちょっと後で、マウンテンでフェリックス・パパラルディと一緒に来日してるけどね。
でも、スタジオではアラン・シュワルツバーグが一番優しかったんだよ。本当にメロウでね。「タツ、リラックス」って。こっちがガチガチだったから。
エンジニアのジョー・ヨルゲンセンフュージョン系の仕事が多い人で、この人も優しくて、その二人が助けてくれた。後はもう人種差別主義者ばっかりだったから。
ミュージシャンは白人で、トロペイはヒスパニック入ってるけどね。だって、ブレッカーなんて口もきいてくれない。MINNIEの時はワンテイクで、一発吹いて、それだけで帰って行った。あの当時は誰もが若かったしね。その後、日本人のアメリカ・レコーディングが増えたしね。
だけど本当に上手かった。あとチャーリー・カレロのストリングス。教会の中、つまりスタジオの中に入れられて「ここで聴け」って。「本当のストリングスはここで聴かなきゃ分からない。スピーカーから流れてくる音はストリングスじゃない」って。
事実、これが実にいい音してるんだ。特にビオラ。これじゃ日本の弦は敵わないなと思うよ。ビオラってキモなんだよ。
CIRCUS TOWNのイントロってチェロとビオラで始まるんだけど、その三連がこの鳴りで出るのか、って。本当に音楽的にはカルチャーショックだったね。これはすごいっていう。
トランペットのトップがブレッカーで、セカンドがジョン・ファディスでしょ。で、トロンボーンがデヴィッド・テイラーとウェイン・アンドレ、この二人も凄いんだ。テナーがジョージ・マージ、バリトン・サックスがロミオ・ペンク。これもジェリー・マリガンの弟子だった人だから、MINNIEのブラスのソリ(一部のパート達だけの合奏パート)があるんだけど、これもスタジオの中で聴いたんだ。
本当に凄かったよ。
【第18回 了】