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ヒストリーオブ山下達郎 外伝6 寺尾次郎インタビュー

シャルル・アズナブールの「イザベル」にすごく反応したんです>
生まれは東京、大田区の洗足池というか、まああの辺ですね。その辺りで5分くらいの所に引っ越したのが一回あったんですが、だから22歳までかな。22までは地元で居ました。
その後は引っ越し好きなので、10回以上しましたね。上大崎から始まって、東中野、中野、あとずっと中央線なんですよ。高円寺も居たし。
兄弟は4つ上に兄貴。こまっしゃくれた子供だったと思いますよ、教師のウケは良い。お袋がPTAの会長とか副会長をやっていたんです。教師というのはそういう人の子供を割と可愛がったりするでしょ。今じゃあり得ないエコひいきですよね。
お袋の親父がやっていた工場があるんですけど、親父が養子として入ってきてそこを継いで、そこも10年以上前にたたんじゃいました。NECの下請け工場だったらしいです。テレビの部品を作ったりしていたと聞いてます。その仕事を継げ、というのは全然無かった。お袋も「お父さんの代までで良いから」って言ってました。
子供の頃はなりたいと思ったのは、電車の運転手ですかね。今でも僕は電車がすごく好きなので。免許も持ってないですから、どこへでも電車で。あと飛行機が嫌いなんで、だいたい電車なんですよね。
音楽環境は家に78回転のSPがあったんです。僕が幼稚園の頃なんですけども。SPで「お百姓さんありがとう」とか「汽車汽車ポッポ」とか童謡は聴いてましたね。ステレオもわりと早くからあったんですけど、小学生の頃はソノシートってありましたよね、あれで「鉄人28号」や「鉄腕アトム」の歌を聴いたりとか、その程度ですね。
で、うちの4つ上の兄はクラッシックが好きだったんです。僕はクラッシックはあまり好きではなかったんですけど、兄貴がシャンソンを聴き始めた。僕が小学校3、4年の時かな。聴いていたのがシャルル・アズナブールで、僕はそれは面白いなって。「これ何?」って聞いたら「シャンソンだよ」と。曲は「イザベル」が好きだった。シャルル・アズナブールの「イザベル」にすごく反応したんです。
あとは兄貴がペトゥラ・クラークが好きだったんで「恋のダウンタウン」とかを僕も聴いていました。それからモンキーズに行って、世代的にはビートルズにはちょっと遅れてました。
僕は1955年生まれで、モンキーズが出て来たのが小5の時。あの頃は500円で33回転4曲入りのレコードがありましたよね。その中にビートルズの「ミッシェル」「ガール」とか4曲入ったのがあって。「ミッシェル」はいい曲だな、ってビートルズを見直したんです。
あと、その少し後にURC系の「フォークリポート」と言う雑誌が創刊されまして、僕はいろんなところに行くんですけど。割と関西フォークコンサートがなんとなく好きだったんです。12チャンネルでやっていた「ヤングタウン東京」ですね。桂三枝が司会してた。それで「フォークリポート」のことや、URCというのが出来たらしいって知ったんです。それで通信販売のアングラレコードクラブ(URC)に入ってました。僕は自分でコンサートに行くようなタイプではなかったので、レコードで聞いてたんです。僕は昔から反骨精神はあったので(高田渡の)「自衛隊に入ろう」の歌詞でぶっ飛びましたね。岡林さんの「くそくらえ節」とか「ヘライデ」とか、あの辺の歌詞がめちゃくちゃ面白かったですね。それで生ギターを弾いたりはしましたけどw でもフォークシンガーになりたいというのも無かったですね。ただ自分一人で歌ってました、何となく。
曲づくりの才能が無いってのは自分では分かっていたんで、一切それは無かったですね。あの頃だと(うたぼん系では)「ガッツ」っていうのを毎月買ってました。創刊号の日野皓正さんの写真がめちゃくちゃカッコ良かったのを覚えています。
    
<僕はキーボードだったんですよ。ピアノをやっていたので>
洋楽だとラジオを聴いてたので、やっぱりジェファーソン・エアープレインですね。一番初めは「サムバディ・トゥ・ラブ」とか「ホワイト・ラビット」とか聴いて。で、そこからシスコサウンドに行って、グレイトフル・デッドを知った。
僕はグレイトフル・デッドが今でも一番好きなんです。シュガー・ベイブと全然結びつかないんですけどね。デットとかあの頃はクイックシルバーメッセンジャー・サービスとか。僕はニッキーホプキンスが入った時代が好きだった。
それでシスコだけじゃなくて、他ももうちょっと見ようとしたら、マザーズっていう変なのがいて、ぶっ飛んだ。
当時フランク・ザッパマザーズのレコードはもう日本でも手にできたかもしれないけど、僕は知らなかった。最初にマザーズを聴いたのはワーナーから出た「いたち野郎」だと思うんです。あれが70年くらいじゃないですか? ジャケットのネオンパークのアートワークがすごかった。それで、シスコサウンドが中心だったけどマザーズもちょこちょこ聴いてました。
それで中学2年くらいになると、音楽をやっているやつと知り合うんです。そいつがギターをやっていて、いつも私服はジミー・ペイジみたいな格好をしていた。そいつの家がデカかったので、そこで音を出していた。
僕はその頃キーボードだったんですよ。ピアノをずっとやっていたものですから。3歳から10年間くらいクラッシックを。親に無理矢理やらされた。だからはじめキーボードでやって、その頃にちょうどディープ・パープルの「ブラック・ナイト」をやろうってことで、オルガンがフィーチャーされているものをやったりとか、フードブレインと言う柳田ヒロさんが居たバンドのアルバムの中の曲をやったりとか。
だから、まだはっぴいえんどとかには到達しないんですけどね。何となくそう言うのをやっていた。
で、高校になると他の中学から来た奴も居たりして、ガロが好きな奴にガロやろうよ、って言われたんです。まあ曲は好きだったけど、僕は歌が全然ダメだったんです。でも、そいつは割と歌えたんで、後2人入れて4人編成でそう言うのをやったりとか。
そのガロ好きだった奴が、ある時マーク・ボランに目覚めまして「テレグラム・サム」とかをやったり。やっぱり流行に流されるw
エスが出て来たりとか、キーボードが活躍する曲が増えて、一時期、僕はプログレに走ったんです。演奏はできませんから聴く方で。だからピンク・フロイド芦ノ湖にも行きましたし。
その頃、新たに知り合った奴のいとこがドラムがすごくうまいって聞いてたんで、一緒にやってみたんです。そしたらまた別の奴がギターを連れてきた。その4人がバックバンド志向だったんですよね。
僕はキャラメル・ママ南沙織のバックとか、スリー・ディグリーズのレコーディングをやってるという情報を仕入れて、やっぱり上手いね、この人たち、こういうバックバンドやれたらいいね、っていう話をしてたんです。
僕はイベント仕掛けたりするのが割と好きだったので、72年頃、僕が仕掛けて、漣(さざなみ)コンサートというイベントを目黒公会堂でやったんです。
友達の高校のバンドとかに声をかけて。「ニューミュージック・マガジン」の平田国二郎さんが取材に来てくれたんです。一時期、彼がジム・ジャームッシュのプロデュースをやっていたので、平田さんとは、その後も映画関係も含めて付き合うことになるんですけど。
その時バットシーンってCharがいたバンドのドラムをやってる奴が、同じ高校だったんで出てもらったり。僕らは僕らで誰が歌ったのか忘れましたけれども、バックバンドみたいな形でやったり。
だから音楽はなんとなくやってたんだけど、練習場所もそんなにはないですし、歌う人間が基本的にはいないわけですから。ただ趣味でやっているようなもので。
それで、74年に(慶應)大学に入ってからは、自由が丘のレコード屋でバイトをしながら、夜のカフェでベースを始めたんですよ。五反田と鶴見と池袋と川崎って最悪のとこばっかりなんですけれども。
最初は友達がやってたんですよ。その事務所に置かせてもらって、そしたらトランペットとドラムと僕とあとギターかな。
で、トランペットが「俺は進駐軍をずっと回っていたんだ」って言う、50半ばくらいのおじちゃん、いろんな面白い話を聞かせてもらいました。曲については譜面はコードが書いてあるだけですから「タブー」とか「軍艦マーチ」とかね。「ウラシマ」とか「ハワイ」って、いわゆる二流半のキャバレーですw
ベースを弾くことになったのは中学3年か、高1の時、ベースをやってるのが嫌な奴だったんで、みんなで追い出したんです。で、ベースがいないんで僕がやることになった。その頃は特に気に入ってるベーシストはいないんですけど、後で考えると、あの当時のチャック・レイニーがすごく好きでした。いろんな人から教えてもらって曲を聴いて。チャック・レイニーとスタッフのゴードン・エドワーズとかすごい好きだし。ゴードン・エドワーズとユカリのドラムなんかを絶対合うだろうなあと思いながら聴いていた。ドラムもSteve Gaddが好きだし。あとはやっぱり細野さんのベースですね。なんでこんなフレーズが弾けるんだろうって、ぶっ飛びましたもん。何なんでしょうね、やっぱりギターをやっていた人の方が、面白いフレーズを弾きますよね。
ピアノはソナタの手前までで。で、中学受験しろって言われたときに僕は嫌だったんですけど、いろいろ考えて「ピアノを止めさせてくれるんだったら受験する」って。じゃあ、やめていい、って。
     
<ユカリが「お前、シュガー・ベイブに来いへんか?」って>
その頃いろいろやりながら、音楽どうしようかなと思ってたんです。レコード屋のバイトも面白かったし。ちょうどユーミンの「ミスリム」が出た頃で。レコード屋だから勝手にかけられじゃないですか。で、「ミスリム」聴いてぶっ飛んで。見たらメンツがキャラメル・ママあーすごいなと思って。
その時に変なめぐりあいで、レコード屋のすぐ近くに、赤い鳥の山本夫妻がお住みになっていて、よくお客さんとしていらしてたんですよ。レコード店の店長と夫妻はすごく仲が良くて。
僕は赤い鳥なんて興味ないなぁって思いながらw「いらっしゃいませー」って。そしたらある時、山本さんが「寺尾くんバンドやってるんだって? 今度僕らがこういうレコード出すんだ」ってテープをくれたんですよ。見たらバックがティン・パン・アレーじゃないですか。これは仲良くしないとってw
それからなんだかんだ山本さんと割と話すようになって。そしたら「一度君たちのバンドを聴かせてくれないか」って言われたんです。もちろん、いいですよって、それでバンドの連中に声かけて。誰がボーカルがいないかって言ったら、ギターのやつが引っ張ってきたのが佐野(元春)さんだったんです。
彼のノートにはたくさん曲が書いてあって。面白いコード進行の曲書く人だなぁと思いながら、それで2回練習したのかな。
山本さんが、渋谷のヤマハのスタジオとってあるからって。そこで僕ら待っていたら、山本夫妻が来て、それからしばらくしたら松任谷正隆ユーミンが来たんですよ。僕は松任谷さんには驚かなかったんです。と言うのは、弟の松任谷愛介とは同級生なんですよね。愛介が上手いってのは知ってたんで、兄貴の方もそれはそうだろうなって。でもユーミンも来たんで、これは本格的なオーディションだろうと。
演奏は1時間くらいやったんですよね。終わって「後で寺尾くんのところに電話するから」って山本さんがおっしゃって、夜、電話がかかって来たんですよね。「君とドラムの人だけ来られるか?」って。「行きます!」って即答でw。
それでハイファイセットのバックをやることになった。あとの二人には裏切り者って言われましたけどね、当然のごとく。
で、ハイファイでやることになって1ヶ月半くらい合宿したんです。その時、初めてバックで来たのがユカリ。僕といつもやってるドラマーとダブルドラムでやるっていうんで。
そして(伊藤)銀次なんですよね。あとは松任谷さんが来て、ユーミンが時々遊びに来るみたいな形で。そこで初めて僕はユカリと銀次と会ったわけです。
ユカリは最初から人間的にすごく好きだった。関西人だしw 色々調べてみると「村八分」に居たとかw 怒らせたら怖いんじゃないかとかw 
リハーサルの1ヶ月半、ほとんど住み込み状態で。まあ2、3回帰ったかもしれないけど。
確か75年の2月かな、日比谷公会堂でデビューコンサートをやったんです。客がもうめちゃくちゃ少なくて50人くらいしか居ないんですよね。それでもギャラとして8,000円くらい貰えて、音楽をやってお金もらえるのは良いなって思ったんです。
それでバック・バンドになったんですけど、ハイファイはライブハウスに出るような感じじゃないんで、東京と京都でライブをやった以外はFMとかAMとかそれくらいだったと思います。その間ドラムとベースなんで、僕はユカリとどんどん仲良くなって、彼が家に泊まりに来たりするようになったんです。
そしたら3月の半ばぐらいにユカリが泊まりに来た時に「おまえ、シュガー・ベイブに来いへんか? わし、誘われてるねん」って。ベースはユカリが好きなヤツ連れて来いって言われてるから、できれば来てくれたら嬉しい、って言うんで、それも即答で「行く!」ってw
シュガー・ベイブは好きだったんですよ。ヤマハの店頭ライブ(74年12月11日)を僕は観に行ってるんですよ。それで僕もユカリもある程度大人になっていたんで、これは山本さんに土下座するしかないだろうって。次の日に連絡を取って「ちょっとお話があるので寺尾と伺います」って行って。ユカリが年上なんで話して、二人で土下座して「お願いします、許してください」って。初めはワーッってなったけど「俺ははらわた煮えくり返っとる。でも、お前らが本当に行きたいんだったら止めてもしょうがない」「ありがとうございます!」って。だから僕は裏切り人生なんですよw 音楽に対して。
   
<やっていて気持ちいいんですよ、ユカリの太鼓は>
山下と初めて会ったのはユカリにテイクワンに連れて行ってもらったんじゃないかな。笹塚に行ったんでしょうね。とにかく初めて会った時に「曲、全部覚えておいて」って言われて「はい、もちろん」ってw 態度はでかいとは思ったけど、でも基本的に恥ずかしがり屋だから余計その分ツッパっているんだろうなと思うんです。
僕はシュガーを見てたんで、山下の声の才能とか、歌の才能やなんかを良く分かっていたし、まあユカリと一緒だったらやっていけるだろうと思って。それで3月下旬か4月の頭に、確か御苑スタジオに集まって練習したんです。ある程度コピーしていたんで、それをやって。そしたらコーラスの練習しようかって。「俺はこんな声だからダメなんだ。皆さんと違うから」「いいから出してみろ」「アー」って言ったら「ああ、ダメだ」ってw 唯一歌えないメンバーになったんです。
ベースについては、やっぱり初めは基本的にはコピーしたんです。やっぱりそのベースが良いと思って作っている訳ですし。福生でオーディション的なこと? ありましたっけねえ。そこでダメだったら困るなw 「来い」って言われてハイファイ辞めてるのにw 
銀次については、ベルウッドのごまのはえのシングル聴いて、面白い曲作る人がいるなあって思っていたのと、やっぱり、9.21のはっぴいえんど解散コンサートでのココナツ・バンクもすごい面白かったですから。でも後で、全部大滝さんがベースからフレーズから決めたって聞いて、ああそうなのか、って思ったんですけど。それでも僕は銀次とは話が合ったんですよ。
山下は音楽的知識があまりにもすごくて、僕は追いつけない。だから山下とは音楽的な話をした覚えは、ほとんど無いんです。ビーチ・ボーイズがめちゃめちゃ好きだったわけでもなかったし。
銀次は、まあ、あの人柄ですね、僕が好きだったのは。銀次がシュガーに入った時に、僕は面白くなるんじゃないかと思ったんです。最初はユカリと僕が入って、その後に銀次が加わった。3人まとめて入ったというんじゃなかった。だから山下とすればコーラスを太くしたかったのか、ツインギターでやりたかったのか。
銀次が辞めるって聞いた時、僕はびっくりしました。他のメンバーはもしかしたら知ってたかもしれないけど。山下から「銀次、辞めるよ」ってw「今度のコンサートから銀次抜きだから」って言われたんです。そうか、プロって厳しいなーってw
シュガーの練習はそんなにハードでもないと思いますよ。基本的には山下が作った曲とか、ター坊が作った曲をみんなで形にしていく感じで出来たし、これは謙遜でも何でもなく、僕は自分でベースが上手いとは思ってなかったんです。でも、ユカリだとすごいやりやすかった。ユカリのタイトなタイムキープだとついて行けたんです。だから会話じゃないんですよ、どっちかというと僕が電車の車掌さんみたいにw やっていて気持ちがいいんですよ。ユカリの太鼓は。
僕はドラマーで一番好きなのは林立夫さんとユカリなんです。あの抜けるようなスネアの音が好きなんです、二人とも。基本的に自分は上手くなかったと思ってるし、シュガーは山下のバンドだって言うのは分かっていましたから。だからそれ以外のところで、なにか表現できれば良いなって思ってましたけどね。
   
<スタジオで初めてクマというあだ名の正体が分かったんです>
バンドでは山下しかほとんどしゃべらなかったですね。酒飲んだりするとまた違いますけどね。銀次がいた頃は銀次がよくしゃべってましたよね。ステージは基本的には山下ですけども、昔はご存じのように曲名しか言わなかったんで。次はなんとかです、って言って、またブスっとしたまま演奏する。メンバーみんなブスっとしたまま演奏してw
僕がいた時期はライブはいっぱいやってました。僕はライブだとやりやすかったですね。ユカリがすごい飛ばしますんで。山下もそれは好きだったんです。当時ひ弱に見られるのが一番嫌っていましたから。都会の軟弱なもやしっ子バンドって言うのを嫌がってたので、音はでかかったですね。
収入はその頃は実家にいたので。あと山下がCMの仕事をとってくるんで、それがでかかったですね。僕は初めてクマと言うあだ名の正体がわかったんです。スタジオの中で考える時ウロウロするからw
でもやっぱり凄いですよね。スタジオで山下を見てると「ここでちょっとハモンド入れてみようか」とか、アイデアが次から次へと出てくる。だからその仕事が多かったですね。CMってすごいなぁーって、徹夜でしょ。待ち時間も含めて8時間だったら、ある程度お金になりますから。ギャラに関してはある程度良かったし、初期の頃はター坊なんか、長崎まで車で行ったとか。
印象的なステージは、厚生年金と九頭龍かな。厚生年金ってどっちかって言うと、コンサートを観に来る方だと思っていたから、こんなとこ出ちゃうんだと思って。お客さんも入っていましたしね。あれはびっくりしましたね。
あと九頭竜の時はテイクワンのスタッフの黒川さんの2トン車で、僕一緒に行ったんですよ。僕は黒川さんの職人ぽさがすごく好きだったんで、余計印象深いですね。九頭竜のステージは気持ちよかったですよ。やっぱり野外だし。それまでも野音とかやってましたけども、九頭竜はすごく広々していた気がするんですよね。すごく気持ちが良かった。もうほとんど僕らはハード・ロックバンドだと思ってましたからw   たまたまハードロック・バンドにコーラスがついただけって言う。
メンバー間のコミュニケーションはほとんどバラバラでしたね。ステージが終わると「じゃーねー」って。僕は映画もめちゃくちゃ好きだったんで、地方公演に行くと「じゃあ僕映画見に行ってくる」って映画館行ってましたから。
あとコンサートで印象に残っているのは仙台。NIAGARA MOONのコンサートだったかな。なんでかと言うと、その日は僕の大学の学科分け試験の日だったけれど、まぁいいやと思って、仙台に行った。それでよく覚えてる。僕は仏文科に行きたかったけど、受けられなかったから史学科。歴史も好きなので西洋史をやってたんですけど。
大学は一応出席してましたね、必要な科目だけは。だからベースを布のケースに入れて、肩にかけて授業を受けていた。
そうすると僕がプロになったってことを知っている人もいたんです。シュガー・ベイブは当時知られていないわけですけど、プロになったらしいと。面白かったのは友達がリアル・マッコイズと言うサークルに入っていたんですよ。そこでまりやと会ってるんですよ。可愛い子だなぁと思って。その時セッションして、まりやがやったか忘れましたけど、一回やってくれないかって言われて、いいよって。
    
<僕はそれから一度もベースを弾いてないんです>
解散は山下から、3月で解散しようと言われたのかな。ただその前から山下のソロの話とかは洩れてはきてました。解散が決まった後、僕とユカリと何人かで、1枚目のソロアルバムに入るWINDY LADYとかを向こうのミュージシャンに聴かせるので、悪いけどやってくれって、やった覚えがあります。「そうかウィル・リーとかと仕事するんだ」と思ってw  ウィル・リーも好きだったから。
解散の通達を受けても、別にあまり感じませんでした。あー終わっちゃうんだって。それはしょうがないと思いました。山下のバンドだと思ってましたから。だからクレイジー・キャッツハナ肇が「解散!」って言う事みたいなもんじゃないかと思って。切羽詰まった事はなかった。それはまだ実家にいたからかもしれませんね。そういう意味では僕はメンバーの中で一番もやしっ子だったかもしれないw
大滝さんに「学生アルバイト」ってあだ名をつけられましたから。
解散後はユカリや坂本と一緒に、ター坊の一枚目のLP(Grey Skies/76年9月発売)を作って。ライブでもはじめの頃は坂本も入った形でやってたんですけど、坂本が忙しくなったし、ター坊も固定したバンド作りたいって言うんで。ギターは原くんて言って今何してるか全然知らないけど、ドラムが女性の人だったんじゃないかな。その頃ユカリもセッションとか、バイバイ・セッションバンドとかで忙しくなっちゃったんで、ちょっともう続けていくのは無理かなって、僕は思っていたんです。
それで、当時TBSで日本のロックの演奏を30分聞かせるって言う番組があって、青山ベルコモンズの上のホールで収録してたんですよ。その番組にター坊が出ることになってたんです。坂本とユカリと僕とター坊で。そしたら当日の本番前になって、ター坊のマネージャーが「今日はこれに着替えて」って野球のユニホームみたいなお揃いの服を、みんなに着ろって言うわけです。僕が一番嫌いなのは制服なんですw  それもこんな時に言うから、なんだって。
そこで僕はもうやめようと思ったんです。あまりに直情径行ですが、音楽自体をやめようと。それで今日はやるけど、悪いけど明日何時にどこそこの喫茶店に来いって言ったんです。で、喫茶店に行ったら、なんと坂本もター坊もいたんです。3対1でしょ。で、確かその10日後くらいにター坊のFMか何かの録りがあったんです。
迷惑かけるな、と思いつつも言わなくちゃいけないと思って。「僕は辞める。僕は信頼関係の上でやっていたんだから、申し訳ないけども。魂を抜かれたような気がするから。そういうことじゃ僕は音楽をやっていけない。でも、皆さんに迷惑かける事はわかるから、僕はこれから先、絶対ベースを弾かない」って。
僕はそれから一度もベースを弾いてないんです。ベースも田中章弘さんに売っちゃったんです。
坂本が一生懸命理論的なことを言って説得するんだけども、こっちだって理論はあるんでw  結局諦めて。
僕はそれから新しい音楽ってほとんど聞いていない。76年以降の日本のものは。まぁどこかでは聞いてるのかもしれないけど、意識して聴いたっていうのはないんですよ。林さんのこの前の2枚組を久しぶりに買って、やっぱりいいなぁと思ったけど、山下のも聴いてないし、ター坊も聴いてないしね、あっこちゃんも聴いてないし、ユーミンも「コバルト・アワー」で終わってますね。だからなんて言うかな、あまりに差がありすぎたんですよね。音楽的に。
つまり僕の音楽性と、彼らの音楽性との差がすごくありすぎたんです。
あと僕はユカリじゃないと無理だと自分で思い込んじゃっていた。
2年くらい前に、自宅のある荻窪のなんとかと言うところで「ぴあ」をパラパラ見てたら、四人囃子の森園さんのセッションでドラムに上原裕って書いてあったんで、つい思わず酒を一本買っていきましたよw 20年ぶり位かな、嬉しかったですよ、すごく。
78年の頭にベースをやめて、考えたら自分自身のできることと言うのが、音楽と英語とフランス語しかなかったんですよね。
で、音楽をやめちゃったから、後は映画関係に入ろうかなって。洋画が好きだったので、配給会社しかないと思って、東和とヘラルドを受けて、ヘラルドに入って。ただそれだけ。
その後坂本とも山下とも映画の宣伝で再会したんですけど。それは面白かったですね。まぁ何かつながっているのかなって思いましたけど。
だから変に僕は冷めているんですよ、ずっと自分の好きな音楽ができればいいって、普通はそうだと思うんですけど、そういうことをいくらやっても全然プロになれない方もいるでしょうし。だから、そういう方たちから見ると贅沢ですよね。そう思いますよ。
自分の好きだったバンドに入れて、好きだった大滝さんとか細野さんとかと、ティン・パンのコンサートに一緒でられて。普通はそのままいるでしょうね、たかがユニホーム1枚でw 僕は自分で決めたことを変えるのは嫌いなんです。すごく頑固な部分がどっかにあってね。
もうベースを弾くのは嫌なんです。憲法9条と同じで、戦争しないって言ったら、しないんだw
ベースを弾きたいとも思わないですね。家で遊びでも。だってベースがないですから。
【外伝6 了/2007年インタビュー/寺尾次郎 1955-2018】

鼎談2017/細野晴臣・山下達郎・星野源

〈好きなことしかやってないからね。前は辛いこともあったけど(細野)〉
  
山下 細野さんとちゃんとお話しするのは、今日が初めてなんですよね。
星野 初めてなんですか? 
細野 そう。長い付き合いなのに初めて(笑) 
山下 「パイドパイパーハウス」の店長だった長門(芳郎)くんの結婚式の時くらいですね。あの時はずいぶん一緒に居させていただいて。後はLDKスタジオに見学に行ったとき。
星野 じゃ、お会いするのも何十年ぶりって言うことですか?
山下 35年とかそんな感じ? 坂本(龍一)くんとは昔から仲良かったけど、細野さんとはなかなか接点がなくて。
細野 不思議だよね
星野 接点があるものだと勝手に思い込んでいて、今日は3人でお話しできたらと思ったんですけど。
山下 まぁレコーディングに呼んでいただいたりとかはありましたけどね。泰安洋行とか。
星野 「蝶々san」の船長の声ですね。
山下 あとティン・パン・アレーも。コーラスでは細野さんが嫌がることばっかりやっちゃって(笑)
星野 ハハハ。嫌がること
山下 ティン・パンが演奏してる曲のコーラスはずいぶんやらせていただきました。当時。コーラス・ボーイが全くいなかったから。 
細野 そうそう、ずいぶんやってもらってる。助かってたよ。
山下 スタジオの中ってお互いそんなに話さないんですよ。それこそ3時間で2曲あげるみたいな感じだったでしょ? どんどん機械的にやっていくから。CMだって15秒30秒ものは、3時間でカンパケですから。
細野 そうそう。
星野 じゃお仕事は一緒にしてたけど、それからずいぶん間があいちゃったと。でも、お二人ともずっと音楽を作られてますよね。作品もそうだし、ライブも活発にされてるし。
山下 細野さんはこの数年間、ライブを活発になさってますね。
細野 うん、好きになってきちゃった、ライブ。
山下 ライブ嫌いで有名な細野さんが、ねえ。はっぴいえんどの頃、細野さんが新幹線のホームにちっとも来ないので、マネージャーの石浦(信三)さんが狭山の家まで行ったそうですね。そうしたら細野さんが風呂場に隠れてたって(笑)。ライブに行きたくないっていう理由で。それ、大滝(詠一)さんからずいぶん聞きましたよ。
細野 そんなこともあったのかな(笑)。全然覚えてない。いや変わったんだよね。
星野 今歌うのが楽しいですか?
細野 楽しい。なんでこうなったんだろうね。
山下 やっぱり好きなことだからじゃないですか?
細野 そうだね。好きなことしかやってないからね。前は辛いこともあったけどジェームス・ブラウンの前座で出て、座布団が飛んできたりとか(笑)
星野 僕もビーチ・ボーイズの前座を務めるって言う、すごい大変な経験がありました。オープニングアクトは「アメリカ」だったんですよ。その前に日本人に出て欲しいって呼んでいただいて、大好きだったからやらせてもらったんですけど、客席がほんとに怖かったです(笑)細野さんはその時客席にいらっしゃって。それが救いでした。
細野 星野くんを見て、その後ビーチ・ボーイズが出てきて、3分の1位で外に出ちゃった(笑)これがビーチ・ボーイズかって。悲しくなっちゃって。
山下 そうですね。今はビーチ・ボーイズが日本に来ても、行かないもん。でもそうは言いながら、昔大阪フェスティバルホールのブライアンのソロに行ってきたんです。キーボードは弾かないし、歌詞はプロンプターだし、演奏は全然アレなんだけど、本人がやってるともう駄目。古今亭志ん生の落語を観るみたいな気分で。
細野 ほんとほんと。
山下 それがまた切ないの。許す自分が切ない。
細野 いろんな思いが来るからね。そういう存在なんだよ、Brian Wilsonて。
星野 昔、細野さんがビーチ・ボーイズみたいに歌いたかったけど、歌えなかったと言う話が聞いたことあります。
細野 大滝くんの前でサーフィンUSAを買ったらケラケラ笑われて。
山下 ハハハいいじゃないですかね
細野 ちょっと低い声でね(笑)♪If everybody had an ocean〜
山下 細野さんの声がいわゆるバリトンですからね。
細野 あぁ小西(康陽)くんもそんなこと言ってたね。テネシー・アーニー・フォードみたいだって。
山下 話し声も低いです。でもその声のトーンとか口調とか、全く変わってないです、この30年間。
細野 変わってないかな。自分だってそうじゃない。全然変わってないよ
山下 そうですか?
星野 ハハハ、お互い自信無いんですね。
  
  
〈初めて自分で演奏したのは幼稚園の時に木琴で弾いた“ライフルと愛馬”でね(山下)〉
  
山下 細野さんは最初はギターだったと伺ってますが、どうしてベースになったんですか?
細野 中学の時エレキブームでね。メンバーを集めると、みんなベンチャーズをやりたがるんだ。で、みんなギターしか弾かない。しょうがないから僕はベースをやって。
山下 しょうがないからベースになったんですか?(笑)でも僕が申し上げるのもなんですが、細野さんはリズムのポイントがとにかく正確で。昔、池袋のヤマハにWIS(ワールド・インストゥルメンタル・ソサイエティ)って組織があって、毎月1回オーデションをやって、エースって言う一番うまいメンバーに選ばれると、ビアガーデンのバイトとか紹介してくれるっていう。そこで細野さん達がおられたバーンズと言うバンドがエースメンバーだったじゃないですか。
細野 そう?
山下 細野さんがベース。松本隆さんがドラムのバンドで、ジミヘンやヴァニラ・ファッジをやっていた。僕らもオーディションを受けて、シニアってエースの1つ手前まで行ったんだけど、虎ノ門発明会館でライブをやったときのトリが、バーンズだったんです。Keep Me Hanging Onで松本さんのドラムたるや、すげえ、カーマイン・アピスまんま、みたいな。
細野 そんなによかったんだ。
山下 あまり印象にないんですね。
細野 ないんだよ。あれは割と手伝い気分だった。
山下 そうなんですか? でもベースとドラムの上手さは鮮烈に覚えてますよ。僕は当時高校1年で。
星野 じゃぁお二人はその時すでに同じステージに立っていたんですね。それもすごい。
山下 僕らビーチ・ボーイズコピーバンドでHushabyeとかそういうのやってたんです、コーラスで。そしたら次のバンドからすれ違いざまに「お前らは、なんでそんなつまらない音楽をやってるんだ」って。
星野 嫌ですね。
山下 あの時代は完全にベンチャーズの影響で、ギターの一番上手い人がヒーローだったんですよ。その人がリードギターで、その次がサイドギター、ベースってだんだん格が下がってきて、ドラムとキーボードはちょっと別の領域。で、何もできない奴がヴォーカル。だから日本ではヴォーカリストが育たなかった。
細野 ヴォーカリストはほんとに不在でね。何度困ったことか。
星野 なんでですかね、ほんとに居ないですよね。僕もヴォーカリストが周りになくてSAKEROCKインストバンドになりました。
細野 結局、自分で歌うことになって。
星野 そうなんです。細野さんがビーチ・ボーイズみたいに歌おうとして歌えなくて、ジェイムス・テイラーを聴いて、こう歌えばいいんだと思ったとか、達郎さんがブルーアイドソウル聴いて日本人がソウルやR&Bをやるってところにシンパシーを感じたとか、そういう話に僕は希望を見出して、最終的に自分も歌っていいんだと思いました。
山下 まぁでも、グループサウンズとかみんなそうだったしね。細野さんがギターを弾き始めたのは、いくつなんですか?
細野 小六だね。
星野 早いですね。
山下 きっかけはなんですか?
細野 クリスマスに銀座の山野楽器に連れていかれてうろちょろしてたら、コートの袖にギターが引っかかって。それがジャラーンってなって、ゾゾゾってきて、その6,000円のクラシックギターを買ってもらってから。
星野 そこで引っかかってなかったら、違う人生になってたでしょうね。
細野 違ったんだろうね。
山下 練習は結構されたんですか?
細野 最初にね、Emのワンコードで弾けるハンク・ウィリアムズのKawーLiga って言う曲をズンチャン、ズンチャンって、ずっとやってた。
山下 僕らの時代は「花はどこへ行った」でしたね。あれは循環コードの曲でC ーAmーFーGって延々続くんです。それをみんなで練習してたんだけど、Fが来ると押さえられないって言う。
星野 僕らの世代は循環コードの定番だったのはブルーハーツでした。コードが少なくて。歌っていて気持ち良い。
山下 邦楽なんだね、もう。
星野 みんな邦楽でしたね。でも僕は親がベンチャーズタブ譜を持っていたんですよ。ホチキスで止めたみたいな古いボロボロのやつ。だから最初はベンチャーズでした。
山下 どうしてギターに興味を持ったの?
星野 親がギターを持っていたと言うのと、中学生になってみんなギターをやり始めたので。置いてかれると嫌だなって言う、最初はそういうちゃんとしてない理由です。
山下 やっぱり多かれ少なかれ、音楽に興味のある家庭ですよね。細野さんも星野くんも。うちもそうです。
星野 ご両親がやられたんですか
山下 いや両親とも映画が好きで池袋に住んでたから、日勝地下とかの名画座に毎日のように連れていかれて。「リオブラボー」は7回観てる。だから初めて自分で演奏したのは、幼稚園の時に木琴で弾いた「ライフルと愛馬」ですね、ソミドミドラドというね。
細野 そんな幼稚園児見たらびっくりするね(笑)。
  
    
〈この3人でベンチャーズをやるのはやばいですね(星野)〉
 
星野 達郎さんが洋楽に目覚めたのは?
山下 もちろんベンチャーズから。中高6年間とブラバンでドラムだったから、ベンチャーズへの興味も、とにかくドラム。リードギターはコードも知らないけど、ドラムならコピーできる。
細野 じゃあ僕たちでバンド組めるじゃん。ギター、ドラム、ベースで。
星野 ハハハ。この3人でベンチャーズやるのはやばいですね。達郎さんが歌いだしたのはいつぐらいからでなんですか?
山下 歌ねえ、いつと言われるとなかなか難しいんだけど、小学校高学年から歌の成績は良かったですよ。
細野 少年合唱団みたいなのに入っていたの?
山下 いや、入っていません。中学の時に組んだアマチュアバンドで、元はスペンサー・デイヴィス・グループとか、そういうのやってたんです。だけど僕にビーチ・ボーイズを教えてくれた親友が、そんな一般的なものはやめて、ビーチボーイズとかをやろうと。最初にトレメローズのSilence Is Goldenをコピーしたんですね。コピーって大事じゃないですか。その仲間の中に鰐川って言うシュガー・ベイブのベースになるヤツがいたんですけど、彼のコピーは本当に正確で、例えばトレメローズのイントロでみんなが適当なことをやると「そうじゃないよ、こうだよ」って。
細野 そういう人がいると助かるね。
山下 本当に同じ音になるんです。だったらコーラスはどうなんだろうと思って、そこからですね。ビーチボーイズとかトレメローズとかを耳コピするようになって。でもダビングが多いから、例えば「英雄と悪漢」なんて、どうだかわからないわけですよ。だけど、フォー・フレッシュメンなら一発録りで四声だから、絶対にコピーできる。だから一生懸命やって、そこから僕はコードテンションを覚えたんです。僕の音楽理論は全部フォー・フレッシュメンから。これはIn This Whole Wide Worldのあそこだな、みたいな。
星野 すごい。そこから歌をやることになったんですね。
山下 うん、裏声を出せたのが、僕ひとりだったんで。
星野 作曲はいつ頃からですか?
山下 最初は中学卒業くらいにインストを数曲作ったんだけど、まともに作り始めたのはシュガー・ベイブからですよ。それまでは遊びですから。細野さんは曲を作り始めたのはいつ頃ですか? バーンズの時はコピーですよね。
細野 コピーばっかり。
山下 じゃ、はっぴいえんどの時が初めてですか?
細野 バーンズで2曲ぐらい作ったんだけど、それは習作だね。今は全然聴きたくない。
山下 細野さんは昔のものを聴きたくないって言うんですよ。どんどん前に行く人だから。30年くらい前かな、音楽雑誌のインタビューで「自分みたいに全く同じことをやり続けるか、細野さんみたいに千変万化して変わり続けるか、道は2つしかない」って言ったことがあります。中途半端はダメなんだって。
細野 その極端なのが、ここにいるんだ(笑)。
山下 はっぴいえんどをやって、Hosono Houseがあって、トロピカル路線に行って、その後はYMOでしょう? その変わり方ってちょっとないですよ。
細野 だから、後ろを振り向くとだれもいない
山下 ハハハ。飽きちゃうんですか?
細野 飽きるっていうか、完成したらそれでおしまいじゃん。はっぴいえんどもそうだよ。「風街ろまん」ができてもうやることがないって満足しちゃったから。
星野 でも、今の細野さんの活動は長く続いてますね。
細野 ひとりだと解散できないから(笑)。


〈一流のミュージシャンに自分のイデアを強要することが正しいのか正しくないのか(山下)〉
  
山下 この数年ずっとアルバムを聴かせていただいて、やっぱり好きなことをやっていらっしゃるから、本来の細野さんの空気感っていうんですかね、それで成立することをやっている感じがして。
細野 そう。それは歳を取ったからできるんだよね。しがらみがない。義理もない。好きなことだけをやる。それは歳を取らないとなかなかできない。
山下 そうでしょうね。早くそうなりたい。
星野 達郎さんでもしがらみを感じる時ってあるんですか?
山下 ありますよ。何のしがらみもなく、アルバムを作りたいと思うもん。そうしたらすぐできるのに。
細野 やったら? 手伝うよ。大滝くんにもみんなで手伝う、って言ったんだ、なかなか作らないから。そしたら「それは細野流の挨拶だ」ってかわされちゃって。
山下 いや、細野さんにこうしてくれなんて誰も頼めないですよ。
細野 そうかな?
山下 「SPACY」で細野さんにベースをお願いしたでしょう? あの時、そう思ったもん。一流のミュージシャンに、自分のイデアを強要することが正しいのか、正しくないのかって。ほんとに優秀なミュージシャンは自分で考えて、自分で作れるんですよ。だからもしかしたら自分のイデアと合致しないことになるかもしれない。
細野 あの時はどうだったの?
山下 いやいや、あれはもう考えた通り。おかげさまで。
細野 ああ、よかった(笑)
星野 でも人選というか、誰にやってもらうかでほぼ決まる感じはありますよね。
細野 まぁ、そうなんだよ。
山下 スタジオミュージシャンが全盛の時代は、他人の仕事でも自分と同じメンバーが演奏するでしょう? そうすると自分の音って何なんだろうと思うんです。で、バンド上がりだから自分のリズムセクションが欲しいなって思ってくる。
星野 すごくわかります。
山下 そう思った時に、ちょうど青山純っていいドラムが出てきたので、これでレコードとライブが全く同じ音になるって。それすごく重要だから。
細野 僕もそれに近いよ。同じ。
山下 細野さんはやっぱりリズムセクションにすごくシビアですよね。だからドラムは松本さんでありミッチ(林立夫)であり(高橋)幸宏さんであったり、って言う。
星野 今は伊藤大地くんですね。昔からの仲間なので嬉しいです。
細野 大地くんはすごく成長してね、ベテランになってきた。
山下 でもリズムセクションで実はベースが結構精神的なリーダーで。
細野 ほんと?
山下 そうですよ、ベースが引っ張ってるんです。
細野 そんな話を時々聞くけど、実感は無い。
山下 実感ないですか(笑)。やっぱり細野さんは細部に至るまで満足しないと気が済まない人なんだな。
細野 そんなこともないよ。別に不満の塊でもないし。
山下 今までの全作品を振り返って、もちろん会心の作品は有るでしょうけど、目標値と実際に想定した値とのギャップってあるじゃないですか。変な話ですけど、例えば具体的にどの作品がその差が少なかったか、そういうのありますか?
星野 すごく厳しい質問(笑)
細野 尋問に近いよ。
山下 だって細野さんは、ある意味すごく実験的なんですもの。
細野 大滝くんもそんなこと言ってたよ、アバンギャルドだって(笑)
星野 逆に達郎さんはありますか?
山下 いや、自分の話はあんまりしたくないんだけど、僕の場合は総力戦だと思ってるんです。詩、曲、編曲、演奏、歌唱、エンジニアリングまで含めた、ひとつのトータルパッケージとして。で、僕は詩にそれほど秀でていると思ってないんで、そういうところを曲で補ったり、演奏で補ったり、全てが補填しあって自分の作品だって言う。だからそういうことを考えると、82、83年のアナログ・オーディオがピークだった時代ですかね。
星野 じゃあその頃の作品が、自分の中では会心の出来ですか?
山下 よく言う話なんだけど、必ずしもその人にとってのベストソングが、ベストセラーにはならないじゃないですか。でも、クリスマスイブはそれこそ詩、曲、演奏からいろんなファクターまで、自分の人生で一番よくできた5曲のうちの1曲なんですよ。だからあれがベストソングだって言われるのは、本当にありがたいというか。
細野 あぁ、そうなんだ。
山下 あの時代がそのまま続いていたら、もうちょっとよかったんですけど、デジタルが出てきちゃって。自分にとってのデジタルのトラウマって、ものすごくあるんですよ。プロツールスが出てきた時も、どうしようと思ったし、10年位前。いまお仕事はどこでなさってるんですか?
細野 バンドの時は音響ハウスで録ってるね。基本は白金の事務所の地下にあるスタジオで。
山下 プロツールスですか?
細野 プロツールスは使わない。外で録るときはエンジニアの趣味で使うけどね。48キロヘルツで録ってるから、96キロヘルツに変換してダビングとミックスをする。
山下 普通と逆なんだ。
細野 96キロヘルツでとると底なし沼になっちゃう。
山下 そうですよね。同じです。僕も96キロヘルツは全然だめですもん。
星野 底なし沼っていうのはレンジが広すぎるって言うことですか
細野 まぁそういうこともあるし、音像が固まらないんだよね。ポップスじゃなくなるんだ。
山下 そうそう。ワールドミュージックみたいなのはそれでいいんだけどね。ロックンロールだとスカスカで我慢ならない。そうかヨンパチで録って、クンロクで行くのか。なるほど。それは考えたことなかったな。昔デジタルの時は、打ち込みって何でやってたんですか?
細野 全部デジタルパフォーマーだね。その前にMC4があって、次はNECで、それからカモンミュージック。
山下 僕は未だにカモンですよ。
星野 えー!
細野 ほんと? すごい! カモンのソフトってまだある?
山下 あれをウィンドウズ10で動かす猛者がいるんですよ。
細野 いまだに使ってるっていうのは、今日一番のニュースかもしれない(笑)でも音楽のワークステーションって、新しいければいいってもんじゃないよね。
星野 昨日レコーディングしたんですけどそのスタジオの卓がソリッド・ステート・ロジックの古めのやつに変わっていて、すごくいい音でした。
山下 今はみんなコンピューターの中で全部やっちゃって、クジラみたいに大きい昔のシンセとやるような人は誰もいないけど、あっちのほうが絶対に音いいもんねぇ。
星野 そうですよね。
山下 ちなみに細野さんはオペレーターとかいらっしゃるんですか?
細野 ほとんど自分でやってる。メンテナンスを原口(宏)くんて言う、田中(信三)さんの弟子にやってもらってて。いや、悩むんだ。歳とると耳がおかしくなるからさ。1キロヘルツが上がっちゃって、自分の声がうるさくてしょうがない。だから切っちゃうんだよね。
星野 そうするとあの音像になるんですね。
山下 不思議な音像ですよね、いい意味で。変な言い方ですけど、キューバブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブみたいなね、空気感が。
細野 空気感が出てるんなら嬉しいけど。気力でやるしかない。
  
  
〈僕も同じだよ。大滝くんが聴いたらどう思うかって、そう思いながら作っている時がある(細野)〉
  
山下 でも、細野さんは多作ですね。
細野 もっと作りたいんだ。自分を追い込んでるんだけどね。時間がないんだよ、僕には多分ね。
山下 そういう人に限って長生きするんですよ(笑)。大滝さんなんて、あと20年は生きようってつもりだったんだから。
細野 本当だよね。突然だったな。
山下 でも、あの人いっさい医者に行かない人だったんですよ、風邪ひいても、何しても。そういうとこ気弱でね、結構。
細野 繊細なのは知ってる
山下 その反動ですね、外に見せる姿は。
細野 「無風状態」って言う曲をはっぴいえんどの最後のアルバムで作ったら、その後で大滝くんが来て「あれは自分のことを歌ったのか?」って聞くんだよね。皮肉だと思ったのか。全然そんなことないんだけど、すごく繊細だなと思った。
山下 大滝さんとは1973年から40年くらい付き合ったけど、彼の作っているもののほとんどは、全部細野さんに向けて発信されてますから。これを細野さんが聴いたらどう思うかって。
細野 僕も同じだよ、大滝君が聴いたらどう思うかって、そう思いながら作ってる時がある。なんかね、気になるんだ。でも大滝君がそう思ってるとは知らなかった。
星野 お互いに思ってたんですね。
山下 本当にそう。NIAGARA MOONのときの第一目標はティン・パン・アレーをどれだけ困らせられるか。
星野 ハハハ、まじですか。
細野 いや困ったよ。NIAGARA MOONをクラウンのスタジオで聴いて「負けた」って言ったらしいんだよ、僕は。それを南こうせつが聞いてたんだよ、僕は全然覚えてないんだけど(笑)。
山下 大滝さんと話してると三分の一くらい細野さんの話なんですよ。
細野 そうなの?
山下 いかに意識してたかっていうね。
細野 『A LONG VACATION』を作る前に、大瀧くんが一人でキャデラックを運転して、うちまで訪ねて来たの。今までそんなことなかったからびっくりしちゃって、なんだろうと思ったら、「自分も売れるから」って。
山下 ははははは。そうか、YMOの後だから。
細野 宣言しに来たんだ。
星野 それは……ものすごい話ですね。
山下 いや、そう考えると、細野さんに伺いたいことがたくさんあるんですよ。ベースの事とか。どこかのインタビューで話したことがあるんですよ、ベースは細野さんが日本一だって。細野さんは僕の人生で最高のベーシスト。
細野 ほんと? なんか嬉しいね。
山下 それはそうですよ。表現力、テクニック、タイム。
細野 テクニックは無い。すごくコンプレックスがある。ジャコ・パストリアスとかに対してね。
星野 ジャコにコンプレックスを抱いている細野さんてすごいですね(笑)。
山下 面白いなぁ、でもジャコに細野さんはできませんからね。70歳になってなお創作意欲がそうやってお有りになるというのは、本当に見習うべきところで。私事で申し訳ないですけど、一緒にやってた連中が結構具合悪くなっちゃったりして。
細野 そういうのはあるね。
山下 歳をとっていくと、昔の一番良かったときの実績みたいなものにとらわれるじゃないですか。でも、あの時の演奏をもう一回やりたいとか、そういうことにこだわると、懐古趣味になるから。もちろん、そういう実績が積み重なっていくのは悪いことじゃないけど、そこで一回リセットしていけないことだって、ひとつもない。ベーシストにしても、ドラマーにしても、アレンジャーにしても、15年、20年経って昔と同じことができるかっていうのは疑問だから。僕もドラマーを替えて10年目ですけど、20人近くオーディションして、23歳のドラマーにして、最初は非難轟々で、なんでそんな無名のやつを使うんだって。でも10年経って、その小笠原拓海くんも30歳超えて、今はもう誰もそんなこと言わない。そういうのが大事だなって、あの時、細野さんのことを思い出したもん。
星野 それまでと違う人とやることに対して、ファンの人からも批判もあるだろうし、周りのスタッフからの疑問もあるでしょうしね。
山下 結局音楽って生活の対象化でしょう? 耳で聴いた経験や記憶の美化も同時に行われるから。それが新しい違うものに変わると、人によっては増悪するんだよね。でも細野さんはそういうものも全く平気。
細野 全然関係なくやってた(笑)。
山下 そこがすごいんですよね。ジャズのインプロビゼーションで一番優れたものは、次に来るフレーズを50%は観客の期待通りにやって、50%は観客を裏切るようなもんだって言った人がいるけど、ポップミュージックにも、そういう期待と裏切りのバランスがあって。そういう意味では細野さんの音楽って、非常に個人的ですよね。
星野 個人的でありながらポップスであるって言う、そこがお二人に共通した部分なのかなと思います。これを機会に何か生まれるといいですね。
山下 お願いしますよ、今度、コーラスでも何でもやりますから。
細野 じゃあ、今度呼ぶ。
山下 いつでも呼んでください。
星野 僕も混ぜてください(笑)。
細野 うん、そうだね。
【了】

 

ヒストリーオブ山下達郎 第17回 バンド解散と「ナイアガラ・トライアングル」 1976年

オールナイトニッポンのパーソナリティーが始まるんだよね>
76年1月18日、玉川区民会館「下北沢から51年」コンサート。顔見せの感じだったよ、出演者がずいぶん多かった。どういう企画意図かも知らない。僕らは出演時間直前にただ行って、演奏して帰ってきただけ。下北沢ロフトとは関係ないイベントだったと思う。
この年の1月といえば、このコンサートの3日後くらいにオールナイトニッポンのパーソナリティーが始まるんだよね。1月21日からだね。水曜日の2部だから深夜3時から。話はPMP(現フジパシフィック音楽出版)から来たんだと思うよ。急に話が来た。76年1月から10月までやったの。
10ヶ月でクビになった。マニアックな選曲だったからね。何度もチーフプロデューサーに呼ばれて怒られた。かけている曲が一般向きじゃないって言われてね。「公共放送なんだから10曲かけたら7曲は誰でも知ってる曲にしろ」って。「誰でも知ってる曲って何ですか?」って聞いたら、だからビートルズとかそんなのだよ、って。嫌なヤツだったよ。
僕の前に水曜日の2部だったのは、伊藤政則さんがカッコマンという名前でやっていたね。僕の時の1部は最初はニッポン放送の田畑達志アナウンサーで、4月に月曜日の2部に移るんだけど、その時は1部がトノバン(加藤和彦)だった。で、トノバンも僕と同じ時期に辞めたみたい。
あの頃の2部は録音で、実際の収録は夜8時くらいから始めて、午前1時前後にアップする、という感じだったね。
生まれて初めてのラジオレギュラー、番組は2時間だけど収録には時間がかかった。この時のディレクターが佐藤輝夫さんでね。彼とはその後もラジオの番組で関係が続いていく。今も現役で、桑田(佳祐)くんの「やさしい夜遊び」の構成なんかをしている。佐藤さんとはもちろんその時が初対面で、DJ初体験の僕にとってはラジオの先生で、色々と教えてもらった。喋り方にダメが出まくって、「えー」が多いとか、発音がはっきりしないとか、論旨が伝わりにくいとか、すごく厳しかったんだ。それで時間がかかったの。
でも選曲に関しては佐藤さんはほとんど何も言わなかった。チーフプロデューサーに文句を言われた時もかばってくれたんだ。だから彼も僕が辞める時に外されてしまった。その後2年くらい佐藤さんはオールナイトニッポンの仕事はしなかったね。その間はアメリカに行っていたそう。
僕のオールナイト2部の内容は「サンデーソングブック」と大差ないよ。だけど、時代が今とは全然違うもの。僕自身もまだ無名だったからね。ホントに毎週のように文句言われたね。呼びつけられて。その意味では、今のサンデーソングブックなんて夢のようだよ。
その上、選曲だけじゃなくて、オンエアする楽曲の権利関係もうるさく言われた。聴取率週間にはニッポン放送の系列音楽出版社であるPMPの楽曲がどれぐらい流れているか、って言うリサーチがあるんだよ。それでもっとPMPの曲をかけろって圧力があるの。
でも当時出していた邦楽の曲なんぞかけるのは絶対に嫌だったから、PMPの洋楽管理楽曲を調べて、ドゥービー・ブラザーズとかイーグルスとかリトル・フィートとかを探して、かけていたんだ。イーグルスのTake it to the limitなんてのをね。
そんな内容の上に、オンエアが3時から5時だから聴取率なんて大してなかったけど、そこはさすがに全国ネット、その後、業界に入ってくるようなマニアックなリスナーが聞いててね。80年代に入ってからは、ずいぶん色々なところでそう言われた。でも当時はそんなこと知る術もない。だからしまいには居直って、夏前くらいからは4時台の1時間は、毎週ビーチ・ボーイズのアルバムを丸ごと1枚ずつかけていって、結局当時の最新作「15ビッグ・ワンズ」まで20枚近く、全部かけた。
           

<「ナイアガラ・トライアングル」で4曲録音>
オールナイトを担当し始めた頃にやっていたのは「ナイアガラ・トライアングル」(3月25日発売/日本コロムビア)のレコーディングとミックスだね。
「トライアングル」の企画を大滝さんから聞いたのは前年、75年の9月かそこいらでしょう。レコーディングが始まったのが11月上旬だから。
実はその時点で、シュガー・ベイブにはソニーから誘いが来ていた。僕はそっちに行きたいなと思っていて、ナイアガラと再契約する気はなかったんだ。スタッフもそういう意向だったし。でもまぁ「ティーンエイジ・トライアングル」って言うコロピックスの企画物アルバムがあって、そういう企画なんだと思った。
まだ僕がソロになるって事は考えてなかったけど「パレード」をシュガー・ベイブのセカンド・アルバムに入れようとは思わなかったし、「遅すぎた別れ」はキングトーンズ用に書いて、そのままにしておいた曲だからね。
バンドをやりながらソロを作る、そういう感覚だった。で、2曲書き下ろして2曲は有りもの。で、その当時よく坂本くんと一緒にやっていたので、大滝さんのバックもシュガー・ベイブに坂本くんが入った形でやっていたし。だからこれも坂本くんとやろうと思っていて。
どれもギターサウンドじゃなくて、キーボードがかなりウェイトを増している。特に「ドリーミング・デイ」なんかそう。これはユカリ、寺尾、僕、坂本の4リズムで全てレコーディングされている。そんな感じだから「パレード」なんかは全くアレンジを変える形でやろうと思っていたし。4曲あるけどバラバラなんだよね。
「ドリーミング・デイ」
最初のアイデアは、デルスの♪Distant Loveって曲があってね。”Our Distant Love”〜ってフックがあるんだけど。それともうひとつ、ジョニー・ムーアがリードを取ったドリフターズの♪Fools Fall In Love、そっちのイメージもあった。
それにセカンドラインのリズム、大滝さん譲りの。で、大好きな循環コードで、全体的な歌い方はディオン。あとは自分がブラバン時代から持っていたラテン感覚とか、そういうものをごた混ぜにしたっていうか。この曲は自分では意外とよくできていると思う。
それで詩はター坊に頼もうと思った。このアルバムの詩は、これがター坊でしょ、「パレード」は自分で、「遅すぎた別れ」は銀次で、「フライング・キッド」は吉田美奈子。詩に関しては、自分の周りの才能ある人たちを網羅してるんだよね。大滝さんは「遅すぎた別れ」は僕が推敲してると、ずっと思っていたんだけど、語りの部分は100%銀次が作っている。DOWN TOWNみたいなコラボレーションじゃないんだ。「ドリーミング・デイ」はこのアルバムの企画が大滝さん出て来た時に作った曲だと、当時のライナーにも書いてあるけど。こういう曲調はシュガー・ベイブでも、ソロになってからもやらなかったからね。もし海外レコーディングをせずにアルバムを作ってたら、こういうオールドなポップ路線に行ったと思う。「サーカスタウン」のレコーディング経験が自分にとってあまりに大きかったので、急激にコンテンポラリーにシフトしたけど、のんびりやっていたらおそらく「ドリーミング・デイ」とか「パレード」とかほんわかした感じで行っただろうね。
ター坊には詩についての注文は何もしなかったけど、すぐ書いてきてくれた。あの人こういうのうまいんだ。言葉が全く邪魔しない、こういう素直な語感の詩は、今も昔も少ないんだよ。明るいんだけど暗いと言う、都会の東京人のメンタリティーがよく出てる。これは素晴らしい詩だね。いつでもステージでやりたい曲。
「パレード」
リアレンジというかリテイクして成功した数少ない曲で、これも一種の洒落でね。ジェリー・ロスのアレンジというか、そういうものをそのまま「パレード」にはめ込むっていうかね。
今から考えるとジェリー・ロス、ジミー・ワイズナー、ジョー・レンゼッティとかってフィリー(フィラデルフィアサウンド)なんだよね。当時はこれらの人ってみんなニューヨークの人たちで、ニューヨーク・シャッフルだと思い込んでいたんだけど、とんでもない、フィリーなんだよね。つまり僕は10代にフィリーを浴びるように聴いて育っていたということになる。だから実はシカゴよりはるか前にフィラデルフィア・ソウルの影響を受けていて、こういうところに出るわけだと。
これは自分で言うのもなんだけど、よく出来たオケなんだ。間奏後のコード展開など坂本くんに協力してもらって、僕はこう行きたい、それならこう言うのもいいのでは?と、彼と一番うまくコミュニケーションが取れてた時期だね。
さっきも言ったように、このアルバムのレコーディングは僕に関しては全曲4リズムなんだよね。しかも全部福生で録ったの。だから僕にとってはシュガー・ベイブよりもこのレコーディングの方が福生の情景とすごく密接でね。実は福生45スタジオでリズムを録ったのって、僕にとってはこの時だけなの。シュガー・ベイブも45でやってるけど、あくまでオーバーダブ、かぶせなんだよね。スタジオの記憶ってのは、歌った記憶よりも演奏の記憶の方が大きいんだよ。
この4曲は全部福生で録ってダビングは他に行ったりしたけど、本質的にはNIAGARA MOONと同じ音色だね。ブラスもすごくシンプルに4サックス1トランペット。ペットとアルトサックスをユニゾンにして、柔らかい、あんまりアタッキーじゃない効果を出してる。この時にアルトのソロを初めて岡崎資夫さんにやってもらっていた。この人にはのちに「スペイシー」から「ゴーアヘッド」を経て「ムーングロー」までのソロをたくさん担当してもらった。トム・スコットが好きな人で、あまり有名じゃないけど、音色もフレーズもすごく良くて、この「トライアングル」の延長でサックス・ソロを岡崎さんに頼んで行くんだ。
「パレード」は愛着のある曲だね。SONGSのインタビューでも言ったけど、当時シングル向きの曲を持って来いって言われて書いた曲なんだけど、このアレンジだったらほんとにシングル切れると思った。そしたら20年近く後に「ポンキッキーズ」でシングルに出来たよ。あの頃はこれ1日で書いてたもんなぁ。エネルギーあったよなw  イントロの坂本くんの一発芸ピアノっていうか、あれだってその場の即興だからね。コラボレーションがいいよね。普通の展開じゃつまんないからエキサイティングでアバンギャルド福生で一発録り。リズム隊を全員で4人で2回やって、そんなことで曲全体を意図的に長くしたんだよw
「遅すぎた別れ」
そもそもは74年の話なんだけど、キャラメル・ママ雪村いづみとか、いしだあゆみとか、あの頃やっていた一連の歌謡界の流れで、キングトーンズをやると言う企画が出てて、僕のところにオファーが来て、銀次と2人でやることになって、まず「ルイード」にキングトーンズを観に行った。それがすごく良かったんだよね。それで3曲書いたんだけど、最初に書いたのがこれ。チャイ・ライツのHave You Seen Herみたいな語りの曲を作ろうと言うことになって、銀次がまず語りのセリフを考えて、そういう内容だって言うんで、僕が曲の構成を作って、途中の歌の部分に、また銀次が詩を足した。
笹塚のシュガー・ベイブの事務所の隣に、矢崎さんていうPA屋さんが住んでいて、そこでデモテープを作ったの。あの頃矢崎さんの所には風の正やん(伊勢正三)とかも来て、デモテープをとっていた。で、誰が「語り」をやるかってことになってロバート・レッドフォードの解説文を全員で読んだところ、銀次が一番雰囲気があったんで、彼がしゃべることになった。
その次にDOWN TOWNと「愛のセレナーデ」を書いた。そうやって3曲作ったんだけど、キングトーンズの企画自体が立ち消えになっちゃった。しかも書いて持っていったのは僕らだけだったというw
真面目なんだよ、僕ら。もったいないんでDOWN TOWNはシュガーに使って、「遅すぎた別れ」はシュガーでやるにはちょっとアダルトだから、しばらく放ってあった。それを「トライアングル」の時に「ここでやらない手はない」って銀次が言い出してやったんだ。エンディングのSE「ああ、ベルが鳴った」ってやつね。ああいうアイデアは、元のデモテープを作った時から既にあった。「トライアングル」のはちゃんとしたSE素材を使ってるけど、デモテープのSEは笹塚の駅で録ったのを使ってた。
「フライング・キッド」
コレは非常に変な曲でね。アヴァンギャルドというか、実験的なものにこの頃すごく興味があってね。クラッシックの現代音楽からフリージャズまで、それこそローランド・カークとか、アルバート・アイラーとか、サン・ラとか、山下洋輔トリオとか。そういうものを耳にすることが多くて、ポップだけど実験的なものをやってみたかったんだよね。
それがどれぐらいのクオリティーで出るかをやってみたくて。分数和音とかにも興味あったから。これと同時期に作っていたのが「永遠に」で、美奈子の「フラッパー」に入ってる曲。ああいうコードが複雑な曲とか、分数和音で結局語りなんだか、歌なんだかよくわかんないって言うね。「これってロッド・マッケンとか、そういう何かの出来ないかな」って美奈子に言ったら「じゃ、フライング・キッドって飛行機だろうけど、福生の朝の空みたいな感じの歌にしよう」ってことになって、話し合いながら作ったの。
歌もメロディーも何もないから、曲を聴きながら作った詩を自分でしゃべったり歌ったり、だからこれ歌入れに結構時間かかっている。大滝さんは呆れてたけど、まぁ今から聞くと、アイデアが完全に先走ってるというかね。計画倒れというか。でも今でもこういう試みが結構あってさ、だけどこういうポップなフィールドではあんまり成功しなかった。何故かと言うと、自分の声の特徴と合わない部分があるから。もっと無機的な声だといいんだけど、僕がやるとキャラに合わない。だから誰かにやらせれば良かったんだね、今から考えると。
こんな感じで「トライアングル」では、自分がこれから先どういうものをやるかって言うのを意識したかな。スタジオ・ミュージシャンとやるときに「どういう音楽にするか」というのを、75年の夏ぐらいには漠然と考えていたから。実際にスタジオ・ミュージシャンでレコーディングしようという考えもあったけど、この時点ではまだ黒木真由美とか、他人のためのレコーディングもCMも、ほとんど全部シュガーベイブ+ゲスト・キーボードと言う形でレコーディングをやっていたから、それをもうちょっと前に進める意図はあった。
逆に銀次はセルフカバーだったでしょ。当時の彼は曲が書けない状態じゃなかったのに、なんでだったのかなって、僕は今でも疑問で。このアルバムの時はお互い交流がなかったんで、今もそれは聞きそびれている。
大滝さんはエンジニアだから全部参加してたけど、僕は自分のことだけで、他が何をやっているかあまり知らなかったし。でもあの時、力が一番入っていたのは多分僕だったと思う。
「遅すぎた別れ」なんてのは、まさにこの企画のためにあるような曲だったしね。何をやってもいいって言うから。僕は大滝さんに何をやるとも言わなかったけど。多分シュガー・ベイブのセカンドはナイアガラではやらないだろうと、その時には思っていたから、福生で学んだことのまとめみたいなのを作ろう、って言う気持ちはあったよね。
音が仕上がって来たときの気持ちは、さっきも言ったように、銀次はもうちょっと新しい曲をやったほうがいいんじゃないか、って思った。「日射病」と「ココナッツ・ホリデイ」と「無頼横丁」。「幸せにさよなら」は新曲だとつい最近まで思っていたんだけども、これも昔のストックだと先日大滝さんから聞いて驚いた。大滝さんは録音担当兼務で忙しいからしょうがないけど、とにかく「ナイアガラ音頭」一点豪華主義で行ったんだと思った。「ナイアガラ音頭」はインパクトあったね。これもいろんな奴がいろんなことを言ったけど、僕はすごいと思った。これは大滝さんじゃなきゃ絶対できない。すごくアナクロなところと、コンテンポラリーなところが同居している。大滝さん本来のはっぴいえんど時代から培ってきた旧と新を、うまくコンバイン(混合・融合)するって言うか。途中でオークランド・ファンクに行くところとか、ああいう洒落をやったら天下一品だよね。

 
<この頃は本当に毎日仕事のスケジュールが入っていたんだね>
オールナイトを始めた頃は「トライアングル」のレコーディングとミックス作業にかかってたよね。
1月30日にブラスのかぶせ。目黒のモウリ・スタジオって書いてあるから、これは「パレード」のブラスのかぶせだね。「ドリーミング・デイ」のブラスのかぶせは福生でやった。
その前日の1月29日に「三ツ矢サイダー‘76」のCMやってるね。これで生まれて初めて「ひとりアカペラ」が世に出たんだ。
ライブのほうは1月28日に仙台電力ホール。これは「トロピカル・ムーン」だね。
で、1月31日から2月1日まで大滝さんと一緒に神戸サンダーハウスに出ている。けっこうなスケジュールだよね。この辺はずっと大滝さんのバックをやってたんだね。でも本当に打ち合わせとかじゃなくて、仕事のスケジュールがコンスタントに入っていたんだね。だからようやく何とか食べられるようになってきたんだよ。で、ちょうど2月の頭から「ナイアガラ・トライアングル」のミックスをしている。
2月16日にカッティング。発売が3月25日。で、シュガー・ベイブが解散すると宣言したライブが、2月24日都市センターホールだね。でもこの日だって、ライブの後にスタジオ仕事やってるからね。すごいよね。
だからシュガー・ベイブからソロにシフトしていった時期が1月から2月なんだ。小杉(理宇造)さんに初めて会ったのは2月の初め、RCA(RVC株式会社)で。知り合いの用事に付き合ってRCAに行ったら、僕の顔を知ってた宣伝マンが「紹介したい人がいる」って。それでやって来たのが小杉さんだった。
小杉さんはその時点でシュガー・ベイブのライブを見ていたのかな。解散ライブに牧村憲一さんが声をかけたのは、後で知った。
僕はその時点ではソニーに行く話が進んでいたんで、牧村さんはター坊のソロを売り込むために小杉さんを連れて行ったんだけど、小杉さんは男性シンガー志向な人なので僕に興味を示したの。その後ソニーの話が取りやめになって、小杉さんとやることになるんだ。
当時小杉さんはRCAの邦楽ディレクターで「桑名正博」とかもう既に始めていた。後は「ジュリエット」って言うロックバンドなんかをね。

  

<自分の求めるサウンドとかよく言うけど、そんなものはね、所詮偶然の産物なんだよ>
シュガーベイブ解散の兆候は2月に入ってからかな。新宿かどこかの喫茶店でみんなで集まったのが。仙台や神戸の時はまだそんな話はなかったし。とにかくいきなりなんだよ。ユカリがバイバイ・セッション・バンドにも入りかけていたんだよね、その頃。
最初はユカリが辞めると言ったんだ。喫茶店で話した時は村松くんと僕とユカリがいた。ター坊はいたかなぁ。3人でしゃべったのは覚えている。
召集したのは(マネージャーの)柏原卓じゃないかな。そこまでは覚えていない。3人で話したのは覚えているけど。何しろユカリが「辞めたい」って言い始めて「これはあんたのバンドやから」ってね。
それで僕は白けちゃったの。何度も言うようにシュガー・ベイブは確かに僕のワンマンバンドだったけど、そういうあんたは何か自分でやりたいこと、どうしようかとか言ったことがあるのか、って思ってね。それで白けちゃったんだね。
言い合いにはならないよ。そういう感じじゃないもん。ユカリとは別に激しいやりとりをしたわけじゃなくて、話自体はとても静かなの。だって、ユカリが辞めると言ったらもう駄目だもの。ユカリはそういう性格だからね。それは僕も分かってたから。
今から考えるとね、このヒストリーを始めて色々蘇ってくるんだけど、とにかく若かったっていうか、22、3歳の話でしょう。お互いそんなに深い斟酌(しんしゃく)なんてできるはずもないんだよね。だから、それこそ寺尾がそんなにインテレクチュアルな奴だとか、そういうことをさえも全然知らなかったしね。ずっと後になって、へえ、実はそうだったんだって。
だから他人の事までおもんばかる余裕なんかなかった。相手の立場とか考えてなかったよね。バンドをやるって言っても、やっぱり自分の好きなことをやろうと言うことだしね。だけど自分の好きなことが本当にできたかって言ったら、それも疑問なわけ。結局、演奏力だったり客の反応だったり、そういう要素が色々と絡み合った結果でしょ。
だから自分の求めるサウンドとかよく言うけど、そんなものはね、所詮偶然の産物なんだよ。最近浪曲をよく聴いてるんだけど、浪曲って一人一節と言って、自分自身で独自の節回しを編み出せなきゃ、一人前とは言わないんだ。だけど自分の節を作るためには、いきなり無から有はできないわけ。それこそ他人の節を聞いて、真似したり研究したり、後は広沢虎三みたいに講釈師のところに通って「清水次郎長伝」を教えてもらったり、みんなすごい苦労をして、自分の形を作り上げているんだよ。
だから、我々なんかが21、2歳で「自分のサウンド」とか言ってもさ。後から考えると若気の至り、サイコロ振ってるようなもので、どんな人と出会ったか、とかの要因で決まったりしてるんだよね。
その意味では、どうして解散したのかって聞かれたら、なるべくしてなったとしか言えないね。たまたま出会った5人で1年ぐらいやって、その後に違う5人でまた1年ぐらいやって。そういう中で出てきた音がたまたまそうなったって言うだけで。
その後、青山純伊藤広規が出てきた80年代から先は、それはそれなりに自分の音だって言えるものを作れたけど、それだってそのメンバーそれぞれの音の集合だからね。あのメンバーじゃなかったら、どういう音になっていたのかわからない。
まぁ純粋にひとりで全部やってる時代が何年かあって、その時はコンピューターのお世話になっている、それは完全に自分しか関わってないから「自分の音」とも言えるけど、それだって使っている機材やシンセなどの楽器が違っていたら、その音じゃなかったかもしれない。何より重要なのは、いくら「自分の音」ができたと豪語したって、聴衆がそれを求めなきゃそれで終わりなわけで。後から最もらしい理由をつけてるけど、そんなのほとんど結果論なんだよね。
30年この商売をやっていて、周りではやめたヤツ、足を洗ったヤツもたくさんいるのね。でも必ず異口同音に「あの頃は楽しかった」って言う。そんなもんなんだよ。一度やめてまた戻ってくるヤツもいるし。そういうところではまぁ僕自身は、例えばオフィスとかスタッフとかクビにしたり、自分でやめたりしたことを、そんなに後悔した事は無いけど、人によってはやっぱりやめなきゃよかったって言う。だから人の離合集散なんて、後から最もらしい理由はいくらでもつくけど、その時はわかってないことが多いんだよ。
最近つくづく思うのは、僕って本当にサブカルチャー出身の人間なんだ、って。歳をとってきて、人間関係や人の好みなんかが、どんどん昔のノリに戻ってる感じなんだ。出自がサブカルチャーだから、今のヒップホップの人たちとかと同じ空気感なんだよね。
途中でおかげさまでブレイクしてからは、妙にメジャーなところに属しているように思われているけど、シュガー・ベイブの世界ってほんとに小汚いライブハウスの世界なんだよね。下北沢あたりの小さなライブハウスなんかで、今も展開されている世界と全く変わらないんだ。
だからあの頃に考えていたことなんて、将来のビジョンとかさぁ、戦略論とかでは全然ない。行き当たりばったりというか、この次の仕事をどうやってやるか、それをどうやってこなすか、って言うだけ。
共演がダウン・タウン・ブギウギ・バンドで嫌だなぁとか、CMで「東洋現像所(イマジカ)」とか「日本天然色」に行って、当時はビデオもないし、カラー・コピーもないから、試写室でフィルムや手書きの絵コンテ見せられて、コピーライターや広告代理店から歌詞を渡されて、こういう感じでって指示されて、数日後にスタジオで演奏して、フィルムと合わせながら「雰囲気どう?」って確認する。
当時の僕にとって唯一確かなものは、家でピアノの前に座って曲を作っている時間だったんだ。どういう曲を作ろうかなんて考える時。特にコマーシャルの場合はスタジオに行く前の晩に15秒バージョンとか30秒バージョンとかって作るわけ。その時になかにし礼さんなんかよく言う「天から降ってくる感じ」ってのがあってね。その「天から降ってくる感じ」が面白いんだよ。
で、どんな曲にしようかなって「三ツ矢サイダー」みたいなものを作る。その瞬間だけは確かなリアリティがあった。今でもその瞬間の記憶だけが一つ一つはっきりと残ってるんだな。それ以外の、例えば荻窪ロフトで焼きうどんを食ったとか、ライブの前にどうしたのとか、そういう記憶はほとんど脱落してるの。ステージの上で何をやっていたかと言う記憶さえも、あまりない。
鮮明に記憶に残っているのは、家でピアノの前に座って、最初のメロディーを考えだす瞬間、それだけは今でも鮮明にあるんだよね。「サーカスタウン」を作った時の記憶とか、WINDY LADYを作った時の記憶とか、そういうのは妙にきちっとある。あの高揚感がなかったら、多分僕は音楽を続けてなかったと思う。
シュガーベイブを解散することになっても、僕がそんなにショックを受けたなかったのは、そういうCMとかの仕事もあって、ある程度食えるようになっていたからなんだ。これは大きい。これが74年初めの頃の、食うや食わずの状態の時に解散、となっていたら、結構やっぱり落ち込んでいたか、パニクってたか、どうしようって、怒るかしてたかと思うけど。
まぁいいやと思ったの。(新しいバンドを作るのも)もう面倒くさいなと思った。それよりもコマーシャルやスタジオの仕事の方が楽しかった。SONGSが出て10ヵ月位だったでしょ。その間の、自分では全く予想外の、的外れでくだらない批判というか、誹謗中傷というか、そういうメディアへのストレスもすごくあったんだ。「ニューミュージック・マガジン」とかね。「ミュージック・ライフ」で「歌がなければもっとマシだ」とか書かれて。若かったから、そういうのは結構キツかったんだよね。今だったら「アホ!」って逆に馬鹿にできるけど。あとは何がロックで、何がロックじゃない、などと言う当時の教条的な風土。
それは「ニューミュージック・マガジン」とか「ロッキン・オン」あたりから生まれたと思うけど、そういうのを鵜呑みにして、湧いて出た観客の質の悪さ、野外イベントでの客のから騒ぎとか、しらけ方とか、そういうものへの嫌悪も激しくてね。
でも、それが当時のサブカルチャーを支える中心勢力だったから、抗いようもなかった。ライブでお客さんが増えていくことについても、なんで増えてるのか、わかんないんだもの。レコードがリリースされた途端に客がどっと増えてさ。70年代的な発想で言えば自然発生的なって言うことなんだろうけど、結局は音楽の空気を理解したり、共有できる観客が当時もそれなりには居たんだよね。
他にもバンドはいろいろあったけど、彼らに比べても、ライブハウスでの動員はトップクラスだった事は何度も言ったけど、でもそれは後から考えるとそうだったと言うだけで。当時は仕事のスケジュールもいい加減だったんだよ。荻窪ロフト、下北沢ロフト、高円寺次郎吉といった東京のライブハウスを毎月まとめて連続で組んでね。そんなに毎月新曲が増えるわけじゃないから、結局いつも同じ曲をやるの。そういう日常性があった。それでも毎回、どこでもいっぱいになったんだもん。だからかえって仙台で(鈴木)茂の代理出演で、4曲やった時とかの記憶の方が、新鮮に残ってたりするんだよ。しかも、その時の方が演奏が良かったりするのよ、徹夜明けのライブなんだけど。ひどいよね。そういう意味では煮詰まってたかもしれない。
でも、救いは何とか経済的に自立できていたこと。いつも言うけど、一番暗かったのが、風都市に入って給料が出なかったりした74年前半、それに比べるとこの頃は生活的にはまだいいから、記憶がそれほど醜悪じゃないな。
それにCMとは言え、ものを作る場がコンスタントに与えられて、その他にもコーラスや作曲の仕事が来るようになったでしょ。そういうのはやっぱりちょっと明るさとしての記憶にあるんだよ。
バンドとして次のステップに行こうと言うのはなかった。だから、このヒストリーはこれからソロの時代になるけど、ソロになろうと言うことだって、そんなに自覚的じゃなかったもの。なんでもいいや、っていう感じだった。来る仕事をこなしていく。
で、牧村さんはマネージャーとしてやる気でいたから、ソロでやるのは当然の方向性だって感じだった。そういうダイヤモンドの原石をたくさん並べて磨けば、誰かが光るだろう、っていうのが本音だったとは思うけどね。だからone of themだったんだ。でも、今だったらおそらくソロはやらないな。芸能界は嫌だから。
だから今思うと、ここから「ライド・オン・タイム」までの4年は一体何だったんだろう、っていう感じだね。まぁ修行と言えば修行期間だけど、さっきも言ったように、さしたる自覚なんかなかったんだよ。
今の若い子みたいにアーティストになりたいだの、アイドルになりたいだの、バンドやるだの、そういう自覚的なアクションを起こしたヤツがどれだけものを作るかと言ったら、それも疑問でね。
だから、世の中はままならないんだよ。大体嫌々、他にやることがないからやってるヤツが、生き残ってたりするんだぜ。僕に限らず、あの頃はきちっとした目的意識なんてなかったんだ。そんないい加減な人生なんて、今の子供たちには理解できないかもね。あるいは今も同じかも。でも、あの当時は時代がそうだった、っていうのが全てでね。

  

<このあたりの何ヶ月間で、人間関係がガラッと変わるんだよね>
76年2月かな、新宿の喫茶店で話してバンド解散が決まった。それは多分都市センターホール(2月24日)のちょっと前だったと思う。だから都市センターのステージで唐突に解散を発表したのは、そう言うことだったと思うよ。多分その1週間か、2週間前だったと。都市センターでやってから解散コンサート(3月31日、4月1日)までライブはやってないハズだよ。
この頃は「ナイアガラ・トライアングル」をやっていたから、それはそれで忙しかった。
2月21日にTBSラジオで馬場こずえさんの「こずえの深夜営業」が入ってるけど、おそらくこの前に「トライアングル」のプロモーションが始まっていたんだよ。だから解散発表をした2月24日って言うのはプロモーションの真っ最中だったんだね。で、このあとも(斉藤)哲夫のコーラスとかター坊と一緒にやってるし、仕事はやってるんだ。ただしライブはこれでやめ、っていう。解散ライブは都市センターのあと、(柏原)卓がブッキングしたの。だから結構直前なんだよ。ロフトのスケジュールってどのくらい前に決まっていたんだろうね。
ただ卓はもっと大きなところでやりたかったんだよ。せめて厚生年金中ホールくらいのところで。だけど僕はシュガー・ベイブはライブハウスで始まったんだから、ライブハウスで終わろうって言ったんだ。
追加公演もその日に決まった。31日の整理券があっという間に無くなって、表にまだ客が溢れてて、卓の独自判断で、翌日の予約も取ってみたら、それもあっという間に無くなっちゃったの。
それでライブが始まる時に「実は明日の予約を取っちゃった」って言うから「それじゃあ、しょうがないじゃない」って。それでやることになったの。翌日も(偶然?)空いてたのは元々そう言う作戦だったのかもしれないね。
でもね、あの時は結果オーライでね。1日目と2日目とで全然雰囲気が違ったんだ。最初の日はイベント好きの、いつもと感じの違う客でね。「おらー、やれー」っていう雰囲気がいつも以上で、それは残っている録音を聞くとうかがえるよ。翌日はいつものお客さんだったから、しんみりしちゃってね。そういう感じだったから結果良かったなと思って。常連は(そんなに混まないだろうと)みんな高を括って来たんだよね。
解散ライブの内容は行き当たりばったり。でもね、ユカリになってから♪SHOWとかああいう曲をやらなくなってたんで、やっぱり♪SHOWをやらなきゃいけないんじゃないかと思って、前の年のサード・ライブで1曲目に♪SHOWをやってたんだよ。それで、その延長で2、3曲レパートリーが増えているね。(解散ライブの)リハはやった記憶はある。
解散コンサートで思い出したけど、その直前に芝ABCホールで「ナイアガラ・トライアングル」のコンサートをやっている(3月29日)。なんかささくれたライブだったな。
最初は銀次のバイバイ・セッションバンドで、次が僕で、それから大滝さんと言う順番。僕のセットは最初に弾き語りをやったんだよね。クラッシックス・フォーを1曲やって、フリートウッズの「ミスターブルー」。それから「パレード」と「ドリーミング・デイ」をやって「遅すぎた別れ」で銀次に語りをやってもらって、最後は遊びで「ミッキーズ・モンキー」だったかな。そんなセットリストだった。
その日もABCホールが終わった後に、モウリ・スタジオに行ってCMをやっている。明治の「レモンドライ」、今でも覚えている。
やっぱりこの2 〜3月は激動だったね。このあたりの何ヶ月間で人間関係がガラッと変わるんだよね。大滝さんともここで離れるし、バンドも開催するでしょ。事務所もやめて、総取っ替えで新しいスタッフになるの。変わらないのはCM関係のスタッフだけって言う。
    
<この頃は生きている実感というか、そういうのが希薄だった>
解散コンサートが終わってからは何もなし。もうこの頃は、牧村さんが色々と動いていて、小杉さんがそろそろ出てきて、デモもどっかで録ったんだよね。
吉田美奈子のバックというのがあったね。美奈子のバックをやるようになったのは3月になってから。六川正彦って言う、彼はその後、美乃屋セントラル・ステイションに行くベーシスト。今でもちゃんと現役でやってる。あとは緒方泰男ってキーボード奏者とか、みんないい奴らだったよ。
緒方とはレコーディングは無いけど、CMを結構手伝ってもらった。あと下北沢ロフトでソロになった直後のライブ(76年7月30日、31日)とか、スペシャル・ジャムって言って山岸潤史のセッションなんかで、一緒にやった。
シュガーベイブの他のメンバーのことは全然気にしなかった。何しろ生活の実感ってのが無いんだよ、生きてる実感というか、そういうのが希薄だった。なんか浮き草のように漂っているというかね。
でもCMは違った。コマーシャルに対しては、仕事をしていると言う感じがあったんだよ。
いつも口癖みたいに言ってきたけど、自分のものを作るより、人のことを手伝う方が得意だって。そういう第三者のアイデアとかコンセプトに対して、それを何かに加えるとか、そういう方が得意なんだよね。だからコーラスのアイデアとか、コマーシャルとか、共同作業で、色々な人が介在してくる仕事の方があの当時は楽しいというか、要するにリスクがなかったからね。
反対に「自分の歌う曲を書いて持って来い」とか言われると、すごく重くなる。作っても、またケチつけられるだけだとか、そういう被害者意識の時代かな。それがずいぶん後々まで続くんだよね。だから、自分のレコードはいつも尻を叩かれて作っていたんだ。スタジオには遅刻するし。だから本気で真面目に曲を突き詰めて書くようになったのは、結局ブレイクしてから後なんだよね。
特にバンドの解散前後は随分とモチベーションが下がっていて、そうなるとなかなか曲が書けなくなった。DOWN TOWNの頃はまだ創作意欲ははるかに旺盛だったけど、それでもキングトーンズと言う依頼に応えようと思って書いていたから、ああいう曲ができたんだね。言ってみれば他人向けの仕事の方が、責任感がより出たんだよね。
それにずっと後に「ライド・オン・タイム」でブレイクする頃には、責任の意識やあり方が全然変わっていたからね。たくさんの人が自分の仕事に関わっているし、何より聴いてもらえる基盤が圧倒的に拡大した。そうなるとモチベーションが大きく変わって、スタジオにも遅刻しなくなって、小杉さんはじめスタッフに奇跡だって言われたw、人生なんてそんなもんさ。
人間って怠惰だったり勤勉だったりするのは、環境や人間関係の要素がとても大きいんだよ。もともと僕自身はそれほど勤勉な人間じゃないと自分で思っていた。だけど本当の意味での責任感が求められるようになってきたら、それまでと全然違う自分が出てきて、以後はそれのおかげで続けて来れたって言うことかな。
自分でも意外だったけど、僕にもそれなりに社会性とか協調性があったんだね。古今亭志ん生師匠なんか酒ばっかり呑んでたけど、落語だけは稽古熱心だったとか、そういうひとつでも強力な取り柄があれば何とかなる。
最近よく思うけど、特に職人の世界って生活不適合な人間が多くて、だけど職能の一点ではものすごく秀でている、そういう人ばかりなんだよね。昔はそういう社会人として出鱈目でも、仕事がずば抜けていれば、それで許されたんだけど、今は横並びの社会道徳を押し付けられるから、しばしば本当にいい才能が潰されたり、世に出られなかったりする。
自分の若い頃を回想すると、よくもあんなぐうたらな生活でやってたなと思うんだけど、仕事している時は、特に人の介在している仕事の時は、真面目にやってるんだよ。どんなクズみたいな仕事でも手を抜けなかった。それってすごく大きな要素でね。
だから僕がもっと本当のサブカルチャーの世界にいて、やってる音楽のパンクとかだったら、もう完全にドロップアウトしていたね。他人のことなんか全く意に介さなかったし、気をつかうなんてこともなかったよね。周りだって将来の展望なんて持ってるやつの方が珍しかったし、持つようなやつはダメだったんだよw 時代だよね。
【第17回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第16回 メンバー・チェンジ 1975年

<セカンド・コンサート、企画性は良かったが>
1975年1月24日、新宿厚生年金小ホール、シュガー・ベイブ、セカンドコンサート。
このコンサートは計画倒れっていうか、意欲に実力が全然伴わなかった。二部構成で、ゲストも入れたりしたんだけど、構成やアレンジに凝りすぎて、行き方は間違えるし、ボロボロだった。
第一部はスーツ着て出て行ったりね、第二部の途中でストライプのシャツにコットンパンツなんていでたちで、ディック・デイルやったりして。ユーミンに頼んで、ポニーテールで友達と踊ってもらったり。あと大滝さんと細野さんと(鈴木)慶一で、多分バックはムーンライダーズだったと思うけど♪春よ来い、か何かをやったのかな。で、細野さんと慶一が寸劇をやったり。妙なコンサートだったね。そこいらの部分は長門くんが考えたんだよね。僕たちだけじゃもたないから。
で、この時に一部では有名な「クリスマスイブの元詩の曲」をやったの。やったのはこの時、一回だけ。
結局リハーサル時間が全然なくて。発想は良かったんだけど詰め込み過ぎで。セカンドコンサートへの意気込みはすごくあったよ。でも気負いすぎた。オープニングは街の雑踏のSEから♪SHOW、次が電車がダーってやってくるようなSEから♪DOWN TOWN、そんなのばっかりだったの。
そしたら、もう段取りが分かんなくなっちゃって。だからよくあるじゃない、学芸会か何かで詰め込みすぎて、分かんなくなっちゃうって、あれだね。無理せずにやればよかったのに。
楽屋でビーチボーイズの格好している写真があるけど、あの時のもの。あれは金子が撮ったんだ。お客さんはキャパが700で300か400くらいかなぁ。でも日仏会館だったら一杯だった、って言われた。日仏会館のキャパはせいぜい400くらいだから。サードコンサートはもう少し入ったけどね。
当時は今みたいにメディアが普及してなかったから、レコードプロモーションをちゃんとやらないと、ライブに人が入らないんだよね。サブ・カルチャーだもん。事務所の手打ち(自主興行)で、ポスターなんかも自分で貼って歩く、そういう時代だった。だから、これはもう恥ずかしい思い出。でもかろうじて言えるのは、企画性は良かった。問題は演奏力が全然足りなかった。安定感がなく危なっかしい。

  

<リズム隊のパワーを上げたかった>
SONGSの発売が1975年4月25日で。その前後。
3月のベイエリア・コンサートでドラムがユカリ(上原裕)に代わって、銀次も加わった。その時点ではベースはまだ鰐川だったんだよ。(3月29日、ベイエリア・コンサート/文京公会堂/他の出演者はティン・パン・アレイ、小坂忠吉田美奈子、バンブー、鈴木茂バンド、大瀧詠一)。
75年になってSONGSのレコーディングが終わった頃から、メンバーを変えたいと思うようになったんだよ。理由は色々あるんだけど、一番大きかったのはリズム隊のパワーをもっと上げたい、と。
SONGSのレコーディングをユカリに頼んだでしょ。そこからシュガーベイブもユカリのドラムでやりたいと強烈に思い始めて。
当時、他にもドラマーは沢山居たんだけど、ボクはユカリには特に惹かれたんだよね。だから、その頃やっていたCMも全部ユカリでやっていた。「三ツ矢フルーツソーダ」「不二家ハートチョコ」から始まって、74〜75年にやってるCMは殆ど100%ユカリなんだ。
その後、76年にかかる頃には、いつもユカリと寺尾(次郎)のリズムで全てやってた。SONGSで頼んだのも、そういうCMとかでユカリの力量が分かってたから。全く知らなかったら頼まなかった。
で、当時のシュガー・ベイブはライブの安定感がなく危なっかしい。その上に京都・拾得の件とか、イベントなんかで嫌な経験があったでしょ。演奏に不満で、客のウケも悪いから、二重苦なんだよ。それをどうにかしなきゃいけないと思って、メンバーを代えたたいと。
それと鰐川の問題があって。鰐川は大学生だったので、学校に戻りたいとはよく言ってたの。いずれはそうするしかないな、とは思ってたんだけど、そしたら鰐川としてもやっぱりSONGSで野口をクビにして、ユカリに替えたことに関して、思いがあったんだろうね。ベイエリア・コンサートが始まる前に「辞めたい」と言い出した。で、鰐川が辞めるんだったら、この際二人とも変えようと思ったんだ。
その頃ユカリは銀次と一緒に、あるヴォーカル・グループ(ハイ・ファイ・セット)のライブでバック・バンドをやっていたの。そこで二人と一緒にやっていたのが寺尾次郎だった。それでユカリを口説きにかかったんだけど、そのグループへの義理もあったんだろうね、なかなかうんと言わない。
それならユカリ一人だけじゃなくて、銀次も一緒に引っ張り込んじゃえばユカリも来やすいだろうって、結局、寺尾も入れて3人まとめて引き込んで、6人編成になった。
最初にウンと言ったのは伊藤銀次で、銀次がユカリを説得してくれた。ついでに寺尾も引っ張ってしまおう、ってことになって。寺尾に関しては、僕は何の知識もなかったんだけど、慶応の学生でね。シュガーベイブが好きだから大体は弾けるって言うんでオーディションしたら、どの曲も譜面を見ずにきれいに弾けるんで、驚いて即決で入ってもらうことにした。
余談だけど、まりやはその頃ちょうど慶応の学生で、寺尾がシュガー・ベイブに入ったって言うんで、ちょっとした話題だったそう。「あれがシュガー・ベイブに新しく入った人だよ」って、音楽サークルの人たちが、寺尾を遠巻きに見てたって言う話を、あとからカミさんから聞いたことがある。
野口にはメンバーチェンジのこと、僕が直接話したよ。もう、そういう場合って今でもそうなんだけど、ボツにするとかクビにするとか、自分で言うのもなんだけど、僕はそういう場合はできるだけ直接、単刀直入に。
たいていは独断で決めるから。自分でも時々冷たいかな、ひでえかなと思うことあるけれど、でも音楽の問題はどうしようもない。だから駆け引きはなしで、ちゃんと伝えるんだ。その方が後々良い結果を生む。
その後野口ともやれているのは、何よりあいつの人間が大きいからだけど、考えをはっきり伝えたから、と言うのもあるんだ。野口はSONGSのレコーディングの時から、やっぱりそれはしょうがないと思っていたようで。その後、野口はセンチに入ったんだけど、センチもちょうどシュガーと同じような感じでベースとドラムが辞めることになって、それで野口が誘われることになった。
  
<4月に渋谷ジャンジャンで、いきなり客が超満員になった>
SONGS発売直前、75年3月頃にメンバーが変わった。
4月26日に渋谷ジャンジャンでやった時だったかな、いきなり客が超満員になったんだ。それはとても鮮明に覚えている。それまでは20人とかだったのに。
まさにレコード効果。なんでこんなに違うんだろうって。今までと全然違う。やってること同じなのに。多分、それまでとは違うお客が来てたんだね。
Add Some〜作った時と同じで、やっぱり形にして示すと違うんだなって。その会場ではレコードは売れなかったね。ホールやライブハウスなんかでのレコード販売っていうのは、基本的にレコード店と契約してないとダメでね。ジャンジャンはどことも契約してなかったから。当時はレコード小売店に力があったんだよ。だから売りたくても売れなかった。
そんなふうに3月からがシュガー・ベイブの第2期で、6月24日の横浜教育会館から5人に戻って第3期になるんだ。
銀次が抜けたのは、彼の音楽性はリバプールサウンド、ブリティッシュブルースから始まって、ザ・バンドとかそういう感じでしょ。ココナツ・バンクはあくまで大滝さんの志向で、銀次自身のそれじゃなかったからね。メロディーのセンスはあるし、ポップソングも好きなんだけど、ギタリストとして演奏したりアレンジする部分では、僕とはだいぶ違う感覚だったのね。
その辺をなんとかしようとして、ダブルリードとかいろいろ試みてみたんだけど、うまくいかなかった。
そうすると銀次も僕も居る場所がなくなって。僕が前に出てハンド・マイクでやってみても全然ハマらないし、ギター3本いらないしね、アンサンブルがなかなかうまくいかなかった。それでフラストレーションが溜まってきて、銀次に抜けてもらったの。
それで銀次は、りりィのバックバンド、バイバイ・セッションバンドに行くことになるんだよね。

  

<「ヤング・インパルス」は生番組だったから、曲ごとに笑い話があるよ>
74年12月11日、渋谷ヤマハの店頭ライブ。この時には客なんてあんまり居なかった。だけどその10ヶ月後、75年10月19日にこのヤマハでもう一回やっている。この時は黒山の人だかりだった。この時のライブを佐橋佳幸とか、うちのカミさんが観ている。
だから、この1年足らずの間にガラッと変わったわけだよね。実は今のシュガー・ベイブの評価って、殆どこの後半のものなんだ。
でも、そうじゃなくて前半のシュガー・ベイブに執着している人もいまだにいてね。ユカリはとてもクセのあるドラマーで、曲の出来不出来がはっきりしてるから、例えば♪SHOWのような曲はユカリになってからほとんど演奏しなくなった。でも面白いよね。こんなサブカルチャーのグループにも第何期なんてのあって、あの時期のほうがよかったとか、今でも言ってる奴がいるがいるんだからね。暇だというかアホらしいというか。
レコードが出てからでも、ライブハウスの動員が本当に良くなったのは、5人になってからだね。今の感覚だったら1、2ヶ月なんてあっという間だけど、この頃は本当に1、2ヶ月でどんどん状況が変わっていくのね。でもシュガー以外にもCMやコーラスの副業仕事もだんだん入ってきて、事務所の運営も少しは回るようになっていったんだ。で、秋ぐらいに事務所が笹塚から六本木に移るんだよね。
ユカリを引っ張り込んだのは正解だったと、今でも思ってるよ。リズムセクションを強化したおかげで演奏の幅が広がった。ユカリと寺尾になってから不安が軽減されて、歌に専念できるようになった。
僕の記憶では客のウケとかそういうのは別にして、とりあえずライブが安心してできるようになったのは6月以降。
6月24日の教育会館のライブは凄くよく覚えているんだ。センチメンタル・シティ・ロマンスが一緒だった。まだ野口はセンチに入ってなかったかな。とにかく6人のときのライブは、なんか座りが悪いって言う感じだった。
74年12月、日比谷公会堂ユーミンのクリスマスコンサート。僕とター坊がアンコールにゲストで出て「ルージュの伝言」のコーラスをしたんだ。「ミスリム」が出た後、シングルで「ルージュの伝言」が出た頃。この頃は下手するとバンドの仕事よりも、コーラスの仕事の方が多かったりする時代だったから。
75年3月22日、荻窪ロフトで愛奴と共演、あまり覚えていない。この頃ちょうど6人でやり始めたばかりだから、それどころじゃないと言う感じだったかなぁ。この時はまだレコードが出ていなくて、そんなに印象がなかったな。僕の記憶が正しければ、4月20日のブルースパワーからベースが寺尾になったんじゃないかな。(ブルース・パワー・スプリング・カーニバル・イン日比谷/野音/他の出演者はウェストロード・ブルース・バンド、鈴木茂バンド、久保田麻琴と夕焼け楽団、ウィーピング・ハープ・セノオ&ヒズ・ローラー・コースター)。
この頃コンサートはブルースとか、そういう仕事しかなかったから。この時はシュガー・ベイブの出番が最初。以後、野音はひたすらトップ。愛奴と言えば7月26日に野音でやった「サマー・ロック・カーニバル」でも一緒に出たね。でも楽屋とかでもバンド時代の浜田(省吾)くんと話した記憶が全くない。
7月13日のテレビ神奈川「ヤングインパルス」にも愛奴と一緒に出たんだけど、インタビューにメンバーがひとりづつ出てくれって言われてね。こっちは僕が出て行ったんだけど、愛奴は青山(徹)くんだった。リーダーの浜田くんは嫌だって言ったんだって。
6月以降、結構ライブもまとまってきたし、何よりCMがバンドでできるようになったの。この頃、坂本(龍一)くんが仲間に加わって、曲によっては銀次呼んだりして、いろんなことができるようになった。だから音楽的にはコーラスにCMにライブ、の3本立てで、仕事ができるようになっていった。
だから、75年頃にはようやく少しは食えてきた。やっぱり食えてくるっていうのは大きいよね。洋服やレコードも買えるようになった。74年なんて映画もほとんど見ていない。「ポセイドンアドベンチャー」と「アメリカングラフィティ」くらい。
この頃になるとだんだん夜遊びもできるようになって、ゴールデン街に飲み行ってるとか、ようやくそういう風になってきたの。
「ヤングインパルス」は生番組だったから、曲ごとに笑い話があるよ。1曲目が♪雨は手のひらにいっぱいで、僕が生ピアノで歌って、ター坊のエレピでイントロが始まるって言う。エレピはアンプに繋いであって、本番の前に僕がアンプのボリュームを絞ってあるから「必ず始める前にボリュームを上げて」って、ター坊に言ってあったんだけど、ワン、ツーってカウントして演奏がスタートしても、イントロの音が出ない。
ター坊がボリュームを上げるのをすっかり忘れてるんだ。しょうがないから演奏が始まってる中、アンプのところまで歩いて行って、ボリュームを上げて、ピアノに戻って歌い始めたw
それが1曲目で、2曲目はター坊が生ピアノを弾きながらの♪いつも通りで、ター坊の歌い出しで、画面が顔のアップになったら、いきなりPAがハウったの(ハウリング)。そしたらター坊がカメラをキっとにらんでね。あれ、映像残ってたら最高なんだけどな。3曲目は♪今日はなんだか(ファンクラブミーティングで皆さんにご覧いただいた通り)ユカリがスティック落とすやつ。
でも、あの仕事は誰が受けたんだろうね? テレビに出るとか出ないとか、そんな(抵抗)意識全くなかったしね。ただ、その後にそういう話が来なかっただけで。テレビで演奏して歌ったのは結局あれが最初で最後だね。CMに出たのもあるけど。
「ヤングインパルス」って生で昼間にやって、夜に再放送するんだよね。多分出版関係がらみでフジ・パシフィックが愛奴と一緒にブッキングしたんだろうね。「夏に向けてのふたつのグループ」って言うタイトルだったから。でも、こうして改めてスケジュール見ると仕事しているようで、そんなでもないと言う気もするけどね。CMとか結構やっていたんだけどね。
   
<めんたんぴんとシュガー・ベイブのジョイントは、ちょうどいい按配なんだ>
野外のライブは嫌だったね。ほんとに嫌だった。8月の金沢近辺のツアーなんて、とにかく何とも言えない体験だった。人生で一番しびれたのは74年5月の拾得と、75年8月9日の福井九頭竜(くずりゅう)フェスティバル、それとその数日後の富山の高岡だな。
九頭竜は野外イベントに客が入らなくて主催者が夜逃げしたんだ。2万人とか入れる予定だったのが2000とか3000しか入らなくて。だだっ広いところに客がパラパラって。野外の夏の炎天下でしょう。そこに東京から車で行ったの。
僕らの出番は妹尾(隆一郎)くんのローラーコースターと、ウェストロード・ブルースバンドの間だった。真っ昼間なんだけど、トリがダウンタウン・ブギウギバンドってね。客席の最前列は全部つなぎのヤンキーでさ。司会者が石川のAMラジオのアナウンサーで「じゃあ次はシュガーベイブです、イェー」とか言うのはいいんだけど、ヤンキーが演奏中にひたすらヤジってるわけ、「やめろーおめーらー」とか。やじられのは慣れてるから無視してやってたら、いきなりユカリがドラム用のPAマイクつかんで「ワレラ!文句あるんやったらこっち上がってこいや!」って珍しくキレた。しかもユカリはキレても、とても静かなの。「上がってこいや」ってドスが効いてるのw そしたらヤンキーたちがびびっちゃって、後ろのほうにいた女子学生が一生懸命拍手したりして。
あとすごかったのは、僕らが出る直前に僕らのマネージャーが「ギャラをここで払わなきゃステージに上がらない」って主催者と揉めてね。この状況から見て、ギャラを取れない可能性があると思ったんだ。結局、ギャラをもらったのは、めんたんぴんと僕らだけだったんだって。何しろ、主催者が夜逃げだからね。すごかったなぁ、あのイベントは。あとは出演者で女性は、ター坊とカルメンマキと金子マリの3人だけだったのね。真っ昼間の山中の野外でしょ。着替えする場所なんてないの。で、マリもター坊も「じゃあ、このままで着替えないでいい」ってことにしたんだけど、カルメンマキは「私は断固として衣装に着替える」って言って、毛布を5、6枚使って、野郎どもがみんなで囲んで壁を作って、その中で着替えてた、それはよく覚えてる。
もう、この頃はどこ行ってもダウンタウン・ブギウギバンドだったな。浦和ロックンロール・センター主催で、ダウンタウン〜とシュガーのジョイントなんて言う仕事もあった。どうなることかと思ったけど、それは運良く中止になって、ホっとしたw
ダウンタウン・ブギウギバンドにはまだ千野秀一さんはいなくて、オリジナルメンバー。でもこの九頭竜でのヤジられ方は嫌だったなぁ。
めんたんぴんとはよく共演した。彼らは石川の小松のバンドで、事務所同士が親しかったのと、あと彼らは自分たちのPAPA運搬用の10トントラックを持っていて、それで全国ツアーをしていたんだ。グレイトフル・デッドみたいなやり方でね。だからめんたんぴんにくっついていれば、とりあえずどこのホールでもライブができたの。めんたんぴんの連中もいい奴らだったし、めんたんぴんとシュガー・ベイブでジョイントをやるとちょうどいい按配なんだ。
学園祭とかあると、こっちが柔らかくて、向こうが重いから。こっちが先に出て、めんたんぴんが後から出ると、どんな客でもいい感じに収まるんだよ。
そんな感じで、九頭竜の翌日に金沢でやった百万国夏祭りとかも一緒にやったけど、そっちは酔っ払いばっかりだったし、8月17日の卯辰山って言うのも、何だか知らないけど重苦しくて、変な雰囲気だった
そうそう。この金沢のツアーの最終日に富山の高岡で、やっぱりめんたんぴんとやったのね。あれは本当にものすごかった。
客が全部ボンタンのつっぱりだった。イベントの主催者がその筋の人だったの。パー券もどきにチケット売ってたんだって。で、ステージ上がって行ったら、ステージの縁のところに一升瓶が並んでるんだよ。ホールに半分足らずの客は、全員ボンタンにツッパリのヤンキーばっかりでね。「わー、女だ、脱げー」と。ター坊、足が震えたって言ってたもの。
他のみんなもびびったって言ってたけど、実は僕、この時代は栄養状態が悪くてね、夏になると喉が膿むの。扁桃腺が白くアバタになって、そうすると39度近い熱が出る。金沢のサナトリウムクロロマイセチンをもらって飲んでたの。クロマイって強い薬で、いわゆるトンだ状態になるんだよね。で、その時は幸運なことに、僕ひとりだけ朦朧としていて、へらへらと調子のいいことを言ってやってたので、ヤジられるだけで済んだ。
だけど、めんたんぴんが始まったら、客が一升瓶片手にステージに上がってきて、満員電車状態になったの。楽屋まで入ってきて、寝てるしね。すげえなぁと思ったけどめんたんぴんのメンバーが「こういうことを超えないと、ロックはできんのや!」って。そんなロックはやりたくねぇなぁって思ってたなぁw
それで終われば、まだよかったんだけど「打ち上げをやるから来い」って言われて、変なスナックに連れていかれてさ。そしたらスナックの前に、ハーレーがダーっと並んでるんだ。スナックのテーブルや椅子を全部とっぱらって、赤絨毯の一番奥にダボシャツに腹巻のおっさんが、あぐらかいて座ってるわけ。「おう、よく来たな」って。その周りに若い連中がずらっと並んでて。そこにめんたんぴんと僕らが連れていかれて「まぁ、まず一杯」って酒が出た。村松くんもター坊もお酒はあまり飲めないから「その分僕がもらいます」って、僕が取り持った。で、「これから東京に帰らなきゃなんないので、あんまり遅くなると」って、早々に逃げ出した。帰りの車で、熱が出てうなされたよ。しかも東名は土砂降りの雨でさ、思い出すなぁあの夏、1975年。

  

<この頃から縁故じゃない仕事がポツポツと入り始めてた>
こんなイベントへは村松くんのシビックと2トン半の楽器車で。それに交代で乗って。電車賃なんてないもの。泊まるとこだって毎日違うしね、そういう時代だったんだよ。
あの時代の経験のおかげで、何にも怖いものなんてありませんw 今は天国ですよ。
守ってくれる人がいるし、とにかくあの頃はね、みんなでギターやアンプをどうやって守ろうかって言う。楽器がなきゃ演奏できないから、楽器だけは壊されないようにしようって言う、それはすごく気を使った、みんなで。ああ、色々思い出して来ちゃったw
8月21日、日仏会館、センチメンタル・シティ・ロマンス、アルバム発売記念コンサート。これは僕がゲストで一人出て♪DOWN TOWNを歌った。前にも言ったと思うけど、センチはCBSソニーからデビューしたんだけど、ソニーの洋楽セレクションが邦楽を手がけた最初なのね。
ソニーと言う会社はもともと洋楽の強い会社で、洋楽と邦楽の間で競争意識が強かった。だけど、当時はそれこそキャンディーズから、南沙織から百恵ちゃんのちょっと前くらいだからね。洋楽スタッフが邦楽に手を出したって言うんで、邦楽勢からの反発がすごかったんだ。
当日は客席の中程に招待席があって、社内のそういったお歴々が並んでいるわけ。で、1曲終わるたびに「つまんないね」「なんだこれ」って具合に聞こえよがしに貶すんだ。途中で、バッーって席を立って帰ったり。「すげえ世界だな」って驚いた。
9月7日、札幌厚生年金会館。この時に生まれて初めて飛行機に乗ったんだ。ポプコンのゲストだった。これも誰が入れたんだろうね。ポプコンのゲストって何度かあったんだよ。
この時は前日がリハーサルで、その時に僕らの現場スタッフとヤマハPAの人と喧嘩になってさぁ、本番になったら電源に切るって言われて「やれるもんならやってみろ」ってタンカ切ったり。この札幌に行く前、昼にキングレコードのスタジオで黒木真由美の歌入れをして、飛行機で北海道に行ったのをよく覚えてるよ。
この頃はスタジオ仕事が多いね。CMやユーミンの「コバルトアワー」のコーラス、この頃から少しずつ名前が出てきているっていうか、縁故じゃない仕事がポツポツと入り始めていた。
黒木真由美の仕事は、キングレコードのディレクターがシュガーベイブのアルバムを聴いて「曲を書いてくれ」ってきたの。
9月12日は中野公会堂のめんたんぴんコンサートに共演で出たんだけど、この時期に写真学校の学生が「めんたんぴんが好きなんですけど、写真を撮らせてください」って来てね。ついでにシュガー・ベイブも撮っているうちに、僕らのライブにも来るようになった。それがのちにロック関係の取材カメラマンとして有名になる菊地英二さんだね。今でも僕やまりやの取材に来てくれる。菊地さんが当時写真をずいぶん撮ってくれていたので、シュガー・ベイブのライブ写真がたくさん残っている。とても助かってるよ。
スタジオではコーラスが主だったね。クラウンでは伊勢正三さんの「風」をやったり、山田パンダの「風の街」とか。ソニーでは山本コウタローさんや斉藤哲夫。キングでは丸山圭子
アルファではユーミンのほかにルネ・シマールというカナダの男の子。ルネはステージまでやらされた。僕とター坊と村松くんと(吉田)美奈子の4人でね。ライブ盤で音が残ってるけど、よくハモってるよ。
あとティン・パン・アレー関係で小坂忠さんとか。そういう感じで色々だね。
ユカリには結構ドラムの仕事が入ってきてね。有名どころでは山本コウタローとウィークエンドの「岬めぐり」はユカリと寺尾の演奏だよ。シュガー・ベイブの事務所は僕ら以外はジャズバンドばかりで、ジャズクラブの仕事が毎日入ってたから、ユカリのスタジオ仕事までは面倒見切れなかった。で、僕がライトバンにドラムを積んで、ユカリを乗せてスタジオに行って、セッティングを手伝って、終わったらばらしてギャラをもらって帰る、なんていうマネージャー代わりもやったりした。当時の我々の事務所は、向井滋春クインテット、吉澤良次郎カルテット、山下洋輔トリオ、それにシュガー・ベイブが所属と言う、ヘンなオフィスだった。

  

<この時代NIAGARA MOONの曲はほとんど全曲やったよ>
シュガーベイブの曲数はね。曲は書いていたけどCMの方が多いなあ。だけどこの頃にはもう「こぬか雨」もやっていたし♪WINDY LADYもやってた。あとはター坊の♪約束、♪愛は幻。♪SUGARがどんどん長くなって行ってた。だから解散コンサートでやってるレパートリーはもうほとんどあったね。SHOWやDOWN TOWNを全くやらなかった時代もあるからね。だけど、どんなにがんばっても16〜17曲だから。
そうか、考えたらこの頃は大滝さんのバックもやってたんだな。ユカリが入ったから。ユカリが入って、寺尾が弾けることが分かったから。でもどうして大滝さんのバックをやるようになったのか。
その前に、布谷(文夫)さんのバックっていうのがあってね。いつ頃からやったか覚えてないけど、74年9月29日の横浜グリーンピースかな。凄まじいライブハウスでさ、30人そこそこしか入らない狭い場所で、ステージは1段、と言っても15センチくらい高くなっていて、上に蛍光灯が1個付いていて、それが照明がわり。それを付けると開演なのねw 
その時はユカリ、野地義行くんのベース、矢野誠さんのピアノ、銀次、村松くん、僕だった。僕はクラビネットとか半端な楽器ばかりやらされたんだ。
その後、矢野さんの代わりに坂本くんが入ってきたんだよ。さらにそこからユカリ、寺尾、村松、坂本、僕の5人で大滝さんのバックをやるようになった。さらに、それにター坊がコーラスで加わって、シュガーベイブ大滝詠一のパッケージと言う形になってきてね。それが76年まで続くの。
75年(5月30日)にNIAGARA MOONが出たでしょ。多分それでライブをやんなきゃ、ってなったんだよ。だからこの時代、NIAGARA MOONの曲はほとんど全曲やったよ。
なんたってユカリが叩けるし、坂本くんも来て、そんなのができるようになったんだよね。1曲目がそれこそ♪論寒牛男(ロンサムカーボーイ)とかさ。
でも記憶っていうのは曖昧なものなんだよね。今度ビクターで及川恒平さんが詩を書いて、坂本くんが曲を書いた「海や山の神様たち〜ここでも今でもない話」って言う教育教材のアルバムがCD化されるんだよね。
その時に坂本くんから、少年少女合唱団に歌わせるので、コーラスを書いてくれって頼まれて、譜面を書いたんだけど、僕はこのアルバムがきっかけで、及川耕平さんのアルバムに参加することになったと、ずっと思ってたんだけど、今回スケジュール帳を見たら、及川さんのアルバムの方が先なんだよね。記憶っていうのは自分が思い込んでいる事と時々違うことがあるんだよね。
75年発売の「海や山の神様たち〜ここでも今でもない話」は大変だったんだよ。だってスコアも何もないんだもん。演奏のテープを1本送ってきただけで、コード表すらないものね。当時の坂本くんは現代音楽の作曲だったから、アバンギャルドな歌曲と言う感じでしょ。譜面起こしの方が、コーラス譜を書くよりもよっぽど時間がかかった。
ポピュラー音楽と現代音楽の中間みたいな感じで、中にはハーモナイズしても子供が歌えるとはとても思えなくて、僕とター坊の2人でコーラスをやったり。
でも、ここから年末にかけて大滝さんの細野さんのジョイントコンサート、トロピカルムーンがあって、シュガー・ベイブのサードコンサートもあったり、11月22日には渋谷ジャンジャンで昼にやって、夜は荻窪ロフトでやってる。すごいね。
75年の大晦日オールナイトコンサートは名古屋の雲竜ホールだね。この時はトリがセンチで新年タイムを誰が取るかって言うんで、愛奴が散々引っ張ったんだけど、結局シュガー・ベイブがいただいたw このときには愛奴にもう浜田君はいなかったな。
と言うことで、いよいよ1976年になるんだね。
【第16回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第15回 初めてのアルバム・レコーディングSONGS 1974年10月〜

<エレックのスタジオは、コレはなんだ、っていう酷さだった>
曲は♪すてきなメロディー以外は全部揃っていた。もうライブでやっていた曲ばかりだからね。
スタジオは最低だったよ。天井が低くて。だって普通のオフィスビルの2階だもん。マイクも数えるほどしかないし、ピアノの弦に雫が垂れているんじゃないかって言う位、湿度が高くて、当然鳴らないし、モニターはひどいし。今までコーラスやCMをやってきた色々なスタジオと比べても、これは何だって言う感じだったよね。
CMで使うのはそんなにいいスタジオではないんだけど、でも、それは機材的な面で、16チャンネルのコンソールはなくて4チャンネルしかないとか。それでもルームはそれなりにちゃんとしていたの。でもエレックのスタジオはそういうの以前の問題で。あれはちょっとショッキングだったね。大滝さんも絶句してた。
それに初めてエレックのスタジオに行ったときには、大滝さんは卓に座らせてもらえなかった。スタジオのハウス・エンジニアがいてね、彼は当然自分がやるもんだと思っていた。で、大滝さんも自分でやる気でいたから、どうなってるんだ、みたいなこともあったり。
言い合いにはなってないと思うけど、気まずい感じだった。でも、そのエンジニアもスモーキー・メディスンとか、ずうとるびとかやってるエレックスタジオのハウス・エンジニアだったんで、そこにいきなり大滝さんが来て、なんとなく対立構図に。
それで結局レコーディングの時は大滝さん、ハウス・エンジニアがやったのはデモテープの時だけ。どういういきさつでそうできたのか、知らないけど。
  
<でもしょうもないスタジオで録ったからこそ、ああいう音になったのかもしれない>
それまでエレックで出していた人はあのスタジオにそんな疑問もないでしょ、インディーだもの。
ただ逆に言うと、あのハウス・エンジニアの人はあの環境でよくやっていたよね。その後フリーになって有名なエンジニアになったのもうなずける。まあ、あの頃はシステムがシンプルだから、腕で何とかなる部分もあったんだね。
だけど、当時はエレックの経営が既に左前になっていたから、今コンソールは誰の抵当で、テレコは誰の抵当とか、そんな話をずっと聞きながらやっていたから。
最初にエレックに行ってデモを取った時に、そのハウス・エンジニアで♪蜃気楼の街を録音したんだ。僕はそのテープを持っていないんだけど、とにかく全然雰囲気が違うんだ。アレンジもかなり違ってたんだよね。SONGSに入っている♪蜃気楼の街はスタジオで考えたアレンジだから、イントロとかかなり違うんだよ。そのテープはもう無いんじゃないかなぁ。
でも考えようによっては、僕らのアルバムが溜池の東芝スタジオとか、六本木ソニーとかのスタジオで録ってたら、普通のニューミュージックのバンドもののオケになっていたかもしれない。エレックのあのしょうもないスタジオで録ったからこそ、ああいう音になったのかもしれないよね。
とにかく、リズム録りだけはエレックでやったんだけれどあまりに雰囲気が良くないんで、歌入れとか、かぶせは福生とかソニーとか他のスタジオでやったんだ。
ストリングスの録音は六本木ソニー。エレックでやったのはリズム録りだけ。でも本当にエレック・スタジオにはいい思い出がないなぁ。エレックのA&R担当とは本気で言い合いになったこともあったしね。細かい原因までは覚えてないけど。
でも素直に「はい、はい」って従ってたら、とんでもないところに持っていかれるって、直感で感じたんだよ。僕らのレコードなのに、なんでそっちの理屈を聞かなきゃいけないんだって。
僕が最初に感じたのは「どうせこいつら下手なんだもの」って言う空気。あるいは「どうせこいつら売れない」って言う、初めからそういう空気があった。普通レコーディングするって、会社と契約してデモテープ録っていく時に、励ましとか、盛り上げるとかあるじゃない。そういう記憶がほとんどなかった。そういう違和感がすごく残ってるんだよね。
結果的にはあのエレックのどうしようもないスタジオでのインディーの録音と、福生45スタジオの木のアンビエンス(残響音や反射音)、そして最終的には六本木ソニーでのミックスダウン、それぞれのスタジオの色合いが入ってるとも言えるかも。結果的にそうなったけど、やっている時、本当にこれで出来上がるのかと思ったんだよね。
バンドを作って1年半くらい経ってたから、やっとバンドの音もまとまって来ていたし、ター坊も曲をきちっと書き始めていた。♪風の世界とか書けていた。そうなってバンドのサウンド・ポリシーもだんだん出てきているところに、違う方向に持っていかれるんじゃないかって言う不信感。
だって4月に(ニッポン放送で)デモテープを録ったはいいけど、そのままずっと何もなくて、東芝だったはずのレコード会社がいきなりエレックになっていて、そういう部分にも疑心暗鬼だった。
エレックでのリズム録りは全員でやった。でもクオリティーに全然満足できなかったの。音に残っているので言えば♪雨は手のひらにいっぱい、でドラムのパターンが倍転するところとか、♪いつも通りのドラムパターンとか、スタジオの現場で決まったりしたのね。
それで僕が心配したのは、野口がすぐにはできなかったこと。
例えば♪DOWN TOWNのテイクでもハイハットとスネアの普通のパターンでドラムを叩いた後に、タムをダビングすればいい話なんだけど、レコーディングではタムを先に叩きながら演奏することになった。
そうすると当時の野口の技量ではリズムが揺れ始めるわけ。ただでさえテンポキープが弱かったのに。
それで延々やっていると、どんどんスタジオの空気が悪くなるの。野口を途中で変えて(上原)ユカリに頼んだっていうのは、それが一番大きな理由だったんだよ。
今から考えると機材の問題も大きかったんだけど、タイムが甘いっていうかアンサンブルの線が所々ズレるのがすごく嫌だったんだ。で、全曲、SHOWもDOWN TOWNまでも、ユカリでもう一度やったんだ。
だけどプレイバックを聴いて、ユカリが野口のバージョンを「こっちの方がバンドの音がしてるからええんちゃうか」って。それで思いとどまってSUGAR、SHOW、DOWN TOWNは野口のバージョンになったの。
だからそれが最初にやった曲で、一番最後にやったのが♪すてきなメロディー。
だけど♪今日はなんだか、のような曲はユカリのスタジオやライブでのキャリアの裏付けがなきゃだめだったね。ああいうハネているやつなんてのは特にね。
もともと自分たちが上手くない事はわかっていて、それを編曲的な部分で補って形にしてきたのに、それをレコーディングの現場でまた変更する、そんなことになったからね。そうすると途端に演奏技量が心許なくなる。そうなると、やっぱり野口なんかが槍玉に上がっちゃうんだよね。
そういうことがなくて「いいんじゃないバンドなんだから」とかやってたら、全然違う人生になってたんだろうね、それはそれでw

     

<あの時のレコーディングで一番鮮明に覚えているのは食事代が出なかったことかな>
1974年10月の終わりから11月の頭までがエレック・スタジオでの1回目のセッションだね。
その後、11月18日から再開している。ここで野口とユカリが交代。で、リズム録りを4日間。その間にライブもやってるんだよ。金沢に行ったり。
まぁレコーディングしたのはほとんどがライブでやっていた曲だから、構想あったんだよね。
でも、あの頃はキャラメル・ママみたいなスタジオミュージシャン・ミュージックの全盛の時代でしょ。だからバンドで一発録りでやることが、すごくつまらないことだって風潮があった。何か現場で変更加えたり、新たにダビングをすることが、レコードとしての完成度を上げるって言う、そんなのただの幻想なんだけど。
結果的に♪SHOWなんかはデモテープの方が出来がいいと思う。でもテープは同じ日にいっぱつどりだから。でもスタジオでは後から別の場所で歌を入れるから、歌とオケの間に距離がある。それがすごく気になって。とにかく楽しくないんだよ、ちっとも。実際に人だから思ったようなことにならないっていうのもあったけど。
原因がつかめないから♪SHOWとか♪今日はなんだか は、よせばいいのにダブル・ヴォーカルにしたりして。
なんでそうなったかと言うと、リズムを録ったのがエレックなんだけど、歌を入れたのは福生とか他のスタジオ。福生の音はエレックとは違うからね。今ならそんな場合の対処もできるけど、あの頃は右も左もわかりませんでしたから。
もう30何年も前の話だから、細かい事は断片的にしか覚えてない。結局覚えているのは良いことか、悪いことか、どっちかなんだよね。
あの時のレコーディングで一番鮮明に覚えているのは、食事代が出なかったこと。「出前をとって自分たちで払え」って言われるの。それで僕はエレックのA&Rにどうなってるんだって聞いたら「いや、金がかけられないんだ」って、それだけエレックはヤバかったんだよね。とにかく勇んで始めたはいいけど、途中でドラムがユカリに代わったり、だんだんおかしくなってきて。
そうすると、僕も他の人のレコーディングの現場とか見てるわけじゃない。その様子と自分たちの現実があまりに違うしね。とにかく、だんだんレコーディングに対する意欲が失せていくの。だからずるずるべったりずっーとやっていたんだよね。
本当は年内にアルバム出したかったらしいんだけどできなくて。そんなわけで、当時はオケの出来に全く不満足。それがずっと後になってソングスを聴きなおしてみると、思ったより良いw
でも、当時はそのくらい気持ちが盛り下がってた。それは現場の記憶とリンクしてるからなんだろうね。あれが六本木ソニーのきれいなスタジオでやってたら、もっと精神的に違っていたのかもしれないけど。エレックは薄暗いんだよ、スタジオがね。少しも明るくならないんだ。その印象が強かったな。

   

<みんなが脅かすんだよね、「弦の人って根性悪いから、いじめられるよ」って>
大滝さんもエレックのスタジオを気に入っていなかったんだろうね。で、福生のスタジオに16トラックのレコーダーを入れて。福生だったらマイク等の付帯機器を借りてくれば、あとは何時間やってもお金はかからないからね。でもダビングはいろんなとこでやったなぁ。
♪いつも通り、♪今日はなんだかのグランド・ピアノのダビングは、目黒にあったモウリ・スタジオの1スタでやった。♪SHOWのピアノはエレックで最初に録ったそのまま。だから音が妙にモケてるんだよね。あれが嫌で♪今日はなんだか、♪いつも通りは、モウリで録り直したんだけど、当時はドンカマ(リズムボックス)なんてなかったから、ユカリのドラムと合わないの。それをずらして再生して合わせたりしてね。そういう風にいろんなスタジオを転々とした記憶がある。
ストリングスは六本木ソニーで。あの頃のバンドものでストリングスとかブラスを入れるとか、あまりないよね。特にストリングスは。でもさっき言ったように、スタジオ・ミュージックの方が優れている、って言う思いがあったからさ。そういう「何かやらないといけないんじゃないか」っていう思いw、レコードを作るんだから。
だから、これが僕にとって生まれて初めてのストリングスアレンジした曲なんだ。CMだってストリングスやったことないもん
ストリングスの記譜法の基礎は、最初、瀬尾(一三)さんに教わった。瀬尾さんはCM制作会社のオフィスで知り合って、その後コーラスでもずいぶん使ってもらった。当時の僕の人脈から全くありえない、山田パンダとか、風とかのコーラスは、全部瀬尾さんがらみのものだよ。同時に僕にとって瀬尾さんは、スタジオでのいろいろな段取りの先生でもあった。
ストリングスに関して素人考えで、初めはブラームスとかチャイコフスキーとか、そういうスコアで勉強しようと思ったけど、あれは編成が大きすぎるから参考にならないって言われてね。瀬尾さんは「クラシックのスコアなんか見てもダメだ」って。
だから自分でヘンリー・マンシーニとかドン・セベスキーとか買い込んで。マンシーニの本はマンタ(松任谷正隆)に教えてもらったのかな。
スタジオでは通常6.4.2.2(第一バイオリン6人、第二バイオリン4人、ビオラ2人、チェロ2人)だから、当時僕はブラスに関しては若干の知識はあったけど、ストリングスは全然知らなかったんで、瀬尾さんに書式を始め、基本中の基本を教えてもらったんだ。
ストリングスのメロディーラインのイメージはあったから、それを弦で弾くってことだから。まぁだけど、みんな脅かすんだよね。「とにかく日本の弦の人って根性悪いからいじめられるよ」って。
それまでのレコーディングで、アレンジャーが「こんな譜面じゃぁ吹けないよ」ってブラスの人にいじめられていることを見てきたから。でも「弦はあれ以上だよ」っていわれてねw。僕、ブラスバンドだったから、ブラスの人たちとはそんなに違和感がなかったの。プレイヤーがそう言うのももっともだなって。でも、なんだかんだで、弦もそれほど問題なく入れられたよ。

  

<「雨は手のひらにいっぱい」をシングルに、という話になって変えた>
レコーディングではコードやメロディー、行き方を変えた曲はほとんどない。基本的にはステージアレンジそのまま踏襲。だから、それに何を足すか、って言うことをやったのね。
それでも大きく変えたのは♪DOWN TOWNと♪蜃気楼の街かな。
DOWN TOWNはもうほとんどステージでは演奏不可能な世界にまでしちゃっている。野口のドラム、というかフロアタム+スネアで演奏しているあのやり方だと、アタックが弱いんだよ。でもアタックが弱いことが、逆に非常に不思議な音蔵を生み出したんだよね。60年代っぽい。だからあの曲をライブでやるとレコードみたいな感じにはならないんだ。それはもう全く割り切ってやるしかない。

そういうちまちましたことがあったけど、♪SHOWと♪風の世界、は全くステージのアレンジそのままだし、村松くんのオブリやソロもステージそのままでやっている。♪SUGARも全くの一発録りの上に、あのバカ騒ぎを寄ってたかって入れた。
♪蜃気楼の街はなぜ変えたか覚えていないけど、あんまりステージのアレンジが好きじゃなかったんだろうね。こうしたいなっていう漠然とした構想はあったからね。♪いつも通りは、ステージではイントロやリズムパターンの違うバージョンが何個があったんだけど、レコーディングでは不思議なことに一番最初のバージョンに戻っているんだよね。なぜそうなったのか、僕も記憶がないんだ。あと大きく変わったのは♪雨は手のひらにいっぱいだね。
この曲を変えることになったのはこの曲をシングルにしようと言う話になったからなんだ。まぁ結局はならなかったんだけれども。
シングルで切ろうって話が起きたのは、レコーディング始まってからで。僕たちはDOWN TOWNで絶対決まりだと思ってたんだけど、出版社のスタッフと大滝さんに♪雨は手のひら〜をシングルにしたい、って言われたの。ステージでの♪雨は手のひら〜はカントリー・ロック風のアレンジだったんだけど、これをフィル・スペクター仕立てにしようって。
それでシングルとアルバムを別バージョンにして、シングルを松本隆さんに頼むって話ができたんだよ。曲はいいけど、とにかく詩が弱い。次はプロの作詞家に頼もう、って。シングルバージョンは松本さんで、アルバムバージョンはお前の詩でいいって言われたの。
それで話し合いは物別れにはなったんだけど、その後に「こういうことがあったんだ」ってメンバー5人でディスカッションしたら、野口は「僕は売れるためだったら、それでも構わないよ」って言うの。野口は当時家が大変だったりして、それはそれで身につまされちゃって、そうか、それもしょうがないかと思ってたんだよね。そうしたら結局、松本さんがやらないと言うことになった。
でも、松本さんがやらないと言うことになって、じゃぁ他に誰に頼むって言う話が全くないのね。なし崩し的に、詩はそのままってことになった。それもまた気に入らなかったんだ。結局、僕がケツまくる位にアンタたちが説得したのは何だったんだって。そんなに詩を変えることに固執するんだったら、一つプランがダメになったら違うプランを持ってくればいいじゃないか、って。そんな話ばっかりだから、やっぱり印象が悪くなっちゃうんだよw
   
<SONGSはいつ出たのかも知らない。レコード店で現物を見たことがない>
レコーディングのテイクのオーケーは基本的には僕と大滝さんの合議だった。ただ、大滝さんはもうワンテイク録れとか、全体的な事はあまり言わなかった。細部に対する変更だけ。
自分に関して言えば、当時のメモを見ると、やっていることが今と同じだね。何を入れるかって言うメモには、パーカッションしか書いてないんだよ。コードの出る楽器とか、メロディーが出る楽器は、結局バンドだから、バンド以外の音は入れられない。
レコーディングの締め切りは最初はあったの。年内に出そうとか。でも結局そんなふうにも揉めるとさ、スケジュールが遅延するんだよね。
11月30日にモウリ・スタジオでやっている。それまでエレックだったわけだね。この日モウリでピアノのダビングをやったかもしれない。あとストリングスとブラス、稲垣次郎さんのソロとかはソニーだね。
歌入れの一部もソニーでやっている。♪素敵なメロディーとかは福生。ター坊の歌入れはソニーが多かったんじゃないかな。だから♪いつも通りの歌は、音がデッドでしょ。
ミキシングはどのスタジオも大滝さんが全部自分でやった。エンジニアとしての大滝さんはとてもちゃんとしていたんだよ。よく勉強していたしね。
リリースは1975年4月25日だけど、手帳に発売日とか一切書いてないんだよ。いつ出たかもろくに知らなかったんだ、実は。レコードで現物を見たことがないし。アルバムが出た印象がない。だってその時の見本盤は1枚しかない。売っている盤をその頃見たことがないし。
東芝の溜池スタジオがリニューアルした時に、デモ演奏してくれないかって言われたの、誰がその仕事を持ってきたかわからないんだけど。
それが75年の頭なんだけどその時に(伊藤)銀次を入れて写真を撮って、それがエレックのプロモーション写真になるんだよ。それが3月12日だね。そんなことばかり覚えてるんだよ。
ジャケットは金子(辰也)に頼みに行ったの。いつ頃かは覚えてない。とにかく知り合いでデザインの知識があったのは金子ひとりだけだったし。だからAdd Some〜の延長だよね。
アルバムは曲の出来不出来が激しいなっていうのが正直な感想。♪雨は手のひら〜はよくできたけど、♪今日はなんだかはピアノがあとからかぶせたのがわかっちゃうし、そういう後悔をするところがたくさんある。
ミックスし直し? 無理だよ、今更やったところで自己満足にしかならないもの。それにミックスに関して言えば、大滝さんはあのコンディションの中で、良いミキシングをしていると思うよ。
今から考えると、一発録りに近いやつの方がいい出来してるよね。♪過ぎ去りし日々なんかほとんど一発録りだから、ああいう方が聴いていて違和感がない。やっぱり一般的なレコーディングの評価と同じで、演奏の稚拙さをどうカバーするかって頑張ったんだけど、最終的にはそういう上手い下手のレベルよりも、編曲の段取りとか、イントロの作り方とか、そういう方が長く聴いていると残るからね。僕は♪いつも通りは元のイントロの方がいいと思うけど、そんな話はもういいよね、30年経つと。どれも「ああ、こんなもんだ」って思うよ。
     
<なんでSONGSがこういう形で残ったのかがものすごく自分としては不思議だね>
アナログのLPって片面が5、6曲しか入らない。結局アナログ盤のA面B面と言う形における美学っていうのは、1曲目からの流れ方、これが全てだと思うよ。
当時のこのクラスのバンドのアルバムって、3曲通して聞けないものが大半だった。その意味ではシュガーベイブには僕だけじゃなくって、ター坊とか村松くんとか、複数の作家がいたっていうことが大きいよね。
今から考えると、レコーディングの途中でユカリに替えたことでドラマーが2人になった。そのバリエーションも大きいよね。作家、シンガー、ドラマーが複数だった。それがSONGSが飽きない原因の一つじゃないかな。5人のメンバーがフィックスされてボーカルが一人しかいないバンドだったら10曲聴くのは飽きると思う。
それにター坊も僕も作家志向が強いから、作品にも幅があるしね。願わくば、それをもうちょっと良いコンディションでできたら、もうちょっと明るい感じのアルバムにできただろうね。でもあれが明るい感じだったら、果たして今の評価があったかどうかっていうのもある。
不思議なのはなんでSONGSがこういう形で残ったっていうのはね、ものすごく自分としては不思議。だって演奏が不満だらけで、せめて曲だけでも聞いてほしいって言うことで、SONGSってアルバムタイトルにしたんだもの。そうするとこの演奏やミキシングで正解だったって言うことなんだね。
やっぱりリズム録りの時の暗鬱な空気がポップさに影をさしている。その感じも結果としては良かったのかもしれない。
でも、当時これで軟弱だって言われたんだから、世の中ってすごいよね。ジェームス・ブラウンだって今でこそすごいって言われるけど、昔の日本では、こんな面白くない音楽はないって言われたんだもの。コードひとつしかないしね。歴史なんていい加減なものさ。
発売の頃に雑誌のレビューがあって、一番最初に出てきたのが「ミュージックマガジン」のしょうもないやつ、その後は「ミュージックライフ」だかどこかの「あの男の歌手がいなければ、もっとマシなアルバムになった」ってやつ。とにかく、ろくなのがなかったな。まぁあの頃は絶対に褒めないっていうのが、美学みたいな時代だったからね。別にけなされてもいいんだけど。でも、全く的が外れていたんだもの、どいつもこいつも。それが頭にきたんだけど。でも、世の中にはこんなに自分と感覚の異なる人間がいるんだ、っていうのが正直な感想でね。制作意図なんてものは世間にはほとんど伝わらないものだっていうのは、あの時代に徹底的に叩き込まれたね。
でも、僕にとって幸運だったのは、75年くらいから荻窪ロフトとか下北ロフトといったライブハウスが出てきて、そうしたライブハウスでの入りがすごく良かったこと。それが大きな支えだったんだよね。
ライブハウスでもいつまでも20人の客だったらやめてたね、絶対。レコードが出た後は、ライブハウスに限って言えば、客だけはどこもいっぱいだったから。
だから、音楽雑誌のライターの方がバカなんだ、客の方がちゃんとものがわかってるって。あの頃の客は言うこともきつかったけど、ちゃんとこっちの意図が伝わる形で聴いてくれてたしね。そういう落差って言うかな。だからある時期には本当に評価してほしい人には評価してもらえなくて、僕なんかに何の接点もない人が妙に褒めてくれたりとか、そういうことで、党派制とかに全く無縁に生きざるを得なかった、と言うのかな。
結局エレック盤SONGSの印税は一銭も入ってこなかった。エレックがすぐ倒産しちゃったこともあると思うけど、でも本当に本当のところはよくわからないんだよ。まぁ全てが時代の彼方だよね。
【第15回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 外伝5 野口明彦インタビュー

<高校の途中からフォークをやったんです>
生まれは東京・中野新橋、淀川浄水場の向こう側です。
で、その向こうはもう渋谷本町。渋谷と中野の境目ですね。家からバスに乗って、バス停3つ目で浄水場。中学校の頃にはもう浄水場がなくなって、京王プラザホテルが経つ頃によく遊びに行きましたね。遊びに行ったっていうか、フォークソングの練習とかをしていたかもしれないなぁ。
小さい頃は、普通の気の弱い人見知りでした。兄弟は妹が一人。外で遊ぶことが好きでしたね。運動もよくできたし、野球もずっとやってました。大滝さんのチームでもエースで4番だったし。今もバレーボールの監督をやってますよ。
音楽との出会いは小学5、6年の頃にピーター&ゴードンの♪愛なき世界を聞いて目覚めたって言う感じかな。あとベンチャーズ。友達の家にお兄ちゃんがいて、そのお下がりのポータブルプレイヤーで聴いていた。
で、中学に入ってベンチャーズが流行って、僕も少しドラムをやってたんですよ。ドラムは親父が祭太鼓が好きだったから、っていうのはおかしいけど、そういうのが好きだったみたいです。最初に始めた楽器がドラム。
高校で途中からギターを弾き始めて、フォークソングをやったんですよ。ドラムセットは持ってないですよ。ドラムはシュガー・ベイブの時も持っていなかったしw  センチメンタル・シティ・ロマンスに入ってからやっと手に入れたっていう、いたってルーズな。だから、よく言うドラム少年とか、ギター少年とか、そういうのじゃないんだよね。
フォークは三輪車時代のター坊と同じように、PP&Mスタイルでやっていたんです。PP&Mも好きだったし、高校のときには六文銭とかも好きでした。まだ初期の六文銭牧村憲一さんがマネージャー、早稲田の大学生で。で、僕は高校生の時に小室等さんとか、牧村さんに会って、牧村さんの家まで行ったりしてたんです。それで高校2年の時かな、ヴェルウッドを作った三浦光紀さんにも会っています。僕はその頃ジャンジャンとかに出ていたんですよ。「三本足の椅子」って言うグループで。
 
<僕は芸歴的にはすごく古いんですよ>
「三本足の椅子」を結成したのは高校1年位かな。3人組で。もうだれも音楽はやっていないですけど、僕の中学校の同級生と、4つ上のお姉さん。面白いんですよ、そのお姉さんは日比谷高校で4つ上だから、要するにまりやのプロデューサーだった宮田茂樹さんとか、山本コウタローさんなんかと同級生。後でわかったことですけど。
グループでは僕はギターと歌です。ギターは2フィンガー、3フィンガーと言う感じですね。
ギターの練習はしましたよw  しないと弾けないじゃないですか。で、ジャンジャンとか出てて、ソルティー・シュガーがいたり、まだ吉川忠英さんがEASTに入るか入らないか、と言う頃かな。古井戸もいたり、ブレッド&バターもいたかな。それで、僕らのグループが結構面白いって言うんで、NHKから声がかかったりしたんです。NHKテレビの「若いこだま」や「若い広場」にも出ましたよ。
曲はオリジナルで、僕とそのお姉さんが書いてました。ジャンジャンに出たのはオーディションで、たまたまそこにNHKのプロデューサーが見に来ていて、番組に出てみないか、と。そしたら三浦光紀さんも見に来てて、レコーディングしようって話になったんです。だけど当日、僕が寝坊していかなかった。そういう時代ですw
寺山修司さんの詩でレコードを出そうと言う話もあったんです。でも僕らは生意気で、お姉さんが寺山修司の詩じゃ嫌だから、唐十郎さんに代えて欲しいってw当時から唐さんのお芝居で小室等さんがギターを弾いてたりしたんです。で、僕が高校生の時に小室さんを訪ねて行ってるんです。いまだに小室さんに会うと「君は会うたびに違うことをやってるね」って言われるんですけどw
この前、達郎に会った時にも話してたんだけど、僕は芸歴的には古いんですよ、すごく。でも、そのグループを突然辞めちゃった。なんだかつまんなくて、それで解散。3年ぐらいグループはやってましたね。だって俺、それが原因で高校クビになっちゃったんだもん。音楽活動ばっかりやっていて学校へ行かなかったから、出席日数足りなくて。
だから、僕は全くヘンテコリンな角度から来てるというか。達郎たちは高校の仲間。僕は全然違うんです。でもそのお姉さんの友達が矢野誠さんの親戚だったんですよ。
そのお姉さんは日比谷高校を出て、阿佐ヶ谷美術学園へ行ってたんだけど、その時の仲の良いグループに有馬さんと言う人がいて、今は僕の親友となっちゃうんだけど、その人は長崎出身で、長門くんと同級生なの。そこで長崎の人脈ともつながってくる。
そこで僕は長門くんとか小宮くんとか知り合うんだけど、有馬さんが矢野さんの親戚だったんです。
有馬さんの義理の兄の妹が、矢野さんの当時の奥さんだった。それで僕も家に遊びに行ったり。僕は学生服でしたね。その時に長門くんにも会ってるんです。
  
<カメラマンの助手からディスク・チャートへ>
当時の長門さんはあまり覚えてないw 三畳一間に住んでいたよね、沼袋のウサギ小屋のような家だったのは覚えているけどw
グループを解散してから、僕は写真のほうに行ったの。もう、全く音楽はやめて、手に職をつけなきゃいけないって。全くカメラなんて興味ないんだけど、あるコネでカメラマンを紹介されて、その人の助手を2年ぐらいやりましたね。当時立木義浩さんや篠山紀信さん、大倉舜二さんとかカメラマンと言ったら花形、めちゃくちゃ厳しい世界、そこでやりましたね。
フリーのカメラマンに着いたんですよ。「婦人画報」とか「メンズクラブ」とかの写真を撮っていた。全くの商業カメラマン。その助手を2年。仕事の速さは身に付いたよね。記憶力とか、どこに何を置いたとか、言われる前に出すとか、そういうのは結構役立っているかな、今でも。
で、若いからすごくバキバキの助手になっちゃって、その人のところを辞めてもフリーの助手で、プロのカメラマンからご指名で仕事が入っていた。要するにできるローディーみたいなもんだよね。もうスケジュールを書いて、忙しくて。あっちこっちカメラマンについて、変な話、フリーの助手でも食えてたんです。でもカメラマンの世界ってすごく封建的なのが嫌で、それもやめて四谷の「ディスク・チャート」でバイトをするわけです。
矢野誠さんの同級生が「いーぐる」って言うジャズ喫茶のオーナーで、矢野さんの一派に、僕とか長崎連中がいたでしょ。その人たちが一緒にジャズじゃないレコードをかける喫茶店と言うのを作って、そこで従業員というか、バイトしたんですよ。そこでター坊もウェイトレスとして働いていた。
ター坊が矢野さんに勧められて「ディスク・チャート」に行くようになった経緯は、あまりよく知らないの。ただ「ディスク・チャート」に行ったらター坊とか当時の「三輪車」の連中がいたり、とにかく人がいっぱい集まっている。
僕はどっちかって言うと真面目なアルバイターだったからw仕事が終わったらもう帰っちゃうというか、ちょっと部外者的な感じだったかな。
そんなプロになろうとか、音楽に対してすごく執着しているわけでもないし。それでセッションをやっている時に、ただただボーっとしていると、長門くんが「野口、ボンゴ叩け」って。だから帰りはしなかったですけどねw
でもまあ色んな人が居ましたよ。(南)佳孝が居たりとか、徳武(弘文)くんも。
だから、僕が音楽の世界にスッと入れたのは、長崎の連中のおかげですよ。すごく仲が良かった。小宮くんとか、しょっちゅう高円寺のアパートへ行って一緒にご飯食べたり。
僕はその人たちから3つ位下で、すごくマスコット的に可愛がられたというか。スポーツやっていて上下関係にも慣れていたし、写真をやっていて、縦社会の中に結構いたから、気分は悪くなかったんじゃないかな、先輩たちも。一応わきまえて遊んでたっていうか。いつも何かあると連れ回してくれるお兄ちゃんお姉ちゃんがいたんですよね。それがいまだに続いてるような感じ。みんな音楽やめて長崎とか帰っちゃっても、僕がツアーで長崎へ行くと、その人の家に泊まったりしてますけどね。
長崎の連中のひとりだった土井って奴が、法政大学へ行ってて、徳武くんを連れてきたりとか。長崎の連中は、僕にとっては音楽的にはすごく冴えているものを聴いている連中だな、って言う感じでしたね。

<セッションからシュガー・ベイブへ>
「ディスク・チャート」のセッションは僕はよくわからなかった。何やってるんだろう、みたいな。ただドラムを叩きたいとは思ったんだけど、別にドラムセットもないし、ドラムが叩けるようなスペースもないし。ドラマーは誰もいないわけですよ。うまいと言えば当時達郎が一番うまい位でね。徳武くんがベースを弾いてたりとか。そういうめちゃくちゃな感じだったけど。
ター坊を売り出そうって話になって、バンドを作るんだけどドラマーがいないからオーディションで決める、と。それでオーディションしたのかな? シュガー・ベイブのオーディションで並木さんの家にには行ったような気がするけど。結局、一番下手だった俺に決まったと言う。
オーディションに行くと、もうター坊のバンドというより、達郎バンドみたいな感じというか。本当は達郎は太鼓すごくうまいんだけど「ギターを弾いて歌いたいから、俺はギターをやる」って。それで、僕はもうひとりのドラムの人がいて、その後に叩いたんだ。全く自信も何もなかったんだけど、お前やれ、みたいなことになっちゃったんだよね。体が大きいから。
当時ドラマーって変な思い込みがあったのね。音がでかくなっちゃいなくちゃいけないとか。PA設備がまだちゃんとしてないから、アンプに対抗できるパワーがなきゃみたいな。それで達郎が「お前、体が大きいからやれ」って。でも太鼓は叩きたいと思っていたから「まぁいいや」みたいな。その時にはドラマーになろうとか言うより、ただ太鼓が叩きたかっただけでね。
それで特訓。ドラムは中学生の時に、お遊びでベンチャーズをちょっとかじった位で、ポップスは好きだけど、自分で太鼓を叩いてとか、ポップスのあり方みたいなのは全然わからなかった。あまり聴いてなかったしね。
長崎の連中とか、長門くんや達郎のようにいろんな曲をコアな感じで聴いてはいない。僕はPP&Mも好きならシナトラも好きって言う、メガヒットばかり聴いてるような感じで。だからレコードを1枚買って擦り切れるまで、このギターは誰とか、そんな聴き方をしている奴が多かったけど、僕はそんなのどうでもよくて、ただ流行っているのが好きだっただけw
だから、音楽とか語ることが不得意で。いまだにあのギターは誰々とか、長門くんに言われても全然わかんない。だってセンチメンタル・シティ・ロマンスに入ってラス・カンケルを知ったくらいだからw
で、ドラムは特訓されていたと言うより、要するにキメのフレーズがあるわけですよ。「こう叩いてくれ」みたいな。で、変な話、ドラマーって人が言うフレーズって、叩けないんだよね。まぁスタジオで譜面があるなら、それでもやれるけど、意外とそんなホイホイとはできないの。まぁ今はできるようになったけどねw
僕の場合は、運動ばかりしてきたせいか、体に一度入れないとできない性分でね。そういう意味ではすごく不器用だったし、迷惑かけたんじゃないかな。だけど僕自身は辛くはなかったよ。だから続けられたんじゃないかな。
スパルタ? でも、それは別にセンチに行ってもそうだったしね。告井君がやっぱり「こうやれ」とかね。
ほんとに達郎と告井くんという師匠が二人いて助かりましたね。結構、一生懸命やれた。それがシュガー・ベイブに居られた理由かもしれないな。シュガーも喧嘩ばっかだったし。ずっとチューニングばっかりしてると「早くやろうよ」って言うのが、いつも僕で。そういう中和剤じゃないけど、僕の足りない部分が、逆にみんなを楽にさせたのもあるかもしれないw   僕が勝手に思ってるんだけどさ。
シュガーの曲はキメが多くて大変でしたよ、ほんとに。ここでこういうオカズじゃなきゃダメ、みたいな。でも自分がノッてたり、かーっとなっている時は、そんなことどうでもよくなっちゃうのが俺だったり。ドラマーって意外とそうだと思うんですけどね。
前に達郎に言われたことがあって、(村上)ポンタさんに「こういう風に叩いてくれ」って言ったら、できなかったんだよね、って。だから、その時にドラマーって「人が言うフレーズが体に入ればいいけど、そうじゃないとできない。できたとしても意外とぎこちない」ものだったり。達郎もその時、初めて分かったみたい。あのポンタさんでさえできないフレーズがあったって。できないんだよ、人の言うフレーズって。それからなんじゃないかな、達郎のドラマーに対しての意識が変わったのは、とは思うんだけどね。

<拾得で「帰れ」と言われた時は怖かった>
当時はステージでアガってたのかもしれない、だってステージの本数も少なかったし。でもそれよりも、間違いなくこなす、というのが大変だったかな。♪SHOW、♪DOWN TOWN、 ♪SUGAR…馴染んでいる曲は別にいいんだけどね。村松ちゃんの曲なんかも指定が多くて大変だった。オーリアンズみたいにとか言われても聴いたことなかったし。でも、アイズレーみたいにって言われた時はわかったの、聴いてたから。だから、自分が知っていたものは楽だったけど、知らないニュアンスのサウンドはやっぱり苦手でしたね。
(73年8月の)長崎の初ライブの事は覚えてます。レパートリーが6曲しかなくて。しかも、まだシュガー・ベイブらしい曲がなくて、ちょっとフォーク・ロック的な曲が多かったね。達郎の作る曲も、まだ今の達郎の感じではなくて、後はカヴァーもあった。アンコールもきたけど、その時も6曲のうちの1曲をやったんじゃないかな。
ただ、僕はコンサートそのものよりも、長崎に行ったことがすごく楽しかったのね。長崎の連中とはもともと仲良かったから、メンバーとは殆ど一緒にいなくて、長崎のお兄ちゃんたちの家に転がりこんでいた、と言う感じ。だから僕は達郎たちとだいぶスタンスが違うというか、いい加減というか。
関西ツアーは辛かったというか、拾得で初めて「帰れ」と言われた時は怖かったですよ。一升瓶を抱えた奴に「東京に帰れ」みたいなこと言われて。とにかく京都はブルースオンリーだったから。でもそこで達郎が曲順を変えて♪指切り、だったか♪SUGARだったか、それで結構黙らせた。
外人たちはすごくいい感じでノっていたし、終わってから山岸潤史が楽屋に来て「いや、良かったよ」って言ってくれた。
ただ、演奏旅行みたいなのはあれが初めてだったからね。神戸でも一列になってやったりw なんだよ、これ?みたいなね。でも楽しかったな六番町コンサートで初めて(上原)ユカリを見て、スゲェ太鼓だなと思ったんだよね。
すげえパワーでタイトな演奏。太鼓はこういう風に叩くと、ああいう風に鳴るのか、っていうのが刺激になったね。
バンドは達郎が♪SHOWを書いたり、曲の感じが変わってくるわけです。そこから♪今日はなんだか、とか曲がどんどん出来ていくんだけど、その時にわかんないなりに「こいつ、凄い才能だなあ」と思った記憶が今もありますね。それまで小宮君がいて、僕は彼が使うメジャー7thがすごく好きで、メロディー的にも。小宮くんはすごい才能ある男なんです。
♪SHOWの時には、地下鉄が走っているようなイメージのリズムが欲しいんだ、みたいなこと言われて。で、あんな風になって行っちゃった。今聴いても変なリズムなんだけど。
だから、僕は太鼓は下手だったけど、フィットしたところは受け入れてくれたのね。でもやっぱりレコーディングの時にダメで、ユカリとバトンタッチするじゃないですか。でも、僕の太鼓の方が合ってる曲もある、と僕は思っていて、実際に「野口の方が雰囲気が合ってるな」と曲によって言われたことがあるのね。ただ、仕事としては遅くなっちゃうからね。まだ半年だよね、ドラムをちゃんと始めて。
それでレコーディングですからデモテープはどうにかなっても、後半になるとリズムが遅くなっちゃったりとか、やっぱりあるわけで、どうしてもレコーディングの進行は遅くなってしまうでしょ。
で、何曲か取り終えた時、僕は当時は中神(昭島市)のハウスにいたんだけど、長門くんが夜中に来て「野口、ちょっともうドラムを代えなきゃだめだ」みたいな話で。「しょうがない、いいよ」って。次の日にスタジオに行ってユカリが叩いてるのを見て、上手いなぁと思ったんだよね。結局レコーディングに初めてぶつかって、えらいことになってきたっていうのがあって。これはユカリでも何でもどうぞ、みたいな感じがあったんですよ。
ベースの鰐川はすごいと思ってました。彼はもともとギタリストでしょ。だから僕は鰐川に引っ張られていたと言う感じですね。
印象に残っているライブといえば、横浜でやった時は演奏の途中で太鼓が止まってしまったというのがあったし、ワンステップでも僕は間違えたんじゃないかな。演奏自体は良かったけどね。気持ち良かった印象もあるし。ただワンステップの時、僕は演奏が終わってすぐ帰っちゃったんですよ、泊まらなかったの。当時付き合ってた彼女の猫が死んで、帰らなきゃって。居たかったんだけどしょうがない。
シュガーの可能性? うん、僕なりに好きな曲は多かったしね。セールスがどうこう考えなければ♪SUGARにしてもそうだし♪SHOW、♪今日はなんだか、♪ためいきばかり、ター坊の♪蜃気楼の街、♪いつも通りとか、僕は好きな曲が多かったですね。可能性っていうか、好きというかそれだけかな。今まで聴いている音楽とは違ったことをやっているんだ、という自負だけでね。それが売れるとか、そんなことよりも♪DOWN TOWNで心地いいなとか、そういう部分かなあ。
半分リスナー? そういう感じかな。だから僕がそう言っちゃうとアレだけど、達郎もすごく怒らせたし、けっこう言いたいことを言っちゃうんですよ。良いものも、素直に好きって言うんだけど。
あの時代、気になったバンドではイエローかな。めちゃ上手いなこいつら、と思ったね。かっこいいいなと思ったね。みんなハーフだったかもしれないけど。ジョニー吉長さんが居た。
あとは鈴木茂さんだな。茂さんのアルバム聴いた時に、デヴィッド・ガリバルディが叩いていたり。僕、タワー・オブ・タワーがすごく好きだったから、「バンド・ワゴン」には憧れましたね。一度茂さんのバックで叩いてみたいと思っていたんですけど、センチで一回、念願かなったけどね。♪砂の女とかやったんです。
  
<センチメンタル・シティ・ロマンスに参加>
シュガーやめた時は、どうしようと言うことはなかったね。ただクビになったことが寂しかったかな。ミュージシャンで食えるなんてまず思わないし、シュガーだって殆どギャラは無かったからね。
ただ坂本龍一なんかと一緒に、友部正人とかあがた森魚くんとかのフォークシンガーのバックをやった時にお金もらえて、あ、お金になるんだ、って。あがたくんは当時ナベプロかなんかに居たしね。
シュガーからセンチの間って1年も無いんじゃ無いかな。フォークのバックをやったりしていた時に、センチのマネージャーだった竹ちゃん(竹内正美)から電話があったんです。センチのドラマーがドクターストップがかかったと。で、8本ライブが決まってるんで、それをやってくれって。明日東京に行くから新宿の喫茶店で会おうと。リハなしですよ。
その喫茶店でライブのカセットテープを渡されて、明日広島へ行ってくれって。だから新幹線の中でカセット聴いて。それが愛奴のデビューコンサートだったの。ゲストがセンチだった。広島の郵便貯金ホールに2,000人入っていた。
カセットもずっと聴いていて楽屋でも聴いて、リハなしで本番だった。
センチのメンバーとは旧知の仲だし「野口がやめてるから呼べ」みたいな感じだったみたい。当時、シュガーとセンチはジョイントが多かったしね。今度こういう曲を作って、あいつらをびっくりさせよう、みたいなのはお互いにあったから。だからセンチの曲を全く知らないわけでも無かったし、でもステージを8本やったら帰ろうと思ってたの。それがメンバーになってしまった。
カセットでやってた時はコピーで良かったんだけど、センチにどっぷり入ってみると基本が8ビートなんですよね。すごいスローな8ビートとかもあって、最初は叩けなかった。
どっちかって言うと、僕もシュガーもブラックミュージック系を聴いていたじゃないですか。でもセンチのメンバーの誰のレコード棚に行っても、黒いものが一切ないんですよ。だから、僕からしたら、イーグルスって何?みたいな。でも全く違うものを聞いて、類似した音楽を目指していたんだなぁっていうのは、僕は両方にいたからすごくよくわかる。
 
竹内まりやにはデビューからつきあってる>
センチには4年いました。で、その頃にまりやがロフトセッションをやって、僕と(中野)督夫が呼ばれてレコーディングしたの。それがきっかけでプロデューサーの牧村さん、宮田さんが、リンダ・ロンシュタットイーグルスみたいな路線を置くわけですよね。面白いよね、そういうつながりは。
で、センチやめたら今夜は今度はまりやが「ぐっちゃん、やめたんだったら太鼓たたいてくれない」って言うから。僕は子供も生まれて東京に帰ってきて、バイトでもしなきゃと思っていた矢先だったの。だから「うそ、行く行く!」みたいな。そういう危ない橋でつながっているっていうか。それで、まりやとデビューから休業まで付き合っているんですよ。当時はまりやが達郎の奥様になるとも思わないかったから。面白いというか、不思議というか。
今回まりやのシングル♪シンクロニシティ(2006)で共演したけど、まりやとはセンチのコンサートにゲストで出てたりとか、プライベートでもクラプトンのコンサートに達郎が行けないから「ぐっちゃんと一緒に行こうか」とか。達郎とも電話で話したりしていたけどね。
このシンクロニシティでは達郎からの注文は特にないですね。こういう曲を選んできたと言うのもあるだろうし、8ビート、ウエストコーストに関してはもうお任せ、好きにって言う。だからもうほんとにコード譜だけで、いたってラフに。それに細かい指示出しても聞く連中じゃないから。もう長い付き合いだから、ちゃんとその辺も達郎はセレクトしてやっていると思います。まりやもそうだろうし。
僕のドラムは、一緒にやる人みんなに「すごく歌いやすい」って言われるんです。歌謡界の人でもそう。それはすごく嬉しいんです。と言うのは、僕が歌を歌っていたからかもしれないですけど、僕はすごく歌を聴くんですね。だから逆に、突然の仕掛けみたいなものが、僕の中にはあまりカチッと入らないんです。歌を聴いていると、なんでここでフィルが必要なの、みたいなのがあって。僕は歌を聴いて、ただやってきて、それがいまだに歌伴としてお声がかかっている理由じゃないかと思います。
だからドラムキッズでテクニックがどうのとか、そういうのを求めていた人たちは、意外とスティーヴ・ガッド全盛の時に辞めていった人が多いんです。
でも僕は歌というか、メロディーに感じて叩くから、インストでも何か歌ってないと叩けない、っていうのは大げさだけど、高揚感がないんです。
だから、こないだ達郎にも「なんでそんなに仕事あるの?」って聞かれたけど、わからない、でもお声がかかるうちはやろう、って言う。
まりやに「ぐっちゃんの太鼓ってラス・カンケルに似てる」って言われて、ラス・カンケル、それまで知らなかったから聴いて。で、自分でも似てるなぁと思ったけど。一時期8ビートしか頼まれないのが嫌な時期もあったけどね。今は太鼓たたいてって言われれば、何でもいいかなって。結局一回りして50歳になって、20歳の頃にやっていた連中と一緒にできて、達郎もまりやもそうだけど、すごく今やってて良かったなぁと言うのと、人との出会いに恵まれたなぁと。すごく才能のある連中に囲まれていたかなと思う。
だから、いた場所が違えばとっくに太鼓なんか叩いてないと思う。だってあの当時うまい人はいっぱいいたし、今だから野口の太鼓はこうでこれでOKみたいなところはあるけど。
SONGSを作って、やっぱり飽きるからしばらく聴かなくなるじゃないですか。10年後だったかな、聴いてみたらこんなことやってたんだって。やっていた当時はみんなわからなかったと思うんだよ。理解していたのは佐橋とかEPOたちの世代、シュガー・ベイブに憧れて聴いて、高校生の時にコピーした連中で。
僕は10年後に聴いていいじゃんっていうのがあった。達郎は当時のライブテープとかいろんなものを持っていて「この野口の太鼓、いいぞ」って聴かされたこともあって、僕もいいじゃんと思った。でも当時は達郎もそうだと思うけど、突っ張っているのが精一杯だったと思う。
その意味ではシュガーベイブがライブバンドとして輝いていたのは、やっぱりユカリになってからのライブじゃないかなぁ。すごくフリーな感じで良かったと思う。セッション的なものをすごく取り入れていて。こういう風にやりたかったんだ、って僕はセンチで見ていて思ったことがある。でも逆に、僕がセンチでやっている太鼓を達郎たちは聞いてくれて、会うたびに「上手くなったな、お前」って言ってくれたんだけどね。
達郎と2人で名古屋で♪DOWN TOWNをやったこともあるしね。センチのゲストに達郎が一人で来てもらった時、あれは結構面白かったな。
【外伝5 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第14回 ワンステップ・フェスティバル、そして… 1974年

<見知らぬ人たちからシュガー・ベイブって呼ばれたの、初めてだった>

74年8月8日だったんだね、郡山ワンステップ・フェスティバルに出たのは。4日間ぐらいの野外イベントがあるって言われてたけど、あの頃はいちいちライヴの細かい背景なんか気にして無かったから。

でも例の京都の拾得(5月11日)の一件があってから、もう他流試合が嫌になってたんだ。

朝の8時に上野駅集合。で、その日の午後に本番だった。出る順番で覚えているのは、僕らの前が外道、それより前はわからない。外道の後に僕らで、その後がセンチ、はちみつぱい、トリは誰だったか忘れちゃった。

でも野外イベントはいろいろやったけど、これが一番良いイベントだった。和気あいあいとして、待遇も良かったし。ステージが終わったら、郡山から一駅行った温泉に連れていかれてね。そこでは麻雀やってるやつとかいろいろいて。

雰囲気が良いと思ったのはステージに出て行った時かな。出て行くまではあんまりわからなかった。楽屋がステージの裏じゃなかった。ちょっと離れた場所から移動したんだよ。事前に郡山は怖いって言う話を聞いていて。でも楽屋に入る時、ちょうど客入れの前で行列ができていて、その人たちの中から「あっ!シュガー・ベイブだ」って声がして。見知らぬ人たちからシュガー・ベイブって名前で呼ばれたの、その時が初めてだったんだ。あの頃からマニアックな奴っていたんだなと思ってwそれはよく覚えてる。

演奏したのは、まだ日が照っていて暑い時、夕方前かな。ステージにはマーシャルしかアンプがなかったんだ。マーシャルに触ったのはその時が初めてで、音の出し方がよくわからない。実はそれより前に、明治学院大学の文化祭に出たことがあって、73年の秋ごろかな。その時に置いてあったでっかいアンプ借りて、調子に乗ってフルボリュームでやったらとんでもないことになった。自分の音しか聞こえなくなって、そうすると、どんどんみんなボリュームを上げて、野口の音が全然聞こえないからぐしょぐしょになって。

だから、それ以来注意してたんだけど、マーシャルも大きいアンプなんでどうなることかと思ったけど、思ったよりずっと使いやすくて助かった。

そういえばこないだワンステップのライブ録音をCDで出したいって、音をもらって聴いたんだけど、演奏はともかく、音のバランスが最低で。これを金取って売ろうっていうのは、いくらなんでも無理だろう、って断った。多分PAのライン録り。だってMONOだもん、ステレオじゃなかった。野外のPAのラインは往々にして、ものすごいバランスのことが多いんだ。

それはともかく、会場の雰囲気は良かったよね。その後のロックだ、ロックじゃないみたいな教条性がまだ皆無だったから、外道の後にシュガー・ベイブなんて、おおらかさが存在してた。まだイベント自体の営利性とかも、それほど考えてない時代だったし。ラリってるような変な客もいなかった。出演したのがマイナーだったからかな、うだうだ野次を飛ばす奴もいないし。そういう意味でほんとによかった。

8月24日には千葉のセントラルプラザホールって書いてあるけどなんだろう? 斉藤哲夫と一緒の時かな。白井良明さんが哲夫のギタリストだった時? そうそう、それでどっちが高い声出るかって張り合ったっけw

8月30日3時から「テイクワン」て出てくるね。事務所練習とか、事務所って名前が出てくるよ、この辺から。

※テイクワンは風都市が74年の春に潰れた後に出来た事務所。前島洋児たちは新事務所IBSを作ったが、シュガー・ベイブは参加せず、山下洋輔トリオのマネージャーだった柏原卓らが新たに事務所テイクワンを立ち上げた。

 

<CMのおかげで自分の世界が広がった>

そうそう、IBSは事務所が飯倉にあったね。

9月2日に“シングル曲あげもう1曲”って手帳に書いてある。

9月5日には“キングトーンズ曲仕上げ”って。♪DOWN TOWNはこの頃にやってたんだね。

9月6日がCMハートチョコレート。大体に1ヵ月に1本 CMやってるんだね。ようやくお金が少しづつ回りだした頃だね。

9月4日、ルネ・シマールか、大阪厚生年金ね。東京は渋谷公会堂で9月14日、15日。ルネ・シマールはカナダの少年シンガーでアルファがらみでライブのオファーがきたの。僕と村松くん、美奈子とター坊の4人でコーラスをやった。ライブが残ってる。

9月17日午後7時からエレック、これがデモ。最初は♪蜃気楼の街、のデモテープ。SONGSのレコーディング開始は10月28日か。

CMで資生堂バスボン、バリーホワイトも観に行ってるね、この頃。75年になったら、もっと動いてるよ。仕事したもん。食えないからさ。

CMは大滝さんのを後ろで見てたじゃない。それで雰囲気は飲み込めてた。あとCMの仕事を仕切ってくれたのが大森昭男さんと牧村憲一さんだったから、こっちのメンタリティを分かってくれてたし、そんなに理不尽なことは言われなかったからね。大森さんはジェントルマンだから。

その前にも何回かCMやらされた事はあるけど、まぁその時は偉そうなプロデューサーと喧嘩になるとか、そういうのはあったよ。でもこの頃は大森さんとやるのがほとんどだったから、全然何の問題もなく、大森さんがちゃんと仕切ってくれた。でも、今から考えるとあの頃、コピーライターの伊藤アキラさんとか、色々すごい人がたくさんいたんだよね。でもあの当時大森さんが可愛がってたミュージシャンで、今も残ったのって、僕と井上鑑くんぐらいしかいないよね、あとは瀬尾一三さんか。

瀬尾さんもCMのコーラスでよく使ってくれたんだよ。コマーシャルはむしろ普通のスタジオミュージックよりも楽しかったな、気心知れてくると。CMって作家的な世界なの。自分でアレンジをしなくちゃいけないし。それとシュガーベイブ以外のプレーヤーを使えるから、ユカリを使ったり、ベースも田中章弘を使ったり、大滝さんをミキサーとして引っ張ってきたりしてね。

ミキサーと言えば一番最初のコマーシャルでミキシングをやってくれたのが伊豫部(いよべ)富治さんだった。伊豫部さんの次が松本裕くん、松本隆さんの弟ね。

あの当時、僕は21歳だし、CMの現場も代理店の若いのも22 、3歳で僕よりも少し上の人ばっかりだったしね。ミュージシャンもだんだん知らない人を入れてみたり、CMのおかげで自分の世界が広がっていった。

だから後に黒木真由美をやる時とか、全然知らないスタジオミュージシャンに入ってもらってもそんなに抵抗がなかったのは、やっぱりCMの仕事で知らない人とやってたからだね。

まず、絵を作る人って、ものすごくツッパってるの。それに今みたいにビデオなんてないから東洋現像所(現イマジカ)に行って、フィルムを見させられるか、絵コンテを渡されるか、なの。絵コンテを渡される場合は、フィルムがまだできてないから、撮ってきた映像とこっちの音楽をレコーディングの当日合わせるわけなのね。

結構ギャンブル的な仕事なんだよ。そういうことを21歳の時からやってるじゃない。

バンドだけじゃ絶対にそんなにフレキシブルな感じではできなかったし、それがまた面白かったんだよね。それこそ30秒の中に全てを入れるなきゃいけない。

それに詩は先でしょ。必ずコピーライターの詩で、それにメロディーをつけなきゃならないし、それでアレンジをどういう感じにするとか、それはかなり鍛えられたよね。プレゼンテーションも必要だし。

長門くんの後、柏原卓がマネージャーになるんだけど、彼はジャズの人でジャズミュージシャンは毎日のようにジャズクラブで演奏してるから、僕のCMの打ち合わせなんて、来てくれない。

だから自分の名刺を持って歩くようになったのね。そしたらある日、代理店の偉い人が「山下くん、ミュージシャンと言うのは名刺を持って歩いちゃいけない。ミュージシャンは顔で商売しなきゃいけない」って言ってくれたりね。そういう良い先達がたくさんいたの。そういう人に対する恩義もすごくあるんだ。そういうキャリアのミュージシャンはいないからね。つぶしが効くようになったのはコマーシャルのおかげだよね。

で、なんだかんだ言ったって、代理店の人はみんな堅気だからね。きちっとした一流大学出た常識的な考えを持っている人ばっかりじゃない、クライアントでもさ、すごく嫌な奴もいるし、すごく良い人もいたけどね、その人たちもおしなべて30代くらいでしょ。僕が初めて会った時、大森さんは37歳だったし。広告代理店の現場のディレクターとか20代後半くらい。レコード会社のディレクターもそんな感じじゃないかな、そういうちゃんとした人たちを見ることができていた。そうじゃないと、今の僕はないと思うよ。やっぱりサブカルチャーだけじゃね。

今から考えるとCMの仕事とかやってたから、今こうしていられるのかもね。

  

<CMのフィールドの中で自己主張をしよう、って強烈な自我はあった>

別にコマーシャルをやりたくてやったんじゃなくて、とにかく金になる事だったら何でも、ってね。でも運送屋のバイトはもうやりたくなかった。どうして所謂バイトの道へ行かなかったのかって言うと、怠け者なんだよ、きっとね。音楽だったら、好きなことだから気にならなかったの。別にコーラスだろうがCMだろうがスタジオだろうが。アレンジをさせてくれなきゃ受けないとか、それはポリシーで。まあボクが書き譜が弱かったってのもあるんだけど。そこで突っ張ったのは正解だったと思うよ。

スタジオミュージシャンでも何でも、基本的に読譜とか初見なんてのは、半年ぐらいやってれば、すらすら行くようになるのよ。体で覚えてね。でもね、そうなったらやばいんじゃないかと言う意識が、自分の中にはあったんだ。譜面を初見で演奏できる事は、スタジオミュージシャンにとってはひとつの条件だけど、それは同時にスタジオ仕事の歯車のひとつになることでもある。

読譜力っていうのは諸刃の剣でね。演奏者としては短時間で多くの仕事をこなせるようになるけど、パート譜からは全体が見えない。自分が演奏全体の中でどういう位置づけなのかって言う認識ができない。自分でコーラスアレンジをすると、オケの構造とかがよくわかるからね。まぁあの時ユーミンのプロジェクトとか、斉藤哲夫とか、頼んできてくれた人たちが理解があって、それが幸運だったんだよ。

哲夫なんてすごくはっきりしていて、こういうコーラスのライン、旋律にしてくれっていうのがあるんだ。でもハーモナイズができないから、僕がそのラインに合わせてアレンジして、時間差にしてみたり、広げてみたりすると喜ぶわけよ。哲夫にはそうしたはっきりしたポリシーがあったから、すごいやりやすかったね。ユーミンにしても、バックがキャラメル・ママだから、無言のうちに構成がきちっと完成しているわけ。そこに自分のパートとして、コーラスをどうやってハメればいいか、って考えるだけだからね。でも、そうじゃない仕事だとボツもたくさんあるんだ、実はw

だから、どんな種類の仕事でもできたわけじゃない、ってことも学べるわけ。

エレックだってケメ(佐藤公彦)の頃はいいの。矢野誠さんがアレンジしていたし、ケメも意外とセンスがバタ臭いから。けれど、生理的に合わなくて、どうしようもないのもあったんだ。そんな感じでシュガー・ベイブの74、75年で結構学んでいる。

そんな時代の中で、CMからヒットが生まれる時代になって行く。でもね、それは大滝さんにしろ僕にしろ「CMのフィールドの中でどれだけ自己主張するか」ってことをしたせいなんだ。三木鶏郎(とりろう)さんのコマーシャルも確かに面白いけど、あれはヒット曲じゃない。

だから♪ルージュの伝言の間奏を歌っているのは誰だろう、と思わせなきゃと。そういうあざとさと言ったらそれまでだけど、そういう自己主張をしよう、って強烈な自我はあったんだ。だからコマーシャルといえども埋没しない。それこそ「CM全集」を聴いてあれもそうだった、これもそうだった、て言う人がたくさん出てくる。そういう謎解きみたいなのは当時からあったからね。

あと基本的にはクライアントの買い手市場だから、こっちは別に営業してるわけじゃないからさ。こういう仕事は「もう一回お願いします」ってのが出てこないとダメなんだ。

リピーター、曲をまた書いてくださいとか、アレンジやってくださいとか、コーラスやってくださいとか。だから、それは自分の才能とか努力だけじゃなくて、それをちゃんと見極める向こうの才能も必要なわけで、だからユーミンの時のディレクターの有賀恒夫さんなんか、初めてコーラスを入れた直後に即日もう2曲頼むって言ってくれたりね。今の若い人たちでもあるんだろうけど、いかんせんラップ、ヒップホップじゃ、どんなマーケットにでもフィットすると言うわけにはいかない。

僕は運が良いことにミドル・オブ・ザ・ロードだったからね。ブルース・バンドじゃなかったから、きれいなメロディで、自分自身が歌手だったのが良かったんだね。最終的には歌で決着をつけられるから。それは運、不運で、曲書けても歌えない人だとそうはいかないし。だから作家の自我ってのはこの辺で鍛えられたんだよ。

 

<実はスタジオ・ミュージシャンとしてレコーディングに行ったこともある>

平行して進んでいたSONGSのアルバム作りにも(CM制作は)影響与えているでしょう。SONGSって基本的に非常にスタジオミュージック的な作り方をしているからね。初期はステージ用のアレンジを変えると言う発想なんてなかったんだけど、CMやスタジオ仕事をやるようになってから、どんどん変えていくようになったんだよね。

こないだSONGS30周年CDのボーナストラックのために♪いつも通りのシアターグリーンのライブを聴いたんだ。シアターグリーンでは3回やっているけど、アレンジが毎回違うの。試行錯誤っていうのもあるけど。♪蜃気楼の街もそれまで全然違うアレンジだったのが、SONGSでレコーディングしてからあのアレンジになった。

♪雨は手のひらにいっぱい、も完全にそう。ああいうのになってくるとCMやってる感じになる。面白かったんだよ、その頃そういうの。まだ若かったからさ。

僕は、ほんの数回だけど80年代の初め、純粋に雇われスタジオミュージシャンとしてのレコーディングに行ったことがあるんだよ。ギターを弾いてくれないかって言われて。マネージャーにも何も言わないで、自分でギターを担いで、自分でアンプを転がして行ってね。その時の向こうのレコード会社の連中は誰も僕の顔を知らなかったの。そこでよくわかったのは、スタジオミュージシャンて、こういう扱い方をされるのかって。自分はいつも作家かプロデューサーが、制作側の人間としてとしか行ったことがなかったでしょ。要するに時間いくらで雇われているミュージシャンてこういう扱われ方なんだなって。

どっちかって言うとフォーク系のレコーディングで、ディレクターは僕の顔を知らないわけ。ミキサーだけ僕の顔を知っていて、なんかどっかで見た顔だなって。で、2時間か3時間位セッションをしてて、こっちが誰かわかってくると態度が変わってくるのね。なかなか面白い体験だったよ。僕はそういう賃貸しミュージシャンやったことがなかったし、コーラスは基本的に絶対自分の譜面でしかやらないし。他人の書き譜は騙されてw岸田智史をやらされたのが1度、それと筒美京平さんに是非にと誘われて、僕と美奈子と2人で行って、太田裕美を2曲やった。他人の譜面でやったのはそんなものなの。

だから思い出してみると、どんな仕事でも、部分じゃなくて、全体像を把握してなきゃやらない、そんな仕事をやって来たんだ。CMはもちろん編曲は全部自分だしね。編曲をやらないとギャラも五千円か六千円、減るからさ。もったいないからね。そういうのが良かったんだろうね、きっと。

まだバンドとしてはレコード・デビューしてなかったけど。だからインディーライブだよね。74年の荻窪ロフトの開店の時にバンブーで♪I Shot the Sheriffのコーラスを手伝った記憶がある、美奈子と2人で。

それで10月28日からSONGSのレコーディングが始まるわけですよ。

【第14回 了】