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ヒストリーオブ山下達郎 外伝6 寺尾次郎インタビュー

シャルル・アズナブールの「イザベル」にすごく反応したんです>
生まれは東京、大田区の洗足池というか、まああの辺ですね。その辺りで5分くらいの所に引っ越したのが一回あったんですが、だから22歳までかな。22までは地元で居ました。
その後は引っ越し好きなので、10回以上しましたね。上大崎から始まって、東中野、中野、あとずっと中央線なんですよ。高円寺も居たし。
兄弟は4つ上に兄貴。こまっしゃくれた子供だったと思いますよ、教師のウケは良い。お袋がPTAの会長とか副会長をやっていたんです。教師というのはそういう人の子供を割と可愛がったりするでしょ。今じゃあり得ないエコひいきですよね。
お袋の親父がやっていた工場があるんですけど、親父が養子として入ってきてそこを継いで、そこも10年以上前にたたんじゃいました。NECの下請け工場だったらしいです。テレビの部品を作ったりしていたと聞いてます。その仕事を継げ、というのは全然無かった。お袋も「お父さんの代までで良いから」って言ってました。
子供の頃はなりたいと思ったのは、電車の運転手ですかね。今でも僕は電車がすごく好きなので。免許も持ってないですから、どこへでも電車で。あと飛行機が嫌いなんで、だいたい電車なんですよね。
音楽環境は家に78回転のSPがあったんです。僕が幼稚園の頃なんですけども。SPで「お百姓さんありがとう」とか「汽車汽車ポッポ」とか童謡は聴いてましたね。ステレオもわりと早くからあったんですけど、小学生の頃はソノシートってありましたよね、あれで「鉄人28号」や「鉄腕アトム」の歌を聴いたりとか、その程度ですね。
で、うちの4つ上の兄はクラッシックが好きだったんです。僕はクラッシックはあまり好きではなかったんですけど、兄貴がシャンソンを聴き始めた。僕が小学校3、4年の時かな。聴いていたのがシャルル・アズナブールで、僕はそれは面白いなって。「これ何?」って聞いたら「シャンソンだよ」と。曲は「イザベル」が好きだった。シャルル・アズナブールの「イザベル」にすごく反応したんです。
あとは兄貴がペトゥラ・クラークが好きだったんで「恋のダウンタウン」とかを僕も聴いていました。それからモンキーズに行って、世代的にはビートルズにはちょっと遅れてました。
僕は1955年生まれで、モンキーズが出て来たのが小5の時。あの頃は500円で33回転4曲入りのレコードがありましたよね。その中にビートルズの「ミッシェル」「ガール」とか4曲入ったのがあって。「ミッシェル」はいい曲だな、ってビートルズを見直したんです。
あと、その少し後にURC系の「フォークリポート」と言う雑誌が創刊されまして、僕はいろんなところに行くんですけど。割と関西フォークコンサートがなんとなく好きだったんです。12チャンネルでやっていた「ヤングタウン東京」ですね。桂三枝が司会してた。それで「フォークリポート」のことや、URCというのが出来たらしいって知ったんです。それで通信販売のアングラレコードクラブ(URC)に入ってました。僕は自分でコンサートに行くようなタイプではなかったので、レコードで聞いてたんです。僕は昔から反骨精神はあったので(高田渡の)「自衛隊に入ろう」の歌詞でぶっ飛びましたね。岡林さんの「くそくらえ節」とか「ヘライデ」とか、あの辺の歌詞がめちゃくちゃ面白かったですね。それで生ギターを弾いたりはしましたけどw でもフォークシンガーになりたいというのも無かったですね。ただ自分一人で歌ってました、何となく。
曲づくりの才能が無いってのは自分では分かっていたんで、一切それは無かったですね。あの頃だと(うたぼん系では)「ガッツ」っていうのを毎月買ってました。創刊号の日野皓正さんの写真がめちゃくちゃカッコ良かったのを覚えています。
    
<僕はキーボードだったんですよ。ピアノをやっていたので>
洋楽だとラジオを聴いてたので、やっぱりジェファーソン・エアープレインですね。一番初めは「サムバディ・トゥ・ラブ」とか「ホワイト・ラビット」とか聴いて。で、そこからシスコサウンドに行って、グレイトフル・デッドを知った。
僕はグレイトフル・デッドが今でも一番好きなんです。シュガー・ベイブと全然結びつかないんですけどね。デットとかあの頃はクイックシルバーメッセンジャー・サービスとか。僕はニッキーホプキンスが入った時代が好きだった。
それでシスコだけじゃなくて、他ももうちょっと見ようとしたら、マザーズっていう変なのがいて、ぶっ飛んだ。
当時フランク・ザッパマザーズのレコードはもう日本でも手にできたかもしれないけど、僕は知らなかった。最初にマザーズを聴いたのはワーナーから出た「いたち野郎」だと思うんです。あれが70年くらいじゃないですか? ジャケットのネオンパークのアートワークがすごかった。それで、シスコサウンドが中心だったけどマザーズもちょこちょこ聴いてました。
それで中学2年くらいになると、音楽をやっているやつと知り合うんです。そいつがギターをやっていて、いつも私服はジミー・ペイジみたいな格好をしていた。そいつの家がデカかったので、そこで音を出していた。
僕はその頃キーボードだったんですよ。ピアノをずっとやっていたものですから。3歳から10年間くらいクラッシックを。親に無理矢理やらされた。だからはじめキーボードでやって、その頃にちょうどディープ・パープルの「ブラック・ナイト」をやろうってことで、オルガンがフィーチャーされているものをやったりとか、フードブレインと言う柳田ヒロさんが居たバンドのアルバムの中の曲をやったりとか。
だから、まだはっぴいえんどとかには到達しないんですけどね。何となくそう言うのをやっていた。
で、高校になると他の中学から来た奴も居たりして、ガロが好きな奴にガロやろうよ、って言われたんです。まあ曲は好きだったけど、僕は歌が全然ダメだったんです。でも、そいつは割と歌えたんで、後2人入れて4人編成でそう言うのをやったりとか。
そのガロ好きだった奴が、ある時マーク・ボランに目覚めまして「テレグラム・サム」とかをやったり。やっぱり流行に流されるw
エスが出て来たりとか、キーボードが活躍する曲が増えて、一時期、僕はプログレに走ったんです。演奏はできませんから聴く方で。だからピンク・フロイド芦ノ湖にも行きましたし。
その頃、新たに知り合った奴のいとこがドラムがすごくうまいって聞いてたんで、一緒にやってみたんです。そしたらまた別の奴がギターを連れてきた。その4人がバックバンド志向だったんですよね。
僕はキャラメル・ママ南沙織のバックとか、スリー・ディグリーズのレコーディングをやってるという情報を仕入れて、やっぱり上手いね、この人たち、こういうバックバンドやれたらいいね、っていう話をしてたんです。
僕はイベント仕掛けたりするのが割と好きだったので、72年頃、僕が仕掛けて、漣(さざなみ)コンサートというイベントを目黒公会堂でやったんです。
友達の高校のバンドとかに声をかけて。「ニューミュージック・マガジン」の平田国二郎さんが取材に来てくれたんです。一時期、彼がジム・ジャームッシュのプロデュースをやっていたので、平田さんとは、その後も映画関係も含めて付き合うことになるんですけど。
その時バットシーンってCharがいたバンドのドラムをやってる奴が、同じ高校だったんで出てもらったり。僕らは僕らで誰が歌ったのか忘れましたけれども、バックバンドみたいな形でやったり。
だから音楽はなんとなくやってたんだけど、練習場所もそんなにはないですし、歌う人間が基本的にはいないわけですから。ただ趣味でやっているようなもので。
それで、74年に(慶應)大学に入ってからは、自由が丘のレコード屋でバイトをしながら、夜のカフェでベースを始めたんですよ。五反田と鶴見と池袋と川崎って最悪のとこばっかりなんですけれども。
最初は友達がやってたんですよ。その事務所に置かせてもらって、そしたらトランペットとドラムと僕とあとギターかな。
で、トランペットが「俺は進駐軍をずっと回っていたんだ」って言う、50半ばくらいのおじちゃん、いろんな面白い話を聞かせてもらいました。曲については譜面はコードが書いてあるだけですから「タブー」とか「軍艦マーチ」とかね。「ウラシマ」とか「ハワイ」って、いわゆる二流半のキャバレーですw
ベースを弾くことになったのは中学3年か、高1の時、ベースをやってるのが嫌な奴だったんで、みんなで追い出したんです。で、ベースがいないんで僕がやることになった。その頃は特に気に入ってるベーシストはいないんですけど、後で考えると、あの当時のチャック・レイニーがすごく好きでした。いろんな人から教えてもらって曲を聴いて。チャック・レイニーとスタッフのゴードン・エドワーズとかすごい好きだし。ゴードン・エドワーズとユカリのドラムなんかを絶対合うだろうなあと思いながら聴いていた。ドラムもSteve Gaddが好きだし。あとはやっぱり細野さんのベースですね。なんでこんなフレーズが弾けるんだろうって、ぶっ飛びましたもん。何なんでしょうね、やっぱりギターをやっていた人の方が、面白いフレーズを弾きますよね。
ピアノはソナタの手前までで。で、中学受験しろって言われたときに僕は嫌だったんですけど、いろいろ考えて「ピアノを止めさせてくれるんだったら受験する」って。じゃあ、やめていい、って。
     
<ユカリが「お前、シュガー・ベイブに来いへんか?」って>
その頃いろいろやりながら、音楽どうしようかなと思ってたんです。レコード屋のバイトも面白かったし。ちょうどユーミンの「ミスリム」が出た頃で。レコード屋だから勝手にかけられじゃないですか。で、「ミスリム」聴いてぶっ飛んで。見たらメンツがキャラメル・ママあーすごいなと思って。
その時に変なめぐりあいで、レコード屋のすぐ近くに、赤い鳥の山本夫妻がお住みになっていて、よくお客さんとしていらしてたんですよ。レコード店の店長と夫妻はすごく仲が良くて。
僕は赤い鳥なんて興味ないなぁって思いながらw「いらっしゃいませー」って。そしたらある時、山本さんが「寺尾くんバンドやってるんだって? 今度僕らがこういうレコード出すんだ」ってテープをくれたんですよ。見たらバックがティン・パン・アレーじゃないですか。これは仲良くしないとってw
それからなんだかんだ山本さんと割と話すようになって。そしたら「一度君たちのバンドを聴かせてくれないか」って言われたんです。もちろん、いいですよって、それでバンドの連中に声かけて。誰がボーカルがいないかって言ったら、ギターのやつが引っ張ってきたのが佐野(元春)さんだったんです。
彼のノートにはたくさん曲が書いてあって。面白いコード進行の曲書く人だなぁと思いながら、それで2回練習したのかな。
山本さんが、渋谷のヤマハのスタジオとってあるからって。そこで僕ら待っていたら、山本夫妻が来て、それからしばらくしたら松任谷正隆ユーミンが来たんですよ。僕は松任谷さんには驚かなかったんです。と言うのは、弟の松任谷愛介とは同級生なんですよね。愛介が上手いってのは知ってたんで、兄貴の方もそれはそうだろうなって。でもユーミンも来たんで、これは本格的なオーディションだろうと。
演奏は1時間くらいやったんですよね。終わって「後で寺尾くんのところに電話するから」って山本さんがおっしゃって、夜、電話がかかって来たんですよね。「君とドラムの人だけ来られるか?」って。「行きます!」って即答でw。
それでハイファイセットのバックをやることになった。あとの二人には裏切り者って言われましたけどね、当然のごとく。
で、ハイファイでやることになって1ヶ月半くらい合宿したんです。その時、初めてバックで来たのがユカリ。僕といつもやってるドラマーとダブルドラムでやるっていうんで。
そして(伊藤)銀次なんですよね。あとは松任谷さんが来て、ユーミンが時々遊びに来るみたいな形で。そこで初めて僕はユカリと銀次と会ったわけです。
ユカリは最初から人間的にすごく好きだった。関西人だしw 色々調べてみると「村八分」に居たとかw 怒らせたら怖いんじゃないかとかw 
リハーサルの1ヶ月半、ほとんど住み込み状態で。まあ2、3回帰ったかもしれないけど。
確か75年の2月かな、日比谷公会堂でデビューコンサートをやったんです。客がもうめちゃくちゃ少なくて50人くらいしか居ないんですよね。それでもギャラとして8,000円くらい貰えて、音楽をやってお金もらえるのは良いなって思ったんです。
それでバック・バンドになったんですけど、ハイファイはライブハウスに出るような感じじゃないんで、東京と京都でライブをやった以外はFMとかAMとかそれくらいだったと思います。その間ドラムとベースなんで、僕はユカリとどんどん仲良くなって、彼が家に泊まりに来たりするようになったんです。
そしたら3月の半ばぐらいにユカリが泊まりに来た時に「おまえ、シュガー・ベイブに来いへんか? わし、誘われてるねん」って。ベースはユカリが好きなヤツ連れて来いって言われてるから、できれば来てくれたら嬉しい、って言うんで、それも即答で「行く!」ってw
シュガー・ベイブは好きだったんですよ。ヤマハの店頭ライブ(74年12月11日)を僕は観に行ってるんですよ。それで僕もユカリもある程度大人になっていたんで、これは山本さんに土下座するしかないだろうって。次の日に連絡を取って「ちょっとお話があるので寺尾と伺います」って行って。ユカリが年上なんで話して、二人で土下座して「お願いします、許してください」って。初めはワーッってなったけど「俺ははらわた煮えくり返っとる。でも、お前らが本当に行きたいんだったら止めてもしょうがない」「ありがとうございます!」って。だから僕は裏切り人生なんですよw 音楽に対して。
   
<やっていて気持ちいいんですよ、ユカリの太鼓は>
山下と初めて会ったのはユカリにテイクワンに連れて行ってもらったんじゃないかな。笹塚に行ったんでしょうね。とにかく初めて会った時に「曲、全部覚えておいて」って言われて「はい、もちろん」ってw 態度はでかいとは思ったけど、でも基本的に恥ずかしがり屋だから余計その分ツッパっているんだろうなと思うんです。
僕はシュガーを見てたんで、山下の声の才能とか、歌の才能やなんかを良く分かっていたし、まあユカリと一緒だったらやっていけるだろうと思って。それで3月下旬か4月の頭に、確か御苑スタジオに集まって練習したんです。ある程度コピーしていたんで、それをやって。そしたらコーラスの練習しようかって。「俺はこんな声だからダメなんだ。皆さんと違うから」「いいから出してみろ」「アー」って言ったら「ああ、ダメだ」ってw 唯一歌えないメンバーになったんです。
ベースについては、やっぱり初めは基本的にはコピーしたんです。やっぱりそのベースが良いと思って作っている訳ですし。福生でオーディション的なこと? ありましたっけねえ。そこでダメだったら困るなw 「来い」って言われてハイファイ辞めてるのにw 
銀次については、ベルウッドのごまのはえのシングル聴いて、面白い曲作る人がいるなあって思っていたのと、やっぱり、9.21のはっぴいえんど解散コンサートでのココナツ・バンクもすごい面白かったですから。でも後で、全部大滝さんがベースからフレーズから決めたって聞いて、ああそうなのか、って思ったんですけど。それでも僕は銀次とは話が合ったんですよ。
山下は音楽的知識があまりにもすごくて、僕は追いつけない。だから山下とは音楽的な話をした覚えは、ほとんど無いんです。ビーチ・ボーイズがめちゃめちゃ好きだったわけでもなかったし。
銀次は、まあ、あの人柄ですね、僕が好きだったのは。銀次がシュガーに入った時に、僕は面白くなるんじゃないかと思ったんです。最初はユカリと僕が入って、その後に銀次が加わった。3人まとめて入ったというんじゃなかった。だから山下とすればコーラスを太くしたかったのか、ツインギターでやりたかったのか。
銀次が辞めるって聞いた時、僕はびっくりしました。他のメンバーはもしかしたら知ってたかもしれないけど。山下から「銀次、辞めるよ」ってw「今度のコンサートから銀次抜きだから」って言われたんです。そうか、プロって厳しいなーってw
シュガーの練習はそんなにハードでもないと思いますよ。基本的には山下が作った曲とか、ター坊が作った曲をみんなで形にしていく感じで出来たし、これは謙遜でも何でもなく、僕は自分でベースが上手いとは思ってなかったんです。でも、ユカリだとすごいやりやすかった。ユカリのタイトなタイムキープだとついて行けたんです。だから会話じゃないんですよ、どっちかというと僕が電車の車掌さんみたいにw やっていて気持ちがいいんですよ。ユカリの太鼓は。
僕はドラマーで一番好きなのは林立夫さんとユカリなんです。あの抜けるようなスネアの音が好きなんです、二人とも。基本的に自分は上手くなかったと思ってるし、シュガーは山下のバンドだって言うのは分かっていましたから。だからそれ以外のところで、なにか表現できれば良いなって思ってましたけどね。
   
<スタジオで初めてクマというあだ名の正体が分かったんです>
バンドでは山下しかほとんどしゃべらなかったですね。酒飲んだりするとまた違いますけどね。銀次がいた頃は銀次がよくしゃべってましたよね。ステージは基本的には山下ですけども、昔はご存じのように曲名しか言わなかったんで。次はなんとかです、って言って、またブスっとしたまま演奏する。メンバーみんなブスっとしたまま演奏してw
僕がいた時期はライブはいっぱいやってました。僕はライブだとやりやすかったですね。ユカリがすごい飛ばしますんで。山下もそれは好きだったんです。当時ひ弱に見られるのが一番嫌っていましたから。都会の軟弱なもやしっ子バンドって言うのを嫌がってたので、音はでかかったですね。
収入はその頃は実家にいたので。あと山下がCMの仕事をとってくるんで、それがでかかったですね。僕は初めてクマと言うあだ名の正体がわかったんです。スタジオの中で考える時ウロウロするからw
でもやっぱり凄いですよね。スタジオで山下を見てると「ここでちょっとハモンド入れてみようか」とか、アイデアが次から次へと出てくる。だからその仕事が多かったですね。CMってすごいなぁーって、徹夜でしょ。待ち時間も含めて8時間だったら、ある程度お金になりますから。ギャラに関してはある程度良かったし、初期の頃はター坊なんか、長崎まで車で行ったとか。
印象的なステージは、厚生年金と九頭龍かな。厚生年金ってどっちかって言うと、コンサートを観に来る方だと思っていたから、こんなとこ出ちゃうんだと思って。お客さんも入っていましたしね。あれはびっくりしましたね。
あと九頭竜の時はテイクワンのスタッフの黒川さんの2トン車で、僕一緒に行ったんですよ。僕は黒川さんの職人ぽさがすごく好きだったんで、余計印象深いですね。九頭竜のステージは気持ちよかったですよ。やっぱり野外だし。それまでも野音とかやってましたけども、九頭竜はすごく広々していた気がするんですよね。すごく気持ちが良かった。もうほとんど僕らはハード・ロックバンドだと思ってましたからw   たまたまハードロック・バンドにコーラスがついただけって言う。
メンバー間のコミュニケーションはほとんどバラバラでしたね。ステージが終わると「じゃーねー」って。僕は映画もめちゃくちゃ好きだったんで、地方公演に行くと「じゃあ僕映画見に行ってくる」って映画館行ってましたから。
あとコンサートで印象に残っているのは仙台。NIAGARA MOONのコンサートだったかな。なんでかと言うと、その日は僕の大学の学科分け試験の日だったけれど、まぁいいやと思って、仙台に行った。それでよく覚えてる。僕は仏文科に行きたかったけど、受けられなかったから史学科。歴史も好きなので西洋史をやってたんですけど。
大学は一応出席してましたね、必要な科目だけは。だからベースを布のケースに入れて、肩にかけて授業を受けていた。
そうすると僕がプロになったってことを知っている人もいたんです。シュガー・ベイブは当時知られていないわけですけど、プロになったらしいと。面白かったのは友達がリアル・マッコイズと言うサークルに入っていたんですよ。そこでまりやと会ってるんですよ。可愛い子だなぁと思って。その時セッションして、まりやがやったか忘れましたけど、一回やってくれないかって言われて、いいよって。
    
<僕はそれから一度もベースを弾いてないんです>
解散は山下から、3月で解散しようと言われたのかな。ただその前から山下のソロの話とかは洩れてはきてました。解散が決まった後、僕とユカリと何人かで、1枚目のソロアルバムに入るWINDY LADYとかを向こうのミュージシャンに聴かせるので、悪いけどやってくれって、やった覚えがあります。「そうかウィル・リーとかと仕事するんだ」と思ってw  ウィル・リーも好きだったから。
解散の通達を受けても、別にあまり感じませんでした。あー終わっちゃうんだって。それはしょうがないと思いました。山下のバンドだと思ってましたから。だからクレイジー・キャッツハナ肇が「解散!」って言う事みたいなもんじゃないかと思って。切羽詰まった事はなかった。それはまだ実家にいたからかもしれませんね。そういう意味では僕はメンバーの中で一番もやしっ子だったかもしれないw
大滝さんに「学生アルバイト」ってあだ名をつけられましたから。
解散後はユカリや坂本と一緒に、ター坊の一枚目のLP(Grey Skies/76年9月発売)を作って。ライブでもはじめの頃は坂本も入った形でやってたんですけど、坂本が忙しくなったし、ター坊も固定したバンド作りたいって言うんで。ギターは原くんて言って今何してるか全然知らないけど、ドラムが女性の人だったんじゃないかな。その頃ユカリもセッションとか、バイバイ・セッションバンドとかで忙しくなっちゃったんで、ちょっともう続けていくのは無理かなって、僕は思っていたんです。
それで、当時TBSで日本のロックの演奏を30分聞かせるって言う番組があって、青山ベルコモンズの上のホールで収録してたんですよ。その番組にター坊が出ることになってたんです。坂本とユカリと僕とター坊で。そしたら当日の本番前になって、ター坊のマネージャーが「今日はこれに着替えて」って野球のユニホームみたいなお揃いの服を、みんなに着ろって言うわけです。僕が一番嫌いなのは制服なんですw  それもこんな時に言うから、なんだって。
そこで僕はもうやめようと思ったんです。あまりに直情径行ですが、音楽自体をやめようと。それで今日はやるけど、悪いけど明日何時にどこそこの喫茶店に来いって言ったんです。で、喫茶店に行ったら、なんと坂本もター坊もいたんです。3対1でしょ。で、確かその10日後くらいにター坊のFMか何かの録りがあったんです。
迷惑かけるな、と思いつつも言わなくちゃいけないと思って。「僕は辞める。僕は信頼関係の上でやっていたんだから、申し訳ないけども。魂を抜かれたような気がするから。そういうことじゃ僕は音楽をやっていけない。でも、皆さんに迷惑かける事はわかるから、僕はこれから先、絶対ベースを弾かない」って。
僕はそれから一度もベースを弾いてないんです。ベースも田中章弘さんに売っちゃったんです。
坂本が一生懸命理論的なことを言って説得するんだけども、こっちだって理論はあるんでw  結局諦めて。
僕はそれから新しい音楽ってほとんど聞いていない。76年以降の日本のものは。まぁどこかでは聞いてるのかもしれないけど、意識して聴いたっていうのはないんですよ。林さんのこの前の2枚組を久しぶりに買って、やっぱりいいなぁと思ったけど、山下のも聴いてないし、ター坊も聴いてないしね、あっこちゃんも聴いてないし、ユーミンも「コバルト・アワー」で終わってますね。だからなんて言うかな、あまりに差がありすぎたんですよね。音楽的に。
つまり僕の音楽性と、彼らの音楽性との差がすごくありすぎたんです。
あと僕はユカリじゃないと無理だと自分で思い込んじゃっていた。
2年くらい前に、自宅のある荻窪のなんとかと言うところで「ぴあ」をパラパラ見てたら、四人囃子の森園さんのセッションでドラムに上原裕って書いてあったんで、つい思わず酒を一本買っていきましたよw 20年ぶり位かな、嬉しかったですよ、すごく。
78年の頭にベースをやめて、考えたら自分自身のできることと言うのが、音楽と英語とフランス語しかなかったんですよね。
で、音楽をやめちゃったから、後は映画関係に入ろうかなって。洋画が好きだったので、配給会社しかないと思って、東和とヘラルドを受けて、ヘラルドに入って。ただそれだけ。
その後坂本とも山下とも映画の宣伝で再会したんですけど。それは面白かったですね。まぁ何かつながっているのかなって思いましたけど。
だから変に僕は冷めているんですよ、ずっと自分の好きな音楽ができればいいって、普通はそうだと思うんですけど、そういうことをいくらやっても全然プロになれない方もいるでしょうし。だから、そういう方たちから見ると贅沢ですよね。そう思いますよ。
自分の好きだったバンドに入れて、好きだった大滝さんとか細野さんとかと、ティン・パンのコンサートに一緒でられて。普通はそのままいるでしょうね、たかがユニホーム1枚でw 僕は自分で決めたことを変えるのは嫌いなんです。すごく頑固な部分がどっかにあってね。
もうベースを弾くのは嫌なんです。憲法9条と同じで、戦争しないって言ったら、しないんだw
ベースを弾きたいとも思わないですね。家で遊びでも。だってベースがないですから。
【外伝6 了/2007年インタビュー/寺尾次郎 1955-2018】