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ヒストリーオブ山下達郎 第15回 初めてのアルバム・レコーディングSONGS 1974年10月〜

<エレックのスタジオは、コレはなんだ、っていう酷さだった>
曲は♪すてきなメロディー以外は全部揃っていた。もうライブでやっていた曲ばかりだからね。
スタジオは最低だったよ。天井が低くて。だって普通のオフィスビルの2階だもん。マイクも数えるほどしかないし、ピアノの弦に雫が垂れているんじゃないかって言う位、湿度が高くて、当然鳴らないし、モニターはひどいし。今までコーラスやCMをやってきた色々なスタジオと比べても、これは何だって言う感じだったよね。
CMで使うのはそんなにいいスタジオではないんだけど、でも、それは機材的な面で、16チャンネルのコンソールはなくて4チャンネルしかないとか。それでもルームはそれなりにちゃんとしていたの。でもエレックのスタジオはそういうの以前の問題で。あれはちょっとショッキングだったね。大滝さんも絶句してた。
それに初めてエレックのスタジオに行ったときには、大滝さんは卓に座らせてもらえなかった。スタジオのハウス・エンジニアがいてね、彼は当然自分がやるもんだと思っていた。で、大滝さんも自分でやる気でいたから、どうなってるんだ、みたいなこともあったり。
言い合いにはなってないと思うけど、気まずい感じだった。でも、そのエンジニアもスモーキー・メディスンとか、ずうとるびとかやってるエレックスタジオのハウス・エンジニアだったんで、そこにいきなり大滝さんが来て、なんとなく対立構図に。
それで結局レコーディングの時は大滝さん、ハウス・エンジニアがやったのはデモテープの時だけ。どういういきさつでそうできたのか、知らないけど。
  
<でもしょうもないスタジオで録ったからこそ、ああいう音になったのかもしれない>
それまでエレックで出していた人はあのスタジオにそんな疑問もないでしょ、インディーだもの。
ただ逆に言うと、あのハウス・エンジニアの人はあの環境でよくやっていたよね。その後フリーになって有名なエンジニアになったのもうなずける。まあ、あの頃はシステムがシンプルだから、腕で何とかなる部分もあったんだね。
だけど、当時はエレックの経営が既に左前になっていたから、今コンソールは誰の抵当で、テレコは誰の抵当とか、そんな話をずっと聞きながらやっていたから。
最初にエレックに行ってデモを取った時に、そのハウス・エンジニアで♪蜃気楼の街を録音したんだ。僕はそのテープを持っていないんだけど、とにかく全然雰囲気が違うんだ。アレンジもかなり違ってたんだよね。SONGSに入っている♪蜃気楼の街はスタジオで考えたアレンジだから、イントロとかかなり違うんだよ。そのテープはもう無いんじゃないかなぁ。
でも考えようによっては、僕らのアルバムが溜池の東芝スタジオとか、六本木ソニーとかのスタジオで録ってたら、普通のニューミュージックのバンドもののオケになっていたかもしれない。エレックのあのしょうもないスタジオで録ったからこそ、ああいう音になったのかもしれないよね。
とにかく、リズム録りだけはエレックでやったんだけれどあまりに雰囲気が良くないんで、歌入れとか、かぶせは福生とかソニーとか他のスタジオでやったんだ。
ストリングスの録音は六本木ソニー。エレックでやったのはリズム録りだけ。でも本当にエレック・スタジオにはいい思い出がないなぁ。エレックのA&R担当とは本気で言い合いになったこともあったしね。細かい原因までは覚えてないけど。
でも素直に「はい、はい」って従ってたら、とんでもないところに持っていかれるって、直感で感じたんだよ。僕らのレコードなのに、なんでそっちの理屈を聞かなきゃいけないんだって。
僕が最初に感じたのは「どうせこいつら下手なんだもの」って言う空気。あるいは「どうせこいつら売れない」って言う、初めからそういう空気があった。普通レコーディングするって、会社と契約してデモテープ録っていく時に、励ましとか、盛り上げるとかあるじゃない。そういう記憶がほとんどなかった。そういう違和感がすごく残ってるんだよね。
結果的にはあのエレックのどうしようもないスタジオでのインディーの録音と、福生45スタジオの木のアンビエンス(残響音や反射音)、そして最終的には六本木ソニーでのミックスダウン、それぞれのスタジオの色合いが入ってるとも言えるかも。結果的にそうなったけど、やっている時、本当にこれで出来上がるのかと思ったんだよね。
バンドを作って1年半くらい経ってたから、やっとバンドの音もまとまって来ていたし、ター坊も曲をきちっと書き始めていた。♪風の世界とか書けていた。そうなってバンドのサウンド・ポリシーもだんだん出てきているところに、違う方向に持っていかれるんじゃないかって言う不信感。
だって4月に(ニッポン放送で)デモテープを録ったはいいけど、そのままずっと何もなくて、東芝だったはずのレコード会社がいきなりエレックになっていて、そういう部分にも疑心暗鬼だった。
エレックでのリズム録りは全員でやった。でもクオリティーに全然満足できなかったの。音に残っているので言えば♪雨は手のひらにいっぱい、でドラムのパターンが倍転するところとか、♪いつも通りのドラムパターンとか、スタジオの現場で決まったりしたのね。
それで僕が心配したのは、野口がすぐにはできなかったこと。
例えば♪DOWN TOWNのテイクでもハイハットとスネアの普通のパターンでドラムを叩いた後に、タムをダビングすればいい話なんだけど、レコーディングではタムを先に叩きながら演奏することになった。
そうすると当時の野口の技量ではリズムが揺れ始めるわけ。ただでさえテンポキープが弱かったのに。
それで延々やっていると、どんどんスタジオの空気が悪くなるの。野口を途中で変えて(上原)ユカリに頼んだっていうのは、それが一番大きな理由だったんだよ。
今から考えると機材の問題も大きかったんだけど、タイムが甘いっていうかアンサンブルの線が所々ズレるのがすごく嫌だったんだ。で、全曲、SHOWもDOWN TOWNまでも、ユカリでもう一度やったんだ。
だけどプレイバックを聴いて、ユカリが野口のバージョンを「こっちの方がバンドの音がしてるからええんちゃうか」って。それで思いとどまってSUGAR、SHOW、DOWN TOWNは野口のバージョンになったの。
だからそれが最初にやった曲で、一番最後にやったのが♪すてきなメロディー。
だけど♪今日はなんだか、のような曲はユカリのスタジオやライブでのキャリアの裏付けがなきゃだめだったね。ああいうハネているやつなんてのは特にね。
もともと自分たちが上手くない事はわかっていて、それを編曲的な部分で補って形にしてきたのに、それをレコーディングの現場でまた変更する、そんなことになったからね。そうすると途端に演奏技量が心許なくなる。そうなると、やっぱり野口なんかが槍玉に上がっちゃうんだよね。
そういうことがなくて「いいんじゃないバンドなんだから」とかやってたら、全然違う人生になってたんだろうね、それはそれでw

     

<あの時のレコーディングで一番鮮明に覚えているのは食事代が出なかったことかな>
1974年10月の終わりから11月の頭までがエレック・スタジオでの1回目のセッションだね。
その後、11月18日から再開している。ここで野口とユカリが交代。で、リズム録りを4日間。その間にライブもやってるんだよ。金沢に行ったり。
まぁレコーディングしたのはほとんどがライブでやっていた曲だから、構想あったんだよね。
でも、あの頃はキャラメル・ママみたいなスタジオミュージシャン・ミュージックの全盛の時代でしょ。だからバンドで一発録りでやることが、すごくつまらないことだって風潮があった。何か現場で変更加えたり、新たにダビングをすることが、レコードとしての完成度を上げるって言う、そんなのただの幻想なんだけど。
結果的に♪SHOWなんかはデモテープの方が出来がいいと思う。でもテープは同じ日にいっぱつどりだから。でもスタジオでは後から別の場所で歌を入れるから、歌とオケの間に距離がある。それがすごく気になって。とにかく楽しくないんだよ、ちっとも。実際に人だから思ったようなことにならないっていうのもあったけど。
原因がつかめないから♪SHOWとか♪今日はなんだか は、よせばいいのにダブル・ヴォーカルにしたりして。
なんでそうなったかと言うと、リズムを録ったのがエレックなんだけど、歌を入れたのは福生とか他のスタジオ。福生の音はエレックとは違うからね。今ならそんな場合の対処もできるけど、あの頃は右も左もわかりませんでしたから。
もう30何年も前の話だから、細かい事は断片的にしか覚えてない。結局覚えているのは良いことか、悪いことか、どっちかなんだよね。
あの時のレコーディングで一番鮮明に覚えているのは、食事代が出なかったこと。「出前をとって自分たちで払え」って言われるの。それで僕はエレックのA&Rにどうなってるんだって聞いたら「いや、金がかけられないんだ」って、それだけエレックはヤバかったんだよね。とにかく勇んで始めたはいいけど、途中でドラムがユカリに代わったり、だんだんおかしくなってきて。
そうすると、僕も他の人のレコーディングの現場とか見てるわけじゃない。その様子と自分たちの現実があまりに違うしね。とにかく、だんだんレコーディングに対する意欲が失せていくの。だからずるずるべったりずっーとやっていたんだよね。
本当は年内にアルバム出したかったらしいんだけどできなくて。そんなわけで、当時はオケの出来に全く不満足。それがずっと後になってソングスを聴きなおしてみると、思ったより良いw
でも、当時はそのくらい気持ちが盛り下がってた。それは現場の記憶とリンクしてるからなんだろうね。あれが六本木ソニーのきれいなスタジオでやってたら、もっと精神的に違っていたのかもしれないけど。エレックは薄暗いんだよ、スタジオがね。少しも明るくならないんだ。その印象が強かったな。

   

<みんなが脅かすんだよね、「弦の人って根性悪いから、いじめられるよ」って>
大滝さんもエレックのスタジオを気に入っていなかったんだろうね。で、福生のスタジオに16トラックのレコーダーを入れて。福生だったらマイク等の付帯機器を借りてくれば、あとは何時間やってもお金はかからないからね。でもダビングはいろんなとこでやったなぁ。
♪いつも通り、♪今日はなんだかのグランド・ピアノのダビングは、目黒にあったモウリ・スタジオの1スタでやった。♪SHOWのピアノはエレックで最初に録ったそのまま。だから音が妙にモケてるんだよね。あれが嫌で♪今日はなんだか、♪いつも通りは、モウリで録り直したんだけど、当時はドンカマ(リズムボックス)なんてなかったから、ユカリのドラムと合わないの。それをずらして再生して合わせたりしてね。そういう風にいろんなスタジオを転々とした記憶がある。
ストリングスは六本木ソニーで。あの頃のバンドものでストリングスとかブラスを入れるとか、あまりないよね。特にストリングスは。でもさっき言ったように、スタジオ・ミュージックの方が優れている、って言う思いがあったからさ。そういう「何かやらないといけないんじゃないか」っていう思いw、レコードを作るんだから。
だから、これが僕にとって生まれて初めてのストリングスアレンジした曲なんだ。CMだってストリングスやったことないもん
ストリングスの記譜法の基礎は、最初、瀬尾(一三)さんに教わった。瀬尾さんはCM制作会社のオフィスで知り合って、その後コーラスでもずいぶん使ってもらった。当時の僕の人脈から全くありえない、山田パンダとか、風とかのコーラスは、全部瀬尾さんがらみのものだよ。同時に僕にとって瀬尾さんは、スタジオでのいろいろな段取りの先生でもあった。
ストリングスに関して素人考えで、初めはブラームスとかチャイコフスキーとか、そういうスコアで勉強しようと思ったけど、あれは編成が大きすぎるから参考にならないって言われてね。瀬尾さんは「クラシックのスコアなんか見てもダメだ」って。
だから自分でヘンリー・マンシーニとかドン・セベスキーとか買い込んで。マンシーニの本はマンタ(松任谷正隆)に教えてもらったのかな。
スタジオでは通常6.4.2.2(第一バイオリン6人、第二バイオリン4人、ビオラ2人、チェロ2人)だから、当時僕はブラスに関しては若干の知識はあったけど、ストリングスは全然知らなかったんで、瀬尾さんに書式を始め、基本中の基本を教えてもらったんだ。
ストリングスのメロディーラインのイメージはあったから、それを弦で弾くってことだから。まぁだけど、みんな脅かすんだよね。「とにかく日本の弦の人って根性悪いからいじめられるよ」って。
それまでのレコーディングで、アレンジャーが「こんな譜面じゃぁ吹けないよ」ってブラスの人にいじめられていることを見てきたから。でも「弦はあれ以上だよ」っていわれてねw。僕、ブラスバンドだったから、ブラスの人たちとはそんなに違和感がなかったの。プレイヤーがそう言うのももっともだなって。でも、なんだかんだで、弦もそれほど問題なく入れられたよ。

  

<「雨は手のひらにいっぱい」をシングルに、という話になって変えた>
レコーディングではコードやメロディー、行き方を変えた曲はほとんどない。基本的にはステージアレンジそのまま踏襲。だから、それに何を足すか、って言うことをやったのね。
それでも大きく変えたのは♪DOWN TOWNと♪蜃気楼の街かな。
DOWN TOWNはもうほとんどステージでは演奏不可能な世界にまでしちゃっている。野口のドラム、というかフロアタム+スネアで演奏しているあのやり方だと、アタックが弱いんだよ。でもアタックが弱いことが、逆に非常に不思議な音蔵を生み出したんだよね。60年代っぽい。だからあの曲をライブでやるとレコードみたいな感じにはならないんだ。それはもう全く割り切ってやるしかない。

そういうちまちましたことがあったけど、♪SHOWと♪風の世界、は全くステージのアレンジそのままだし、村松くんのオブリやソロもステージそのままでやっている。♪SUGARも全くの一発録りの上に、あのバカ騒ぎを寄ってたかって入れた。
♪蜃気楼の街はなぜ変えたか覚えていないけど、あんまりステージのアレンジが好きじゃなかったんだろうね。こうしたいなっていう漠然とした構想はあったからね。♪いつも通りは、ステージではイントロやリズムパターンの違うバージョンが何個があったんだけど、レコーディングでは不思議なことに一番最初のバージョンに戻っているんだよね。なぜそうなったのか、僕も記憶がないんだ。あと大きく変わったのは♪雨は手のひらにいっぱいだね。
この曲を変えることになったのはこの曲をシングルにしようと言う話になったからなんだ。まぁ結局はならなかったんだけれども。
シングルで切ろうって話が起きたのは、レコーディング始まってからで。僕たちはDOWN TOWNで絶対決まりだと思ってたんだけど、出版社のスタッフと大滝さんに♪雨は手のひら〜をシングルにしたい、って言われたの。ステージでの♪雨は手のひら〜はカントリー・ロック風のアレンジだったんだけど、これをフィル・スペクター仕立てにしようって。
それでシングルとアルバムを別バージョンにして、シングルを松本隆さんに頼むって話ができたんだよ。曲はいいけど、とにかく詩が弱い。次はプロの作詞家に頼もう、って。シングルバージョンは松本さんで、アルバムバージョンはお前の詩でいいって言われたの。
それで話し合いは物別れにはなったんだけど、その後に「こういうことがあったんだ」ってメンバー5人でディスカッションしたら、野口は「僕は売れるためだったら、それでも構わないよ」って言うの。野口は当時家が大変だったりして、それはそれで身につまされちゃって、そうか、それもしょうがないかと思ってたんだよね。そうしたら結局、松本さんがやらないと言うことになった。
でも、松本さんがやらないと言うことになって、じゃぁ他に誰に頼むって言う話が全くないのね。なし崩し的に、詩はそのままってことになった。それもまた気に入らなかったんだ。結局、僕がケツまくる位にアンタたちが説得したのは何だったんだって。そんなに詩を変えることに固執するんだったら、一つプランがダメになったら違うプランを持ってくればいいじゃないか、って。そんな話ばっかりだから、やっぱり印象が悪くなっちゃうんだよw
   
<SONGSはいつ出たのかも知らない。レコード店で現物を見たことがない>
レコーディングのテイクのオーケーは基本的には僕と大滝さんの合議だった。ただ、大滝さんはもうワンテイク録れとか、全体的な事はあまり言わなかった。細部に対する変更だけ。
自分に関して言えば、当時のメモを見ると、やっていることが今と同じだね。何を入れるかって言うメモには、パーカッションしか書いてないんだよ。コードの出る楽器とか、メロディーが出る楽器は、結局バンドだから、バンド以外の音は入れられない。
レコーディングの締め切りは最初はあったの。年内に出そうとか。でも結局そんなふうにも揉めるとさ、スケジュールが遅延するんだよね。
11月30日にモウリ・スタジオでやっている。それまでエレックだったわけだね。この日モウリでピアノのダビングをやったかもしれない。あとストリングスとブラス、稲垣次郎さんのソロとかはソニーだね。
歌入れの一部もソニーでやっている。♪素敵なメロディーとかは福生。ター坊の歌入れはソニーが多かったんじゃないかな。だから♪いつも通りの歌は、音がデッドでしょ。
ミキシングはどのスタジオも大滝さんが全部自分でやった。エンジニアとしての大滝さんはとてもちゃんとしていたんだよ。よく勉強していたしね。
リリースは1975年4月25日だけど、手帳に発売日とか一切書いてないんだよ。いつ出たかもろくに知らなかったんだ、実は。レコードで現物を見たことがないし。アルバムが出た印象がない。だってその時の見本盤は1枚しかない。売っている盤をその頃見たことがないし。
東芝の溜池スタジオがリニューアルした時に、デモ演奏してくれないかって言われたの、誰がその仕事を持ってきたかわからないんだけど。
それが75年の頭なんだけどその時に(伊藤)銀次を入れて写真を撮って、それがエレックのプロモーション写真になるんだよ。それが3月12日だね。そんなことばかり覚えてるんだよ。
ジャケットは金子(辰也)に頼みに行ったの。いつ頃かは覚えてない。とにかく知り合いでデザインの知識があったのは金子ひとりだけだったし。だからAdd Some〜の延長だよね。
アルバムは曲の出来不出来が激しいなっていうのが正直な感想。♪雨は手のひら〜はよくできたけど、♪今日はなんだかはピアノがあとからかぶせたのがわかっちゃうし、そういう後悔をするところがたくさんある。
ミックスし直し? 無理だよ、今更やったところで自己満足にしかならないもの。それにミックスに関して言えば、大滝さんはあのコンディションの中で、良いミキシングをしていると思うよ。
今から考えると、一発録りに近いやつの方がいい出来してるよね。♪過ぎ去りし日々なんかほとんど一発録りだから、ああいう方が聴いていて違和感がない。やっぱり一般的なレコーディングの評価と同じで、演奏の稚拙さをどうカバーするかって頑張ったんだけど、最終的にはそういう上手い下手のレベルよりも、編曲の段取りとか、イントロの作り方とか、そういう方が長く聴いていると残るからね。僕は♪いつも通りは元のイントロの方がいいと思うけど、そんな話はもういいよね、30年経つと。どれも「ああ、こんなもんだ」って思うよ。
     
<なんでSONGSがこういう形で残ったのかがものすごく自分としては不思議だね>
アナログのLPって片面が5、6曲しか入らない。結局アナログ盤のA面B面と言う形における美学っていうのは、1曲目からの流れ方、これが全てだと思うよ。
当時のこのクラスのバンドのアルバムって、3曲通して聞けないものが大半だった。その意味ではシュガーベイブには僕だけじゃなくって、ター坊とか村松くんとか、複数の作家がいたっていうことが大きいよね。
今から考えると、レコーディングの途中でユカリに替えたことでドラマーが2人になった。そのバリエーションも大きいよね。作家、シンガー、ドラマーが複数だった。それがSONGSが飽きない原因の一つじゃないかな。5人のメンバーがフィックスされてボーカルが一人しかいないバンドだったら10曲聴くのは飽きると思う。
それにター坊も僕も作家志向が強いから、作品にも幅があるしね。願わくば、それをもうちょっと良いコンディションでできたら、もうちょっと明るい感じのアルバムにできただろうね。でもあれが明るい感じだったら、果たして今の評価があったかどうかっていうのもある。
不思議なのはなんでSONGSがこういう形で残ったっていうのはね、ものすごく自分としては不思議。だって演奏が不満だらけで、せめて曲だけでも聞いてほしいって言うことで、SONGSってアルバムタイトルにしたんだもの。そうするとこの演奏やミキシングで正解だったって言うことなんだね。
やっぱりリズム録りの時の暗鬱な空気がポップさに影をさしている。その感じも結果としては良かったのかもしれない。
でも、当時これで軟弱だって言われたんだから、世の中ってすごいよね。ジェームス・ブラウンだって今でこそすごいって言われるけど、昔の日本では、こんな面白くない音楽はないって言われたんだもの。コードひとつしかないしね。歴史なんていい加減なものさ。
発売の頃に雑誌のレビューがあって、一番最初に出てきたのが「ミュージックマガジン」のしょうもないやつ、その後は「ミュージックライフ」だかどこかの「あの男の歌手がいなければ、もっとマシなアルバムになった」ってやつ。とにかく、ろくなのがなかったな。まぁあの頃は絶対に褒めないっていうのが、美学みたいな時代だったからね。別にけなされてもいいんだけど。でも、全く的が外れていたんだもの、どいつもこいつも。それが頭にきたんだけど。でも、世の中にはこんなに自分と感覚の異なる人間がいるんだ、っていうのが正直な感想でね。制作意図なんてものは世間にはほとんど伝わらないものだっていうのは、あの時代に徹底的に叩き込まれたね。
でも、僕にとって幸運だったのは、75年くらいから荻窪ロフトとか下北ロフトといったライブハウスが出てきて、そうしたライブハウスでの入りがすごく良かったこと。それが大きな支えだったんだよね。
ライブハウスでもいつまでも20人の客だったらやめてたね、絶対。レコードが出た後は、ライブハウスに限って言えば、客だけはどこもいっぱいだったから。
だから、音楽雑誌のライターの方がバカなんだ、客の方がちゃんとものがわかってるって。あの頃の客は言うこともきつかったけど、ちゃんとこっちの意図が伝わる形で聴いてくれてたしね。そういう落差って言うかな。だからある時期には本当に評価してほしい人には評価してもらえなくて、僕なんかに何の接点もない人が妙に褒めてくれたりとか、そういうことで、党派制とかに全く無縁に生きざるを得なかった、と言うのかな。
結局エレック盤SONGSの印税は一銭も入ってこなかった。エレックがすぐ倒産しちゃったこともあると思うけど、でも本当に本当のところはよくわからないんだよ。まぁ全てが時代の彼方だよね。
【第15回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 外伝5 野口明彦インタビュー

<高校の途中からフォークをやったんです>
生まれは東京・中野新橋、淀川浄水場の向こう側です。
で、その向こうはもう渋谷本町。渋谷と中野の境目ですね。家からバスに乗って、バス停3つ目で浄水場。中学校の頃にはもう浄水場がなくなって、京王プラザホテルが経つ頃によく遊びに行きましたね。遊びに行ったっていうか、フォークソングの練習とかをしていたかもしれないなぁ。
小さい頃は、普通の気の弱い人見知りでした。兄弟は妹が一人。外で遊ぶことが好きでしたね。運動もよくできたし、野球もずっとやってました。大滝さんのチームでもエースで4番だったし。今もバレーボールの監督をやってますよ。
音楽との出会いは小学5、6年の頃にピーター&ゴードンの♪愛なき世界を聞いて目覚めたって言う感じかな。あとベンチャーズ。友達の家にお兄ちゃんがいて、そのお下がりのポータブルプレイヤーで聴いていた。
で、中学に入ってベンチャーズが流行って、僕も少しドラムをやってたんですよ。ドラムは親父が祭太鼓が好きだったから、っていうのはおかしいけど、そういうのが好きだったみたいです。最初に始めた楽器がドラム。
高校で途中からギターを弾き始めて、フォークソングをやったんですよ。ドラムセットは持ってないですよ。ドラムはシュガー・ベイブの時も持っていなかったしw  センチメンタル・シティ・ロマンスに入ってからやっと手に入れたっていう、いたってルーズな。だから、よく言うドラム少年とか、ギター少年とか、そういうのじゃないんだよね。
フォークは三輪車時代のター坊と同じように、PP&Mスタイルでやっていたんです。PP&Mも好きだったし、高校のときには六文銭とかも好きでした。まだ初期の六文銭牧村憲一さんがマネージャー、早稲田の大学生で。で、僕は高校生の時に小室等さんとか、牧村さんに会って、牧村さんの家まで行ったりしてたんです。それで高校2年の時かな、ヴェルウッドを作った三浦光紀さんにも会っています。僕はその頃ジャンジャンとかに出ていたんですよ。「三本足の椅子」って言うグループで。
 
<僕は芸歴的にはすごく古いんですよ>
「三本足の椅子」を結成したのは高校1年位かな。3人組で。もうだれも音楽はやっていないですけど、僕の中学校の同級生と、4つ上のお姉さん。面白いんですよ、そのお姉さんは日比谷高校で4つ上だから、要するにまりやのプロデューサーだった宮田茂樹さんとか、山本コウタローさんなんかと同級生。後でわかったことですけど。
グループでは僕はギターと歌です。ギターは2フィンガー、3フィンガーと言う感じですね。
ギターの練習はしましたよw  しないと弾けないじゃないですか。で、ジャンジャンとか出てて、ソルティー・シュガーがいたり、まだ吉川忠英さんがEASTに入るか入らないか、と言う頃かな。古井戸もいたり、ブレッド&バターもいたかな。それで、僕らのグループが結構面白いって言うんで、NHKから声がかかったりしたんです。NHKテレビの「若いこだま」や「若い広場」にも出ましたよ。
曲はオリジナルで、僕とそのお姉さんが書いてました。ジャンジャンに出たのはオーディションで、たまたまそこにNHKのプロデューサーが見に来ていて、番組に出てみないか、と。そしたら三浦光紀さんも見に来てて、レコーディングしようって話になったんです。だけど当日、僕が寝坊していかなかった。そういう時代ですw
寺山修司さんの詩でレコードを出そうと言う話もあったんです。でも僕らは生意気で、お姉さんが寺山修司の詩じゃ嫌だから、唐十郎さんに代えて欲しいってw当時から唐さんのお芝居で小室等さんがギターを弾いてたりしたんです。で、僕が高校生の時に小室さんを訪ねて行ってるんです。いまだに小室さんに会うと「君は会うたびに違うことをやってるね」って言われるんですけどw
この前、達郎に会った時にも話してたんだけど、僕は芸歴的には古いんですよ、すごく。でも、そのグループを突然辞めちゃった。なんだかつまんなくて、それで解散。3年ぐらいグループはやってましたね。だって俺、それが原因で高校クビになっちゃったんだもん。音楽活動ばっかりやっていて学校へ行かなかったから、出席日数足りなくて。
だから、僕は全くヘンテコリンな角度から来てるというか。達郎たちは高校の仲間。僕は全然違うんです。でもそのお姉さんの友達が矢野誠さんの親戚だったんですよ。
そのお姉さんは日比谷高校を出て、阿佐ヶ谷美術学園へ行ってたんだけど、その時の仲の良いグループに有馬さんと言う人がいて、今は僕の親友となっちゃうんだけど、その人は長崎出身で、長門くんと同級生なの。そこで長崎の人脈ともつながってくる。
そこで僕は長門くんとか小宮くんとか知り合うんだけど、有馬さんが矢野さんの親戚だったんです。
有馬さんの義理の兄の妹が、矢野さんの当時の奥さんだった。それで僕も家に遊びに行ったり。僕は学生服でしたね。その時に長門くんにも会ってるんです。
  
<カメラマンの助手からディスク・チャートへ>
当時の長門さんはあまり覚えてないw 三畳一間に住んでいたよね、沼袋のウサギ小屋のような家だったのは覚えているけどw
グループを解散してから、僕は写真のほうに行ったの。もう、全く音楽はやめて、手に職をつけなきゃいけないって。全くカメラなんて興味ないんだけど、あるコネでカメラマンを紹介されて、その人の助手を2年ぐらいやりましたね。当時立木義浩さんや篠山紀信さん、大倉舜二さんとかカメラマンと言ったら花形、めちゃくちゃ厳しい世界、そこでやりましたね。
フリーのカメラマンに着いたんですよ。「婦人画報」とか「メンズクラブ」とかの写真を撮っていた。全くの商業カメラマン。その助手を2年。仕事の速さは身に付いたよね。記憶力とか、どこに何を置いたとか、言われる前に出すとか、そういうのは結構役立っているかな、今でも。
で、若いからすごくバキバキの助手になっちゃって、その人のところを辞めてもフリーの助手で、プロのカメラマンからご指名で仕事が入っていた。要するにできるローディーみたいなもんだよね。もうスケジュールを書いて、忙しくて。あっちこっちカメラマンについて、変な話、フリーの助手でも食えてたんです。でもカメラマンの世界ってすごく封建的なのが嫌で、それもやめて四谷の「ディスク・チャート」でバイトをするわけです。
矢野誠さんの同級生が「いーぐる」って言うジャズ喫茶のオーナーで、矢野さんの一派に、僕とか長崎連中がいたでしょ。その人たちが一緒にジャズじゃないレコードをかける喫茶店と言うのを作って、そこで従業員というか、バイトしたんですよ。そこでター坊もウェイトレスとして働いていた。
ター坊が矢野さんに勧められて「ディスク・チャート」に行くようになった経緯は、あまりよく知らないの。ただ「ディスク・チャート」に行ったらター坊とか当時の「三輪車」の連中がいたり、とにかく人がいっぱい集まっている。
僕はどっちかって言うと真面目なアルバイターだったからw仕事が終わったらもう帰っちゃうというか、ちょっと部外者的な感じだったかな。
そんなプロになろうとか、音楽に対してすごく執着しているわけでもないし。それでセッションをやっている時に、ただただボーっとしていると、長門くんが「野口、ボンゴ叩け」って。だから帰りはしなかったですけどねw
でもまあ色んな人が居ましたよ。(南)佳孝が居たりとか、徳武(弘文)くんも。
だから、僕が音楽の世界にスッと入れたのは、長崎の連中のおかげですよ。すごく仲が良かった。小宮くんとか、しょっちゅう高円寺のアパートへ行って一緒にご飯食べたり。
僕はその人たちから3つ位下で、すごくマスコット的に可愛がられたというか。スポーツやっていて上下関係にも慣れていたし、写真をやっていて、縦社会の中に結構いたから、気分は悪くなかったんじゃないかな、先輩たちも。一応わきまえて遊んでたっていうか。いつも何かあると連れ回してくれるお兄ちゃんお姉ちゃんがいたんですよね。それがいまだに続いてるような感じ。みんな音楽やめて長崎とか帰っちゃっても、僕がツアーで長崎へ行くと、その人の家に泊まったりしてますけどね。
長崎の連中のひとりだった土井って奴が、法政大学へ行ってて、徳武くんを連れてきたりとか。長崎の連中は、僕にとっては音楽的にはすごく冴えているものを聴いている連中だな、って言う感じでしたね。

<セッションからシュガー・ベイブへ>
「ディスク・チャート」のセッションは僕はよくわからなかった。何やってるんだろう、みたいな。ただドラムを叩きたいとは思ったんだけど、別にドラムセットもないし、ドラムが叩けるようなスペースもないし。ドラマーは誰もいないわけですよ。うまいと言えば当時達郎が一番うまい位でね。徳武くんがベースを弾いてたりとか。そういうめちゃくちゃな感じだったけど。
ター坊を売り出そうって話になって、バンドを作るんだけどドラマーがいないからオーディションで決める、と。それでオーディションしたのかな? シュガー・ベイブのオーディションで並木さんの家にには行ったような気がするけど。結局、一番下手だった俺に決まったと言う。
オーディションに行くと、もうター坊のバンドというより、達郎バンドみたいな感じというか。本当は達郎は太鼓すごくうまいんだけど「ギターを弾いて歌いたいから、俺はギターをやる」って。それで、僕はもうひとりのドラムの人がいて、その後に叩いたんだ。全く自信も何もなかったんだけど、お前やれ、みたいなことになっちゃったんだよね。体が大きいから。
当時ドラマーって変な思い込みがあったのね。音がでかくなっちゃいなくちゃいけないとか。PA設備がまだちゃんとしてないから、アンプに対抗できるパワーがなきゃみたいな。それで達郎が「お前、体が大きいからやれ」って。でも太鼓は叩きたいと思っていたから「まぁいいや」みたいな。その時にはドラマーになろうとか言うより、ただ太鼓が叩きたかっただけでね。
それで特訓。ドラムは中学生の時に、お遊びでベンチャーズをちょっとかじった位で、ポップスは好きだけど、自分で太鼓を叩いてとか、ポップスのあり方みたいなのは全然わからなかった。あまり聴いてなかったしね。
長崎の連中とか、長門くんや達郎のようにいろんな曲をコアな感じで聴いてはいない。僕はPP&Mも好きならシナトラも好きって言う、メガヒットばかり聴いてるような感じで。だからレコードを1枚買って擦り切れるまで、このギターは誰とか、そんな聴き方をしている奴が多かったけど、僕はそんなのどうでもよくて、ただ流行っているのが好きだっただけw
だから、音楽とか語ることが不得意で。いまだにあのギターは誰々とか、長門くんに言われても全然わかんない。だってセンチメンタル・シティ・ロマンスに入ってラス・カンケルを知ったくらいだからw
で、ドラムは特訓されていたと言うより、要するにキメのフレーズがあるわけですよ。「こう叩いてくれ」みたいな。で、変な話、ドラマーって人が言うフレーズって、叩けないんだよね。まぁスタジオで譜面があるなら、それでもやれるけど、意外とそんなホイホイとはできないの。まぁ今はできるようになったけどねw
僕の場合は、運動ばかりしてきたせいか、体に一度入れないとできない性分でね。そういう意味ではすごく不器用だったし、迷惑かけたんじゃないかな。だけど僕自身は辛くはなかったよ。だから続けられたんじゃないかな。
スパルタ? でも、それは別にセンチに行ってもそうだったしね。告井君がやっぱり「こうやれ」とかね。
ほんとに達郎と告井くんという師匠が二人いて助かりましたね。結構、一生懸命やれた。それがシュガー・ベイブに居られた理由かもしれないな。シュガーも喧嘩ばっかだったし。ずっとチューニングばっかりしてると「早くやろうよ」って言うのが、いつも僕で。そういう中和剤じゃないけど、僕の足りない部分が、逆にみんなを楽にさせたのもあるかもしれないw   僕が勝手に思ってるんだけどさ。
シュガーの曲はキメが多くて大変でしたよ、ほんとに。ここでこういうオカズじゃなきゃダメ、みたいな。でも自分がノッてたり、かーっとなっている時は、そんなことどうでもよくなっちゃうのが俺だったり。ドラマーって意外とそうだと思うんですけどね。
前に達郎に言われたことがあって、(村上)ポンタさんに「こういう風に叩いてくれ」って言ったら、できなかったんだよね、って。だから、その時にドラマーって「人が言うフレーズが体に入ればいいけど、そうじゃないとできない。できたとしても意外とぎこちない」ものだったり。達郎もその時、初めて分かったみたい。あのポンタさんでさえできないフレーズがあったって。できないんだよ、人の言うフレーズって。それからなんじゃないかな、達郎のドラマーに対しての意識が変わったのは、とは思うんだけどね。

<拾得で「帰れ」と言われた時は怖かった>
当時はステージでアガってたのかもしれない、だってステージの本数も少なかったし。でもそれよりも、間違いなくこなす、というのが大変だったかな。♪SHOW、♪DOWN TOWN、 ♪SUGAR…馴染んでいる曲は別にいいんだけどね。村松ちゃんの曲なんかも指定が多くて大変だった。オーリアンズみたいにとか言われても聴いたことなかったし。でも、アイズレーみたいにって言われた時はわかったの、聴いてたから。だから、自分が知っていたものは楽だったけど、知らないニュアンスのサウンドはやっぱり苦手でしたね。
(73年8月の)長崎の初ライブの事は覚えてます。レパートリーが6曲しかなくて。しかも、まだシュガー・ベイブらしい曲がなくて、ちょっとフォーク・ロック的な曲が多かったね。達郎の作る曲も、まだ今の達郎の感じではなくて、後はカヴァーもあった。アンコールもきたけど、その時も6曲のうちの1曲をやったんじゃないかな。
ただ、僕はコンサートそのものよりも、長崎に行ったことがすごく楽しかったのね。長崎の連中とはもともと仲良かったから、メンバーとは殆ど一緒にいなくて、長崎のお兄ちゃんたちの家に転がりこんでいた、と言う感じ。だから僕は達郎たちとだいぶスタンスが違うというか、いい加減というか。
関西ツアーは辛かったというか、拾得で初めて「帰れ」と言われた時は怖かったですよ。一升瓶を抱えた奴に「東京に帰れ」みたいなこと言われて。とにかく京都はブルースオンリーだったから。でもそこで達郎が曲順を変えて♪指切り、だったか♪SUGARだったか、それで結構黙らせた。
外人たちはすごくいい感じでノっていたし、終わってから山岸潤史が楽屋に来て「いや、良かったよ」って言ってくれた。
ただ、演奏旅行みたいなのはあれが初めてだったからね。神戸でも一列になってやったりw なんだよ、これ?みたいなね。でも楽しかったな六番町コンサートで初めて(上原)ユカリを見て、スゲェ太鼓だなと思ったんだよね。
すげえパワーでタイトな演奏。太鼓はこういう風に叩くと、ああいう風に鳴るのか、っていうのが刺激になったね。
バンドは達郎が♪SHOWを書いたり、曲の感じが変わってくるわけです。そこから♪今日はなんだか、とか曲がどんどん出来ていくんだけど、その時にわかんないなりに「こいつ、凄い才能だなあ」と思った記憶が今もありますね。それまで小宮君がいて、僕は彼が使うメジャー7thがすごく好きで、メロディー的にも。小宮くんはすごい才能ある男なんです。
♪SHOWの時には、地下鉄が走っているようなイメージのリズムが欲しいんだ、みたいなこと言われて。で、あんな風になって行っちゃった。今聴いても変なリズムなんだけど。
だから、僕は太鼓は下手だったけど、フィットしたところは受け入れてくれたのね。でもやっぱりレコーディングの時にダメで、ユカリとバトンタッチするじゃないですか。でも、僕の太鼓の方が合ってる曲もある、と僕は思っていて、実際に「野口の方が雰囲気が合ってるな」と曲によって言われたことがあるのね。ただ、仕事としては遅くなっちゃうからね。まだ半年だよね、ドラムをちゃんと始めて。
それでレコーディングですからデモテープはどうにかなっても、後半になるとリズムが遅くなっちゃったりとか、やっぱりあるわけで、どうしてもレコーディングの進行は遅くなってしまうでしょ。
で、何曲か取り終えた時、僕は当時は中神(昭島市)のハウスにいたんだけど、長門くんが夜中に来て「野口、ちょっともうドラムを代えなきゃだめだ」みたいな話で。「しょうがない、いいよ」って。次の日にスタジオに行ってユカリが叩いてるのを見て、上手いなぁと思ったんだよね。結局レコーディングに初めてぶつかって、えらいことになってきたっていうのがあって。これはユカリでも何でもどうぞ、みたいな感じがあったんですよ。
ベースの鰐川はすごいと思ってました。彼はもともとギタリストでしょ。だから僕は鰐川に引っ張られていたと言う感じですね。
印象に残っているライブといえば、横浜でやった時は演奏の途中で太鼓が止まってしまったというのがあったし、ワンステップでも僕は間違えたんじゃないかな。演奏自体は良かったけどね。気持ち良かった印象もあるし。ただワンステップの時、僕は演奏が終わってすぐ帰っちゃったんですよ、泊まらなかったの。当時付き合ってた彼女の猫が死んで、帰らなきゃって。居たかったんだけどしょうがない。
シュガーの可能性? うん、僕なりに好きな曲は多かったしね。セールスがどうこう考えなければ♪SUGARにしてもそうだし♪SHOW、♪今日はなんだか、♪ためいきばかり、ター坊の♪蜃気楼の街、♪いつも通りとか、僕は好きな曲が多かったですね。可能性っていうか、好きというかそれだけかな。今まで聴いている音楽とは違ったことをやっているんだ、という自負だけでね。それが売れるとか、そんなことよりも♪DOWN TOWNで心地いいなとか、そういう部分かなあ。
半分リスナー? そういう感じかな。だから僕がそう言っちゃうとアレだけど、達郎もすごく怒らせたし、けっこう言いたいことを言っちゃうんですよ。良いものも、素直に好きって言うんだけど。
あの時代、気になったバンドではイエローかな。めちゃ上手いなこいつら、と思ったね。かっこいいいなと思ったね。みんなハーフだったかもしれないけど。ジョニー吉長さんが居た。
あとは鈴木茂さんだな。茂さんのアルバム聴いた時に、デヴィッド・ガリバルディが叩いていたり。僕、タワー・オブ・タワーがすごく好きだったから、「バンド・ワゴン」には憧れましたね。一度茂さんのバックで叩いてみたいと思っていたんですけど、センチで一回、念願かなったけどね。♪砂の女とかやったんです。
  
<センチメンタル・シティ・ロマンスに参加>
シュガーやめた時は、どうしようと言うことはなかったね。ただクビになったことが寂しかったかな。ミュージシャンで食えるなんてまず思わないし、シュガーだって殆どギャラは無かったからね。
ただ坂本龍一なんかと一緒に、友部正人とかあがた森魚くんとかのフォークシンガーのバックをやった時にお金もらえて、あ、お金になるんだ、って。あがたくんは当時ナベプロかなんかに居たしね。
シュガーからセンチの間って1年も無いんじゃ無いかな。フォークのバックをやったりしていた時に、センチのマネージャーだった竹ちゃん(竹内正美)から電話があったんです。センチのドラマーがドクターストップがかかったと。で、8本ライブが決まってるんで、それをやってくれって。明日東京に行くから新宿の喫茶店で会おうと。リハなしですよ。
その喫茶店でライブのカセットテープを渡されて、明日広島へ行ってくれって。だから新幹線の中でカセット聴いて。それが愛奴のデビューコンサートだったの。ゲストがセンチだった。広島の郵便貯金ホールに2,000人入っていた。
カセットもずっと聴いていて楽屋でも聴いて、リハなしで本番だった。
センチのメンバーとは旧知の仲だし「野口がやめてるから呼べ」みたいな感じだったみたい。当時、シュガーとセンチはジョイントが多かったしね。今度こういう曲を作って、あいつらをびっくりさせよう、みたいなのはお互いにあったから。だからセンチの曲を全く知らないわけでも無かったし、でもステージを8本やったら帰ろうと思ってたの。それがメンバーになってしまった。
カセットでやってた時はコピーで良かったんだけど、センチにどっぷり入ってみると基本が8ビートなんですよね。すごいスローな8ビートとかもあって、最初は叩けなかった。
どっちかって言うと、僕もシュガーもブラックミュージック系を聴いていたじゃないですか。でもセンチのメンバーの誰のレコード棚に行っても、黒いものが一切ないんですよ。だから、僕からしたら、イーグルスって何?みたいな。でも全く違うものを聞いて、類似した音楽を目指していたんだなぁっていうのは、僕は両方にいたからすごくよくわかる。
 
竹内まりやにはデビューからつきあってる>
センチには4年いました。で、その頃にまりやがロフトセッションをやって、僕と(中野)督夫が呼ばれてレコーディングしたの。それがきっかけでプロデューサーの牧村さん、宮田さんが、リンダ・ロンシュタットイーグルスみたいな路線を置くわけですよね。面白いよね、そういうつながりは。
で、センチやめたら今夜は今度はまりやが「ぐっちゃん、やめたんだったら太鼓たたいてくれない」って言うから。僕は子供も生まれて東京に帰ってきて、バイトでもしなきゃと思っていた矢先だったの。だから「うそ、行く行く!」みたいな。そういう危ない橋でつながっているっていうか。それで、まりやとデビューから休業まで付き合っているんですよ。当時はまりやが達郎の奥様になるとも思わないかったから。面白いというか、不思議というか。
今回まりやのシングル♪シンクロニシティ(2006)で共演したけど、まりやとはセンチのコンサートにゲストで出てたりとか、プライベートでもクラプトンのコンサートに達郎が行けないから「ぐっちゃんと一緒に行こうか」とか。達郎とも電話で話したりしていたけどね。
このシンクロニシティでは達郎からの注文は特にないですね。こういう曲を選んできたと言うのもあるだろうし、8ビート、ウエストコーストに関してはもうお任せ、好きにって言う。だからもうほんとにコード譜だけで、いたってラフに。それに細かい指示出しても聞く連中じゃないから。もう長い付き合いだから、ちゃんとその辺も達郎はセレクトしてやっていると思います。まりやもそうだろうし。
僕のドラムは、一緒にやる人みんなに「すごく歌いやすい」って言われるんです。歌謡界の人でもそう。それはすごく嬉しいんです。と言うのは、僕が歌を歌っていたからかもしれないですけど、僕はすごく歌を聴くんですね。だから逆に、突然の仕掛けみたいなものが、僕の中にはあまりカチッと入らないんです。歌を聴いていると、なんでここでフィルが必要なの、みたいなのがあって。僕は歌を聴いて、ただやってきて、それがいまだに歌伴としてお声がかかっている理由じゃないかと思います。
だからドラムキッズでテクニックがどうのとか、そういうのを求めていた人たちは、意外とスティーヴ・ガッド全盛の時に辞めていった人が多いんです。
でも僕は歌というか、メロディーに感じて叩くから、インストでも何か歌ってないと叩けない、っていうのは大げさだけど、高揚感がないんです。
だから、こないだ達郎にも「なんでそんなに仕事あるの?」って聞かれたけど、わからない、でもお声がかかるうちはやろう、って言う。
まりやに「ぐっちゃんの太鼓ってラス・カンケルに似てる」って言われて、ラス・カンケル、それまで知らなかったから聴いて。で、自分でも似てるなぁと思ったけど。一時期8ビートしか頼まれないのが嫌な時期もあったけどね。今は太鼓たたいてって言われれば、何でもいいかなって。結局一回りして50歳になって、20歳の頃にやっていた連中と一緒にできて、達郎もまりやもそうだけど、すごく今やってて良かったなぁと言うのと、人との出会いに恵まれたなぁと。すごく才能のある連中に囲まれていたかなと思う。
だから、いた場所が違えばとっくに太鼓なんか叩いてないと思う。だってあの当時うまい人はいっぱいいたし、今だから野口の太鼓はこうでこれでOKみたいなところはあるけど。
SONGSを作って、やっぱり飽きるからしばらく聴かなくなるじゃないですか。10年後だったかな、聴いてみたらこんなことやってたんだって。やっていた当時はみんなわからなかったと思うんだよ。理解していたのは佐橋とかEPOたちの世代、シュガー・ベイブに憧れて聴いて、高校生の時にコピーした連中で。
僕は10年後に聴いていいじゃんっていうのがあった。達郎は当時のライブテープとかいろんなものを持っていて「この野口の太鼓、いいぞ」って聴かされたこともあって、僕もいいじゃんと思った。でも当時は達郎もそうだと思うけど、突っ張っているのが精一杯だったと思う。
その意味ではシュガーベイブがライブバンドとして輝いていたのは、やっぱりユカリになってからのライブじゃないかなぁ。すごくフリーな感じで良かったと思う。セッション的なものをすごく取り入れていて。こういう風にやりたかったんだ、って僕はセンチで見ていて思ったことがある。でも逆に、僕がセンチでやっている太鼓を達郎たちは聞いてくれて、会うたびに「上手くなったな、お前」って言ってくれたんだけどね。
達郎と2人で名古屋で♪DOWN TOWNをやったこともあるしね。センチのゲストに達郎が一人で来てもらった時、あれは結構面白かったな。
【外伝5 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第14回 ワンステップ・フェスティバル、そして… 1974年

<見知らぬ人たちからシュガー・ベイブって呼ばれたの、初めてだった>

74年8月8日だったんだね、郡山ワンステップ・フェスティバルに出たのは。4日間ぐらいの野外イベントがあるって言われてたけど、あの頃はいちいちライヴの細かい背景なんか気にして無かったから。

でも例の京都の拾得(5月11日)の一件があってから、もう他流試合が嫌になってたんだ。

朝の8時に上野駅集合。で、その日の午後に本番だった。出る順番で覚えているのは、僕らの前が外道、それより前はわからない。外道の後に僕らで、その後がセンチ、はちみつぱい、トリは誰だったか忘れちゃった。

でも野外イベントはいろいろやったけど、これが一番良いイベントだった。和気あいあいとして、待遇も良かったし。ステージが終わったら、郡山から一駅行った温泉に連れていかれてね。そこでは麻雀やってるやつとかいろいろいて。

雰囲気が良いと思ったのはステージに出て行った時かな。出て行くまではあんまりわからなかった。楽屋がステージの裏じゃなかった。ちょっと離れた場所から移動したんだよ。事前に郡山は怖いって言う話を聞いていて。でも楽屋に入る時、ちょうど客入れの前で行列ができていて、その人たちの中から「あっ!シュガー・ベイブだ」って声がして。見知らぬ人たちからシュガー・ベイブって名前で呼ばれたの、その時が初めてだったんだ。あの頃からマニアックな奴っていたんだなと思ってwそれはよく覚えてる。

演奏したのは、まだ日が照っていて暑い時、夕方前かな。ステージにはマーシャルしかアンプがなかったんだ。マーシャルに触ったのはその時が初めてで、音の出し方がよくわからない。実はそれより前に、明治学院大学の文化祭に出たことがあって、73年の秋ごろかな。その時に置いてあったでっかいアンプ借りて、調子に乗ってフルボリュームでやったらとんでもないことになった。自分の音しか聞こえなくなって、そうすると、どんどんみんなボリュームを上げて、野口の音が全然聞こえないからぐしょぐしょになって。

だから、それ以来注意してたんだけど、マーシャルも大きいアンプなんでどうなることかと思ったけど、思ったよりずっと使いやすくて助かった。

そういえばこないだワンステップのライブ録音をCDで出したいって、音をもらって聴いたんだけど、演奏はともかく、音のバランスが最低で。これを金取って売ろうっていうのは、いくらなんでも無理だろう、って断った。多分PAのライン録り。だってMONOだもん、ステレオじゃなかった。野外のPAのラインは往々にして、ものすごいバランスのことが多いんだ。

それはともかく、会場の雰囲気は良かったよね。その後のロックだ、ロックじゃないみたいな教条性がまだ皆無だったから、外道の後にシュガー・ベイブなんて、おおらかさが存在してた。まだイベント自体の営利性とかも、それほど考えてない時代だったし。ラリってるような変な客もいなかった。出演したのがマイナーだったからかな、うだうだ野次を飛ばす奴もいないし。そういう意味でほんとによかった。

8月24日には千葉のセントラルプラザホールって書いてあるけどなんだろう? 斉藤哲夫と一緒の時かな。白井良明さんが哲夫のギタリストだった時? そうそう、それでどっちが高い声出るかって張り合ったっけw

8月30日3時から「テイクワン」て出てくるね。事務所練習とか、事務所って名前が出てくるよ、この辺から。

※テイクワンは風都市が74年の春に潰れた後に出来た事務所。前島洋児たちは新事務所IBSを作ったが、シュガー・ベイブは参加せず、山下洋輔トリオのマネージャーだった柏原卓らが新たに事務所テイクワンを立ち上げた。

 

<CMのおかげで自分の世界が広がった>

そうそう、IBSは事務所が飯倉にあったね。

9月2日に“シングル曲あげもう1曲”って手帳に書いてある。

9月5日には“キングトーンズ曲仕上げ”って。♪DOWN TOWNはこの頃にやってたんだね。

9月6日がCMハートチョコレート。大体に1ヵ月に1本 CMやってるんだね。ようやくお金が少しづつ回りだした頃だね。

9月4日、ルネ・シマールか、大阪厚生年金ね。東京は渋谷公会堂で9月14日、15日。ルネ・シマールはカナダの少年シンガーでアルファがらみでライブのオファーがきたの。僕と村松くん、美奈子とター坊の4人でコーラスをやった。ライブが残ってる。

9月17日午後7時からエレック、これがデモ。最初は♪蜃気楼の街、のデモテープ。SONGSのレコーディング開始は10月28日か。

CMで資生堂バスボン、バリーホワイトも観に行ってるね、この頃。75年になったら、もっと動いてるよ。仕事したもん。食えないからさ。

CMは大滝さんのを後ろで見てたじゃない。それで雰囲気は飲み込めてた。あとCMの仕事を仕切ってくれたのが大森昭男さんと牧村憲一さんだったから、こっちのメンタリティを分かってくれてたし、そんなに理不尽なことは言われなかったからね。大森さんはジェントルマンだから。

その前にも何回かCMやらされた事はあるけど、まぁその時は偉そうなプロデューサーと喧嘩になるとか、そういうのはあったよ。でもこの頃は大森さんとやるのがほとんどだったから、全然何の問題もなく、大森さんがちゃんと仕切ってくれた。でも、今から考えるとあの頃、コピーライターの伊藤アキラさんとか、色々すごい人がたくさんいたんだよね。でもあの当時大森さんが可愛がってたミュージシャンで、今も残ったのって、僕と井上鑑くんぐらいしかいないよね、あとは瀬尾一三さんか。

瀬尾さんもCMのコーラスでよく使ってくれたんだよ。コマーシャルはむしろ普通のスタジオミュージックよりも楽しかったな、気心知れてくると。CMって作家的な世界なの。自分でアレンジをしなくちゃいけないし。それとシュガーベイブ以外のプレーヤーを使えるから、ユカリを使ったり、ベースも田中章弘を使ったり、大滝さんをミキサーとして引っ張ってきたりしてね。

ミキサーと言えば一番最初のコマーシャルでミキシングをやってくれたのが伊豫部(いよべ)富治さんだった。伊豫部さんの次が松本裕くん、松本隆さんの弟ね。

あの当時、僕は21歳だし、CMの現場も代理店の若いのも22 、3歳で僕よりも少し上の人ばっかりだったしね。ミュージシャンもだんだん知らない人を入れてみたり、CMのおかげで自分の世界が広がっていった。

だから後に黒木真由美をやる時とか、全然知らないスタジオミュージシャンに入ってもらってもそんなに抵抗がなかったのは、やっぱりCMの仕事で知らない人とやってたからだね。

まず、絵を作る人って、ものすごくツッパってるの。それに今みたいにビデオなんてないから東洋現像所(現イマジカ)に行って、フィルムを見させられるか、絵コンテを渡されるか、なの。絵コンテを渡される場合は、フィルムがまだできてないから、撮ってきた映像とこっちの音楽をレコーディングの当日合わせるわけなのね。

結構ギャンブル的な仕事なんだよ。そういうことを21歳の時からやってるじゃない。

バンドだけじゃ絶対にそんなにフレキシブルな感じではできなかったし、それがまた面白かったんだよね。それこそ30秒の中に全てを入れるなきゃいけない。

それに詩は先でしょ。必ずコピーライターの詩で、それにメロディーをつけなきゃならないし、それでアレンジをどういう感じにするとか、それはかなり鍛えられたよね。プレゼンテーションも必要だし。

長門くんの後、柏原卓がマネージャーになるんだけど、彼はジャズの人でジャズミュージシャンは毎日のようにジャズクラブで演奏してるから、僕のCMの打ち合わせなんて、来てくれない。

だから自分の名刺を持って歩くようになったのね。そしたらある日、代理店の偉い人が「山下くん、ミュージシャンと言うのは名刺を持って歩いちゃいけない。ミュージシャンは顔で商売しなきゃいけない」って言ってくれたりね。そういう良い先達がたくさんいたの。そういう人に対する恩義もすごくあるんだ。そういうキャリアのミュージシャンはいないからね。つぶしが効くようになったのはコマーシャルのおかげだよね。

で、なんだかんだ言ったって、代理店の人はみんな堅気だからね。きちっとした一流大学出た常識的な考えを持っている人ばっかりじゃない、クライアントでもさ、すごく嫌な奴もいるし、すごく良い人もいたけどね、その人たちもおしなべて30代くらいでしょ。僕が初めて会った時、大森さんは37歳だったし。広告代理店の現場のディレクターとか20代後半くらい。レコード会社のディレクターもそんな感じじゃないかな、そういうちゃんとした人たちを見ることができていた。そうじゃないと、今の僕はないと思うよ。やっぱりサブカルチャーだけじゃね。

今から考えるとCMの仕事とかやってたから、今こうしていられるのかもね。

  

<CMのフィールドの中で自己主張をしよう、って強烈な自我はあった>

別にコマーシャルをやりたくてやったんじゃなくて、とにかく金になる事だったら何でも、ってね。でも運送屋のバイトはもうやりたくなかった。どうして所謂バイトの道へ行かなかったのかって言うと、怠け者なんだよ、きっとね。音楽だったら、好きなことだから気にならなかったの。別にコーラスだろうがCMだろうがスタジオだろうが。アレンジをさせてくれなきゃ受けないとか、それはポリシーで。まあボクが書き譜が弱かったってのもあるんだけど。そこで突っ張ったのは正解だったと思うよ。

スタジオミュージシャンでも何でも、基本的に読譜とか初見なんてのは、半年ぐらいやってれば、すらすら行くようになるのよ。体で覚えてね。でもね、そうなったらやばいんじゃないかと言う意識が、自分の中にはあったんだ。譜面を初見で演奏できる事は、スタジオミュージシャンにとってはひとつの条件だけど、それは同時にスタジオ仕事の歯車のひとつになることでもある。

読譜力っていうのは諸刃の剣でね。演奏者としては短時間で多くの仕事をこなせるようになるけど、パート譜からは全体が見えない。自分が演奏全体の中でどういう位置づけなのかって言う認識ができない。自分でコーラスアレンジをすると、オケの構造とかがよくわかるからね。まぁあの時ユーミンのプロジェクトとか、斉藤哲夫とか、頼んできてくれた人たちが理解があって、それが幸運だったんだよ。

哲夫なんてすごくはっきりしていて、こういうコーラスのライン、旋律にしてくれっていうのがあるんだ。でもハーモナイズができないから、僕がそのラインに合わせてアレンジして、時間差にしてみたり、広げてみたりすると喜ぶわけよ。哲夫にはそうしたはっきりしたポリシーがあったから、すごいやりやすかったね。ユーミンにしても、バックがキャラメル・ママだから、無言のうちに構成がきちっと完成しているわけ。そこに自分のパートとして、コーラスをどうやってハメればいいか、って考えるだけだからね。でも、そうじゃない仕事だとボツもたくさんあるんだ、実はw

だから、どんな種類の仕事でもできたわけじゃない、ってことも学べるわけ。

エレックだってケメ(佐藤公彦)の頃はいいの。矢野誠さんがアレンジしていたし、ケメも意外とセンスがバタ臭いから。けれど、生理的に合わなくて、どうしようもないのもあったんだ。そんな感じでシュガー・ベイブの74、75年で結構学んでいる。

そんな時代の中で、CMからヒットが生まれる時代になって行く。でもね、それは大滝さんにしろ僕にしろ「CMのフィールドの中でどれだけ自己主張するか」ってことをしたせいなんだ。三木鶏郎(とりろう)さんのコマーシャルも確かに面白いけど、あれはヒット曲じゃない。

だから♪ルージュの伝言の間奏を歌っているのは誰だろう、と思わせなきゃと。そういうあざとさと言ったらそれまでだけど、そういう自己主張をしよう、って強烈な自我はあったんだ。だからコマーシャルといえども埋没しない。それこそ「CM全集」を聴いてあれもそうだった、これもそうだった、て言う人がたくさん出てくる。そういう謎解きみたいなのは当時からあったからね。

あと基本的にはクライアントの買い手市場だから、こっちは別に営業してるわけじゃないからさ。こういう仕事は「もう一回お願いします」ってのが出てこないとダメなんだ。

リピーター、曲をまた書いてくださいとか、アレンジやってくださいとか、コーラスやってくださいとか。だから、それは自分の才能とか努力だけじゃなくて、それをちゃんと見極める向こうの才能も必要なわけで、だからユーミンの時のディレクターの有賀恒夫さんなんか、初めてコーラスを入れた直後に即日もう2曲頼むって言ってくれたりね。今の若い人たちでもあるんだろうけど、いかんせんラップ、ヒップホップじゃ、どんなマーケットにでもフィットすると言うわけにはいかない。

僕は運が良いことにミドル・オブ・ザ・ロードだったからね。ブルース・バンドじゃなかったから、きれいなメロディで、自分自身が歌手だったのが良かったんだね。最終的には歌で決着をつけられるから。それは運、不運で、曲書けても歌えない人だとそうはいかないし。だから作家の自我ってのはこの辺で鍛えられたんだよ。

 

<実はスタジオ・ミュージシャンとしてレコーディングに行ったこともある>

平行して進んでいたSONGSのアルバム作りにも(CM制作は)影響与えているでしょう。SONGSって基本的に非常にスタジオミュージック的な作り方をしているからね。初期はステージ用のアレンジを変えると言う発想なんてなかったんだけど、CMやスタジオ仕事をやるようになってから、どんどん変えていくようになったんだよね。

こないだSONGS30周年CDのボーナストラックのために♪いつも通りのシアターグリーンのライブを聴いたんだ。シアターグリーンでは3回やっているけど、アレンジが毎回違うの。試行錯誤っていうのもあるけど。♪蜃気楼の街もそれまで全然違うアレンジだったのが、SONGSでレコーディングしてからあのアレンジになった。

♪雨は手のひらにいっぱい、も完全にそう。ああいうのになってくるとCMやってる感じになる。面白かったんだよ、その頃そういうの。まだ若かったからさ。

僕は、ほんの数回だけど80年代の初め、純粋に雇われスタジオミュージシャンとしてのレコーディングに行ったことがあるんだよ。ギターを弾いてくれないかって言われて。マネージャーにも何も言わないで、自分でギターを担いで、自分でアンプを転がして行ってね。その時の向こうのレコード会社の連中は誰も僕の顔を知らなかったの。そこでよくわかったのは、スタジオミュージシャンて、こういう扱い方をされるのかって。自分はいつも作家かプロデューサーが、制作側の人間としてとしか行ったことがなかったでしょ。要するに時間いくらで雇われているミュージシャンてこういう扱われ方なんだなって。

どっちかって言うとフォーク系のレコーディングで、ディレクターは僕の顔を知らないわけ。ミキサーだけ僕の顔を知っていて、なんかどっかで見た顔だなって。で、2時間か3時間位セッションをしてて、こっちが誰かわかってくると態度が変わってくるのね。なかなか面白い体験だったよ。僕はそういう賃貸しミュージシャンやったことがなかったし、コーラスは基本的に絶対自分の譜面でしかやらないし。他人の書き譜は騙されてw岸田智史をやらされたのが1度、それと筒美京平さんに是非にと誘われて、僕と美奈子と2人で行って、太田裕美を2曲やった。他人の譜面でやったのはそんなものなの。

だから思い出してみると、どんな仕事でも、部分じゃなくて、全体像を把握してなきゃやらない、そんな仕事をやって来たんだ。CMはもちろん編曲は全部自分だしね。編曲をやらないとギャラも五千円か六千円、減るからさ。もったいないからね。そういうのが良かったんだろうね、きっと。

まだバンドとしてはレコード・デビューしてなかったけど。だからインディーライブだよね。74年の荻窪ロフトの開店の時にバンブーで♪I Shot the Sheriffのコーラスを手伝った記憶がある、美奈子と2人で。

それで10月28日からSONGSのレコーディングが始まるわけですよ。

【第14回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 外伝4 村松邦男インタビュー

<並木の家に遊びに行ったら、たまたま山下が居たんだ>

山下と初めて会ったのは高校時代。

もともとは僕が高校でバンドをやっていて、一年後輩に並木さんが居たの。並木さんは当時、文京高校の学生運動のリーダーをやりつつ、高田中学時代からの仲間の山下なんかとバンドを組んでいた。僕はそのことを最初知らなくてね。

僕らのバンドも池袋のヤマハが主催するWISに入ってて。そしたら「あっ、後輩が居る」って、それが並木だったんだけど。彼らのバンドがシニアで、僕らがジュニアハイ。エース、シニアハイ、シニア、ジュニアハイ、ジュニアの五段階ランクで。で、チキショーと思ってw  それをきっかけに並木と話すようになったの。

高校を卒業する頃に、それまでは学校で練習してたんだけど、卒業すると練習場所無くなっちゃうじゃない。あの頃って今みたいにリハスタがいっぱいある時代じゃないから。

並木にどこで練習してるか聞いたら家でやってるって。「えっ!」と。「家はなんなの?」「いや千坪くらい敷地があって」「ちょっと見せて」って、僕一人で遊びに行ったの。その時に山下がいて「あ、こんにちわ」って言うのが、一番最初の出会い。山下はたまたま遊びに来てたんだろうね。それが僕が高校3年だから、山下は高2じゃないかな。

そのあとうちのバンドで1回行って、まだ別宅が建っていなくて、蔵でやっていた時代だったけど、バンドでドカーンとやっている時にも山下が居たかな。それは覚えていない。それが高校卒業した年の夏くらい。そんな感じで、何か喋ったのかは覚えてないんだ。

自分のバンド名も覚えてないのよw それで僕が専門学校を卒業した年、だから‘72年の夏より前だったのかな、並木から電話かかってきて、「あの時バンドで使っていたエコーマシーンまだ持っていますか?」って言うの。「持っているよ、どうしたの?」「これこれこういうわけで自主制作のレコード作ってます」と。

僕はその頃音楽から遠ざかって、ストレスが溜まっていた。だから「貸してやれないこともないけど、覗きにいかせて」って、並木の家に2年ぶり位に行ったの。そしたら前に蔵だったところが、でっかい2階建ての家になっていて。それから毎週休みのたびに行ってたの。

山下の印象は口数が少ないというか、そんなにアクティブな感じはしなかったなぁ。あんまり印象は強くなかったよ。

 

<山下の歌でガーンとくると、これはたまらないなと思ったよ>

あの時代は一番みんなが目標失っていた頃じゃないかな。ちょうど高校3年の頃に学校がロックアウトになっちゃったから、夏休みはちょい後かな。

で、大学へ行くって言う意欲がガラガラと崩れちゃって、どうしていいか、全然わかんなかったのよね。

僕自身それまで割とノンポリだったから、楽器を買ったお金を返済するためのバイトをして。まぁ昼間は一応学校へ行く。成績はそんなに悪くはないんだけど、別に大学へ行くんだって言う意欲もなくって。目的がなかったよね。

でもね。今の高校生だと学校でバンドでやってるヤツは?って言うと、わーっと手を挙げるじゃない。あの頃うちの高校の同学年、50人で9クラス、それでバンドをやってるのって、僕らともう一つだけだった。

だから音楽をやるってのは結構特殊なことだったんだよ、当時は。こういう音楽やっていてお金を稼げるわけないと思ってたから、プロ志向はなかった。かといって、仕事をやりながら傍でバンドをやるとかって気もなかったから(バンドを)止めるつもりでいたんだと思う。

高校3年の時に学校がロックアウトになっていたでしょ。それで受験への意識がなくなってしまったの。ロックアウトは11月位に解けたとけど、正月を迎えて、さぁどうしようか、今更受験もないだろうなと思って、浪人するのもなんだしなぁって言う感じで、すぐに就職するつもりはさすがになかったから、なんとなくメガネ関係の技術の学校へ行ったの。

そんな時だから、並木の家は天国ですよ。だって、とにかく敷地がめちゃくちゃ広いところに、新築のテラスハウスみたいのがどーんとあって。で、横に階段があって、上るとでっかいダイニングキッチンがあるのね。別に部屋が2つあって、そこにみんな集まってやってるわけじゃない。信じられないというか、すごかった。アメリカ映画みたいというか。あの環境がなかったら、難しかっただろうね。

それで休みの水曜日か木曜日に毎週行くと誰かしら居て、泊まっちゃうわけよ。で、音出ししたりして、それで一時期、僕のバンドの仲間も呼んだの。ドラムもやってたやつ呼んで、いろんなセッションやって。10月とか11月位に学祭2つ出たのかな、混成で。意図的なものじゃなく、なんとなくね。

Add Some〜のイラストを描いた金子辰也の母校と、もう一つ美術学校だと思うけど、そこでやったのよ。その時にクイックシルバーとか♪サマー・イン・ザ・シティとかやったんだけど、山下の歌でガーンって出ると、これたまんないなぁって。やっぱり「この歌はすごい」と思って。それまでハードロックとかブルース系のロックとか、いくらギターでフレーズ弾いても、歌がそれにちっともなってなかったりしたからね。

僕のギターのスタイルはクラプトンの初期とか。ブルース・ブレイカーズの卒業生がいるじゃない、ジミーペイジとか。あれよりはミック・テイラーとかピーター・グリーンとか、ああいうホワイトブルースの、そんなにいっぱい弾かない人かな。

で、その学祭はツイン・リードだったわけ、鰐川と。鰐川はめちゃくちゃ速弾きする人なのよ、ディープパープルの♪ハイウェイスターとかね、あっち系。

Add Some〜はレコーディングしてる時から聴いてたけど、あれに入ってる時代の音楽って、ほとんど知らなかったの。ビーチボーイズは知っていても、いわゆる大ヒット曲ってやってないじゃない。だからあんまり知らなくって「へ〜っ」て言う感じだった。

 

<長崎でライブをやるんだもうこれはプロだって思った>

四谷のディスク・チャートに行ったのは2回か3回かな。’72年に1回か2回行って、73年の正月に新年会みたいなのをやって、あとは覚えてない。行ってるとは思うけど。後はもうシュガーベイブを作った後になっちゃうのかな。セッションはしてないと思うな。見学。何か運んだんだよ、確かアンプ。でもその辺は定かではない。

向こうもまだアマチュアなんだけど、そのセッションはこっちから見ると、なんかもうプロっぽいんだよね。憧れみたいなのがあった。本当は並木の家の方が恵まれているんだけど、でもなんか夜の世界に、営業が終わった後のお店でっていうのが、プロっぽかったよね。

鰐川は一緒に行ったと思う。並木は来てないと思うし、武川も来てないと思うんだよね。で、向こうにいたのは長門くんと小宮くん、野口明彦、ター坊とあと徳ちゃん(徳武弘文)もいたと思う。でも、長門くんとも最近その辺の話をするんだけど、結構みんなお互いに記憶が違うのが面白いw このあいだ野口と話した時も全然違ってたもん。

ター坊はその時に多分挨拶をしているはずなんだけど、あんまり印象に残ってないのよ。それで、73年の正月か2月か忘れたけど(山下から)「今度女性ボーカルのバックバンド作って、それで野音に出る。ついては一緒にやらないか」って言われた。で、それがター坊なんだけど。「いいよ、やろう」って言って。その年、73年4月に僕は会社を辞めちゃったんだよね。

それで大貫さんと鰐川も入れて、野口はまだ来てないけど、実際に4人で音出ししたのはその後くらいかな、3月か4月。野口が入ったのが5月位だね。

その後、しばらく何もないわけ。それでほとぼりが冷めて、1、2ヶ月経ってそれで大貫さんが成増に来て、音出ししたのよ。キャロル・キングのカバーとかやったんじゃないかな。いつの間にかバックバンドというのはなくて。その辺は曖昧です。

いや、音楽的に自分でも後で考えると不思議なんだけど、全然合わないわけよ。でも音楽が違おうが何しようが、誰かと一緒にバンドをやることの方が大事だった。音楽のスタイルも変えられるみたいなところがあって、バンドができる、って言うのが嬉しくて。それで多分OKしたんだと思う。カヴァーなり新曲なり書いてきて、やったことのない事ばかりで戸惑ったし。まず、それまでずっとディストーションかかったやつばっかりだったから、それなしで。それでコード譜を見ると、知らない数字ばっかりが書かれていて「なにこれ」みたいな。だから、いちから出直しで、将来どうなるとか、そういうことを考える余裕は無く。1曲1曲仕上げて3分半なり演奏できることの方が大事だった。それ演奏できないと、次にいけないわけだし。で、そんなことを2ヶ月、3ヶ月と続けていって、唐突に「長崎でライブをやる」って話を聞かされたときに「長崎でライブ、もうこれはプロなんだ」って思った。だって、ギャラはその時出た覚えは無いけど、旅費は出て、もうこれはプロだっていう。その2年前の高校卒業した時点には、音楽でプロになれるわけないと思っていた人が、突然ころっと。若気の至りというのはね〜。

 

<力量としてはめちゃくちゃ下手だった。でも特徴はあったと思う>

(73年8月の)長崎の後、新宿のラ・セーヌでやって、学園祭を3つぐらいやって(バンドの)ソロコンサートをやるまでの間は、あんまりスタイルとかそういう意識なかったっていうか。ま、山下がオリジナルを書いてくるのと、大貫さんが曲を書いてくるのと、後はカヴァーがあって、それをバンドでこなす事だけが頭の中にあって。

このシュガー・ベイブでやっている音楽っていうのは世の中でどういう位置づけか、他のプロや同時期に出て来た人たちの音楽と比べてどうか、っていうのは、全く考えなかった。他の状況を知らなかったのかな。‘74年の夏くらいから、いろんなところで出るようになって、対バンでいろんな演奏を見るようになって、うちらはこう、ってある程度意識が出てくるけど、73年の間はまだ学生サークルみたいなノリだったと思うんだよね。

まぁ、はっぴいえんど解散コンサート、9月(21日)に出てるじゃない? その近辺にちょっとだけココナツ・バンクなんかと総合リハがあって、そういうのを見たけど、それはそれで比べようがないんだよね、意識がそこに行かない。うまいなぁとは思うけど。(9.21で)文京公会堂になんか出ちゃっていいのかしら、っていう。それと(鈴木)茂のギターってカッコいいわ、と思って。ディストーションがかかってないけど、充分ロックできて、しかもそれまでシュガー・ベイブって下手っぴだったから、インプロビゼーション的なことって何もできない、決まったフレーズしかできないんだけど、茂を見てたら闊達(かったつ)として弾いてるじゃない。感動したね。こういうのありなんだ、って。

フレージングなんかは、初期は山下がイントロとかエンディングとか決めていたけど、レコーディングの頃くらいになってくると、結構自由なところがあったね。

野口はフレーズの事よりドラマーとしてのキャリアがないから、一から訓練しなくちゃいけなかったけど、僕と鰐川に関しては、例えば♪SHOWだと、イントロは指定な訳だけど、あとはコード譜が書いてあって、あとは何も言わない、だめな時は言うw

曲はこのバンドに入る前に作った事はあったけど、それだけの話で。日本語でロックをやれると思っていなかったから。はっぴいえんど聴いてもあんまり好きじゃなかったのね。だからシュガー・ベイブをやるときに、山下が日本語で作ってきたときにちょっと「へーっ」とか思ってたけど。

多分、半年くらいバンドをやっていて違和感がなくなってきた。慣れたら僕も何か出してみたいなとは思ったんだろうね。作曲は催促された記憶は無いからね。積極的に良いと思ってくれたかどうかわからないけど、一応自分で作ってきた曲は自分で歌うわけじゃない、みんなね。その時に積極的にこういうアレンジとかって言う話もないし、自分で作ってきたやつを自分でアレンジしなくちゃいけないんだけど、やっぱりジョージ・ハリスンみたいなものだよね。

作曲はシュガー・ベイブでは2曲だね。最初に♪うたたねを書いて。レコーディングするときになんかいまいちだねって話になって、もう1曲、♪ためいきばかり、を書いたんだよね。

選曲決定権というか、山下のワンマンはワンマンなんだけど、誰もそれに対して反論を述べない。山下はものすごく色々アクティブに考えていたとは思うんだけど、色々なことを考えた結果、こうやったほうがいいんじゃないって言うことを途中経過抜きにして、僕らに言う。で、僕らは何も考えてないから、あーそうなんだって。

全然渋々ではないよ。ワンマンだってことも、感じたことはないからね。別に言いたい事は言うし。まぁ選曲については、20曲もあってその中から10曲と言う話じゃないから。12、3曲の中から10曲選ぶって話でしょ。

ステージをやりながら、演奏して変わっていくっていうのはありますよ、やっぱり。対バンの人たちを見るじゃない? そうすると自分たちがどれくらい下手なのかとか。力量としてはめちゃくちゃ下手だった。でも、やっていることが全然違う音楽だったから、特徴はあったと思うけど。対バンしてきて、僕たちより下手だったバンドはいないだろうって感じだったからw

センチメンタル・シティ・ロマンスと知り合ったのもそんな最中で。彼らはかっこよかったよ、やっぱり。見てても全然うまいし。メンバー同士も仲が良かったから、泊まりに行ったりとか。(中野)督夫も一度、ウチの実家に泊まっているのかな。

野口が’75年にシュガー・ベイブを辞めることになって、センチに行くじゃない? で、行った後、大変だったらしい。督夫が野口に「あのさあ、♪SHOWってどうやってやるの?」とか。「あれ。どうなってるの」とかw センチ側にはシュガー・ベイブがものすごくインパクトが有ったんだって。

コーラスの仕事については、はっぴいえんどの解散コンサートは初めてづくしだから関係ないし、その後の「ジーガム」のCMも、続きと言ったら続きだから。

沢チエさんとか(亀淵)友香さんとか、ユーミンとか、この辺からザッと出てくるじゃない? コーラスが単体で一つの単品料理というか、アラカルトの一品として売り物になるっていうことが認められたんだろうね、この頃。

そのおかげで僕たちがいろんなレコーディングに行って、コーラスを入れて、それをやっている間は他人のを聞くわけだから、すごい勉強になった。

亀淵友香さんのライブって、その話を去年何かで読んで、コーラスをやったのは覚えてるんだけど、「(その場で)突然呼ばれてできるわけない」と思ってたんだけど。レコーディングやってたから、その譜面使ってたわけね、それで納得した。その時って矢野誠さんだよね。

沢チエさんの♪マッカーサー・パークはすごくよく覚えているw 大変だったもん。あの時初めてメロトロンの現物を見て「すごい」と思ったんだけど、本番で(メロトロンの)テープがおかしくなっちゃって、トラぶったりね

 

<シュガーは第二期メンバー時代の方がよく覚えている>

SONGSのレコーディング。初めてだったから大変と言えば大変、楽しいといえば楽しいし。あとから考えると結構スムーズに進んだと思うんだけど。

それまで全然経験のない人たちですから。

レコーディングに入る前に1ヶ月間くらいかな、新宿の御スタでリハーサルをやったけど、ほぼ毎日、お昼過ぎから始まって11時くらいまでリハやって、御スタから新宿駅まで歩いていたから。あの辺、お姉様とか、お姉様風のお兄さんとかすごく多くて、こっちはまだ若かったから、通るのが怖かった。

で、レコーディング入って2日後かな、野口が抜けることになったのは。反対とは誰も言わないんだけど、結構ショックだったと思うんだよね。で、別にリハもしてないのに、ユカリ(上原裕)が来て出来ちゃうと、もっとショックで。こっちは一生懸命リハやっているのに。

やっぱり初期のオリジナルメンバーの間っていうのは、どうしても学生サークル意識があったよね。で、ユカリと寺尾(次郎)が入ってプロ意識というか、アンダーグラウンドの匂いというか、大阪の文化というのも有るかもしれないけれど。

シュガー・ベイブの解散も結構唐突なのよ。’75年の秋口ぐらいから、この辺がめちゃくちゃ忙しかったんだけど、ナイアガラと切れたっていう話があるじゃない。

だけど大滝さんとしてはナイアガラの第2弾を出さなくちゃいけないんで、トライアングルにかかるわけだよね。

その頃から山下のソロの動きが濃くなっていったんですよ。実際にバンド内部ではっきりしたのは、’76年1月の玉川区民会館のライブの1週間前くらいに、新宿の喫茶店でメンバーが集まって打ち合わせした時に、実はこうこうで解散という通達があった。理由はユカリがシュガー・ベイブを抜けたいという。山下いわく、ユカリとやらないとシュガー・ベイブはもう意味はない、で解散、というふうに通達があったな、確か。バンド内では限界というか、どうするんだろうなと思っていたけど。でも通達あっても、特に誰も反論は無かった。

僕自身で言えばこの3月31日と4月1日の解散コンサートで終わるじゃない? でも何も考えてなかったもんね。しばらくボーっとしてたら大滝さんからちょっと手伝ってよって言われて。やっぱりでも、一番記憶にあるのはレコード出してから解散するまでの第二期メンバーの時代の方がよく覚えているね。第一期の頃って資料を見たりとか、他の人と話をしてて「あーそうだったっけ」っていうのは結構あったね。

第二期の方が多分一体感とかライブの手ごたえとか、そういうのがあったと思うんだけど、山下からするとテクニカルな面で、自分のやりたい事とバンドに期待できることが見えてきたと思う。最初はとりあえずこのメンツで格好つけなきゃいけない、と言う事ばかり考えていたけど、レコーディングを契機に、バンドがバンドらしくなっていくのと裏腹に、次の展開を考え始めていたのかもしれないね。

シュガーベイブを解散して、しばらくはボーっとしてて、大滝さんから誘われて、ナイアガラのセッションをずっとやっていた頃に、僕はこの先どうするんだろうと思って。その当時フュージョンがすごく流行っていて、ギタリストとしては無理だと思ったから、アレンジャーの勉強してアレンジャーとして仕事が来るまでやっていたんです、大滝さんの仕事を。

で、いざアレンジの仕事をしだした82年位から90年位まではシュガー・ベイブって自分の中でほとんど無くなっていたんだよね。

ちょうどSONGSを再発したのは94年で、その頃また若者たちがこれを聴くようになって、そうすると若いミュージシャンとかアーティストの卵から、その頃の話を聞かれて、だんだん変わってきたように思う。でもまだ抹殺していたんだよね、抹殺というか…

思い出したくないんじゃなくて、めんどくさかったのと、僕はそんなに今はシュガー・ベイブはどうでもいいんだって言う気持ちがあったんです。

それで2000年を超えた位からかな、現実的にはシュガー・ベイブがなかったら今の僕はないし、避けて通るとダメだなと思って。

それで今ウェブで小説書いてるんだけど、記憶があまり定かでないので、長門くんとかに聞いているうちに、記憶違いとか、いろんなことがこんがらががっていたのが、結構ほぐれてきたんですよ。

これを書いているのは、歴史的資料として何年何月にこういうことがあったとか、それはいろんな所でみんな知ってるじゃない? でも、その時にバンドの中の雰囲気がどうだったのか、というのはわからないでしょ。それがちょっとでも味わえればいいな、と思って。

 

村松邦男「あるバンドの物語」

http://www.net-sprout.com/

 

【外伝4 了】

 

 

 

 

ヒストリーオブ山下達郎 外伝3 大貫妙子インタビュー

<矢野さんが来たために三輪車は壊れてしまったのw>

シュガー・ベイブ以前は、私と男性二人で「三輪車」というフォークグループをやっていて、その三人でデビュー予定だったんです。

その頃私は御茶美(お茶の水美術学院)に通っていたの。音楽は小さい頃から好きで、ギターも弾いていたけどあくまで趣味だったし。美術の方に進もうと思ってたのね。御茶美は受験するための学校だから、ものすごい競争なんですよ。課題がすごくて、1週間休んだらもうついていけなくなっちゃう。毎日デッサンの日々で、巨大な画板を持って中央線で。ラッシュだから画板を頭の上に抱えながら、そのうち肩こりになって腕が上がらなくなって、デッサンができなくなったの。それで赤外線治療に通うようになって、リハビリをしている間に、これはもうついていけないと、学校行かなくなったんですよ。

牽引機って首のところにベルトをかけて引っ張り上げるんだけれど、あんなもの今は無いよねw まぁそういうことを続けて、いつの間にかだいぶ良くなって。何もしないわけにはいかないから、手っ取り早く喫茶店でアルバイトを始めたんです。

五反田の「緑園」と言う、昼間は労働者がずっと新聞を読んでるようなw 3階まであって、2階にちっちゃいブースみたいなのがあって、そこにマイクとかあるんですよ。そこでレコードをかけたりしてたのかな。有線とか無かったので。結構暇な時間もあって、それで店の子と「何やってんの?」「何もやってないけど音楽が好きで」なんて話をしてて「ギターなんかも弾くんだよ」って、歌もカヴァーとかしてたので。そしたら店長が「それならそこのブースで歌えば」ってw「ここで歌えばレコードをかけるのと同じじゃん」「午後の1、2時間やっていいよ」って。

一番お客さんがいない時に私としてはコーヒー運んでいるよりは歌っている方が楽しいわけ。同じバイト代もらうなら歌っている方がいいなと思ってwもうほんと若い頃って怖いものはないっていうか、恥ずかしいとか、こんなとこじゃ嫌とか思わない。それで歌ったの。結構迷惑だったと思うよお客さんはw

ギターの弾き語りでキャロルキングの♪It's too lateとかね。

でも同じ曲ばっかりやっているわけにいかないし。レパートリーを増やそうと思って楽曲集を買いに渋谷のヤマハに行ったんです。その頃は髪の毛が腰ぐらいまであって、マキシというのが流行ってた時代で、床から10センチ位の長さの真っ黒なベルベットのコートを着ていて、喫茶店の帰りだったからギターを持って。それは目立つよね。

その時2人の男の子が声をかけてきて「もしかして音楽やっている方ですか?」「アマチュアですけど」って。でも、ギター持ってなかったら声かけてこなかったと思うのね。ちょっとお話ししてもいいですか?「まぁいいわよ」みたいなw それで話したら彼らはフォークなんだけど2人でやっていて、バンドの中に女性ボーカルが入ると良いな、と思っていると。私は高校時代からアマチュアでいろんなバンドを掛け持ちでやっていたのね、他校の子と。だから、そういうのは結構慣れていて。

「僕たち実はワーナー・パイオニアってところにいて」「えー、レコード会社じゃん」とか思いながら「よかったら僕らのプロデューサーに紹介したので、いちど会ってください」って、そんな話あるわけないと思って最初は信用してなかったけど。でも、まあいいや、行ってみようと思って行ったら本当の話だった。で、大野和子さんとおっしゃる女性のプロデューサーの前で歌ったら気に入ってもらえて、3人でバンドを組むことになったんです。

曲は基本的にオリジナルで、私も書いたし、他のメンバーの書いた曲も歌ったけれど、あまり私の趣味じゃなかったw そのバンドでいろいろなイベントにも出たんですよ。当時2人だったオフコースとか、かぐや姫とか一緒に。ちょうど赤い鳥の♪竹田の子守唄が大ヒットした頃で、そういう和製フォークを目指していたらどうかと言われて。

私の声も、どっちかって言うときれいな声の方でしょ?憧れはジャニス・ジョプリンだったんですけどw それで北原白秋の詩に曲をつけて、歌ってみたりしていたんです。それで次にレコード・デビューをしようってことになって、音楽監督として矢野誠さんがいらしたわけです。

それが矢野さんとの初対面で、矢野さんが来る以前に、シングルを出すとなればやっぱり作品はプロに頼む、みたいな話にどうしてもなって、山川啓介さんが詩を書いてくださって、曲はメンバーの広瀬くんて言う人が書いたんですけど、ちょっと演歌っぽい曲で、えーこれでデビューするのって思って、ものすごく気が重かった。

そんな時に矢野さんが来て、いろいろ話してる間に、私が好きなものとか、私の歌詞とか、オリジナルの曲とか聴いてくれて「ター坊はこのバンドには合わないよ、もっといい連中がいるから、その子達に会ってみれば」って言うので、もう私、喉から手が出るくらい嬉しくって「そうします!」って。それでディスク・チャートに集まるメンバーと会うようになって結局バンドは自然消滅。矢野さんが来たために三輪車は壊れてしまったのw

 

<ディスク・チャートの頃がそれまでの人生で最高の日々だったと思うw>

初めてディスク・チャートに行った時ははっきり覚えていないんです。連れて行ってくれたのかな。なんか「夜みんなで時々セッションしてるんだよ」みたいな感じだったと思う。そこには今ではテレビのプロデューサーになった人とか、いろんな人が集まっていた。日野原さんとか。ギターの徳武くんや小宮くんとか。それで大貫妙子をソロデビューさせようと言うことになって、デモテープを作りましょうと毎晩みんなでやってたんです。店がハネてから朝まで。録音係を長門さんがやってくれて。その頃に録った楽曲が最初のソロアルバムに入ってる♪午后の休息なの。

曲作りは三輪車時代と多分あまり変わってないと思います。まぁ今の方が多少はあの頃よりもわかりやすくなっていると思うけれど。三輪車当時はメロディーが難しいって言われてたんです。でも矢野さんだけはいいって言ってくれたw

私は井の頭線沿線で生まれて育ったんで、テリトリーは吉祥寺と渋谷だったんです。そのどっちかにいつもいたわけ。高校時代からあまり友達がいなくて、自分と同じように考えたり自分と同じくらい音楽が好きな人間ていなかったんです。

それでつまらないからひとりで居たんです。ジャズ喫茶の「ファンキー」とか「メグ」とか、渋谷だったら「ブラックホーク」、そのどっちかにしょっちゅう行ってたわけ。音楽聴いている方が良かったし。まだヒッピーの時代だから70年初頭って。そういう系の人がいっぱいいたり、渋谷に東由多加さんの事務所があったりして、東京キッドブラザース、そこの事務所にも入り浸っていたの。

そっちは芝居系だから、音楽よりももっと深刻な感じなんだけど、ただそういう何か共有できる仲間が欲しかっただけ。私たちは学生運動の一番最後の世代で、そういうものに参加しているつもりもあって。難しい本だと思いながら授業中に「日本イデオロギー論」とか読んでいたから。先生に「あなた、なんでそんなの読んでるの?」とか言われて。「別にいいでしょ」って感じだった。嫌な生徒だと思われていたと思う。

本当はそういうところに入っていく時も、すごくドキドキしているのよ。ものすごく緊張しているんだけど顔には出さないというかw 今はそういうドキドキする場所はなくなってしまったけどw

ディスク・チャートには馴染めましたよ。だって、自分の好きな系統の音楽だし「ブラックホーク」とか言っても会話禁止だし。今思うと閉鎖的な感じでしたよね。だからディスクチャートの仲間はすごく楽しくて、多分あの時代、あの頃が、それまでの生きてきた中で人生最高の日々だったと思うw

ウェイトレスもしていたので毎日行ってましたね。でも、デモテープ録りは週一位だったと思う、多分。そこに山下くんが登場したわけです。山下くんのAdd Some Music To Your Dayはお店に飾っていたような気がします。山下くんが現れる前にはそのレコードは聴いてなかったですね。

 

<山下くんにバンドやりませんか?と言われたような気がする>

山下くんはおとなしかったです。遠巻きに観てたような感じ。積極的に参加するでもなく。

それである日、また朝方まで練習していて、もうやめようかって言う頃に、その辺にあった誰かのギターで、彼が弾き始めた記憶が。長門さんのインタビューを読むとギターしか弾いてないって書いてあるんだけど、私は歌ってた記憶があるのね、何かのカバーを。何の曲だったか、ちょっと忘れてしまったけれど。この人は「歌がうまい!」ってすごく強く印象に残っている。それから話をするようになって。でも、彼は私のデモテープ作りには参加しなかった。俺にもやらせて、とか言う人いるじゃない。そういう人も好きだけど、彼はその時全然そういうタイプじゃなかった。今ならいいそうですけどねw でも全然そんな感じじゃなくて、聞いているっていうか見ているっていうか。とにかくギターを持って、そこで歌っていた姿は強烈に覚えているけど、他の事はあまり思い出せない。クマみたいなあの歩き方で、ウロウロしてたのは見ているけどw

とにかく私は昔のことを右から左へ忘れてしまうので。

多分私と山下くんが話をするようになって「バンドやっぱりやりません?」って言われたような気がするんですよね。「ハーモニーもできるバンドをやりたい」って彼が言ったのを覚えてる。で、「そこに女性の声があると嬉しい」と、そんな話でした。「よかったらやりません?」みたいな。そしたら自分のより、そっちのほうが面白そうだなって、デモテープ作りもどこかに消えてなくなったw そのデモテープはいまだに残っているんだけれど、それはもう完成しないまま、どこかで終わっちゃって、私はシュガー・ベイブの方へ行っちゃった。

マチュア・バンドはいくつもやっていたし、バンドでやるのはすごく楽しい事は知っていたし。やっぱりバンドのほうがいいって気持ちがあったんです。山下くんて話すと、意外と強引というか熱心なんです。もちろん良い意味で。私たちの世代は学生運動の一番最後の世代なんだけど、オルグ(組織化)って言葉が残っていて、多分そういうことが上手な人なんだろうなと思いましたw

とりあえず練習場所どうするのって言ったら、並木さんて言う友達がいるから彼の家を使わせてもらおう、と言うことになったんです。「私、ギター弾くんです」って言ったら「あんたさぁ」って。

「あんた」と「ター坊」がいつも混ざってるんだけど「ピアノ弾けるんだよね?」「いや、ピアノは習っていたけど、いま家にはピアノがないし、もう何年も弾いてないから」と。「しかもクラシックピアノだから、CとかAマイナーとかの世界じゃない。コードネームとかわからないよ」って言ったら、「練習すればすぐ思い出すし、並木さんところにピアノはあるんだよ。古いやつだけど」みたいな感じでw

で、「ギターは3人もいらない」「女の子はピアノがいいんじゃない」って。女はピアノ弾き発言はそこから出たw。確かに3人でギターも変だって納得させられちゃった。それから紙のピアノの練習が始まるのよ。紙に鍵盤書いて、机に貼って、紙の上で練習して。それで三浦ピアノ、渋谷の宮益坂の。あそこに小さいピアノの練習部屋があって、そこ行って紙の上で練習したものを、音に出して弾いて覚えたの、次のリハーサルまでに。もう大変な努力ですよ。簡単に言うけど山下くんは。

私は努力家じゃないけど、やらなきゃならないでしょ。でも三浦ピアノのスタジオ代は自分で出してたから、バイトはしてるわけです。その間もずっと。でも好きな音楽の為だったから、嫌じゃなかった。だってピアノは小学校3年から弾いてなかったから。

でもおかげで譜面は読めたし、意外と思い出すのは早かったかな。一番の問題は、手が小さいので、右手がオクターブ届かないんです。ギリギリなの。特にフェンダーローズみたいに鍵盤のタッチが重いエレクトリックピアノは良い音が出ない。スカスカ。だから自分はピアノには向いてないと、自分の中で決めつけていたところがある。でもまぁ、できるところまではやろうと。

シュガー・ベイブ組んだのは私が20歳位の時なんですけど、それで親が20歳のお祝いを買ってくれると。それで「着物はいらないから電子ピアノ買って」とお願いして。で、ビートルズが使っていたホーナーの電子ピアノ買ってもらったの。それで、やっと紙のピアノともお別れできたんです。

その電子ピアノは、途中からPAの会社に預けたら、なくなっちゃって。でも何故か未だにピアノの足だけが家にあるw なんで足だけ取ってあるのか、わからないんだけど。すごく良い楽器だったの。鍵盤も軽いし。ただ、ちょっとチューニングが他の楽器と合わなくて、ステージではなかなか使えなかった。だからシュガー・ベイブのキーボードって言うと、ウーリッツァーって印象が自分の中にありますね。

 

シュガー・ベイブでは自分の表現なんて考えてもいなかった>

シュガーベイブは私の中では山下くんのバンドですね。彼がリーダーだったし、音楽の主導権を全て彼が握ってたわけじゃないけど、彼以上のアイディアを中々みんなが出さなかったのもあるし。私が書いた曲って、バンドではできないようなものが多かったんですよ。山下くんは曲を書く時に、サウンドを想定して書いてくるから形になりやすい。このバンドだったらこういう曲って、アレンジが頭の中で先行している。

私の場合は、ただメロディーを書いて、コレって言うとみんなで「ん〜」って考える。すごく時間がかかって色々やってみるんだけど、なかなか形にならない。で、ボツになったのもあるし。それに山下くんと私は、音楽の趣味が被るところもあるんですけど、違うところもあったし。例えばビーチボーイズとかって私はそんなに好きな方ではなかった。

シュガー・ベイブの中で自分の表現なんて考えてもいなかった。今、自分の目の前にあることをこなすだけで精一杯で。バンドの練習はよくしてましたね、仕事はないのにw

でも、その時が一番楽しかった。喧嘩もいっぱいしたけど。それにこの先このバンドで食べていこうなんてことも考えてないし、だから表現とかそんなこと以前の状況。とにかく次のライブがあるから、それまでに練習を一生懸命しよう、と。それでライブをやって、その録ってみたものを聴いたら、ものすごく下手で落ち込み、みたいな繰り返しですよw

それはデビュー後ももちろん。ソロになってからも「いや〜ひどい!」って、もうずっと続きましたね。

私、シュガー・ベイブ組むまでは、自分の歌がそんなに下手だとは思ってなかったんです。もうちょっと普通に、素直に歌ってたんです。でもシュガー・ベイブ組んでから、「ワーッ」って声出すようにしなきゃいけないのか、って、それが合ってなかったっていうか。だから、もうちょっとボソボソとした普通の細い声で歌っている分には、下手じゃないのにと思っていた私が、シュガー・ベイブになった途端にやっぱりものすごく歌が下手、そういう自分に出会って。そのコンプレックスばかり引きずりました。

山下くんが上手すぎたと言うのもあったけど。音楽っていうのは私だけじゃなくて、デビューしてくるみんなもそうだろうけど、自分が思い描いているようには完成しないんですよ。必ずどこかで自分を乗り越えなければならない時がある。あるいは新しい出会いで、自分を発見することもある。それは長く続けて振り返った時、初めて自分のやってきた道が見えるって言う。

だから私、一昨年に2枚組のアンソロジーを出したときに、やっと自分でやってきた事がそれで少し見えた程度なの。だから分かるわけないんですよ、シュガー・ベイブ時代なんて。

山下君は「僕はスタイルがあって音楽をやる。ター坊はアイデンティティで音楽を作る人間だから、曲なり、歌詞ありきだから、それをどうやって形にしていくかは組む相手によって違うし、探すのは大変だよね。だから変わっていくのは当然だし、それは君と僕との圧倒的な違いだね」て言ってましたけどね。

村松くんも良いポジションにいたんですよね。全員が東京出身で、東京って言うものの空気を閉じ込めていたところも大きいですよね。

とにかく私はほとんどステージの時は幕の中だったんで。ステージの横に幕があるじゃないですか、そこに入っちゃうわけ、ステージが狭いと。私の逆方向のお客さんにしか見えない。♪風の世界とか自分がエレピを弾く時だけ前出て行くだけだから、髪も長くて顔が半分隠れていて。

常にフロントに立っていた山下くんのように客席は見えていなかったので、どんなライブだったか印象が希薄なんです。

ステージはあまり好きじゃないと思います。今でも怖いですw

1993.9.21も、あの頃はルネ・シマールのコーラスもやっていたし、あまり覚えていません。はっぴいえんどを初めて見たのは三輪車の頃かな。すごくかっこいい音楽を作るグループだと思って見に行ったら、全員が下向いて演奏していて。その時の演奏が良くなくて、すごくがっかりしたのを覚えてますwどこかのホールでしたけど。とにかくメンバーは誰も前を見てる人がいない。大滝さんもポケットに手を突っ込んで、下向いて歌ってる感じ。でも風都市に入るって言う話になった時は、やっぱりはっぴいえんどの事務所って言うイメージがあったので嬉しかったけど、実現しなかったですね。

その後、山下洋輔さんの事務所にお世話になりましたが、シュガー・ベイブってやっぱりそういう方が合ってたかな、と、今思えば。その時代、ジャズの世界って何でもあり、無茶苦茶な話もいっぱい聞いてて、なんだかたくましくなった気がします。何か問題があっても「何とかなるよ、そんなの」って言うノリで、ほんと何とかしちゃうマネージャーだったし。

私たちはエスタブリッシュじゃないバンドだったから。

 

シュガー・ベイブを聞く人は山下君のルーツまで遡るべきですよね>

(73年夏の)長崎のシュガー・ベイブの初ライブは良かったですよ。長崎まで私と山下くんと、もうひとり、車に乗って行ったの。フェリーを使って。帰りにラムネを買って帰ってきたのは覚えてる。飲み口のところにビー玉が入ってる。長崎でそれを見て「懐かしい、こんなの東京で今どき売ってない」って1ケースか2ケース買って車の後ろの席に積むから、私の場所がなくなっちゃって、ものすごく帰りしんどかったの。ステージよりそんなことばかり覚えてるw 若い時は体力ありますよね。

亀淵友香さんのライブに遊びに行ったら、急にステージにあげられた…あった気がするそんなこと。山下くんは仕事のこと、よく覚えてるんですよね、びっくりするくらい。でも、私ほとんど覚えてないんです。

めんたんぴんと一緒になったりとか、金子マリバックスバニーと一緒だったりとか。そういう人たちがいたのは覚えてるんだけど、どこで演奏したのかは覚えてない。フロントにいる立場じゃなかったからか、後ろに引っ込んじゃってるからか。ホントに幕の中で隠れちゃう時もあったし。そういえば「あんたはゴキブリみたいにいつも隅っこにいるね」と山下くんに言われたことがあったw 好きで隅にいたわけでもないのに。

でも社交性はなかったですね、私は。

自分の曲をやるのがすごく嫌だったの。シュガー・ベイブの山下くんの曲って、かなり完成されていたんです。当然自分でアレンジしてるからだけど、私の曲も完成はしてるけど、どこかこのアレンジは違うと思いながらやっていた曲もあって。でも、それをどうすればもっと良くなるかがわからなかったし、多分それをするにはもっと高度な演奏が必要だった。それもできない自分がいて、だから自分の曲を歌う場面になると、今までの流れが壊れちゃうんじゃないかと、それがものすごく嫌だった。お客さんも退屈だろうな、私の歌なんかじゃ、とか思ってたもん自分でw

シュガー・ベイブはメンバーチェンジして、よりシェイプアップされた感じしましたけどね。それまではお友達バンドって感じだったけど。多少プロフェッショナルにやらなきゃいけないのかな、っていう気にはなりました。特にリズムセクションはすごく大事だから、アレンジの幅も広がりました。

他バンドとの比較? 聴けば分かるものね。リハーサルの時に他のバンド見るでしょ、めんたんぴんとかバックスバニーとか、うまいなぁ、私たち下手だなぁと思うわけです、心の中で。それは最後まで思ってました。

ただ、私たちは演奏が上手いとか、そういうことじゃないカラーを持ったバンドだと思っていましたから。実は結構難しいこともやってたんですよね、考えてみると。全部キメごとばかりだったし。

解散して、すぐにバンド組みたいって思ったんです。ソロってつまんないんですよ。やっぱり一緒にやってくれる仲間がいないと。でも結局1人で来ちゃった。バンドを作ろうとした気も何回かあったんですよ。でも人をまとめる才能がないんですね、きっと。ある意味マメでないと。それに私は演奏家ではないので、楽器を弾く人同士だとわりあい集まりやすいんですけど。でも幸運にも、その都度音楽パートナーとの出会いがあったので。

1994年シングス・シュガー・ベイブはできてよかった。その前にもシュガー・ベイブ再現のライブをやろうって言う話はあったんですけど。その頃みんなリユニオンとかしだして。でもそれで喜ぶのはほんとに一部の人で、その人が若い時に見た、心の中にあるシュガー・ベイブのままでいたほうがいいんじゃないかっていうのが私の考えだったんですね。

でもこの話が来た時は、これはシュガー・ベイブ再結成じゃないし、こういうのならいいよって。ずいぶん自分も大人になったと思いました。ステージもなんて堂々としているんだろう、ってwやってみて。

いま若い人が「SONGS」を聴いてくれていて。山下君が言っていましたけど「サブカルチャーはやっぱりサブカルチャーのまま、今はサブカルチャーがないから。僕たちみたいなサブカルチャーな音楽を新鮮に思うんじゃないかな」って。でも嬉しいですよね、30年も前なのに。

例えば、私の音楽のルーツはクラシックも含めて全部洋楽なんですよね。

シュガー・ベイブを聞く子達がシュガー・ベイブを経由して私たちが聞いてきた音楽のルーツまで遡ってくれると良いんですよね。

私たちの下のある世代って、日本の音楽を聴いて、そこで止まっちゃってるのね。自分たちが聴いている音楽家たちが何を聴いてきたかまでなかなか遡らない。私の頭を踏み台にして、その向こうにあるもののところまで行ってくれるといいんだけど。良い音楽がいっぱいあるから。

だからシュガー・ベイブを聞く人は山下くんのルーツまで遡るべきですよね。もちろん山下くんのコアなファンの中には、そういう方がいると思いますけど。シュガー・ベイブぽいバンドとか、コードが似てるとか、時々聞きますけども、私たちを真似するより、私たちが手本としてきた音楽を勉強したほうがいいと思いますw

ちなみに私のこの時代のステージ衣装って自分で作ったりしてました。フラワーチルドレンな時代でしたから。巻きスカートとかそういうの流行ってたんです、70年代は。ジーンズのスカートとか。だから一回りして、そんなに古くない感じだと思うんですけど。とっておけばよかったかなw

【外伝3 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第13回 初めての関西ツアー 1974年

亀渕友香さんのステージの翌日、関西ツアーに出た>
74年から75年頃のスケジュール帳が出てきたよ。74年の5月、ライブで生まれて初めて大阪行ったんだよ。よく話に出てくる京都の拾得でライブをやったのが74年5月11日だね。
で、大阪へ行く前の日が、前回話した亀渕友香さんのコンサート(5月7日青山タワーホール)。その日は午前中にCMの打ち合わせをしてるね、多分コカ・コーラのコーラスかな。それで4時に青山タワーホールに行ってる。それで翌8日に大阪に行ってるんだ。
4月3日がデモテープ録り。その前日に御苑スタジオで練習している。
5月22日に写真、これはシュガーベイブのアーティスト写真だね。ケン影岡が撮ったんだ。ナイアガラのスタッフの知人でね。でもシュガー・ベイブの写真が、ケン影岡と言う不思議な時代w   このときの写真は結構使われたよ、あの当時。
この頃にCMって書いてあるけどこれが「三ツ矢フルーツソーダ」だね、多分。この頃からCMの仕事が入ってくるようになって、ようやく食えるようになっていったんだよ。5月の頭までが赤貧洗うがごとき、ってやつねw

<はじめての関西ではカルチャーショックばかりだった>
関西ツアーは誰が仕込んだんだろう、長門くんだろうね、多分。
新大阪まで(福岡)風太とオチカ(近本隆)がジープで迎えに来て、そのまま須磨のラジオ関西のサテライト・スタジオに連れていかれて、公録ライブをやった。6時半本番て書いてあるから、昼に行ってリハやって、確か生放送だった。
お客さん入れて、アマチュアバンドが前座でやって。そのアマチュアバンドがビブラフォンの入ったバンドで、メンバーの中に、後にソニーに入った吉田くんて言う人が居たっけ。このときはまだお気楽な雰囲気で、ラジオ関西のスタジオが小綺麗だったと言う位で、特別記憶には残ってない。とにかくこのツアーは拾得で記憶が全部飛んじゃってるからねw
で、その夜に大阪へ戻って、有名な喫茶店ディランへ連れて行かれてお茶飲んでたらヒロシ(末次博嗣/ごまのはえ→舞台監督)が入ってきた。オールバックで革ジャン着て、サングラスで「お前らかぁコラァ、シュガー・ベイブは!」って、ドジャベ(阿部登)と2人で入ってきて。コレがヒロシとの最初の出会いだった。
そこから風太たちに近くの旅館に連れていかれて、そこに銀次が遊びに来て。それが5月8日。
それで、翌5月9日が六番町コンサート。出演者は布谷文夫さんと僕たちと、後はスターキング・デリシャス。出演順は覚えてない。六番町コンサートは大阪で定期的にやっていたイベントで、その時は布谷さんのバックを、銀次や上原ユカリがやったの。スターキング・デリシャスはスミやん(角谷安彦/ごまのはえ)が作った。彼が大阪に帰ったのが9.21の前だから8月位の話でしょう。だからまだ大阪へ帰って1年経ってない頃に、彼はスタキンを作ってた。
5月10日には大阪の喫茶店デュークでワンマン。客が10人かそこら。一列縦隊で演奏したって言う有名なやつね。
そして11日に京都へ移動して、拾得でライブをやって京都に泊まって、12日に新幹線で帰ってきた。
この4泊5日は本当にすごかったな。
21歳で生まれて初めて行った大阪はカルチャーショック。何しろ関西なんて修学旅行しか行ったことないんだから。修学旅行でも大阪には行っていないの。
まず言語がさ。僕自身が後に大阪からブレイクすることを思えば、嘘みたいな話だけどw 
とにかく何が一番強力だったかと言うと、よせばいいのに大阪の蕎麦屋に行ったんだよ、初日に。それで「すいませんたぬきうどんください」って言ったら、おっさんが「なんやそれ、んなもん、あらへんがな」って、そういう言い方なの。なんでないの?まだ素直な子供だったから。今だったら「なんだよ、このやろう」と思うけど、その頃はもうちょっとナイーブだったから真面目に考えちゃって。
大阪ではキツネはうどんで、タヌキは蕎麦なんだよね。だから「たぬきうどん」なんてないんだよね。カルチャーショックだよ、こっちは東京生まれ、東京育ちだから。
もう、道を歩いていると怖いわけ。ニューヨークに行った時よりも怖かったw しょうがないから大阪で時間を潰すために映画見ようと。ブルース・リーの映画をやっていたんだけど、そういう暴力的な映画は嫌だと思って「暗黒街のふたり」って言うアラン・ドロンのフランス映画を見たら、最後にアラン・ドロンがギロチンで処刑されるんだ。もっと暗くなってさw
ろくな思い出がないんだこの時。たぬきうどんで罵声を浴びられて、ホテルに帰ったら、銀次が来て、どういう風向きが袋叩きにあった話になった。野口は高校の野球部を辞める時リンチにあったと言うし、銀次はアパート暮らしの時にヤーさんに袋叩きにされて出血、みたいな話で。なんかチョー暗くなってさw
それで最後のとどめが拾得だもんね、すごいよ。一番前に座っているお兄ちゃんが、一升瓶抱えて寝てるんだ。で、僕がMCやってる時にいきなりがばっと起きて「おい、やめろやお前ら。もう京都来るな」とか言ってまた寝ちゃうw
楽屋でヘコんでたもん、全員で。そしたら山岸(潤史)が入ってきて「いろいろあるけど心配あらへん。ここで一番怖いのは外人やから。外人はノってたから大丈夫」って、慰めになってないw
でも、外人が暴れるのが一番やばいんだって、後で聞いたら。山岸とは1回東京で会ってるの、ウエストロード・ブルースバンドで来たときに紹介してもらってた。

<スモーキー・メディスンとのステージはみんな燃えたよ>
京都から帰ってきて、1週間後に渋谷ジャンジャン。ジャンジャンの昼って4月ごろからやっているはずだよ。池袋シアターグリーンは6月26日って書いてあるけど、これが最初かな。
シアターグリーンでは2バンド。順番はあまり関係がない。大体ジャンジャン昼やシアターグリーンは2バンドって言うより、例えば、とみたいちろうシュガー・ベイブ、南正人とシュガー・ベイブとかフォーク+ロックってのが多かったんだよ。
そういう場合は必ず編成が少ない彼らが先にやって、シュガー・ベイブが後とかね。そういうパターンが多いから、バンド同士って意外と珍しかったの。だから、共演者はほとんどフォークシンガーで、とみたいちろうが2回、あと誰だっけなぁ。ジャンジャンでVSOPなんてとんでもない対バンもあったなwシアターグリーンはセンチ(メンタル・シティ・ロマンス)じゃないときは久保田麻琴さんとかね、あと南正人さん。それからジャンジャンでは出演予定の小坂忠さんが歯を悪くして入院、忠さんのバックをやってた葡萄畑との対バンになったこともあった。
6月20日の石橋オン・ザ・ロック。オリジナル・シュガー・ベイブとしては最高の演奏、ね。
この時は対バンのスモーキー・メディスンが良かったからね。スモーキーが先で、僕らが後。
楽屋も違ったけど、金子マリと廊下ですれ違ったとき「はじめまして」って挨拶したような記憶がある。ただ向こうはこっちのリハしか聴いてないけど、こっちは本番聴いてるでしょ。そしたらみんな燃えちゃって、妙に対抗意識があって、負けるもんかってw
温厚な野口が珍しく燃えてたもん。これはなかなか良い演奏だったよ。でも後になって金子マリに聞いたら、向こうもかなり意識していたと。スモーキー・メディスンの話は前から聞いてたんだよ。スモーキーもエレックでレコーディングしてたから、山下くんて言うエレック・スタジオのエンジニアに聴かせてもらったことがあるから。なんたって金子マリは下北のジャニスって言われてた時代だから。
ギターがCharで、キーボードが佐藤準、ベースはナルチョで、上手かったんだよ、とにかくみんな。Charなんて17、18歳じゃない?(実際は19歳)。でも、あれ1回だけだったな、スモーキー・メディスンとやったのは。だって彼らは74年中に解散しちゃうでしょ。
バンドってコンスタントにライブをやってるから、結構ダレたりノレない日もあるんだよね。当時は客がそんなにたくさんいるわけでもないし、別に適当にやっても、って思っちゃうんだよ。
でも、福生へも良く行ってたんだよね、この時期。なんだろうね、練習は新宿でやるようになってたのにね。
フォークメイツ公開録音が7月11日か。それかなぁ。でもフォークメイツもリハは御苑スタジオでやっているよ。ゲネ(通しリハーサル)は文化放送でやったし。大滝さんのところに単に遊びに行ってただけかな。
 
<沢チエさんのコンサートも凄かったんだよ>
沢チエさんはレコーディングもしてるけど、あまり覚えていないな。矢野誠さんがアレンジだけどあの時のライブも修羅場だったw
メンバーは矢野誠さん、ユカリ(上原裕)、プー(藤本雄志)、伊藤銀次、アッコちゃん(矢野顕子)。言わなかったっけ?♪マッカーサー・パークの話。
7月19日、草月会館。駒沢(裕城)くん抜きのココナツ・バンクに矢野さんとアッコちゃんがキーボードで、僕とター坊と村松くんで三人でコーラス。
リハーサルの時、アッコちゃんが来なかったの、仕事で。で、ステージのオープニングでバック・バンドだけで♪マッカーサー・パークをやりたいって矢野さんが言ったの。でもユカリとプーと銀次は(楽譜の)初見が弱いから♪マッカーサー・パークみたいな複雑な曲はやめた方がいいと思ったんだけどね。あの曲は通しでやると長いので、矢野さんが譜面のAは半分、Cはカットで、という調子でサイズを短くした。
ところがその場にアッコちゃんは居なくて、その変更も彼女に伝達されていなかった。
悪いことは重なるもので、本番はステージの上手の端が矢野さんで、下手の端がアッコちゃんと言う離れた並び。それで真ん中にユカリとプーと銀次がいて、その後ろに僕のたち3人もいたのね。
マッカーサー・パークの始まりはアッコちゃんと矢野さんの2人のキーボードだったの。でもアッコちゃん何も知らないでしょ。譜面を飛ばすところを、そのまま譜面通りに行っているわけ。矢野さんは直した譜面通りに行くので、だんだんぐしょぐしょになってきて、気がついたアッコちゃんは「B!」「C!」って行き方を叫ぶんだけど、どうしようもない。悲惨なのは真ん中の3人で、もう全く訳がわかんないわけ。当たり前だよね、ついにユカリが堪えきれずに全く関係ないところがドンって入り始めてw
矢野さんはパニクってる、アッコちゃんだけがその後も平然とやり続けて。しょうがないから僕が歌い始めて、それでようやく戻ったんだけど、その日はそのあとエンディングや間奏、1曲たりとも段取りが合うことがなかった。
終わった後の楽屋はもう阿鼻叫喚。今じゃもう笑い話だけど、まぁおおらかな良い時代でもあったねw

<初めて参加したユーミンのレコーディングはすごく面白かった>
7月28日、石橋オン・ザ・ロックの後にユーミンのレコーディング、これは前に話したよね。
このときの石橋は共演が誰だったか覚えてないんだ。その後のレコーディングの印象が強烈だったから。
ユーミンは女子校ノリのきゃぴきゃぴした感じだったけど、同時にお嬢さん然とした育ちの良さそうな人でもあったよ。
ユーミンの音世界はほんとに素晴らしかったな。これは本当に運命的な出会いだった。その上、キャラメル・ママが音を構築して行くところも見られたのも大きかったね。
茂が♪12月の雨の12弦ギターをダビングするところを覚えてるし、後は駒沢くんの♪やさしさに包まれたなら、のスチールギターとか、瀬戸龍介さんのギターとかもね、ものすごく綺麗なんだよね。
普通コーラスでスタジオ行くともう出来てるオケに入れて、はい、さよならじゃない。ユーミンの時は珍しく前後のセッションとスケジュールがクロスしてたの。それですごく面白かった。
ほんとに初めて見る現場で、大滝さんの段取りとは全然違ったからね。
この時代のユーミンのレコーディングはアレンジャーがいていないみたいなもので、要するに全員が勝手にやっていた。でも誰もが全体のアンサンブルを考慮していたから、何一つ無駄なものがない。それはすごかったな。
それで28日にコーラスやって、8月1日にもう2曲やって、さらに3日にもう1曲と。
この8月3日の時にはこのレコーディング前に、渋谷ヤマハの店頭ライブをやってるね。

<芸能界の凄さを垣間見た清里の野外イベント>
7月30日の清里の野外ライブ。これもすごかったんだよなぁw 芸能界の凄さを目の当たりに見たんだよ。
朝6時半に新宿安田生命ビル前に集合で、フルバンドのメンバーと僕達とバス二台で行ったんだけど、フルバンドのメンバーは女連ればかりなわけ。それで楽屋では全員、出番まで麻雀なのね。
あの時の仕事はひどくてね。夏の清里の屋外スケートリンクで、共演がチャコとヘルス・エンジェルス、フレンズ、アンデルセンと言う当時のアイドルグループがずらり。それの前座だよ。お客はもちろん全員女。
司会がいて「さぁ皆さん最初に登場するバンドはシュガーベイブ。みんなでシュガーベイブって言いましょう」ってw客は気のない声で「しゅが〜べいぶ〜」ってw別に興味なんてないんだからさ。1曲目は♪SHOWだったんだけど、ター坊のエレクトリック・ピアノにつないだギターアンプの入力が間違っててトーンコントロール調整がなんと高音ゼロ、低音10になっていて、「1-2-3-4! ゴーン!」て凄い音が出て。アンプのチューニングやり直したり。客は客でこっちが「次の曲は〜」って言うと「え〜まだやるの〜」ってw
ステージもひどかったんだけど、僕にはもう一つ忘れられない思い出がある。楽屋にフルバンドの雑用係のおじさんがいたんだ。譜面整理とかする係。浅黒い顔で生気のないそのおじさんが、小学校に入る前くらい位のちっちゃな女の子を連れているんだよ。今から考えると奥さんと別れたか何かだったのか。で、12時過ぎに弁当が配られて。そしたら麻雀やってるバンマスのところにそのおじさんが行って「バンマスすいません、この子、朝から何も食べていないんですけど、弁当のあまりがあったら」「ナイナイ。人数分」って。僕らは横にいたんだけど、身につまされちゃって1個あげようぜ、って「これ良かったら」って持っていって「ありがとうございます、ありがとうございます」ってさ。細かい部分は昔の話なので夢のようだけど、でもストーリーの大筋は大体そんな感じだった。これが芸能界なんだなって、すごかったな、あれは。本番の悲惨さよりも、そっちの方が印象に残っている。
8月8日、郡山ワンステップ・フェスティバル出演ね。こう見ると毎週結構やっているね。お金には全然ならなかったけど、仕事を入れようと頑張ってたからね。
今の新人バンドはマネージャー側が見せ方はばっかり考えているから、客が5人とか10人とかだと恥ずかしいからやらせない。要するにライブのためのライブじゃなくて、メディアに見せるためのライブだから。動員かけて、そこそこ格好つかないとみっともないから、それが良くないんだよ、場数を踏ませないから。
【第13回 了】

 

ヒストリーオブ山下達郎 第12回 1974年、いろいろな出会い

<シングルを意識した♪パレード>
74年に風都市に入って新宿西口の貸しスタジオで、1月から練習を週に何回かやらせてもらうようになって♪SHOWのアレンジを進めたり。練習がコンスタントにできるようになって、だんだん曲も書けるようになって来て。
特にター坊は、随分曲ができるようになって、♪蜃気楼の街、♪いつも通り、なんかが一挙に出てくる。
池袋のシアターグリーンでの最初のライブが4月で、ここから10月のシアターグリーンではもう♪DOWN TOWNをやってるし。4月の時は♪想い、とかまだファースト・コンサートの延長のレパートリーが多いんだよね。
この74年は4月3日にデモテープを録音してるでしょ(@ニッポン放送)、ここまでに♪パレードを書いてるんだよね。
この頃にはもう風都市が危なくなってた。確か4月ごろに給料無配で潰れた記憶がある。
3月ぐらいにナイアガラは東芝との話が進行してた。年末のタワーホールのコンサートが終わって風都市に入る頃、風都市の分派の中で、僕らは大滝さんの派に属するの。それは当然だし、僕も他に興味は無かった。
ナイアガラ・レーベル第一弾で出すのはココナツ・バンクのはずだったんだけど、彼らがダメになった。だけど大滝さんはまだアルバムを作れる段階じゃなかった。だってソロを出したのが72年の終わり頃。そこで、ぜひともシュガー・ベイブでナイアガラの第一弾を、と言う話が来て。それはレコード会社は多分東芝になるって言われて、ニッポン放送のスタジオ銀河でデモテープをとると。その時、誰に言われたか、多分出版社の誰かから「シングルで出せるような曲を書いてこい」って言われた。売れる売れないだの、あれやこれやうるさくてさ。僕は♪パレードをこたつで書いたから、まだ冬だったんだろうね。「何がシングルだ」とか言ってねw こたつで赤玉ポートワインを1本空けて書いたのが♪パレードなんだよね。
その時はフィフス・アベニュー・バンドとかそういう世界だったから♪ナイス・フォークスみたいな曲にしようと思ったんだけど、はしなくもそれがジュリー・ロスになるんだよね、後でアレンジしなおしたら。だからやっぱり血は争えないっていうか。何となく書いた曲だけど、そういう刷り込みが、もう既にその時にあった。まだ人生で曲作りを始めて、10曲足らずの時代だけど。
シングル用の曲って言われても想像がつかない。そんなの。言ってる向こう側だって観念論だもん。でも僕にとってはシングル用の曲って言うなら、はっきりとしたフックがないだとダメと思った。シュガー・ベイブのファースト・コンサート今聴いてみると、フックのある曲なんて当時はほとんど持ってなかったことがわかる。
なんて言ったらいいのかな、AABA形式。♪夏の終わりに、なんて全くそうだね。♪SHOWは基本的にはリズム・パターンを聴かせる曲だから、後は歌の張るところを聞かせるとかね。もっとはっきりしたフック、“ごらん、パレードが行くよー”ってところ、ああいった明確なフックが登場する、最初の曲なんだよね♪パレードって。シングル用の曲って言われたからそうなったんだ、多分。
♪パレードはほとんど1日で書いた。夕方から始めて、ポートワイン1本空ける位の時間だもん。もっともメロディーの一部が最初は若干違ったりしてたけどね。この時はもうピアノがあって♪SHOWも♪夏の終わりにもピアノで書いてたんだけど、これはなぜかギターで作った。それもシングルだって言われたからじゃないかなw

<夜中にやったデモテープ録り>
LF、ニッポン放送の銀河スタジオには8トラックのレコーダーがあってね。大滝さんが自分でミキシングして。ドラムも何も全部据え付けのやつを使った。意外と良い音がしてるよね。セッションは夜中で、何テイクも録った。テープに(前島)洋児さんがスタジオの中で「はい、回そう!」なんて言ってる声が残っている。その時に、あの♪SHOWの間奏、ギターのトリックをやれって大滝さんが言ったの。
♪夏の終わりに、ではギターの裏カッティングをやれって、そういうチマチマした変更だった。
♪指切りは大滝さんの曲だから注文はなかった。♪パレードも特にはなかったな。きっとパレードは大滝さんも好きな曲な感じの曲だから、そういう意味ではあんまり介在する余地がなかったのかも。
LFデモを今聴きなおすと、歌い方が随分と間延びしてる。僕の場合、歌い込んでいくと歌の乗り方が気がつかないうちに変わっていくんだよね。
♪DOWN TOWNなんかでもレコードではフレーズの長さが短いの。”な・な・いろ”って歌ってるんだけど、最初に歌ってる頃、ジャンジャンとかシアターグリーンのライブを聴くと、なーないろのー、って語尾を伸ばして歌っている。そういう細かいニュアンスの改善は、ライブをやっているとだんだん出てくる。
それを繰り返して5年、10年とキャリアを経ると、意識的にそれを初めから作れるようになるけど、この頃はまだ右も左も分からないから。すべてフレーズの終わりが長い。いかに歌にリズムをつけるかが、僕にとってのヴォーカル・スタイルの重要課題なんだけど、シュガー・ベイブの最初の数ヶ月は、気がつかない間にどんどん語尾が短くなっていった。
それが多分自分にとって快感だったことが明らかになってね。でもまだこの時期は無意識だった。ともかく、このときのデモはよく覚えてる。夜の9時集合とかで朝までやって、それで4曲録ったのかな、2日かかったのかな、忘れたな。
※実際の録音は3日間。4月3日、4月24日、5月1日
でも、全日同じ曲をやったような記憶はあるんだよな。だから、演奏と歌が別で、歌入れは別日だったかもしれない。僕ちょっとそれ記憶にないなあ。よく覚えているのは、♪SHOWの間奏をいじられた記憶と、その時の村松くんの目が点になってたのとw
デビューに向けてのレコーディングは夏前から始めると言われてたよ。デモテープを録った後に、レコーディングのスケジュールを出すから待っていてくれって。ところが夏が過ぎても、何も連絡がなくてさ。9月位になってレコード会社はエレックになったって言われた。

<劇的だった亀渕友香さんのステージでのエピソード>
とにかくバンドの仕事じゃ全然食えなくて。でもバイトやりたくても、半端にライブが入って来て。しかも出るはずの給料が出ない。だからとにかく、74年前半の数ヶ月が人生で一番貧困だった。6月位にCMの仕事が来るようになるまでね。
で、この間に大滝さんが三ツ矢サイダー’74のCM、これが4月オンエアだから、はじめの3ヶ月はそれにも関わっていたと思う。
5月7日に青山タワーホールで亀渕友香さんのステージに出てるね。そのリハーサルがステージ前に1週間あったんだけど毎日、渋谷からバスに乗って、大橋のポリドールスタジオのリハーサル室に通ってたの。
その時の思い出はとにかく一番の金のない時代で、行き帰りのバス代と電車賃しかないんだよ。
だけど、バックの連中は、それこそ細野さん、ミッチ(林立夫)、マンタ(松任谷正隆)、(鈴木)茂、伊集(加代子)さん、ミト(尾形美智子)さん、モツ(浜口茂外也)、鈴木顕子(矢野顕子)と錚々たるメンバーでしょ。
夕方になって「飯タイム!」って、「みんな何頼む?」「俺、寿司」「俺、うなぎ!」とか言って「山下君は?」「いや、オレ食ってきましたから、すいません」ってw ありゃツラかった。
この時にアレンジャーが矢野誠さんだったんだけど、リハーサルの段取りが悪くて。現場のマネージャー仕切りも。譜面が全然来ないんだよ。特にコーラスは譜面が一番後回しになるんで、伊集さんは初めは「まただよ」とか言って、リハやってたんだけど、だんだん険しくなってきたんだよね。
その時のコーラスはシンガーズ・スリーの伊集さん、ミトさんと、僕ともう一人男性。その彼が譜面に弱くて、それでまた段取りが遅れる。で、彼女たちはコーラスの扱いがぞんざいだと感じたんだろうね、本番当日のリハーサルでいきなり「降りる」って言い出して、帰っちゃったんだ。マネージャーは土下座して、お願いだからって止めたんだけど、そのまま帰っちゃったんだよ。スタジオ・ミュージシャンっていうか、芸能界ってシビアだなぁって思った。
で、僕が残っちゃってさ。「達郎さんだけでコーラスやってもらえませんか」って言われたけど、「いや一人でコーラスはできないよ」って困って、僕も帰ろうかなぁと思ってたら、村松くんとターボがふらっと来てて「お前ら、いいとこ来た!」って。それで楽屋に引っ張り込んで、もともとレコーディングは僕ら3人だから譜面を渡して、アコギを借りで30分足らずのリハーサルをして、ステージにバーッって押し上げて、彼らも訳が分かんないけど、でも一応レコードのコーラスは覚えていたから、何とかぶっつけで乗り切れたんだよ。それをたまたまユーミンが観に来ていて、その時はちょうど「ひこうき雲」が出た頃だったかな。それでユーミンがあのコーラスは誰って興味を持って、それをスタッフに言ったんだよ。そしたら彼女のディレクターが一度使ってみようってことになったの。

ユーミンのレコーディングに参加>
ユーミンのレコーディングが7月28日ね。
その何週間前にアルファのディレクターから電話がかかってきて「コーラスやってくれないか」って。で、「やってもいいけど、自分のコーラスアレンジじゃないとやりません」って言ったら、それでいいからと。それでもらったテープが♪12月の雨の日と♪瞳を閉じて。これがいい曲でさ。それで、その2曲を7月28日にレコーディングするの。
レコーディングの当日には日本青年館で「石橋オン・ザ・ロック」って言うアマチュアバンド・コンテストのゲスト仕事があって、そこに吉田美奈子がやってきた。
ター坊がその1週間前に久保田麻琴とサンセットギャングのコーラスをやってた。♪ルイジアナ・ママ。ここで吉田美奈子とター坊が初めて会って、その時にター坊が「私、バンドやっていて、来週やるから見に来て」って誘って、それで美奈子が来たんだね。
僕は吉田美奈子のファンだったから「これからアルファに行ってレコーディングやるんだけど来ない?」って誘ったら「じゃあ見に行こうかな、ユーミン知っているし」って。それで(村松くんも含め)4人で千駄ヶ谷から電車に乗って、田町のスタジオに行って。美奈子はずっとレコーディングを見物してたの。
♪12月の雨の日、♪瞳の閉じてと2曲やって、コーラスが出来上がってディレクターが気にいって、もう2曲やってくれって。美奈子が居るんで「美奈子、コーラス興味ない? 美奈子も一緒にやろうよ」って誘って。
その次、8月1日に♪生まれた街で ♪たぶんあなたはむかえに来ない、の2曲を4人でやった。
そしたら、ディレクターがさらにもう1曲♪あなただけのもの、それを女3人でやりたいと。そしたら美奈子が「鈴木顕子がいるよ、こないだ矢野さんと一緒にやってたあの子」って。
それで8月3日にター坊、美奈子、アッコちゃんのラインナップでのレコーディングになるわけだよ。
だから人の縁というのは実にそんなもんなんだ。あっこちゃんとはタワーホールで初めて会っていた。運命だね。だからいつも言うようにムーブメントだからさ、こういうのは。一人の力じゃどうしようもないの。この時代の人脈は後の日本のフォークとロックを形成していく部分なんだよ。この頃はすごかったエピソードもいっぱいあるw
【第12回 了】