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ヒストリーオブ山下達郎 第11回 運命的に人と出会った一年間

<大滝さんは本当にロックンロールの人なんだね>
大滝さんへのインタビューはなかなか面白かった。知らないことがずいぶんあった。(鈴木)慶一のCCRってのが一番笑ったな。でも大体認識は同じような感じだね。若干の違いはあるけど別にそれほど本質的なことじゃないし。
大滝さんの「自分がエリー・グリーンウィッチで、山下はバリー・マン」っていうのは、実に面白い見解だったね。大滝さんは本当にロックンロールの人なんだね。
大滝さんがマンフレッド・マンに反応したのは、まぁ実にあの当時日本のリスナーの一般的な尺度からすれば、大滝さんもまた異端だったというか。
マンフレッド・マンの♪Do Wah Diddy Diddyなんてのも、めちゃくちゃマニアックだよ。僕の世代ではせいぜい八木誠さんがDJで流していた程度だからね。
僕が八木さんを聞いたのは「パックイン・ミュージック」になってからだから、だいぶ後。ましてやエキサイターズなんて全く流れなかった。
この前NHK松尾潔くんと番組をやったときにレイ・チャールズの話になったのね。レイ・チャールズで一番僕が影響受けたのは、もちろん♪What‘d I sayなんだけど、でもレイ・チャールズの♪What’d I sayは当時聞けなかったんだ。すでに日本盤が廃盤だった。あの頃アトランティックは日本はビクターからポリドールへ移ってたんだけど、アトランティック時代のレイチャールズのレコードは(ポリドールには)なかった。日本では洋盤は手に入らなかったしね。
♪What’d I say、僕の場合は初めて買ったロイ・オービソンのシングル♪つむじ風に乗ってBorn on the wind、そのB面が♪What’d I sayだったの。シングル100円セール、池袋の丸物デパート、今のパルコで。それで中学3年のときにはアマチュアバンドで♪What’d I say をドラムを叩きながら歌っていた。でもレイ・チャールズのバージョンを初めて聞いたのは高校以降。「History of rhythm and blues」って言うアトランティックのオムニバス・アルバムがシリーズで出始めて、それにレイ・チャールズが系統的に入ってた。
話がそれたけど、大滝さんはもうちょっと前から聴いてたわけだから、よく岩手でそんなの聴けたよね。三沢基地FENか。まぁいずれにせよ相当のマニアだよね、大滝さんも。

<ファースト・コンサートではアンコールを用意していなかった>
大滝さんが言う「73年のベストテン、ワーストテン」話ね。しかし、演奏よりもそういう余談ばかり覚えているというのが、大滝さんらしいよね。僕はそのチャートまでは覚えていないけど。ナレーションが入ってないんだよ、あの時録音したテープには。
あの当時はオープンリールだったので多分録音時間が心配で回しっぱなしにできなかったのでは。リールが終わっちゃうとダメだから。それでナレーションをカットしたんだと思う。
まだPAなんて殆ど無かった時代で、あの時はギンガムという、加藤和彦さんがミカバンドでイギリスから持って帰ったWEM(ウェム)のPAを基礎に設立した会社、その機材を使ってコンサートをやったんだ。PAのオペレーターが誰かも全然覚えていないけど。会場にワンポイントマイクを置いてオープンリールの民生機テレコで録音した。
コンサート練習は、まだ並木の家でしていたと思う。並木の家から村松くんの車で、楽器を運んでいったような記憶がある。この時、僕が弾いているのは鰐川所有のグレコレスポールモデル、並木がハワイ旅行に行った時に七千円で買ってきたギブソンのピックアップに交換して。まだ自分のギターは持っていなかった。
村松くんはこの時すでにストラトキャスター。73年の夏前にジプシー・ブラッドのギタリスト、ヒョコ坊(永井充男)から買って。
野口もこのときはまだ自分のドラムじゃなくて、借り物じゃなかったかな。鰐川は並木のムスタング・ベース。本当はジャズベースが欲しかったけど、まだそれほど金銭的余裕もなかったからムスタングしか買えなかった。この時には、シンペイ(木村真)って言うパーカッションのプレイヤーが入っていたはず。だけどお客はどれぐらい入ったのかな。
この時に演奏した♪SHOWは、まだ全然今の形じゃなかったし、なんたってこの時はアンコールを用意してなかった、全くそんな予測がなくてね。
それでよく覚えてるけど♪港の灯り、って曲が最後で、その曲の一番最後に♪Do you wanna danceがくっついてたのね。
小宮くんは曲の中に既成の曲の断片を織り込むのが好きな人で、港の灯りは最後♪Do you wanna danceで終わるんだけど、並木のところで練習しているときに、それをレゲエにして遊んでたんだ。
まさかアンコールが来るなんて思わなかったからしょうがなくて♪Come go with meを僕がやった後、ぱっと思いついてそのレゲエのパターンを始めたら、みんな気付いて、ついてきた。それでキメから♪Do you wanna danceに行くって言う、アンコールをいかにも用意したような形で終われた。
そこで、なるほどこういうのは常に準備してなきゃいけないのねwと学習した。夏の長崎のコンサートからこの日までたいした場数踏んでなくて、まだシアターグリーンやジャンジャンもやってなかった。
長崎の時はアンコールは覚えてないなぁ。長崎ってお客さん何人いたのかな。この73年秋は山本コウタローさんのスタッフが回してくれた文化祭の仕事が何本か、それくらいしかなかった。ニューミュージックマガジンの北中さんがこのタワーホールのライブのレビューを書いてくれて。それはよく覚えてる。
でも僕はまだ20歳だもん。小僧だよね。形が全くできてないね。自分の曲が3曲、小宮くんのが3曲、大滝さんの♪指切り、ター坊はまだ1曲だもん。あと♪風の吹く日は、だってター坊が歌っているのに、詩曲は僕が作っている、変な形だからね。

シュガー・ベイブ1stコンサート]
01.SHOW
02.それでいいさ(作/小宮やすゆう)
03.想い(作/小宮)
04.夏の終わりに
05.時の始まり(作・歌/大貫)
06.風の吹く日は
07.指切り
08.SUGAR
09.港の灯り(作/小宮)
10.Come Go With Me
11.〜Do You Wanna Dance

<大滝さんと会わなかったら、僕らはどうなっていたかと思うよ>
タワーホールのライブはシュガー・ベイブとしては5本目位だよ。今のインディーズものと対して変わらないよ。9.21の前に2回位しかやってない。新宿ラ・セーヌのステージは鮮烈に覚えているよ。ヴォーカルアンプがないとやらせてくれなかったから。村松くんが持ってたやつを運んだ。
9.21のあとにジーガムのCM? あれはどこで録音したかなあ、ジャンジャンの地下のスタジオ? やったことは記憶してるけど。あと年明けるか明けないかの頃に「三ツ矢サイダー」を始めたんだ。
9.21が終わって、しばらく大滝さんとは会わなかった。大滝さんの方も何か虚脱したんじゃないかな。その時にはココナツ・バンクがトラブってたようだし。コマコが抜けるとか、抜けないとか。銀次も色々あったでしょう、おそらくね。ココナツ・バンクはもう名前が有って無いようなものになったんじゃないかな。
あの頃、まだ大滝さんの事務所は風都市だったけど、あの事務所は商業経営の根本的なものが全く欠落してたよね。
例えば、僕だって運送屋でバイトして、給与計算とか明細とか残業いくらとか、そういう書類をもらって確認して、今月はちょっと苦しいから残業代は勘弁してとか、そういうことを一応説明されて、給料もらって。そういうの、全くあそこの事務所はなかった。
こっちも20歳で、しかもドロップアウトだから会社組織とか事務所とかわからなかったけど、それでも一応会社なんだから、もうちょっとちゃんとしてると思ってたよ。
風都市にシュガー・ベイブも入ったけど、それも大滝さんと出会った縁だよね。でも、今から考えると大滝さんと会わなかったら、僕らはどうなっていたかと思う。
このちょっと前に、ラジオ関東のディレクター経由で誘われたけど、僕はフォークは嫌だから断ったんだ。メジャーに行ったら、どうなるか位は予想できてたわけ。あの時は東芝の人が来たんだよ、確か。もう名前も顔も忘れているけど。
だから、いつもシュガーベイブの話をするときに、メジャーな会社に行っていたら、きっとチューリップとかクラフトみたいになっていただろうって。それも運命で、当時の状況でも一番底の所に居たわけでしょ。でも、そのおかげでクラフトにならなくて済んだわけだから。
でもクラフトの三井(誠)くんだって、すごく作曲能力があったし、この頃、徳ちゃんが手伝っていた小泉まさみさんもいい曲を書いてた。それなりにみんなポップセンスがあったけど、あろうことか僕は最もサブカルチャーなところに行ったんだよな、今考えると。
それも運命だよね。ここからユーミンとかの仕事に関わるあたりまでの1年位の間は、完全に人脈が人脈を呼ぶって言うのかな、そういうのも完全に運命だよね。だけど、この頃のアングラな時代状況は、いくらうちの奥さんに説明してもわからない。

<大学に復学したけど、9月からもう行かなくなっていた>
ロックと言う言葉を「ミュージック・ライフ」で読んだり「ウッドストック」とか見ながらイメージして、なんとなくそんなもんじゃないかな、って言う幻想はあったわけw
大滝さんと最初にあった頃には本当に色々な人に会ったね。
あと覚えているのは、大学のビッグ・バンドに行った友達が電話をかけてきて、キャバレーでバイトしてるけどトラ(臨時)でやってくんないかなって。8ビートばっかりだから、とか言われて行ったらとんでもない、ベニー・グッドマンとかなんだよ。一日でクビになった。でも、そういうところで見るミュージシャン、本当にみんなヤクザな感じだった。
前にも言ったけど、何人かドラマーをオーディションした時にも、来たのはとにかく今のインディーの底辺の、そのまた下みたいなヤツでさ。たいして上手くもないんだよ。でも、もう飢餓の目って言うかな。異様な目つきで。ある者は水しか飲まない、飯食うと腹がでかくなるから、って。何やってるかって言うと、ディスコのハコバン。なんでそいつがオーディションに来たのか分かんないんだけど、そういうのも何人か来たんだけど、腕はともかくこういうのとはやれないな、って感じだった。
メンバー募集は人づて。張り紙はしなかったと思うけど、もしかしたらヤマハにしたかもしれない。3人オーディションしたんだけど、精神的に合わない。そういう意味では大滝さんも銀次も、みんな知的なんだよね。だからミュージシャンって言う以前に、会話が成立する。長門くんや小宮くんも皆そういう感じだった。
だから僕らはサブカルの最たるところに行ったけど、それこそあの時代のキャバレーとかディスコとか、そういう世界のミュージシャンはみんな酒と博打の匂いしかしないし、そういうのは嫌だったしさ。
そういうところでは類は友を呼ぶっていうか、それは長門くんの選球眼の正しさだったんだよな。長門くんがいなかったら絶対そういうベクトルにはならなかった。
だから、長門くんのインタビューも面白かったけど、その頃こっちはそんなことも何も考えてないからw食えるか食えないかも分からなかったし、ただ他に別にやりたいこともない、精神的には今のプータローと何も変わらないよね。
唯一何かあるとすれば、知的じゃなきゃ嫌だったんだよね。肉体労働をやってバンドをやってる奴もいたんだよ、実際に。でも、まだこの時、僕は大学を辞めていなかった。75年に退学届を出しに行くまではね。
72年に入学して、ひと月位で休学して、73年に復学。復学してから夏休みまでは行ったんだよ。で、大学は9月に試験じゃない。結局その時に9.21に参加して、9月にはそのまま行かなくなった。
一年休学して、バイトしてお金貯めてアメリカへ行こうと思った、って話をしたよね。それでバイトしているときにシュガーベイブを作って。でもその頃は、こんなもんで食えるかどうか分からないから、一応復学しようと。
それで復学して、刑法総論とかフランス語とか真面目に3カ月位は出たんだよ。ちょっと仲良くなりかけた友達もいて、バンドを作っていなかったら、あのまま大学へ行ってたかもしれない。
でも9.21に出ることになって。
シュガーベイブを作るって言ったのは、72年の暮れから73年の頭。復学した4月の段階では、まだ野口がドラムをやるかどうか、わかんなかった。野口がドラムをやるって言ったのはそのあと、夏の長崎のコンサート(大震祭Vol.4/73年8月23日長崎NBCビデオホール)のほんの数ヶ月前なんだ。
そういう意味ではまだすごくファジーだった。
風都市に入ってからも、給料が出なくて、ぐしょぐしょになって。何ヶ月か経った頃に矢野誠さんが仕事くれたり、CMの仕事がもらえるようになったりで、だんだん食えるようになった。で、これで良いかなと思い始めて。でも、バンドじゃそんなに長くないな、って最初からそれは思ってたから。
風都市って言う組織や、市ヶ谷のあの事務所に関しては、今でも皆目わからない。僕にとっての風都市っていうのは、その後も大滝さんのマネージメントをすることになる前島兄弟だったから。
当時は松本隆さんとも一度も口を聞いたことがないし、細野さんはティン・パン・アレイの仕事でコーラスをやるようになってから、ようやく少し話したけど。(鈴木)茂だってほとんど話してないし。ようやく74年から75年になるあたりから、だんだんと話をするようになる。

松本隆の詩でシュガーベイブ?>
73年12月の青山タワーホール、ファースト・コンサート。♪SHOWと同様、♪SUGARもこのコンサートのために作ったの。曲が足らないから長い曲にしようってw。とにかく野口がドラマーとしては経験不足だったんで、簡単なパターンじゃないと出来ない。だけど簡単なパターンでもエイトビートじゃつまらないので、割と変則的なパターンをやったっていうか。
まぁこれは完全にこの頃の大滝さんの「ココナツ・ホリデイ」に見られるような、トリッキーなドラムパターンに影響されたというか。
結局、その後リズム・パターンっていうのは、どこまでいってもあの時代の、細野さんと大滝さんのせめぎ合い。あれがなければ、今のアレンジメントのドラム・パターンには、たどり着かないよね。
73年から77年にかけての細野さんの「トロピカルダンディー」や「泰安洋行」、大滝さんの「NIAGARA MOON」や「ゴー・ゴー・ナイアガラ」「ナイアガラ・カレンダー」に行くくらいのヘンテコなリズム・パターンの応酬。お互いがお互いを見ながらやっていたよね。あれが計り知れない参考資料になった。
それでシュガー・ベイブは初めはモロその影響受けていたけど、だんだんそこから逸脱を目論んで、16ビートにしたの。ていうか、シカゴのハネたビートに耽溺していった。
だから♪SUGARなんてモロそれで。
人間的な部分では、大滝さん自身が直接何かを言ってくる事は、今も昔もそうなんだけど、ほとんどないの。人を介して長門くんが呼ばれて、みたいな感じだと思うよ。
まあ風都市がこの時点では内部分裂が起こっているわけでしょ。9.21はまさに内部分派の抗争な訳だから。
それで結局、大滝派と細野派と松本派に三分割して、松本さんはもう年明けから作詞家になっていく。そういう中で大滝さんは自分のアイデンティティーをどう置こうかと。
だけど、考えたらはっぴいえんどは誰が見切りをつけたのか、って言う問題があるじゃない。でも、大した動機じゃないんだろうね。どんなことでも、みんな後からはいろいろ言えるけど、スタッフがきちっとしたビジネスプランとかを持っていたら、ひょっとしたらもっと続いていたかもしれないしね。
僕らのバンドをどうにかするってのとは、またちょっと違う。僕らは食うことの切実感がどうしようもなくあったからね。
大滝さんがシュガー・ベイブにいろいろ注文してきたことで、一番強力だったのは、松本さんに詩を書かせるって始まった時。
でも、僕はメンバーにその話を持っていって、真面目に5人でミーティングしたんだよ。その時に野口が「俺は別に売れるんだったら何でもいい、お袋食わせなきゃいけないから」って。なんかグッときてさ。その時、松本さんが本当に書いたら従ってたかもしれないけど、松本さんが書かなかったから、やめになったんでね。
大滝さんが「シュガー・ベイブをファースト・コンサートのあたりから自分の新しいプロジェクトに引き入れようと考えた」って、インタビューにも書いてあるけど、ココナッツ・バンクが解散したから僕らはその代わりだよね。
まぁ演奏力に問題がなかったと言うのは、お世辞半分だと思うよ。あの人は演奏技術ってことに関してはとりわけシビアで、それはキャラメル・ママが標準だったせいなんだよね。だから、それ以下で満足できるわけないもの。でも僕のキャラメル・ママに対しての印象はちょっと違ってて、歌の不在に対して、すごく懐疑的だった。演奏だけではそれ以上に成り立つわけがないと思ったわけね。
その9.21のリハーサルの話もあるけれど、キャラメル・ママがやっているのは一種のリズムパターンで、その先はどうなるんだ?って。それを自分たちができるとか、自分たちが演奏するか、ってのとは別問題としてね。歌はどこなんだって?って。
別にリズムセクションとかいなくったって、例えば古井戸はギター3人だけど、音楽としての説得力が立派に成立してる。それこそ西岡恭蔵さんが一人でやる♪プカプカの方が、スタジオ・ミュージシャンのテクニカルな演奏よりも人の胸を打つんだと言う。
僕はスタイルとしてフォークは嫌いだけど、音楽としての説得力は厳然としてあるわけでさ。
でも、大滝さんはどう考えてたんだろうね、あの人は不思議な人でさ、歌手でありながら、楽器演奏に対する憧れがとても強かった気がする。
僕はブラスバンドでやっていたから、楽器演奏に関してそんなに強い思い入れがなかったからね。そういうところの差がすごく大きかった。別にロックンロールバンドでも良かったと思うんだけど、そこがやっぱり違うんだろうね。
大滝さんは当時ミーターズリトル・フィート、後はビリー・プレストンなんかを聴いていたのを記憶してるけど、ああいうテクニカルなものにアーシーな要素が加味された世界に、すごく憧れていたような気がする。
シュガー・ベイブが風都市に所属するのは74年で。73年12月17日のライブが終わってから「風都市に入らないか」って話になったの。「1月1日付けを持って入社して、以降は給料払います」って長門くんが言われて、僕が説得して、村松くんがそれまで勤めていた会社を辞めた。
ヤマハの新宿音楽センターで練習できることになって、これで並木のところにも迷惑かけないで済むから良かったね、って、僕と村松くんとター坊の三人で明治神宮に初詣に行ったのを覚えているよ。
【第11回 了】

 

ヒストリーオブ山下達郎 外伝2 大滝詠一インタビュー

はっぴいえんど解散でごまのはえをプロデュースすることになった>
山下くんとの出会いね。
まず、72年9月にはっぴいえんどの解散が決まるんだけど、その少し前に全国ツアーがあって、その最後の方に長崎でのコンサートがあったの、8月5日かな。その時に主催者に挨拶はしたと思うけど、それがその後の長門芳郎だっていうのは当然知る良しもなく。あくまでコンサートの主催者としての認識だったんだよ。でもそこで最初の出会いがあったんだよね。
長崎のコンサートは盛り上がりましたよ。アンコールで♪びんぼうを演ったらウケたもの、印象的でしたね。
はっぴいえんどはもう解散することになってたけど、その年、72年の10月にアメリカ録音があったの。サードアルバムのレコーディング。その時ジム・ゴードンを見たって言う話はよくしたけど、ベースはジョー・オズボーンだったんだよ、それを言うのを忘れていた。
飛行機はとにかく辛かったのしか覚えていない。あれが初めての海外だから、乗る前はウキウキしてたんだろうね。高所恐怖症だけどあんなに辛いとは思わなかった。
ハワイで1回降りたんですよ、あの頃は。もう帰ろうかと思ったもの。これ以上乗りたくないって。拷問と一緒、勘弁してくれって。まぁ着いたら「来て良かった」とは思いましたけどね。帰りもしんどくて、それでもう一生飛行機なんか乗ってやるかと思ったのね。
その時の帰りの飛行機でベルウッドの三浦光紀さんから「はっぴいえんども終わったからプロデュースをやらないか」って話があって「ごまのはえ」のコンサートを見に行こうって言われたの。ああ、その時も東京から大阪まで飛行機だったなぁ。ごめん、ごめん、飛行機はよく乗ってたよ。はっぴいえんどのツアーってみんな飛行機だった。北海道、九州、四国、それも忘れてるなぁ。それでも飛行機は嫌だったね。でもアメリカだからしょうがない、船旅ってわけにいかないから。
「ごまのはえ」を見に行ったのは72年の暮れ位だったと思う。じゃあやろうと命題与えられて。
で、73年1月に僕の子供が生まれて、住んでいるところが手狭になった。それで家を探して、1月の末に福生に引っ越して、周りの家が空いてるから、じゃあ借りてみようと。だから最初からスタジオを探して福生に行ったわけでは無いの。子供が生まれたのが一番のポイントで。
子供のいる家と音楽を聴く家を分けようとしたんだけど、いっそこれをスタジオにしたらって言う話があったの。で、3月ぐらいに銀次たちがやってきた。だから最初はごまのはえをなんとかプロデュースしなきゃならない、初プロデュースだから。
それに73年に入ってすぐサイダーのCM仕事が来た。それきっかけでCMがじゃんじゃん来て、両方やってたわけですよ。
ごまのはえは5月の春一番(大阪の野外フェス)に出るんで、そのライブ録音をベルウッドから出そうって三浦さんが言ってきた。そのライブ録音を聞いたんだけど、あまりにひどい出来だったのでお蔵入りにして、これじゃすぐにはできないって言うことで、メンバーチェンジをしたの。
ヴォーカルの末永博嗣をクビにして、ぷー(藤本雄志)をベースにしたんだけど、すぐにバンドもできないからね。
そこにたまたま布谷文夫さんがふらりとやってきた。というよりも、僕の引っ越しの手伝いを布谷さんがやってくれた。野地義行が運転手で、布谷さんが力持ちだから、荷物を運んでくれた。実はサイダー‘73のデモテープって野地がベース弾いて、ハーモニーは布谷さんがつけてるんだ。それはたまたま彼らがいたからなの。それで、布谷さんがよく来るようになったんだよ。
それで布谷さんがポリドールでレコーディングを始めたんだけど。ブルース・クリエーションのディレクターをやっていた松村さんからまたやらないかって言われて。布谷さんがそのテープ持ってきて♪5番街(アルバム1曲目)の前身のテープだけど。それを聞いて「いや、このままだとちょっとまずいんじゃないか」って。それでココナツバンクの練習の意味合いもあって、一緒にやろうって言うことになった。布谷さんもその気で、彼らと一緒に住んでたんだよ。それでポリドールで録音した。(「悲しき夏バテ」73年11月発売)。
そうしたら9・21コンサートの話が風都市の方から来て、ココナツバンクもやらなきゃいけない。しょうがないから銀次が歌えって。最初からそのつもりじゃなかったんだよ。彼らは布谷さんとやってきたから。だから9・21でも途中から布谷さんが出てくるよね。
元ごまのはえにしても誰かヴォーカルはやらなきゃいけない。
ココナツバンクのステージの練習を始めて、銀次に「お前が作ったんだからお前が歌うしかないだろ」って、それでも本人も、どうしても歌いたい、ってほどの事でもなくて、しょうがなくて歌った面もあると思う。
でも、これじゃちょっと弱いなと思ってた。バンドも3人だけじゃダメって言うんで、駒沢裕城(コマコ)を狭山から呼んだの。でもあの時、駒沢は二足のわらじなんです(小坂忠とフォージョーハーフのメンバーだった)。
だから「悲しき夏バテ」の裏ジャケットの写真で、コマコはお面をかぶってカモフラージュしてる。バレないように。だから急がなければあんな形でココナツバンクをやることもなかった。
もっと地道にゆっくり時間をかけてやっただろうと。
だけど、突貫工事でやんなきゃいけなかった。だから歌は弱いし、とにかく向こうがキャラメルママだから演奏力で普通に勝負できるわけがない。ナイアガラらしいところを何か出さなきゃいけない、と。だけどこの歌じゃなぁと。
で、それから銀次とコマコが高円寺の「ムーヴィン」に、しょっちゅう行っていたって言う話になるんだね。

<Add Some〜を聴いて、その選曲のセンスにびっくりしたんだよ>
銀次がアルバム持ってきて。「てえへんだ」って、がらっ八の。堺俊二だよ。銭形平次ですよ。それで聴いてね。「なんじゃこりゃ」って。いくつなのこの人たち、って言う。
駒沢君と銀次は♪Don't worry baby論争になったって言うんだけど、
僕はね♪Semi-detached suburban Mr. Jamesが入っていたのが非常に新鮮というか、意外だったんです。
あの頃、第二次マンフレッド・マンを評価していたのは自分だけだと思っていたから。日本中に、他には誰もいないと思ってたんだよ。だからびっくりしたんだ。そこに反応したんだよ。
これはビーチボーイズだとかそうじゃないとか論争があったっていうのは銀次たちのことで、僕はこれを全部聞いたときに♪Sincerelyの熱唱はさることながら、この選曲はただ者ではないと。そういうところを見るわけなんです、僕の場合は。その作家性に注目したと言うのかな。
センスだね、だからジャイアンツの篠塚がバッティング・コーチとしてよく言ってるけど、センスは教えられないって言う。まぁそういうこと。
細野さん達と知り合う時なんかでも、誰それのどの曲がいいのかで決まったりするのよね。大体そうでしょう。
CCRって言って、はっぴいえんどに入らなかった鈴木慶一っていうのもいるけど。バッファロー・スプリングフィールドと言おうと思ったんだけど、これではあんまりだと思って、ひねったんだって。
あの時にバッファローって言ってたら入ってたんだよね。でも、今にして思えば慶一ははっぴいえんどに入れなくてよかったんだと思う。それは日活に山田洋次が来なくて良かった、と言うのと非常に似てるんじゃないでしょうか。
で、Add Some〜に関して言えばすぐに電話して。電話は銀次がしたのか僕か、ちょっと記憶がない。
そうだ、その時に山下くんが持ってきたエリー・グリーンウィッチのシングル盤を持ってくるの忘れちゃったな。まだ実物はありますよ。
大笑いなのは、あれプレゼントなのかなと思ったら、そうじゃなかったんだよ。山下くんは異論あるか分からないけど、その日じゃなかったと思うけど、僕、ラスカルズの♪I ain't gonna eat out my heart anymoreって言うデビューシングル、アトランティックの、それと交換したの。だから持ってきたんだけど手土産って言うのでもないんだよ。
電話をしたのは銀次だったかな。

<山下くんは、まるで昔からそこにいるかのように、ピッタリはまっていた。>
山下くんに会おうと思ったのは、9.21のコーラスをしてもらうため。要するに伊藤銀次のボーカルをカバーするためにね。あとAdd Some〜でもコーラスがあったからね。まぁこっちのは、そんなにコーラス向きの曲じゃないんだけど。
シュガーベイブをただのコーラス・グループと思っていた、と言うのはちょっと違うんじゃないかなあ。間違いなくAdd Some〜は聴いてるし。
だから9.21でココナツ・バンクのステージを何とか体裁つけてごまかそうと、それしかなかったの。この人たちもナイアガラで、この後やろうなんて思いは一切ないわけ。9.21さえ過ぎてしまえばいいわけだから。何とかココナツ・バンクがごまかして、通り過ぎててくれば。
要するにコンサートの後で、ココナツバンクだけが下手だったとか言われたくないわけですよ。彼らの将来もあるしね。だか、らなんとかごまかして。
でも、コーラスって言ったってコーラスが入るような歌じゃない。無理矢理。もう滝廉太郎の♪花、以上のものがある。♪無頼横丁なんかよく入れたなって。入れ所がないんだもの、コーラスを。山下くんはそれでもやってくれたんだけれど。
山下くんと会った時は銀次も居たと思いますよ。で、山下くんは前つっぱりが強いと言う印象。卓球で言えば中国式の前陣速攻とか、ロビングがないって言う。そういう切れ味の人ですよ。
でも、レコードで聴いていた印象と全然違わなかった。だから初めて会ったと言う気がしなかったんだよね。向こうもそう思ったんじゃないかなぁ。
僕のレコード棚を見て、彼はクレイジー・キャッツが全部あるのにはびっくりしたってよく言ってたけど、そのレコード棚の部屋で、いろんな話をして、僕は多分Add Some〜の選曲の裏付けみたいなことをとってたんだと思いますよ、そういう事はやりますからね、必ず。だから、なるほどこういう選曲をするだけの人だな、って瞬時にわかったんで、もう早速やってもらおうと。
コーラス・アレンジなんかも彼は初めてなんじゃないですか。まぁ曲がりなりにもプロなわけですから、我々は。あの頃から。
山下達郎は必死だった? そんな印象はなかったような気がする。「ディスク・チャート」のセッションの話なんかでも、ター坊と長門くんがどうしようかって言う時に、いかにも昔からいたかのように「あれはね」と入ってきたという話があるじゃない。そんな感じ。昔から居るかのように、その位置に座っていた。ハナっから空席だった気がするけどね。あの当時のナイアガラ的に言うとね。いかにも自分の席だったと言う感じで。そういう感じってあるんですよ、いろんな人に。
エイプリル・フール」だって(小坂)忠さんがいなくなって、どうしようかって時に、僕がフラッと手伝いに行って、たぶん僕用の席が空いていたんじゃないか。向こうの方が先達なわけだから、こっちは後釜で。別段、先輩後輩とか、いわゆる芸人さんにあるような感じではなくて、すんなり入って行けたものね。
だから、山下くんはぴったりハマったように思った。そう思ったから9.21の後、CMも頼んだわけ。多分そういう行きがかりがあって、じゃあシュガー・ベイブをプロデュースする、みたいなことになったんだと思います。シュガー・ベイブのデビューコンサートだってそのつもりで見に行ってるからね。
銀次は喜んでいたよ。これは逸材が手に入ったと言う感じで。
それで山下くんがスタジオに来て、ピアノがスタジオにあったから、アレンジして、なんだこんな曲、こんなこと、なんでやんなきゃいけないんだ、と思ってたかもしれないけど、一生懸命やってくれましたよ。

 

<♪ココナツ・ホリデイが幻のナイアガラ・レーベルのシングル盤、第1号>
9.21で僕のコーナーがあって、そこで♪サイダー‘73のCMフィルム流したの。あれで全部吹っ飛んだんですよ、あの日のコンサート。客席の反響を全部録ったテープがあるんだけど、あそこでドカンと来て、みんな全部忘れちゃったんだよね、その前をw あそこでみんな飛んだんですよ。
自分は最近何をやっているかとの報告では、あそこしかその場はなかった。まぁみんな喜ぶと思ってやったんだけどね。
当時コンサートで映像を使うって、なかったんですよ。しかもCMでしょ。みんな見慣れたものだったから、ウケたんだね。
そのあとキャラメルママの林立夫が僕のところに寄ってきて「寝技で来られちゃったなぁ」って言ったんだよ。それをこの前、林と初めて食事した時、三十何年も一度も食事がしたことがなかった、その彼に話したら「覚えてない」って。
僕はそんなに計算ずくでやれるほど才能ないから、行き当たりばったり、思いつきでやってるだけなんだけど。
用意していたスパイダースの曲を演らなかった? 覚えていないなあ。♪あの時君は若かった? そういえば銀次が歌ってたような気がする。それから「おはよう眠り猫君」につながるのかな
司会のかまやつさんは来てくれるかどうか、わからなかったのかもしれないね。あの頃、そういうのはよくあったから。日比谷野音のコンサートなんて、いつもそんな感じだったしね。
司会の亀渕昭信さんのオールナイトニッポンには9.21の宣伝で出たと思う。
全体を通したMCは福岡風太風太が大阪ノリでやるけど、全然ウケないんだよ。「あかんなぁ、東京は」ってしゃべってるのが、ちゃんとテープに入ってるよ。
でも、確かに言われてみると「♪あの時君は若かった」って銀次が歌っている絵が思い浮かぶね。でも実際には入ってないからね、当日のテープには。練習はしたかもしれない、それはすっかり忘れていたね。
9.21、僕は一番ウケてたからね。それでね、ライブ盤には入ってないけど、僕がステージで「ココナッツ・ホリデーのシングル盤を切る」って言ってるんだよ。この前、そのライブ音源を聞いて唖然とした。でも、それってその場の思いつきで言うわけだから、練習をやっている間に思いついた、と。だから、これは完全にナイアガラレーベル構想の具体化だったと思うんです。
誰かを先頭に出すって言うのではなく、テーマソング的なもの、総括的なものを矢面に出すのが、いつも僕のやり方だから。
「A LONG VACATION」の時もシングルが♪君は天然色では弱い、って言われ。♪恋するカレンにしろって言われたんだけど。♪君は天然色から行かなきゃダメなんだ、と。そういうのと同じで。
9.21の時点でシュガーベイブは構想にはなかったけど、コーラスを大フューチャーしているし、銀次の曲だし、アレンジは僕がやっているし「カチート」って布谷さんは騒いでるし。
だから♪ココナツ・ホリデイは、あの時点のナイアガラ全体像の最初の構想としては一番ふさわしいと。それがその後の♪ナイアガラ音頭に結びついていく。ココナツ・ホリデイは何かって言うとナイアガラのスピリットなわけです。ナイアガラ音頭はココナツ・ホリデイから3年も経ってるし。それを再びということで、ナイアガラ音頭を出したのはテーマソングだからなの。
だから山下くんが「シングス・シュガー・ベイブ」のコンサート(1994年)で、ココナツ・ホリデイの中にちょこっとナイアガラ音頭を入れてくれたときには涙が出ましたね。やっぱり、わかってやってくれてるんだなぁと。
♪ココナツ・ホリデイはそういう象徴的な曲だから、ウケたのをいいことに浮かれて言っちゃったんだろうな、すっごい恥ずかしい、声が高揚してるんだよ。「売れると思う」みたいなことまで言ってる。僕が売れると思う、って言ったのはあれが最初で最後だけどね。でも、そう言いつつ、シングルが出てない所がいかにもだね。
ナイアガラの再構築するのにも、73〜74年の具体的なブツが出てないので、忸怩たる思いがある。あの時に、全部がナイアガラ・レーベルとして、サイダーのCMから、布谷さん、ココナツバンク、シュガーベイブとずっと繋がっていると分かりやすかった。
でも♪ココナツ・ホリデイが幻のナイアガラ・レーベルのシングル盤、第1号であったことに、このあいだ自分で気が付いたんだよ。

 

<9.21がすごく良かったから「ジーガム」のCMでコーラスを頼んだんだよ>
9.21が終わってライブ・アルバムのミックスをやるってステージの音を聴き直したら、シュガーベイブのバックコーラスの評判が良いわけですよ。で、周りの連中が「彼らもやったほうがいいんじゃないか」と。「ココナツバンクよりも、コーラスのあの連中の方が使えるんじゃないか」って噂がたって。だんだんココナツバンクが消えていったの。
その時に何かいろいろあって、ココナッツバンクもいつまでもシュガー・ベイブ・プラスでやるわけにいかないから。
で、お前らやめちまえって僕が言ったような記憶があるんだ。でも、その後ずいぶんやってるんだよねココナツバンクは。
公式記録は9.21の翌日に解散? 多分ね、僕が言った事はみんな正しいと思っちゃってるんだね、誰も知らないから。
でも74年のスケジュールを見てみるとココナツバンクが誰かのバックをやってるところに、僕が言ってたりするんだよ。やめちまえと言った割にはどうもおかしい。だからあれはもっと後のことだったのかな、と。それはちょっと怪しいとこなんですよ。
それで僕はずっとCMをやってたわけ。で、途中からココナツバンクをバックに使って。まぁ彼らの食い扶持も与えなきゃいけないし、あの頃はまだナイアガラと言うのはないんですよ。
僕もシティ・ミュージックと言う風都市の流れの、組織のいちメンバーであって、音楽的な流れではプロデュースとかやっていても、金銭面では全くノータッチ。でも、彼らは常に貧困にあえいでいたから。
CMは支払いが別枠で、スタジオに行ってその場で取っぱらいになるってことで、資生堂のCMとか「ココナッツコーン」とか、あの辺はみんなココナツバンクでやっていたというのは、そういう背景もあるんですよ。
最初のサイダーのCMは、原田裕臣さんと大野克夫さん、アランメリル。「サムライ」のメンバー。僕は原田裕臣さんのドラムはすごく好きだったんだよね。あの時のセッションはすごくいいですよ。大野さんもノってくれたし。
CMでは好きなミュージシャンを使えた。一年間は、はっぴいえんどのメンバーを使わずにやろうと思っていたの。
で、9.21が終わった時に来たのがジーガムのCM。ひとりでほとんど全部やったけど、コーラスをシュガー・ベイブに頼んだ。彼らは使えるっていうのが分かっていたからね。それが9.21後、最初の作品。まだ、彼らは風都市所属にはなっていなかったね。
書籍「オール・アバウト・ナイアガラ」にも書いてありますけど「ジーガム」のCMは、ミキサーの吉野金次さんが渋谷ジャンジャン下に作った「ヒットスタジオ」を借りて2日がかりで。僕は隣の東武ホテルに泊まって、アシスタントの関口さんはスタジオの中、寝袋で寝ていた。で、コマコ(駒沢裕城)のスティールを入れて、ホーンを村岡建さんで。シュガー・ベイブのコーラスも多分ヒットスタジオで入れたと思います。そんなことが、また僕が彼らをコーラスグループだと思っていた、と言うような説に繋がってるのかもしれない。
でも、そこから彼らの12月のコンサートまで、僕の記憶っていうのはあんまりないんですよ。
長門くんと初めて福生に来てから、9.21まではしょっちゅうウチに来てたんですけどね、リハーサルがあるから。

 

<レコード会社が早く決まってたらナイアガラの運命は随分違ってただろうね>
ココナツバンクは最初はベルウッドから出る予定だったと思われるんです。でも雲散霧消したバンドで契約書があったわけでは無いから。でも、少なくとも5月5日の春一番のごまのはえライブはヴェルウッドが録音している。
布谷文夫のポリドールっていうのが、訳わからなくしている原因の一つ。布谷さんはブルース・クリエイションでポリドールからレコード出してるから、彼の流れとしてそれはあるし、ブルース・クリエイションで彼が世に出る前に、僕と布やんは共同生活をしてたって言う流れがあるから、流れとしては一本じゃないんだけれども、付き合いの中では完璧に一本なんだよね。で、なおかつサイダーのデモテープまで布谷さんがやっていると言う。そういう人的なつながりで見ていくと、非常に簡単に整理できる。長門くんとの縁にしても人的なつながり。それでジーガムのCMまでうまくいって、これはいけるんじゃないかと思ったしね。
さらに73年の暮れにサイダー’74をやって、’73と違って一気にコーラスをフューチャーしたのは9.21でシュガーベイブと知り合って、あのコーラスを使って展開できると考えたから。思えばあそこがピークでしたよ、私の。
ナイアガラは何度もピークを迎えるんだけどね。でも、あそこはピークでしたね、僕の中でも。
と言うのは、いろんな才能と出会って膨らみができる時がピークなのよ。自分の作風を発見した!と言うようなことをみんなピークと思ってるかもしれないけど、そうじゃないんだね。いろんなものが集合した時が一番のピークなんだよ。
ところが、そこがピークだったのに「1974年に1枚もレコードが出ていない」というのが、自分としては、非常にね。出したかったけれど。だから74年はCMしかないわけです。
確かに、73年暮れに東芝からナイアガラレーベルを出すと言う話はありました。
そのプランが実現していれば状況は変わっていた可能性は高い。とにかく、どっちにしても9.21からジーガム、シュガーベイブのデビューコンサートやサイダー74、と言う一連の流れで、グッとシュガーベイブ・デビューの機運が高まっていって、74年に入ってニッポン放送でのデモテープ録りになるんですよ。
実は74年初頭にナイアガラ・レーベルの構想を僕は書いてるんです。
それには74年の6月に大滝のセカンドアルバムが東芝から出ると書いてあります。レーベルもナイアガラで。だから73年の暮れには東芝の話が出ていたんです。
6月に大滝のセカンドで、8月にシュガーベイブのファーストと書いてある。この構想通りに行ってたらずいぶん歴史も変わったでしょうね。
東芝に向かう気運はあって♪思い出にさようなら(幸せにさようなら)は、銀次が74年のお正月に作って持ってきたの。あれ加山雄三調でしょう? 東芝でやるって流れがあったから、こういう曲ができたんだけど、って感じだったんだろうね。多分、山下くんにしても、東芝では、って思ってる時期があったと思う。でも、それがうまくいかなかったんだね。
原因はわからない。
でも、後から聞いたんだけど、72年かな、村井邦彦さんがマッシュルーム・レコードって言うレーベルをコロムビアから出して、そのレーベルを再契約するときに値段を釣り上げたらしいんだよ。でも、コロムビアがその金額をのめないので、村井さんは東芝に行ったんだ。だから、どうもコロムビアがのちにナイアガラ・レーベルを取ったのは、その時の反省があるらしいんだな。
だからあの時にコロムビアが村井さんのレーベルと契約延長していたら、ナイアガラのコロムビア契約はないんです。荒井由美だってコロムビアから出てた可能性もある。
東芝は村井さんを取らなければ資金はあったでしょう。そうしたら東芝のナイアガラが実現したかもしれない。あとで新田和長さん(当時東芝)に聞いたらあの時ナイアガラの条件が高かったって言ってたね。
風都市側は、東芝とエレックに同じ条件を出した? それは知らないなぁ。その辺は結構謎なんですよ。でも、その時にはもうナイアガラの構想はあったわけですよ。当然プロデュースするからレーベルだし、いろいろやってるわけですから。でも東芝の前はベルウッドだったハズなんだよ。少なくとも9.21のライブ盤だってベルウッドから出てるし。僕のファーストもベルウッドから。それなのに73年が終わった後に、ベルウッドのベの字も出なくなる。
で、僕は73年の後半から福生スタジオを作り始めるんだけども、誰がお金を出すかって言う時に誰も出してくれないわけね。
だから、お袋の退職金を借りて改修したんですよ。ベルウッドの三浦さんもスタジオ見に来てるの。ベッドウッドの人とフジパシフィック音楽出版とシティ・ミュージック(風都市の制作・出版部門)の3社でお金を出すみたいな話だったんだけど、一向にどこも出さなくて、工事は始まりもしなくて。山下くんが最初に来た時は外側だけがちょっとあった。
お袋から借りたお金で、防音の真似事だけしていた。その後ベルウッド側が「スタジオにはお金は出せない」となったんじゃないかと思う。ナイアガラレーベルは構想はスタジオを持つと言うことになっていたから、だんだんベルウッドはフェードアウトしていったんじゃないか、そんな気が今にして思えばするなあ。東芝も契約以外のところで福生スタジオの援助金みたいなところでもつれたのかもしれない。
それでも、その後、東芝のスタジオにあった機械が福生に来るんだけどね。現場段階の話で来ることになったんだけど、これはこれで、また因縁と言えば因縁でね。あれは小田和正さんがリーチしてた機械だったらしい。小田さんは自分のところに来ると思っていたらしい。それが気がついたら福生のスタジオへ、って言う。因縁なんですよ。しかもそのコンソールはクレイジー・キャッツが使っていたと言う由緒ある機械だったの。

 

<同じポップスといっても山下くんと僕とでは目指しているものが違うんですよ>
73年12月17日、青山タワーホール、シュガーベイブね。何と言っても、途中のMCの「今年のアルバム、ベストテンとワーストテン」というあの覚えしかないのよ。レオン・ラッセルのをヒドいって。デビューコンサートで、そんなこと言う人が居るのかっていう話をしながら、銀次と福生まで帰ったんだけど、その話で持ちきりでしたね。あのワーストテンは面白かったね。
バンドとしては彼らはもう出来上がってたから、何もいうことは無かったよ。
野口(明彦/ドラム)がまだね、独り立ちする前だったから、どうかなっていうのはずっとあったけど。他はあのままで行けると思いましたよ。なにしろリーダーが強力だし、男女混合というバンドも珍しい。ター坊のヴォーカルも入ってくるというアンサンブルも良かったし、これは新基軸だと思った。曲目から選曲からね。曲作りはまだ荒削りだけど、もう♪SHOWはできてたし、もう本格的なポップスをやってたよね。
僕はその時はジーガムとかサイダー‘73とか、ファーストアルバムのようなポップスをやってた。単純なのが自分には合ってるんですよ。
つくづく思ったの、僕は「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」の男なんだよね。みんなはそう思わないかもしれないけど。僕はあれが大好きなんだよ、マンフレッド・マンが。
あの曲を書いたのはジェフ・バリーとエリー・グリーンウィッチだから、スペクター・ファミリーでしょ。
あの範疇で♪Be My Babyがあるんだけど、あの辺は僕の北限なんだよね。でも山下くんはバリー・マン、シンシア・ウェイルだからね。バリー・マンは高度なんですよ。やっぱり。
それはもう♪サイダー’73と♪SHOWの違いを見ればわかるけれど、同じポップスって言っても、山下君と僕とでは目指しているものが全然違うんですよ、最初から。それは感じましたよ。だからリズム隊をちゃんとやればこのままでいい、曲はよくできてるから、いじる事は無いし。それでデモも録ったわけだしね。
だから、そこから先はレコード会社が決まるかって言うことだけにかかっていたし、自分でもやりたくてうずうずしていた時期だった。でも自分自身のソロではノーアイディアだった。
だから、多羅尾伴内なんです。多羅尾伴内っていうのはCMをやるときに使っていた名前なんだけど、シュガー・ベイブとは僕自身のソロではなく多羅尾伴内と並べるのが良いと。ちゃんと差別化もできるしね。
だからできれば、大滝詠一シュガー・ベイブじゃなくて、シュガー・ベイブ多羅尾伴内って言う形で、僕はプロデューサーとしての関わり方を考えていたんですよ。
【外伝2 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第10回 1973.9.21はっぴいえんど解散コンサート

長門くんが僕を大滝さんのところに連れて行った背景を初めて知ったよ>
長門くんのインタビューを読んで、彼が僕を大滝さんのところに連れて行った背景を初めて知ったよ。彼は意外と戦術家だったということが分かった。もうちょっとナイーブな感じかなと思ったら、意外と上昇志向があったんだね。
何より彼の、あの時代の「はっぴいえんど」というグループの影響力の大きさを利用して、シュガー・ベイブを世に出そうという考え方は正解だったよね。
当時の新人バンドは、普通だったらチューリップを売り出していた「シンコー・ミュージック」に売り込みに行くとか、ポプコンやってたヤマハのオーディションを受けるとか、そういうもんだよね。長門くんはそれをしないで大滝さんに直に開いに行こうっていう、それは実に音楽的なアプローチで、営業的なアプローチじゃない。それがその後の僕たちにとっては、とても良かった。
他からの引き合いは有ったんだよ、いくつも。徳ちゃん(徳武弘文)の関係でラジオ関東のディレクターが声をかけて来たり、山本コウタローさんの事務所(ユイ音楽工房)が誘ってくれたり。だから一歩間違えば、半端なポップグループになった可能性は有ったんだよね。変なディレクターにいじられてさ。
まあ、それだったらケンカしてすぐ辞めただろうけどね。下手にメジャーなレコード会社に入って、スタジオで「歌詞変えろ」とか「ヘタだよね、この人たち」とか言いながら歌謡曲やってる連中を相手にやらされてたら、もうこの世のものじゃ無かっただろうね。
大滝さんに会いに行くまでの諸説? 
銀次が「ムーヴィン」でAdd Some〜聴いたって言ってるでしょ。あれにも長門くんが絡んでたんだね。その話も初めて聞いたけど、とにかくジャケに並木の住所と電話番号を書いてあったので、銀次が連絡して来たんだよ。
伊藤銀次という人はそれまで「ニューミュージック・マガジン」とかでしか知らなかった。僕はその時は会ってないんだけど「2枚欲しい」って言ってきた。で、1枚を大滝さんにあげたい、ということだったんだね。僕はそれ、完全に偶然の出来事だと思ってたけど長門くんとの関わりが有ったんだね。
それで長門くんから「大滝さんから連絡あった」と。でも、大滝さんも銀次からのご注進はあったけど、大して興味はなかったと思うんだ。単に聴いて、変な連中だな、と。
この前「レコードコレクターズ」にその辺のことを話してる大滝さんのインタビュー載ってたんだけど、その頃、大滝さんはココナツ・バンクを自分のバックにしていたけど、なんかイマイチ納得がいかなかったんだね。
要するにあの時は9・21のはっぴいえんど解散コンサートが決まっていて、それが細野さん、大滝さん、松本さんの分派構想じゃないけど、そういう意識があったんだよね。
あの時、キャラメルママを結成していた細野さんが最強と言われていたのね。僕は必ずしもそうは思わなかったけど、少なくともミュージシャンのまとめ方としては、細野さんが一番先行していたんだよね。で、僕の目からは松本さんはあまりやる気がなさそうに見えたし。
松本さんは矢野誠さんらとムーンライダースやってて、それに対して大滝さんは何とか互角に戦いたいという気持ちがあって、それでココナツバンクでやろうと思ったんだけど、それだけだとちょっと弱いと思ったのかな。
そこで大滝さんなりの政治戦略としてコーラスにこいつらを引っ張り込もうと。だから僕らもタイムリーというか、運が良かったんだよね。
福生にはクルマで行ったかどうか覚えてない。多分電車だと思う。長門くんと二人で。
で、大滝さんと三人で話した記憶はある。でも大滝さんは遠回しな人だからね、なかなか本題に入らない。一番最初の話題はおみやげだったの。例のエリー・グリーンウィッチのシングル盤ね。その話は今まで何回も言ってるけど。

 

<帰り際に「コーラスで参加してくれないか」と言われた>
一番最初に大滝詠一と言う人を認知したのは、もちろんはっぴいえんど時代。これもよく言ってきたけど、はっぴいえんどのアルバムで好きな作品は全て大滝さんの曲だったので、それなりのシンパシーはもってた。でも彼の音楽的背景とか、そういうところまでは知る由もなかった。
72年に「大瀧詠一」って言うソロアルバムが出たじゃない。僕はその年の暮れに初めてあのアルバムを聴いた。1曲目の「おもい」がアカペラで、変わった人だなぁと。
僕はまだあの頃はクリスタルズの♪ダドゥー・ロンロンとか、スペクターとか、そういう知識ってあまりなかったから、そこら辺も変なアルバムだなと思って。結構聴いたんだよね。
で、洋楽ファンだというのはわかった。その頃は大滝さんが一番好きなのがプレスリーだとか、そういう詳細までは知らなかったけど、でも最後が♪いかすぜ!この恋、だもんね。
あとスクリーン・ジェムスが好きだっていうのも噂で聞いていた。あのあたりのあるアメリカンポップスの作家が好きなんだと言う予備知識があったから、僕がたまたま持ってたエリー・グリーンウィッチのシングル盤を手土産に持っていって。そしたら結構インパクトがあったって言う。まだそういう時代だったから。
で、帰り際になって「今度実は解散コンサートやるんだけど、コーラスで参加してしてくれないか」って言われた。
おそらく大滝さんはAdd Some〜を聴いて、あれがシュガー・ベイブだと思ったんだよね。それは違うんだ、って事は言ったけれど、そんな事はどうでもいい、やってくれればいい、って言う。あまり深い事は考えてなかった。
そういう意味ではあの人は不思議な人だったよね。
あの時、僕が20歳だったから、あの人は25歳だね。そんなに世の中の経験があるわけでもないし。でも当時の年代で5歳上はかなり年上で。
はっぴいえんどは日本のロックの新たなブランドだと思ってたけど、よく考えれば、彼らも立派なサブカルチャーでね。世間一般の認知度って言う意味ではごく一部での認知でしかないわけ。
知られていたのは、あくまで我々の世代周辺でのことでね。それより上も下もなんだかよくわからないって世界だったんだよね。そういう時代だった。まぁそれで福生に通うようになった。
解散コンサート参加の返事はその場でした。「はい」って。長門くんが「やろう」って言って。それも結局、仕組まれたんだな。
でも、その直前ぐらいに矢野さんがスタジオで使ってくれたことが何回かあったから、コーラスの仕事は少しやってた。亀渕友香とかね。
そういうこともあったから、その延長の感覚で村松くんとター坊に声をかけたんだけど、その時はもう1人補強したほうがいいと思って、小宮やすゆうくんにも頼んで、4人でやったんだよね。それでもクレジットは「シュガー・ベイブ」ってなってた。「シュガー・ベイブ」としてやらしてくれって言ったのは、多分長門くんだと思うんだよ。名前を出すことに意味があると。
まぁ大滝さんにとっては誰が誰だかよくわかってないしね。大体大滝さんが初めてシュガー・ベイブを見るのはずっと後で、12月のファーストコンサートだからね。
大滝さんとしてははっぴいえんど解散コンサートの後、ココナツ・バンクのアルバムをレコーディングする予定だったけど、ココナツ・バンクが分解しちゃったんだよね。シュガーベイブのファーストコンサートのときにはもうココナツ・バンクはなかったように思うね。ココナツ・バンクってかなり恣意的なバンドだったし。ごまのはえを解体して再編成したバンドで。

  

<あの日のコーラスアレンジは僕が全て受け持って作った>
練習はまずは福生でやったのね。
あのコンサートでココナツ・バンクがやったのは♪日射病、♪無頼横丁、♪お早う眠り猫君、の3曲かな。それで大滝さんが出て♪三ツ矢サイダー、♪ココナッツホリデーだったかな。あと布谷文夫さんの♪冷たい女。それだけを、もうひたすら毎日練習していた。僕らが行くようになった頃には、アレンジも全て決まっていたしね。福生には村松くんのクルマや電車で行った。
大滝さんには僕らは何も言われなかったよ。コーラスは勝手に作って、って感じだったし。実際あの日のコーラス・セクションのアレンジは僕がすべて受け持って作ったもの。
あの時の大滝さんは、とにかく「キャラメルママ」にだけは負けたくないって言う気持ちがあったんだと思う。だからいきなりCMのフィルムで始めてみたり、演出もかなり工夫していたよね。みんな必死だった。だから、えも言われぬ緊張感があった。
だけど僕は何も言われてないし、知らないから、勝手にコーラスを「あーでもない、こーでもない」ってやっただけなの。
本当はね、あの時にココナツ・バンクが演奏する予定だった曲がもう1曲あったの。スパイダースの♪あの時君は若かった、を16ビートにしたやつ。でも、あの日はかまやつひろしさんが司会で出てたので、直前になって演奏曲目から外したの。
司会はかまやつさんと亀渕昭信さんだったけど♪あの時君は若かったを元ネタの♪Fools Rush Inと全く同じメロディーで歌うと言う、いかにも、と言う、ひねった着想でアレンジもよかったんだけど。でもそれで、もしおちょくった感じに受け取られたら、と言うのを恐れて、やめたんだと思うよ。
僕は大滝さんには、音楽的な意味でなんだかんだって言われた事はそれ以降も一度もない。シュガーベイブの時にアレンジの細かい部分をこうしろとか、この曲のこの部分を16ビートにしろとか、そういうチマチマしたことでもめた事はあるけど。でも僕自身がやっていること、音楽それ自体に対して、それはそうじゃないとか、曲をあーしろとか言われた事は無い。
一番もめたのは「SONGS」のシングル選定。大滝さんは♪雨は手のひらにいっぱいをシングルにしたいって考えてたから。あとは大滝さんの一流のすごく変な替え方、♪SHOWの間奏とか、そういう細かい問題はたくさんあったけど、基本的に文句はそんなにない。そういう意味では、大滝さんの音楽の起承転結のツボとかは、僕とほとんど変わらないからね。だってルーツが同じだもの。
あえて言えばね、大滝さんは厳密な意味でのミュージシャンじゃないから、あの人のイメージを音楽の形に具現化できる能力を持った人と組むと、すごい良い結果になるの。でも、それが具現化できない人だとかなり難航したり、もめたりするんだよ。
つまり大滝さんが言ってることを、どう音楽化しようか、と考えられる人だったら、すごくいいアイデアに思えるの。
例えばね、大滝さんは自分のアルバムを作る時ですら、ブラスのフレーズなんかは口伝えで、それをこちらが譜面に書いていくわけ。その時に大滝さんが言った通りにすると、演奏技術的に吹けないことがあるの。
そういうときには、それを吹けるように変えてあげなきゃいけない。その時に大滝さんが何をやりたいかを把握して、そこを生かして脚色すれば、そこで変えたことに対してはそんなに意識しない人なの。
アルバム「ナイアガラ・ムーン」のブラスとかストリングスも僕がやったけど、大滝さんからは何のクレームもなかったよ。だって「ロシアから愛を込めて」にしろって言うんだもの。なんでこれがそうなるかな、と思ったけどね。
僕はそんなにストリングスの知識がなかったから、クラシックのスコアいくつかと、後はヘンリー・マンシーニの譜面を引っ張り出して、考えたんだよね。あんなこと、二度とやれないけど。

  

<ココナツ・ホリデイだけはコーラスを取り直してる>
解散コンサート当日のリハーサルはドタバタしていてあまり記憶がない。
それより、通しリハーサルの方が記憶がはっきりしているよ。あれは確か本番の数日前、新宿の「ヤマハ音楽センター」でやったんだ。
結構大きな部屋の真ん中に、楽器のセットが置いてあってね。壁伝いに椅子が並べてあって、そこにみんな座っている。で、確か出演順通りに演奏やったから、キャラメルママが最初だったのかな。
その時のキャラメルママはその場に来ている風都市関係者にとっては、もうカルト的な崇拝の対象みたいなところがあったんだね。キャラメルママの演奏が1曲終わるごとに「ふう」って言うため息に近い声が出るわけ、部屋中で。ちょうど僕の隣に座ってた銀次が、僕の耳元で「すごいよね」って言うから、僕は「どこがそんなにすごいの? これ要するにリズムパターンの連続じゃない? これから先はどうなるわけ? 歌はないの?」って聞き返した。小さな声で話したつもりだったんだけど、みんなシーンとしてるからさぁ、聞こえちゃってるわけよw
それで、細野さんが僕に「怪気炎」てあだ名をつけたんだよ。なんだあいつは、って。そのあと細野さんが大滝さんところに行って「お前にそっくりな奴がいるね」って言ったんだって。
でもキャラメルママに関しては正直そういう感想だった。
演奏が上手いのはわかるけど、何回も言っているように僕らはバリバリの洋楽オタクだったから、演奏技術で言えばジャズの方がもっと上手いし、表現力も全然違うでしょ。やっぱりロックンロールっていうかそういう音楽の場合、歌のないインストのみで成立させようと思ったら、かなりのオリジナリティーを要求されるからね。そういう観点で言うと、キャラメルママって確かに演奏力はあったけど、銀次に言ったように「パターンが繰り返されるその先はどうなるの? どんな歌が乗るの?」って感じで、何て言うのかな、歌伴のカラオケみたいに聞こえたんで、あんまりグッとこなかったんだよ。
そういうことで言えば、むしろ「はちみつぱい」なんかの方がよっぽど個性があるっていうかさ。そういう感じがしてた。
今でもキャラメルママに関しては同じ印象だな。ただ、今まで自分が知らないプロの音楽のやり方っていうか、そういうものが見れたと言うのは勉強になったよね。
僕は覚えていないんだけど、当日リハの時もさ、ステージ下手(舞台向かって左側)にハモンドオルガンが置いてあったの、僕がステージに上がって「おお、いっちょまえにハモンド置いてあるじゃない」って言ったんだって。マンタ(松任谷正隆)がリハしてたら僕が上がってきて、そう言ったんで「なんだコイツ」って思ったって。本当にツッパってたんだよ、あの頃はw
ステージ本番は平気だったよ。僕自身ライブはアマチュア時代からある程度はやってたからね。だから別にアガりもしなかったし。そうそう、あの時はマイクの調子が悪くて♪ココナツ・ホリデイの音が脱落したの。
だから、あのライブレコードでは♪ココナツ・ホリデイだけはコーラス録り直されたものなの。後の曲はそのままだけどね。
録り直しは渋谷「ジャンジャン」の下の階にあった吉野金次(9・21録音エンジニア)さんの個人スタジオ「ヒットスタジオ」でやったの。
フルパワーでスタジオで歌ったら「それじゃあ音が歪むよ」って言われた。ガキだったよな、20歳だもん。スタジオなんてあまり行ったことがなかったから張り切っちゃって、3テイク目位で声が出なくなっちゃった。
ブースの中には音を吸い取るためのパラシュートが広げてあった。でも、あのスタジオは当時としたら革新的だったよね。ジャンジャンのステージで演奏した音が、その下のスタジオで録音できるようにラインが引いてあったり。よくあんなの作ったよね。吉野さんは偉いよね。

  

<青山タワーホールのファーストコンサートは必死だった>
1973・9・21が終わって大滝さんは♪サイダー‘74のレコーディングに入ったんだけど、大滝さんに来てくれって言われて、僕はそこにべったりいたんだよ。
で、コーラスやった後にも色んなことをやってる。僕はお調子者だから、やたらと口を出してさぁ、ギロ(打楽器)はこういう風にやったほうがいいとか、メレンゲ(ラテンリズムの一種)がどうしたとか、いろんなこと言ってたわけ。
大滝さんはその頃ナイアガラレーベルを立ち上げようとしてたんだけどココナツバンクが解散しちゃったこともあって駒がないんで、シュガー・ベイブに目をつけたんだろうね。
で、その時にはさっきも言ったみたいに、シュガー・ベイブにはいくつか引き合いがあって、ユイの関係者とかも結構誘ってくれていたのね。だけど僕らは興味がなかったし、長門くんはやっぱりどうしても風都市に行きたかったんだね。
それで秋は、山本コウタローさんがいくつか文化祭の仕事に誘ってくれたの、跡見女子大とか。それとは別に長門くんのラインで明治学院とかね。そうだ思い出してきたぞ。
で、文化祭をやって、スタジオちょっとだけやって、それでファーストコンサートをやろうって長門くんが言って、青山タワーホールを押さえて、12月17日かな。その時には風都市に入って、ナイアガラをやるって言うことになってたんだよね。
青山タワーホールでのファーストコンサートは必死だった。大滝さんだけじゃなくて、それこそ業界の人が結構いたからね。「ニューミュージック・マガジン」のレビューにも載ったし。北中正和さんが書いてくれた。でもそれも長門くんとしては予定の行動でしょう。
はっぴいえんど解散コンサートでシュガー・ベイブって言う名前を出して、ファーストコンサートでメディアを呼んで。でもあの時のお客さんはどれくらい入ったんだろう。満員じゃなかったね。青山タワーホールってキャパ450人ぐらいで半分位だったかな。
あれはまだお金のない時代だから、並木の家でリハをやったのかな。
風都市に入った74年からは新宿の音楽センターを使い合わせてもらえるようになったから。並木の家も周囲にかなり建物が増えてきて、練習もずいぶん気を使いながらやってた。でもなんだかんだで1年近くシュガー・ベイブの練習をやらせてもらったから、ありがたかったよね。
ファーストコンサートはさすがに鮮明に記憶に残っているよ。たいした曲数じゃないんだよ、まだレパートリーが少なくてさ。自分のオリジナルだけじゃ持たなかったから、3曲は小宮くんだし、ター坊が2曲。
ファーストコンサートは成功と言っていいのかなあ。北中さんは割と好意的に書いてくれたよ。まぁあの時代だからね。正直言って、今自分であの時の音を聞き直してみると、まだ全然形が決まってないね。本当の意味で形が決まり始めるのは「SONGS」のレコーディング始まってからじゃないかな。
このファーストコンサートのために書いたのが、前回話した♪SHOWなんだよね。ステージで1曲目に歌う曲を作ろうと思って。
【第10回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 外伝1 長門芳郎インタビュー

<マネージャーになるハズが「ディスクチャート」で働くことになった>
72年の秋に「ディスクチャート」が出来た時、僕は長崎県対馬に居たの、東京から一回引き上げて。対馬で現場監督、道路を作ってた。
親の金でいかせてもらっていた大学を中退しちゃったから、自分で食わなきゃいけない。で、対馬で免許ないけど、機械で穴を掘ったりとか、島のおじいちゃんおばあちゃんたちをまとめて、側溝を作ったりしてたよ。
それをやりつつ、72年に長崎ではっぴいえんどのコンサートの主催をやった。それがはっぴいえんどボックスに入っている72年の夏のライブ音源になってる。
で、その時にはっぴいえんどのメンバーや「風都市」の人と直接知り合ったわけ。
はっぴいえんどへのコンタクトは相棒の小宮やすゆう君が、矢野誠さん経由かなんかで風都市に連絡をつけてくれたの。で、はっぴいえんどと布谷文夫さん、それから一緒に矢野さんも来てくれた。あと、いとうたかおが食事だけ食べさせてくれたらギャラ要らないからって来たの。いとうは、風都市の窓口だった前島洋児(のちに風都市社長になる)さんと話したんだと思う。
7万円じゃなかったかなぁ、はっぴいえんどのギャラは。長崎に続けて、福岡の能古島(のこのしま)でやってるから、交通費もそれとうまく絡めたんだと思う。
だから長崎で、はっぴいえんどのコンサートをやった翌日、僕が松本さんとかみんな乗せて福岡まで行ったんだ。
で、72年の秋のある日、僕の行きつけだった喫茶店に突然、矢野さんから電話がかかってきて「明日東京に来れるか?」って。聞いたら、僕のバンドのメンバーだった西口純一がデビューするっていうの。矢野さんのアレンジでブレッド&バターがコーラスやったりしてね。マネージャーとして来ないか、と。さすがに翌日は行けなかったけど、2〜 3日後に上京して矢野さんと会ったの。
そしたら四谷の(フォーク系の)プロダクションに連れていかれて、そこで修行しろとか言われた。翌日からそこに行けって言われたんだけど、行かなかった。
でも、東京出てきて仕事がないから、小宮のところに居候することになったんだ。無責任に呼び出されたのかなあ。
僕は「事務所は風都市だったらいい」って言ったの。はっぴいえんどとか小坂忠とか好きなミュージシャンがいたからね。だけど矢野さんは「風都市は理想ばっかり追いかけていて現実的じゃない。ちゃんとしたプロダクションで勉強したほうがいい」って。
で、その事務所には行かなかった僕は食えないから、ちょうど小宮がその頃に出来た「ディスクチャート」でウエイターをやってたんで、社長の後藤さんに「僕も雇ってください」と頼みに行ったの。
小宮も僕もウェイターでも何でもやったけど、音楽のディレクションやってた。どういうレコードを買ってきてかけるかと言う。
最初はブリティッシュ系のポップスが多かったんだ。後藤さんが好きなんじゃなくて、後藤さんを焚き付けた日野原幼紀さんとか周りの人が好きだったのね。だけど僕と小宮が入ってからはいわゆるシンガーソングライター系とか、アメリカ系のラスカルズビーチボーイズ、スプーンフル、ヤング・ブラッズ、ローラ・ニーロ、そんなんばっかりかけるから、全然変わって来ちゃった。最初はフリーとかディープ・パープルもあったんだけどね。フリーは好きだったから、かけてたけど。で、ちょっとのっとったみたいな感じになってね。
人気の渋谷「ブラックホーク」でもあの頃はディープパープルとかハードロック特集、ツェッペリン特集とかやってたよね。当時はハードロック系、ブルースロック系のお店が多かったんだけど、アメリカン・ポップスとかフォーク、ロック、それからニューヨーク系のシンガーソングライター、バリーマンとかキャロル・キングとかかける店って無かったんだよね。
「ディスクチャート」でそういう路線を取り入れたのは単純に好きだったから、僕らが普段聴いている音楽をかけている、と言うだけ。こういうのをかけたら客が来るだろうとかは、一切考えなかった。お店を作った時は名前も「ディスクチャート」だし、チャート物の曲をどんどんかける日とか、オールディーズのシングルをかける日とか決めたりしてたんだけどね。
レコードの買い出しは僕と小宮でヤマハとか、ディスク・ロードとかへ。ボビー・チャールズやバリー・マンの新譜が出たら買ってきたり、お客さんのリクエストも受けて。多分月に10枚買ってないと思うよ。お客さんもそんなには来ないし。
シングル特集の時なんかは「平塚から来ました」とか結構マニアな人はいたけどね。ビーチボーイズ特集をすると、来る人の中にAdd Some〜メンバーの武川くんも居て、それで山下に「ディスクチャート」のこと言ったんじゃない?
当時一般的じゃないものをかけたり聴いたりしていたから、日野原さんとか矢野さんが、小宮や僕に一目置いてくれてたのね。
ター坊が来るようになったのも矢野さんにいい音楽かけてるから行きなさい、って言われてきたんだ、多分。
ター坊は可愛いかったね、まだ19歳。ジョニ・ミッチェルが好きとかね、絵も書いてるみたいな話もして、可愛いなぁって思った。人懐っこいって言うよりシャイだったと思うよ。だって初めて会ったわけだし1人で来たような気がするな。
でも、すぐ仲良くなったよ。裏の焼き肉屋に一緒に行ったりして。一時期ウェイトレスもやってたからね、ター坊。「ディスクチャート」が「いーぐる」に変わってからか、ちょっと時期ははっきりしないんだけど。店でこけそうになったとか言ってたね。
お客さんとは接触しない? そんなに突っ張ってもいないんだけどね。「パイド・パイパー・ハウス」でもそうだったけど、常連同士でくっつくの見るのが嫌なの。客の立場としても嫌じゃない。普通のお客さんも常連も同じように接したいというのがポリシー。だから別に山下だからどうとか、そういうんじゃなくてね。店のスタイルだね。
ある日、若手評論家が駆け込んできたの。僕はカウンターの中に居て、彼はシングルのテスト盤を持っていて「これをかけてくれる?」って言うわけ。見たら発売前のキャロルのシングル。僕は「ウチはそういうのやりませんから」って断ったの。どういう音楽かけるかは一応決めてやってるしね。なんだこのお店は、みたいな感じで帰っていったけど、彼もまだ業界に入って駆け出しだったんだよねw それ以来会ってないけど。今はそんなことないだろうけどあの頃は彼もイキがってたんじゃないの。
客からのリクエストは受けてた。レコードのリストもノートにして置いてあったし。特集もヤング・ブラッズ特集とかラヴィン・スプーンフル特集ってチラシに貼ってたりした。
山下達郎が最初に来た時? 
山下が黒っぽいダッフルコートを着て現れたんだよね。それは覚えてる。Add Some〜は山下にもらったんだよ。もらってこれは面白い、ウチで売りたい、って多分10枚かそこら置かせてもらったの。壁に飾って1500円で売った記憶はある。
だから山下が土井くんとどういう話をしてたのかは僕もよく知らないけど、多分山下がリクエストして、何かかけたのかな。最初はヤングブラッズかなんかと思うんだよ、スプーンフルとかね。それで山下も言ってたと思うけど、Spoonfulが居たカマストラ・レーベル系が好きだったらって、彼がソッピース・キャメルを持ってなくて、僕がイノセンスをまだ持ってなくて、貸し借りをして山下の家に遊びに行ったのは覚えている。で、彼のオリジナル曲のテープを聞かせてもらったの。
山下の部屋の天井にベンチャーズのポスターが貼ってあった。♪黄色いあかり、と言うオリジナル曲、バラードなんだけどめちゃくちゃ声が良くて、すごいなと思ったのね。それが初めてだね、彼の曲を聞いたのは。
Add Some〜はみんな知っている好きな曲ばかりだし、こんなのをやる連中がいるんだと思った。あんまり上手いとは思わなかったけど、声は良かった。♪Your Summer Dreamとかね。ソロっぽい曲のボーカルはすごく良かった。コーラスは厳しいものもあったけど、でもすごいなと思ったね。あの頃は拓郎とか、かぐや姫とかの全盛時代じゃない。そういう時にディスクチャート自体がちょっと異色の存在だったから、ドンピシャ、趣味的に。こんな連中が日本にいるんだと思って。しかも二十歳前でしょ。アマチュアだし。
入っている曲が、僕が長崎で高校の時にやっていたバンドのレパートリーだったりするわけよ。でも僕らはそれをやりたくても、全然雰囲気が出なかったし、あそこまで精密にできないし、それはすごいなと思った。ディスクチャートでは全部売れたよ。まぁ身内が買ったりしてね、小宮とか。お店でもかけてた。しょっちゅうではないけどね。

 

シュガー・ベイブの結成、そしてマネージャーに>
シュガーのメンバー。ター坊はあの頃美術系の専門学校に行っていた。学校の帰りにジャズ喫茶に1人で入ったり、矢野さんの紹介でうちの店に来るようになった。僕らも矢野さんから「いろいろ聞かせてやってくれ」って言われて。ジョニ・ミッチェルとかローラ・ニーロとか聴かせて。あとオハイオ・ノックスやフィフス・アベニューバンド。
僕がかけてター坊が反応したのは、ベン・シドランのI Lead A Life とか。ジャケットを手に取って「これいいね」みたいな事は言ってた。
当時「ヘドバとダビデ」の作詞もやっていた門間裕と言うワーナーのディレクター、彼の担当かな。で、矢野さんアレンジでター坊は「三輪車」と言うフォークグループでデビューすることになっていたの。でも矢野さんも僕も「三輪車」はダサイと思ってたんだよね。ター坊は声がいいし、絶対にソロでやったほうがいいと。
それでお店のオーナーに頼んで、お客さんが帰った後、夜中にター坊のデモテープを作ろうと言うことになった。僕は録音係で、他に小宮、徳武、そして当時やっぱり「三本足の椅子」と言うフォークグループをやってた野口明彦がいた。野口はあの時はドラムをやってなかったし見学かな。
それで徳武と小宮がギターを弾いて、僕がパーカッションやって、ター坊が歌うと言う感じ。
三輪車のレパートリーに♪午后の休息の元歌があったり、小宮が曲を書いて僕が詩をつけて、ター坊が歌うっていうのもあった。多分2〜3曲は録ったけど、その何回目かに山下が来たんだよ、僕が声を掛けて。で、夜中に「やまや」のお菓子のバンで来たの。実家の仕事の帰りだよね。「パン屋なんだから差し入れ持ってきてくれよ」とか言った記憶があるw
山下は最初はおとなしく見学してて、一服しようかって時に置いてあるギターをつま弾き始めて、誰もが「いいな」「うまいな」って思ったよね。
その時は歌わなかったと思うけど、クイック・シルバー・メッセンジャー・サービスの♪フレッシュ・エアーとかやったかな。お店でもクイックシルバーの山下の好きなアルバムをガンガンかけてたからね。
ター坊のデモテープには山下の演奏は入ってないと思うんだ。その時は徳武くんが居たし。
あの時は山本コウタローさんは来てたのかなあ。なぜかコウタローさん居たんだよね。その後コウタローさんは徳ちゃんと少年探偵団を作るから。少年探偵団はシュガーベイブのデビューコンサートに出てるんだよね。
で、そんな流れでシュガー・ベイブに繋がって。野口も居たしね。最初のシュガー・ベイブの曲は小宮と僕が書いた曲をやった。
あと、あの時山下も居たと思うけど、コカコーラのラジオCMをアマチュアの学生とかに作らせて流すっていうのがあったの。それで徳ちゃんがウェイン・モスみたいなギターを弾いて、ジャグ・バンドっぽくやったの。その時は小宮、僕、山下もいたと思う。山下がスプーンを2枚重ねてカチャカチャやるような。それラジオで流れたのは覚えてる。
僕は最初、Add Some〜のバンドではっぴいえんどの次のコンサートを長崎でやれないかなってアイディアがあったわけ。その話を山下にしたときに「もうバンド自体がないから。でも何か作れたらいいな」みたいな話はあったと思う。結局シュガー・ベイブの1回目のライブは長崎でやったわけだから、その話はやっぱり発展したんだと思う。
シュガー・ベイブはター坊と山下の間で秘密に進んでたんじゃないかな。ドラムのオーディションはどこでやってたんだろうね。並木さんの成増の家でやってたのかな。でもある日ター坊から「山下さんとバンドやるかもしれない」みたいな話を。「え、いつの間に?」みたい記憶がある。
で、一度リハーサル見に来ないかって僕が成増まで行ったのね。何回目かに行った時にもうだいぶ形になってた。でもバンドの名前はまだついてなかったと思う。
僕の歌でテープを録ろうと言う話もあったんだよ。遊びでね。僕が好きな歌をやろうって。♪You belong to me と♪Venusだったかな、フランキー・アヴァロンの。山下も好きな曲だって言ってた。
よくあるじゃない。NRBQ(1969年デビューの米ロックンロールバンド。 バンド名は「New Rhythm and Blues Quintet」の頭文字から)のマネージャーが下手なんだけど、NRBQバックで遊びでCD作ったりとか。あれも
♪Come softly to meだった。そういうノリで。結局録らなかったけどね。僕が照れちゃってね。山下や村松くんもやろうよって言ってたけど。
で、何度目かの時に山下に電車の中で「長門くんマネージャーやってくれないか」って言われたので「いいよ」って。
それで「ディスクチャート」が73年の春に「いーぐる」に名前が変わるのかな。ディスクチャートが期間限定っていうの僕は知らなかったんだよ。確かに区画整理で一旦移転したんだけどね。それで途中から小宮がフェードアウトして、僕があの店の音楽も全部やるようになってたの。
でも客数が全然伸びないし、何か責任感じてあーこれじゃ多分続かないだろうなぁと思ってたら、やっぱり後藤さんに「店閉めようと思うんだけど」って言われたの。最初から決まってたのかもしれない。
山下にマネージャーにならないかって言われたのもバンド名が決まった後かどうか覚えていないなあ。バンド名も、ある日練習に行く時にみんなに宿題を出したわけ。僕は成増に向かう電車の中でシュガー・ベイブって思いついて、当時は携帯とかないから、成増駅に着いたところで電話したの。ター坊が出たから「いい名前思いついたから、山下に言って」って言ったら、ター坊が「もうなんか決まったみたいよ」「えーこっちいいのあるんだけど何にしたの」「シュガー・ベイブ」って言うわけよ。偶然。
僕がなんでシュガーベイブがいいと思ったかって言うと、その前にアントニオーニの「砂丘」って言う映画を見に行ったのね。砂漠のシーンでヤング・ブラッズの♪シュガー・ベイブが車の中でかかるシーンがあるんだ。
山下はヤング・ブラッズ好きだしね。シュガーベイブっていいなって思ったの。バンド名決まった後かもしれないなぁ、マネージャーやるって決めたのは。
「ディスクチャート」は終わったけど仕事がないと困るから、そのまま「いーぐる」で今度はジャズのレコードをかけることになった。
で、マネージャー業はドゥーワー・スタジオとかそんな名前で名刺作って、「いーぐる」の住所と電話番号を連絡先にして。だから大滝さんからそこに電話がかかってきたの。
「これ聴いたけど」って。

<他の連中にも山下の歌声に注目して欲しいと思ってた>
当時「はちみつぱい」のベーシストだった和田(博巳)さんがやっていたロック喫茶「ムーヴィン」で、Add Some〜がかかってるのを(伊藤)銀次が聴いて、大滝さんに「ご注進!」ていうのは確かなんだけど、レコードがムーヴィンに行った経緯や、銀次の耳に留まるまでは諸説ある。僕が思い込んでしまってるのかもしれないけど。
あの頃、僕は忠さん(小坂忠)のバック「フォージョーハーフ」でペダルスティールギターを弾いていたコマコ(駒沢裕城/ゆうき)と仲良くなってね。彼とはユッコちゃんと言う仙台から来た、小柄なちょっと可愛い子を通じて知り合って。彼女は何をやっていたかよく覚えていないけどw高円寺の「ムーヴィン」とか渋谷の「ギャルソン」とかに出入りしてて、ユッコちゃんの紹介でコマコと仲が良くなったと思う。よく一緒に渋谷界隈で遊んでいた。で、僕の記憶の中では、銀次とコマコが「ムーヴィン」で飲んでる時にユッコちゃんがAdd Some〜を銀次たちに聞かせたんだとずっと思い込んでたわけ。
で、この前、銀次が言っていたのは、「ムーヴィン」に行った時にAdd Some〜がかかっていて「これは誰? ビーチボーイズにしてはちょっと音が悪いし」と。その時にコマコが「海賊版かな」って言ったんだって。
山下が言う「本多信介がムーヴィンに持って行った」説は、信介は和田さんの友人で、はちみつぱいのメンバーだから、信介経由は可能性が一番大きいかも。
その後の話だけど、銀次とコマコとユッコちゃんが沼袋の僕のところに来たことがあるくらいだから。ユッコちゃんの線も捨てがたいけど。
僕がAddSome〜聴いて山下の歌声に惚れ込んだみたいに誰か他の連中にも注目してほしいと思っていた。

<半ば強引にデビュー・コンサートをやった>
大滝さんからの電話連絡は「レコードを聞いたけど、今時こんなコーラスをやってるのが面白い」って。
経緯としては銀次がまず並木さんに連絡を取ったんだと思う。ジャケに連絡先有ったし。それで並木さんが、僕がマネージャーをやってるからって「いーぐる」の電話番号を教えてあげたと。それで最初に銀次が電話をかけてきたのかもしれない。それで大滝さんが僕にかけ直したのかもしれないね。
それとも大滝さんから直接かかってきたのかなあ。
どっちにしてもその夏のことだもんね。73年の夏、山下と2人で大滝さんに会いに行ったのは。
それ以前に大滝さんとは会ったりはしていない。72年に長崎にはっぴいえんどを呼んで、ライブで会ったきり。大滝さんの自宅の電話番号も知らなかったし。
でも大滝さんは僕の事は覚えてくれていた。長崎でのはっぴいえんどのライブはすごく良かったし、大滝さんも喜んでくれてた。市内観光でグラバー邸に行ったりして「ここに住みたい」みたいなことを言ってたから、印象に残ってたんじゃないかな。
それで73年の夏に会いに行ったことだけど、まず福生の大滝さんの家に着くまでが暑くて参ったのと、奥様が美しかったのが印象に残っているw
米軍ハウスで、一軒が母屋で、もう一軒のスタジオの方に僕ら通されて、大滝さんがいろいろシングル盤を聴かせてくれて、楽しかったな。やはりAdd Some〜が発端なので、どうやって作ったのかとか、山下の音楽的バックグラウンドとか、大滝さんは聞きたかったみたい。
最初は山下も構えて行ったところあったと思うけど、ポップス談義している間に打ち解けたんじゃないかな。
山下がお土産に持っていったエリー・グリーンウィッチのシングル盤の話で盛り上がったり、僕がジョニー・ティロットソンやフランキー・アヴァロンが好きだと言うと、ケイデンスやチャンセラー・レコード、エディ・ホッジスやジョニー・クロフォードの話になったり、時間を経つのを忘れるほどだった。腹減っただろうとカツ丼の出前を取ってくれてね。あのカツ丼一杯ではっぴいえんどの解散コンサート出演、承諾したって感じかなw
僕のマネージャーとしての最初の仕事は、やっぱり長崎でのファーストコンサートだね。長崎に行くのは僕が実家の長崎で、ずっとイベントをやってきたのと、あとAdd Some〜聴いたときにこのバンドでコンサートやりたいと思ってた。だから最初のステージが長崎になった。
それ以外の売り込みでは、まず学園祭だよね。だって当時ライブハウスみたいなどこでやっても5000円のギャラしか出ないし、レンタカー借りたりアンプ借りたりしても赤字。だから、ある程度ちゃんとギャラが出る学園祭には結構売り込んだよ。
例えば最初の頃、シュガー・ベイブのパーカッションをやっていた木村シンペイと言う長崎の後輩がいて、彼は後にあがた森魚ヴァージンVSのドラマーになるんだけど、彼が東洋大学に行ってたから「白山祭の実行委員会に話つないでくれ」って頼んで、それで出たり。後は跡見女子学園、いろんな友達関係のルートを使って売り込んだりね。
大学時代の同級生で学校では会わないのに、デモでは一緒になる家崎って言う人がいて、彼の友人が「浦和ロックンロールセンター」を仕切ってた滝口くんで、そのつながりで「郡山ワンステップ・フェスティバル」に出ることになったり、家崎が週刊ポストでコラムを書いていた宮原安春さんと知り合いで、青山タワーホールのシュガー・ベイブ・デビューコンサートの告知を週刊ポストに乗せてもらったり。少ない人脈をフルに使った。明治学院大学のグラウンドでやったコンサートに出たり、大宮の女子校で演奏したりね。
そんなふうに、こっちはバンドとして何とか売り出そうと必死だった時に、大滝さんから9月21日の「はっぴいえんど解散コンサート」の話があったわけ。それがコーラス・グループとしてやって欲しいと言う話だったから、山下も最初は二の足を踏んでいたんだ。「僕らバンドだし、それにAdd Some〜は数年前に作ったやつで、今とはメンバーも違うから」と。
でも大滝さんに口説かれて、結局9・21は山下、ター坊、村松、それから小宮の4人でやることになった。で、小宮も含めてシュガーベイブって言う名前で紹介されてしまった。
9・21で、大滝さんのステージが始まって、シュガーベイブのコーラスが聞こえてきた時は興奮した。山下のファルセットがホール内に響き渡ったときにはもう胸にジーンときてね。「どうだ!」みたいな。「こんなボーカル聞いたことないだろう!」って叫んでた、心の中でね。
あとコンサートには山下、ター坊、村松くん以外の2人、鰐川と野口も実はココナツ・バンクのパーカッション隊とし参加している。
それでもコーラス隊として世に出てしまったので、僕らはシュガーベイブって言うバンドなんだ、と言うことをアピールするために半ば強引に青山タワーホールでデビューコンサートを企画してやったわけ。でも、お金ないからいろいろ考えてね。
徳ちゃんが法政大学に行ってたんだけど、その大学の友達に下條高志くんと言う人がいたの。彼はまだ学生で法政大学のプロデュース研究会みたいなのをやっていたのかな。そこには兵隊もいるし、チラシのデザインもできると言うことで、一緒に組んでやることになった。そうでなきゃ、持ち出しでできないもの僕らだけじゃね。
それが73年12月17日のコンサート。このコンサートは東京でのちゃんとしたシュガー・ベイブのお披露目と言うことで”Hello! We are Sugar Babe”と言うタイトルをつけてやった。で、大滝さんと伊藤銀次を招待したわけ。山下にもこれが僕らシュガーベイブサウンドだ!って言う意気込みはあったんじゃないかな。
オープニング、演奏が始まって緞帳が上がって、歌い出した瞬間の胸高なる気分は、生まれて初めて味わうものだった。それが♪SHOW、最初は「ショーほど素敵な商売はない」ってタイトルだったかな。
終わって大滝さんからね、「やりたいことはわかるけど」みたいなことを言われた覚えがある、僕にね。でもまぁ大滝さんがいまいちだと思ったのは演奏技術的な問題だったんだよね。それはしょうがないと思う。実質的に初めてのコンサートだったから。
でも山下がやりたい事はこういうことだったんだと言うのを、大滝さんは理解してくれたと思う、あの時に。

 

<「なんだこの会社は」って思ったのは覚えてるよ>
風都市とシュガー・ベイブの話だね。
いちど風都市の社長の前島洋児さんと矢野誠さんと松本隆さんとで「いーぐる」に僕に会いに来たことがあった。その時には松本隆ムーンライダースのマネージャーをやってくれないかって言われたんだ。松本さんはムーンライダースと9・21にも出ていた。
で、洋児さんにマネージャーを頼まれたんだけど、僕はシュガー・ベイブをやりたいんです、デビューコンサートも企画しているから、って断ったの。
そしたら、その後にもう一度洋児さんが来て、その時にはガラッと話が変わってね。シュガーも連れてきていいから風都市に入ってくれないかと言われたわけ。
記憶が曖昧だけど、2度目に来たのはデビューコンサートの後で、ひょっとすると大滝さんがシュガー・ベイブを推してくれたのかもしれない。で、条件を聞いたら、メンバーそれぞれに月給4、5万出すし、僕には8万出すからって。それに経費も充分出るって。これはいい話だと思って、山下とかメンバーに話したら、いいだろうってことになってね。
でも矢野誠さんは前に「風都市は理想ばかり追っててダメだ」って僕に言ってたのに、自分が先に入って、僕を引き入れようとするんだからねw その時矢野さんはムーンライダーズにキーボードで参加していたんだよね。
で、僕らも風都市に所属することになった。多分、年明けだったと思うけど僕は初めて市ヶ谷にあった事務所に出社したんだけど、事務所が開いてなかった。11時ごろ行ったんだけど、誰もいなくて扉に鍵がかかったままだったw 「なんだ、この会社は」って思ったの覚えてるよ。
風都市とは契約書も無く、口約束だった。収入の取り分の話とか、ビジネス的な話は全くなかったと思う。給料の額だけ前島社長から説明を受けただけ。
シュガーは長崎でスタートして、学園祭はやったけど最初の頃は仕事って言う感じじゃないよね。公開リハーサルみたいというか。とにかく場数を踏まないとプロにはなれないと考えてた。ただお金はほとんどなかった。山下もター坊も僕もみんなバイトしてたからね。
風都市に入ったけれど結局お金は一度も出なかった。メンバーの実家が東京にあったから何とかバンド活動できたって事はある。ボロ屋住まいの僕のところに山下やター坊が食料を差し入れしてくれたし、練馬の山下の実家でよくご馳走になってた。
僕もマネージャー経験はなかったし。とりあえず演奏する場を見つけたい、って言う感じで。演奏聞いてもらわないと始まらないしね。場数を踏まないと上手くならないし、バンドもまとまっていかないから。ただバンドとしての仕事は難しかった。
僕がまだ「いーぐる」にいた頃だけど、大滝さんのコーラスの仕事を始めたのね。シュガー・ベイブはあくまでバンドとしてやっていこうと言うことだったんだけど、大滝さんが山下の才能を買ってくれて。最初にやったのはジーガムのCMだったかな。風都市に入る前だったから、そのギャラを制作会社の人が「いーぐる」に届けに来てくれたことがあった。
その流れでCM音楽の制作会社の人に認めてもらって、風都市に入る前に山下がCMの仕事を何本かやったんだよね。「三愛バーゲン・フェスティバル(山下達郎CM作家デビュー作)」とか。それから「不二家ルックチョコレート」もやった。シュガーベイブが学園祭に出ても、まだレコードも出してないから誰も知らないでしょ。仕方ないから山下達郎が「不二家ルックチョコレート」の一節を歌ってみせたりとかね。そういう事は何回かあったな。
その意味では長崎でやったコンサートが一番良かった。レコード出してない無名のバンドでもお客さんが素直に受け入れてくれたから。
僕らが長崎と東京で「SOON!」って言う音楽ミニコミ誌を作ってたのね。それを読んでくれてた人たちがコンサートに来てくれたし、それまでも長崎にはっぴいえんどや布谷文夫を呼んだりして、何回かコンサートしていたからね。あの頃はFrom Tokyoみたいな感じで、シュガー・ベイブは全く無名だったけど、東京から来るって言うだけで注目されることがあった。シュガーベイブの時はシリーズの4回目が5回目のコンサートだったかな。
「SOON!」は3ヶ月に1度位、ガリ版で作って、広げると新聞大の。それを畳んでA4サイズにして長崎や東京で配布してた。
結局、風都市は僕にとっては好きなアーティストが所属する理想のマネジメント事務所だったんだけど、入った時期が悪かった。自分やメンバーの生活費の心配をしないで、好きなように音楽活動ができると思ったんだけど、甘かったな。世間知らずだった。僕らが入った頃には、既に運営的に行き詰まっていたんだね。結局メンバーも僕も一度もギャラもらえないうちに倒産してしまった。
今更恨みごと言うつもりはないし、30年も経ってしまえば恩讐の彼方というか。
でもあの時代、大滝さんや細野さん、(吉田)美奈子とか知り合えて、それが後に音楽的に実りある、たくさんの成果を生んだと言う事はあるかな。

【外伝1 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第9回 シュガーベイブ誕生

<当時、いろんなミュージシャンのライヴを観ていたよ>
1972年、行った来日コンサート。
ツェッペリンプロコル・ハルムテン・イヤーズ・アフタージェームス・ブラウン、それから共立講堂で見たフリー。いろいろ観た中であのフリーと、高校1年の時にサンケイホールで見たホリーズがベストだね。ホリーズは、グラハム・ナッシュがアコギを弾きながら歌っていたけど、当時はボーカルアンプしかなかったからアコギなんか全然聞こえなかった。だから実際にはギター1本、ベース、ドラムスの3リズムと三声のハモリだけなんだけどほんとにすごかった。1曲目が♪ストップ・ストップ・ストップで全くレコードと同じ、あれは感動的だった。
72年の箱根アフロディーテも行ったよ。Pink Floydは初期のシドバレットがいる頃にはヒットソングとして聞いていたけど「原子心母」あたりはそんなに好きじゃなかった。
箱根に来た時は「おせっかい」が出たあたりで、最後にエコーズをやったんだけど、あれにはブッ飛んだな。当日の朝は土砂降りで。でも始まる頃に雨が止んできて、Pink Floydの演奏が始まって暗くなって、エコーズの時に霧が出てきたと思ったら、会場の後ろから月がわーっと出てあの自然の演出はすごかったね。あれだってSEを使っているけど、楽器はドラム、ベース、ハモンド、ギターの4つをの音だけ。それであんな音を出していた。コンセプトはハッタリくさいんだけど演奏にグルーヴがあったから素晴らしいと感じたんだよね。
日本の音楽では、もうちょっと前かもしれないけれど渋谷のフォーク喫茶「青い森」で3人だった古井戸を見てる。あと西岡恭蔵さんを渋谷「BYG」の地下で見たのが大きかった。
それから早川義雄の「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」も聴いていたし。いつも言うけど、はっぴいえんどはバーンズの人がやっている、ってことだね。
西岡恭蔵さんを見たのは多分、全部浪人時代以降だと思うんだ。それまでは日本のロックなんて新宿のサンダーバードってディスコでやってるカバーもの、モップスとかそういうのしか見てなかったんだけど、西岡恭蔵がBYGで1人でやってるのを見たときは、まだロン毛でもなくって、象狂象の名前で、ヤマハのギター1本で弾き語りをしてた。村上律とジョイントだったかな。♪プカプカを初めて聞いたの。並木と2人で行って、感動したんだよ。それでディラン・セカンドのアルバムを買ってきたの。ライブは暇だったから見たんだけどね。
「青い森」も飛び込んだら古井戸がやっていた。その時に古井戸は♪かくれんぼ、とか♪春よ来い、とか自分たちの曲よりもそういうのばかりやっていて、その2曲が良かったんで、並木がはっぴいえんどを買ってきた。
大きいレコード屋さんに行けばURC関係は結構あったよ。並木は邦楽に対する興味も結構持っていて♪帰ってきたヨッパライは出ると同時に買ってきたし、RCサクセションも良いって言ってたね。
西岡恭蔵さんはエンターテイメントじゃないんだよね、一切。ひたすら淡々と歌い続ける人なんだ。ビジュアル的にもどっかの学生みたいな、もっさりした感じで、ガタイが大きくて、小太りでね。だけどその歌の世界が実にいいの。歌はうまいし、作曲能力もすごく優れていた。
古井戸の加奈崎さんも歌は下手じゃないから、彼が♪かくれんぼを歌うと、かなり説得力があったんだよね。
早川義夫は♪サルビアの花かなぁ。でも僕はジャックスが結構好きだったから。考えてみれば、♪かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう、って、殆ど♪イマジンの世界だよね。ピアノ以外何もない。あれはなかなか大したもんだと思うけど、きちっと評価されてないんだよね、サブカルチャーだから。ああいうのを何でも「フォーク」で括っちゃったのがいけないんだよ。そういう偏見が生まれてしまったんだよね。
僕の周りでは、加川良三上寛遠藤賢司友部正人あたりは一通り聴いていたからね。
若林くんの関係で武蔵野タンポポ団もよく見たし、あれが♪珈琲ブルースの高田渡かと思ってね。彼らのスタンスっていうか目線は我々とそんなに変わらないんだよ。
ただ音楽は違うからね。僕らがやっていたのはトライアドじゃないから。聞いていた音楽の趣味が違うの。
彼らはBob Dylanとかフォーク・ブルース、ミシシッピー・ジョン・ハートとか。
だけど我々はビーチ・ボーイズラスカルズラヴィン・スプーンフルだったと言う。だから中川五郎の♪僕のベッドにおいでよ、みたいな向こうの曲を日本語に引き寄せようとする動きはあの時代の必然だったんよね。
そういう流れの中から西岡たかしの♪遠い世界に、とかフォークルのようなオリジナルの素晴らしい曲が生まれている。はしだのりひことシューベルツの♪風、なんかも曲としては名曲だと思うよ。
高校時代には僕も同じようなことをしていた。友人のガールフレンドに詩を書くのが好きな子がいて、後はもうひとり中学からの友達で詩を書いてる奴もいて、そういう詩に曲をつけたりしてたんだよね。
鰐川と2人でアコギ2本で♪黄色いあかり、なんて言うオリジナル曲をやってた。スウィング・ワルツでね。今もデモテープを持ってるけど。並木はこれがお気に入りで「なんでシュガー・ベイブでレコーディングしないんだ?」って言ってた。
♪黄色いあかりはシュガー・ベイブではやっていない。シュガー結成以前に作った曲はシュガーでは1曲もやっていない。それまでの気分次第で作った作品と、シュガー結成以降のものは明らかに創作の意思が違った。
♪黄色いあかりはスイング・ワルツで「ブラックホーク」の薄暗い電灯を想起して作った詩だったの。高校生だったら誰でも書いてた程度の曲だよ。
まぁあの時代の状況が理解できないと、僕らがあの時代に音楽を始めたときの感覚は、おそらく理解できないだろうね。それはいつの時代もそうだけどね。
ヒップホップの連中も結構凄惨な日常の中からああいうものを掴み取ってやっているんだと思う。でも僕らにはそれらの本当の奥の奥までは理解できないから、ああいう表現に対する心からの共感は持てないと思う。それと同じことだね。
70年安保の直後の虚脱状態の中で僕らが迫られていたのは、乾いていくのか濡れていくのかって言う選択だった。乾くんだったら徹底的に乾かなきゃだめだし、濡れるなら徹底的に濡れなきゃと。それこそ大駱駝艦(だいらくだかん/72年創立の日本の舞踏集団)に行くのか、シュガー・ベイブに行くのかって言うねw
そんなに哲学的な事は考えていないんだけど、自分の体がそう動かざるを得ないっていうか。そういう時代の空気感なしにはシュガー・ベイブがどうしてああいう形になったか、説明してもわからないんだよ。それがしばしば音楽ライターには非常に恣意的なものに見えたわけ。コマーシャルの成功を目論んでやっているとか、よく関西のミュージシャンに言われたもんだよ。シュガー・ベイブってすごい金持ちの坊ちゃんがやってるんだと思ってたって。
冗談じゃないよ。確かにキャラメルママやミカバンドみたいな東京第一世代は確かに中流以上の子息だったけど、僕ら第二世代は全然そうじゃなかった。地方からの東京幻想と実際の東京との落差、あったね。だからやるのは何でもよかったんだ。僕は音楽、あんたは芝居、君は物書き、私は絵、みたいなさ。要するに給料取りで満員電車に揺られて、と言う生活がなければなんでもいいって言う感覚があった。
そういうのをサブカルチャーと言うのかもしれないけど。あの頃はすでにヤンキーもいたしね。文化人類学的にそういうものをちゃんと分析しきれてないんだね、まだ。

<ディスク・チャートのセッションは、バンドが始まって自然消滅した>
「ディスク・チャート」での人間関係で、一番僕と趣味が合ったのが長門くんなんだよね。僕がラスカルズ長門くんがLovin’ Spoonfulだからね。ニューヨークのイタロ・アメリカンと言うファクターは強固なんだよ。なんだかんだ言いながら、長門くんと僕の関係で進行したんだね。
だから長門くんは当然マネージャーをやりたいと思っていた。彼は長崎の出身で、割と育ちが良くて、おっとりしたところがあるの。あと彼は今でもそうだけど、とにかく記憶力が良い。レコード屋に行っても長門くんはジャケットのクレジットをいちど見ると、もう忘れないから。こないだ見たシングル版はあそこの店の何番目とか、そういう人だったから、あの頃はいつも長門くんと一緒にいたね。
バンドは海のものとも山のものとも、皆目見当がつかなかったよ。何度も言うように別にオーディションでも、プロダクションとの契約でも、どこかへの売り込みでも何でもなかった、ただの自称のプロだからね。
73年8月に長崎で初ステージで、その時まで何ヶ月間か練習していたんだ、並木の家で。だから年が明けてから野口がドラムに決まったんだね。
「ディスク・チャート」でのセッションは、結局徳ちゃん(徳武弘文)がコウタローさんの仕事が始まって忙しくなったのと、僕がター坊をバンドに引っ張り込んじゃったから、自然消滅だね。まもなく「いーぐる」が移転してきて「ディスク・チャート」の名前もなくなった。矢野さんもその頃からアレンジャーとして仕事をするようになった、亀渕友香とか。
バンド名は僕が決めたの、時期は72年の暮れぐらいかな。ヤング・ブラッズの曲名からね。バンド命名作業は実はすごく難しい。考えれば考えるほど悩む。平凡じゃないもの、だからといって仰々しいのも嫌だしね。活動するならヤング・ブラッズみたいなスタンスがいいかなと思ったの。
それを大滝さんに言ったら、スタンスまで考えてるっていうのはなかなかだ、とか言われたけどw
バンドのレパートリーは初めて描いたのが♪夏の終わりに、その次が♪風の吹く日に。これはター坊に歌ってほしくて書いた。でも地味な曲。自分の曲はあまりなかったんだよ、73年の時点では。
ター坊は♪時の始まり、って言う「グレイ・スカイズ」に入っている曲を書いていた。でも♪午后の休息はやっていなかったな。
その頃ター坊は日テレの「遠くへ行きたい」に出たんだ。渡辺文雄さんと北海道に行った。その時に船に乗って2曲歌うってことになって、1曲が小宮くんの♪港のあかりって言う曲で、これはシュガー・ベイブでやっているけど。それにもう1曲歌わなきゃいけないって言うんで、そのために僕が♪光の中へ、って言う曲を書いた。
番組に出たのは多分ター坊の「三輪車」メンバーだった林謙司と言う人がテレビ番組制作の世界に入っていたから、その関係だと思うよ。これも彼の関係だと思うけど、よみうりホールでやるファッション・ショーのバックで歌を歌うって言うんで、僕もエレキギターで演奏して、彼女がアコースティック・ギターで歌うっていうのがあった。その時にはター坊のオリジナル曲を何曲かと♪光の中へ、も歌ったの。
結構いろんなことをやってたんだよ。で、そんなふうに73年の前半、ひたすら練習をしていた時に伊藤銀次から電話がかかってきたの。
72年秋にAdd Some 〜が出来て、それを、機材を借りたお礼に本多信介に持って行った。「はちみつぱい」が新宿の練習スタジオで練習していた時に。そのアルバムを信介がアンプの上に置いたらさ、ベースの和田博巳君が見てたのを覚えてる。それを和田くんが高円寺南口のロック喫茶「ムービン」でかけたのかな。
とにかくそれが73年の春で、初夏に銀次が電話をかけてきて「2枚欲しい」って。それが5月か6月かな。
その時ちょうど同じ時期にギタリストのヒョコ坊(永井充男)がストラトキャスターを売ってくれるって言ってきた。ヒョコ坊はまだ「ジプシー・ブラッド」にいた。村松くんとヒョコ坊の関係はよく知らない。誰かの紹介だったと思うけど。以後、村松くんはシュガー・ベイブでこのストラトキャスターをずっと使っていく。
僕はもともとドラムだったから、エレキギターを1本も持っていなかった。当時はエレキはとても高くて、しかも当時電子ピアノを買ったばかりで、経済的に余裕がなかったので、最初は鰐川の持っていたグレコレスポール・モデルを借りて、それに並木がハワイから買ってきた6000円のギブソンのピックアップをつけてもらって弾いてた。

<ピアノを買ってから作る曲が変わった>
練習は本当は毎日でもやりたかったけど、その頃は並木の家の周りも建物がずいぶん経ってきて、しかもドラムスをバンバン叩くから週2回から3回位かな。それも昼間。でも、よく我慢してくれたよね、母屋の人たちも。僕はバイトで生計を立てて。例のガラス・ケースとかね。後はレコード屋、あれはもうちょっと前だったかもしれない、その辺になるとちょっと記憶が危なっかしい。
シュガー・ベイブのスタイルは成り行き、最初から強烈な個性なんて出しようがないよ。僕にとっては♪SHOWが明らかな転換点かな。そのちょっと前にピアノを買ったの、といってもエレピアンと言う電子ピアノ。僕の実家は木造2階建てで、本当はアップライトピアノが欲しかったんだけど床の強度が足りなかった。で、コロンビアのエレキピアノだったら置けるって、それで月賦で買って曲を作り始めたんだ。それで♪SHOWを作ったから、確か73年秋だと思う。キーボードは全くの我流で、別にキーボード・プレーヤーになりたいわけじゃなかった。曲を作るためにどうしてもピアノが欲しかった。
やっぱりコード・プログレッションを有機的に把握できるのはピアノだからね。曲をちゃんと作るんだったら、やっぱりピアノじゃなきゃダメだから、どうしても家にピアノが欲しかったの。で、エレピアンだったらヘッドホンでも聞けるしね。そこから作風がガラッと変わったんだよ。それまではギターで作ってたからね。
ギターは基本的にフォームで弾く、つまり一番握りやすい和音の手の形でやっているから、音の配列としては結構いい加減なのね。でもそのいい加減さがギターの特殊な響きを生むわけ。だからテンションの方が下にあったりする。それはギターの特徴で、それを逆に利用することによって独特の味が出るんだけど、キーボードっていうのはもっと多彩な音の重ね方ができる。そうしないとやっぱり編曲まで視野に入れた曲作りはできない。
オーケストレーションをちゃんと勉強した作曲家だったら、ピアノさえ使わずに作曲アレンジができるけど、でも僕は素人だから、少なくとも視覚的にボイスチェンジとか、そういうものを把握しないとできなかった。
特に分数和音の世界はピアノじゃないと成立させにくい。それでピアノ買って直後に♪SHOWを作ったのはよく覚えてる。♪パレードはギターと半々かな。それから先はずっと僕の場合9割ピアノ。
そのエレピアンは実家を出る時までずっと使っていたから「ムーングロウ」までは全てそのエレピアンで作曲してたのね。
その後「ライド・オン・タイム」がチャートに入ったときに、RCAの当時の社長が昔ビクターピアノの社長だったんで、お祝いにアップライト・ピアノをくれたの。それを、その後ずっと今まで使っている。アルバム「ライド・オン・タイム」以降の曲は♪クリスマスイブを初めすべてそれで作っているの。ちょっと最近古くなって調子が悪いんだけど、でもゲンのいいピアノなんで、今でも仕事場にはそのピアノが置いてある。
ター坊も最初ピアノがなかった。だから、渋谷の三浦ピアノって言う練習所のあるピアノ専門店に行って弾いたり、鍵盤を絵に描いて、机に貼って、それで練習してたって言う、涙ぐましい世界だった。彼女も最初の頃の曲はピアノよりもギターで作ってたんだけど、シュガー・ベイブになってだんだんキーボード主体になってきたの。で、後にはエレクトリック・ピアノを買って、それでどんどん複雑な曲を作るようになった。
スパルタ練習? スパルタって言う意味では、今でもやろうと思えばしちゃうけど。でもメンバーが上手ければ、その要求に応えられるわけ。だから青山や伊藤広規にも散々やったけど、彼らはちゃんと要求に応えられたんだよ。シュガー・ベイブの頃はそういうテクニックはないし、まだ僕もアンサンブルの本質がそれほどわかっていたわけじゃなかった。
今だったら、例えばター坊のキーボードをどうやって出すかって工夫したりするだろうけど、あの頃は自分の演奏だけで精一杯で、周りの音まで気を配る余裕なんてなかった。だから当時の音を聞くと「こんなことやってたんだ」って思うよ。人の音なんか何も聞いてない。それで下手だとか上手いとか言ってるだけだったんだよね。
それに練習も、時間を割くのはコーラスの方が多かったんだよ。今出ている「ソングス」には♪夏の終わりに、のデモ・テープ・ヴァージョンが入ってるけど、あれだって歌いながら弾いてるんだよ。バカだよね。

<長崎のコンサート、そして大滝さんとの出会いへ>
73年夏、長崎には僕とター坊と村松くんが車、長門くんたちは電車で行ったのかな。3人で神戸まで車を運転して行って、そこからフェリーで小倉まで行って、また運転して。よく行ったよね、若さだよね。
で、長崎のライブやって、夏休みで遊びに行ったようなもんだけど。それで帰ってきて、長門くんが仕事を入れようといろんなとこで頑張るんだけど、その次に入ってきたのは今は無き「ラ・セーヌ」なの。「ラ・セーヌ」はボーカル・アンプと楽器のアンプがないと入れないの。村松くんが結構楽器持ちで、テスコのバイキングって言う100ワットのヘッドが2つと、エルクのボーカル・アンプのヘッドだけ持ってたの。何故か。
「ラ・セーヌ」は新宿。歌舞伎町に入っていて、コマ劇場の近くにタローって言うジャズ喫茶があって、その側。その時は対バンがひとつあって、こっちはレパートリーがないので、その時なぜかローラ・ニーロの♪アップ・オン・ザ・ルーフをやったの。でも不思議なことにお客がいたんだよ。
その頃大滝さんとのコンタクト? その辺のいきさつは長門くんに聞かないとわからないんだよ。
長門くんが動いていた事は確かなんだけど。伊藤銀次を先に引っ張り込んだのか、よくわからないんだけれど、とにかく僕は長門くんに連れられて福生に行ったの。それが8月の頭だったような…。
長崎のライブが終わって(1973年)9.21のはっぴいえんど解散コンサートの前に、練習を結構したからね。だから8月中頃かもしれないなぁ。
とにかく長崎が終わった後、それは長門くんが自分で考えて、結局「ミュージックマガジン」とか、ああいう雑誌に載らなきゃだめだと。そういうのに載っけるために何か一番効果的か、って。
そういうところ、彼は意外と政治的なのかもしれないね。それで大滝詠一しかないって言うことになった。そしたら大滝さんが乗ってきたんだよね。
でも、その辺の話、僕は長門くんとしたことがないんだよ。
【第9回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第8回 シュガーベイブ前夜 1972〜73年

<ディスク・チャートで新しい音楽仲間と出会う>
僕が運送屋でバイトしてた時、他のメンバーも別のバイトをやってた。
鰐川のお兄さんがガラスケースのリース会社に勤めていて、僕以外全員そのリース会社でバイトしてた。デパートの売り場、食品売り場や衣料品、あと催事場とかに商品を並べるガラスケース。あれって組み立て式なんだ。枠とガラスの天板、横板っていうのが全部別になっていて、それを搬入して現場で組み立てる。終わったらまたバラす。そういう作業をするバイトなの。
昼間に会社に電話をすると、何時にどこのデパートって教えられる。水曜日が休みのデパートだったら火曜日の夜とかね。ずっと他の連中がそのバイトをやっていて、のちに僕も合流したんだけど。
72年の秋の事だけど、ちょうどその頃誰かのバイト現場が四谷だったんだ、2、3人での。そいつらがバイトの帰りに、新しく四谷にロック喫茶ができたと聞いて行ったのが「ディスク・チャート」。
今(2004年現在)もあるジャズ喫茶「いーぐる」だね。以前から四谷にあったジャズ喫茶「いーぐる」が区画整理で移動することになって、近くのビルの地下に新しい店を作ったの。でも移転開始までにまだ1年ぐらい余裕があって、その間、新しい場所を空にしておくのはもったいないって言うんで、ロック喫茶にして営業したんだね。期間限定の店だね。
で、Add Some〜関係の友達がその店に行ったら、ちょうどビーチ・ボーイズの「サーフズ・アップ」がかかっていたの。その当時ビーチ・ボーイズのレコードをかけるロック喫茶なんて皆無だったから、これは珍しいって言うんで、彼らはその店のカウンターの人に話しかけた。カウンターにいたのが土井くんと言う長崎出身の人。
「ディスク・チャート」は、のちにシュガーベイブのマネージャーになる長門芳郎君が店を任されていた。長門くんも長崎出身、長崎時代の友人が大学で何人か上京していて、土井くんは長門くんの高校の後輩で、その縁でバイトをしていた。他には小宮やすゆうと言うシンガーソングライターとか、西口純一、後に「クジラの歌」って言うレコードを出す人なんかもいて、みんな長崎出身だったんだ。
で、店に行った友達が、その時にカウンターの土井くんに話しかけた。普段だとカウンターには小宮くんとか長門くんがいるんだけど、彼らはほとんど客とは交渉を持たなかったらしいのね。だから、その時にたまたま土井君だったっていうのが、また運命なんだけど。僕の友達と話が弾んでね、今度自主制作盤を作ったからって、数日後にAdd Some〜を持って行ったんだよね。それを聴いて長門くんが電話をかけてきたの、「何枚か欲しい」って。
それで僕は初めて「ディスク・チャート」に行って、長門くんと対面したの。
その時に話したのがLovin’ Spoonfulの話でさ。長門くんは長崎でLovin’ Spoonfulのファンクラブをやっていたほどのスプーンフル好きだったんだ。自然とカマストラ・レーベルの話になって、僕はイノセンスのアルバムを持っていって、彼はソッピース・キャメルを持っていたから、貸っこして聴こうと。そこから付き合いが始まった。ちょっと寒くなっていた頃だったかな。
長門くんと小宮くんと一緒に「フィルモア最後の日」の映画を、その翌週に見に行ったりね。長門くんは南阿佐ヶ谷の6畳一間に4、5人で同居していたんだけど、そこにも遊びに行ったよ。
で、仲良くなって1ヵ月ぐらいした頃に、長門くんから「実はウチの喫茶店で毎週水曜日の夜中にセッションやってるから来ないか」って言われたの。それで行ってみたら、そこにいたのがター坊(大貫妙子)、野口明彦矢野誠さん、山本コウタローさん。それから当時武蔵野たんぽぽ団にいた若林純夫くん、それから徳ちゃんこと徳武弘文くん、さっき言った小宮やすゆう君に西口純一君。そういったメンツ。他にもたくさん人がいた。
ター坊はその少し前まで「三輪車」って言うフォーク・グループをやっていて、レコードを出す寸前まで行ってたんだ。だけどグループが解散したんで、彼女の面倒を見てほしいとディレクターの矢野さんから頼まれて、長門くんたちのところに連れてきたんだ。だから矢野さんがそのメンバー人脈の中心かな。あと(のちにプロペラレコードでアルバムを出す)日野原幼紀さんも時々セッションに来てた。
それでター坊のオリジナル曲をみんなでアレンジして、デモテープを作ったりしたの。72年の後半はこの「ディスク・チャート」のセッションが大きかったな。その後、僕がそこに村松くんと鰐川を連れて行って、それでバンドを作ることになる。

  

<ディスク・チャートでのセッション>
セッションは喫茶店のテーブルと椅子を全部どかして、フロアを空けてやるの。僕が最初に行ったときには、そこでター坊の1枚目のアルバム「グレイ・スカイズ」に入っている♪午后の休息、って言う曲を徳ちゃんがベースからギターから一手に引き受けてやっていた。で、後はみんなでボンゴやタンバリンといったパーカッション、それにコーラスをやってね。それをテレコに録音してた。
ピアノは店にはなく、だから矢野さん自身は直接演奏には関わっていなかった。来たり来なかったりで、紹介しただけみたいな感じ。
矢野さんは当時アレンジャーとして売り出し始めていて、皆で彼の仕事をスタジオに見に行ったりした。矢野さんはその後、僕たちをコーラスに使ってくれるようになった。一番最初は、ただ見に行っただけだけど、小泉まさみだった。(小泉まさみとこんがりトースト/ポプコン出身のフォークグループ。75年に♪妹の部屋がヒット。シンガーソングライターとしても才能を発揮し、75年にアグネスチャンのアルバムに提供した♪ハローグッバイが、81年に柏原よしえによって歌われ大ヒットした)。
彼(小泉)のレコーディングで徳ちゃんがギターを弾いてたのかな。それから小宮くんとみんなでコーラスをしたりね。
小宮やすゆう君はジョン・セバスチャン(The Lovin spoonful)が好きな人で、風貌もどことなく似ていた。彼はすごくいい曲を書いていたから、後に小宮くんの曲をシュガー・ベイブで何曲かやることになる。レコーディングはしなかったけどライブではかなり彼の曲を取り上げていた。小宮くん達には僕らのファースト・ライブにも出てもらったしね。
だから「ディスク・チャート」では小宮くんのデモテープと、ター坊のデモテープ、後は若林くんの「雪の月光写真師」なんていう曲。彼はあの曲をソロで春一番とかで歌ってたけど、そういうデモテープをよってたかって作ってた。
(70年♪走れコウタローがヒットした)山本コウタローさんがどうしてそこにいたのかは知らない。マンドリンを弾いていた姿が記憶があるな。
何しろあの場所では、徳ちゃんがアレンジとか演奏とかのリーダー格だった。彼はその後コウタローさんが「少年探偵団」と言う自分のバンドを組んだときに、メンバーになったんだ。
コウタローさんは「はちみつぱい」とも関係あったらしくて、それで、かしぶち哲朗(ドラムス)和田博巳(ベース)岡田徹(キーボード)、それに徳ちゃんのギターと言う4リズムと、コウタローさんと若林くんのボーカルで「少年探偵団」と言うバンドができたんだ。
確か少年探偵団はビクターで1枚シングルが出てるよ、タイトルは忘れたけど。
その頃コウタローさんはラジオ関東で番組を持っていてね。その関東の番組はフォーク中心なんだけど、それでも割と音楽主体でね。コウタローさんがAdd Some〜に興味を持って、その番組でかけてくれたんだ。ちょうど徳ちゃんがゲストだったのかな。それは73年に入ってのことだったと思う。それでその放送局のディレクターが僕たちに興味を持ったりもした。
だから、ほんとにあの自主制作レコードが全てだったんだよね。それを聞いてくれた人がアプローチしてくるとか、それを媒介にしていろいろな人と仲良くなるとか。だからAdd Some〜がなかったらおそらく僕はプロになってないんだろうね。
「ディスク・チャート」のセッションは見てただけ。でも、そのうちに我慢できなくなって割り込んで行ったんだと思う。それはター坊がよく言うでしょ。横に座って何かうるさいこと言ってた奴がしゃしゃり出てきて、俺がやるとか言って、そのうち真ん中に座ってやり始めたって。その通りなの。もうその頃は表現衝動の塊で。正直言って自主制作盤のバンドはコーラスも含めてお世辞にも上手いとは言えなかったし。「ディスク・チャート」でもうちょっとテクニックが上の人たちに出会ったんだよね。
徳ちゃんはその頃からギターが上手かったし、何よりスタイルに個性があった。小宮くんの曲もすごく優れていたし、ター坊の曲もすごく良かったしね。
何よりもフィフス・アベニュー・バンドとかオハイオ・ノックスとか、そういういわゆるニューヨークとかロサンゼルスのラヴィン・スプーンフル関係のファミリーから始まった音楽を聴いている人が世の中に、僕の他にもいるんだと思ってね。それこそトレード・マーティンとかアル・ゴルゴーニとか、そういうものを言葉だけでなく実践として共有できる人たちが初めて出てきたの。そういう接点のある初めての人たちで、しかも音楽的に優れていたから、やっぱりそういう仲間に入れてもらいたかったよね。大体目立ちたがり屋だったから。
野口明彦は(長崎人脈じゃなくて)また全然違うところから入ってきて。元々彼は高校では野球部で、その後はカメラマンのアシスタントになったり、それと並行してフォーク・グループの真似事をしたりしていた。彼は苦労人でね、僕と同じ年だなんだけど、既にいろいろな仕事を経験していた。多分矢野さんの紹介で「ディスク・チャート」に来るようになったんだと思うけど、この辺は本人に聞いてみないとわからない。
それでバンドを作ろうと思って、前の仲間から村松くんと鰐川を引っ張り込んだ。2人は楽器のテクニックがあったし、それにター坊と野口を加えてバンドを作ったんだよ。

  

シュガー・ベイブのメンバーが集まる>
最初は野口はいなかったんだよね。ター坊、村松くん、鰐川と僕の4人でまず始めて、ドラムはオーディションで決めようと、72年の冬からずいぶんオーディションをした。
だけど、これと言う人が来なくてね。喫茶店に張り紙をしたりとか、そういう今でもよくあるパターンで募集して、電話がかかってきた人をオーディションするんだけど、ことごとくダメでね。そしたら最終的に野口がやりたいって言い出して、それで野口にした。
73年の初詣は、村松くんとター坊と僕とで明治神宮に行ったのを覚えているから。その辺がいよいよシュガー・ベイブの始まり。でもその頃はバイトしながらやってたんだよね。
「ディスク・チャート」のセッションがなかったらバンドは絶対にできていなかった。でもソロをやろうって考えはなかった。考えたら、今まで僕がやってきたのは全てバンドだもの。ずっとアマチュアバンドを組んで、それでやってきた。ブラスバンドもアンサンブルだし、作詞作曲して、ギターの弾き語りで1人で歌って、なんて言う発想はなかったね。60年代にはシンガーソングライターなんてほとんどいなかったから。グループサウンズにしろ、すべてバンドだったからね。
あの頃はバンドの方が一般的だった。もっとも同じ頃に鰐川と2人で誰が仕事を入れたか分かんないけど、池袋パルコで何回かライブをやった記憶があるんだ。キャット・スティーヴンスのカバーとかの他にオリジナルも歌ってね。でも、そうやってても「生ギター2本で何かやれる?」とか思ってたもん。
それは池袋パルコの上の階にあったイベントスペース、そこで「ガロ」なんかもやってたよ。普通のフロアが一段高くなっていて、向こう側に確かラジオのサテライトもあった記憶がある。何時からこんなことありますよ、って告知があって。単純に何かやってると人が集まるじゃない、デパートの屋上と同じ。パルコは屋上がなかったから7階だか8階のそういう催事場でやっているだけでね。何回かやった記憶はある。

  

シュガーベイブはコーラスを武器にしようと思った>
バンドを作ろうと言ったのは僕。
村松くんは実家がメガネ屋さんで、高校を出て眼鏡学校に2年に行ってから就職して、僕がバンドに引っ張り込もうとしたときには新小岩の東京ワコーの支店長代理をやっていたの。
鰐川は凄く真面目な奴で、現役で電機大学に入っている。中学の時に病気で1年ダブっているので、浪人なんかできないからと、ちゃんと勉強して大学に行ったの。
そういえば、徳ちゃんも理系で、ちゃんと大学を卒業してるんだよね。コウタローさんのバックをやってた時も、試験があるからって休む人だったから。そういう真面目な奴はいたの。
鰐川もいずれは大学に帰ろうと思えば帰ったんだろうけど、ちょっとモラトリアムでさ。彼は音楽が好きだったから、ちょっとやってみたいなと言う気持ちがあったんだろう。そう考えてみると思い出す事はずいぶんあるね。
具体的にスタジオの仕事と関連していくのが74年から後だからね。72〜73年にかけては、まだ準備段階だったね。
演奏テクニックにはそんなに自信もなかったけど、とにかくコーラスが好きだったからね。コーラスの幅を広げるには絶対に女性が必要だと思って、それでター坊に声をかけたんだよ。
ター坊はいい曲を書いていたし、女と男の2人のリードボーカルで、それにハーモニーもあれば、結構幅が出るんじゃないかって考えたんだ。だから「サンシャイン・カンパニー」とか漠然とそういうのを意識してたのかな。
あの頃はター坊も「フィフス・アベニュー・バンド」なんかを聴いていたからね。
三輪車っていうのはフォーク・グループでね。北原白秋の詩に曲をつけて、やってたりしたそう。あの頃は僕が19歳だからター坊は18歳か。高校出て彫金をやりたいと言って、美術大学志望だった。だけど、美術よりも音楽のほうに行く結果になった。
ター坊が書いた♪午后の休息は非常に端正な、あの時代のアメリカン・フォーク・スタイルの曲。アレンジも素晴らしく、良い出来だったんだよね。ボンゴ1個とベースと、アコースティックギター2本で、いわゆる日本のフォークじゃない、メジャーセブンスコードが使われていたの。
小宮くんの曲もメジャー・セブンスのおいしさがふんだんにあった。だから、あの集まりは本当にコード・プログレッションや音のセンスに関しては、すごく進んでいたんだよ。
こんな話をしていると、あの頃の「ディスクチャート」のフロアとか、間接照明の中でゴルゴーニ・マーティン&テイラーのレコードがかかってる感じとか、色合いがすごく鮮明に記憶に蘇るね。
水曜日のセッション。午後11時ごろまでお店をやって、その後、夜中から朝まで。だから喫茶店がまだやっている時間に入って、待っていて、終わったら片付けを手伝って、椅子を動かして。
お客さんはあまり居なかった。だってかけてる曲が、全然当時の流行とは違うからね。あの時代はハードロック系の新宿の「サブマリン」とか、後はやっぱり渋谷「ブラック・ホーク」とか。そういうところはウェイトレスの容姿ひとつから選んでいたからね。だけど、かかる音楽の質と言う意味では、僕にとっては「ディスクチャート」にかなう場所なんてどこにもなかった。だから、客が来なかったw

<音楽しか食べる道は無いだろうと思った>
どうして徳武君や小宮君とはバンドをやらなかったか? やっぱり村松くん、鰐川とやりたかったんだろうね。その辺の微妙な事情は考えたことなかったなぁ。
徳ちゃんはナッシュビル・カントリーの人で、これもまた当時にしては超絶的にユニークな選択なんだけど、僕とは明らかに志向が違っていた。しかも徳ちゃんはすでにコウタローさんとやってたし。
小宮くんとやらなかったのは、僕はきっとね、東京の人間とやりたかったんだよね。地方の人と出会うのはこの時が初めてだもん。だから彼らが長崎弁で喧嘩をする姿とか見て、すごく新鮮だっただけどね。おそらく純粋な地方出身者と、僕はあの時初めて接したんだと思うの。
結果的に僕が一緒にやってきたのは、ほとんど東京の人間なんだよね。現在のステージも土岐さん以外は全員東京、しかも23区だからね。選んだわけじゃないんだけども結果的にいつもそうなる。ネイティブ東京の匂いを欲するんだろうね多分。あんまり深く考えた事は無いけど。だから結局引っ張り込んだメンバーも、ター坊は浜田山、野口も中野坂上の生まれだし。結果的にね。
でも小宮君はそういう意味ではシンガーソングライターで、あくまでも1人でやりたい人だし、西口純一くんも全く同じでバンド志向がなかった。でも彼らを含めて、あの仲間にあの時巡り会えたと言うのは、かなり得難い経験だった。
曲は書きましたね。最初に書いたのが♪夏の終わり。とにかく曲がないから小宮くんの曲をやったり、後はカバーも。
バンド結成当初はまだオリジナルどころじゃなくて、一番最初に練習したのはキャロル・キングの「ライター」って言う1枚目のアルバムの♪宇宙の果てまで(Spaceship Races)、それとジョー・サウスの♪Devil May Care これは全く有名曲でも何でもない。この2曲を練習用にして、それでドラムのオーディションもしたの。この2曲にしたのは好きだった、それだけ。
ター坊がCarole Kingをやりたいって言って、僕がジョー・サウスをやりたいって。
その頃はアトランタのサザンロックに耽溺(たんでき)してたから、ドラマーのオーディションは随分やったんだよ。何人やったかなぁ。ひとりも合うのがいなくてさ。
自分でドラムをやりながらリード・ボーカルっていうのはやっぱり難しいからね。それまでのアマチュア時代はドラムを叩けるのが僕ひとりで、ギターは遊びでしかなかったけど、プロになるんだったら、リードボーカルは前でなきゃ、と一応は思ってたんだよね。
もっと本音は、ドラマーとしての自信がなかった、それに尽きるな。
プロになる? ごっこだよ、ごっこ。でも、これしか食える道はないだろうなと思ってね。とにかく音楽はやってみたい、歌を歌ってみたい、オリジナル曲は作ってみたい、ってそういうのはあったからね。

【第8回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第7回 自主制作アルバム(3)ADD SOME MUSIC TO YOUR DAYのエピソード

<充実した“ごっこ”だったアルバム制作>
両面に6曲づつで計12曲。収録時間を長くしてしまうと音が悪くなる、ってくらいの知識は本を読んで知ってた。だから片面15分からせいぜい18分、あの時代のアナログLPの普通サイズ。
カッティング・レベルの具体的、専門的知識までは分かるわけがない。
とにかく我々は「マニファクチャード・バイ・東芝音楽工業」ってクレジットがあるだけで、もう嬉しくってたまらなかった。
マスタリング? カッティングも見たわけじゃないし。立ち合ったのは曲順に並べる作業だけ。それだって十分に珍しかったからね。ホームレコーディングだから、音質的には大した事なかったけど、あの時代に見よう見まねでやったにしては上等でしょう。CD化したときにはちゃんとデジタルリマスターしたけど。
当時の日本のレコードは同じアルバムでも日本盤と洋盤を聴き比べると、洋盤の方が圧倒的に音が迫力あったの。聴くと明らかに違った。そういう専門的な分野になると当時はわからないことだらけで、素人には情報なんて伝わってこなかったからね。
だけど実はプロの業界だって、どうして日本盤がカッティング・レベルが低いのか、そういう原因がわかっていても、解決するための機材や技術力がなかったんだよ。だからどうしようもなかった、後で知ったことだけど。
カッティング・レベルは国によってかなり違っていた。特にリミッターの良し悪しに、すごく影響されていた。でも、あの時の僕らにとってはそんな技術的なことより、何といっても東芝って言う「ブランド」が憧れだったんだよね。ビーチボーイズビートルズベンチャーズと一緒、ジャケットの装丁だって市販されているものと同じ。当時はそれまでのペラペラな薄めのジャケットから「A式」といって、厚手のボール紙に、アート紙を貼り付ける形の、重厚なものに変わっていた時期で、それだけだって当時では大騒ぎだった。プロとアマの差が、昔はとにかく大きかった。レーベルもちゃんとしてるし、それはもう感動しましたよ。それこそ、ごっことしては一番真に心に迫ったごっこじゃない?

<家紋がヒントとなったレーベル・デザイン>
ジャケット・デザインは金子辰也のデビュー作かな、彼も学生だったから。
金子は東武東上線の志木に住んでいた。成増の2つ先。ちなみに僕の家は成増の2つ手前だった。だから当時、並木の家には金子が一番入り浸りだったの。金子は殆ど住んでたと言ってもいいくらい。
並木の家に居続けて、絵を描いたり、シルク・スクリーンの作品を作ってたり。だから、その意味では僕なんかと同じで、彼にとっても並木の家は最高の「場」だった。ジャンルは違っていたけど、要するにこれから何かを始めると言う人間の、自分でいろいろ模索している姿勢は同じだったんだよ。そういう環境とか、人間関係がなかなか面白くてね。金子自体もあの当時からアイディアがあるやつでね。
ジャケットが一色なのは単純にお金の問題。モノクロにすると4色カラーより格段に安価でできたの。だからモノクロ。
デザインはもう完全に金子にお任せだね。その当時の並木の家にあったものというかね。並木はかなりのベジタリアンだったんで、野菜と白ワインと人とミルクをあしらったんだね。金子は美大志望だったので、デザインの基礎知識があったからね。版下もちゃんとそれらしく仕上げてあったから。
それもごっこなのよ、デザインごっこ。それはシュガー・ベイブまで続くんだけどね。みんながごっこだったっていうか、みんなそれを楽しむ感じだったよね。
プロとしてやっているような錯覚に惹かれるじゃない。だから、大学のプロデュース研究会みたいなサークル活動と何も変わらないんだけどね。ただなんていうかな、僕らはそれがごっこだと言うことを知っててやっていたんだよね。そこが別に自分の存在基盤じゃないって言うことだね。予行演習と言うのかな。
ジャケットの柄は原寸ではなくて多分もう少し小さい家を拡大したんだと思う。でもね、ちゃんとトンボ(印刷後に紙を裁断する位置を示す目印)を切ってセンターの位置がどうだってやっていたからね。多分そういう印刷屋さんに渡すためのデザインのやり方は知っていたんだと思うよ。
レーベルのデザインのサーフィン・ラビット・スタジオっていうのは、一番最初は家紋の絵柄から。家紋帳に「月に波にウサギ」って絵柄の家紋があって「ウサギが波乗りやってるよ」って、それで並木がサーフィン・ラビットにしようって言ったの。金子がそれに基づいてレーベルのイラストを描いた。だからその家紋帳が並木の家にあった。並木が結婚式か何かで家紋を確認する必要があって、それで家紋帳を調べて見つけたんだ。オリジナルはもうちょっと写実的というか鳥獣戯画的なデザインだったような記憶があるな。並木もその後に文化服装学院に行くようなやつだから、そういうものに対する審美眼があったんだね。
B面の後ろ向きのウサギは金子が考えた。ちょうどターンテーブルに乗せるための穴をお尻の穴に見立ててね。それは金子のアイディアなんだよ。知っている人もいると思うけど、金子は何よりプラモデルのエキスパートなんだよ。金子のジオラマは有名。だからプラモデルの箱とか、そういう工業デザインの影響はかなりあると思うよ。当時からプラモデルマニアだった。僕もプラモデル好きだけど金子にはとてもかなわない。出会った頃から金子はすごかったから。こっちは趣味だけど、向こうは趣味なんて生易しいものじゃなかったからね。
彼はその後ジオラマの世界ではかなり名が知られる存在になった。テレビ東京の「テレビ・チャンピオン」のジオラマ・コンテストでも2回優勝しているしね。
金子はものすごく温厚の性格。その後結婚した奥さんも実に温和な人でね。あの頃知り合った僕の友人で、今でも付き合いがある人たちって、みんな温厚で、その上、夫婦仲がいいんだよね。後にシュガー・ベイブのマネージャーになる長門くんとか、シュガーベイブのドラムの野口、金子もそうだしね。みんな平和な家庭だよ。そういう奴は皆、性格が温和でいい。人間としての徳がある。

<アルバムは殆ど仲間内で配ってしまった>
このアルバム、僕が持っているのはもう1枚だけ。100枚あって、4人だったでしょう。1人20枚持ちで、20枚は保存用にしようと言うことかな。で、それぞれ自分の20枚を売るって言う。参加してくれた人にも配って、実際には10枚ぐらいしか残っていなかった。
でも自分が8番を持っていると言う事は1から20を僕が持っていたのかなあ、そんなことないだろうな。その辺は記憶がはっきりしないけどね。
通しナンバーは金子が紫のボールペンで1枚ずつ書いたんだよ。あれから現在まで仲間内以外でオリジナルの100枚を持っているのを確認できたのは、及川恒平さん1人だけだな。彼があのアルバムをどこから手に入れたのか知らないけど、及川さんは自分のアルバムのジャケット写真にこれを載せてるからね(1975年に発表された及川恒平ソロアルバム「懐かしい暮らし」の裏ジャケット写真、左下にAdd some〜が写っている)。ほとんどは仲間内にただで配っちゃったからね。1,350円も出して買ってはくれなかったしね。(制作費135,000円を100で割った値段)。
こういうものに興味がない連中がほとんどだったから、だから出てこないんだろうね。今はどこかに行っちゃったとか、そういうのだろうね多分。並木は1枚も持ってないって言ってるし。
僕ももうずいぶん前に1枚になった。この業界に入ってから少しだけ残ってたのも、何年かのうちに全部分けてあげちゃったから。あの当時は僕らの他にも、自主制作盤っていうのがある程度は作られていたんだよ。だから僕らの作る前に、参考のために何枚か手に入れてみたんだけど、もう捨てたくなるようなばっかりでさw ブルーのビニール盤とか、装丁や作りは凝ってるんだけど、とにかく内容が「歌か?コレ」みたいなねw
メンバーの写真は金子が撮っていたの。金子は写真が好きだったから。撮っているのは殆ど金子なんだ。
ちょっと我々は諧謔的なんだよね。シニカルなところがあった。やっぱり70年安保の精神的廃墟の後の復興だからさ。ナルシズムはないの。というかナルシズムなんてほとんどなかったな。むしろ殉教的な優越感と言うのかな、そこいらの連中とは違う、って言うような、そういう感じかな。大体こういうもので恥ずかしいのは、自分たちだけが盛り上がってるやつだよね。そういう自己満足はないと思うよ。だからいわゆるラブ& ピース、ハッピネスのロックとかさ、それこそ明治公園でインターナショナルをロックでやっているような馬鹿とかが居たじゃない。端的に言えば批評性だよね。批評性だけが命だったから。今でもそれだけは変わらないな。僕の人生は結局それでずっと来たような気もする。
芸事、特にストリート・カルチャー、歌舞伎とかね。もともと歌舞伎役者が河原者だった時代は、そういうことを脱却して評価を獲得したいと言う意思が働いてたんだよね。それは相撲もそう。だけど、歌舞伎も相撲もだんだんエスタブリッシュされちゃうと質的に変化していく。今の相撲なんて、その最たるものだよね。
だから芸事っていうのはそういう原点とエスタブリッシュメントの間を行ったり来たりするんだろうね。だから音楽もきっと、今のエスタブリッシュメントとは全然違うところから何か新しいものが出てくるんだろうね、絶対に。

<このバンドでダンパをやったりしてた>
達成感? まぁあの時はバンドを解散しようと言うことで、その先をどうしようとかもわからなかったからね。でもまぁ、ごっこが行き着いたと言うことで、なんらかの達成感はあったね。
このバンドでのライブ活動はしてないなぁ。正確に言うとダンスパーティーとかはやったんだよ。友達に頼まれて武蔵美で。
曲はチャック・ベリーのようなロックンロール、後はストーンズのジャンピング・ジャック・フラッシュとか。ちょっとひねってThe Lovin’ Spoonfulの♪Summer in the cityをハードロック仕立てでやるとかね。クイックシルバーメッセンジャー・サービスとか。だから一般的なものからカルトなものまでレパートリーはたくさんあったんだけど、要はただの遊びだから。ダンパって大体対バンがあるからさ、こっちが40分やって、向こうが40分やって。ストーンズの♪南ミシガン通り2120、って言う(インスト)曲があるけど、これで20分とかね。まぁトップ40が好きだったから、一般的な曲はいくらでもできたんだよ。ジャンピング・ジャック・フラッシュもワンコードでいくらでもできたしね。
歌は殆ど僕ひとりでやらされた。ブルースから何から何だって。ジョン・メイオールとか、ジェフ・ベックとか。前にも言ったけど、高校3年の時は村松くんのバンドのベースは鰐川だった。リードギター村松くんで、彼の友人がドラム。僕はボーカル。
違う高校のバンドを自分の高校の文化祭に連れてきて、教室でジェフ・ベックとかツェッペリン、後はジョン・メイオールで覚えたブルース、アルバートキングとか、ソニー・ボーイ・ウイリアムソンの曲だね。ハーモニカの必要に迫られて、その時代にハーモニカ始めた。今みたいにどういうスタイルとか、そんなの全く無かったんだよ。
だからポール・マッカートニーの中にペギー・リーとリトル・リチャードが一緒に入っていたり、ジョン・レノンの中にガール・グループが入っていたりしたのが、また混じってビートルズになるみたいに、若い自分はそうじゃないとダメなんだよ。今みたいに最初からポリシー決めろとか、形を決めろとか、それはいけないんだね。だから最近タワレコ行っても、フロアによって客層が全然違うんだね。ロック系ヒップホップ系だとファッションから違う。あれは良くないよね。
新宿の中古レコード街にもよく行ってるんだけど、最近はどうしても行く店が限られてくるんだよね。昔は全部の店に行けたけど、今は絶対に行かない店があるからね。でも久しぶりに行くと楽しいよ。

<バンド解散後運送屋のバイトをした>
Add some music〜のクレジットでマネージメントが並木になっているのは、それはもうお世話になってるしね。勧進元にもなってるよ。最初にお金を払っているのは並木だからね。分担金は全員払ったよ、1人35,000円。で、一応連絡先があったほうがいいだろうって。別にプロになるわけでもないけどせっかく作ったんだから、それで並木の家の住所を入れた。オリジナルには並木の家の電話番号まで書いてあったんだけど、そしたらある日電話かかってきたんだよ、伊藤銀次から。
アルバム出してから、各自いろいろな道に分かれて。並木は大学を1年で止めて文化服装学院に73年に入り直した。そうなるともう忙しくてバントなんてやれないから。並木はなかなか向上心があって、50歳近くになって建築設計士の免許を取ったり、そういうところがあるんだよ。
実際にレコードが出来上がったのは10月位かな。作ってもまだ自分がプロになろうとは思わなかったな。
で、72年秋になってレコードができてきて。それから冬にアメリカに行きたくなったんだよね。この72年ていうのは本当に激動の時期だった。まさに人生の転換期だったよね。
いろいろなミュージシャンが来日してLed Zeppelinも72年。大滝さんがソロアルバムを出したのも72年の秋かな。
そうだ、思い出した。僕は夏にレコード屋さんでバイトをしたんだ。東長崎の駅前にあったレコード店で。お店だけじゃ儲からないんで、日本橋あたりの商社の地下食堂の前に出店して、給料日払いの1割引みたいな感じで出張販売をやっていたの。週に2回行くんだけど、その頃出たのがカーペンターズの「ソング・フォー・ユー」と、吉田拓郎の「元気です。」。その2枚がまるで羽が生えたように売れるんだ。「ソング・フォー・ユー」を問屋に10枚注文して、くるのが2枚。「元気です。」なんか、もう注文しても入荷するかどうかわからない。とにかくその2アイテムばかり売れるの。それはよく覚えている。その2枚に興味は全然なかったけどねw
一番突っ張ってた頃だもの。ロックンロールじゃなきゃ嫌だったから。まして和製フォークなんて冗談じゃなかった。まだ歌謡曲の方がマシだった。
それで秋口からそれまでみたいなポツポツというバイトじゃなくって、まとまったバイトをして、まとまったお金が欲しくなって、それで運送屋のバイトを始めたんだ。涼しかったからもう10月位かな。
街のどこにでもあるような運送屋、トラック5台しかない位零細の。運んだのは印刷用の紙だね。朝の7時に空のトラックに乗って草加の倉庫に行くのね。そこで紙を積んで配達して、それで午前の部が終わり。倉庫に帰って、それからもう一度午後の便。朝、日光街道草加までは大渋滞で2時間近くかかるから、7時に出ても着くのが9時位になるんだよね。それで今度は積んだ荷物を墨田区江東区の町工場に運ぶのね。
帰る頃にはいつも夜だった。僕が乗っていたのは2トン・トラックだったけど、25キロの紙を100本積んで、2トン半と言うような過積載がごく普通だった。そういう場所の町工場は、リフトなんか使えるような場所じゃないから、手積み、手おろしでね。とにかくそれがきつかった。それでも春先までやったかなぁ。半年やったら手が上がらなくなってきてね。
だから大学は72年の7月から休学したのかな。4月から6末までは行って。
休学はアメリカに行くためのバイトに集中するためだったけど、結果的に大したお金にはならなかった。まだ子供だったからね。19歳でしょ、世の中のこと何にも知らなかったから。結構ナイーブだったんだよね。
レコード屋にしろ運送屋にしろ、零細業者だったから、残業なんて全然つけてくれなかった。大体手積み手おろしなのに助手をつけてくれないんだもの。全部1人でやれって言う、それで日当が2000円だよ。あの運送屋はきつかったなぁ。まぁ今から考えるといい勉強だった。そう簡単には金は入らないって言う。
レコード屋のバイトを選んだのは当然として、なんで運送屋にしたかって言うと、ラジオが聴けるじゃない。1日中FENを聴いていられるから。あの頃はカーラジオにFMチューナーなんてなかったからAMオンリー。民放ラジオをつけると朝から晩まで1日中、ぴんからトリオの♪女のみち、が流れてた。
FENスティーリー・ダンの♪Do It Againと、キング・ハーベストの♪Dancing in the Moonlight、あとギルバート・オサリバンの♪クレア。日光街道の渋滞。
だから、この3曲を聞くと日光街道を思い出すんだよw
【第7回 了】