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ヒストリーオブ山下達郎 第24回 クールスNY録音と、大阪での「BOMBER」ヒット 78〜79年

<クールスのレコーディングで度胸は付くもギャラは無し>GO AHEAD!(78年12月発売)のレコーディングが終わって、すぐにクールスのニューヨーク・レコーディングへ行った(アルバム「NEW YORK CITY N.Y.」79年3月発売)。その仕事の結果、ヤンキーが怖くな…

ヒストリーオブ山下達郎 第23回 78年、POPPIN’ TIMEからGO AHEAD!へ

<新曲はリハ前の2週間で作ったんだ>IT’S A POPPIN’ TIME(78年5月発売)の新曲は、ライヴをやる2週間くらい前に作ったかな。正確にはリハーサル前の2週間だね。ライヴを想定して「雨の女王」と「シルエット」、あと「エスケイプ」だね。それとカヴァー…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝8 小杉理宇造インタビュー

<あの人とやってみたいな、それが達郎さんの最初の印象ですね>僕はRCAで日本のロックをやりたかったんです。でも、日本のロックの分布図が分からなかったんで、牧村憲一さんに会いに行った。そしたら牧村さんが、荻窪ロフトでシュガー・ベイブの解散ライヴ…

ヒストリーオブ山下達郎 第22回 77年〜78年、IT’S A POPPIN’ TIMEへ

<シングル盤「PAPER DOLL」がボツになってるんだ>SPACYからIT’S A POPPIN’ TIMEへの時期は、あまり自分の仕事をしてないかな。「PAPER DOLL」のレコーディングを77年10月にやっているね。他の仕事で特徴的なところでは、77年6月頃だったと思うけど、マザー…

ヒストリーオブ山下達郎 第21回 スペイシー(1977年5月25日発売)

<次を作りたいって思ったこと、80年くらいまではあまり無いんだ>1977年のアタマは1、2月が(吉田)美奈子の「トワイライト・ゾーン」で、それが終わって大滝さんのストリングス・アレンジ、たぶんシリア・ポールだったと思うけど、それをやって、その後に…

ヒストリーオブ山下達郎 第20回 サーカスタウンからスペイシーへ

<CIRCUS TOWNは自分探しのレコードだった>1976年10月25日CIRCUS TOWN発売。アルバムの一般的な評価という部分では、実はあまり実感が無かった。ミュージシャンからの反応は概ね好意的だったけど。シュガー・ベイブの時と比べても。CIRCUS TOWNは自分探しの…

ヒストリーオブ山下達郎 第19回 サーカス・タウン 1976年10月発売へ

<悔いが残るとしたら、歌が追いつけなかった>チャーリー・カレロは確かに変わった人だったけど、今にして思えば、彼も日本人と仕事をするのは初めてだったし、向こうは向こうなりに構えていたんだと思う。だけど、仕事してる時は集中力の鬼だったよ。最初…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝7 牧村憲一インタビュー

<試験のヤマかけが当たって、早稲田大学に進学>僕は東京の渋谷生まれ(1946年11月3日)です。90年代にあった渋谷系ブームの渦中にいた時、「渋谷生まれの渋谷育ちですから、渋谷系」と言って、適当にかわしていたんですけど、それは本当で、日赤が取り上げ…

ヒストリーオブ山下達郎 第18回 NY海外レコーディング 1976年8月

<セカンドアルバムをやるんだったらソニーでやりたいなと思ってた>まず、牧村憲一さんについて。牧村さんは74年、僕に最初にCM仕事をくれた人なの。その時、彼はオン・アソシエイツというCM音楽制作会社に居た。彼はもともと早稲田で後藤由多加さんと同期…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝6 寺尾次郎インタビュー

<シャルル・アズナブールの「イザベル」にすごく反応したんです>生まれは東京、大田区の洗足池というか、まああの辺ですね。その辺りで5分くらいの所に引っ越したのが一回あったんですが、だから22歳までかな。22までは地元で居ました。その後は引っ越し好…

鼎談2017/細野晴臣・山下達郎・星野源

〈好きなことしかやってないからね。前は辛いこともあったけど(細野)〉 山下 細野さんとちゃんとお話しするのは、今日が初めてなんですよね。星野 初めてなんですか? 細野 そう。長い付き合いなのに初めて(笑) 山下 「パイドパイパーハウス」の店長だっ…

ヒストリーオブ山下達郎 第17回 バンド解散と「ナイアガラ・トライアングル」 1976年

<オールナイトニッポンのパーソナリティーが始まるんだよね>76年1月18日、玉川区民会館「下北沢から51年」コンサート。顔見せの感じだったよ、出演者がずいぶん多かった。どういう企画意図かも知らない。僕らは出演時間直前にただ行って、演奏して帰ってき…

ヒストリーオブ山下達郎 第16回 メンバー・チェンジ 1975年

<セカンド・コンサート、企画性は良かったが>1975年1月24日、新宿厚生年金小ホール、シュガー・ベイブ、セカンドコンサート。このコンサートは計画倒れっていうか、意欲に実力が全然伴わなかった。二部構成で、ゲストも入れたりしたんだけど、構成やアレン…

ヒストリーオブ山下達郎 第15回 初めてのアルバム・レコーディングSONGS 1974年10月〜

<エレックのスタジオは、コレはなんだ、っていう酷さだった>曲は♪すてきなメロディー以外は全部揃っていた。もうライブでやっていた曲ばかりだからね。スタジオは最低だったよ。天井が低くて。だって普通のオフィスビルの2階だもん。マイクも数えるほどし…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝5 野口明彦インタビュー

<高校の途中からフォークをやったんです>生まれは東京・中野新橋、淀川浄水場の向こう側です。で、その向こうはもう渋谷本町。渋谷と中野の境目ですね。家からバスに乗って、バス停3つ目で浄水場。中学校の頃にはもう浄水場がなくなって、京王プラザホテル…

ヒストリーオブ山下達郎 第14回 ワンステップ・フェスティバル、そして… 1974年

<見知らぬ人たちからシュガー・ベイブって呼ばれたの、初めてだった> 74年8月8日だったんだね、郡山ワンステップ・フェスティバルに出たのは。4日間ぐらいの野外イベントがあるって言われてたけど、あの頃はいちいちライヴの細かい背景なんか気にして無か…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝4 村松邦男インタビュー

<並木の家に遊びに行ったら、たまたま山下が居たんだ> 山下と初めて会ったのは高校時代。 もともとは僕が高校でバンドをやっていて、一年後輩に並木さんが居たの。並木さんは当時、文京高校の学生運動のリーダーをやりつつ、高田中学時代からの仲間の山下…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝3 大貫妙子インタビュー

<矢野さんが来たために三輪車は壊れてしまったのw> シュガー・ベイブ以前は、私と男性二人で「三輪車」というフォークグループをやっていて、その三人でデビュー予定だったんです。 その頃私は御茶美(お茶の水美術学院)に通っていたの。音楽は小さい頃か…

ヒストリーオブ山下達郎 第13回 初めての関西ツアー 1974年

<亀渕友香さんのステージの翌日、関西ツアーに出た>74年から75年頃のスケジュール帳が出てきたよ。74年の5月、ライブで生まれて初めて大阪行ったんだよ。よく話に出てくる京都の拾得でライブをやったのが74年5月11日だね。で、大阪へ行く前の日が、前回話…

ヒストリーオブ山下達郎 第12回 1974年、いろいろな出会い

<シングルを意識した♪パレード>74年に風都市に入って新宿西口の貸しスタジオで、1月から練習を週に何回かやらせてもらうようになって♪SHOWのアレンジを進めたり。練習がコンスタントにできるようになって、だんだん曲も書けるようになって来て。特にター坊…

ヒストリーオブ山下達郎 第11回 運命的に人と出会った一年間

<大滝さんは本当にロックンロールの人なんだね>大滝さんへのインタビューはなかなか面白かった。知らないことがずいぶんあった。(鈴木)慶一のCCRってのが一番笑ったな。でも大体認識は同じような感じだね。若干の違いはあるけど別にそれほど本質的なこと…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝2 大滝詠一インタビュー

<はっぴいえんど解散でごまのはえをプロデュースすることになった>山下くんとの出会いね。まず、72年9月にはっぴいえんどの解散が決まるんだけど、その少し前に全国ツアーがあって、その最後の方に長崎でのコンサートがあったの、8月5日かな。その時に主催…

ヒストリーオブ山下達郎 第10回 1973.9.21はっぴいえんど解散コンサート

<長門くんが僕を大滝さんのところに連れて行った背景を初めて知ったよ>長門くんのインタビューを読んで、彼が僕を大滝さんのところに連れて行った背景を初めて知ったよ。彼は意外と戦術家だったということが分かった。もうちょっとナイーブな感じかなと思…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝1 長門芳郎インタビュー

<マネージャーになるハズが「ディスクチャート」で働くことになった>72年の秋に「ディスクチャート」が出来た時、僕は長崎県対馬に居たの、東京から一回引き上げて。対馬で現場監督、道路を作ってた。親の金でいかせてもらっていた大学を中退しちゃったか…

ヒストリーオブ山下達郎 第9回 シュガーベイブ誕生

<当時、いろんなミュージシャンのライヴを観ていたよ>1972年、行った来日コンサート。ツェッペリン、プロコル・ハルム、テン・イヤーズ・アフター、ジェームス・ブラウン、それから共立講堂で見たフリー。いろいろ観た中であのフリーと、高校1年の時にサン…

ヒストリーオブ山下達郎 第8回 シュガーベイブ前夜 1972〜73年

<ディスク・チャートで新しい音楽仲間と出会う>僕が運送屋でバイトしてた時、他のメンバーも別のバイトをやってた。鰐川のお兄さんがガラスケースのリース会社に勤めていて、僕以外全員そのリース会社でバイトしてた。デパートの売り場、食品売り場や衣料…

ヒストリーオブ山下達郎 第7回 自主制作アルバム(3)ADD SOME MUSIC TO YOUR DAYのエピソード

<充実した“ごっこ”だったアルバム制作>両面に6曲づつで計12曲。収録時間を長くしてしまうと音が悪くなる、ってくらいの知識は本を読んで知ってた。だから片面15分からせいぜい18分、あの時代のアナログLPの普通サイズ。カッティング・レベルの具体的、専…

ヒストリーオブ山下達郎 第6回 自主制作アルバム(2)1972年

ADD SOME MUSIC TO YOUR DAYを巡る試行錯誤 <レコーディングは全部自己流だった>とにかく製作費を作るためにバイトしたんだよ、13万5,000円。ノルマがひとり35,000円だったかな。曲はディスカッションで決めたんだ。A面をビーチ・ボーイズの曲にして、B面…

ヒストリーオブ山下達郎 第5回 自主制作アルバム(1)ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY

<大学では「なんか違うとこに来たな」と思った>大学は全部で4つ、全部法学部を受験、音楽著作権でも勉強しようと思ってたから。運よく3つ目まで合格。でも、3つ目の大学の入学金払い込み期日の翌日が、最後に受けた第一志望の合格発表の日だった。で、…

ヒストリーオブ山下達郎 第4回 高校時代(1968-70年)そしてドロップアウト

<ミュージシャンになろうという気持ちは無かった>ヤング・ラスカルズ、アニマルズ、ビーチ・ボーイズ、、、アニマルズはアレンジ力と演奏力だね。リズムパターンがすごくユニークだったんだよ。♪悲しき願い(Don’t let me be misunderstood)なんてスネア…