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ヒストリーオブ山下達郎 第29回 80年、ブレイクと交際宣言、そして芸能界

<最初は個人的にどうこうとかは全然なかった>
竹内まりやと)付き合い始めたのは、80年になってから。5月くらいかな。アン・ルイスの「リンダ」のレコーディングを手伝ってくれって、彼女に頼まれたことがきっかけ。80年の5月頃って、ツアーやなんだで忙しかったんだけど、たまたまその日は家にいて、夕方の5時ぐらいに電話があった。いつもは、そのくらいの時間に家にいる事はあまりなくて。家にいても、レコードを聴いてヘッドホンをしてるから、電話に出ないことが多いんだけど、たまたま取ったら彼女で。「今スタジオにいて、アン・ルイスのレコーディングをしているんだけど、アイデアで困ってる。コーラスを入れたいんだけど、協力してくれないか」って。で、1時間くらい後にスタジオに行って、それから6時間ぐらいかけて、夜中まで「リンダ」のコーラスを一人でやったんだ。その頃、生まれて初めて自分の車を買ってて、その車で、彼女を家まで送って行った。それまではプライベートではあんまり関係がなかった。レコーディングでまあ困ってたんだろうね。バンド演奏だけだと、オケに個性が出ないから。でもとにかく、まったくの偶然でしかなかった。
最初に会ったのは、彼女がデビューする前にデモテープを作ってた時で、二度目は、これは何度も言った話だけど、僕が渋谷エピキュラスでリハーサルをやっているところに、誰かが連れてきた。 その時にサイン帳を持ってて、それにサインしてくれって言うので「これからプロになろうっていうのに、人のサインなんかもらうもんじゃない」って説教した。だから、向こうの印象は最悪だったろうね。彼女にしてみたら、多分業界で初めてNOを言われた。僕はその頃からプロ意識が高かったんだろうね。基本的に、今でも人のライブを観に行ったときには、そこの客にサインしてくれって言われても絶対にしない。そういう主義だから。
最初は個人的にどうこうとか、そんな事は全然なかったんだ。それは他の女性シンガーと同じで。ただ音楽の制作に関しては、同じレコード会社だから、それまでもつながりはあったからね。ファーストアルバムの「Beginning」に曲を提供して、2枚目の「UNIVERSITY STREET」では、彼女がピアノの弾き語りで、カセットに入れた曲を持ってきた。それが「涙のワンサイデッド・ラヴ」で、それをどうにかしたいって言うから、アレンジした。あれは一人多重(録音)でやらないと、オケに個性が出ないと思って、ほとんどの楽器を僕がやってる。「ドリームオブユー〜レモンライムの青い風〜」のアルバム・ヴァージョンも、僕がアレンジしてる。「UNIVERSITY STREET」は結構、僕の編曲が多い。でも、それはあくまでも仕事の上だからね。「涙のワンサイデッド・ラヴ」のレコーディングの時は、まりやは現場にいない。だってツアーをやってたり、テレビ出演があったりしたから。だから、あれはリズム・トラックが出来上がってから、聴かせたの。ストリングスを入れる前くらいかな。
   
< ジェットコースターのような本当にすごい一週間だった>
僕にとっての人生の最大の転換期は、1980年7月26日からの一週間なんだ。まりやとのことが、スポーツ新聞で一斉に出た。その次の日、7月27日がニッポン放送主催の「80’s JAM」っていう西武球場イベントで、 8月2日が葉山マリーナのコンサート。ここの一週間というのが、ジェットコースターのような本当にすごい一週間で。これを過ぎたら、急に人生が静かになった。憑き物が落ちたというかね。7月26日からずーっと突風が吹いてた。7月27日の西武球場は、もうレポーターがわーっと押し寄せてきて、大変だった。だから、僕はハイエースの荷台に押し込まれて、上から毛布をかけられて、荷物と一緒に裏側から入った。で、メンバーは表から入ってきたけど、テレビカメラが並んでて、レポーターが「誰が山下さん?」ってw
で、まりやの方は北海道の真駒内か何かでイベントがあって、ステージに出るときに「山下達郎さんとの結婚が決まった竹内まりやさんです」って、トロいアナウンサーが紹介して騒然となったw
西武球場の方のライヴ自体は、別に淡々とやったので、どうという事はなかった。帰る時も裏口から出て、うまくいったと思ったら、カメラマンがたった一人だけ、根性ある奴がいたんだね。そのカメラマン、スタッフが必死でブロックしてくるのに、ファインダーを覗いたまま突進してくる。特攻隊って、こういう感じなのかなと思った。あの時、僕はこういうところにいちゃいけない、こういうところで生きられる人間じゃないと思った。 ある意味で、最大級の恐怖を感じた瞬間は、あの時だったかもしれない。恐怖っていうのは、何も暴力だけじゃない。あれはすごかった、あの不気味な恐怖感は。
8月2日に葉山マリーナでライヴをやった時も、レポーターやカメラマンがたくさんいて、ライヴが終わってから、そういう芸能マスコミ向けのスピーチを、しなきゃならなくなった。その頃はまだ27歳で、まっすぐだったから、趣意書っていうのかな、アジテーションみたいにしゃべり始めたら、前にいたカメラマンが「こっち疲れてるんだから、演説はいいから早く撮らせろよ」って。ああ、これが芸能の世界なんだなって思った。だから、あそこで僕のスタンスは決まったの。あれがなかったら、ひょっとして結構チャラチャラした芸能人になってたかもしれないw
向こうは勝手に来るからね。事務所も弱小だし、嫌だなんて言えない。大変な事は他にもあって、その8月2日の葉山のライヴで共演予定だったシャネルズが、直前に出られなくなった。さらにその週に、レコード集めでとてもお世話になっていた、大阪のフォーエバー・レコードの宮下(静雄)さんが亡くなったり、とにかく毎日何かがあった。その締めくくりが8月2日で。あの年、1980年はものすごく寒い夏だったんだ。日照がほとんどなくて、毎日冷たい雨でね。8月2日も午前中から晩まで土砂降りで、もしシャネルズが予定通りに出ていたら、楽器のセッティングを変えなきゃならなかったから、おそらく演奏不可能で中止になっていたかも。開演のときには、もうステージ上にかなり水が溜まっている状態だった。
そんな状況で、僕らが何故やれたかっていうと、当時から楽器はラインで直つなぎ、アンプを一切使ってなかったからなんだ。本番中はエフェクターが、水の上にプカプカ浮いてる有様なんだけど、それでもライン出しだったから、何とか音が出てた。PAマルチケーブルは火花がスパークしてたし、照明のピンスポットは、開演15分で雨に濡れてショートとして飛んじゃって、そこから先はピンスポットなし。メンバー各自の上に、ビーチパラソル立てて、雨をしのいで、サーチライトをステージに投光して、それでライヴをやった。
演奏は夕方4時過ぎからで、そんな状態でも4時間15分も演奏したからね。プールの中の方が暖かかったから、多くの観客が水の中で観ていた。幸運なことに、あの頃はライヴをたくさんやってたから、ステージの段取りはどうとでもなった。曲順も決めないで出て行って、何からやろうかって。で、気がついたら4時間以上やってたんだよ。それで、打ち上げにカメラマンとかレポーターが来てて。それに僕が真面目に応対しようとしたら、そのカメラマンの早く撮らせろ、っていう話になる。
今だったら「あんたたちに言うセリフなんてねえよ」くらいは言うだろうけど、あの時はまだ熱血漢だったから、話せばわかるって、真面目な論法で行ったから、ますます悪かったんだね。とりあえず世の中にちゃんと気持ちを伝えようと、そしたらわかってくれるんじゃないか、ってね。でも、それは大きな間違いだった。そうした体験が「Hey Reporter!」っていう歌になるわけでw
結婚したのは、それから2年後。82年の4月に結婚するんだけど、まあ色々とお互いの家族間の準備とかあったから。僕は29歳で、彼女が27歳で結婚したから、今ならごく普通だけど、あの頃はそれでも遅いって言われたんだよね。だから8月2日は結婚宣言じゃなくて交際宣言。まぁでも交際するっていったって、その前から基本的な性格とか、そういうものは知ってるからね、別にね。
8月2日が終わって静かになった。といっても、それはあくまで自分の精神的な生活の話で。芸能関係の方も、そこから後は、僕の方はあんまり関係なくなって。だって僕はテレビに出ないから。でも、大変なのは彼女の方。当時、竹内まりやは、まだ半分アイドルみたいな扱いだったから、いろいろ大変だった。で、81年の終わりに彼女は休業するから、そこまで1年半くらい。僕の方は取材っていっても音楽雑誌だけで、一般誌なんてやらなかったし。事務所もそういう話題は受け付けなかった。そういう話は、むしろ彼女の方が引き受けてくれていた。まあ、それが結婚まで続くわけです。
   
<シングルはともかく、アルバムがCMの写真じゃイヤ>
シングルRIDE ON TIMEは5月発売だったけど、80年は1月から仙台、山形とツアーに出た。あの頃はソーゴー(コンサート・イベンター)も転換期でね。それまでは演歌・歌謡曲が中心だったんだけど、ロック路線に変えようとしていた。だけど、ソーゴーはそれまでの演歌路線がたたって、なかなか思うようにいってなかった。結果、あの当時のソーゴーで80年代前半の数年を支えたのは、僕と高中(正義)くんなんだよね。イベンターはいっぱいあったけど、僕のライヴはそれまでは、地方はおろか東京でも買ってくれなかった。で、ソーゴーが桑名(正博)くんである程度成功したので、僕も、っていうことだったんだけど、始めてみると、地方でもそれなりにお客さんが入ってくれた。それでソーゴーも、その後のロック路線に切り替えられた。
ツアーの合間でのレコーディングだったけど、アルバムRIDE ON TIMEの曲はライヴで色々と試せたから。「夏への扉」はすでにライヴでやってたし、レコーディングは1時間かからなかった。ワンテイクでOK。青山と広規が入ってきたから、けっこう5人でリハーサル・スタジオに行って、パターンの練習をしてた。「いつか(Someday)」なんかもパターンを試して、ああでもない、こうでもないって。「DAYDREAM」もやってるうちに、広規がベースのパターンを思いついて、それに青山が色付けして、それに椎名(和夫)くんが乗せて、っていう感じ。だからヘッド・アレンジなんだけど、上がりがものすごく早い。基本的なポリリズムのパターンを提示すると、それに彼らが色付けをする。時代だね、やっぱり。六本木ソニースタジオの音も良かったし。 エンジニアの吉田保さんも、あの頃はまだリヴァーブ少なめで、コンテンポラリーな音を作っていた時代だから。このアルバムは(制作)期間が短かったし、次作のFOR YOU(82年1月発売)になると、 また長期戦になって、曲数が多くなって17曲も録ったのは、生まれて初めてだった。予算が潤沢になったのと、自分の所の原盤出版になったからだね。
アルバムRIDE ON TIME(の録音)は収録数ぴったりだったかな。全曲ほぼ同じリズム・セクションで録ったのは初めてで、これは後にも先にもこのアルバムだけ。とにかく集中力があった。長いツアーで組み上がったアンサンブルというのもあったけど、本当に良い状態だったね。
小杉さんが言っただろうけど、ジャケット事件ね。このアルバムでは、CM写真を使ったジャケットにする、っていう契約だったの。小杉さんがそれを忘れた。それで困って、フェイスカバーをつけるという寝技を思い付いた。小杉さんそういうところは天才だからね。 僕はまあいいやって。そうするしかない。逆に僕は、そんなので相手は大丈夫なのかなと思ったけど、そういうところも、小杉さんは天才的。なんか妙に、みんな納得して帰っていくんだよね。後でよく考えたら、納得できなかったりするんだけど。厳密に考えたら、それが契約通りかどうか、わからないけど。でもジャケットは一生残るけど、CMは時が経ったら、記憶の彼方だから。実際にそういう例があるから。いずれにせよ、CM出演したそのままのビジュアル・ジャケットなんて冗談じゃなかった。シングルはともかく、アルバムのジャケがCMの写真じゃ絶対にイヤだもん。
ジャケのデザインは、MOONGLOWの時にはペーター佐藤がニューヨークに行ってて居なかったから、奥村(靫正/ゆきまさ)さんに頼んで。その流れで、RIDE ON TIMEも奥村さんに頼んだ。奥村さんは才能のある人で、このジャケットも嫌いじゃないよ。
   
<”芸能人を見る視線”というのを生まれて初めて味わった>
シングルRIDE ON TIMEはチャート3位。 5月の中頃か末だったか、椎名夫妻と3人で、銀座の日曜のホコ天に行ったの。人生でそれまで、人目っていうのを意識した事は一度もなかった。確かにこの商売をやってると、サインしてくれとかあるけど、それはあくまで身近な客の話で。いわゆる一般的な芸能人を見る視線というのを、生まれて初めてその日に味わったんだよね。
椎名くんの奥さんがメガネを直すって言うんで、メガネ屋に行ったら、なんか人が寄ってきて「あんた、昨日テレビ出てたでしょ」って。極めつけはツアー先の高松のキオスクで、どっかのおばさんが「あんた、あんた、ほら、誰だっけ、ほら」って。「ああ、これか」って思った。 そういうのと、あのスポーツ新聞の騒動が重なって、僕はしばらく対人恐怖症だったことがある。家を一歩も出られないというほどじゃないけど、完全に脱却するまでに結構(時間が)かかった。
芸能界に対するネガティブ・インパクトって、あれで強烈に刷り込まれたから。やっぱりヒットするっていうのは、こういう事なんだなと思った。
桑名くんがその昔、顔をマフラーでぐるぐる巻きにしてレコード会社に来て、「歩けへんねん、どないしよう」って。その少し前アン・ルイスのアルバムをやったときに、彼女と数日一緒に行動したことがあって、3日で気が変になりそうだった。キヨスク行ってサイン、天津甘栗でサイン。僕はそういうノリに全くついていけなかった。
そういうのが、気持ち良い人もいるんだろうけどね。だから芸能人て、騒がれると鬱陶しいけど、全く騒がれないと不安になる。そこを行ったり来たりしてるっていうかね。でも僕はその後、徹底してテレビに出ないでやってきたでしょ。そうすると、銀座のど真ん中で「達郎さん!」とか声かけられても、ほぼ100%ファンクラブの人だからw
まぁそれでもこの歳になるとね、もうずいぶん長いことやってるので、この間、高松で讃岐うどんを食べてたら、「あれ、誰か知ってる」って、おばさんがみんなに教えて回ってる。そういう事はあるけどね。そういうことを最初に体験したのは、1980年のあの時期なんだ。
   
<80年発売、水口晴幸「BLACK or WHITE」をプロデュース>
水口晴幸くんはクールスから独立したあとに、エアーと契約した。小杉さんはああいうの、好きだからね。ちょうど青純や広規と始めた頃で、RIDE ON TIMEのちょっと後だったけど、ギタリストの北島健二くんが、二人の古い友達だから参加してくれてね。あの時の北島くんは抜群だったね。彼もアレンジのセンスがあって、佐藤博さんみたいなところがあった。いろいろフレーズのアイデアを考えてくれるんだよね。そのひらめきが素晴らしいの。
そういえば1曲目の「Drive Me Crazy」は筒美京平さんの曲なんだけど、あれはもうアレンジで代理コード使いまくって、残っているのはメロディだけという状態なんだけど、京平さんはけっこう喜んでくれるんだよね。そういうことをしても、怒らないの。音楽家としても、大きな人なんだよね。
それと勝新太郎さんの「警視-K」(80年10月〜12月放送、全13話)だね、ドラマの音楽を担当した。僕は、ドラマの主題歌の話が来たのは、水口くんをドラマに出すためのバーターかなって、ずっと思ってたの。でも、そうじゃないみたい。小杉さんに聞くと、日本テレビのプロデューサーが、僕にオファーしてきたんだそう。勝さんの番組だから、それで僕は一度勝さんに会いに行って。それまで一面識もなかったからね。
勝さんのことは「座頭市」「悪名」「兵隊やくざ」と、一応一通り観てるからね。あの頃は、まだ日本映画に耽溺しているわけでもなかったけど、とりあえず大映で勝さんが出ていた映画は、名画が多いので、それなりに観ていた。「薄桜記」や、大映オールスター「忠臣蔵」の赤埴源蔵(あかばね げんぞう)とか。でも、それ以上の事はあまり知らなかった。長唄三味線の杵屋(きねや)の御曹司であるなんて、全然知らなかった。だから、あくまで映画俳優としてだよね。で、赤坂東急か、ヒルトンだったか忘れたけど、ホテルに会いに行って。
「警視-K」っていうのは非常に実験的なドラマで、ネオリアリズムみたいなところがあるんだけど、12話1クール分の予算を、1話で使い切っちゃったんだよね。初回用の録音っていうのを音響ハウスでやったんだけど、そこになぜか、勝さんが来てね。なんか色々と始まって、広規がベースで遊んでいたら、「それだ、それ」って入ってきて、「それだ。録るぞ!」って始まって。2時間半ぐらいそんなことをやって、大丈夫なのかなと思ったけど。その時のソースが、FOR YOUのボーナストラックに入ってるような、ああいうやつなんだけどね。
結局、勝さんには三回しか会っていない。最初の打ち合わせと、そのレコーディングの初日と。三回目は「警視-K」をやっているときに、勝さんがオールナイトニッポンに1日だけ出たことがあって、深夜の1時から3時で生放送をやったの。それに来い、って言われたんだよ。で、行ったんだよね。そしたらスタジオの壁に銀座のお姉さんがずらっと一周、張り付いてて。勝さんがブランデーだかウイスキーだか飲みながら、ウダウダ言ってるんだけど、「山下くん、そこにコンガがあるから、それを叩け」って。「俺が机を叩くから、それに答えろ」って。夜中の2時半に、俺は一体何やってんだって思いながら叩いてたw 番組が終わって、「いやー楽しかった。じゃあ飯を食いに行こう。キャンティ空けてあるから」って。夜中の3時過ぎに(飯倉の)キャンティに、金色のロールスロイスで乗り付けるの。金色のロールスロイスだよw そんなものがあるんだね。それに乗っけられて、キャンティに行ってね。訳がわからないでしょ。とにかくすごかったよ。
ああいう人の面倒を見てる、勝さんのマネージャーは偉いと思ったね、ホントに。耐える一方でしょ。あれは良い体験だったな。同じベテランでも、フランク永井さんの時とは全く違って、音楽的なものは何にもなかったけど、勝さん自体のオーラがすごかった。その後、あんな経験は無いもの。
僕は今も、役者さんとはほとんど接点がなくてね。ほんの数えるほどしかない。あるとしたら、脚本家とか監督とかの方なのね。「ENDLESS GAME」(90年)をやった時は、あれはテレビドラマの主題歌で、原作が連城三紀彦さんの「飾り火」なんだけど、脚本が荒井晴彦さんていう有名な脚本家だったんだ。そういう人とは話が合って、ドラマの打ち上げで、それこそ朝の7時まで酒を飲んだ記憶がある。僕はそういうドラマの打ち上げに参加しても、俳優とジョイントする事は滅多にない。常にプロデューサーとか、脚本家、監督とテーブルを同じくする結果になる。スタンスがそっちのほうに近いからだろうね。それで山中貞夫の話とかで盛り上がるんだw
僕は「警視-K」の主題歌が「My Sugar Babe」じゃなくても、いいんじゃないかと言ったんだけど、小杉さんが「いや、時間がないので、これで」って。いい加減なんだw こんな地味な曲でいいのかなって、僕は思ったけど。
ドラマの音楽については、ちゃんと別録音、テレビサイズで作ってたからね。RIDE ON TIMEとは別テイクで。でも、これはヒットしないよなって、自分でも思ったけどね。シングルは切ったんだけど、もうちょっと違う曲でもよかったよね。でもまぁ、あの頃は、小出しにするのが美学だったりしたからね。
あの頃は、そういうリリース・スケジュールをどうするかとか、シングルを切るとかいう事は、みんな小杉さんの意思だったからね。僕は「これをシングルに切りたい」って言った事は無いから。一応FOR YOUまでは小杉さんが現場をやっていたから、FOR YOUの時に(アカペラの)インタールードを入れようと言ったのは、小杉さんのアイデアなんだよ。
RIDE ON TIMEのCDのボーナストラックに、インストが入ってるんだけど、あれはレコードの時にも入れようかと思ってたものなの。だけど収録時間が増えてしまうから、やめたのね。それを小杉さんが、もったいないと思ってて。FOR YOUの時にも、インストを入れようかという話になったの。でも、どうせならインストより、アカペラの方がいいんじゃないかって。それで、あのFOR YOUのレコードに入っているインタールードを作ったの。そういうアイデアは、小杉さんあの頃はすごくあったんだよ。今は全くないけどねw
【第29回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第28回 アルバムRIDE ON TIME(80年9月19日発売)

レコード大賞の授賞式に出席することは考えてなかった>
レコード大賞のベストアルバム賞は、1979年に新しく制定されたもので、僕の受賞の時が2回目だった。それまではアルバムのための賞は、なかったんだ。評論家の福田一郎さんあたりが音頭をとって、アルバム賞をやろうと言い出したと聞いてる。この賞は当初から投票制じゃなくて、合議制だった。で、80年の大晦日、この時に受賞したのはYMOの「ソリッド・ステート・サバイバー」と、長渕剛さんの「逆流」と、僕のMOONGLOWの3枚。ちなみに1年目に受賞したのはアリスの「栄光への脱出〜武道館ライブ」と、サザンオールスターズの「10ナンバーズ・からっと」、さだまさしさんの「夢供養」だった。
当初、僕は「そういうのはいらない」って言ったんだけど、 福田さんから「そういうものじゃないだろ」って言われてね。福田さんとは仲が良かったから。でも、授賞式に出席して表彰状もらうなんて事は、全然考えてなかった。レコード大賞なんて無縁だと思ってたけど、エアーレーベルのスタッフが「田舎の家族から、いつまでやくざな仕事をやってるんだ。故郷に仕事があるから帰って来い、と言われている。達郎さんが受賞式に出てくれることで、そういう家庭の不安やプレッシャーを払拭して、故郷に錦を飾れるから」って懇願されてねw それで授賞式に出ることにした。80年の末だったから、どうせRIDE ON TIMEでCMに出てたし。 だから司会のいしだあゆみさんから「お気持ちは?」って聞かれて、「レコード会社のスタッフのおかげでこういう賞がいただけました」という内容の発言をしたのは、そういう事情からなんだ。ムーン・レコードになってからも、ムーンは20人足らずの会社だったから、レコードのクレジットに全員の名前を書いてた。それを田舎に送ると喜ばれるわけw
   
<CM撮影でサイパンに行って、RIDE ON TIMEの構想が発展した>
1980年は激動だったね。79年の10月ごろからツアーメンバーを青山純伊藤広規椎名和夫難波弘之にして、79年にはサックスがいなかったけど、80年の春からは土岐(英史)くんを入れて、 コーラスをシンガーズ・スリーの和田夏代子さんと鈴木宏子さんに頼んだ。和田さん、鈴木さんは、僕より少しだけ年上なんだけど、人柄が穏やかな上に、二人とも英文科で英語の発音が良かった。 
そんな感じで、このメンバーで81年の暮れまでやったから、2年近くだね。
思えば79年の春から、日本青年館、大阪サンケイホール(現・サンケイホールブリーゼ)、 名古屋の雲龍ホール(現・名古屋クラブダイアモンドホール)、札幌市公会堂(現・札幌市民ホール)、福岡電気ホール(閉館)とか、 600人から700人、1,500人規模のホールでツアーをして、そこからメンバーを変えて、秋からは青山と広規で動き始めて、79年暮れに渋谷公会堂、翌80年1月に郵便貯金会館(後のメルパルクホール/2022年閉館)でやった。渋谷公会堂のライヴが終わったその晩に、RIDE ON TIMEのデモテープを録ったんだ。だからその時点では、マクセルでCMをやるってことがもう決まってたんだね。
CMのおおもとは電通の第3クリエイティブで、そこのプロデューサーがどうしても、山下達郎をCMに引っ張り出したかったんだ。マクセルのUDカセットはミュージシャン系のCM出演を続けていたところで、 僕の前はネイティブ・サンだったかな。ただ、その渋谷公会堂終了時に録音したデモは、最終的なRIDE ON TIMEとは違った曲だった。最初の曲は、曲名は同じだったけど、後に「ワンモア・タイム」っていう曲になって、マッチの作品として世に出ている(シングル「永遠に秘密さ」B面)。
僕のそのデモバージョンは2002年にRCAAIR YEARSをリマスターで出したときに、アナログBOXを作った、そのボーナス・ディスクに入ってる。デモを録ったのは音響ハウスで、夜中近くに録ったんだから、若かったよね。渋公のステージ本番が終わってから、デモ録るんだからね。だけど、どうもその曲はしっくり来なくて、年が明けてもう1曲新しく書いたのが、最終的なRIDE ON TIMEで、サイパンに行ったのは80年2月かな。
小杉さんからは「CMの話があるから曲を作れ」って言われてた。僕はそれまでシングル3枚しか出してなかった。初めからRIDE ON TIMEっていうタイトルで決まってて。だからCMを意識して作ったんだよ。このタイトルの曲じゃないとダメだということも、映像に出ることも決まっていた。 CMの画面にも出るという話を聞いた時は、なんか抵抗したような記憶もあるんだけど。RIDE ON TIMEっていうタイトルについては、そんな英語あるのかなって。あったから良かったんだけどね。だけど歌詞が難航して、ウダウダやっていたから、結構制作時間はかかったね。曲を作っている間に、CMの撮影はサイパンに行ったんだ。
撮影はかったるかったよ。なんだかんだと1日中やらされるから。まぁ若かったから、それでも何とかやってたけどね。ただサイパンに行って、曲の構想が発展した。だって南洋に行ったのなんて、後にも先にもあの時だけだから。ナマコが多かったけど、サンシャインは確かに強烈だった。サイパンに行ったことで、ああいう曲調というか、アレンジには大きな助けになったんだ。それまでは密室で作ってたからね。サイパンに行ったことで曲がまとまって、書きかけだったのを、帰ってから一気にやった。
僕の場合は、基本的に曲のOKとかの判断は(くだされ)なかった。小杉さんはコンペをやらない人だから、出したものがOKなの。強気だったんだよね。でも先方は、どっちの曲にも別に不満はなかったみたい。あの頃は上り調子だったからね。それに先方も、曲の事にはそれほど制約を設けていなかったから。そういう時代だったんだよ。
  
< 生まれて初めて一人暮らしを始めた>
とにかくリズムセクションがまとまったのが、この頃は大きかったね。あの5リズムで固まったときの充実感は、いまだかつてなかった。8ビートもできるし、16もできる。ハチロク(8分の6拍子)もやれるし、 それまで作った曲でやれない曲が、ほとんどなくなった。それは感動的だった。そうするとどうなるかというと、曲が書けてしょうがないわけ。
あと大きかったのは2月か3月に実家を出て、千駄ヶ谷に引っ越した。生まれて初めてワンルームマンションで、一人暮らしを始めた。 79年頃から、ようやくちゃんと食えるようになって、レコードを買いたいだけ買えるようになった。そういう意味では、79年が一番が幸せだったね。 実家は遠かったんだ。練馬だから車で行っても電車で行っても、1時間以上かかるでしょ。だから、ちょっとスケジュールが遅くなるともう帰れないし、終電を過ぎるとタクシー代もかさむし。酒を飲んでタクシーで帰るのもかったるい。それだったら泊まっちゃおうと、その辺のホテルに泊まるようになった。ホテルに泊まって譜面を書くとか、そういうことをやってた。だからその数年前から、家には1週間帰らないとか、そういうのはザラだった。祖父が亡くなったときには、僕が帰ってこないから、家族は実家の店を閉めて「ここで葬儀をやってるから来い」って張り紙がしてあった。 僕はそれを見て、自転車で斎場まで行ったっけ。
でも、一人暮らしを始めた頃は、わが世の春だったね。あの時にいろいろ勉強するというか、ずいぶん映画を見たり本を読んだりしたもの。アン・ルイスのプロデュースをやっていた時に「エイリアン」をやってて、あれはインパクトあったなあ。 監督はリドリースコットだったものね。あと印象に残っているのは「スター・ウォーズ」「未知との遭遇」といったSF系かな。あの頃は本当にSF映画の全盛期だったからね。他は「ディアハンター」や「地獄の黙示録」といったベトナムものかな。SF映画は、それまでももちろん見てて、ちょうどその頃に「2001年宇宙の旅」がリバイバル上映されて、テアトル東京に観に行ったっけ。「2001年〜」は何回観たかなぁ。あとスタッフが好きだったので、日本映画の封切りも、この頃から結構見るようになったね。
  
< 生まれて初めて生ピアノを手に入れた>
80年3月21日、COME ALONGをカセットでリリース。これはもともと79年の中頃に、RVCのスタッフが販促の店頭演奏用に作った非売品だったんだけど、問い合わせがすごく多くて、カセットで出ることになったの。COME ALONGは「BOMBER」で 火がついた大阪を、またさらに盛り上げた。RIDE ON TIMEが出る頃には、もうエアーレーベルはRVCの中でも完全に別セクションで、他のスタッフはもうタッチできない状態になっていた。エアーのスタッフもだんだん人が揃ってきて、僕も毎月のように全国各地に行っていた。スモールツアーをやったら、その土地の有線放送を周ったりね。
一人暮らしを始めた時に、当時のRVCの奥野社長がビクターのアップライトピアノをプレゼントしてくれた。 今でもそのピアノを使っているんだよ。もう2つぐらい音が出ないところがあるんだけど、それ以降のすべての曲をこのピアノで作っているから、ゲンがいいんだよね。本物のピアノはその時生まれて初めて持ったんだ。実家は木造2階建てだったので、ピアノは重くて置けなかった。コロムビアのエレピアンみたいな軽いやつしか置けなかったの。フェンダーのローズがあればよかったんだけど、当時はローズは高くて、とても手が出なかった。
で、生まれて初めて生ピアノを手に入れて、すごく曲ができるようになったんだ。タッチとか音の響きだろうね。実家だとエレピアンを、ヘッドフォンで隣の部屋で親が寝てるのを気にしながら、やらなきゃいけないしね。 引っ越した場所は、上下左右の部屋が全部オフィスだったの。だから、日曜日は誰一人いない。夜中まで弾いてると、外人のお姉さんが怒って、文句を言いに来たりしてたけど、日曜日の昼間やっている分には全く問題がなかった。本当にその時は、曲ができるなんてものじゃなくて、RIDE ON TIMEからFOR YOUの曲はほとんどここで作った。本当によく出来た。
食事は自炊と外食半々かな。オレンジハウス(雑貨店)に行って、フライパンだのケトルだのいろいろ買って、ユアーズ(スーパー)に行って、卵に野菜を買って、スクランブルエッグとかサラダを自分で作って。でも、そんなものじゃ足りないから、痩せちゃったよ。
RIDE ON TIMEが終わって「オンスト」のレコーディングをやってた頃は、スタジオを吉田美奈子が夕方6時からエンドレスで使っていたから、僕が使えたのは昼の12時から夕方6時までだったんだ。だから本当に健康的になった。夜は2時に寝て、朝10時に起きるという生活でね。
  
RIDE ON TIMEはバンド志向のアルバム>
シングルRIDE ON TIME(5月発売)は初登場7位だったんだよね。今まで100位にも入ったことないのに、7位だよ。そんなの嘘に決まってると思うじゃないw でも、すごく不思議なチャートアクションで、8→7→6→5→4→3→4→5→6だったかな。 結構ロングチャートだったんだよね。それで小杉さんは(9月発売の)アルバムの方も期待したんだけど(シングルの様には)アルバムは思ったより売れなくて、小杉さんは落胆してた。
シングルを作っていた時には、アルバムも想定していて。アルバムはあっという間に出来た。何も悩まず。アルバムRIDE ON TIMEは同じライヴ志向でも、MOONGLOWよりも一歩も二歩も前進している。すべて同じスタジオで録音してて、基本的に5リズムの一発録りで、全部録ってる。ストリングスが1曲も入っていない、初めてのアルバムでもある。つまり、かなりバンド志向のアルバムだね。MOONGLOWの時はスタジオが合わなくて、なかなか思ったような音が作れなかった。
それが今回は、新しく建て直したばかりの六本木ソニースタジオに移ったんだけど、以前の古いスタジオにあったニーヴの卓をそのまま使っていて、それがいい音してたんだ。スタジオルームの設計も優れていて、特にドラムブースが素晴らしい音だった。そういう環境だと、また曲ができちゃうんだね。マイクも凄く良いし。
あの数年は人生で一番の、最高の録音環境だった。ボーカルに使ってたあのノイマンのマイクは(六本木スタジオが閉められたあと)ソニーの乃木坂スタジオに行ったんだろうけど。
だから曲を書くパッションっていうか、そういうのは自意識だけじゃダメなんだ。レコーディング環境とか、どんなメンバーでやるとか、そういうものの影響がすごくあるんだ。あとはリテイクができる余裕というか。ある程度予算が使えるようになったのも大きいよね。
それから、原盤権が自分の会社に替わったの。RIDE ON TIMEのアルバムからはスマイルカンパニーが原盤出版になった。だから、スマイルカンパニーを作ったというのも大きいんだよね(※スマイルカンパニーはイベンターであるソーゴーが出資して設立された)。スマイルカンパニーができて1年経って、だんだん機能するようになっていった。だから望んでこうなったというより、やっぱり、人の縁も含めたすべてのファクターがうまく運ぶというか、この時期は特に、そういうことがものすごく大きかったんだね。その極めつけが、うちの奥さんと付き合い始めたということかな。
【第28回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第27回 アルバムMOONGLOW(79年10月21日発売)

<MOONGLOWではステージで再現できる曲を最優先にしようって考えた>
GO AHEAD!を(78年12月20日に)発売した時に、一度だけ渋谷公会堂でやったライブ(12月26日)は、村上秀一、岡沢章、松木恒秀、坂本龍一難波弘之というメンツでね。で、年が明けて小規模なツアーをするんだけど、以前からホール・ツアーはスタジオ・ミュージシャンではギャラが高くて、とても無理だったから、ツアーはGO AHEAD!のレコーディング・メンバーで、となった。それならそのメンバーで、もう一度レコーディングもしようと、MOONGLOWは上原ユカリ、田中章弘、難波、椎名和夫というメンバーが主だった。「TOUCH ME LIGHTLY」はGO AHEAD!のアウトテイクなので、ポンタたちが演奏していて、「RAINY WALK」はアン・ルイスのアルバムのアウトテイクを買い取ったものなので、細野さんと高橋幸宏なんだけど、他の曲は新しいメンバーでレコーディングした。
で、そのメンバーでツアーを少しづつ始めたわけなんだけど、リズム・セクションが譜面に弱いのと、曲のタイプによって、得意、不得意があった。それで思うように曲が演奏できなくて、困ったなと思ってる時に、青山純伊藤広規に出会ったのね。彼らは読譜力も演奏力も非常に高くて、79年12月のツアーから入ってもらった。そこからいろんな曲ができるようになったの。
MOONGLOWでは、ライヴで演奏することを第一に考えた。だからこのアルバムは、僕の中で唯一全曲ライヴでやっている。他のアルバムには、ライヴでできない曲が何曲かあるけど、MOONGLOWは全曲ライヴのレパートリーになっている。
結果論だけど、全ての曲を青山と広規が演奏できたから。あの二人はそういう意味で非常にフレキシビリティがあって、どんな曲のタイプでもできてしまう。そういう人は、それまでなかなか居なくてね。ポンタにしてもユカリにしても、得手、不得手があったんだけど、青山はどんなものでもこなせた。それはすごくラッキーだった。79年の夏に彼らが出てきたというのが、実に運命の分かれ道。
あのままユカリと田中でやっていたら、バンドらしくはなるけど、ステージの構成なんかはもっと大変だったと思う。今だから言えるんだけど、70年代までは自分が満足できる構成で、ステージをやったことはないもの。全部、過不足があった。
今(2011年)はそういう意味では器用なミュージシャンを揃えているので、いろんなタイプの曲をできるけど。それもあの時から30年間、いろいろ試行錯誤した結果でね。
で、ツアーをやるようになるから、アルバム・プロモーションも、ツアーと連動する。僕もレコード・プロデューサーの端くれだから、だったらステージで再現できる曲を最優先にしよう、と考えたの。当時出たフォリナーのアルバム「HEAD GAMES」だったと思うけど、ライヴを意識しているっていうか、すごくアンビエンス(ライヴの音場感)の多いアルバムでね。そういうやり方がいいかなと思って。それなりに戦略的に考えていた。
GO AHEAD!までは、レコードが出て営業所まわりをしても、出られるラジオ番組さえあまりなかった。それがMOONGLOWからは、状況が少しずつ改善され始めて、それでまずは、地方のタウン誌とローカルのAM局、NHKのラジオ、それと有線放送をターゲットにするようにした。まだFMは4大都市のみで全国規模ではなかったので。NHKでは「FMリクエストアワー」という夕方の番組があって、それは各ローカル地区での生放送だった。NHKに行く前に有線周りをして、その番組のゲストに行く。そういうことをずっとやった。
    
< レコーディングがタイトで、最後の1週間くらいは毎日徹夜>
全曲ライヴで出来るようにするためには、演奏しやすさと歌いやすさ。簡単なパターンというか、だから割と音は薄いんだよね。基本的には5リズムの一発録り。それにストリングスとブラスを入れる。
でも、そういうパターンが、コンピューター・レコーディングになって崩れてくる。だからアルバム「僕の中の少年」の曲は、半分以上がライヴでは演奏不可能で、「蒼氓」と「GET BACK IN LOVE」、それと「ネオ東京ラプソディー」ぐらいしかやったことがない。「僕の中の少年」はテープがなきゃできないから、ほとんど無理で。「踊ろよ、フィッシュ」も、パターンが複雑すぎて無理だしね。そう考えるとGO AHEAD!も全曲は無理だね。
だけど、はっきりライヴを意識して作った MOONGLOW、RIDE ON TIME、FOR YOUの3枚は、 ほぼ全曲ライヴでやれるんだよ。
僕はバンド上がりだから、基本的にはレコードでもステージでも同じ音がする、というのが理想だった。その頃、僕はブラック系の音楽をずいぶん聴いていて、Barry Whiteのライヴなんか観に行くと、ストリングスとブラスは日本人で、リズムセクションも1.5流のステージ・バンドで、レコードとの違いにがっかりした。それに比べるとコモドアーズとかアース・ウィンド&ファイアーのステージはレコードと同じ音がしていて、どうせならあっちの方がいいと思っていたから。
MOONGLOWは 当時出てきた大阪の聴衆の嗜好に寄っているの。だからブラコンで、しかもライヴでやれる曲っていう。だから自分は座付き作者なんだよ。ブラコンで、ライヴでやれるなら、こんな曲だろうっていう感じ。だから、あのアルバムが好きか嫌いかって言ったら、実はあまり好きじゃない。レコーディング自体がものすごくタイトなスケジュールで、最後の1週間くらいは毎日徹夜だった。徹夜で歌入れをやっていたら、声が割れてきて、ヒビが入っているような変な声になった。しょうがなくて発売をひと月遅らせた。 予算的には、スタジオ時間は前よりだいぶ自由になってた。GO AHEAD!の時は、本当にカツカツだったからね。
でも、当時はもっと贅沢にスタジオ使っていた人なんて、たくさんいたから、そういう人たちほどには、まだお金を使えなかった。
当時はアルバムが10万枚売れたら大ヒットで、7万枚売れれば 1年食べられた時代だから。でも僕はそれまで、7万も売れなかったからね。10万枚の壁を越えられるようになってから、お金のかけ方も変わってきたけど、それまでは嫌味を言われながら、やってました。
レコーディングに来るのは、小杉さんだけで、他の人が来るのも嫌だったから、スタジオの前に入室禁止って書いたりしてね。当時のレコード会社は、誰も僕なんかに期待してなかったから。でも、そんな会社にも、だんだん若い人が入ってきて、23 、4歳のセールスマンなんかは、僕らがやっているような曲を聴いているから、周囲の環境も少しずつ変わっていった。まあ会社の役員の人たちは、変わらなかったと思うけど。現場のセールスや宣伝の人たちは若返っているから、そういう人たちが数字をつけてくれたり。
あとはシンパシーを持ってくれるレコード店も出てきて、そういうお店が火をつけてくれるとかね。レコード店の力は強いから、お店へのプロモーションに力を入れて、この頃からディーラー・コンペティションになるものを始めたんだ。そして、地方からの底上げをすごくやった。ここから81〜82年くらいまでは有線、地方局、地方のタウン誌が全盛期だった。タウン誌では大体、女子大生くらいの子がインタビューに来るから、手とり足とり説明してね。少し後のRIDE ON TIMEの頃になると、女性誌のan-an やnon-no、JJとかもやったよ。 信じられないかもしれないけど、CanCanの同行取材なんかもやった。 そういう草の根運動はずいぶんやりましたよ。
    
<テープレコーダーもこのアルバムから24トラックになった>
完成したMOONGLOWを、さっきあまり好きじゃないと言ったのはね、レコーディング環境を改善しようとスタジオを替えたのが、裏目に出たことが大きかったからなんだ。だからそれはSONGSを思い出すんだよね。SONGSって後から聴くと、そうでもなかったんだけど、終わったときの印象がいたく悪かったの。レコーディング環境が劣悪だったからね。 
MOONGLOWの時も、替わったスタジオの音が気に入らなかったり、ミックスもあまり納得いっていない。だけどアナログだから、今みたいにもう一回やり直す、ということができない。それで、もうワンテイク録りたいという要求を実現するには、どうしたらいいかっていう、トライ&エラーをのちに目指すようになる。
テープレコーダーもGO AHEAD!までは16トラックだったけど、このアルバムからは24トラックになった。でも、その24トラックっていうのが、ハイファイじゃないわけ。24トラックレコーダーは、16に比べて音に力がなかったんだ。16トラックと同じ幅のテープで、24トラックにしてるから構造的に無理がある。しょうがないからドルビーとか、トータルコンプレッサーをかけるようになる。GO AHEAD!までは、トータルコンプなんていう発想自体がなかった。ナチュラルでよかった。それで十分、音圧が取れた。
それが24トラックになってから、できなくなった。そのトータルコンプのオーバーコンプレッションの感じが、最初はすごく嫌いだったんだよ。ハードの変化による問題がもう出てきた。でも仕方ないんだよ。テープもそれまでスコッチの206を使っていたのが、アンペックスの456というハイファイのテープに代わっていく。それは1にも2にも、トラックが増えた分、細くなった音をいかに入出力レベルで底上げするかということ。
でもそうすると結果、音が歪みっぽくなる。入りで6デシ、出で6デシ、計12デシベル稼げるってメーカーは豪語してたけど、そうすると音が歪むんだよ。ローとハイが妙ににじむ。
卓はAPIで すごくハイクオリティになっているし、スピーカーも2ウェイだったのが、3ウェイのJBL4325になっていて、それがいつの間にか、タッドとかウエストレイクのビルトイン・スピーカーになる。 そういう変化に慣れるのが大変だった。デジタルに変わった時と同じようなメディアの変革があった。
でも、当時はそういう問題は、エンジニアのせいじゃないかと思ってたんだけど、 今考えると、24トラックになったことも非常に責任があったんだね。本音を言うと、僕はRIDE ON TIMEのマスターテープもあまり好きじゃないんだ。FOR YOUでようやく納得できるようになったかなと思ったら、すぐデジタルになった。
だから、エンジニアも試行錯誤をして、やっと音がまとまってくると、また機械が替わるという繰り返しなんだよ。それがしゃくにさわるっていうかね。だからFOR YOU(82年)やBIG WAVE(84年)はね、オーディオとして非常に良いクオリティをしている。だけどBIG WAVEが最後のアナログで、それから先何年か、デジタルで試行錯誤を繰り返すことになる。
MOONGLOWの曲は それなりに愛着あるし、リスナーでも、これが好きな人が多いからね。特に現場の宣伝マンとかは「また、ああいうの作ってくださいよ」って言う。逆にRIDE ON TIMEのアルバムはちょっと地味だって言われた。MOONGLOWでも十分に地味だと僕は思うけどね。
    
ウォークマンは聴く方だけじゃなく、作り手側にも大きな価値があった>
トレンドを取り入れないと、ヒットパターンはできない。だけど僕は、人がやっていないトレンドをやるしかないと、MOONGLOWでは思ったの。だから例えば「永遠のFULL MOON」はマイアミのマラコ・レーベルのドロシー・ムーアとか、そういう感じの路線で。「RAINY WALK」はアン・ルイスのアウトテイクなんだけど、完全にシカゴのR&B。「STORM」はフィリーサウンドのバリエーションみたいなもので、「FUNKY FLUSHIN’」は完全にあの当時のウェストコーストのポリリズム・ディスコだからね。 でもあの時代の日本では、確実に誰もやっていなかった。
YMOの全盛期だったから、テクノはみんなやってるけど、こういうマニュアルのポリリズム・ファンクなんて誰もやっていなかった。それを全て「BOMBER」の延長線と考えたんだよ。こういうものって欧米では非常にトレンドだったけど、日本ではまだ、全然注目されていなかった。そういう意味では、結構穴を狙ったっていうか。だから、嫌いなファクターっていうのはそこなのかな。あんまりトレンドを追うのは嫌なので。だから割り切っていると言われれば、割り切っているんだけど、割り切って作ってこれかよっていう。日本的な尺度、歌謡曲的な尺度で言えば、こんなマニアックなことやってて、何が割り切ってるんだってことになるけど。
もう一つ、ウォークマンが出てきたというのも大きいね。実はウォークマンは聴く方だけじゃなくて、作り手側にも大きな価値があってね。ウォークマンを車に乗って聴くと、情景とともに聴くことができる。そうすると、家の窓を見ながら書く時と、全然違うものができるわけ。マイティ・スパロウとか、そういう昔聴いてたものが、違う環境の中で喚起されるっていうかね。アイズリーもアウトドアで聴くと、インドアで聴くとのとは全然違うの。
そのちょっと前に、ウォークマンの前身にあたるモノラルのポータブル・カセットプレイヤーが出て、それを知り合いのPAエンジニアが改造して、再生ヘッドをステレオに換装して、アンプの出力を上げて、それに当時出たばっかりの重低音増幅ヘッドホンをつないだ。それを僕らの仲間内では皆が持っていて、きっと何十台も作られたんだと思う。僕もMOONGLOWの頃は、すべての音楽をそれで聴いていた。そのレコーダーをソニーの人が見て、ウォークマンを作った、っていうのが、僕らの意見なんだけど、いい音してたんだよ。そういうハードウェアのファクターって大きいんだよね。
収録曲はアルバム発売前からライヴで演奏してた。「SUNSHINE〜愛の金色」なんかね。やっぱりMOONGLOWが転換点だからね。GO AHEAD!からRIDE ON TIMEに行くまでの転換点。だから非常に特殊な出来をしているんだよね。今聴くとバラバラなGO AHEAD!の方が焦点が定まっているっていうか。だからMOONGLOWって自分のアルバムじゃないような気がするんだね。
    
<できた曲はそのアレンジで通すのが筋だと思う>
MOONGLOWをつくったことで、かなり変化が起きた。それまでよりも、ファンキーな路線になった。それまではどっちかと言ったら、インプロヴィゼーション主体の音楽だったけど、それに比べたらファンクな、もっとコンパクトなものになったから。
「YELLOW CAB」なんて、とにかくステージでやることしか考えてなかった。何をやりたかったかって言うと、楽器交代。スティーヴィー・ワンダーが全部の楽器を自分でやっているのを見て、やってみようと思ったんだ。本当はシュガー・ベイブでも、そういうことをやってみたかったんだけどね。だから「YELLOW CAB」は女性ファンには全く不評なんだ。でもこのアルバムに10曲入っていたから、ステージのレパートリーも10曲増えた。これは本当に助かった。SPACYなんかの頃は、ライヴの事なんて全く考えてなかった。ライヴとレコーディングの世界を両立させるのは、難しいんだよ。
バンドでやると、作家的な要素が強い人間なので、どこかで飽きる。でもあんまりバリエーションを作りすぎると、今度はバンドの色がなくなっちゃう。長くやっていくには、ライヴでどうするかっていうのは難しいよね。
まぁこの時代は、ソロになって3年目だから当てはまらないけど。一番問題なのはブレイクした後に、どういうバリエーションをつけていくかっていうことだからね。同じものだと、飽きられてしまうから。作品でもそう。だから「オンスト(ON THE STREET CORNER)」とか「BIG WAVE」を 作ったりするんだけど、毎年ライヴを続けていくと、バリエーションをつけていくのは、ほんとに難しいんだよ。でもバリエーションがありすぎても、ダメなんだよね。だからルーティーンを変えないで、バリエーションを変えるって言う。そういう曲芸みたいなことをしなければならない。今はもう歳とったので、そんなこと考えてやってないけど。
それから僕は、ステージではアレンジを変えずに演奏する。他のライヴでアレンジを変えるのが、絶対に嫌なんだよ。ヒット曲メドレーっていうのが、まず嫌なの。よくあるワンコーラスのずつ、ヒットをつないでいく、ってやり方。基本的にどんな曲でも完奏する主義で、それは30年間全く変えていない。
それで、アレンジは曲の一部だからね。だから、全然違うアレンジでやるなんてこと、ちっともえらいと思わない。それは元のアレンジに自信がないか、あるいは本人たちが飽きてるからか、僕にはそういう理由に思える。お客さんが何を聴きに来てるかと考えたら、できた曲は、そのアレンジで通すのが筋だと思う。それが嫌だったら、新しい曲を書けばいいんだよ。レコーディングで完成しても、ライヴで演奏しづらい曲はやらなきゃいい。それはしょうがない。
やっぱりGO AHEAD!からFOR YOUまでのアルバム4枚は、一番ライヴをやってた時代に作った曲で、 だからステージでやりやすいからレパートリーがここに集中するんだよね。
MELODIES(83年)以降、特に「POCKET MUSIC」「僕の中の少年」は コンピューターをどうしよう、ばっかり考えていたから、ライヴでやれるとかやれないとか、もう構ってられない。そういう時代には、やっぱりなかなかライヴでやりやすい曲は作れないんだよ。
【第27回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第26回 エアーレーベル発足とムーングロー(1979年)

<「愛を描いて」は僕にとって初めてのタイアップ・シングル>
79年4月5日シングル「愛を描いて- Let’s Kiss The Sun -/潮騒」発売。このシングルがソロデビューして2枚目というw かつ、初めてタイアップが付いた。というか、タイアップが付いたので、シングルが出せた。当時も今と同じで、シングルはタイアップがなければヒットする確率はごく低かった。でも、我々のジャンルはタイアップなんて取れなかったから、アルバム主体といえば聞こえはいいけど、ようするにシングルヒットなんて望めない環境だったの。テレビにも出してもらえなかったしね。
そういう状況を打ち破ったのが、サザンオールスターズとツイストだった。あとはうちの奥さん。この辺りから、それまでの歌謡曲型のプロモーション形式に、ようやくロック関係のフィールドが乗っかれるようになってきた。
広告代理店にしても、芸能界にしても、現場スタッフは30代前半から40代の人が中心なのはいつも同じだけど、当時の30代前半はいわゆるベビーブーマー団塊の世代の人たちで、彼らが現場で少しづつ裁量権を持ち始めた時代なんだよね。だから、その世代の人たちが支持する音楽が、クローズアップされていくようになる。それが次の世代で、また新しいスタイルに移っていく、ということの繰り返しなわけ。
だから放送作家とか、ディレクターとか、そうした現場の人材っていうのは、常に30代とか40代の人が核になってて、その人たちの嗜好性がマーケットに反映される。小杉(理宇造)さんもまさにそういう世代なんだよね。「愛を描いて- Let’s Kiss The Sun -」はJALの沖縄キャンペーンソングで僕にとっての初めてのタイアップ・シングル。
シングルのタイアップは、ヒットには大きな要素だったけど、僕はそういうタイアップとは違ったコマソン(コマーシャル・ソング)の仕事をしていた。今も昔もコマソン専門でやる人は、ちょっと違う括りで見られるけど、あの当時の僕は、コマソンは作れるけど、それはあくまでコマソンで、それを自分の作品としてタイアップで使うとか、そういうことは出来なかった。IT’S A POPPIN’ TIMEに入ってる「MARIE」っていうアカペラの曲は資生堂のCM曲だけど、あれは別にタイアップじゃないんだよ。コマソンに作ったものを、自分用にフル・ヴァージョンにしているだけ。今から考えると不思議な時代というか、ヒットにそれほど固執してないというかね。そもそも分からなかった、というのもあるね。
「Let’s Kiss The Sun 」はシングルを意識したよ。コマソンと同じだもの。あの頃は歌い込みっていうのをやらされて、CMのテイクでは「オキナワ〜」って言葉が、歌詞に入ってるんだよね。「LOVELAND, ISLAND」の時も、CMテイクでは「サントリ〜ビール」って歌っている。だから、コマソンの延長っていう感覚だったんだよね。代理店のスタッフもフィルムの監督も、それまでのCMの仕事でよく知ってる人だったし。だから僕は普通のタイアップとは逆の入り口から入ってるんだ。
CMというと、79年にはコカコーラがあった。あれも一種のタイアップなんだけど、コカコーラの「カモン・イン・コーク」っていう曲は、トランザムチト河内さんが作っていて、それを5組で競作するっていう話だったの。僕は「人の曲を歌うのは嫌だ」って断ったんだけど、間に入っていたスタッフが勝手にOKしちゃって、僕が断るとスポンサーに出入り禁止になるって、代理店に泣きつかれた。それでどうしようかと困って、他の人たちと違う感じにするために、アカペラでやったの。厳密に言えば、あれは歌わされているんだけど、それが怪我の功名で、最終的に結構評判になった。それは、僕がずっとCMをやっていて、やり方が分かっていたから。他の人と違うやり方が功を奏したっていうか。
だけど「Let’s Kiss The Sun」の頃、RVCはそういう意味では歌謡曲の会社だったから、テレビ以外のプロモーション施作をほとんど持ってなかったし、僕もライヴをそれほどやってなかったから、チャート100位にも入らない、っていう結果だった。「Let’s Kiss The Sun」のCMには、山下達郎のクレジットは入った。資生堂のCMとか、コカコーラの時もクレジットは出ていた。78年頃からテロップが出る時代になってきたんだよね。それ以前は、吉田拓郎ぐらいの人でも名前が出なくて、口コミで広がっていく感じだったんだけど、それが時代と共にだんだんあざとくなっていったんだね。
    
<「Let’s Kiss The Sun」はなかなか曲が出来なかった>
僕は今だって、何がヒットするか分からないって思ってる。どうしてこの曲がヒットするんだろう、って、オリコンのベストテンに入った曲を聴いてね。
79年だったら、僕が聴いてたのはアースウインド&ファイヤーとか、エモーションズとかでしょ。そういうのだったら分かるけど、なんでこの曲が一位になるのか、って思うことが多い。結局それは、その人がテレビに出てるとか、当時のヒット曲は、やっぱりほどんどがタイアップだったんだよね。僕たちがそういうことに無頓着というか、無関心なだけであって、セオリーとか、基本的にそういう構造は何も変わってないんだよね。
「Let’s Kiss The Sun」は明るくしようと思ったの。単純に明るくしようと。それまでの僕の曲の中でみても、この曲はとても明るい。で、長くない。4分ジャスト。だからそういう、純粋に編曲家的な発想で。
どういうメロディラインだったらヒットするとか、分かっている人もいるんだけど、分かっている人だって、それは論理的なものじゃない、感覚的なものなの。だって、ぴんからトリオの「女のみち」があんなに売れるなんて、誰も分からないよね。で、「女のみち」がヒットすると、同じ路線の曲が何曲も出て来て、みんなそれなりにヒットする。でも、なぜ売れたかは分からないんだよね、時々そういうのがあるでしょ。
こちらのフィールドだって、例えば「アメリカンTOP40」は、誰でも聴いて、意識していた。だから歌謡界でなくとも、ヒットソングを書きたいという妄想はあるんだよ、みんな。僕に限らず、そういう妄想は誰でも持っているんだけど、いざそれを現実化、具現化しようとすると、とても難しい。ほとんどの人は、その妄想を現実にする努力や訓練をせずに、ただのシュプレヒコールで終わってしまう。レコードが出たら、ぐんぐんチャートを駆け上がるって妄想はあるけど、望むだけで実現すりゃ、誰も苦労はしない。レコード会社のマーケティング、プロダクションのノウハウ、そういうものが複雑に絡み合って、それに偶然も加味されて、ヒットが生まれる。ある時にはゴリ押しで。それは今でも全く変わらない。
僕も「アメリカンTOP40」を聴いていたから、ヒット曲の雰囲気というか、そういうものは自分なりに持っていたんだけど、それが日本の風土にどれだけ合うかについては、ほとんど絶望的だった。「Let’s Kiss The Sun」がチャートに入らなかったことについては、特に(感想は)無いよ、絶望的展望だったからねw あの曲は突貫工事だったんだ。とにかくできなくて、できなくて。今日にでもテープができないと、誰かの首が飛ぶ、っていう瀬戸際まで行ったんだよね。
その頃、僕は練馬に住んでいて、練馬から車で渋谷にあったレコード会社に向かってたんだけど、しょうがない、できませんでしたって土下座して謝ろうと思ってた。それが、今でも覚えているけど、原宿にあったパレフランスの前で信号待ちしてた時に、パッと出て来たんだよ。「フライング・オール・デイ」っていうフックのところが。それで60秒のフックを作って、その晩にAメロ、Bメロを作って、それで間に合ったんだ。
あの頃、とにかく曲が出来なかった。GO AHEAD!からMOONGLOWの頃、あの時代が一番出来なかったな。78年にキングトーンズの曲を3曲、詞先で書くのが本当に時間がかかって、ひと月なんてものじゃなかった。やる気がなかったんだよね、ようするに。
結局、契約とか実務的な問題が色々あったり、レコード会社も、早く出ていけ、みたいな世界だったから。それこそ、サザンやツイストの活躍が始まった時期だったからね。あの人たちが出て来たのは78年の前半でしょ。うちの奥さんも、そのすぐ後に出て来た。そうなると70年型ロック・フォークはもうお呼びじゃなかった。特にロックはね。
フォークはその頃、一定程度の成功を収めていたから。彼らは年間100本単位のライヴという基盤があって、全国のイベンターと組んで、テレビを使わずにやれてたわけでしょ。僕らはそういうライヴも出来なかったから。
個人的には、この頃はCMやスタジオ仕事で、それなりに食べられるようになってきたから、余計にそういうことを思ってたかもしれないね。食べられなかったら、もっと必死にやっていたかもしれない。CMとスタジオの仕事である程度食べられて、レコードもそこそこ買える。そうすると労働意欲がなくなってくるというかね。
     
<MOONGLOWのレコーディングと「Let’s Kiss The Sun」は全く関係ない>
「BOMBER」以降、今まで見たことのないお客さんが出て来たでしょ。その人たちの方が自分の信条には合ってるなと思った。
小杉さんが桑名くんに一生懸命やっているのを見て、次は自分の番かなとはずっと思っていたの。それをどういうやり方でやるのか、よく分からなかったんだけど、とにかくシングルを書けと。契約していたフジパシフィックと1982年まで契約を延長したから、シングルを書け、って、せっつかれたの。フジ自体も原田真二とかオフコースのヒットが始まっていた。その当時、一番の非採算部門が僕だったからw そういうことを要求された。だから「Let’s Kiss The Sun」は完全にフジパシフィックがらみのタイアップで。
その後、スマイルカンパニーという自分のオフィスが出来て、RVCにはエアー・レコードというレーベルが出来た。レーベルと自分のオフィスが立ち上がったので、そこで少しスタンスが固まったというか。
事務所は78年12月に出来た。その時はまだスマイルカンパニーじゃなくて、ワイルドハニーという名前でね。そこからマネージャーが付いて、コンサートもやるようになる。それまでは事務所もなかったし、マネージャーもあってなきが如しだったけど、少しスタッフが出て来て、RVCの宣伝マンだった人が、マネージャーになって、少しづつビジネスらしき形態になっていった。それでも、まだ25、26歳の話だから、何が何だかよく分からなかったんだけど、今から考えるとそういう話なの。
シングルの後にアルバムの準備、だからMOONGLOWのレコーディングと「Let’s Kiss The Sun」は全く関係ない。「Let’s Kiss The Sun」はMOONGLOWのB面最後に入ってるけど、あれだけはアルバムと関係なく作っている。MOONGLOW(79年10月発売)はエアー・レコードの第1弾なんだけど、予定よりひと月遅れたんだ。
  
<レーベルを作ることによって、制作宣伝の自由度が増す時代だった>
エアーができた経緯で言えば、そもそもあの当時、わりとみんながレーベルをつくりたがっていた。経理的な問題や、宣伝費のフィードバックなどレーベルを作ることによって、制作宣伝の自由度が増す時代だったんだよ。
当時RVCの邦楽には1課と2課があって、歌謡曲は1課、僕のようなロック・フォーク系は2課だった。当然1課の方に投下する宣伝枠の方が大きいから、不満が募る。それがレーベルになれば、最初からきちっと宣伝費の枠を作れて、実績があれば、更に上乗せもしてくれるシステムだったと記憶してる。エアー・レコードには最初は僕と浜田金吾がいて、後から何人か入れたけど、結局僕らが抜けてしまったので、レーベル名はしばらく残ってたけど、最後には消滅したんじゃないかな。
あの頃、小杉さんは近藤真彦を担当する直前だった。小杉さんは元々ロック寄りのA&Rマンで、歌謡曲とは関係なかったんだけど、ジャニーズとの縁があったので、たのきんトリオが大ブレイクした時に、小杉さんに白羽(しらは)の矢が立って、「マッチを獲得しろ」となった。
彼はエアーレーベルの宣伝費に実績をフィードバックして欲しいという交換条件を出した。かくしてマッチはRVCと契約して、大ヒットを連発したけど、会社の上層部は小杉さんとの約束を果たさなかった。それがのちに、僕らがRVCを辞める原因ともなった。
まあそういうビジネス的な経緯があって、桑名くんが1位を獲ったとか、そういう追い風もあって、小杉さんは自分のレーベルを立ち上げて、レコード会社のいちディレクターからステップアップしようとしたわけ。そんな思惑が重なっていた時期が、79年の「Let’s Kiss The Sun」からMOONGLOWへの時代だったんだ。
そんなわけでエアーレーベルは小杉さんの戦略から生まれた。実際にCIRCUS TOWN、SPACY、GO AHEAD!とセールスはジリ貧だったんだけど、MOONGLOWではリリースとツアーをリンクさせた活動を始めたり、いろんな可能性が生まれつつあったのと、あとは何度も言うけど、時代だよね。ウォークマンの時代が始まっていて、そこに大阪から火がついたディスコとアウトドア・ミュージックの時代の波が、ちょうどうまい具合に乗っかったっていうかね。そういう波に乗って、MOONGLOWは1年間じわじわと売れ続ける、というパターンになったんだ。
更にMOONGLOWは、80年のレコード大賞のアルバム賞をもらった。YMOがブレイクしていたり、サウンド思考がある程度評価される時代になっていたこともあるんだと思う。当時はレコ大のアルバム賞は3枚選ばれていて、その年はYMO「ソリッド・ステイト・サバイヴァー」と長渕剛さんの「逆流」、それにMOONGLOWだった。
前作のGO AHEAD!のセールスはRVC的には全然満足できるものじゃなかった。それでも次が出来たのは、レーベルになったから。小杉さんは桑名くんでブレイクが始まっていたから、会社に対してそういうアピールは出来た。小杉さんはそういうところはポジティヴだからね。GO AHEAD!は当時3万6千枚くらいの売り上げだったんだけど、RVCは歌謡曲の会社で、シングルヒットが評価のすべてだった。
実はRVCの売れっ子だった歌謡系の人たちも、シングルは20〜30万枚売れて、ベストテンに入るけれど、アルバムセールスは、僕らとあまり変わらなかった。そこそこ売れたとしても、一定の期間が過ぎると返品がドッと来る。
ところが専門的な話になるけど、RVLの8000番台っていうのが、RVCではいわゆるロック、フォーク、ニューミュージックのカタログなんだけど、このジャンルだけ異常なほど、返品率が低いということが分かったの。
78年当時のRVCはどん底でね。ビューティー・ペアのヒットでかろうじて食ってる時代だった。それこそ今の節電じゃないけど、オフィスの蛍光灯を半分消して、トイレットペーパーを無くして、みたいなことまでやっていた。それで収支を徹底的に見直したら、RVL-8000番台が非常に効率が良いことが分かった。それでこのジャンルに力を入れようということで、”3M作戦”が始まったの。桑名正博、越美晴竹内まりやをプッシュした。でも、それに僕は置いてかれてw 
エアー・レーベルが始まった時代はそういう感じだった。
【第26回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第25回 ブレイク前夜 、79年の大阪と「ピンク・キャット」

<BOMBERが売れ始めたから、大阪に来てくれ>
1979年1月、次のシングル「愛を描いて〜LET’S KISS THE SUN」のレコーディングをしていて、4月に発売だね。この79年初めは、けっこう頻繁に大阪にプロモーションに行った。クールスのレコーディングが終わって、直ぐくらいに、大阪のプローモーション担当だった石原くんに「BOMBERが売れ始めたから、来てくれ」って言われて行ったの。
当時はOBCラジオ大阪)で、栗花落(つゆり)光(ひかる)さんっていう、今はFM802の役員をやっている人が、ラジオ制作をしていて、「ジャム・ジャム・イレブン」っていう深夜放送があった。もう少し後の79年半ばくらいになると、ラジオに毎週出るようになった。特に「ジャム・ジャム・イレブン」は、スターキング・デリシャスの大上(おおがみ)留利子さんとか、マーキーっていうディスコのDJの人のところにも出たね。彼がマーキーで僕がタツローだから、タツマキ・コンビって言って、そういうのはずいぶんとやった。
あとはアン・ルイスがレギュラーをやっていた番組。ハイヒール・モモコの番組とか。ラインナップとしてはそんな感じかな。うちの奥さんも「ジャム・ジャム・イレブン」のレギュラーをやってた。その頃はまだ付き合う前だったけど。ちょうど「UNIVERSITY STREET」が出る頃で、そのレコーディングもこの頃だったんだよね。
大阪でのメディアの反応は(以前と)全然違ってた。78年にIT’S A POPPIN’ TIMEで大阪キャンペーンをやった時は、全くケンもホロロだったけど、石原くんが入ってからはアプローチを変えて、深夜放送とディスコ周りをやるようになった。BOMBERはディスコで毎日かかっていて、全盛期のアメリカ村でもかかりまくっていたから。狐につままれた、っていつも言ってるけど、本当に何が何だか分からなかった。僕はディスコなんてものに、およそ縁がなかったし、70年代初めのMUGENとか新宿のサンダーバードとか、生バンドのディスコ時代には時々聴きに行ってたけど、プロになってからは全く無縁だった。アン・ルイスの仕事をするようになってから、ツバキハウスとかに連れて行かれるようになって、80年くらいになると、流石にディスコの知識も蓄積されたけどね。
全盛期は、毎週大阪に行ってた。FM大阪OBC、ABC(朝日)、MBS(毎日)、要するにラジオ一辺倒だった。あの頃にお世話になったディレクターは、みんな今でも仲がいい。番組が終わって、夜中に屋台で、ラジオのディレクターと酒飲んだりね。懐かしいな。とにかくGO AHEAD!は大阪のシェアが東京を上回ったというか、半分以上が大阪で売れたんだよね。それが完全にブレイクのきっかけになった。
ハイヒール・モモコさんはごく常識的な人だったよ。ヤンキーのお姉さんだから、とても気遣いがあって、そういうところでクールスとの経験が生きてくるんだよ。ヤンキーっていう言葉を僕に教えてくれたのは、大上留利子さんでね。僕がツッパリっていうと、「それは大阪ではヤンキーって言うんですわ」って。「ヤ・ン・キ・ー」ってちゃんと発音の仕方まで教えてくれた。大阪のラジオだからって、特に意識はしていなかったよ。みんないい人だったしね。深夜のDJをやっていた人たちは、芸人さんでも音楽好きな人たち、たくさんいたからね。そういうことを考えて、セットしてくれていたから、下ネタ専門のお笑い芸人のゲストに入ることは、まずなかった。
当時の芸人さんでは、太平サブロー・シローさんのシローさんが特に僕を応援してくれた。シローさんはいつもライヴに来てくれていたし。とにかくあの当時の大阪には独自のラジオ文化があった。あの時に培った人間関係というは大きいな。
同じようなことは大阪以外でもいろいろあって、岡山の山陽放送には河田さんというディレクターがいて、駅前のサテライトスタジオで、いきなり3時間くらいの生番組を企画してくれたり、福岡KBCの岸川さんは76年から知り合いだったけど、その頃にはもうブレイクの予感はしていたんだろう、「いよいよだね」と言われたりね。だから、ラジオを通じて大阪に馴染んだというか、でもやっぱりライヴだね、
それまでの大阪のライヴって、それこそ74年に行った時になるから、まあ、京都ではトラウマになったけど。その時の大阪の方は、言語面の恐怖とかはあったけど、ライヴ自体はそうでもなかった。むしろそのあと、76年に吉田美奈子のバックで「GO ROCKING FESTIVAL」という、雑誌GOROのイベントライヴを、大阪厚生年金でやった時の方が、強烈に記憶に残っている。その時の出演は、大上さんのスターキング・デリシャスと、憂歌団と美奈子というラインナップだった。美奈子の出番が最後で。会場に着いて楽屋入りしたら、舞台関係か放送関係の人かな、とにかく関係者だろうけど「おはようございます」って入ってきて、「あんな、今日はスタッフ全員、大上さんのために来てるやから、あんたたちは勝手にやって、勝手に帰ってな」というような内容のことを言われてね。まあ、その時代の関西ブルースとかの空気は知ってたけど、でもずいぶんな言い方だな、と思ったね。
それが79年に「BOMBER」が流行り出した時に会ったのは、まったく違う人たちなわけ。ディスコのDJとか、須磨で遊んでるサーファーとか、今まで知っていた人たちとは人種が違う。日本のフォークとロックと言われるような流れで育って来た人たちとは、全然違う、まったく新しい流れだね。音楽の聴き方やライフスタイル、色々なものが80年代に向けて変化した。アメリカ村や丘サーファー。
個人的見解では、そんなふうに大きく変わった要因は、ウォークマンとカーステレオだと思う。ウォークマンはアウトドアに音楽を持っていけるという、初の軽便なメディアだった。それとカーステレオ。カーステレオでFMとカセットが聴ける。その二つがすごく大きかったんじゃないかな。カセットテープの普及と、カーステレオとウォークマン、それらが70年代末、爆発的に広がった。
ちょうどその頃、RCAの宣伝マンのアイデアで、小林克也さんがハワイのKIKIというラジオ局のDJに扮して、彼のナレーションで僕の曲を繋いだ「COME ALONG」というプロモーションレコードを作ったけど、着眼点はそういうところにあったわけでね。あの「COME ALONG」を店頭でオンエアしたのが、すごく効果的だった。あの時の大阪の戦略はね、そういうものの先取りだったんだよね。だから、そこからしばらく”夏だ、海だ、達郎だ”になるわけでね。本当に当時の須磨の海岸では、みんな「BOMBER」を聴いてたって言われた。当時、彼らは高校生、大学生で、あれから30年経って。彼らは「BOMBER」からMELODIES(83年6月発売)までの4年くらいの間に、僕を聴き始めた。それが、僕の一番コアなファンになっているんだね。
  
<関西では僕が「BOMBER」でいきなり出てきた感じだったんだと思う>
「BOMBER」以前と、それ以降のファン。当時の僕にしたら非常にストレンジだったけど、でも、正直”それ以降”のお客さんの方がいいな、と思ったんだよ。
「GO ROCKING FESTIVAL」の楽屋に入って来たような人たちより、こっちの方が素直で、ずっといいやって。で、79年6月からのツアーの時には、東京はそれまでと全く同じお客さんだったけど、大阪サンケイホールでは一曲目「ついておいで」のイントロが始まった時に、ギャーって盛り上がって、なんだこれは、って思った。そこから明確に、流れが変わったんだよ。だいたいディスコのプロモーションなんてものが初めてだったし、しかもそれが「BOMBER」で。僕はこういう新しいリスナーの流れで、この先はいくんだなって思ったよ。
元からのファンの反発、っていうのも、それなりにあったけどね。RIDE ON TIMEの時がピークだったけれど。この頃でも、たとえば79年夏にアマチュア・コンテストのゲストで出た時、演奏してたら、一番前の女性から「どうしてそんなメジャー路線に走るんですか」って言われたりねw マイナーなままでいて欲しい人というのは、いつの時代にもいてね。売れたら裏切り者になるわけさw あの頃、僕の私設ファンクラブのような人たちがいて、その会報に書いてあったGO AHEAD!の評なんて、いいことなんかひとつも書いてないの。「散漫な内容」「プロデューサーは他に任せた方がいい」とか。
それ以来、僕はコアなファンと称するものに全くシンパシーをなくしてね。同時にファンクラブにも関心を失って、90年代まで作らなかったんだよ。でも、自分の出自を考えれば、そういうお客の存在も、また不可避だったんだよね。やっぱり、荻窪ロフトから出て来たアングラ・バンドマンなんだもの。
あれからもうずいぶん時が経つのに、そういうウダウダ言う客は今でもいてね。だったら、聴かなければいいのに、買わなければいいのに、と思うんだけどね。きっとウダウダ言うそれ自体が、自己目的化してるんだろうけど、こっちもいい歳だし、あっちもいい歳だし、お願いだからもうそういうのはいい加減やめてくれないかな、と思ってる。
まあ、とにかく大阪では、そういうのからガラッと変わって、イキがった評論家ごっこが全然なかった。もともと大阪には僕のファンが少なかったから、来た人たちも全然違ってたんだ。それは実に面白かったね。終演後、楽屋口に人があふれて、表に出られなかった、なんて、まるでアイドル並みの時代もあったんだよ。でも、ちゃんと音楽はわかっている人たちだったからね。ダンス・ミュージックとかリゾート・ミュージックとか、生活の中で、音楽を聴くようになった時代のお客さんだから、それまでと反応は違っていたけど。
特に大阪はね、不思議だけど、同じファンでも何かこう、空気が違うというか。道を歩いていたり、食事をしてるときに声をかけて来る人なんか「達つぁん、何しとんの、今日は仕事なん?」って。それで「サインもらおうかな」とか、えらくフレンドリーでね。でもそれだけ。しつこいこと、くどいことは一切なし。それは今でも変わらないね。
他の地方に行くと、自転車で追いかけられる、なんてのはあったよ。東京なんかだと気取ってるから、そういうことはないけど、最近は銀座なんか歩いてると、声を掛けてくるのはほとんどがファンクラブのメンバーw この間、大阪に文楽を観に行って、トイレから出てきたら、男の人が「サインしてくれって」って来たから、文楽のプログラムにサインしてあげたけど、あの人もきっとファンクラブの人だね。そうじゃないと、街で会ったってわからないと思うよ、テレビに出てないから。
あの時代、大阪のコンサートに来ていたお客は、関西ブルースと僕の関係なんか知らないからね。ディスコで「BOMBER」を聴いて、GO AHEAD!を聴いて、という衒い(てらい)のないお客ばかりだったからね。それこそディレクターの人たちだって、僕と山岸潤史が知り合いだとか、そんなこと一切わかってない。シュガー・ベイブに関しては、気になっていたという人も居るけれど、あまり興味ない人がほとんどだった。むしろ、福岡とか北海道の人の方がSONGSに対する認識はあった。大阪は大都会で、そこに起きているムーブメントの規模が大きいから、シュガー・ベイブに対する認識なんて、それほどなかったんだよね。
そんなことで、関西では、僕がムーブメントとして、そんなに注目されていなかったがゆえに、僕が「BOMBER」でいきなり出てきた、という感じだったんだと思う。
「BOMBER」のヒットは元々は石原くんが仕掛けたんだけど、でもそういう仕掛けって、笛吹けども踊らず、っていうのがほとんどだからね。でも、ディスコのDJが乗ってくれたんだよね。彼らも洋楽ばっかりじゃダメだ、という問題意識はあったんだって。で、これだったら、洋楽と対抗できるサウンドだから。それに日本語だし。だからディスコでかけて、啓蒙的にやっていこうと、乗ってくれたんだね。それでツアーをやって、今はこういう流れに乗っていくしかない、と思うのは当然でしょ。それで作ったのが、MOONGLOW(79年10月発売)なんだよね。だからMOONGLOWは全レパートリーをライヴで演奏した、ただ1枚のアルバムなんだ。他のどのアルバムにも、1〜2曲はやってない曲があるから。
  
<「ピンク・キャット」はアン・ルイスのスタンス改革に少しは貢献したと思うよ>
「ピンク・キャット」(79年8月発売)のプロデュースは小杉さんが仕掛けたの。アンのプロデュースで、僕の名前を売ろうって。それまでアンのことはほとんど知らなかった。「グッドバイ・マイ・ラブ」とか。ユーミンが書いた「甘い予感」とかくらいの知識。
正直言って、最初にオファーが来た時には、僕じゃない方がいいんじゃないか、と思ったんだ。やっぱり「グッドバイ・マイ・ラブ」の人だし、もうアンは根っから芸能人だから。僕はそれまでThe芸能界なんて、ほとんど見たことも聞いたこともなかったから、一緒にいると気が狂いそうになるんだよね。だって天津甘栗を買おうとしてサイン、キヨスクに寄ればサイン、みたいなさ。
新宿ルイードとか、ラ・セーヌとかに彼女のライヴを観に行くと、司会がいるんだ。昔の歌謡曲のセオリーで、一曲終わると「はい、アンちゃんの新曲でした。ところで昨日はどこかに行ったそうだけど…」みたいな感じでね。
で、彼女に「この先どんな音楽やりたいの?」って聞いたら、「歌謡ロック」だって言う。それだったらさ、僕じゃない方がいいんじゃないか、って。でもね、なんで僕のところに来たかっていうと、アンはディスコ少女だから、大阪のディスコで「BOMBER」を聴いたんだって。これカッコいいっていうんで、僕にプロデュースの話がまわってきた。どうしようかなと思ってさ。じゃあ、今までの歌謡路線一辺倒だったのを、劇的に変えようかなと思って、意図的にオーヴァー・プロデュースにしたの。作業は、曲を集めるところから始まって、アレンジして、サウンドポリシーを決めることもやるけど、なんたって芸能界だから、曲もいろんなところから、あれ使え、これ使え、と言われて。そういう交通整理も大変だった。
自分で書いたのは「シャンプー」だけ。「アイム・ア・ロンリー・レディ」(79年6月発売)というシングルがあるので、これは入れてくれ、と言われて。それはリミックスしたり。あとは美奈子とか桑名くんに書いてもらったりしたの。
それからセリーヌ・ディオンのBecause You Loved meなんかで知られるダイアン・ウォーレンの曲も使ってるんだ。当時、彼女はアラン・オディと契約していた音楽出版社の所属で、アランが「彼女は才能があるから聴いてくれ、なかなか売れないので、諦めて故郷に帰る、って言ってる」って送って来たデモの中に、けっこう良い曲があって、「JUST ANOTHER NIGHT」という曲を使うことにした。これが彼女にとって、最初にレコードになった作品なんだ。大ヒット作家になるのは、この後なんだよ。彼女はこれがきっかけで、もう一度頑張る気になって、その後の大成功につながったと、アランから聞いてる。
あと他にも「シャンプー」の詩は、新人だった康珍化(カン・チンファ)が書いてたり、エピソードは多いアルバムなんだよね。アルバムタイトルは本当は「ピンク・プッシー・キャット」なんだけど、ビクターがどうしてもダメだということで「ピンク・キャット」になった。
このアルバムをいま聴くと、あれがアン・ルイスに本当に合っていたかどうかは分からないけど。でも、彼女のスタンス改革に寄与したという意味では、少しは貢献したと思うよ。
その意味では、大いに彼女にプラスになったのは、その後にやったシングルの「恋のブギ・ウギ・トレイン/愛・イッツ・マイ・ライフ」(79年12月発売)だと思う。なんでそんなにディスコが好きなのに、ディスコ・サウンドが一曲もないんだ、と思って作ったんだ。もろディスコじゃなきゃダメだよ、って言って作ったのが「恋のブギ・ウギ・トレイン」なの。そういう機会がないと、ああいう曲は作らないし。あれがなかったら、彼女が歌謡曲路線から離れて「ラ・セゾン」まで行かなかっただろうね。コレはシングルだけだったけど、僕に頼むと予算が掛かり過ぎるということで、それから先をやらなかったんじゃないかな。その後、僕には声が掛からなかったからねw 
でも、僕自身、ここいら辺りから大忙しになるから、オファーがあっても出来なかったな。
【第25回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第24回 クールスNY録音と、大阪での「BOMBER」ヒット 78〜79年

<クールスのレコーディングで度胸は付くもギャラは無し>
GO AHEAD!(78年12月発売)のレコーディングが終わって、すぐにクールスのニューヨーク・レコーディングへ行った(アルバム「NEW YORK CITY N.Y.」79年3月発売)。その仕事の結果、ヤンキーが怖くなくなったw ヤンキーというのは関西用語で、東京では当時ツッパリって言ってたけど、とにかくクールスと仕事したおかげで、リーゼントと革ジャンに対する偏見が全くなくなった。それはその後、シャネルズと出会った時なんかに、とても生きたね。
あと、ロックンロールの音作りをあの時代にやれたことも、とても良かった。シュガー・ベイブ時代は日本のフォーク・ロックの初期段階で、自分たちの音楽スタイルを厳しく自主規定しないと、個性化、差別化が出来なかったから、ロックンロールなんてCM以外じゃやらなかった。ソロになっても、あの頃のスタジオ・ミュージシャンはロックンロールをむやみに毛嫌いしてたから、そういう曲調は賛同を得られなかった。意外かつ幸運なことに、クールスはとても演奏力があったんだ。リズムセクションのグルーヴがすごく良かった。そして何よりクールスのメンバーには、ジェームス藤木という優れたメロディメーカーが居た。彼の作品は本当にクオリティが高くてね。ギタリストとしても素晴らしかった。だからスタジオ作業自体はとても楽しめたよ。
予算は分からない。あの当時はプロデューサーといってもあくまでサウンド面だけのことでね(アルバムのクレジットには”SOUND CREATIVE PRODUCER”と表記)。バジェットとか、そういう生臭い問題にはほとんどタッチしてなかった。それどころか、結果的に僕はあのクールスの仕事では、ギャラを一銭ももらえてないんだよ。だから、経験を積んだだけ。あとはNYでレコードを買えただけでw いまだにその辺は、何が何だったのか分からない。マネージメントがいい加減だったんだろうけど、とにかくタダ働きだったことは事実でね。でも、まあ1978年のNYでレコード漁りができたことだけは、あの仕事に感謝してるよ。あの時は、自分の貯金を全部おろして行ったんだ。
ちょうど、エピック・ソニーの堤光生さんがNYに居たので(当時エピックソニー洋楽エグゼクティブとしてNY在住)、彼に中古レコード屋をたくさん教えてもらってね。「山下くんはドゥーワップが好きだから」って連れて行かれたのが、グリニッジ・ビレッジのフリーマーケットみたいな場所にあったレコード屋、というより屋台だね。段ボール箱に入れて売られていたシングルは、全部ドゥーワップで、もちろんオリジナル盤が中心だった。そこに、レコーディングが休みの日曜日ごとに通いつめてね。欲しいの選り分けていると、店の太った白人の親父が「順番を変えるな」って怒るの。「いやこれ欲しいから」って。初めはうさん臭げに見ていたけど、まぁあの当時、20代のロン毛の日本人が狂ったようにドゥーワップのシングルを漁っているんだから、無理もないよね。3回目の訪問くらいから愛想が良くなってきて、そうなると今度はいろんなものを持ってきて「これ持ってるか」「なんだ、こんなものも知らないのか」てな具合でw だけど結構親切に教えてくれるんだ。「これはセカンドプレスだ」とか「これはリプロ(複製)だけど、オリジナルなんてお目にかかれないから、これを買っておいたほうがいい」とかね。そこでトランク2個分のシングルを買った。まだ1枚が3ドル、5ドル位の時代で、そのうえ当時は1ドル180円の比較的円高だったので、たくさん買えた。あの時に買ったものが、今でも僕のメイン・コレクションなんだ。それで所持金は一銭残らずレコードに使って、それでも足りなくて、クールスのスタッフにアドバンス(前借り)してもらって、それでまたレコードを買った。まぁあれがギャラみたいなもんだったかもしれないけど、後から思えば、あの時にもっとアドバンスしてもらえば、よかったんだよなw
レコーディングはプラザ・サウンドという、ラジオシティー・ミュージックホールのビルの7階から8階にあった古いスタジオでやったんだけど、レコーディング期間はそれなりにあったんだよ。
ただ、レコーディングの後半にニューヨークでライブをやる、っていう話が持ち上がってね。CBGB’sか、マクサス・カンサスシティのどっちかでやりたいって。どちらも当時のニューヨークでは、代表的なロックのライブハウスだった。ところが、それがマネージメントの主導権争いから手違いが起こって、ダブルブッキングになってしまった。CBGB’sとマクサスが、同日、同時刻のまま「ビレッジ・ボイス」に出演告知が載ってしまったの。2つのライブハウスは、見開きページ左右でスケジュールが出ていたので、大変なことになった。結局はマクサス・カンサスシティになったんだけど。
でも僕は、お願いだからライブなんかやめてくれ、ってずっと言ってたんだ。レコーディングしていて、歌入れも終わってないんだからって。でも結局やることになって。だけどライブをやるとしたら、楽器は誰が運ぶんだって。スタッフ連れてきてないどころか、基本スタジオでの作業は、ドラムス、ギター、ベースから、僕が全部ひとりでセッティングして、チューニングもしてたんだからさ。で、結局はレンタカーを借りて、それに僕が楽器を積んで運転して、ひとりでライブのセッティングをしてやった。要するにひとりでローディーをやったわけ。クールスの連中はリムジンで乗り付けて、ヌンチャク振り回しながら入ってきたw 
演奏自体はまあ無事に終わったんだけど、案の定、シンガーが声を枯らして、レコーディングが中断。どうしようもなくて実は1曲、僕が部分的に歌っているんだよ。巻き舌の歌い方を真似してねw そのおかげでレコーディングが3日も押したの。我々の後にスタジオに入る予定だったのが、ロバート・ゴードンだったんだけど、向こうのプロデューサーと交渉して、スケジュールを3日だけ空けてもらった。どうやってやったのか、今では全く覚えてないんだけど、とにかく自分で交渉して、お金まで決めてるんだよね。まさに窮すれば通ず(つうず)でね。それで、ようやくミックスが間に合って、マスタリングもアメリカでやって帰ることになっていたので、ひとりでスターリング・サウンドでマスタリングに立ち会って、ラッカー盤を持って、帰ってきた。たったひとりきりで、よくやったよね。忘れられないよ。ああいう経験をすると、度胸がついて何も怖くなくなる。きっとあの調子で1年くらいいたら、英語も結構しゃべれるようになったんだろうけどねw
結局ああいうのって、放り出されて覚えた仕事だから、決して忘れられないんだよ。これは後で聞いた話なんだけど、クールスがトリオレコードに在籍していた時代に、A&Rを担当した人間は全部で7人くらいいたらしいんだけど、その中で肉体的制裁、つまりヤキを入れられなかったのは、僕だけだったそうw
だって、僕は本当に一生懸命やったからね。おそらく他のA&Rには、彼らの音楽性に対して、素人くさいとか下手だとかで、どこかで馬鹿にしてるとか、そういう部分があったんだろうね。僕はそういう感情は皆無だったからね。確かにスタジオ・ミュージシャンのような上手さはないけれど、そんなものロックンロールには不要だもの。バンドとしてのまとまりもあったし、音楽に対する真摯さもちゃんとあった。だから、それを受け止めて、ちゃんと正面から向き合えば、言うことも聞いてくれた。例えばニューヨークでは9曲録ったんだけど「収録時間が長いから8曲にしたい、そうしないとレコードのカッティング・レベルがしょぼくなる」っていうのを説明するのが、大変だったんだ。ホテルで6対1で話するんだけど、「せっかく録ったのになんで入れないんだ」って言われて、「スターリング・サウンドっていう、アメリカで最も優れたカッティングができる所で、せっかくやるんだから、良い音にしたい」って言うと「カッティングってなんだ」って。でも、最終的には全員納得してくれたよ。
メンバー以外にレコーディングに来てたのは宣伝部長だけで、毎晩どっかで飲んでたw だから僕はプロデューサー兼現場の手配とか、まぁ通訳はいたけど現場の段取りに関してはそんな感じで。僕、そういうの、その前にも後にもたくさんあるんだよ、ひとりでやらされるのって。おかげでいろいろ覚えられたけどね。
    
<すべては「BOMBER」から始まった>
ニューヨークから帰って、すぐに渋谷公会堂のライブだね、初めての渋公、78年12月26日。このときのバックメンバーは豪華と言えば豪華で(POPPIN’ TIMEのメンバー)、どうしてこうなったか、多分リハーサル時間がすごく少なかったから、短時間であげないといけないので、やっぱり譜面に強い人たちって、そうなったんだと思うよ。この時のステージで覚えているのは、3曲目で気管支に唾液が入ってむせて、声が出なくなったり、それは覚えてるなぁ。
この時期の小杉さんの僕に対する路線は、ほぼ全部、桑名くんのやっていたことの踏襲なの。大ホールでワンマンライヴをするとかね。桑名くんは中野サンプラザで最初にソロライブを始めたんだけど、最初の頃はかなり動員に苦しんでた。で、その次は僕の渋公。僕のほうも最初はきついと思ったんだけど、1600〜1700人入って、思ったより動員が良かったので、ソーゴーのスタッフも驚いていた。で、内容的にもソーゴーのトップの人が好きな音だったので、本腰を入れてやってくれるようになったんだ。
だから、本当にいろんな意味で、この時期がターニングポイントなんだよね。あとは時代が変わっていく時に、自分の音楽性が持ち上げられて行くのか、沈んで行くのかっていう。それは時代との、ほとんど偶然性なんだ。だって「PAPER DOLL」や「BOMBER」みたいな曲、昔は作らなかったもの。
あとGO AHEAD!では、オリジナル・アルバムでは初めてのカヴァー「THIS COULD BE THE NIGHT」をやったでしょ。カヴァーをやろうということも、当時はかなりプロデューサー的発想だよ。「THIS COULD BE THE NIGHT」はやりたかったんだ。エンジニアが吉田保さんだったでしょ。スペクターっぽい音だったら、吉田さんだなって思ったの。78年の前半あたりにウエラのシャンプーのCMをやったのね。結局採用にはならなかったんだけど、その演奏を僕は一人多重でやったんだよ。それはビーチ・ボーイズの「LITTLE SAINT NICK」みたいなオケを目指してて、吉田さんにビーチ・ボーイズの「クリスマス・アルバム」を持っていって、聴かせたの。そしたら、これはオフ・マイクを立てて録ってるんだよって。で、オフ・マイクをドラムに立てて、そのテイクはなかなか良かったんだ。それで、ちょうど76年か77年にイギリスでフィル・スペクターのレアマスター盤が出たでしょ。あれで、生まれて初めて「THIS COULD BE THE NIGHT」を聴いたわけ。いい曲だとは思ったけど、あの曖昧な調性のベースを、もっと普通に戻してやった方が綺麗に仕上がるんじゃないかと思って、それでカヴァーしたんだよね。
レコーディングは音響ハウスで、ちょうど同時期に桑名くんのアルバムを作ってて、僕のセッションの前が桑名くんのリズム録りだった。で、トン(林敏明)のドラムがセッティングされてたので、それをそのまま借りて叩いたの。あの頃はしばしば桑名くんのスケジュールと並行してやっていたからね。
この頃になるとRCAもビューティーペアしかヒットがなかった頃は抜け出しかけてて、まりやがヒットしたり、越美晴ちゃんがヒットしたり、桑名くんが売れてきたりしてたし、なんたってYMCA前夜だからね、(RCA所属の西城)秀樹の。
だけど、多分小杉さんにとって意外かつチャンスだったのは、このあとのMOONGLOW(79年10月発売)の前の頃になると、会社は僕のアルバムが意外と堅いって評価するようになったのね。というのは、返品率が非常に小さいので、グロスはそれほどでなくとも、利益率が結果的に高くなる。あの当時、アルバムというのは単価が高かったので、歌謡曲でも、それほどメガに売れる時代じゃなかった。だけど、しばしば数字かせぎによる過剰出荷の結果、返品が激しくなって、利益率が下がるという。その点、ロック、フォーク、ニューミュージック関係はほとんど返品がなかった。なので、レコード会社がこっちにちょっとシフトしたっていうか。
MOONGLOWがロングセラーになったでしょ。やっぱりシングルよりアルバムが売れると、売り上げ幅が大きいからね。そういうところがちょっと、その後のブレイクの前哨戦というか。そう考えると、色々なことがあったね。
周りが変化し始めた。要するに乗っけられてきた。それまで僕は、完全に自分の意志で作ってるわけ。だけどここからは、特にMOONGLOWは完全な座付きだものね。例えば、ライヴでやれるような曲を作らなきゃいけないとか、ファンク路線で行くとか、「BOMBER」が大阪でウケたんで、その延長なんだよね。だから仮にあの時に「潮騒」がウケてたら、ルパート・ホルムスとか、そういうふうになったかもしれないし。それも運命だよね。それまでは1曲たりとも、そういうパイロットっていうか、突出した曲はなかったから。だから全ては「BOMBER」から始まったんだよ(シングル「LET’S DANCE BABY/BOMBER」79年1月発売)。
それまでシングルは出してないからね。アルバム・アーティストと呼ばれてたわけだから。だから「LOVE SPACE」なんかはマニアには評判高かったけど、あれは一般受けする曲じゃないから。それで石原くんはGO AHEAD!(79年12月発売)のプロモーションをやるときに「BOMBER」を聴いて、これをディスコで仕掛けようって、年末から動き始めたんだよね。それが1月になって、火が付き出して。だからいろんなファクターが入ってる。面白いよね。
   
<GO AHEAD!はオーディオ的には素晴らしいと思う>
GO AHEAD!のジャケットは、POPPIN’ TIMEと似てるというか、同じなのw 予算も時間もなかった。あの当時はRCAに限らず、レコード会社にはデザインルームっていうのがあって、放っておいたらそこに回される。だけど当時のデザイン部門は、普通の会社員が部署配属でやっていたんで、アマチュアもいいとこだった。ミスプリは日常茶飯事だったし。
だから最初は外部のデザイナーに頼んだんだけど、そっちはそっちでギャラが高くてね。この時代はとにかく予算がなかったので、ペーター佐藤さんに個人的にお願いして、全部やってもらって、イラストも3日で上げてもらったんだよ。だけど、新しいアーティスト写真なんてなかったから、以前の写真の使い回しでイラストを描いてもらったので、同じものを着てるという。よくある話なんだけどさ。でもアイズレー・ブラザースも同じ写真を使って、アルバムを作ってたりするよw そんなふうにGO AHEAD!の時は、全てに切羽詰まってたの。自分としては変な気分だった。みんなに言われたもの、まとまりがないって。
でも、勢いはある。だってメンバーに気を使ってないからね。「BOMBER」なんて椎名くん、自分で何をやってるのか、分からなかったんだもの。なんでこんな音で、俺が弾かなきゃならないんだってw で、あれよあれよという間にレコーディングが終わっちゃって。でも彼にとって、あれが人生最高のソロだっていうから、人間わからないよね。どう弾くかは指示はしたんだ。でも本人は何をやってるのか、よく分からない。もちろんギターソロのところは、譜面じゃないけどね。
あのアルバムは、16チャンネルでレコーディングした最後なのね。だからその後の24チャンネルとはダイナミックレンジが全然違うんだよ。いい音してるんだよ。ずっと後になって吉田さんが「いい音してるね」って感心していた。自分で録ったのにねw あとRCAの第一編集室ってすごくシンプルなスタジオで、ラインの引き回しもめちゃくちゃ単純だったの。テレコもマイクに直繋ぎみたいな機材だから、それでかえっていい音がしたんだよ。ドルビーもないし、エコーマシンは1台しかない。オーディオ的には素晴らしいと思う。
あの時代はオーディオ的には非常に優れていたと思う。だから音楽的にも、いろんなスタイルが無理なくやれてる。ファンクから、ストリングスが入ってるバラードから、スペクターサウンドもあるし。今更だけど録音ってすごく重要で、同じ演奏をしていても、録り方で全く印象が変わるから。
このアルバムは本当にアナログ的な音でね。1曲目の「オーヴァーチュア」のアカペラとかもさ、あれも第一編集室で録ってるんだけど、素晴らしい音だと思うよ。あとで他のスタジオで録ったものよりも、全然いい。だから、そういういろんな意味で、過渡期っていうかね。腐りかけの時が一番旨いというw

腐りかけっていうのは、もう自分がやめようと思ってたからね。もうこれで、終わりだと思ってた。「BOMBER」の大阪のヒットがなければ、おそらく絶対に続けてない。だから「BOMBER」のヒットでは、本当に狐につままれた。あれで、客層がガラッと変わったのね。僕はディスコなんて全く無縁。でもここから先、79年はもうディスコばっかりになったよね。アン・ルイスにしろ、何にしろ。不思議な1年だった。得体の知れない感じ。
ただ、これでレコーディングはいいとして、ライヴは不安だった。やってなかったし。でも昔とった杵柄というか、シュガーベイブ時代の感じを体が覚えてて、ライヴに出て行ったら、出来た。でなければ、渋谷公会堂で一発目なんか出来るわけないよね。運だよね、本当に。小杉さんがひとり頑張っただけっていうか。
GO AHEAD!のセールスは、前の2枚よりは格段に良かった。やっぱりそれは「BOMBER」のせいなの。このアルバムは総数の半分は、大阪で売れたんだよ。それまではほとんど、東京だけの売り上げだったからね。それでツアーに出ろ、という話になってきて。ソーゴーもやる気になってたし、それで79年6月から東京の日本青年館、大阪サンケイホール、名古屋の雲龍ホール、福岡の電気ホールの4か所でツアーをして、その間に次のアルバムのレコーディングを始めたの。
で、ちょうどその頃に青山純伊藤広規が出てきたのね。とあるイベントでにたまたま吉田美奈子が出た時に、二人が出てて、いいのがいると教えてくれた。それでセッションで何回かやって、少しづつ練習して、ツアーメンバーを替えて行ったの。本当に運命って不思議なもので、このあたりからブレイクに向けて、のぼり調子でずっと行くんだけど、その過程でメンツがそろっていくんだよ。次のMOONGLOWの前にシングル「愛を描いて〜LET’S KISS THE SUN/潮騒」(79年4月発売)があるね、いよいよタイアップ(JAL日本航空)が始まるんですよ。
       
<”夜ヒット”に出ていたら別のストーリーがあったんだろうね>
そういうふうに売れていくようになると、スケジュール的にもやっぱり、スタジオ・ミュージシャンのリズム・セクションでやってるのは、辛くなるんだよね。リズムをポンタたちでなくしたのは、他にも色々と理由があって。
例えば78年12月にGO AHEAD!を出したときに、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」に出るという話があったの。番組側はOKだったんだけど、ミュージシャンのギャラや日程が全く合わなくて、実現しなかった。だからツアーとかそういうものをやるためには、もっと小回りのきく、自前のバンドじゃなきゃダメということになって。だったら、一番やりやすいのはGO AHEAD!の録音メンバー(ユカリ、田中、難波、椎名)だろうって。そこにコーラスで美奈子やター坊に入ってもらって。で、やりながら少しづつメンバーを替えていって、リズムセクションが青山と広規になってから、サックスに土岐さんを入れた。
土岐さんを入れたのは、サックスが欲しかったんだけど、いかにも歌伴専門というサックスは嫌だったのね。これはいつも言ってるけど、基本的に僕はジャズクラブで吹いている人しか、ジャズとして認めない体質なのでね。そういうことがいろいろあって、土岐さんが一番知的というか、上品なプレイをする人だったんで。
で、夜ヒットだけどね、もしフジテレビと予算の折り合いが付いていたら、出てたと思うよ。だって、その予定で進んでたしね。テレビに出たいとか出たくないとか、そんなこと言える時代じゃなかったもの。だからその後は、テレビの歌番組に出ないままでブレイクしたから、もう別にいいやっていう結果論的発想だから。だってCMには出たんだからね、騙されてたけどw
でも、あの時、本当に「夜ヒット」に出ていたら、また別のストーリーがあったんだろうね。それも歴史の不思議だけどね。
【第24回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第23回 78年、POPPIN’ TIMEからGO AHEAD!へ

<新曲はリハ前の2週間で作ったんだ>
IT’S A POPPIN’ TIME(78年5月発売)の新曲は、ライヴをやる2週間くらい前に作ったかな。正確にはリハーサル前の2週間だね。ライヴを想定して「雨の女王」と「シルエット」、あと「エスケイプ」だね。それとカヴァーをやろうということで、ブレッド&バター「ピンク・シャドウ」と(吉田)美奈子の「時よ」をやった。それと別にレコーディングした「スペース・クラッシュ」、資生堂CMをフルヴァージョンでひとりアカペラにした「マリー」。だから新たに書いたのは4曲、あとはアカペラだね。「PAPER DOLL」はこれ以前にレコーディングしてたけど、その時点では未発表なので新曲扱いで計6曲。それと洋楽カヴァーで「Hey There Lonely Girl」があって。だからライヴアルバムの流れとしては、割と理にかなっていると思うんだ。なので、そうした内容でやるには、2枚組じゃないとダメだったんだよ。
当日の演奏曲順で言うと、アナログ盤のB面は「WINDY LADY」から始まるけど、あの演奏の前に「わーっ」と声が入ってるでしょ。あれはアナログ盤には入ってなかった1曲目の「LOVE SPACE」が終わった後の歓声なの。2002年のリマスターCDにはボーナストラックとして入ってるけどね。
3曲目が「素敵な午後は」で、そのあとが確か「雨の女王」。ここら辺からちょっと違ってくるんだけど。アルバムの曲順が、あの並びになったのは、新曲やカヴァーをA面にしたかったからで、実際はB面の中頃にA面のライヴ曲が入ってくる感じだね。実際のライヴで、アタマから新曲をやってもしょうがないからね。だから、実際の現場では、ライヴが始まってしばらくしてから「今日はライヴレコーディングをしています。アルバムのために新曲をやります」って言ってるの。C面、D面は、ほぼあの流れかな。「SOLID SLIDER」の前あたりに、これもアナログには入ってなくて、CDのボーナストラックになってるラスカルズの「YOU BETTER RUN」のカヴァーをやってるね。
ライヴのリハは3〜4日間だったかな。リハでやったのはほとんど新曲のみ。だって既に一年ほどやってるメンバーだったから、既成の曲はもう慣れてるし。そもそもライヴアルバムで行けるなと思ったのは、彼らはスタジオミュージシャンの集合体なので、いつもは譜面なしじゃ演奏してくれないんだけど、あの頃には「CIRCUS TOWN」や「SOLID SLIDER」はもう皆ほとんど譜面なんか見てない。パターンミュージックだからね。だから、これくらいまで行けば、ライヴを録っても大丈夫だなと思ってね。
メンバーとの関係はすごく良かったよ。でもこの後から少しづつ、たとえば坂本くんがYMOにシフトしたりとか、ちょっとづつ皆が別の方向を向き出して行くんだよね。一人一人は技術的に非常に高いけど、全体の協調性とか必然性っていうのは、元々そんなになかった人たちだからね。あくまで僕個人の人選だったから。
メンバーからのピットイン・レコーディングの感想? あの人たちはね、僕の作品とか歌に関して、当時は感想らしい感想を言ったことがないんだ。ポンタだけかな。ポンタは「これは気持ちいい」とか時々言うことがあったけど、他の人たちは、あとになったら色々言ってくれたけど、その頃はほとんどなにも感想を聞いたことがない。まあ、それは東京特有のツッパリっていうか、特にあの時代のミュージシャンの空気っていうかね。あの頃は本当にミュージシャンに気を使っていた。特にスタジオ・ミュージシャンにはね。それがなくなるのは80年代に入って、自前のリズムセクションを得てからだね。
     
<「ピンク・シャドウ」はあのメンバーじゃなければ、ああいうアレンジにはしなかった>
日本語カヴァーで「ピンクシャドウ」を選んだのは、好きだったから。あと、正直なところ、あの曲のオリジナルアレンジがあまりピンとこなかったんだ。あの曲だったら、もっといい展開が作れるんじゃないかと思って。オリジナルは、良く言えばレイドバックしてるんだけど。でも、あの曲はもっとスピード感のある、ダイレクトなアレンジにした方が映えると思って、ああいうふうにしたんだ。
ブレッド&バターは大好きだよ。良い曲が多いし。作品的にブレバタは素晴らしかった。なんであの曲をああいうアレンジにしたかは、もう一つあって、要するに上手いスタジオミュージシャンって、簡単に演奏できるようなアレンジだと真面目にやってくれないの。あの人たちをキリキリ舞いさせるようなアレンジじゃないと、真面目にさせられない。だから「シルエット」とかでも、分数コードとか、変拍子が延々続く、ああいうんじゃないとダメなんだ。彼らの抜群の読譜力と演奏力に対して、音楽としての難易度、演奏の難易度を高めて、これは寝てちゃ出来ないと思わせるくらいでないと。上手いミュージシャンは得てしてみんなそうなんだけどね。
あとはあの時代、スタジオ・ミュージシャンには8ビートは嫌われていてね。16ビートじゃないとバカにするというか。だから、ひたすら16ビートの曲。よく言うけど、座付き作家みたいなもんなんだよ。メンバーを想定して中身を考えていく。完全にそう。だから「ピンク・シャドウ」はあのメンバーじゃなければ、ああいうアレンジにはしなかった。
その後、この曲は青山純伊藤広規たちともライヴでやっているんだけれど、それもまた素晴らしい出来なんだ。よりバンド・サウンドになっていてね。まだCDにはしていないけれど「JOY2」とかチャンスがあれば出したいなと思っている。今のメンバーでも練習してるので、近いうちにライヴで久しぶりに聴けるでしょう。
ともかく、この時代には、どうすればこのメンバーで最大の効果が挙げられるか、ということを考えてやっているの。でも結局、いつもは違う仕事をしている人たちが、寄り合いで集まってくるから、それがスタジオ・ミュージシャンを使うことの限界。スタジオ・ミュージシャンは、どこまで行っても、やっぱり他人の持ち物だから。彼らに求められるのは、その人だけの音じゃない。だけど、こっちは自分だけの音を出したい。だから相手が気づかないうちに、そういうものを構築するにはどうやれば良いのか、考えなくてはならなかった。まあ、それはある程度までは出来たけど、でも、それが本当に自分がやりたいスタイルでは無かった。本当にやりたかったのは、もうちょっとシンプルな発想。それは、あまりうまく言えないけど。
だから、僕はこのリズムセクションよりも、GO AHEAD!(78年12月発売)のリズムセクションの方が好きなんだ。世評はどうであれ、僕はあっちの方が好みなんだよ。「PAPER DOLL」とか「BOMBER」とか、ああいうトラックの完成度の方が、僕は好きなの。でも、まあしょうがないんだよね。同じ技量でも、そこから先は音楽的嗜好になっていくから。それは演奏家として誰が良いとか悪いとかいう問題とは、全く別なんだ。だけど、長い目で見るとね、ちょっとだけ不器用な方が好きなんだよ。そういう方がロックンロールに思えるんだ。
でも、POPPIN’ TIMEみたいに短時間で仕上げることを要求されるセッションは、やっぱりああいったメンバーじゃないと出来ない。それが音楽として本当に好みかっていうと、すごく難しいところだけどね。それは本当に偶然というか、巡り合わせに近いものがある。自分の意見じゃどうにもならない。
例えば、まりやの「元気を出して」なんて難しい事は何もやってない。だけど、何十年聴き続けても、あのトラックはいいトラックなんだよね。それが何でかはわからない。それは自分の作品に限らないことでね。たったこれだけのことしかやっていないのに、どうしていいんだよっていうのがある。その違いを生み出すものが何かはわからないんだよ。
でもまぁPOPPIN’ TIMEの不満を言えば、「エスケイプ」みたいな長い曲だったら、もうちょっとメンバーに、この曲に対する自分の役割みたいなことを表明してもらえたら、もっと良いトラックになったのに、っていうのはあるかな。それはやっぱり思想的な問題なんだよ。今だったら途中でエディットしちゃうかもしれないね。「エスケイプ」は、雑誌を読んでいたら「ナウなシティーボーイとシティーガールのための総合誌」とかそういうキャッチフレーズがあったんだ。大体僕らの音楽は、シティミュージックと言われてたでしょ。それでずいぶんライターと喧嘩したの。「僕はシティミュージックとかニューミュージックじゃないんだ」「なんで?」とか。そういうものが鬱屈しているっていうか。まぁ要するに、あの時代は世の中を恨んでたんだよ。だから10年後の「The War Song」と比べれば違いがわかるでしょ。冷静でしょ。だからその10年は大きいんだよ。本当に「エスケイプ」は頭脳警察みたいなことをやってたんだよ、歌詞的にはさ。明るい感じじゃ全然ないしね。
六本木PIT INNはすごく演りやすかった。お客も良かったし。あの時は確か外部PAが入ってたんだよ。モニターもあったと思う。メンバーはヘッドフォンでやってた記憶があるな。ビルの上のスタジオから返してね。ライヴは2日間で、採用したのは全部2日目の演奏。1日目と2日目の演奏が極端に違うんだよ。そういう人たちなんだね。
もしPIT INNがまだあったら、またやってみたいと思うね。彼らがいいっていうんだったら、このメンバーでもやってみたいね。
   
<この年の6月にキングトーンズに「LET’S DANCE BABY」を書いた>
2枚組POPPIN’ TIMEのレコードとしての反響は分からないなあ。もうそういうことに関心が無かったから。発売が5月で、この時には全国をまわって、キャンペーンはやってるんだよね。
SPACYの時はキャンペーンやってないからね。CIRCUS TOWNの時はやったけど、SPACYの時には、やれなかったという感じかな。
キャンペーンの反響は、このアルバム内容でしょ、全然だった。ただ、ひとつのターニング・ポイントとなったのは、石原孝くん(のちのムーンレコード創設メンバー)だった。石原くんは元々RCAの洋楽に居たんだけど、POPPIN’ TIMEが出る頃には大阪の宣伝部に移動になってたんだよ。それまでのRCAの大阪の宣伝担当は演歌べったりで、ニューミュージックなんかハナからやる気がない。だから僕に関しても全く何もしてくれなかったんだけど、そこに石原くんが行ったので、小杉さんはこれがチャンスと思ったんだろうね。今でも覚えてるけど、大阪のビジネスホテルで、小杉さんと僕と二人で石原くんを説得して、俺たちをやってくれ、って。そこから石原くんが動き始めて。それがGO AHEAD!(78年12月発売)の「BOMBER」のブレイクに繋がるんだよ。ここが一つの突破口になったんだ。桑名(正博)くんのブレイクも、それなしには語れない。そんな動きがあったのがPOPPIN’ TIMEのプロモーションの時なの。種まきだね。
石原くんがレコードを持って、色々放送局とか行くんだけど、けんもほろろというかね。そこから石原くんが燃えるわけ。彼は結構ファイトマンだから。
POPPIN’ TIMEが出たあと、ある音楽出版社から、ウチと契約しないか、って誘いが来たんだよ。当時契約していた会社が、あんまりやってくれないというのもあって、じゃあ移ろうかと、小杉さんに相談した。
そしたら小杉さんに説教されて、残留ということになった。小杉さんはもともと僕がそんなに売れるとは思ってなかったんだけど、でも「音楽的に自分の好きなことを形にしていこうと思うんだったら、今のままでやった方がいい」って。僕は25歳だったけど、人から説教されたなんてことは殆どなくて、それで色々と考えた。あの時に色々言われたことが、僕と小杉さんの人間関係を強固なものにして、それが現在まで続いている。それが78年7月のことかな。渋谷の公演通りの喫茶店だった。
あとキングトーンズに「LET’S DANCE BABY」を書いたのが6月かな。キングトーンズはJ&Kという、小澤音楽事務所の系列会社に所属していたのね。当時そのJ&Kの人が僕にCMの仕事をくれていたんだけど、どこかのレコード会社に行った時かな、その人の知り合いに偶然会って、「いいところにいた。探してたんだよ」と。「実はキングトーンズのアルバムを作っていて、全曲吉岡治さんが詩を書いてるんだけど、3曲作って欲しい。他の曲は梅垣達志さんで、アレンジも全部梅垣さんなので、曲だけでいいので書いて」って、そのまま詩を渡されて。期日が迫ってるからと、それで大急ぎで3曲書いた。
「LET’S DANCE BABY」「TOUCH ME LIGHTLY」、それにもうひとつ「MY BLUE TRAIN」っていう。で、その頃にGO AHEAD!のレコーディングが始まるんだよ。でもこの頃になると、何故かスケジュール帳に予定が書いてないんだよね。
そうか、事務所だね。事務所を作ったんだ(ワイルドハニー?)。契約していた音楽出版社は、プロダクション業務を行なって無かったので、事務所を作った。数ヶ月しか続かなかったけど。その事務所でやったのが、キングトーンズとクールスなんだね。クールスの仕事は雇った新しいスタッフの一人が持ってきた。
で、9〜10月くらいにGO AHEAD!(78年12月発売)のレコーディングが始まるんだけど、レコーディングメンバーがポンタたちだとギャラが高いから、もっと安いプレーヤーを、という要求が出てきて、それでユカリ(上原裕)と田中(章弘)くんにした。それで下北沢ロフト行ったら、山岸潤史のライヴをやっていて、難波(弘之)くんがキーボード弾いてて、彼はちょっと知り合いだったんだけど、彼のキーボードが良くて。それで「レコーディング手伝ってくれないか」って声を掛けた。僕の人生の中で、自分から声を掛けたっていうのはすごく少ないんだけどね。あと、ギターの椎名和夫くんは昔からの知り合いでね。
それで、ユカリ、田中、難波、椎名の4人でレコーディングしようと。そうすれば、予算がかなり軽減される。要するにメンバーを替えたのは、制作費の問題だったという。別に演奏家としての技量が劣っているわけでも何でもないんだけど、「器用度」が落ちると、スタジオミュージシャンとしてはギャラのランクが低くなるという、不思議な世界。
それが9月頃で、その時点ではアルバムのイメージは全く浮かんで無かった。GO AHEAD!のライナーノーツにも書いてあるけど、全くモチベーションが上がらないの。キングトーンズの3曲も、苦しんで書いた。なかなか出来なくて。発想がわかないんだ。
GO AHEAD!の中で書き下ろしたのは「BOMBER」「潮騒」「ついておいで」「MONDAY BLUE」の4曲かな。「PAPAER DOLL」と「2000トンの雨」はありものでしょ。「LOVE CELEBRATION」は細野さんがプロデュースしていたリンダ・キャリエールのために書いた曲だったし、「LET’S DANCE BABY」はキングトーンズ。確かレコーディング初日に録ったのが「BOMBER」と「ついておいで」で、場所は音響ハウス。リズム録りは音響ハウスで、あとはRCAの第一編集室でダビング。1日だけポンタたちのリズムセクションにして、ポンタ、岡沢さん、松木さん、佐藤くん、SPACYの類似メンバーだね。このセクションで「MONDAY BLUE」と「TOUCH ME LIGHTLY」を録ったんだけど、「TOUCH ME LIGHTLY」は次作のMOONGLOWに回した。
    
<自分のソロでのビジョンが全く出てこなかった>
「このアルバムが最後になる」ってGO AHEAD!のライナーノーツに書いたことは嘘ではなくて「このアルバムも多分売れないだろうな、そしたら、もうこれで終わりだろうな」って思ってたんだよ。そしたらその先は作曲家にでもなるんだろうなと思って。小杉さんはやる気満々だったんだけど、僕はそんな感じで。曲も書けないしね。だからGO AHEAD!はSPACYとは全く制作ポリシーが違うというかね。簡単にしなきゃいけないと思ったのね、曲を。聴いてる方が楽に聴けるというか。今までは曲調が難しすぎると思ったんだよね。
この頃、ツイストとかサザンが出て来ていて。だから、ちょっと分かりやすくしようかなと思って書いたのが「潮騒」とかになって。それを称して作家志向というわけ。(ツイストやサザンが出て来て)このままだと自分の出る番は無くなるだろうな、っていうのは、はっきり分かった。だって、彼らはある意味、歌謡曲の代わりに出て来てるわけだからね。それは時代の趨勢というもので、仕方がないとも思っていたの。
小杉さんがGO AHEAD!でイケると感じたのは、どうだろうねえ、あの人はすごく不思議な人だからね。あの人の計画性って、他の人とは違う。いわゆるロックのA&Rとは毛色が違う。だから、今でもよく分からないところがあるんだけどね。
GO AHEAD!を作り始める頃に、桑名くんの「サード・レディー」がヒットし始めてたんだよね。何しろ小杉さんは、松本隆筒美京平の歌謡曲コンビで、桑名正博をヴォーカリストにしちゃったわけだから。次は、その波が僕に来るのかな、と思ったんだよ。ヒット路線でさ。で、レコーディングが始まる時に言ったんだよ。「僕もあれで行くの?」って。そしたら「君にそんなことできるわけないじゃん。君には君に合ったやり方で行く」って言うの。だから彼の中では、僕は桑名くんみたいに、オリコン1位のメガヒットを出してっていう、そういう存在じゃなかったんだよね。「食べていく分には全く大丈夫だと思ってる」とは言われてたw
で、レコーディングは進行して、ミックスダウンになって、小杉さんが会社から無理矢理に、他の仕事で韓国に行けと言われて、立ち会えなくなったんだよ。ダビングの時は居たけど。ふざけてる!って小杉さんは怒ってたけど、社命だからどうしようもない。だから当時のRCAは、僕のプロジェクトをバックアップするなんていう体制じゃなかったんだ。人がレコードを作ってる最中に、担当A&Rを出張させちゃうんだから。その反面、少しはニューミュージックに力を入れるようになっていて、GO AHEAD!のレコーディングが始まる頃には、竹内まりやもデビューしていたし、越美晴もいた。当時、桑名正博、越美晴竹内まりやで3M作戦とか言ってプロモーションしてた。その流れには、僕は全く取り残されていた。
でも、明らかにここから変わってるんだ。ここがターニングポイントなんだよね。ここまでと、ここからなんだ。シングルでは「RIDE ON TIME」以前と以降。アルバムだとGO AHEAD!の前と後じゃ全然違う。
この頃になると、僕が音楽業界の仕事にある程度、習熟して来たっていうのも事実だけど、とにかく時代が変わりつつあった。ちょうどあの頃は、たとえばユーミンは「紅雀」から「流線型’80」への時代で。ユーミンもいろいろ試行錯誤して、あそこで変わっていくんだよね。細野さんもYMOをスタートさせるし、みんなターニングポイントを迎えているんだよね。逆に言えば、あの変化に無自覚だった者は、時代から取り残されて行かざるを得なかった。そういう何かがあったんだよね。
だから、僕としては、作家で生きていこう、作曲家しかないのかなって覚悟したというか。でも出来れば、レコード・プロデューサーをやりたかったんだよ。でもプロデューサーじゃ日本では生活できないから、作曲家かな、と。それと、もうひとつ重要な幸運があって、自分で意識しないうちに、編曲のノウハウがだいぶ身に付いてきた。SPACY以後、スコアの勉強とか色々やったでしょ。その上にスタジオ・ミュージシャンとの現場で色々もまれて、自分が書いた譜面と、実際の演奏の差異をどう埋めるかっていうね。
あと、坂本(龍一)くんのアカデミックな知識にも、とても助けられた。結果、シュガー・ベイブ時代のように、完全なワンマンで、僕があーせいこーせいと言ってたのから、若干変わってきて、相手の特質とキャッチボールしながら作っていく。ようは編曲家的なセンスが出て来たんだよね。それは、場数以外の何ものでもなくてね。振り返ってみても、あの頃のアレンジって、けっこういい仕事してるんだよ。クールスとか、うちの奥さんの「UNIVERSITY STREET」の「涙のワンサイデッド・ラヴ」や「ドリーム・オブ・ユー」のリアレンジとかもね。けっこう職業編曲家っぽくやれてるんだよね。
それに加えて、ユカリみたいに一緒にバンドでやってた人間も戻ってきたから、それをうまく利用してやってるっていうかね。ユカリは「LOVE SPACE」みたいな16ビートは不得手だから、GO AHEAD!ではそういう曲は完全に抜いてやってるでしょ。そういう判断がだいぶできるようになってたんだよね。
それでも、自分のソロはまた別物でね。もう、ソロで何かをするっていうビジョンが全く出てこない。それはアルバムのキャンペーンの時のイヤな感じとか、そういうことが、積もり重なって来たことも大きいんだ。売れないロックミュージシャンのキャンペーンって、哀しいんだよ。誰も自分のことを知らないっていうのはね。こっちもプライドが高いから、もうごめんだ、ってなる。だから、そういうのはもうイヤだなっていうのも引きずっていたんだ。
レコーディングが終わって、スタジオでマスタリングが終わって試聴した、B面最後の「2000トンの雨」がフェイドアウトしていく時に「ああ、これで終わりかな」と思ったの。それから何週間か後には、クールスのレコーディングでニューヨークに行くし、それでGO AHEAD!のことは忘れちゃった感じなんだよ。
【第23回 了】