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ヒストリーオブ山下達郎 第19回 サーカス・タウン 1976年10月発売へ

<悔いが残るとしたら、歌が追いつけなかった>
チャーリー・カレロは確かに変わった人だったけど、今にして思えば、彼も日本人と仕事をするのは初めてだったし、向こうは向こうなりに構えていたんだと思う。だけど、仕事してる時は集中力の鬼だったよ。
最初に言われたのは「なぜ自分を選んだんだ?」ということと「なんでNYでやりたいんだ?」ということ。これも一生忘れないけど「お前の音楽はNYというより、シカゴの感じがする」って。それはすごく意外な台詞だったけど。
で、「あなたは60年代のロイヤル・ティーンズの頃からやっている人だから」って答えたら、「なんでロイヤル・ティーンズを知っているんだ?」「いや、僕はフォー・シーズンズが好きだから。だからロイヤル・ティーンズからフォー・シーズンズフランキー・ヴァリからローラ・ニーロまで、アメリカ音楽の歴史で、現在まで第一線でやっている人はなかなか居ない」って言ったの。そういう人じゃないとダメだ、と思ったからと。そしたら「ふーん」って感じで、納得したような、しないような。
でも、忘れられないことはいくつかあって。「お前はどういうミュージシャンが好きなんだ?」って、僕はここを先途(せんど)と、ハル・ブレインだ、ジョー・オズボーンだ、と言いまくったら、彼はただ一言、「彼らは確かに67年には有名だったが、今はもう違う」と。あの一言が、僕の一生を決めたね。
そんな答えは予想だにしなかったからね。今考えたら当たり前だけど、ヒットソングの世界は「今」だからね。好むと好まざるに拘わらず。チャーリー・カレロの言葉だから、説得力というか重みがあった。
何しろスコアの凄さ。無駄が無いんだよ。なんでこういう音の積み方をするんだろうって。あの時に、もっと突っ込んで聞ければよかったんだけど、とても聞けなかった。チャーリー・カレロのスコアってオーソドックスなんだけど、アイデアに溢れてた。そういうのは見たことが無かった。グレン・ミラーとかトミー・ドーシーとかのフルバンドのやり方とも違うし、その後いろんな仕事をしてきたけど、あのチャーリー・カレロにやってもらったスコアが一番刺激的だった。ウィットが効いてるというか。「サーカス・タウン」のイントロとか。
アレンジに対して僕からの注文なんてないよ。あるわけないじゃない。予想以上だもの。ただただ驚愕で。一つ悔いが残るとしたら、歌が全く追いついて行けなかった。緊張しちゃって声が思うように出なくてね。ヴォーカル録りはエンジニアのジョー・ヨルゲンセンとの二人きりで。だからOKは自分で出した。でも、もし今だったらって言ったら変だけど、もう少し精神的に余裕があったら、もうちょっと良い歌が歌えたんだけど。一曲、「言えなかった言葉を」をボツったのはキーの設定を誤って、高くしすぎて声が出なかったの。
演奏のOKに関しては、ほとんど1テイク、2テイク。1回練習して、次にもう本番。チャーリー・カレロは全部書き譜で、練習時の細かい注文など無し。OKテイクでも別に褒めない。ソロ楽器のダビングではずいぶんヨイショしてたけど。
でもね、あの時のNYのミュージシャンは愛想が悪いっていうか、そういうのはあったけど、音楽にはとても真面目だったよ。スタジオの中でキーボードとギターとチャーリー・カレロを囲んで、何か話し合ってるんだよ。「永遠に」なんかで。何やってるんだろうって見ていたら、10分ほどして呼ばれてさ。「なんでここのコードはこういくんだ、ってあいつらが言ってる。ここはこう行った方がプログレッション的にはいいだろうって」「それは確かにそうだけど、メロディーがこうだから、こうした方が良いと思った」なんて感じで説明したら、納得した。
だから真面目に取り組んでいるんだな、と思ったよ。決して手抜きじゃない。まあ、当たり前なんだけど。そういうスタイルなんだろうね。
僕とチャーリーがすごく揉めた時もあったのね。ラテン・パーカッションを入れるかどうかで。僕が「サーカス・タウン」にコンガを入れたいと言ったら、「いらない」って。どうしても入れたいんだ、って言ったら、「お前にその理由を教えてやる」と。
どこまで本当か分からないけど、その時僕が言われたのは「俺が一番好きなカルロス・マーティンというラテン・パーカッショニストが居たけど、彼は最近死んだんだ。俺の一番好きなプレイヤーが居なくなったから、ラテンは要らない」って。不思議な人だったなあ。
いまだにあのレコーディングくらい記憶に残っているものはないよ。リズム・セクションの緊張感というか、あれだけの演奏のテンションを見たことも、あれ以来ほとんど無いし。それに匹敵するようなテンションはRIDE ON TIME以降の青山純伊藤広規が入ってきたセッションで、何回か有るくらいでね。
やっぱり、本当の意味での世界の16ビートの頂点だった時代。おそらくチャーリー・パーカージョン・コルトレーンモダンジャズ時代のスタジオって、本当に凄かった、って思うよ。スタジオはライヴを越えられない、って言うけど、越えられる人もいるんだよね。だからあのレコーディングは返す返すも、もう少し歌がちゃんとできれば、なんの問題も無かったんだけど。
  
<ロサンゼルスでは途中でやめて帰ろうかと思った>
NYではリズム録りが2日、ブラスが1日、いや2日あったかもしれない。ストリングスが2日。すごいよね、ストリングスを1日3曲録っちゃうんだから。ヴォーカルは2日もらったかな。あとソロ関係。ミックスダウンに2日。ミックスも2日で5曲やっちゃうんだよね。
でもね、何が一番手応えあったかというと、サウンドは思い通りだったの。自分の着想は間違ってなかったという、それははっきり感じた。スタッフを選んだのは僕だからね。それは目論見通り、NYはね。ロスはドタバタだったけど。
NYで5曲録って、2週間弱いたのかな。8月16日に日本を出て、9月の頭に帰ってきているから、アメリカには3週間いたんだよね。NYに2週間だから、ロスが1週間。
ロスはジミー・サイターがセッションを仕切ってて、弟のドラムのジョン・サイターがホンダ・シビックに僕らを乗せて、スタジオに連れて行ってくれた。
で、最初に来たギターがビル・ハウスで、ベースは名前忘れちゃったけど、フィフス・ディメンションのステージ・バンドの人でね。その後、メリサ・マンチェスターのバックで日本に来た時に観たことあるけど、これがどうしようもなくてさ。ビル・ハウスはいつもラリってて、音色はひどいし、どこが良いのか全然分からなかった。
キーボードのジョン・ホブスは上手い人だったし、ドラムもピーター・ゴールウェイとかでやってる人だから、そっちは良いんだけど、とにかくベースがひどくて、OKテイクが全然録れないんだよ。1日で2曲録ったけど、良いの全然録れなくて。一応スケジュールは3日あったんだけど、このままじゃダメだ。しょうがない、どうしようかと煮詰まっちゃった。
ホテルに帰る道すがら、車の中で「明日やってダメだったら帰ろうか」なんて小杉さんと話してたら、ジョン・サイターが「コーラスはジェリー・イエスターとケニー・アルトマンに頼んである」って言うんだよ。「ちょっと待ってよ、ケニー・アルトマンがいるんだったら彼にベース弾いてもらってよ!」「あいつでいいの?」「今日のベースより全然良いでしょ」って。ギターはどうする?って言ったら、ジョン・ホブスが、自分のバンド仲間を連れてくるって言ってくれて、ビリー・ウォーカーっていうブルース・ジョンストン(ビーチ・ボーイズ)と瓜二つの顔の人が来て。この人は上手くてね。
それでケニー・アルトマンとビリー・ウォーカーにメンバーを替えて、2日間で4曲録ったの。それでセーフ。で、ジェリー・イエスターとケニー、それにジョン・サイターと僕の4人でコーラスをやった。実質3日。
NYのスタジオでは緊張しちゃってた。でも、今でもスタジオ行く行く時だって、そんなにルンルン気分じゃ無いもの。スタジオくのが楽しくて、みたいなのが有るけど、そういう人の気が知れないね。今だって思い通りの音が出なかったらどうしようかとか、色々考えるもの。ソロ楽器のプレイヤーが来てダビングする時は、それなりに緊張するよ。特にスケジュールが詰まっている時にはね。本当の意味でスタジオで冷静にやれるようになったのは、80年代の固定メンバーになってからだね。
だから、海外レコーディングはカルチャー・ショックって言うのが正直なところだね。まず日本で朝10時からスタートっていうのがあり得ないでしょ。朝の10時に全員揃っているというのが不思議で。あまりに日本のミュージシャンと体質が違う。朝の10時なんて、当時の日本ではCM以外あり得なかった。とにかく、最初に一流のものを見ておかないとダメだね。あのレコーディングがソロ活動のとっかかりでしょ。あれが今までと同じようなことでやっていたら、その後の音楽の作り方が全然違ってたね。
ロスが先でなくて本当に良かった。やっぱりロスとNYの差ってあそこなんだな、って。シビアさの違い。でもロスはロスでね、結果オーライだったけどね。もう一回やってみたいもの、あのメンバーで。特にジョン・ホブスはすごく上手い人で、人間的にも素晴らしかった。
  
<あんな上手いミュージシャンとやったら、もう何も怖くない>
NYからロスに行くのは、くたびれたね。当時のNYは治安が悪かったから、なんたってホテルをチェックアウトする時に、セーフティ・デポジット(貴重品預かり)したのが無いって言うんだよ。パスポートから何から全部入っているって言うのに。それも小杉さんが大暴れしたら、隣のボックスに入ってたって。わざと言ったんだね。すごい世界、あの当時は。だから、しっかりカバンを握りしめて歩いてた。
ロスでは基本的にクルマ移動だからね。当時の治安はロスの方が少しマシだったみたい。泊まるのもモーテルだったし。
レコーディングの方はリラックスしてたかと言えば、そうでもない。だけどロスの方が人間的には他人行儀じゃないから。それこそジョン・サイターの奥さんが食事を作ってくれたり、そう言うのがあったから、フレンドリーといえばフレンドリーだったけどね。小杉さんの友達だったし。でも、レコーディングはそれとは別だよ。
ロスでのプロデュース・クレジットは共同で、僕とジョン・サイター。でも、編曲は僕だから。それはシュガー・ベイブの延長みたいなものだったからね。NYでは曲作りとシンガーだったけど。
だから、ロス用に持って行った「夏の陽」なんかロスでやるからいいんだけど、あれ以降あんな曲は一曲も書いたことないもの。でもレコーディングの経験があるといっても、やっぱりシュガー・ベイブの時代でしょ。録音にそれほど習熟している訳でもないから。結局、仲間内っていうか、内輪の友達とレコーディングしてたんで、赤の他人とやったわけじゃないからね。だから、本当の意味で習熟してきたのはSPACY以降、スタジオ・ミュージシャンを使ってやるようになったり、他人の曲を書いたり、そういうことをしていってからだよね。
だからまあ、あんな上手いミュージシャンとやったら、もう何も怖くない。誰が来てもビビらない。あと考慮すべきは人間関係であってね。
演奏の上手い下手って、人間性には関係ないんだよね。それを得てして逃避的に考えるというか、スタジオ仕事でも、ともすれば気の合う人間同士で和気藹々とナアナアで行きたがるじゃない。でも、それじゃダメなんだよね。それは本当に学んだよね。
例えば佐藤(博)くんなんて、コミュニケーションが取れるようになったのは、ずいぶん後になってからだからね。佐藤くんもすごく個性的な人だから、レコーディングはずいぶん頼んだけど、実は人間的コミュニケーションなんてそれほど無かった。それでも、ひとたび弾けばすごいんだから。それでいいんだ、って思えるのは、あのNYの経験があったからね。大仏(高水健司/ベース)とか細野(晴臣)さんとか、みんなクセあったし、松木(恒秀)さんなんて気難しくてホントに大変だった。
77年だから、24歳くらいから、そういうクセ者のスタジオ・ミュージシャンとやってきて、その時には大して話してなかった人が、それから25年くらい経って「なんで最近俺を使わないんだ」とか言われるっていうのは、だったらあの時もうちょっと愛想よくしてよ、みたいなw 
だからすごく意外なのが、佐藤くんは当時そんなこと、おくびにも出さなかったけどRIDE ON TIMEやFOR YOUの時に「それなりのインパクトを感じてた」って、後で言われて、よく考えたら、そうだよね。
だから歌以外の部分では、NYレコーディングはすごく自信になったよ。本当にCIRCUS TOWNはあと3、4歳、歳をとって経験を積んでやれば、もっとちゃんとできてたんだろうけど、まあ、ないものねだりだよね。
とにかくスタジオミュージック全盛の時だから、NYではちょうど24トラックのレコーダーが導入されたばかりで、AMPEX456っていう高性能録音テープが出てきた頃、どちらもまだ日本には導入されてなかった。それがCIRCUS TOWNの音なんだよね。トータル・リミッターなんてまだ使われてなくて、それであの音像は凄いと思うよ。2002年にRCA/AIRイヤーズのリマスターしたでしょ。あの時に久しぶりにマルチを出してきて、CUEシートを見ながら音を聴いたけど、素晴らしかったね。
マスタリングはロスのRCAでやったの。その違いを感じたのは、実際のお皿になってからだね。せっかく向こうでレコーディングするんだから、マスターもカッティングも向こうでやらなきゃって言ったのは僕なんだよね。A面とB面を別にやるわけには行かないから、ロスのRCAのカッティングルームに行って、ラッカー盤は72時間しか持たないんで、手荷物で持って帰って、そのままビクターに持って行った。ビクターはそれだけの手間ひまかけた海外レコーディングだからって、初版は高音質盤用の良いビニールを使ってくれたの。これは良い音がした。
あの時、ロスでカッティング作業を生まれて初めて見たんだ。SONGSの時には行ってないから。
NYレコーディングで、自分の音に関するセンスっていうか、こういうものをやりたい、というのは正しいと思った。あとはそれをどう実現するかだな、と思っていたら、チャーリー・カレロがスコアをくれたんだ。ミックス・ダウンが終わった時にスタジオで、これをやるから勉強しろって。
で、スタジオにいる人に「誰にでもやるのか?」って聞いたら、そんなことないって。今でも持ってるけど、鉛筆書きなんだよね。凄く綺麗に書いてあるの。リズム・セクションの譜面と、ストリングスの譜面が別にあってね。もう、その後の僕は、完全にそのクローンというか。他人のスコアとか、見られそうで見られないからね。グレン・ミラーとかドン・セベスキーのスコアとかは出版されてるけど。
  
<取材ではケンカをしたり途中で帰ったりしたよ>
CIRCUS TOWNのジャケットについては、あの頃はアート・ディレクションとかの発想なんて何も無かったから、あれは(吉田)美奈子の推薦でペーター佐藤さんに頼んで、カメラマンはペーターの関係で小暮徹さんが出てきた。そこから小暮さんとペーターとのラインでずっと行くことになるの。結局、何だかんだ言ってRIDE ON TIMEまでそのコンビなんだね。ペーターがNYに行ってる時代には、奥村(靫正)さんが入ってきたりはあるけど。でもね、あれは非常に手の掛かった優れたアートワークだと思うよ。一度撮った写真をブラウン管に写して、それを色調整して、もう一回撮ってという、非常に工夫があるの。
ペーターはユーミンの「コバルト・アワー」とか、美奈子の一連のアルバムとかやってたから。小暮さんも「シーズンズ・グリーティングス」まで頼んでいるからね。僕は小暮さん大好きなんだけど、フォト・セッションがえらく長いんだよ。すごく時間が掛かるんだ。でも、人の縁には恵まれているよね。
レコーディングから帰国して、すぐ業界紙のインタビュー受けたけど、ケンカしたw
人を30分待たせて、で、「どうも」ってジャケットを机の上に放り出して「聴いたんですけど、かったるいよね、これはっきり言って。何でこんなの海外レコーディングしなけりゃいけないの?」「てめえのツラの方がよっぽどかったるいよ」って、帰ってきたw
レコード会社の宣伝担当は焦っちゃって。そいつの名前も忘れちゃったけどね。ただ、その後会ったことあるけど、本人は全然覚えてないんだ。なお悪いことに、それが一番最初の取材だったんだよ。あの頃はそんなのばっかりだったな。途中で帰ったりとか。今は丸くなったよね。シュガー・ベイブの時からそういうの多かったからね。でも、ちゃんとした人にはちゃんと応対したよ。
SONGSが出た時に野音のライブの後で、何かの取材があって、そのインタビュアーが洋楽ワケシリ顔で「君たちのギターってミック・ロンソンみたいだね」って。あんた、ちゃんと勉強してきなよ、って。ハンチクな評論家もどきが多かったからね。もちろん全部がそうなわけじゃない。「プレイボーイ」の長沢潔さんとか、きちっとした人はきちっとしてたよ。音楽誌でも「新譜ジャーナル」とか「ライトミュージック」とか、そういうのはごく普通にやれてた。
この時のRVCは、結構大きな予算をかけて宣伝してくれた。とは言え、RCAって企業力が弱い上に、特にニューミュージック関係のラジオ番組なんて、ほとんどなくて。栃木放送のローカル番組が1本とか、築地のラジオ制作会社のローカル番組が1本とか、そんな有様だった。後はFM東京の「ニューミュージック共和国」と小室(等)さんの「音楽夜話」ぐらいしかなかった。それ以外の取材を取って来いって、歌謡曲セクションの宣伝マンが駆り出されて、いろいろ頑張ったんだよね。
でも、取ってきてくれても、僕が嫌だって断ったり、現場でもめたりしちゃうから、怒ってさ。頑張って取って来たのに。「もう絶対あいつはやらない」って、そういう時代だったんだ。まだあの頃は、日本のフォーク・ロック関係の宣伝なんて、何にも形がなかったからね。歌謡班の持ってくる取材やラジオ番組には、とんでもないのがいくつもあって、僕がそれに反発するから、あいつはやりたくないと言うことになってね。あとRCAには一応、北海道、仙台、東京、横浜、名古屋、広島、博多に営業所があったから、地方プロモーションもちゃんとやってたんだ。むしろ地方の方がスムーズで、名古屋で東海ラジオミッドナイト東海」に出て、その時には(笑福亭)鶴瓶さんと初めて会って。彼は優しい人だったな。地方のラジオ・ディレクターにはずいぶん可愛がってもらってたね。
そういう人がいるかと思うと、FM東京の番組にゲストに出た時、何の番組か忘れちゃったけど、その人は司会兼ディレクターみたいなことをやっていてね。カフが落ちて、曲がかかってるあいだ中「君さぁ、こういうの合わないからやめなさいよ」とか、「君は歌を歌うより、作曲家とかの方が向いてるよ」とか。僕は「プロモーションに来たんだから、そういうこと言わないでください」って。オンエア中は普通にやってるんだけど、曲がかかると「また、君さー」って始まる。もう頭にきて「いい加減にしろよ」って言ったら、「そんなことをお前に言われる筋合いない」って。
要するに評論家というか、プロデューサー気取りなんだよ。だから、お前が黙るか、俺が帰るか、どっちかにしろって。そうすると「あいつは生意気だ」ってことになるの。そんなの繰り返し。まぁやっぱりシュガー・ベイブから1年経ってないでしょ。オールナイトニッポンも、前に言ったみたいに亀裂がありながら、やってたからね。
だから、今のバンドの子みたいに、コンビニでバイトしながらインディーズでデビューして、メジャーになって、では業界のことが全くわからないじゃない。でも、僕は74年からCMやってたから、この時点で2年以上やってたし。他の人のレコーディングとかもやっていたでしょ。だからひと通り業界には通じていた。だけど、相手は僕がぽっと出の新人歌手として見るから、そのギャップがすごくあったんだよね。
自分としてはRCAに来て、ようやくメジャーな会社に来たなと思ったよ。それこそ会社に行くとちゃんと「ウェルカム」とか書いてあって、廊下で「いらっしゃい」とか言われたり、それが2年ぐらい経つと「あれ?まだ君いたの?」とかなるんだけどw
RCAは「演歌のRCA」って言われていて、藤圭子和田アキ子、クールファイブ、西城秀樹、そうそうたる布陣だったからね。ニューミュージックでまともに成立してたのは吉田美奈子だけだった。桑名(正博)くんはまだブレイクしてなかったし。やっぱり美奈子は村井邦彦さんだったからね。小杉さんとしては美奈子のプロモーションを見てるから、それには負けたくないというのがあって、結構頑張ったんだよね。
で、僕は理不尽なことに対して、喧嘩っ早かったんだよね。だからといって従順に何でも言うこと聞いてたら、今頃どうなっていたことか。今も昔もみんなおとなしいというか、言うべきことはちゃんと言わない、いや言えない。こちとらは、あの頃からスタジオの扉に張り紙して「部外者立ち入り禁止」とか平気だったものねw
そういう意味では音楽こそポップだったけど、精神的にはパンクの連中とあんまり変わらなかった。
今はよくも悪くも、ビジネスとして成立するようになったでしょ。だから取材する側も、きちっとした対応が義務付けられるじゃない。ライターにしても、あの頃はさぁ、ロックだフォークだニューミュージックだなんて、何だかよくわからないモノだったんだよね。日本の芸能界にとっても、それまでの主流の音楽フィールドとは全然違っていたし。ある意味、今のインディーよりもマイナーだったからね。
【第19回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 外伝7 牧村憲一インタビュー

<試験のヤマかけが当たって、早稲田大学に進学>
僕は東京の渋谷生まれ(1946年11月3日)です。90年代にあった渋谷系ブームの渦中にいた時、「渋谷生まれの渋谷育ちですから、渋谷系」と言って、適当にかわしていたんですけど、それは本当で、日赤が取り上げられた場所なんです。父親も母親も渋谷育ちです。
父親は生涯、労働運動をやっていまして、晩年には、いま「連合」と呼ばれている組織の前身を作って、60代の初めに亡くなったんです。僕が物心ついた頃には、父親は労働運動に夢中になっていて、家にはあまり戻れないし、今思えばデモの責任をとって所轄の警察で1泊2日ぐらいしていたな、という環境で育ちました。
ごくごく普通の家で、ひたすら勉強して、今にしてみれば鼻持ちならない典型の、学業優秀、学級委員。下北沢の近くには駒場東大がありますから、やがて自分が進む学校は、自転車で行ける距離だと。生意気ですね。もう小学校の時に東大に行くもんだと思い込んでいた。というか、与えられた役目のような気がしていた。強要されたわけじゃないけど。現実に僕だけじゃなくて、学校で真面目に勉強のできる子は、時代もあって、そういう期待をされていたんです。
ところが小学校5年生の時に、音楽の先生に呼び出されて、「キングレコード音羽ゆりかご会の試験を受けなさい」って。それまで自分に音楽的素養があるなんて、これっぽっちも思ってなかったのに、言われたっていうことは才能があるのか、ってことになるでしょ。で、僕はすっかりその気になって。もしかして自分の人生は学業だけじゃなくて、もう一つあるかもしれないって。ところが、折悪しく変声期が始まって、ボーイソプラノのきれいな声を出していた僕が、声が出なくなる。それで結局、試験は受けなかった。でもこれがいい意味のトラウマになるんですね。君は音楽的な才能があるね、って言われた事はずっと自分の中に残っていた。
母親はごく普通の専業主婦なんだけど、家にオルガンやギター、三味線など楽器がいっぱいあったんです。で、母は習ったことがないのに、自己流で演奏できた。教則本もないのに適当に弾いちゃうわけ。
一方、父親はすごい音痴で、もう聴けたもんじゃない。母親は暇さえあれば楽器をいじっている。それで僕は、一応優等生の道を歩く反面、音楽が自分の中で逃げ道というか、心の支えになっていた。
中学に入ると、小学校の時の優等生だった僕も、だんだん成績が落ちます。これはもうよくある話で、入った時に確か1番だったのが、あっという間に100番台に落ちた。
で、中学生の頃は、和製ポップスがテレビのゴールデンタイムに登場して、僕らは夢中になって「ホイホイ・ミュージックスクール」とか「ザ・ヒットパレード」とか。
中二になると、レコードを買って、友達の家に集まる。みんな、わずかしかないお小遣いで買うから、買ったレコードをお互いに持ち寄って聞き合う。それは毎日やっても飽きなかった。それで学業をますます放り出して(坂本)九ちゃんだ、加代(森山加代子)ちゃんだ、パラキンだ、そういう毎日になります。さらに加山雄三ベンチャーズとか、だんだんロックっぽいものも出てくる。
早稲田に進学できたのは、普段は不真面目だけど試験のヤマ当てが上手だったの。過去の問題を揃えて、これが出るだろうって予想する。それだけを一生懸命にやる。出なかったらおしまい。持って生まれた知恵、それで何とか切り抜けていく。普段は全然ダメなのに。で、大学受験が近づいた時に、またいつもの方法しか思い浮かばなくて、ギリギリでやっと本気になる。自分の学力がどの程度か分かっていたから、期待に応えつつ、間に合うって言うことで。
こういうことを言うと、すごく偉そうに聞こえるけど、早稲田の過去10年の問題集を買い込んで、そればっかり、来る日も来る日もやる。最後には自分で予測問題集を作るわけ。第一志望が、もう今はないけど政治経済学部の新聞学科。それが初日だった。さあ、どうなるかなと思ったら最初の英語の試験、全部予測が外れていた。一問も解けずに失敗。もう他の科目も受けずに、負けた、と。
次の日が法学部。そしたら見事に予想が当たって。うまくいったと思ったら、入学してすぐに、早稲田は学費値上げ闘争に突入して。労働運動をやっていた男の息子ですから、逃げたり見過ごすわけにはいかないと賛同し、スト突入。でも、この時は法学部だけでも6000人ぐらいがストに入ったので、一般学生も普通の神経だったら、ストライキ側に行きます。
ただ、一年経つとだいぶ様変わりして、ストを続けていた6000人が一割の600人になって。残りはさっさとレポートを提出しちゃって、進級します。僕は意地を張って1年目は進級しなかったんです。そういう義理を果たすというか。でも、結果的には1年間授業がなかったし。もう落ちていくにはこれ以上のシチュエーションは無いっていうのが、19歳までのいきさつなんです。
      
<早稲田のグリークラブでマネージャーを体験>
まだストになる前、キャンパスでウロウロしていたら、勧誘に引っかかってね。連れていかれたのが、グリークラブ。こんな男ばっかりのクラブに入るつもりないし、ポピュラーをやりたいと思ってたんだけど、なんとなく断れなくて。で、声を出して「あ、あー」とかやる。「低い声だね、バスに決定だよ」って。まあ考えてもしょうがないから、とりあえずいいかって入っちゃった。
グリークラブ内でもポピュラー好きはグリーとは別に、好きなようにグループを組めたし、グループと言ってもフォーク全盛期だから、アコースティック・ギターを持てば流行のカレッジ・フォークやブラザーズ・フォアをやれる、だったらクラブに属しながら、そういうことをやればいいんじゃないかって。いいや、ここでって。
クラブ活動は演奏が中心なのですが、花形ポジションが3つあって。代表である部長と、学生指揮者がクラブ員の音楽的頂点なわけ。
もうひとつが、普通は渉外っていうんだけど、僕らは「外政」って言ってたマネージャー役。東京6大学、東西4大学、朝日新聞社内にあった東京都合唱連盟などで学生理事をやり、他の大学との交渉の窓口も。当然女子大も含まれていて羨ましがられ、ラジオやテレビの出演交渉もするっていう、いわゆる派手な部門なわけ。で、何を間違えたか、1年生の時に、その手伝いをしてたの。
そしたら周りから「お前はマネージャーに向いてるね」って、それであとは既定路線。だから練習にあまり出ず、外に行って「はい、題名のない音楽会、出演」とか「クリスマスひとり2万円、横浜グランドホテルでコーラスのバイトです」とか、そんなことやってた。つまり僕の職業が、そこで既に訓練されちゃったんです。そういう素地があったのでしょう。ただ合唱連盟に出入りしてる時に、朝日新聞に五十嵐さんという女性記者がいらして「牧村くん、フォークルって知ってる? あんなたと同い年の人間がちゃんと世の中に出て行くようなことをやってるのに、君は今のままでは志が低い」って言われたんですね。もやもやしていた時なので、その言葉がすごく残っちゃって。僕はいったい真っ当な就職をするんだろうかっていう疑問が、長い間自分の中であったわけ。
そんな思いでいる時に、グリークラブで1年上だった三浦光紀さんが、キングレコードに就職して、教養部に配属されて。教養部というのは学芸ですから、中心は童謡ですね。そのうち三浦さんはフォークは新しい童謡だと言い始めて、フォークをやり始めた。
それがベルウッド・レーベルになって行くんです。でも、当時は入ったばかりでアシスタントがいない。手助けがいるということで、僕に授業が出る必要がない時、手伝いに来てくれないかと。
で、70年の初め(23歳の時)の頃だと思うけど、キングレコードに行くと、社内のスタジオでレコーディングをしている最中だという。何を作っているのかと覗いたら、ギターの教則レコードを作っている。そこで初めて小室等さんと、小林雄二さんに出会うんです。それまで僕が思っていたフォークというのは、森山良子さんに代表されるカレッジ・フォークや、URC反戦フォーク的なイメージだったのが、小室さんたちが、実に素晴らしい技術者でもあると知ります。
   
小室等さんとの出会いから、「出発の歌」が生まれる>
僕のバンド経験ですか? 僕らの時代はキングストン・トリオとかPP&Mの時代で、上手いやつは学校にギターを持ってきて、放課後やってるの。
でも、僕はガット・ギターで練習したから、最初はお約束の「禁じられた遊び」で。もちろんコードは覚えたけど、自己流でスリー・フィンガーができないから、ツー・フィンガーでごまかすわけ。だから上手い人がいると恥ずかしくなって、出来なかった。そんな調子で、ひたすら帰宅部になったの。
それで、さっき言ったように、僕は小室さんと出会って、ギターの奏法にも深い技術っていうものがあるんだって分かった。それだけでなく、小室さんは現代詩にメロディーを付けて歌っている。そういう歌があるのか、って。そして状況劇場の音楽を担当、別役実の芝居に楽団として出てる、もう好奇心がものすごく湧いてきて。
最初に小室さんと知り合えて、音楽業界に入ったっていうことは、僕の一生の財産なのね。日本に初めてきちんとフォークソングを紹介し、フォークギターを自ら分析して教則本を作り、なおかつ現代詩人や演劇人、アートワーカーたちとも交流がある人だったんで、なんだか自分が大学時代に託せなかった思いが、一気に花開くようで、あっという間に引き込まれていったんです。
ただ、まだまだフォークがお金になる時代じゃなかったので、キングレコードに手伝いに行っている僕は、ご飯は出るけど、交通費が自分持ち、くらいの状況だったので、他でバイトしたお金で手伝いに行っていた。で、三浦さんが見るに見かねて「牧村、給料払ってくれるところに行ってみるか」って紹介されたのが、照明がメインの、労音に居た人が独立して作った事務所だった。
行ったら、ジョー(上條恒彦)さんが居て、「さとうきび畑」の作曲家・寺島尚彦さんが居て、という会社だった。当時普通に就職してデパートに行っていたら、給料が4万5千円くらい。そこでは約2万円。それでも当時は無収入に近かったわけだからね。
で、僕が最初に企画したのが、小室さんのコンサートだった。それまでは三浦さんの後ろにくっついているに過ぎなかったのが、初めてそこで、一本立ちしてコンサートメイクをしてくれと言われたわけで「僕が作るとしたらフォークコンサートしかない。やりたいのは小室さん」と言ったら、逆に喜ばれてね。
で、結局それが縁になって、「小室等六文銭」の初代マネージやーになるんです。その時のコンサートのゲストが吉田拓郎高田渡だった。翌年になると、ヤマハが主催する「合歓(ねむ)の郷フェスティバル」という作曲コンテストがあって、そこで持っていった歌が「出発の歌」だったの。小室さんは上條さんにも曲を頼まれていたのだけれど、2曲は出来なくて急遽一緒に演奏することになった。上條さんも小室さんもメンバーも僕も、参加するだけと思っていたから、終わってさっさと帰ろうとしたら、ムッシュかまやつひろし)に止められて「優勝だよ」って。で、あれよあれよという間に、第二回世界歌謡祭の代表になって、グランプリってことになる(71年11月)。
僕の音楽業界の1年目は模索ばかりだったけど、2年目は突然階段を駆け上がるような話になっちゃった。2万円だった給料が、一時期ですが35万円。信じられないでしょ。初任給4万円の時代に、最初はタダで働いて、次に2万円で働いて、1年経ったら35万。それからは、ひとつひとつの出会いがチェーンのように繋がっていって。
で、(上條恒彦と)六文銭がヒット曲を出したときに、エレックから独立した吉田拓郎の事務所を始めようとしていた後藤由多加さんから声がかかり、「ユイ音楽工房」に合流した。ユイというのは小室さんの娘の名前でね。ユイはコンサートメイクとマネージメントの会社だけど、すぐに後藤さんは原盤出版会社を作ろうというんで「ユイ音楽出版」を作った。それで僕と、創立メンバーのひとりの陣山くんで出版にまわって、陣山くんが吉田拓郎+α、僕が「南こうせつかぐや姫」+αという形で、協力し合った。音楽出版社に入って、制作ディレクターを始めるわけです。六文銭には新しいマネージャーが来て、僕はマネージメントからは完全に離れる。
   
<「神田川」そして大森昭男さんとの出会い>
ちょうど「第2次かぐや姫」になった頃で、その新メンバー(南高節、伊勢正三山田パンダ)のファーストはクラウンで作られたんだけど、セカンド(かぐや姫おん・すてーじ/72年12月発売)から僕らが参加して、ライヴを一枚のアルバムにしたんです。当時のフォークシンガーやグループって、むしろライヴの方が魅力あったから、で、その後にシングル盤を作るという仕事があった。
当時、ガロの「学生街の喫茶店」がものすごくヒットしてたから、負けたくないと思い、その曲を作ったすぎやまこういちさんのところに曲を頼みに行くんだけど、すぎやまさん、勘が鋭いから、こうせつとかぐや姫を見て、カントリー・グループっていうイメージを浮かべたらしい。なので、出来た曲がカントリー・フレーバーで。全然「学生街」じゃない。
それで、自分たちで作っていたデモ曲に入っていたのが「神田川」。当時、元ジャックスの木田高介さんがサウンドづくりのパートナーになってくれてたんです。「出発の歌」のアレンジも木田さん。その縁もあって、自分でディレクションするのは心細いから「神田川」も木田さんにアレンジを頼んだんです。
で、木田さんが呼んだのが、はちみつぱいのくじらさん(武川雅寛)。これは誰にもわからないかもしれないけど、ガロがCSNならば、こっちはグレイトフル・デッドで行こうというジョークから、はちみつぱいのメンバーを呼んだ。そこでコード譜しかないのに、即興であのイントロを弾いてくれて、ああいう曲になったんだよね。
こうせつはウエスト・コースト系の音楽が好きで、年中僕らとそういう話ばかりしていた。それで僕としては、はちみつぱいとか、はっぴいえんどのメンバーが参加してくれるのが望みだったし、木田さんがいたからあれが完成した。最初は「かぐや姫さあど」(73年7月発売)に収録されていた「神田川」を(9月に)シングル・カットした。
僕はディレクターといっても、本当は全然分かってないのに、トラックダウンまでやるんだよね。で、あの曲ではバイブを最初に入れてあったんだけど、トラックダウンの時に忘れて、抜いちゃったのね。で、発売後になんか違う、あ、バイブ抜いちゃった、って。慌ててトラックダウンし直したんだけど、もはや売れてて差し替え出来ない。最初に担当したシングルなのに、一気に30万枚くらい行ったのかな。今どうやってカウントしているか分からないけど、色々合わせて260万枚相当売れているそうです。ともかくディレクターを始めて3、4ヶ月でそういうことが偶然起こっちゃった。それが制作マンになろうっていう、きっかけなんです。
で、記憶が順番バラバラなんですけど、その頃ONアソシエイツの大森昭男さんと「出発の歌」のコマーシャル使用の話をきっかけに、知り合ったんですが、どうも僕は、大森さんにはっぴいえんどを売り込みに行ってるみたいなのね。はっぴいえんどをコマーシャルにどうですか、と。一方で僕は「神田川」がヒットしたことによって、日本的な、いわゆるフォークのディレクションを望まれることが多くなっていった。あれはあれで、ものすごく知恵とエネルギーを必要とするものだし、同じことを繰り返したくないし、それと時期的にいろんなことが重なっちゃって、僕はもうこれ以上フォークのレコードを作るのは出来ないと思ったんですね。
フォークが四畳半的になり、歌謡曲化し、洋楽的なものではなくなった。小室さんと知り合った時には、非常に洋楽的なものを感じて憧れたのが、だんだんアコースティック・ギターが入ってれば、イコール、フォークになってしまった。そして、これははっきり言っていいけど「フォークシンガー・ブーム」になっちゃった。キャラクターの世界になった。ステージも半分歌って、半分しゃべりになって、しゃべりが面白くなければフォークじゃない、みたいな。
それで自分が目指す洋楽の影響を受けた音楽と、だんだん遊離していった。のちにフリッパーズ・ギターをやる前もそうなんだけれど、切羽詰まってくると、思い切って真反対を選ぶ。
だから、フォークからCMにドーンって。商業主義なんてクソくらえっていうところから、一番商業主義の先兵のところに行っちゃった。それは性格だと思う。
それで大森さんが一緒にやりませんか、って誘ってくださった。それほどの経験もない僕に、割と早い時期に、資生堂アサヒビールのCMに参加させてくれて、大森さんが「牧村さんならどなたを推薦しますか?」と言った時に、はっぴいえんどは事実上解散していたので、細野さん、大滝さんの個人名を挙げたと思うのね。当時(ベルウッドの)三浦さんは、大滝さんのソロ曲を録るたびにテープをくれていたから。多分そのテープを持って行って、聴かせたんでしょう。そしたら大森さんが「いいですね、大滝さんに連絡しましょう」と。それが結局「サイダー」のきっかけになるんです。
で、その少し前、ユイにいた時に、「山本コウタローと少年探偵団」のギターだった徳武くんとか、そのメンバーみんなが洋楽の話が出来る同士で、仲が良かった。そこでコウタローさんが「牧村さん、日本にもラスカルズがいますよ」って。ちょっと信じられない。「四谷のディスク・チャートって店に出入りしてるバンドで、シュガー・ベイブっていうのがいて、ラスカルズみたい。絶対好きになるよ」「じゃ、なんかコンサートか、いいチャンスがあったら教えてね」と。でも、言ったままそのままになっていた。
それで、ON在籍時に大滝さんのCM録音に立ち会っていると、若いコーラス・グループが連れて来られた。それがシュガー・ベイブだったの。僕の中では、コウタローさんが言ってた、あのシュガー・ベイブだと。
  
<山下くんは僕がやってもいいかなと思ったんです>
実際にコーラスが始まると、ワクワクして嬉しくなりました。当時の僕たちのコーラスの常識は、3声、4声が声質に合わせて役割分担をする、いわゆるグリークラブ的なものでした。しかし聴こえてきたコーラスは、これぞポップ・コーラス。リーダーの声が飛び抜けて大きいので、マイクから遠ざかったり、場合によってはスタジオの後ろに行ってワーッとかやるでしょ。いやー、若いってすごいな、と。こっちもまだ若いのにね。そんなポップな音楽に出会えた喜びでいっぱいになりました。運命的な感じで。
その頃よく出入りしていたキングのベルウッド・レコードにはアルバイトだった竹ちゃん(竹内正美/のちのセンチマネージャー)がいて「はっぴいえんどみたいなグループ作ります」って、いつも夢見るように話してくれました。間も無く「センチメンタル・シティロマンス」として実現させるんですが。シュガーとセンチの出会いが立て続けにあり、そのふたつのバンドが僕の人生を大きく狂わせましたw
山下くんと初めて会ったのは多分サイダー以前の大滝さんのスタジオだったと思います。なんのCMだったかはよく覚えてないのですが、シンガーズ・スリーだけじゃ足らないというのでシュガーのメンバーが呼ばれて来て。その時山下くんとは特別の話はしてないのですが、コーラスの録り方やバランスなどを話したと思います。
(73年12月17日)青山タワーホール(シュガー・ベイブ、ファースト・コンサート)で初めて彼らのステージを観ましたね。日本のラスカルズってインプットされてたでしょ。イコール・ラスカルズは無かったのですが、洋楽嗜好、願望を満足させてくれるバンドがいるというのが驚きでした。
でも山下くんが、曲の合間合間で(73年)今年のベストテンとか始めると止まらない、止まらない。他のメンバーも苦笑しているような。結局演奏が半分、喋りが半分というライヴでしたし。今から思えばレパートリーもあまり無かったのでしょうね。上手いか下手かというと、それは微妙で、技量的には多少は問題あったけれど、それを補って、十分魅力的でした。だから73.9.21「はっぴいえんど解散コンサート」で、大滝さんのバック・コーラスでしか聴けないというのは残念でした。
山下くんの印象は今(08年)と同じです。誰よりも音楽を知ってるぞ、という自信家に見えました。でも、そのことは歓迎、全く気になりませんでしたね。僕たちはそれ以前に「大滝さん経験」を十分に積んでありましたから。音楽を知ったかぶりすれば、キツいお仕置きがね、もう、分かっていましたから。
僕はその頃、稼いだお金のほとんどをレコードや本につぎ込んでいました。70年代は吉祥寺のレコードショップ芽瑠璃(めるり)堂という嗜好の強い輸入盤屋さんがあって、「ニューミュージック・マガジン」で広告を見つけると、朝から並んだものです。もし音楽知識でコンプレックスを感じていたら、いたたまれなくなったかもしれませんね。それよりも何よりも、全ての思惑を吹き飛ばす”声”が、そこにあったということです。
山下くんのCM起用はすぐには無理でした。僕はまだ見習いでしたから。でも大森昭男さんは企画段階で「どなたがいいですか?」と毎回聞いて下さる。日本のフォークから解放され、持っている洋楽知識を使える環境にはなっていました。もちろん大森さんは大滝さんをいち早く高く評価なさった方だから、山下くんの才能にもとっくに気づいていたと思います。「牧村さん、あまり予算は大きくなくてオンエアーは東京のみなんですけど」と言われた時、すぐに「山下くん」と言ったら「いいですねえ」と。大森さんが大滝さんと組まれてたので、山下くんは僕がやってもいいのかと。
それが「三愛バーゲン・フェスティバル」で、山下くんに頼んだら、彼も待っていたのだと思います。大滝さんを手伝っていた時から、そういう日を。

「三愛」「三ツ矢フルーツソーダ」「不二家ハートチョコレート」
この3本は大森さんがプロデューサー、僕がディレクターでした。当時はネットもメールもないから、出来た曲を電話口で山下くんに歌ってもらって「それで行こう」と。電話でやっても全然問題なかった。流れてくる音楽に求めているものが全部あった。やっぱり引き出しがたくさんあるんだなあ、と思った。今思えば頼んだのがキャッチーなバーゲンに飲み物とお菓子、それも運が良かったのかもしれないですね。
不二家ハートチョコレートをやった時かな、山下くんのお父さんが画面から流れてくるのを聴いて、音楽をやっていることを納得してくれたんだって。お菓子屋さんだったから、お菓子のコマーシャルを息子がやっているのを嬉しかったんじゃないかな。当時、「親父が喜びました」って言ってくれたのを生々しく覚えています。シュガー・ベイブ・ファミリーの一員になったような気がして、喜べましたね。
   
<シュガーやセンチたちと音楽出版会社をやりたい>
ONアソシエイツに居たのは短かったんですよ。当時CMの世界の中でだんだんフラストレーションが溜まり始めていました。それは来る日も来る日も15秒、30秒であること。もうひとつ、後ろにスポンサーがいること。大森さんはタフだから、ニコニコしながらスポンサーの無理難題を聞き流しているんだけど、僕は時々怒っちゃう。音楽を知らないで、ああだこうだと言いやがって、って心の中にあるから、ごまかしても顔に出てしまう。このままじゃ絶対に迷惑をかけると思って、大森さんに「1年ちょっとしか居なかったけれど、スリーミニッツの音楽の世界に戻りたいんです」って許しをもらいました。
その時に、泉谷しげるさんがエレックから独立して作った「パパソングス」っていう会社の伊藤さんが声をかけてくれた。泉谷さんは自分の稼いだお金を、ロックに回すって言って。僕を含めて何人か参加して、シュガーとセンチ、上田正樹山崎ハコとか、エレック周辺も含めて、そういう音楽の出版プロモーションの会社を起こそうとしました。実際のところはなかなかうまくいかなかったんですけどね。
当時エレックの宣伝には(沓沢/くつざわ)玄ちゃんが居て、シュガー・ベイブの強力なシンパでした。僕は吉田拓郎さんの在籍時からエレックとは付き合っていましたが、玄ちゃんの存在も大きかったと思います。ある日、彼を通じてエレックのスタジオにあるシュガー・ベイブのLFデモ(の8chマルチ)テープが消されそうだと聞きました。それで色々やって何とか救出したのですが、長い間行方不明になってしまいました。数年前のシュガー30周年にはなんとか間に合って、大滝さんの手元に戻したのです。本来は4曲入っていたんだけど、最後の1曲のイントロの頭まで既にオーバーダビングされていました。その1曲のみSONGSの30周年盤に入っています。
シュガーがエレックに決まった時には、ユイ以前からも吉田拓郎さん関連でエレックの内情は知っていましたから、ナイアガラがエレックと契約したことを大丈夫とは思えなかった。でも、ナイアガラは僕がマネージメントしていたわけでもないし、それ以上のことは言えませんでした。
僕が「パパソングス」にお世話になって1年過ぎたくらいでした。パパソングスのスタッフから、出版セクションの赤字の相談が出ました。そりゃそう、これといった収入がないのに、給料を払い続けてくれていた訳だし、これはもう外に出るしかない。でもせっかく日本にロックが芽生えるかもしれない大事な時期に、このままやめるわけにはいかないとPMP朝妻一郎さんのところに会いに行きました。で、「シュガーやセンチたちと音楽出版会社をやりたい。しかしお金がない。相談に乗ってくれますか」と頼んだら、貸してあげるって。
それで「アワハウス」を作るんですが(75年11月)、借りたお金を1年で使っちゃうんです。事務所維持と原盤製作費で消えました。当時ロック作品にお金を出してくれるレコード会社は皆無でした。どこに行っても「原盤制作費をそちらで持つなら考えるけれど、こちらでは持てない」と。そんな中で唯一CBSソニーの洋楽部が全部持つと。窓口は堤光生さん。そこまでこぎつけた時、なんとシュガー・ベイブが解散状態だと言う。僕はシュガーのセカンド制作とプロモーションを担当すると思ってたら、解散に出会ってしまった。
それで結局、山下くんとター坊のソロの手伝いをします。それが75年の暮れぐらいから始まった話。もうひとつのセンチの方は、すんなりソニーで決まった。ソニーは両方やるつもりだったのですが。それでも(堤さんの)洋楽セクションで邦楽をやるっていうコンセプトは、気に入ってました。それが出来ていたのは、吉田美奈子のRVCだけだったからです。
  
<一番熱心だったのは小杉さんのRVCでした>
シュガーのセカンドはなくなったけど、ここで諦めるのは嫌だったので、荻窪ロフトの解散コンサート(76年4月)の頃、山下くんのソロを提案したと思います。彼は「やるとしたらプロデューサーは誰々で」と考えていた。僕は海外録音を視野に入れていた。と言うのは、解散状態だったはっぴいえんどに、ベルウッドの三浦光紀さんが海外レコーディングを試みたのを見て、強く刺激されていました。憧れて真似するんじゃなく、本場に行ってしまった方がいい、プロモーションとしても有効だと。
山下くんからは、複数の海外プロデューサー候補が出てきました。第一候補がアル・ゴルゴーニで、二番手か三番手にチャーリー・カレロ。フジパシフィックから借りていたお金を持って行こう、戻ってこないかもしれないけど、と考え、原盤制作をやろうと覚悟を決めました。
フジパシフィックと、原盤と出版を共同で持つ、という前提で、手を上げてくださった2、3の会社に話しを始めました。一番熱心だったのが、日音の国際部を辞めたばかりの小杉さんが居たRVCで、山下くんと相談して決めました。小杉さんは英語が堪能ということもあり、プロデューサーの交渉にアメリカに行きました。ご存知のように、朗報を持って帰国してくれました。
最後まで理解を持って対応してくれたのは、ソニーの洋楽とRVCの2社しかなかったんです。あとは口はやりたいって言うけど、条件の話をすると、リスクは背負いたくないと逃げました。
僕がやれたことは、シュガー・ベイブが解散しても諦めなかったこと、ソロを作るように話しかけたこと、海外録音実現にお金の工面に走ったこと。そして、その後をノウハウを持ってた小杉さんに、リレー方式で託したこと。
アルバムCIRCUS TOWNはプロデューサーがチャーリー・カレロで、小杉さんと僕は裏方スタッフ。マネージメントだったり、コーディネーターだったり。今だったら、それも広義のプロデュースワークかもしれないけど、当時はプロデューサーという言葉は、もっと権威を持っていたんですね。
アメリカ・レコーディング。スタジオで起きたことは、山下くんが色々と話してくれているようだけど、言葉が出来る小杉さんには現場に居てもらって、僕はマネージメント業務。アメリカには小切手を持って行った方がいい、って銀行にそそのかされて持っていったら、「こんな銀行知らない」って言われて、スタジオどころじゃなかった。お金を下ろすのに2日間、朝から夜まで銀行に詰めてたり。
NY録音の最後の日に、チャーリー・カレロにギャランティを払いに行ったら、「お前のマネーが俺にいいアレンジをさせた」とか言われるわけです。アメリカンビジネスの現実を目の前で見ました。ユニオンという制度も初めて知って、ビジネス的には大変勉強になりました。今でもリアルなのですが、NYに着いたその日、下見に行ったメディアサウンド・スタジオ、扉を開けた瞬間のその音量、とんでもない音量で音が体にぶつかって来ました。そうか、アメリカのレコーディングって、ヒソヒソじゃないんだって。で、中に入ったらドラマーがヘッドフォンをつけてやってる、なんだこれは! 異次元に来たような気分。あの時は、もう本当にお上りさんでした。
   
<山下くんから正論が出た時に一番困りました>
CMの現場での山下くんですか? 若い時はクマってニックネームがありまして、その名にふさわしく、スタジオでグルグル歩き回り落ち着きがない。それはアイデアを考えてる時の無意識の癖なんですね。それと、音楽のこととなると話が止まらなくて、もともと豊富な知識を持っていて、声が人一倍通るから、山下くんを知らない人たちには攻撃的に見えて、まるでクマ。脅威でしたね。
僕はそれが好印象だったんです。生意気だって言う人もいましたけど、自分の芸術に対して強いエゴがなければ、音楽家はできないと思っていました。生意気OK、癖が強いのもOK、そこまで真剣だからこそ、一緒に仕事をするのが面白かったのです。僕がその頃気にしていたのは、むしろ経済的なことで、ステージに出てもメンバー全員で何千円しかギャラがなくて、それを分け合ってる。どれだけ厳しいかっていうのが分かっていたから、一円でも多くお金が渡るようにしてあげたい。そういう心配の方が問題でした。
CM制作の現場では山下くんと僕の共同作業でもあったから、クライアントへの応対も含め、ぶつかったりすることが起こらないよう、お互い注意深くしてたと思います。クライアントと喧嘩すれば、「あいつは外せ」となるだけだし。その辺の事情は山下くんも理解してくれてて、心の中でイラッときていたとしても、実際に困ったなあとなったことは一度もなかったのです。「うーん、これは…」なんて声が出た時も「こう言うのもあるんですけど聞いてもらえますか?」みたいに。大森さんや僕の立場を理解してくれていた。
本当にコマーシャル制作で、山下くんとやりにくいと思ったことは、一度もないですよ。5時間といったら5時間ですし、3時間なら3時間で仕上げてくれました。楽しかったですよ、一緒に仕事をするのが。
そんな中、シュガーがレコーディングを始めて、すごく大変で、その悩みを聞くことや、相談が増えて、それまで以上に話しようになったかな。それとお互いセンチやセンチのスタッフと親しい間柄だったので、そんなこともあって、ざっくばらんに話をしてくれるようになったと思います。
ぶつかったこと? そうですね、ソロを作るようになったあたりからでしょう。いいモノを作れば自信も出来、山下くんはもっと山下達郎の考えを出したい。僕らは山下くんと同じように主張すれば、まだ強権を持っていた側からはスポイルされました。結果、妥協もして、山下くんから正論が出た時に一番困りました。
僕はレコーディングのお金をどう作ろうとか、スタッフに給料を出さなくてはというところで、そろそろ精一杯でしたし、技術的にもまだ未熟でしょ。音楽的な面では大丈夫だと思っていましたが。同じ側にいたのですから。
そう言えば、マスコミ側からよく言われたんだけど、「なんで男なのに裏声出して、気持ち悪いねえ」って。音楽の基礎知識がない人たちは、せいぜいフォークの延長で聴いてますからね。まあ見当違いな批評ばかりだった。
  
<絶対に売れるレコード作ってやるからなって>
山下くんからの影響も、もちろんありましたよ。僕はまずフォーク側の一員でいた頃に、かなりはっぴいえんどの音楽に刺激を受けました。幸運にもその一員だった大滝さんのコマーシャル仕事を通じて、山下くんと出会います。彼に会えたことで、また新たな出会いが起こるのです。
僕には誇れる才能があります。それはまず、人に出会える才能。出会った人たちが持っている、それぞれの極めたすごい知識や技術、それに触れて、影響される才能。それを自分の中でかきまわしているうちに、自分なりのものがいつか出来てくる、運ですね。
大滝さんや山下くんと出会う前はビーチ・ボーイズの全レコードを聴こうなんて思いもしないし、ひょっとすると「サーフィンUSA」一曲で終わりだったなんてね。フィフス・アヴェニュー・バンドなんて知らないよ、って。
やはり出会ったことによって、たくさんの技術と知識、夢を教えてもらいました。そういう蓄積が30代になってプロデューサーになろうとした時、たいへん役に立ちました。未だにずっと学びっぱなしだし、ものすごく吸収しぱなっしです。
竹内まりやさんのことで言えば、彼女のレコードで山下くんに曲(ブルー・ホライズン)を書いてもらい、歌入れのレコーディングでスタジオに来てもらいました。僕たちはかなり良い出来のボーカルが録れていると思っていましたが、「歌い方が違う。今から歌うから」って。曲が見違えるように変わりました。それはシャッフルの曲で、シャッフルぐらい知ってるはずなのに、シャッフルってこういう風に歌うんだって、初めてそこで知ったわけです。万事勉強ですよ。山下くんからだけじゃなくて、その後いろんな方から学んだけれど、その時の事はまだ光景を思い出せます。
キングレコードのお手伝いから、六文銭マネージャー、ユイ、ONアソシエイツ、パパソングス、そしてアワハウス立ち上げ…そのアワハウスがダメになった時、朝妻さんから「良いレコードは作るけど、売れるレコードを作れないね」って言われたんです。本当に頭にくるでしょう。次は絶対に売れるレコードを作ってやる。それは復讐劇でしたね。いや、ある意味では褒めてくれたのかもしれないですが。
ミュージシャンは、良いレコードを作るのが、まず大事なことだと思います。だけど、スタッフまでが一緒になって良いレコードを作ってる自己満足を、多分冷やかされたと思うんです。喧嘩してでも売れるレコードを作れ、って言いたかったんだろうと思うんです。トノバン(加藤和彦)はね、若い時、僕にすごいことを言うんですよ。「プロデューサーの仕事はチャートで1位を獲ることでしょ」って。これが頭にこびりついていましたね。
本当に1位を獲りに行って、獲ったのは「い・け・な・い ルージュ・マジック」(1982年)かな。他はね、なんか定番の4位とか6位とかね、今一歩なんですよ。まりやさんも大体4位くらいだったかな。でも僕には1位にならなくてもベストテンなら十分でした。少なくとも「売れないねえ」とは、もう言われませんでした。山下くんがソロデビューしたのは76年。78年11月にまりやさんがデビューして、79年には出るシングルが、すべて一応チャートインするようになっていました。
本当は1位にそれほどこだわっていたわけじゃなく、むしろ1位を取る辛さ、売れる辛さっていうのは、売れてから初めて知りました。山下くんも多分そうだと思います。売れなかった辛さもあったと思いますけど、売れてしまえば、あることないことの中傷や、勝手な期待がのしかかってきます。そういう意味では、この73年から76年と言う時期は、経済的には辛かったけど、すごくまっすぐな楽しい時だったと思います。シュガーやセンチのメンバーやスタッフが、へとへとになりながら自分たちで楽器を運んでセットし、バラしていました。できたらスタッフを雇ってカバーしてあげたい、音楽や演奏に集中させたいなと思っても、そんなお金なんかなかった。山下くんもボロボロの車を運転しながら、黙々と運んでいたしね。
振り返ってみればその苦労も幸せのうちですよね、って言う人もいるけど、それはとんでもないですね。音楽をやる前に、もうボロボロになっているんですからね。体験していない、他人が言うセリフだと思います。76年に会社を作って1年ちょっとで事実上の破産。当時はロックやポップスでは収入がなくて、出ていくお金ばかりなんだから、そんなの分かり切ったことなのにあえてやってしまった。
でも、よく生き残ってきましたよね、お互いに。
【外伝7 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第18回 NY海外レコーディング 1976年8月

<セカンドアルバムをやるんだったらソニーでやりたいなと思ってた>
まず、牧村憲一さんについて。
牧村さんは74年、僕に最初にCM仕事をくれた人なの。その時、彼はオン・アソシエイツというCM音楽制作会社に居た。彼はもともと早稲田で後藤由多加さんと同期で、六文銭に関わっていたんだね。後藤さんがユイ音楽工房を創った時は、牧村さんも創設者のひとりだったそうだけど、その後ユイを辞めてCMの世界に入ったんだ。
彼は日本のフォークとロックの、一種のオタクでね、やたら詳しかった。広告業界には入ったんだけど、その頃の広告は今と違って、純然たるコマーシャルの世界でね。そこに自分が志向していた日本のフォークとロックの血を、何らかの形で入れたいと考えたんだね。

それで牧村さんは、大滝さんに声をかけてCMの世界に引っ張り込んだの。「三ツ矢サイダー」だね。その時、僕が後ろにいて、彼がシュガー・ベイブを知ることになる。それで僕に声をかけてくれて、僕はCM仕事をするようになったんだ。牧村さんは東京の人なので気が合うというか、自然に仲良くなったんだよね。この延長で75年あたりからCMをすごくやるようになったの。
その後、牧村さんはオン・アソシエイツを辞めて、パパ・ソングスっていう出版会社を始めて、泉谷しげるとかの楽曲を手掛けるようになった。もともとエレックと近い人で、ナイアガラがエレックに行って、シュガー・ベイブのアルバムが出たあと、エレック社内の動きとか、随分情報をもらった。だから牧村さんとはCM仕事上の関係でスタートしているんだけど、その後、個人的に親しくなってね。牧村さんは日本のフォークとロックのお皿(レコード)を、とにかくたくさん持っていたんだよ。「ごまのはえ」のシングルとかもらったものね。
ちょうど同じ時期、当時のCBSソニーに堤光生さんという人が居たの。堤さんは当時の洋楽制作のエグゼクティブで、元々はポニーキャニオンの渡邉有三さん、ユニバーサルの石坂敬一さんらと慶應大学で一緒で、ランチャーズのメンバーだったの。で、堤さんはCBSソニーの創設メンバーとして入って、洋楽を担当、当時の洋楽の世界ではかなり有名な人だったんだ。BST(ブラッド・スウェット&ティアーズ)、サンタナ、シカゴなんかのロックものをやって、その後はエピックに行って、ミッシェル・ポルナレフノーランズなんかをヒットさせた。堤さんは自分もバンドをやっていた人だから、どうしても邦楽、それもロックをやりたくて、いろんなところを片っ端から回っていたんだ。
で、伊藤銀次に声を掛けて来たんだよね。その時たまたま僕も事務所に居て、話をしているうちに、僕がシュガーベイブだってことで、僕にも名刺をくれて。その後何回か会ったんだよね。
堤さんはすごくいい人で、ランチャーズを僕も実際に観たことがあるし、そんな話をしてね。その後、堤さんはついにソニーで新しい邦楽セクションを作って、そこから一番最初に出たのがセンチメンタル・シティ・ロマンスなの(75年8月デビューアルバム発売/CBSソニー)。
センチには牧村さんも非常に深く関わっていた。センチをみていた(福岡)風太と古い関係があったから。センチのマネージャーの竹ちゃん(竹内正美)とか、風太とか、牧村さんとか。それから沓沢(くつざわ)玄ちゃんとかっていう、いつも話に出てくるような人たちがセンチに関わっていたの。
で、僕もシアターグリーンの時代からセンチとは知り合いだったんで、そこでナイアガラとは違うグループになっていたのね。だからそういう付き合いで、センチのデビュー・ライブにゲストで呼ばれるというのがあったわけ(75年8月21日/日仏会館)。
あの時代のソニーのね、堤さんの制作スタッフ、センチの宣伝チームとかも、みんな良い人たちだったのね。でも、そのチームはセンチを出して、四人囃子を出して、その後、頓挫するんだ。本当は三つめがシュガー・ベイブになるはずだったんだけど。
前にも話したけど、当時のソニーって洋楽と邦楽のヘゲモニー(覇権)争いがものすごく有って、洋楽が邦楽に手を出したんで、色々な軋轢があってね。結局、そのプロジェクトが頓挫して、堤さんは洋楽に戻るんだけど、ほとんどのスタッフは辞めちゃうの。
あの頃のスタッフに金弘くんという人が居て、この人とは本当にウマがあってね。彼はその後ワーナーに来て、今はCDジャケット関係の会社をやってるけど、今でもいい飲み友達だよ。もう30年以上になるな。そういうむしろ人間的な関係が深かったの。
そんな感じで牧村さんがシュガー・ベイブソニーに持っていくという話は、いく寸前でセクション自体が無くなっちゃった。その時期はシュガー解散が先だったか、セクションがダメになったのが先だったか。どっちが先だったかな。前後していたんだ。
でも、それは僕が勝手に進めていた話で、ター坊も村松くんも全く関係なかった。
ただ、僕は、セカンドアルバムを作るならソニーというか、堤さんのところでやりたいなと思ってた。で、シュガーが解散してソロになったんだけど、そのまま牧村さんがマネージャーをやるということになったの。この前も話したように、ここで人間関係を一旦リセットしようとした。変えたかったんでね。
で、牧村さんが居て、テイクワンに生田(朗)っていうのが居て、生田はのちに(吉田)美奈子の旦那さんになるんだけど、彼も来て、生田はその後、坂本(龍一)の現場をやるようになって。そういう縦糸、横糸が色々あってね。それが76年の前半の話。
      
<これは海外レコーディングしかないなと思ったの>
ソロをソニーで出すという話にはならなかった。その時にはおそらくもうプロジェクト自体が無くなっていたと思う。で、牧村さんが各社打診していて、いろんな話はあったんだよ。東芝とか。誰と会ったのかは覚えていないけど。
牧村さんにはソロをやるにあたって、ニューヨークでレコーディングさせて欲しいって注文を出した。それで全部ダメになったの、経費がかかり過ぎるって。海外レコーディングなんて、そんな一般的な時代じゃなかったからね。鈴木茂が「バンドワゴン(75年3月発売)」を作ったときは一人で行って、お金をあまり掛けないようにってやったしね。まだ1ドル300円の時代でしょ。
NYレコーディングの条件を付けたのは、まだ若かったから突っ張っていたというか、海外レコーディングがどういうものか知らないのにさ、それより自分のこと、自分のスタンスにこだわっていたんだね。
今までも言ってきたけど、シュガー・ベイブが無くなって、いったい僕はどうするのかなと思ってさ。でも、どうするのかなっていうのは、経済的なことじゃないんだよね、精神的な意味。
20歳でバンドを作って、23歳になって。3年くらいやったけど、一体何の為にやってるのかよく分からなくなってきて、特に音楽的にね。だって評論家のウケは悪いし、言われている事の理不尽さに、自分がやっていることが正しいのか、正しくないのか分からなくなって。
レコードが何枚売れているのかも分からない状態でしょ。下北沢ロフトとかでいくら客が入ったって、なんかあんまり実感がないというか、そんなものが何の確認にもならない。逆にそういうお山の大将になる余裕もないっていうか。それでバンドをやっても結局統率力というか、そういうことを考える。結局人と共有できるガラじゃないと思うようになって。だんだんそういう人間はこういう商売には向かないなと思ったりして。
だから、ソロになりたいとかそんなのは全然なくて。ただ自分が音楽家としてやっていくのであれば、どういう音楽をやっていくべきか。そういうのが全然見えなかった。何をやっていいのか分からない。
だからオリジナル曲を作る意欲が湧かない。曲が書けなかった時っていうのは何度かあるんだけど、この76年の中期っていうのは、本当にだめだったの。それを打開するには、と考えたけど「もう一回バンドを作って」なんてことは全く考えなかった。
牧村さんは僕のソロアルバムを作りたかったの。でも、ソロを作るんだったら、一回、自分を俯瞰してみないと、わからなかった。自分がどれくらいの力量を持っていて、本当の意味での音楽的ポテンシャルがあるか。どういう傾向の音楽をやるべきか、とか。そういうことが自分では全然見えなくてね。
でも、一つだけ言えることは、自分が好きだった60年代中期のアメリカンポップスをやるといつも叩かれたけど、もしあれで成立していたら、僕はその後もいわゆるオールドタイプのアメリカンポップスをやっていただろうね。
ビートルズオリエンテッドのもう少しアメリカ・テイストという。でもなぜかビートルズオリエンテッドだと、そんなにあれやこれや言われないのに、どうしてあの時代にアメリカン・オリエンテッドなものをやると、あれほど言われたんだろう。今でもよくわからないんだ。
アメリカンポップスとビートルズは別物という誤解、それもあるかも知れない。確かにロックの時代とか、「ニューミュージック・マガジン」じゃないけどロック幻想の真っ只中にいたから、それこそジェリー・ロスみたいな、そういう世界をやると、いろいろ言われたんだろうけど、どうしてあれほど蛇蝎(だかつ)の如く否定されなければいけないのか、わからないんだ。でもわからないって言う事は、要するに僕が外れてるんだよね。
今にして思うとね、日本のロック・カルチャーっていうのはインテリジェンスがないんだ。それこそジャック・ケルアックとか、アレン・ギンズバーグとか、そういうアメリカの屈折が伝わって来なくて、「ローリングストーン」みたいな、ある種偏ったロック思想を日本のインテリが規定のものとして、こねくり回すと言ったらアレだけど、そういう悲喜劇があったんだね。
だけど、それも面白いもので、ずっと30年ぐらい言い続けていると、それが誇張されているって言い出す奴が出てくるの。シュガー・ベイブはそんなに悲惨な存在じゃなかったって。悲惨だったんだよ、自分が悲惨だと思っていたんだから。なんでこんなふうにに扱われなくちゃいけないんだ、って。それが本当に22歳の時の偽らざる気持ちだったんだ。
だから、はっきり言えるのは、80年の「ライド・オン・タイム」までの4、5年の客層の、それはあくまでもほんの一部分なんだけれども、でも、そのそのある一部分の客っていうのが人生の中で一番嫌いな客でね。
「ライド・オン・タイム」で何が良かったって、そういう連中と縁が切れたんだ。それを通り過ぎて残ってくれた人たちは、まだファンクラブに居てくれている。
だから僕が大阪が好きだって言うのは、大阪は全くそれまでとは違う、ブランニューな価値観で山下達郎を見てくれた。で、そっちの方が全然、僕のメンタリティに近いっていうかさ。だからシュガーベイブから綿々と続いたあの「日本のロック」の価値観は何だったんだろうね。
でも23歳の時から、その時代、バンドをやめた何ヶ月間というのは、そう言うことを非常に深刻に考えたんだよね。やっぱり作家になろうとか、CMで行こうかとか思ったのも、全部それで。何をしようかという道が全然見えなかった。
ちょうどアイズリー・ブラザーズとかに凝り出した頃なんだけど、アメリカンポップスのそういうものは日本ではダメかな、って言う思いもあったし。
WINDY LADYを作ったのは、そういうファクターがあったからなんだ。でも、そうすると一時はすごく忌み嫌った16ビートみたいなものでやらなきゃいけないのかな、って思い始めた。僕はブラック・ミュージックが好きだけど、そんなのでできっこないしなと思ってさ。当時の関西ブルースのバンドを見ていたって、楽器はうまいけど歌が違うなと思ったし。だから、どうすればいいのかなって悩んだんだよね。僕はB.J.トーマスみたいな歌だったら、何とか人並みにやれるけど、アイズリーなんか全然できないし、どうすればいいのかなと思って。で、ぱっと思いついたのが自分のイリュージョンというか、そういうものが現代的にどこまで通用するのか、どこかで俯瞰してみりゃいいんだなと思って。これは海外レコーディングしかないなと思ったの。
それで条件として考えたのが、60年代、70年代を並列的に捉えるプロデューサー、もしくはアレンジャーだったの。いろいろ考えて出てきたのが、チャーリー・カレロ、トレード・マーティン、アル・ゴルゴーニ。そういう何人かのアレンジャー、もしくはプロデューサー。その中でやっぱりチャーリー・カレロがベストかなと思ったんだ。ローラ・ニーロを60年代からやっていて、もちろんフォー・シーズンから、ちょうどその頃フランキー・ヴァリのMy Eyes Adored Youとかヒットして、あとエリック・カルメンとか、ケニー・ノーランとかいろんなものを手掛けていて、この人が一番かなと思って、まずその名前を出したの。牧村さんにそう言ってそれで各社に話したんだけど、ことごとくダメで。「誰ですか、それ」っていうのもあるし。そしたら一人やりたいって人がいるって。それが小杉(理宇造)さんだったの。小杉さんはチャーリー・カレロなんか全然名前は知らないけど「ニューヨークの人でしょ」って。らしいよね。それであの人、チャーリーに直接交渉に行って、取ってきたんだよね、それが6月位だったかな。もうそれは完全に縁だね。
      
<レコーディングが決まったら曲が書けるようになった>
チャーリーのOKが出てアルバム制作準備にかかった。小杉さんは「やっぱりギャラがもの凄く高かった。だからこれも破格なんだけど、レコード会社は2,000万くらいの予算を出してくれるって言ったんだけど、そのうちの1,500万くらいはニューヨークで消えちゃう。それでようやく5曲録れるくらいのギャランティーになる。そうするとアルバム1枚は無理だ。ついては自分はニューヨークには住んでいただけで、音楽関係のコネクションはない。ロサンゼルスだったら、日音にいた時に南沙織とか色々とレコーディングやってるから、その時のスタッフでジミー・サイターというパーカッショニストが居る。フライング・バリット・ブラザースにいた人で、彼はコーディネートが得意だ。で、彼の弟がジョン・サイターってドラマーだ」って言うの。
ジョン・サイターの兄貴か。ジョン・サイターはタートルズだったし、スパンキー・アンド・アワー・ギャングだった。そういうメンツではどうだろうか、って。いや、それだったら良いって言ったの。それもだから縁というかね。そこから曲が書けるようになったの。ロス用とニューヨーク用に。
ニューヨークはチャーリー・カレロでしょ。一番最初に作ったのがCIRCUS TOWN。で、WINDY LADYはシュガー・ベイブのセカンド用に書いてたんだけど、これはもうニューヨークに持っていくのはバッチリだって。WINDY LADYとか何曲かデモを録って、チャーリー・カレロに送ったの。
あの時に書き下ろしたのは「CIRCUS TOWN」「MINNIE」「言えなかった言葉を」の3曲で、「永遠に」は美奈子の「フラッパー」に入っている曲で、チャーリー・カレロだったらあれをやろうと思っていた。本当はNYでは5曲録ったんだけど、結局カッティングの問題で4曲しか入れられなかった。でも、レコーディングの初日に3曲録っちゃったからね。すごいなと思って。
B面はロス用に。「夏の陽」「迷い込んだ街と」。ウェストコーストのメンツを考えたらLAST STEPもいいかなと思って。ジョン・ホッブスがピアノだって言うから、バリーマンのサードアルバムみたいな感じかなと思って。CITY WAYって言うのは向こうで書いたの。もう1曲あったんだけどやってみたら全然ダメだった。それで現地でCITY WAYを書いて、やり直したの。そんな感じかな。
曲が書けるようになったのはイメージができたからだね。人に書く曲はできるんだけどね。
宅録でアルバムづくりという発想は無かったよ。第一、当時は機材自体がないもの。ピアノの弾き語りがほとんどだった。リズムマシンはあったけど何十万円もして、すごく高かった。リズム発生機みたいなすごくチープなものはあったけど。だってあの当時16チャンネルのレコーダーが800万円とかでしょ。サラリーマンの初任給が7〜8万円の時代で。
   
<初めてのニューヨーク、すごい所だなあと思った>
チャーリーに送ったデモテープは坂本、寺尾、ユカリに頼んで、4人で作って送ったんだけど「このピアノを弾いてるのは誰だ、ピアニストを連れて来い」と言ってきた。チャーリー・カレロはちょっと変わった人でさ、その頃は37、8歳で、一番とんがってるときだったから。怖いし、牛乳瓶の底みたいなメガネをして。
最初はメディア・サウンド・スタジオに行ったの、誰かのレコーディングをしている時に会いに行った。そしたら僕を小杉さんと間違えているの、小杉さんには2回も会ってるのにさ。変な人だね。76年でしょ。僕は23歳だし、こっちは貧乏人の子せがれだから、アメリカなんて行ったことないし。初の海外だからね。
あの時は怖かった。NY自体の空気がピリピリだったから。行ったその日にホテルの予約が通ってないの。47丁目くらいの三流ホテルだったけど。小杉さんがゴネたんだけどダメで、1日だけタイムズスクエアのど真ん中の4流ホテルに泊まらされて、すごいところだった。廊下に裸電球が下がっていて、ドアキーもスペアのスペアのスペアくらいで、開かないの。で、部屋に入ると、テレビのアンテナは針金だし、ベッドは湿ってる。こんなところに居たくないから、飯食いに行こうと表に出たら、街のさなかで撃ち合いやってるしさ。なんてところに来ちゃったんだろうと思ってさ。すごいところだなあと思った。ビビるなんてもんじゃない。英語が分からなかったでしょ、日常会話ですら分からなかったからね。
チャーリー・カレロは今でも変な人だと思うよ。10年前(1997年)に会ったんだけど、もっと変になっていた。STAND IN THE LIGHTかなんかの弦をやってもらったんだけど、結局ボツったんだ。どうしてボツったのかというと、あまりに難解な弦なの。すごいんだ。
その後、人に聞いたら「なんでお前、彼に頼んだんだ。知らないって言うのは恐ろしいな」って言われた。で、何週間かしたらベルディとプッチーニにのスコアを送ってきて「これ読んで勉強しろ」って。最高でしょ。
でも76年の時は緊張感がすごかったよ。もうセッションをやってる時のミュージシャンの罵倒の仕方っていうかさ。
ミュージシャンのセレクトは僕がした。それが条件だったから。ドラムがアラン・シュワルツバーグで、ベースがウィル・リー、キーボードがパット・リビロット、ギターがジョン・トロペイかジェフ・ミロノフかヒュー・マクラッケンかっていう感じだった。キーボードは3人、ギターは4人くらい挙げたけど、ドラムはアラン・シュワルツバーグじゃなきゃ嫌だって。それは、チャーリーから「何でだ」って何回も言われたけどね。
でも僕の後で、フランキー・ヴァリのレコーディングを同じメンバーでやっているから、チャーリー・カレロはけっこう気に入ったんだろうね。
で、何でこのメンバーを選んだか聞いてきたから「アラン・シュワルツバーグは南部でもやっているし、バリー・マンとかもやっている。白人的なものと黒人的なもの、両方できる人が欲しかった。それだったら、どんな曲を書いても安心して出来るから」って、そしたら「もっと上手いプレイヤーは沢山いるんだから、俺に全部任せたら、この5倍くらいのポテンシャルの演奏になった」って言うの。
じゃあ誰だって聞いたら、スティーヴ・ガッドとゴードン・エドワーズだって。それじゃスタッフじゃないか、そんなのって。だけどウィル・リーはとにかくダメだって。譜面が読めないから。やっぱりワンランク落ちるんだって。
CIRCUS TOWNの最後でドラムとベースが残るところがあるでしょ。トロペイとミロノフと、みんなで「フフン」ってバカにするんだ。
確かに読譜力は大事だよ。でもウィル・リーは耳だけであれだけできれば、大したもんだと思うけどね。だけどアメリカでは楽器ができないアレンジャーも多いんだよ。チャーリー・カレロも楽器はほとんど出来ないからね。アメリカには楽器ができなくとも作曲、編曲できるノウハウがある。
アカデミックなプロの作曲家は、基本的にはピアノなんて使わないからね。そういじゃないとダメなんだよ、本当は。でも、チャーリー・カレロが楽器を使わずにアレンジをしているのには驚いたけどね。
で、レコーディングが始まるとミュージシャンをいじめまくってね。メディア・サウンドは教会を改装したスタジオで、一階が教会なの。そこはストリングスとブラスを録るアンビエンスのあるスタジオなんだけど、地下にリズム隊を録るスタジオと、ミックスダウンルームがある。
そこに初日にファイブ・リズムが来た時に、チャーリー・カレロに「ちょっと来い」って言われて、プレイヤーの前に連れて行かれて「彼は4000マイル彼方から君らの音を欲しくてやって来たんだ。だから真面目にやれ」って。変な人だよね。だけど、とにかく社交辞令の嵐なんだよ、全員。ちょっとやると「ファンタスティック!」、最高の賛辞は「インクレディブル!」。それで一曲終わるたびに「タツ、グッジョブ!」って。なんだがよく分からない。
今度はブラスとコーラス隊のレコーディングになると休憩しながら、あのプロジェクトには何万ドル出たとか、金の話ばかりなの。詳しいことまでは分からないんだけど、金の話をしていることは分かる。
ところが演奏が始まると、チャーリー・カレロは「キープが甘い」とか。極め付けだったのはWINDY LADYでソロを吹いているジョージ・ヤングに、吹き始めて30秒くらいして突然テープを止めて、卓を叩いて「ジョージ!ドント・プレイ・ジャズ!プレイ・ロックンロール!」って。そんなに威張んなくてもいいじゃないか、って。それが、生まれて初めて見たアメリカのセッション。もっとも、いまだにあれ以上のすごいセッションは見たこともない。ロスに行ったらもう穏やかでね。
   
<プレイヤーの演奏が本当にすごくて、音楽的にカルチャーショックだった>
ロスとNYは雰囲気が違ったけど、NYは得てしてそうだね。僕はNYで5人くらいのアレンジャーとやったことがあるけど、だいたいミュージシャンに対して挑発的なことを言うのが好きだね。
クールスの時にジェフ・レイトンというジャニス・イアンの「17歳の頃」をやった人にブラスを頼んだんだけど、けっこうハイノートのキツいところまで書いて来たんだよね。トランペットはランディー・ブレッカーとジョン・ファディスだったけど。かなりスケジュールを無理して突っ込んだセッションで、彼らはその日、もう何セッションもやって疲れて来てるから、ヘラヘラやってたら最後のハイノートのところで「そんな音も出ないの?」って、アレンジャーが言うんだ。二人の顔色がパッと変わって「アゲイン!」 で、一発パーっと吹いて「どう?」ってブースを見る。
「やれば出来るじゃない」って。凄いよね。そう言うのはNYの色だね。ロスはそう言うことはないから。
だからフィル・スペクターのミュージシャンを追い込んでいくやり方なんかも、やっぱりリーバー=ストーラあたりで学んだんだろうね。リーバー=ストーラがNYでバリバリやっていた時代にね。
チャーリー・カレロが「リズムが甘い」って言うけど、いいや、どこが悪いんだろうって感じ。あの頃はドンカマなんかないじゃない。WINDY LADYはドンカマなんか全く使ってないけど、CIRCUS TOWNはやっぱり結構タイトな16ビートだから、チャーリー・カレロがドンカマ使うって言い出して。それも半端な音のクリックじゃなくて、カン!カン!って凄いキツいテンションを出して、これで行け!ってそれでも彼らはやっちゃうから凄いなって。
当時のアラン・シュワルツバーグは全盛期だから本当に上手かったよ。そのちょっと後で、マウンテンでフェリックス・パパラルディと一緒に来日してるけどね。
でも、スタジオではアラン・シュワルツバーグが一番優しかったんだよ。本当にメロウでね。「タツ、リラックス」って。こっちがガチガチだったから。
エンジニアのジョー・ヨルゲンセンフュージョン系の仕事が多い人で、この人も優しくて、その二人が助けてくれた。後はもう人種差別主義者ばっかりだったから。
ミュージシャンは白人で、トロペイはヒスパニック入ってるけどね。だって、ブレッカーなんて口もきいてくれない。MINNIEの時はワンテイクで、一発吹いて、それだけで帰って行った。あの当時は誰もが若かったしね。その後、日本人のアメリカ・レコーディングが増えたしね。
だけど本当に上手かった。あとチャーリー・カレロのストリングス。教会の中、つまりスタジオの中に入れられて「ここで聴け」って。「本当のストリングスはここで聴かなきゃ分からない。スピーカーから流れてくる音はストリングスじゃない」って。
事実、これが実にいい音してるんだ。特にビオラ。これじゃ日本の弦は敵わないなと思うよ。ビオラってキモなんだよ。
CIRCUS TOWNのイントロってチェロとビオラで始まるんだけど、その三連がこの鳴りで出るのか、って。本当に音楽的にはカルチャーショックだったね。これはすごいっていう。
トランペットのトップがブレッカーで、セカンドがジョン・ファディスでしょ。で、トロンボーンがデヴィッド・テイラーとウェイン・アンドレ、この二人も凄いんだ。テナーがジョージ・マージ、バリトン・サックスがロミオ・ペンク。これもジェリー・マリガンの弟子だった人だから、MINNIEのブラスのソリ(一部のパート達だけの合奏パート)があるんだけど、これもスタジオの中で聴いたんだ。
本当に凄かったよ。
【第18回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 外伝6 寺尾次郎インタビュー

シャルル・アズナブールの「イザベル」にすごく反応したんです>
生まれは東京、大田区の洗足池というか、まああの辺ですね。その辺りで5分くらいの所に引っ越したのが一回あったんですが、だから22歳までかな。22までは地元で居ました。
その後は引っ越し好きなので、10回以上しましたね。上大崎から始まって、東中野、中野、あとずっと中央線なんですよ。高円寺も居たし。
兄弟は4つ上に兄貴。こまっしゃくれた子供だったと思いますよ、教師のウケは良い。お袋がPTAの会長とか副会長をやっていたんです。教師というのはそういう人の子供を割と可愛がったりするでしょ。今じゃあり得ないエコひいきですよね。
お袋の親父がやっていた工場があるんですけど、親父が養子として入ってきてそこを継いで、そこも10年以上前にたたんじゃいました。NECの下請け工場だったらしいです。テレビの部品を作ったりしていたと聞いてます。その仕事を継げ、というのは全然無かった。お袋も「お父さんの代までで良いから」って言ってました。
子供の頃はなりたいと思ったのは、電車の運転手ですかね。今でも僕は電車がすごく好きなので。免許も持ってないですから、どこへでも電車で。あと飛行機が嫌いなんで、だいたい電車なんですよね。
音楽環境は家に78回転のSPがあったんです。僕が幼稚園の頃なんですけども。SPで「お百姓さんありがとう」とか「汽車汽車ポッポ」とか童謡は聴いてましたね。ステレオもわりと早くからあったんですけど、小学生の頃はソノシートってありましたよね、あれで「鉄人28号」や「鉄腕アトム」の歌を聴いたりとか、その程度ですね。
で、うちの4つ上の兄はクラッシックが好きだったんです。僕はクラッシックはあまり好きではなかったんですけど、兄貴がシャンソンを聴き始めた。僕が小学校3、4年の時かな。聴いていたのがシャルル・アズナブールで、僕はそれは面白いなって。「これ何?」って聞いたら「シャンソンだよ」と。曲は「イザベル」が好きだった。シャルル・アズナブールの「イザベル」にすごく反応したんです。
あとは兄貴がペトゥラ・クラークが好きだったんで「恋のダウンタウン」とかを僕も聴いていました。それからモンキーズに行って、世代的にはビートルズにはちょっと遅れてました。
僕は1955年生まれで、モンキーズが出て来たのが小5の時。あの頃は500円で33回転4曲入りのレコードがありましたよね。その中にビートルズの「ミッシェル」「ガール」とか4曲入ったのがあって。「ミッシェル」はいい曲だな、ってビートルズを見直したんです。
あと、その少し後にURC系の「フォークリポート」と言う雑誌が創刊されまして、僕はいろんなところに行くんですけど。割と関西フォークコンサートがなんとなく好きだったんです。12チャンネルでやっていた「ヤングタウン東京」ですね。桂三枝が司会してた。それで「フォークリポート」のことや、URCというのが出来たらしいって知ったんです。それで通信販売のアングラレコードクラブ(URC)に入ってました。僕は自分でコンサートに行くようなタイプではなかったので、レコードで聞いてたんです。僕は昔から反骨精神はあったので(高田渡の)「自衛隊に入ろう」の歌詞でぶっ飛びましたね。岡林さんの「くそくらえ節」とか「ヘライデ」とか、あの辺の歌詞がめちゃくちゃ面白かったですね。それで生ギターを弾いたりはしましたけどw でもフォークシンガーになりたいというのも無かったですね。ただ自分一人で歌ってました、何となく。
曲づくりの才能が無いってのは自分では分かっていたんで、一切それは無かったですね。あの頃だと(うたぼん系では)「ガッツ」っていうのを毎月買ってました。創刊号の日野皓正さんの写真がめちゃくちゃカッコ良かったのを覚えています。
    
<僕はキーボードだったんですよ。ピアノをやっていたので>
洋楽だとラジオを聴いてたので、やっぱりジェファーソン・エアープレインですね。一番初めは「サムバディ・トゥ・ラブ」とか「ホワイト・ラビット」とか聴いて。で、そこからシスコサウンドに行って、グレイトフル・デッドを知った。
僕はグレイトフル・デッドが今でも一番好きなんです。シュガー・ベイブと全然結びつかないんですけどね。デットとかあの頃はクイックシルバーメッセンジャー・サービスとか。僕はニッキーホプキンスが入った時代が好きだった。
それでシスコだけじゃなくて、他ももうちょっと見ようとしたら、マザーズっていう変なのがいて、ぶっ飛んだ。
当時フランク・ザッパマザーズのレコードはもう日本でも手にできたかもしれないけど、僕は知らなかった。最初にマザーズを聴いたのはワーナーから出た「いたち野郎」だと思うんです。あれが70年くらいじゃないですか? ジャケットのネオンパークのアートワークがすごかった。それで、シスコサウンドが中心だったけどマザーズもちょこちょこ聴いてました。
それで中学2年くらいになると、音楽をやっているやつと知り合うんです。そいつがギターをやっていて、いつも私服はジミー・ペイジみたいな格好をしていた。そいつの家がデカかったので、そこで音を出していた。
僕はその頃キーボードだったんですよ。ピアノをずっとやっていたものですから。3歳から10年間くらいクラッシックを。親に無理矢理やらされた。だからはじめキーボードでやって、その頃にちょうどディープ・パープルの「ブラック・ナイト」をやろうってことで、オルガンがフィーチャーされているものをやったりとか、フードブレインと言う柳田ヒロさんが居たバンドのアルバムの中の曲をやったりとか。
だから、まだはっぴいえんどとかには到達しないんですけどね。何となくそう言うのをやっていた。
で、高校になると他の中学から来た奴も居たりして、ガロが好きな奴にガロやろうよ、って言われたんです。まあ曲は好きだったけど、僕は歌が全然ダメだったんです。でも、そいつは割と歌えたんで、後2人入れて4人編成でそう言うのをやったりとか。
そのガロ好きだった奴が、ある時マーク・ボランに目覚めまして「テレグラム・サム」とかをやったり。やっぱり流行に流されるw
エスが出て来たりとか、キーボードが活躍する曲が増えて、一時期、僕はプログレに走ったんです。演奏はできませんから聴く方で。だからピンク・フロイド芦ノ湖にも行きましたし。
その頃、新たに知り合った奴のいとこがドラムがすごくうまいって聞いてたんで、一緒にやってみたんです。そしたらまた別の奴がギターを連れてきた。その4人がバックバンド志向だったんですよね。
僕はキャラメル・ママ南沙織のバックとか、スリー・ディグリーズのレコーディングをやってるという情報を仕入れて、やっぱり上手いね、この人たち、こういうバックバンドやれたらいいね、っていう話をしてたんです。
僕はイベント仕掛けたりするのが割と好きだったので、72年頃、僕が仕掛けて、漣(さざなみ)コンサートというイベントを目黒公会堂でやったんです。
友達の高校のバンドとかに声をかけて。「ニューミュージック・マガジン」の平田国二郎さんが取材に来てくれたんです。一時期、彼がジム・ジャームッシュのプロデュースをやっていたので、平田さんとは、その後も映画関係も含めて付き合うことになるんですけど。
その時バットシーンってCharがいたバンドのドラムをやってる奴が、同じ高校だったんで出てもらったり。僕らは僕らで誰が歌ったのか忘れましたけれども、バックバンドみたいな形でやったり。
だから音楽はなんとなくやってたんだけど、練習場所もそんなにはないですし、歌う人間が基本的にはいないわけですから。ただ趣味でやっているようなもので。
それで、74年に(慶應)大学に入ってからは、自由が丘のレコード屋でバイトをしながら、夜のカフェでベースを始めたんですよ。五反田と鶴見と池袋と川崎って最悪のとこばっかりなんですけれども。
最初は友達がやってたんですよ。その事務所に置かせてもらって、そしたらトランペットとドラムと僕とあとギターかな。
で、トランペットが「俺は進駐軍をずっと回っていたんだ」って言う、50半ばくらいのおじちゃん、いろんな面白い話を聞かせてもらいました。曲については譜面はコードが書いてあるだけですから「タブー」とか「軍艦マーチ」とかね。「ウラシマ」とか「ハワイ」って、いわゆる二流半のキャバレーですw
ベースを弾くことになったのは中学3年か、高1の時、ベースをやってるのが嫌な奴だったんで、みんなで追い出したんです。で、ベースがいないんで僕がやることになった。その頃は特に気に入ってるベーシストはいないんですけど、後で考えると、あの当時のチャック・レイニーがすごく好きでした。いろんな人から教えてもらって曲を聴いて。チャック・レイニーとスタッフのゴードン・エドワーズとかすごい好きだし。ゴードン・エドワーズとユカリのドラムなんかを絶対合うだろうなあと思いながら聴いていた。ドラムもSteve Gaddが好きだし。あとはやっぱり細野さんのベースですね。なんでこんなフレーズが弾けるんだろうって、ぶっ飛びましたもん。何なんでしょうね、やっぱりギターをやっていた人の方が、面白いフレーズを弾きますよね。
ピアノはソナタの手前までで。で、中学受験しろって言われたときに僕は嫌だったんですけど、いろいろ考えて「ピアノを止めさせてくれるんだったら受験する」って。じゃあ、やめていい、って。
     
<ユカリが「お前、シュガー・ベイブに来いへんか?」って>
その頃いろいろやりながら、音楽どうしようかなと思ってたんです。レコード屋のバイトも面白かったし。ちょうどユーミンの「ミスリム」が出た頃で。レコード屋だから勝手にかけられじゃないですか。で、「ミスリム」聴いてぶっ飛んで。見たらメンツがキャラメル・ママあーすごいなと思って。
その時に変なめぐりあいで、レコード屋のすぐ近くに、赤い鳥の山本夫妻がお住みになっていて、よくお客さんとしていらしてたんですよ。レコード店の店長と夫妻はすごく仲が良くて。
僕は赤い鳥なんて興味ないなぁって思いながらw「いらっしゃいませー」って。そしたらある時、山本さんが「寺尾くんバンドやってるんだって? 今度僕らがこういうレコード出すんだ」ってテープをくれたんですよ。見たらバックがティン・パン・アレーじゃないですか。これは仲良くしないとってw
それからなんだかんだ山本さんと割と話すようになって。そしたら「一度君たちのバンドを聴かせてくれないか」って言われたんです。もちろん、いいですよって、それでバンドの連中に声かけて。誰がボーカルがいないかって言ったら、ギターのやつが引っ張ってきたのが佐野(元春)さんだったんです。
彼のノートにはたくさん曲が書いてあって。面白いコード進行の曲書く人だなぁと思いながら、それで2回練習したのかな。
山本さんが、渋谷のヤマハのスタジオとってあるからって。そこで僕ら待っていたら、山本夫妻が来て、それからしばらくしたら松任谷正隆ユーミンが来たんですよ。僕は松任谷さんには驚かなかったんです。と言うのは、弟の松任谷愛介とは同級生なんですよね。愛介が上手いってのは知ってたんで、兄貴の方もそれはそうだろうなって。でもユーミンも来たんで、これは本格的なオーディションだろうと。
演奏は1時間くらいやったんですよね。終わって「後で寺尾くんのところに電話するから」って山本さんがおっしゃって、夜、電話がかかって来たんですよね。「君とドラムの人だけ来られるか?」って。「行きます!」って即答でw。
それでハイファイセットのバックをやることになった。あとの二人には裏切り者って言われましたけどね、当然のごとく。
で、ハイファイでやることになって1ヶ月半くらい合宿したんです。その時、初めてバックで来たのがユカリ。僕といつもやってるドラマーとダブルドラムでやるっていうんで。
そして(伊藤)銀次なんですよね。あとは松任谷さんが来て、ユーミンが時々遊びに来るみたいな形で。そこで初めて僕はユカリと銀次と会ったわけです。
ユカリは最初から人間的にすごく好きだった。関西人だしw 色々調べてみると「村八分」に居たとかw 怒らせたら怖いんじゃないかとかw 
リハーサルの1ヶ月半、ほとんど住み込み状態で。まあ2、3回帰ったかもしれないけど。
確か75年の2月かな、日比谷公会堂でデビューコンサートをやったんです。客がもうめちゃくちゃ少なくて50人くらいしか居ないんですよね。それでもギャラとして8,000円くらい貰えて、音楽をやってお金もらえるのは良いなって思ったんです。
それでバック・バンドになったんですけど、ハイファイはライブハウスに出るような感じじゃないんで、東京と京都でライブをやった以外はFMとかAMとかそれくらいだったと思います。その間ドラムとベースなんで、僕はユカリとどんどん仲良くなって、彼が家に泊まりに来たりするようになったんです。
そしたら3月の半ばぐらいにユカリが泊まりに来た時に「おまえ、シュガー・ベイブに来いへんか? わし、誘われてるねん」って。ベースはユカリが好きなヤツ連れて来いって言われてるから、できれば来てくれたら嬉しい、って言うんで、それも即答で「行く!」ってw
シュガー・ベイブは好きだったんですよ。ヤマハの店頭ライブ(74年12月11日)を僕は観に行ってるんですよ。それで僕もユカリもある程度大人になっていたんで、これは山本さんに土下座するしかないだろうって。次の日に連絡を取って「ちょっとお話があるので寺尾と伺います」って行って。ユカリが年上なんで話して、二人で土下座して「お願いします、許してください」って。初めはワーッってなったけど「俺ははらわた煮えくり返っとる。でも、お前らが本当に行きたいんだったら止めてもしょうがない」「ありがとうございます!」って。だから僕は裏切り人生なんですよw 音楽に対して。
   
<やっていて気持ちいいんですよ、ユカリの太鼓は>
山下と初めて会ったのはユカリにテイクワンに連れて行ってもらったんじゃないかな。笹塚に行ったんでしょうね。とにかく初めて会った時に「曲、全部覚えておいて」って言われて「はい、もちろん」ってw 態度はでかいとは思ったけど、でも基本的に恥ずかしがり屋だから余計その分ツッパっているんだろうなと思うんです。
僕はシュガーを見てたんで、山下の声の才能とか、歌の才能やなんかを良く分かっていたし、まあユカリと一緒だったらやっていけるだろうと思って。それで3月下旬か4月の頭に、確か御苑スタジオに集まって練習したんです。ある程度コピーしていたんで、それをやって。そしたらコーラスの練習しようかって。「俺はこんな声だからダメなんだ。皆さんと違うから」「いいから出してみろ」「アー」って言ったら「ああ、ダメだ」ってw 唯一歌えないメンバーになったんです。
ベースについては、やっぱり初めは基本的にはコピーしたんです。やっぱりそのベースが良いと思って作っている訳ですし。福生でオーディション的なこと? ありましたっけねえ。そこでダメだったら困るなw 「来い」って言われてハイファイ辞めてるのにw 
銀次については、ベルウッドのごまのはえのシングル聴いて、面白い曲作る人がいるなあって思っていたのと、やっぱり、9.21のはっぴいえんど解散コンサートでのココナツ・バンクもすごい面白かったですから。でも後で、全部大滝さんがベースからフレーズから決めたって聞いて、ああそうなのか、って思ったんですけど。それでも僕は銀次とは話が合ったんですよ。
山下は音楽的知識があまりにもすごくて、僕は追いつけない。だから山下とは音楽的な話をした覚えは、ほとんど無いんです。ビーチ・ボーイズがめちゃめちゃ好きだったわけでもなかったし。
銀次は、まあ、あの人柄ですね、僕が好きだったのは。銀次がシュガーに入った時に、僕は面白くなるんじゃないかと思ったんです。最初はユカリと僕が入って、その後に銀次が加わった。3人まとめて入ったというんじゃなかった。だから山下とすればコーラスを太くしたかったのか、ツインギターでやりたかったのか。
銀次が辞めるって聞いた時、僕はびっくりしました。他のメンバーはもしかしたら知ってたかもしれないけど。山下から「銀次、辞めるよ」ってw「今度のコンサートから銀次抜きだから」って言われたんです。そうか、プロって厳しいなーってw
シュガーの練習はそんなにハードでもないと思いますよ。基本的には山下が作った曲とか、ター坊が作った曲をみんなで形にしていく感じで出来たし、これは謙遜でも何でもなく、僕は自分でベースが上手いとは思ってなかったんです。でも、ユカリだとすごいやりやすかった。ユカリのタイトなタイムキープだとついて行けたんです。だから会話じゃないんですよ、どっちかというと僕が電車の車掌さんみたいにw やっていて気持ちがいいんですよ。ユカリの太鼓は。
僕はドラマーで一番好きなのは林立夫さんとユカリなんです。あの抜けるようなスネアの音が好きなんです、二人とも。基本的に自分は上手くなかったと思ってるし、シュガーは山下のバンドだって言うのは分かっていましたから。だからそれ以外のところで、なにか表現できれば良いなって思ってましたけどね。
   
<スタジオで初めてクマというあだ名の正体が分かったんです>
バンドでは山下しかほとんどしゃべらなかったですね。酒飲んだりするとまた違いますけどね。銀次がいた頃は銀次がよくしゃべってましたよね。ステージは基本的には山下ですけども、昔はご存じのように曲名しか言わなかったんで。次はなんとかです、って言って、またブスっとしたまま演奏する。メンバーみんなブスっとしたまま演奏してw
僕がいた時期はライブはいっぱいやってました。僕はライブだとやりやすかったですね。ユカリがすごい飛ばしますんで。山下もそれは好きだったんです。当時ひ弱に見られるのが一番嫌っていましたから。都会の軟弱なもやしっ子バンドって言うのを嫌がってたので、音はでかかったですね。
収入はその頃は実家にいたので。あと山下がCMの仕事をとってくるんで、それがでかかったですね。僕は初めてクマと言うあだ名の正体がわかったんです。スタジオの中で考える時ウロウロするからw
でもやっぱり凄いですよね。スタジオで山下を見てると「ここでちょっとハモンド入れてみようか」とか、アイデアが次から次へと出てくる。だからその仕事が多かったですね。CMってすごいなぁーって、徹夜でしょ。待ち時間も含めて8時間だったら、ある程度お金になりますから。ギャラに関してはある程度良かったし、初期の頃はター坊なんか、長崎まで車で行ったとか。
印象的なステージは、厚生年金と九頭龍かな。厚生年金ってどっちかって言うと、コンサートを観に来る方だと思っていたから、こんなとこ出ちゃうんだと思って。お客さんも入っていましたしね。あれはびっくりしましたね。
あと九頭竜の時はテイクワンのスタッフの黒川さんの2トン車で、僕一緒に行ったんですよ。僕は黒川さんの職人ぽさがすごく好きだったんで、余計印象深いですね。九頭竜のステージは気持ちよかったですよ。やっぱり野外だし。それまでも野音とかやってましたけども、九頭竜はすごく広々していた気がするんですよね。すごく気持ちが良かった。もうほとんど僕らはハード・ロックバンドだと思ってましたからw   たまたまハードロック・バンドにコーラスがついただけって言う。
メンバー間のコミュニケーションはほとんどバラバラでしたね。ステージが終わると「じゃーねー」って。僕は映画もめちゃくちゃ好きだったんで、地方公演に行くと「じゃあ僕映画見に行ってくる」って映画館行ってましたから。
あとコンサートで印象に残っているのは仙台。NIAGARA MOONのコンサートだったかな。なんでかと言うと、その日は僕の大学の学科分け試験の日だったけれど、まぁいいやと思って、仙台に行った。それでよく覚えてる。僕は仏文科に行きたかったけど、受けられなかったから史学科。歴史も好きなので西洋史をやってたんですけど。
大学は一応出席してましたね、必要な科目だけは。だからベースを布のケースに入れて、肩にかけて授業を受けていた。
そうすると僕がプロになったってことを知っている人もいたんです。シュガー・ベイブは当時知られていないわけですけど、プロになったらしいと。面白かったのは友達がリアル・マッコイズと言うサークルに入っていたんですよ。そこでまりやと会ってるんですよ。可愛い子だなぁと思って。その時セッションして、まりやがやったか忘れましたけど、一回やってくれないかって言われて、いいよって。
    
<僕はそれから一度もベースを弾いてないんです>
解散は山下から、3月で解散しようと言われたのかな。ただその前から山下のソロの話とかは洩れてはきてました。解散が決まった後、僕とユカリと何人かで、1枚目のソロアルバムに入るWINDY LADYとかを向こうのミュージシャンに聴かせるので、悪いけどやってくれって、やった覚えがあります。「そうかウィル・リーとかと仕事するんだ」と思ってw  ウィル・リーも好きだったから。
解散の通達を受けても、別にあまり感じませんでした。あー終わっちゃうんだって。それはしょうがないと思いました。山下のバンドだと思ってましたから。だからクレイジー・キャッツハナ肇が「解散!」って言う事みたいなもんじゃないかと思って。切羽詰まった事はなかった。それはまだ実家にいたからかもしれませんね。そういう意味では僕はメンバーの中で一番もやしっ子だったかもしれないw
大滝さんに「学生アルバイト」ってあだ名をつけられましたから。
解散後はユカリや坂本と一緒に、ター坊の一枚目のLP(Grey Skies/76年9月発売)を作って。ライブでもはじめの頃は坂本も入った形でやってたんですけど、坂本が忙しくなったし、ター坊も固定したバンド作りたいって言うんで。ギターは原くんて言って今何してるか全然知らないけど、ドラムが女性の人だったんじゃないかな。その頃ユカリもセッションとか、バイバイ・セッションバンドとかで忙しくなっちゃったんで、ちょっともう続けていくのは無理かなって、僕は思っていたんです。
それで、当時TBSで日本のロックの演奏を30分聞かせるって言う番組があって、青山ベルコモンズの上のホールで収録してたんですよ。その番組にター坊が出ることになってたんです。坂本とユカリと僕とター坊で。そしたら当日の本番前になって、ター坊のマネージャーが「今日はこれに着替えて」って野球のユニホームみたいなお揃いの服を、みんなに着ろって言うわけです。僕が一番嫌いなのは制服なんですw  それもこんな時に言うから、なんだって。
そこで僕はもうやめようと思ったんです。あまりに直情径行ですが、音楽自体をやめようと。それで今日はやるけど、悪いけど明日何時にどこそこの喫茶店に来いって言ったんです。で、喫茶店に行ったら、なんと坂本もター坊もいたんです。3対1でしょ。で、確かその10日後くらいにター坊のFMか何かの録りがあったんです。
迷惑かけるな、と思いつつも言わなくちゃいけないと思って。「僕は辞める。僕は信頼関係の上でやっていたんだから、申し訳ないけども。魂を抜かれたような気がするから。そういうことじゃ僕は音楽をやっていけない。でも、皆さんに迷惑かける事はわかるから、僕はこれから先、絶対ベースを弾かない」って。
僕はそれから一度もベースを弾いてないんです。ベースも田中章弘さんに売っちゃったんです。
坂本が一生懸命理論的なことを言って説得するんだけども、こっちだって理論はあるんでw  結局諦めて。
僕はそれから新しい音楽ってほとんど聞いていない。76年以降の日本のものは。まぁどこかでは聞いてるのかもしれないけど、意識して聴いたっていうのはないんですよ。林さんのこの前の2枚組を久しぶりに買って、やっぱりいいなぁと思ったけど、山下のも聴いてないし、ター坊も聴いてないしね、あっこちゃんも聴いてないし、ユーミンも「コバルト・アワー」で終わってますね。だからなんて言うかな、あまりに差がありすぎたんですよね。音楽的に。
つまり僕の音楽性と、彼らの音楽性との差がすごくありすぎたんです。
あと僕はユカリじゃないと無理だと自分で思い込んじゃっていた。
2年くらい前に、自宅のある荻窪のなんとかと言うところで「ぴあ」をパラパラ見てたら、四人囃子の森園さんのセッションでドラムに上原裕って書いてあったんで、つい思わず酒を一本買っていきましたよw 20年ぶり位かな、嬉しかったですよ、すごく。
78年の頭にベースをやめて、考えたら自分自身のできることと言うのが、音楽と英語とフランス語しかなかったんですよね。
で、音楽をやめちゃったから、後は映画関係に入ろうかなって。洋画が好きだったので、配給会社しかないと思って、東和とヘラルドを受けて、ヘラルドに入って。ただそれだけ。
その後坂本とも山下とも映画の宣伝で再会したんですけど。それは面白かったですね。まぁ何かつながっているのかなって思いましたけど。
だから変に僕は冷めているんですよ、ずっと自分の好きな音楽ができればいいって、普通はそうだと思うんですけど、そういうことをいくらやっても全然プロになれない方もいるでしょうし。だから、そういう方たちから見ると贅沢ですよね。そう思いますよ。
自分の好きだったバンドに入れて、好きだった大滝さんとか細野さんとかと、ティン・パンのコンサートに一緒でられて。普通はそのままいるでしょうね、たかがユニホーム1枚でw 僕は自分で決めたことを変えるのは嫌いなんです。すごく頑固な部分がどっかにあってね。
もうベースを弾くのは嫌なんです。憲法9条と同じで、戦争しないって言ったら、しないんだw
ベースを弾きたいとも思わないですね。家で遊びでも。だってベースがないですから。
【外伝6 了/2007年インタビュー/寺尾次郎 1955-2018】

鼎談2017/細野晴臣・山下達郎・星野源

〈好きなことしかやってないからね。前は辛いこともあったけど(細野)〉
  
山下 細野さんとちゃんとお話しするのは、今日が初めてなんですよね。
星野 初めてなんですか? 
細野 そう。長い付き合いなのに初めて(笑) 
山下 「パイドパイパーハウス」の店長だった長門(芳郎)くんの結婚式の時くらいですね。あの時はずいぶん一緒に居させていただいて。後はLDKスタジオに見学に行ったとき。
星野 じゃ、お会いするのも何十年ぶりって言うことですか?
山下 35年とかそんな感じ? 坂本(龍一)くんとは昔から仲良かったけど、細野さんとはなかなか接点がなくて。
細野 不思議だよね
星野 接点があるものだと勝手に思い込んでいて、今日は3人でお話しできたらと思ったんですけど。
山下 まぁレコーディングに呼んでいただいたりとかはありましたけどね。泰安洋行とか。
星野 「蝶々san」の船長の声ですね。
山下 あとティン・パン・アレーも。コーラスでは細野さんが嫌がることばっかりやっちゃって(笑)
星野 ハハハ。嫌がること
山下 ティン・パンが演奏してる曲のコーラスはずいぶんやらせていただきました。当時。コーラス・ボーイが全くいなかったから。 
細野 そうそう、ずいぶんやってもらってる。助かってたよ。
山下 スタジオの中ってお互いそんなに話さないんですよ。それこそ3時間で2曲あげるみたいな感じだったでしょ? どんどん機械的にやっていくから。CMだって15秒30秒ものは、3時間でカンパケですから。
細野 そうそう。
星野 じゃお仕事は一緒にしてたけど、それからずいぶん間があいちゃったと。でも、お二人ともずっと音楽を作られてますよね。作品もそうだし、ライブも活発にされてるし。
山下 細野さんはこの数年間、ライブを活発になさってますね。
細野 うん、好きになってきちゃった、ライブ。
山下 ライブ嫌いで有名な細野さんが、ねえ。はっぴいえんどの頃、細野さんが新幹線のホームにちっとも来ないので、マネージャーの石浦(信三)さんが狭山の家まで行ったそうですね。そうしたら細野さんが風呂場に隠れてたって(笑)。ライブに行きたくないっていう理由で。それ、大滝(詠一)さんからずいぶん聞きましたよ。
細野 そんなこともあったのかな(笑)。全然覚えてない。いや変わったんだよね。
星野 今歌うのが楽しいですか?
細野 楽しい。なんでこうなったんだろうね。
山下 やっぱり好きなことだからじゃないですか?
細野 そうだね。好きなことしかやってないからね。前は辛いこともあったけどジェームス・ブラウンの前座で出て、座布団が飛んできたりとか(笑)
星野 僕もビーチ・ボーイズの前座を務めるって言う、すごい大変な経験がありました。オープニングアクトは「アメリカ」だったんですよ。その前に日本人に出て欲しいって呼んでいただいて、大好きだったからやらせてもらったんですけど、客席がほんとに怖かったです(笑)細野さんはその時客席にいらっしゃって。それが救いでした。
細野 星野くんを見て、その後ビーチ・ボーイズが出てきて、3分の1位で外に出ちゃった(笑)これがビーチ・ボーイズかって。悲しくなっちゃって。
山下 そうですね。今はビーチ・ボーイズが日本に来ても、行かないもん。でもそうは言いながら、昔大阪フェスティバルホールのブライアンのソロに行ってきたんです。キーボードは弾かないし、歌詞はプロンプターだし、演奏は全然アレなんだけど、本人がやってるともう駄目。古今亭志ん生の落語を観るみたいな気分で。
細野 ほんとほんと。
山下 それがまた切ないの。許す自分が切ない。
細野 いろんな思いが来るからね。そういう存在なんだよ、Brian Wilsonて。
星野 昔、細野さんがビーチ・ボーイズみたいに歌いたかったけど、歌えなかったと言う話が聞いたことあります。
細野 大滝くんの前でサーフィンUSAを買ったらケラケラ笑われて。
山下 ハハハいいじゃないですかね
細野 ちょっと低い声でね(笑)♪If everybody had an ocean〜
山下 細野さんの声がいわゆるバリトンですからね。
細野 あぁ小西(康陽)くんもそんなこと言ってたね。テネシー・アーニー・フォードみたいだって。
山下 話し声も低いです。でもその声のトーンとか口調とか、全く変わってないです、この30年間。
細野 変わってないかな。自分だってそうじゃない。全然変わってないよ
山下 そうですか?
星野 ハハハ、お互い自信無いんですね。
  
  
〈初めて自分で演奏したのは幼稚園の時に木琴で弾いた“ライフルと愛馬”でね(山下)〉
  
山下 細野さんは最初はギターだったと伺ってますが、どうしてベースになったんですか?
細野 中学の時エレキブームでね。メンバーを集めると、みんなベンチャーズをやりたがるんだ。で、みんなギターしか弾かない。しょうがないから僕はベースをやって。
山下 しょうがないからベースになったんですか?(笑)でも僕が申し上げるのもなんですが、細野さんはリズムのポイントがとにかく正確で。昔、池袋のヤマハにWIS(ワールド・インストゥルメンタル・ソサイエティ)って組織があって、毎月1回オーデションをやって、エースって言う一番うまいメンバーに選ばれると、ビアガーデンのバイトとか紹介してくれるっていう。そこで細野さん達がおられたバーンズと言うバンドがエースメンバーだったじゃないですか。
細野 そう?
山下 細野さんがベース。松本隆さんがドラムのバンドで、ジミヘンやヴァニラ・ファッジをやっていた。僕らもオーディションを受けて、シニアってエースの1つ手前まで行ったんだけど、虎ノ門発明会館でライブをやったときのトリが、バーンズだったんです。Keep Me Hanging Onで松本さんのドラムたるや、すげえ、カーマイン・アピスまんま、みたいな。
細野 そんなによかったんだ。
山下 あまり印象にないんですね。
細野 ないんだよ。あれは割と手伝い気分だった。
山下 そうなんですか? でもベースとドラムの上手さは鮮烈に覚えてますよ。僕は当時高校1年で。
星野 じゃぁお二人はその時すでに同じステージに立っていたんですね。それもすごい。
山下 僕らビーチ・ボーイズコピーバンドでHushabyeとかそういうのやってたんです、コーラスで。そしたら次のバンドからすれ違いざまに「お前らは、なんでそんなつまらない音楽をやってるんだ」って。
星野 嫌ですね。
山下 あの時代は完全にベンチャーズの影響で、ギターの一番上手い人がヒーローだったんですよ。その人がリードギターで、その次がサイドギター、ベースってだんだん格が下がってきて、ドラムとキーボードはちょっと別の領域。で、何もできない奴がヴォーカル。だから日本ではヴォーカリストが育たなかった。
細野 ヴォーカリストはほんとに不在でね。何度困ったことか。
星野 なんでですかね、ほんとに居ないですよね。僕もヴォーカリストが周りになくてSAKEROCKインストバンドになりました。
細野 結局、自分で歌うことになって。
星野 そうなんです。細野さんがビーチ・ボーイズみたいに歌おうとして歌えなくて、ジェイムス・テイラーを聴いて、こう歌えばいいんだと思ったとか、達郎さんがブルーアイドソウル聴いて日本人がソウルやR&Bをやるってところにシンパシーを感じたとか、そういう話に僕は希望を見出して、最終的に自分も歌っていいんだと思いました。
山下 まぁでも、グループサウンズとかみんなそうだったしね。細野さんがギターを弾き始めたのは、いくつなんですか?
細野 小六だね。
星野 早いですね。
山下 きっかけはなんですか?
細野 クリスマスに銀座の山野楽器に連れていかれてうろちょろしてたら、コートの袖にギターが引っかかって。それがジャラーンってなって、ゾゾゾってきて、その6,000円のクラシックギターを買ってもらってから。
星野 そこで引っかかってなかったら、違う人生になってたでしょうね。
細野 違ったんだろうね。
山下 練習は結構されたんですか?
細野 最初にね、Emのワンコードで弾けるハンク・ウィリアムズのKawーLiga って言う曲をズンチャン、ズンチャンって、ずっとやってた。
山下 僕らの時代は「花はどこへ行った」でしたね。あれは循環コードの曲でC ーAmーFーGって延々続くんです。それをみんなで練習してたんだけど、Fが来ると押さえられないって言う。
星野 僕らの世代は循環コードの定番だったのはブルーハーツでした。コードが少なくて。歌っていて気持ち良い。
山下 邦楽なんだね、もう。
星野 みんな邦楽でしたね。でも僕は親がベンチャーズタブ譜を持っていたんですよ。ホチキスで止めたみたいな古いボロボロのやつ。だから最初はベンチャーズでした。
山下 どうしてギターに興味を持ったの?
星野 親がギターを持っていたと言うのと、中学生になってみんなギターをやり始めたので。置いてかれると嫌だなって言う、最初はそういうちゃんとしてない理由です。
山下 やっぱり多かれ少なかれ、音楽に興味のある家庭ですよね。細野さんも星野くんも。うちもそうです。
星野 ご両親がやられたんですか
山下 いや両親とも映画が好きで池袋に住んでたから、日勝地下とかの名画座に毎日のように連れていかれて。「リオブラボー」は7回観てる。だから初めて自分で演奏したのは、幼稚園の時に木琴で弾いた「ライフルと愛馬」ですね、ソミドミドラドというね。
細野 そんな幼稚園児見たらびっくりするね(笑)。
  
    
〈この3人でベンチャーズをやるのはやばいですね(星野)〉
 
星野 達郎さんが洋楽に目覚めたのは?
山下 もちろんベンチャーズから。中高6年間とブラバンでドラムだったから、ベンチャーズへの興味も、とにかくドラム。リードギターはコードも知らないけど、ドラムならコピーできる。
細野 じゃあ僕たちでバンド組めるじゃん。ギター、ドラム、ベースで。
星野 ハハハ。この3人でベンチャーズやるのはやばいですね。達郎さんが歌いだしたのはいつぐらいからでなんですか?
山下 歌ねえ、いつと言われるとなかなか難しいんだけど、小学校高学年から歌の成績は良かったですよ。
細野 少年合唱団みたいなのに入っていたの?
山下 いや、入っていません。中学の時に組んだアマチュアバンドで、元はスペンサー・デイヴィス・グループとか、そういうのやってたんです。だけど僕にビーチ・ボーイズを教えてくれた親友が、そんな一般的なものはやめて、ビーチボーイズとかをやろうと。最初にトレメローズのSilence Is Goldenをコピーしたんですね。コピーって大事じゃないですか。その仲間の中に鰐川って言うシュガー・ベイブのベースになるヤツがいたんですけど、彼のコピーは本当に正確で、例えばトレメローズのイントロでみんなが適当なことをやると「そうじゃないよ、こうだよ」って。
細野 そういう人がいると助かるね。
山下 本当に同じ音になるんです。だったらコーラスはどうなんだろうと思って、そこからですね。ビーチボーイズとかトレメローズとかを耳コピするようになって。でもダビングが多いから、例えば「英雄と悪漢」なんて、どうだかわからないわけですよ。だけど、フォー・フレッシュメンなら一発録りで四声だから、絶対にコピーできる。だから一生懸命やって、そこから僕はコードテンションを覚えたんです。僕の音楽理論は全部フォー・フレッシュメンから。これはIn This Whole Wide Worldのあそこだな、みたいな。
星野 すごい。そこから歌をやることになったんですね。
山下 うん、裏声を出せたのが、僕ひとりだったんで。
星野 作曲はいつ頃からですか?
山下 最初は中学卒業くらいにインストを数曲作ったんだけど、まともに作り始めたのはシュガー・ベイブからですよ。それまでは遊びですから。細野さんは曲を作り始めたのはいつ頃ですか? バーンズの時はコピーですよね。
細野 コピーばっかり。
山下 じゃ、はっぴいえんどの時が初めてですか?
細野 バーンズで2曲ぐらい作ったんだけど、それは習作だね。今は全然聴きたくない。
山下 細野さんは昔のものを聴きたくないって言うんですよ。どんどん前に行く人だから。30年くらい前かな、音楽雑誌のインタビューで「自分みたいに全く同じことをやり続けるか、細野さんみたいに千変万化して変わり続けるか、道は2つしかない」って言ったことがあります。中途半端はダメなんだって。
細野 その極端なのが、ここにいるんだ(笑)。
山下 はっぴいえんどをやって、Hosono Houseがあって、トロピカル路線に行って、その後はYMOでしょう? その変わり方ってちょっとないですよ。
細野 だから、後ろを振り向くとだれもいない
山下 ハハハ。飽きちゃうんですか?
細野 飽きるっていうか、完成したらそれでおしまいじゃん。はっぴいえんどもそうだよ。「風街ろまん」ができてもうやることがないって満足しちゃったから。
星野 でも、今の細野さんの活動は長く続いてますね。
細野 ひとりだと解散できないから(笑)。


〈一流のミュージシャンに自分のイデアを強要することが正しいのか正しくないのか(山下)〉
  
山下 この数年ずっとアルバムを聴かせていただいて、やっぱり好きなことをやっていらっしゃるから、本来の細野さんの空気感っていうんですかね、それで成立することをやっている感じがして。
細野 そう。それは歳を取ったからできるんだよね。しがらみがない。義理もない。好きなことだけをやる。それは歳を取らないとなかなかできない。
山下 そうでしょうね。早くそうなりたい。
星野 達郎さんでもしがらみを感じる時ってあるんですか?
山下 ありますよ。何のしがらみもなく、アルバムを作りたいと思うもん。そうしたらすぐできるのに。
細野 やったら? 手伝うよ。大滝くんにもみんなで手伝う、って言ったんだ、なかなか作らないから。そしたら「それは細野流の挨拶だ」ってかわされちゃって。
山下 いや、細野さんにこうしてくれなんて誰も頼めないですよ。
細野 そうかな?
山下 「SPACY」で細野さんにベースをお願いしたでしょう? あの時、そう思ったもん。一流のミュージシャンに、自分のイデアを強要することが正しいのか、正しくないのかって。ほんとに優秀なミュージシャンは自分で考えて、自分で作れるんですよ。だからもしかしたら自分のイデアと合致しないことになるかもしれない。
細野 あの時はどうだったの?
山下 いやいや、あれはもう考えた通り。おかげさまで。
細野 ああ、よかった(笑)
星野 でも人選というか、誰にやってもらうかでほぼ決まる感じはありますよね。
細野 まぁ、そうなんだよ。
山下 スタジオミュージシャンが全盛の時代は、他人の仕事でも自分と同じメンバーが演奏するでしょう? そうすると自分の音って何なんだろうと思うんです。で、バンド上がりだから自分のリズムセクションが欲しいなって思ってくる。
星野 すごくわかります。
山下 そう思った時に、ちょうど青山純っていいドラムが出てきたので、これでレコードとライブが全く同じ音になるって。それすごく重要だから。
細野 僕もそれに近いよ。同じ。
山下 細野さんはやっぱりリズムセクションにすごくシビアですよね。だからドラムは松本さんでありミッチ(林立夫)であり(高橋)幸宏さんであったり、って言う。
星野 今は伊藤大地くんですね。昔からの仲間なので嬉しいです。
細野 大地くんはすごく成長してね、ベテランになってきた。
山下 でもリズムセクションで実はベースが結構精神的なリーダーで。
細野 ほんと?
山下 そうですよ、ベースが引っ張ってるんです。
細野 そんな話を時々聞くけど、実感は無い。
山下 実感ないですか(笑)。やっぱり細野さんは細部に至るまで満足しないと気が済まない人なんだな。
細野 そんなこともないよ。別に不満の塊でもないし。
山下 今までの全作品を振り返って、もちろん会心の作品は有るでしょうけど、目標値と実際に想定した値とのギャップってあるじゃないですか。変な話ですけど、例えば具体的にどの作品がその差が少なかったか、そういうのありますか?
星野 すごく厳しい質問(笑)
細野 尋問に近いよ。
山下 だって細野さんは、ある意味すごく実験的なんですもの。
細野 大滝くんもそんなこと言ってたよ、アバンギャルドだって(笑)
星野 逆に達郎さんはありますか?
山下 いや、自分の話はあんまりしたくないんだけど、僕の場合は総力戦だと思ってるんです。詩、曲、編曲、演奏、歌唱、エンジニアリングまで含めた、ひとつのトータルパッケージとして。で、僕は詩にそれほど秀でていると思ってないんで、そういうところを曲で補ったり、演奏で補ったり、全てが補填しあって自分の作品だって言う。だからそういうことを考えると、82、83年のアナログ・オーディオがピークだった時代ですかね。
星野 じゃあその頃の作品が、自分の中では会心の出来ですか?
山下 よく言う話なんだけど、必ずしもその人にとってのベストソングが、ベストセラーにはならないじゃないですか。でも、クリスマスイブはそれこそ詩、曲、演奏からいろんなファクターまで、自分の人生で一番よくできた5曲のうちの1曲なんですよ。だからあれがベストソングだって言われるのは、本当にありがたいというか。
細野 あぁ、そうなんだ。
山下 あの時代がそのまま続いていたら、もうちょっとよかったんですけど、デジタルが出てきちゃって。自分にとってのデジタルのトラウマって、ものすごくあるんですよ。プロツールスが出てきた時も、どうしようと思ったし、10年位前。いまお仕事はどこでなさってるんですか?
細野 バンドの時は音響ハウスで録ってるね。基本は白金の事務所の地下にあるスタジオで。
山下 プロツールスですか?
細野 プロツールスは使わない。外で録るときはエンジニアの趣味で使うけどね。48キロヘルツで録ってるから、96キロヘルツに変換してダビングとミックスをする。
山下 普通と逆なんだ。
細野 96キロヘルツでとると底なし沼になっちゃう。
山下 そうですよね。同じです。僕も96キロヘルツは全然だめですもん。
星野 底なし沼っていうのはレンジが広すぎるって言うことですか
細野 まぁそういうこともあるし、音像が固まらないんだよね。ポップスじゃなくなるんだ。
山下 そうそう。ワールドミュージックみたいなのはそれでいいんだけどね。ロックンロールだとスカスカで我慢ならない。そうかヨンパチで録って、クンロクで行くのか。なるほど。それは考えたことなかったな。昔デジタルの時は、打ち込みって何でやってたんですか?
細野 全部デジタルパフォーマーだね。その前にMC4があって、次はNECで、それからカモンミュージック。
山下 僕は未だにカモンですよ。
星野 えー!
細野 ほんと? すごい! カモンのソフトってまだある?
山下 あれをウィンドウズ10で動かす猛者がいるんですよ。
細野 いまだに使ってるっていうのは、今日一番のニュースかもしれない(笑)でも音楽のワークステーションって、新しいければいいってもんじゃないよね。
星野 昨日レコーディングしたんですけどそのスタジオの卓がソリッド・ステート・ロジックの古めのやつに変わっていて、すごくいい音でした。
山下 今はみんなコンピューターの中で全部やっちゃって、クジラみたいに大きい昔のシンセとやるような人は誰もいないけど、あっちのほうが絶対に音いいもんねぇ。
星野 そうですよね。
山下 ちなみに細野さんはオペレーターとかいらっしゃるんですか?
細野 ほとんど自分でやってる。メンテナンスを原口(宏)くんて言う、田中(信三)さんの弟子にやってもらってて。いや、悩むんだ。歳とると耳がおかしくなるからさ。1キロヘルツが上がっちゃって、自分の声がうるさくてしょうがない。だから切っちゃうんだよね。
星野 そうするとあの音像になるんですね。
山下 不思議な音像ですよね、いい意味で。変な言い方ですけど、キューバブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブみたいなね、空気感が。
細野 空気感が出てるんなら嬉しいけど。気力でやるしかない。
  
  
〈僕も同じだよ。大滝くんが聴いたらどう思うかって、そう思いながら作っている時がある(細野)〉
  
山下 でも、細野さんは多作ですね。
細野 もっと作りたいんだ。自分を追い込んでるんだけどね。時間がないんだよ、僕には多分ね。
山下 そういう人に限って長生きするんですよ(笑)。大滝さんなんて、あと20年は生きようってつもりだったんだから。
細野 本当だよね。突然だったな。
山下 でも、あの人いっさい医者に行かない人だったんですよ、風邪ひいても、何しても。そういうとこ気弱でね、結構。
細野 繊細なのは知ってる
山下 その反動ですね、外に見せる姿は。
細野 「無風状態」って言う曲をはっぴいえんどの最後のアルバムで作ったら、その後で大滝くんが来て「あれは自分のことを歌ったのか?」って聞くんだよね。皮肉だと思ったのか。全然そんなことないんだけど、すごく繊細だなと思った。
山下 大滝さんとは1973年から40年くらい付き合ったけど、彼の作っているもののほとんどは、全部細野さんに向けて発信されてますから。これを細野さんが聴いたらどう思うかって。
細野 僕も同じだよ、大滝君が聴いたらどう思うかって、そう思いながら作ってる時がある。なんかね、気になるんだ。でも大滝君がそう思ってるとは知らなかった。
星野 お互いに思ってたんですね。
山下 本当にそう。NIAGARA MOONのときの第一目標はティン・パン・アレーをどれだけ困らせられるか。
星野 ハハハ、まじですか。
細野 いや困ったよ。NIAGARA MOONをクラウンのスタジオで聴いて「負けた」って言ったらしいんだよ、僕は。それを南こうせつが聞いてたんだよ、僕は全然覚えてないんだけど(笑)。
山下 大滝さんと話してると三分の一くらい細野さんの話なんですよ。
細野 そうなの?
山下 いかに意識してたかっていうね。
細野 『A LONG VACATION』を作る前に、大瀧くんが一人でキャデラックを運転して、うちまで訪ねて来たの。今までそんなことなかったからびっくりしちゃって、なんだろうと思ったら、「自分も売れるから」って。
山下 ははははは。そうか、YMOの後だから。
細野 宣言しに来たんだ。
星野 それは……ものすごい話ですね。
山下 いや、そう考えると、細野さんに伺いたいことがたくさんあるんですよ。ベースの事とか。どこかのインタビューで話したことがあるんですよ、ベースは細野さんが日本一だって。細野さんは僕の人生で最高のベーシスト。
細野 ほんと? なんか嬉しいね。
山下 それはそうですよ。表現力、テクニック、タイム。
細野 テクニックは無い。すごくコンプレックスがある。ジャコ・パストリアスとかに対してね。
星野 ジャコにコンプレックスを抱いている細野さんてすごいですね(笑)。
山下 面白いなぁ、でもジャコに細野さんはできませんからね。70歳になってなお創作意欲がそうやってお有りになるというのは、本当に見習うべきところで。私事で申し訳ないですけど、一緒にやってた連中が結構具合悪くなっちゃったりして。
細野 そういうのはあるね。
山下 歳をとっていくと、昔の一番良かったときの実績みたいなものにとらわれるじゃないですか。でも、あの時の演奏をもう一回やりたいとか、そういうことにこだわると、懐古趣味になるから。もちろん、そういう実績が積み重なっていくのは悪いことじゃないけど、そこで一回リセットしていけないことだって、ひとつもない。ベーシストにしても、ドラマーにしても、アレンジャーにしても、15年、20年経って昔と同じことができるかっていうのは疑問だから。僕もドラマーを替えて10年目ですけど、20人近くオーディションして、23歳のドラマーにして、最初は非難轟々で、なんでそんな無名のやつを使うんだって。でも10年経って、その小笠原拓海くんも30歳超えて、今はもう誰もそんなこと言わない。そういうのが大事だなって、あの時、細野さんのことを思い出したもん。
星野 それまでと違う人とやることに対して、ファンの人からも批判もあるだろうし、周りのスタッフからの疑問もあるでしょうしね。
山下 結局音楽って生活の対象化でしょう? 耳で聴いた経験や記憶の美化も同時に行われるから。それが新しい違うものに変わると、人によっては増悪するんだよね。でも細野さんはそういうものも全く平気。
細野 全然関係なくやってた(笑)。
山下 そこがすごいんですよね。ジャズのインプロビゼーションで一番優れたものは、次に来るフレーズを50%は観客の期待通りにやって、50%は観客を裏切るようなもんだって言った人がいるけど、ポップミュージックにも、そういう期待と裏切りのバランスがあって。そういう意味では細野さんの音楽って、非常に個人的ですよね。
星野 個人的でありながらポップスであるって言う、そこがお二人に共通した部分なのかなと思います。これを機会に何か生まれるといいですね。
山下 お願いしますよ、今度、コーラスでも何でもやりますから。
細野 じゃあ、今度呼ぶ。
山下 いつでも呼んでください。
星野 僕も混ぜてください(笑)。
細野 うん、そうだね。
【了】

 

ヒストリーオブ山下達郎 第17回 バンド解散と「ナイアガラ・トライアングル」 1976年

オールナイトニッポンのパーソナリティーが始まるんだよね>
76年1月18日、玉川区民会館「下北沢から51年」コンサート。顔見せの感じだったよ、出演者がずいぶん多かった。どういう企画意図かも知らない。僕らは出演時間直前にただ行って、演奏して帰ってきただけ。下北沢ロフトとは関係ないイベントだったと思う。
この年の1月といえば、このコンサートの3日後くらいにオールナイトニッポンのパーソナリティーが始まるんだよね。1月21日からだね。水曜日の2部だから深夜3時から。話はPMP(現フジパシフィック音楽出版)から来たんだと思うよ。急に話が来た。76年1月から10月までやったの。
10ヶ月でクビになった。マニアックな選曲だったからね。何度もチーフプロデューサーに呼ばれて怒られた。かけている曲が一般向きじゃないって言われてね。「公共放送なんだから10曲かけたら7曲は誰でも知ってる曲にしろ」って。「誰でも知ってる曲って何ですか?」って聞いたら、だからビートルズとかそんなのだよ、って。嫌なヤツだったよ。
僕の前に水曜日の2部だったのは、伊藤政則さんがカッコマンという名前でやっていたね。僕の時の1部は最初はニッポン放送の田畑達志アナウンサーで、4月に月曜日の2部に移るんだけど、その時は1部がトノバン(加藤和彦)だった。で、トノバンも僕と同じ時期に辞めたみたい。
あの頃の2部は録音で、実際の収録は夜8時くらいから始めて、午前1時前後にアップする、という感じだったね。
生まれて初めてのラジオレギュラー、番組は2時間だけど収録には時間がかかった。この時のディレクターが佐藤輝夫さんでね。彼とはその後もラジオの番組で関係が続いていく。今も現役で、桑田(佳祐)くんの「やさしい夜遊び」の構成なんかをしている。佐藤さんとはもちろんその時が初対面で、DJ初体験の僕にとってはラジオの先生で、色々と教えてもらった。喋り方にダメが出まくって、「えー」が多いとか、発音がはっきりしないとか、論旨が伝わりにくいとか、すごく厳しかったんだ。それで時間がかかったの。
でも選曲に関しては佐藤さんはほとんど何も言わなかった。チーフプロデューサーに文句を言われた時もかばってくれたんだ。だから彼も僕が辞める時に外されてしまった。その後2年くらい佐藤さんはオールナイトニッポンの仕事はしなかったね。その間はアメリカに行っていたそう。
僕のオールナイト2部の内容は「サンデーソングブック」と大差ないよ。だけど、時代が今とは全然違うもの。僕自身もまだ無名だったからね。ホントに毎週のように文句言われたね。呼びつけられて。その意味では、今のサンデーソングブックなんて夢のようだよ。
その上、選曲だけじゃなくて、オンエアする楽曲の権利関係もうるさく言われた。聴取率週間にはニッポン放送の系列音楽出版社であるPMPの楽曲がどれぐらい流れているか、って言うリサーチがあるんだよ。それでもっとPMPの曲をかけろって圧力があるの。
でも当時出していた邦楽の曲なんぞかけるのは絶対に嫌だったから、PMPの洋楽管理楽曲を調べて、ドゥービー・ブラザーズとかイーグルスとかリトル・フィートとかを探して、かけていたんだ。イーグルスのTake it to the limitなんてのをね。
そんな内容の上に、オンエアが3時から5時だから聴取率なんて大してなかったけど、そこはさすがに全国ネット、その後、業界に入ってくるようなマニアックなリスナーが聞いててね。80年代に入ってからは、ずいぶん色々なところでそう言われた。でも当時はそんなこと知る術もない。だからしまいには居直って、夏前くらいからは4時台の1時間は、毎週ビーチ・ボーイズのアルバムを丸ごと1枚ずつかけていって、結局当時の最新作「15ビッグ・ワンズ」まで20枚近く、全部かけた。
           

<「ナイアガラ・トライアングル」で4曲録音>
オールナイトを担当し始めた頃にやっていたのは「ナイアガラ・トライアングル」(3月25日発売/日本コロムビア)のレコーディングとミックスだね。
「トライアングル」の企画を大滝さんから聞いたのは前年、75年の9月かそこいらでしょう。レコーディングが始まったのが11月上旬だから。
実はその時点で、シュガー・ベイブにはソニーから誘いが来ていた。僕はそっちに行きたいなと思っていて、ナイアガラと再契約する気はなかったんだ。スタッフもそういう意向だったし。でもまぁ「ティーンエイジ・トライアングル」って言うコロピックスの企画物アルバムがあって、そういう企画なんだと思った。
まだ僕がソロになるって事は考えてなかったけど「パレード」をシュガー・ベイブのセカンド・アルバムに入れようとは思わなかったし、「遅すぎた別れ」はキングトーンズ用に書いて、そのままにしておいた曲だからね。
バンドをやりながらソロを作る、そういう感覚だった。で、2曲書き下ろして2曲は有りもの。で、その当時よく坂本くんと一緒にやっていたので、大滝さんのバックもシュガー・ベイブに坂本くんが入った形でやっていたし。だからこれも坂本くんとやろうと思っていて。
どれもギターサウンドじゃなくて、キーボードがかなりウェイトを増している。特に「ドリーミング・デイ」なんかそう。これはユカリ、寺尾、僕、坂本の4リズムで全てレコーディングされている。そんな感じだから「パレード」なんかは全くアレンジを変える形でやろうと思っていたし。4曲あるけどバラバラなんだよね。
「ドリーミング・デイ」
最初のアイデアは、デルスの♪Distant Loveって曲があってね。”Our Distant Love”〜ってフックがあるんだけど。それともうひとつ、ジョニー・ムーアがリードを取ったドリフターズの♪Fools Fall In Love、そっちのイメージもあった。
それにセカンドラインのリズム、大滝さん譲りの。で、大好きな循環コードで、全体的な歌い方はディオン。あとは自分がブラバン時代から持っていたラテン感覚とか、そういうものをごた混ぜにしたっていうか。この曲は自分では意外とよくできていると思う。
それで詩はター坊に頼もうと思った。このアルバムの詩は、これがター坊でしょ、「パレード」は自分で、「遅すぎた別れ」は銀次で、「フライング・キッド」は吉田美奈子。詩に関しては、自分の周りの才能ある人たちを網羅してるんだよね。大滝さんは「遅すぎた別れ」は僕が推敲してると、ずっと思っていたんだけど、語りの部分は100%銀次が作っている。DOWN TOWNみたいなコラボレーションじゃないんだ。「ドリーミング・デイ」はこのアルバムの企画が大滝さん出て来た時に作った曲だと、当時のライナーにも書いてあるけど。こういう曲調はシュガー・ベイブでも、ソロになってからもやらなかったからね。もし海外レコーディングをせずにアルバムを作ってたら、こういうオールドなポップ路線に行ったと思う。「サーカスタウン」のレコーディング経験が自分にとってあまりに大きかったので、急激にコンテンポラリーにシフトしたけど、のんびりやっていたらおそらく「ドリーミング・デイ」とか「パレード」とかほんわかした感じで行っただろうね。
ター坊には詩についての注文は何もしなかったけど、すぐ書いてきてくれた。あの人こういうのうまいんだ。言葉が全く邪魔しない、こういう素直な語感の詩は、今も昔も少ないんだよ。明るいんだけど暗いと言う、都会の東京人のメンタリティーがよく出てる。これは素晴らしい詩だね。いつでもステージでやりたい曲。
「パレード」
リアレンジというかリテイクして成功した数少ない曲で、これも一種の洒落でね。ジェリー・ロスのアレンジというか、そういうものをそのまま「パレード」にはめ込むっていうかね。
今から考えるとジェリー・ロス、ジミー・ワイズナー、ジョー・レンゼッティとかってフィリー(フィラデルフィアサウンド)なんだよね。当時はこれらの人ってみんなニューヨークの人たちで、ニューヨーク・シャッフルだと思い込んでいたんだけど、とんでもない、フィリーなんだよね。つまり僕は10代にフィリーを浴びるように聴いて育っていたということになる。だから実はシカゴよりはるか前にフィラデルフィア・ソウルの影響を受けていて、こういうところに出るわけだと。
これは自分で言うのもなんだけど、よく出来たオケなんだ。間奏後のコード展開など坂本くんに協力してもらって、僕はこう行きたい、それならこう言うのもいいのでは?と、彼と一番うまくコミュニケーションが取れてた時期だね。
さっきも言ったように、このアルバムのレコーディングは僕に関しては全曲4リズムなんだよね。しかも全部福生で録ったの。だから僕にとってはシュガー・ベイブよりもこのレコーディングの方が福生の情景とすごく密接でね。実は福生45スタジオでリズムを録ったのって、僕にとってはこの時だけなの。シュガー・ベイブも45でやってるけど、あくまでオーバーダブ、かぶせなんだよね。スタジオの記憶ってのは、歌った記憶よりも演奏の記憶の方が大きいんだよ。
この4曲は全部福生で録ってダビングは他に行ったりしたけど、本質的にはNIAGARA MOONと同じ音色だね。ブラスもすごくシンプルに4サックス1トランペット。ペットとアルトサックスをユニゾンにして、柔らかい、あんまりアタッキーじゃない効果を出してる。この時にアルトのソロを初めて岡崎資夫さんにやってもらっていた。この人にはのちに「スペイシー」から「ゴーアヘッド」を経て「ムーングロー」までのソロをたくさん担当してもらった。トム・スコットが好きな人で、あまり有名じゃないけど、音色もフレーズもすごく良くて、この「トライアングル」の延長でサックス・ソロを岡崎さんに頼んで行くんだ。
「パレード」は愛着のある曲だね。SONGSのインタビューでも言ったけど、当時シングル向きの曲を持って来いって言われて書いた曲なんだけど、このアレンジだったらほんとにシングル切れると思った。そしたら20年近く後に「ポンキッキーズ」でシングルに出来たよ。あの頃はこれ1日で書いてたもんなぁ。エネルギーあったよなw  イントロの坂本くんの一発芸ピアノっていうか、あれだってその場の即興だからね。コラボレーションがいいよね。普通の展開じゃつまんないからエキサイティングでアバンギャルド福生で一発録り。リズム隊を全員で4人で2回やって、そんなことで曲全体を意図的に長くしたんだよw
「遅すぎた別れ」
そもそもは74年の話なんだけど、キャラメル・ママ雪村いづみとか、いしだあゆみとか、あの頃やっていた一連の歌謡界の流れで、キングトーンズをやると言う企画が出てて、僕のところにオファーが来て、銀次と2人でやることになって、まず「ルイード」にキングトーンズを観に行った。それがすごく良かったんだよね。それで3曲書いたんだけど、最初に書いたのがこれ。チャイ・ライツのHave You Seen Herみたいな語りの曲を作ろうと言うことになって、銀次がまず語りのセリフを考えて、そういう内容だって言うんで、僕が曲の構成を作って、途中の歌の部分に、また銀次が詩を足した。
笹塚のシュガー・ベイブの事務所の隣に、矢崎さんていうPA屋さんが住んでいて、そこでデモテープを作ったの。あの頃矢崎さんの所には風の正やん(伊勢正三)とかも来て、デモテープをとっていた。で、誰が「語り」をやるかってことになってロバート・レッドフォードの解説文を全員で読んだところ、銀次が一番雰囲気があったんで、彼がしゃべることになった。
その次にDOWN TOWNと「愛のセレナーデ」を書いた。そうやって3曲作ったんだけど、キングトーンズの企画自体が立ち消えになっちゃった。しかも書いて持っていったのは僕らだけだったというw
真面目なんだよ、僕ら。もったいないんでDOWN TOWNはシュガーに使って、「遅すぎた別れ」はシュガーでやるにはちょっとアダルトだから、しばらく放ってあった。それを「トライアングル」の時に「ここでやらない手はない」って銀次が言い出してやったんだ。エンディングのSE「ああ、ベルが鳴った」ってやつね。ああいうアイデアは、元のデモテープを作った時から既にあった。「トライアングル」のはちゃんとしたSE素材を使ってるけど、デモテープのSEは笹塚の駅で録ったのを使ってた。
「フライング・キッド」
コレは非常に変な曲でね。アヴァンギャルドというか、実験的なものにこの頃すごく興味があってね。クラッシックの現代音楽からフリージャズまで、それこそローランド・カークとか、アルバート・アイラーとか、サン・ラとか、山下洋輔トリオとか。そういうものを耳にすることが多くて、ポップだけど実験的なものをやってみたかったんだよね。
それがどれぐらいのクオリティーで出るかをやってみたくて。分数和音とかにも興味あったから。これと同時期に作っていたのが「永遠に」で、美奈子の「フラッパー」に入ってる曲。ああいうコードが複雑な曲とか、分数和音で結局語りなんだか、歌なんだかよくわかんないって言うね。「これってロッド・マッケンとか、そういう何かの出来ないかな」って美奈子に言ったら「じゃ、フライング・キッドって飛行機だろうけど、福生の朝の空みたいな感じの歌にしよう」ってことになって、話し合いながら作ったの。
歌もメロディーも何もないから、曲を聴きながら作った詩を自分でしゃべったり歌ったり、だからこれ歌入れに結構時間かかっている。大滝さんは呆れてたけど、まぁ今から聞くと、アイデアが完全に先走ってるというかね。計画倒れというか。でも今でもこういう試みが結構あってさ、だけどこういうポップなフィールドではあんまり成功しなかった。何故かと言うと、自分の声の特徴と合わない部分があるから。もっと無機的な声だといいんだけど、僕がやるとキャラに合わない。だから誰かにやらせれば良かったんだね、今から考えると。
こんな感じで「トライアングル」では、自分がこれから先どういうものをやるかって言うのを意識したかな。スタジオ・ミュージシャンとやるときに「どういう音楽にするか」というのを、75年の夏ぐらいには漠然と考えていたから。実際にスタジオ・ミュージシャンでレコーディングしようという考えもあったけど、この時点ではまだ黒木真由美とか、他人のためのレコーディングもCMも、ほとんど全部シュガーベイブ+ゲスト・キーボードと言う形でレコーディングをやっていたから、それをもうちょっと前に進める意図はあった。
逆に銀次はセルフカバーだったでしょ。当時の彼は曲が書けない状態じゃなかったのに、なんでだったのかなって、僕は今でも疑問で。このアルバムの時はお互い交流がなかったんで、今もそれは聞きそびれている。
大滝さんはエンジニアだから全部参加してたけど、僕は自分のことだけで、他が何をやっているかあまり知らなかったし。でもあの時、力が一番入っていたのは多分僕だったと思う。
「遅すぎた別れ」なんてのは、まさにこの企画のためにあるような曲だったしね。何をやってもいいって言うから。僕は大滝さんに何をやるとも言わなかったけど。多分シュガー・ベイブのセカンドはナイアガラではやらないだろうと、その時には思っていたから、福生で学んだことのまとめみたいなのを作ろう、って言う気持ちはあったよね。
音が仕上がって来たときの気持ちは、さっきも言ったように、銀次はもうちょっと新しい曲をやったほうがいいんじゃないか、って思った。「日射病」と「ココナッツ・ホリデイ」と「無頼横丁」。「幸せにさよなら」は新曲だとつい最近まで思っていたんだけども、これも昔のストックだと先日大滝さんから聞いて驚いた。大滝さんは録音担当兼務で忙しいからしょうがないけど、とにかく「ナイアガラ音頭」一点豪華主義で行ったんだと思った。「ナイアガラ音頭」はインパクトあったね。これもいろんな奴がいろんなことを言ったけど、僕はすごいと思った。これは大滝さんじゃなきゃ絶対できない。すごくアナクロなところと、コンテンポラリーなところが同居している。大滝さん本来のはっぴいえんど時代から培ってきた旧と新を、うまくコンバイン(混合・融合)するって言うか。途中でオークランド・ファンクに行くところとか、ああいう洒落をやったら天下一品だよね。

 
<この頃は本当に毎日仕事のスケジュールが入っていたんだね>
オールナイトを始めた頃は「トライアングル」のレコーディングとミックス作業にかかってたよね。
1月30日にブラスのかぶせ。目黒のモウリ・スタジオって書いてあるから、これは「パレード」のブラスのかぶせだね。「ドリーミング・デイ」のブラスのかぶせは福生でやった。
その前日の1月29日に「三ツ矢サイダー‘76」のCMやってるね。これで生まれて初めて「ひとりアカペラ」が世に出たんだ。
ライブのほうは1月28日に仙台電力ホール。これは「トロピカル・ムーン」だね。
で、1月31日から2月1日まで大滝さんと一緒に神戸サンダーハウスに出ている。けっこうなスケジュールだよね。この辺はずっと大滝さんのバックをやってたんだね。でも本当に打ち合わせとかじゃなくて、仕事のスケジュールがコンスタントに入っていたんだね。だからようやく何とか食べられるようになってきたんだよ。で、ちょうど2月の頭から「ナイアガラ・トライアングル」のミックスをしている。
2月16日にカッティング。発売が3月25日。で、シュガー・ベイブが解散すると宣言したライブが、2月24日都市センターホールだね。でもこの日だって、ライブの後にスタジオ仕事やってるからね。すごいよね。
だからシュガー・ベイブからソロにシフトしていった時期が1月から2月なんだ。小杉(理宇造)さんに初めて会ったのは2月の初め、RCA(RVC株式会社)で。知り合いの用事に付き合ってRCAに行ったら、僕の顔を知ってた宣伝マンが「紹介したい人がいる」って。それでやって来たのが小杉さんだった。
小杉さんはその時点でシュガー・ベイブのライブを見ていたのかな。解散ライブに牧村憲一さんが声をかけたのは、後で知った。
僕はその時点ではソニーに行く話が進んでいたんで、牧村さんはター坊のソロを売り込むために小杉さんを連れて行ったんだけど、小杉さんは男性シンガー志向な人なので僕に興味を示したの。その後ソニーの話が取りやめになって、小杉さんとやることになるんだ。
当時小杉さんはRCAの邦楽ディレクターで「桑名正博」とかもう既に始めていた。後は「ジュリエット」って言うロックバンドなんかをね。

  

<自分の求めるサウンドとかよく言うけど、そんなものはね、所詮偶然の産物なんだよ>
シュガーベイブ解散の兆候は2月に入ってからかな。新宿かどこかの喫茶店でみんなで集まったのが。仙台や神戸の時はまだそんな話はなかったし。とにかくいきなりなんだよ。ユカリがバイバイ・セッション・バンドにも入りかけていたんだよね、その頃。
最初はユカリが辞めると言ったんだ。喫茶店で話した時は村松くんと僕とユカリがいた。ター坊はいたかなぁ。3人でしゃべったのは覚えている。
召集したのは(マネージャーの)柏原卓じゃないかな。そこまでは覚えていない。3人で話したのは覚えているけど。何しろユカリが「辞めたい」って言い始めて「これはあんたのバンドやから」ってね。
それで僕は白けちゃったの。何度も言うようにシュガー・ベイブは確かに僕のワンマンバンドだったけど、そういうあんたは何か自分でやりたいこと、どうしようかとか言ったことがあるのか、って思ってね。それで白けちゃったんだね。
言い合いにはならないよ。そういう感じじゃないもん。ユカリとは別に激しいやりとりをしたわけじゃなくて、話自体はとても静かなの。だって、ユカリが辞めると言ったらもう駄目だもの。ユカリはそういう性格だからね。それは僕も分かってたから。
今から考えるとね、このヒストリーを始めて色々蘇ってくるんだけど、とにかく若かったっていうか、22、3歳の話でしょう。お互いそんなに深い斟酌(しんしゃく)なんてできるはずもないんだよね。だから、それこそ寺尾がそんなにインテレクチュアルな奴だとか、そういうことをさえも全然知らなかったしね。ずっと後になって、へえ、実はそうだったんだって。
だから他人の事までおもんばかる余裕なんかなかった。相手の立場とか考えてなかったよね。バンドをやるって言っても、やっぱり自分の好きなことをやろうと言うことだしね。だけど自分の好きなことが本当にできたかって言ったら、それも疑問なわけ。結局、演奏力だったり客の反応だったり、そういう要素が色々と絡み合った結果でしょ。
だから自分の求めるサウンドとかよく言うけど、そんなものはね、所詮偶然の産物なんだよ。最近浪曲をよく聴いてるんだけど、浪曲って一人一節と言って、自分自身で独自の節回しを編み出せなきゃ、一人前とは言わないんだ。だけど自分の節を作るためには、いきなり無から有はできないわけ。それこそ他人の節を聞いて、真似したり研究したり、後は広沢虎三みたいに講釈師のところに通って「清水次郎長伝」を教えてもらったり、みんなすごい苦労をして、自分の形を作り上げているんだよ。
だから、我々なんかが21、2歳で「自分のサウンド」とか言ってもさ。後から考えると若気の至り、サイコロ振ってるようなもので、どんな人と出会ったか、とかの要因で決まったりしてるんだよね。
その意味では、どうして解散したのかって聞かれたら、なるべくしてなったとしか言えないね。たまたま出会った5人で1年ぐらいやって、その後に違う5人でまた1年ぐらいやって。そういう中で出てきた音がたまたまそうなったって言うだけで。
その後、青山純伊藤広規が出てきた80年代から先は、それはそれなりに自分の音だって言えるものを作れたけど、それだってそのメンバーそれぞれの音の集合だからね。あのメンバーじゃなかったら、どういう音になっていたのかわからない。
まぁ純粋にひとりで全部やってる時代が何年かあって、その時はコンピューターのお世話になっている、それは完全に自分しか関わってないから「自分の音」とも言えるけど、それだって使っている機材やシンセなどの楽器が違っていたら、その音じゃなかったかもしれない。何より重要なのは、いくら「自分の音」ができたと豪語したって、聴衆がそれを求めなきゃそれで終わりなわけで。後から最もらしい理由をつけてるけど、そんなのほとんど結果論なんだよね。
30年この商売をやっていて、周りではやめたヤツ、足を洗ったヤツもたくさんいるのね。でも必ず異口同音に「あの頃は楽しかった」って言う。そんなもんなんだよ。一度やめてまた戻ってくるヤツもいるし。そういうところではまぁ僕自身は、例えばオフィスとかスタッフとかクビにしたり、自分でやめたりしたことを、そんなに後悔した事は無いけど、人によってはやっぱりやめなきゃよかったって言う。だから人の離合集散なんて、後から最もらしい理由はいくらでもつくけど、その時はわかってないことが多いんだよ。
最近つくづく思うのは、僕って本当にサブカルチャー出身の人間なんだ、って。歳をとってきて、人間関係や人の好みなんかが、どんどん昔のノリに戻ってる感じなんだ。出自がサブカルチャーだから、今のヒップホップの人たちとかと同じ空気感なんだよね。
途中でおかげさまでブレイクしてからは、妙にメジャーなところに属しているように思われているけど、シュガー・ベイブの世界ってほんとに小汚いライブハウスの世界なんだよね。下北沢あたりの小さなライブハウスなんかで、今も展開されている世界と全く変わらないんだ。
だからあの頃に考えていたことなんて、将来のビジョンとかさぁ、戦略論とかでは全然ない。行き当たりばったりというか、この次の仕事をどうやってやるか、それをどうやってこなすか、って言うだけ。
共演がダウン・タウン・ブギウギ・バンドで嫌だなぁとか、CMで「東洋現像所(イマジカ)」とか「日本天然色」に行って、当時はビデオもないし、カラー・コピーもないから、試写室でフィルムや手書きの絵コンテ見せられて、コピーライターや広告代理店から歌詞を渡されて、こういう感じでって指示されて、数日後にスタジオで演奏して、フィルムと合わせながら「雰囲気どう?」って確認する。
当時の僕にとって唯一確かなものは、家でピアノの前に座って曲を作っている時間だったんだ。どういう曲を作ろうかなんて考える時。特にコマーシャルの場合はスタジオに行く前の晩に15秒バージョンとか30秒バージョンとかって作るわけ。その時になかにし礼さんなんかよく言う「天から降ってくる感じ」ってのがあってね。その「天から降ってくる感じ」が面白いんだよ。
で、どんな曲にしようかなって「三ツ矢サイダー」みたいなものを作る。その瞬間だけは確かなリアリティがあった。今でもその瞬間の記憶だけが一つ一つはっきりと残ってるんだな。それ以外の、例えば荻窪ロフトで焼きうどんを食ったとか、ライブの前にどうしたのとか、そういう記憶はほとんど脱落してるの。ステージの上で何をやっていたかと言う記憶さえも、あまりない。
鮮明に記憶に残っているのは、家でピアノの前に座って、最初のメロディーを考えだす瞬間、それだけは今でも鮮明にあるんだよね。「サーカスタウン」を作った時の記憶とか、WINDY LADYを作った時の記憶とか、そういうのは妙にきちっとある。あの高揚感がなかったら、多分僕は音楽を続けてなかったと思う。
シュガーベイブを解散することになっても、僕がそんなにショックを受けたなかったのは、そういうCMとかの仕事もあって、ある程度食えるようになっていたからなんだ。これは大きい。これが74年初めの頃の、食うや食わずの状態の時に解散、となっていたら、結構やっぱり落ち込んでいたか、パニクってたか、どうしようって、怒るかしてたかと思うけど。
まぁいいやと思ったの。(新しいバンドを作るのも)もう面倒くさいなと思った。それよりもコマーシャルやスタジオの仕事の方が楽しかった。SONGSが出て10ヵ月位だったでしょ。その間の、自分では全く予想外の、的外れでくだらない批判というか、誹謗中傷というか、そういうメディアへのストレスもすごくあったんだ。「ニューミュージック・マガジン」とかね。「ミュージック・ライフ」で「歌がなければもっとマシだ」とか書かれて。若かったから、そういうのは結構キツかったんだよね。今だったら「アホ!」って逆に馬鹿にできるけど。あとは何がロックで、何がロックじゃない、などと言う当時の教条的な風土。
それは「ニューミュージック・マガジン」とか「ロッキン・オン」あたりから生まれたと思うけど、そういうのを鵜呑みにして、湧いて出た観客の質の悪さ、野外イベントでの客のから騒ぎとか、しらけ方とか、そういうものへの嫌悪も激しくてね。
でも、それが当時のサブカルチャーを支える中心勢力だったから、抗いようもなかった。ライブでお客さんが増えていくことについても、なんで増えてるのか、わかんないんだもの。レコードがリリースされた途端に客がどっと増えてさ。70年代的な発想で言えば自然発生的なって言うことなんだろうけど、結局は音楽の空気を理解したり、共有できる観客が当時もそれなりには居たんだよね。
他にもバンドはいろいろあったけど、彼らに比べても、ライブハウスでの動員はトップクラスだった事は何度も言ったけど、でもそれは後から考えるとそうだったと言うだけで。当時は仕事のスケジュールもいい加減だったんだよ。荻窪ロフト、下北沢ロフト、高円寺次郎吉といった東京のライブハウスを毎月まとめて連続で組んでね。そんなに毎月新曲が増えるわけじゃないから、結局いつも同じ曲をやるの。そういう日常性があった。それでも毎回、どこでもいっぱいになったんだもん。だからかえって仙台で(鈴木)茂の代理出演で、4曲やった時とかの記憶の方が、新鮮に残ってたりするんだよ。しかも、その時の方が演奏が良かったりするのよ、徹夜明けのライブなんだけど。ひどいよね。そういう意味では煮詰まってたかもしれない。
でも、救いは何とか経済的に自立できていたこと。いつも言うけど、一番暗かったのが、風都市に入って給料が出なかったりした74年前半、それに比べるとこの頃は生活的にはまだいいから、記憶がそれほど醜悪じゃないな。
それにCMとは言え、ものを作る場がコンスタントに与えられて、その他にもコーラスや作曲の仕事が来るようになったでしょ。そういうのはやっぱりちょっと明るさとしての記憶にあるんだよ。
バンドとして次のステップに行こうと言うのはなかった。だから、このヒストリーはこれからソロの時代になるけど、ソロになろうと言うことだって、そんなに自覚的じゃなかったもの。なんでもいいや、っていう感じだった。来る仕事をこなしていく。
で、牧村さんはマネージャーとしてやる気でいたから、ソロでやるのは当然の方向性だって感じだった。そういうダイヤモンドの原石をたくさん並べて磨けば、誰かが光るだろう、っていうのが本音だったとは思うけどね。だからone of themだったんだ。でも、今だったらおそらくソロはやらないな。芸能界は嫌だから。
だから今思うと、ここから「ライド・オン・タイム」までの4年は一体何だったんだろう、っていう感じだね。まぁ修行と言えば修行期間だけど、さっきも言ったように、さしたる自覚なんかなかったんだよ。
今の若い子みたいにアーティストになりたいだの、アイドルになりたいだの、バンドやるだの、そういう自覚的なアクションを起こしたヤツがどれだけものを作るかと言ったら、それも疑問でね。
だから、世の中はままならないんだよ。大体嫌々、他にやることがないからやってるヤツが、生き残ってたりするんだぜ。僕に限らず、あの頃はきちっとした目的意識なんてなかったんだ。そんないい加減な人生なんて、今の子供たちには理解できないかもね。あるいは今も同じかも。でも、あの当時は時代がそうだった、っていうのが全てでね。

  

<このあたりの何ヶ月間で、人間関係がガラッと変わるんだよね>
76年2月かな、新宿の喫茶店で話してバンド解散が決まった。それは多分都市センターホール(2月24日)のちょっと前だったと思う。だから都市センターのステージで唐突に解散を発表したのは、そう言うことだったと思うよ。多分その1週間か、2週間前だったと。都市センターでやってから解散コンサート(3月31日、4月1日)までライブはやってないハズだよ。
この頃は「ナイアガラ・トライアングル」をやっていたから、それはそれで忙しかった。
2月21日にTBSラジオで馬場こずえさんの「こずえの深夜営業」が入ってるけど、おそらくこの前に「トライアングル」のプロモーションが始まっていたんだよ。だから解散発表をした2月24日って言うのはプロモーションの真っ最中だったんだね。で、このあとも(斉藤)哲夫のコーラスとかター坊と一緒にやってるし、仕事はやってるんだ。ただしライブはこれでやめ、っていう。解散ライブは都市センターのあと、(柏原)卓がブッキングしたの。だから結構直前なんだよ。ロフトのスケジュールってどのくらい前に決まっていたんだろうね。
ただ卓はもっと大きなところでやりたかったんだよ。せめて厚生年金中ホールくらいのところで。だけど僕はシュガー・ベイブはライブハウスで始まったんだから、ライブハウスで終わろうって言ったんだ。
追加公演もその日に決まった。31日の整理券があっという間に無くなって、表にまだ客が溢れてて、卓の独自判断で、翌日の予約も取ってみたら、それもあっという間に無くなっちゃったの。
それでライブが始まる時に「実は明日の予約を取っちゃった」って言うから「それじゃあ、しょうがないじゃない」って。それでやることになったの。翌日も(偶然?)空いてたのは元々そう言う作戦だったのかもしれないね。
でもね、あの時は結果オーライでね。1日目と2日目とで全然雰囲気が違ったんだ。最初の日はイベント好きの、いつもと感じの違う客でね。「おらー、やれー」っていう雰囲気がいつも以上で、それは残っている録音を聞くとうかがえるよ。翌日はいつものお客さんだったから、しんみりしちゃってね。そういう感じだったから結果良かったなと思って。常連は(そんなに混まないだろうと)みんな高を括って来たんだよね。
解散ライブの内容は行き当たりばったり。でもね、ユカリになってから♪SHOWとかああいう曲をやらなくなってたんで、やっぱり♪SHOWをやらなきゃいけないんじゃないかと思って、前の年のサード・ライブで1曲目に♪SHOWをやってたんだよ。それで、その延長で2、3曲レパートリーが増えているね。(解散ライブの)リハはやった記憶はある。
解散コンサートで思い出したけど、その直前に芝ABCホールで「ナイアガラ・トライアングル」のコンサートをやっている(3月29日)。なんかささくれたライブだったな。
最初は銀次のバイバイ・セッションバンドで、次が僕で、それから大滝さんと言う順番。僕のセットは最初に弾き語りをやったんだよね。クラッシックス・フォーを1曲やって、フリートウッズの「ミスターブルー」。それから「パレード」と「ドリーミング・デイ」をやって「遅すぎた別れ」で銀次に語りをやってもらって、最後は遊びで「ミッキーズ・モンキー」だったかな。そんなセットリストだった。
その日もABCホールが終わった後に、モウリ・スタジオに行ってCMをやっている。明治の「レモンドライ」、今でも覚えている。
やっぱりこの2 〜3月は激動だったね。このあたりの何ヶ月間で人間関係がガラッと変わるんだよね。大滝さんともここで離れるし、バンドも開催するでしょ。事務所もやめて、総取っ替えで新しいスタッフになるの。変わらないのはCM関係のスタッフだけって言う。
    
<この頃は生きている実感というか、そういうのが希薄だった>
解散コンサートが終わってからは何もなし。もうこの頃は、牧村さんが色々と動いていて、小杉さんがそろそろ出てきて、デモもどっかで録ったんだよね。
吉田美奈子のバックというのがあったね。美奈子のバックをやるようになったのは3月になってから。六川正彦って言う、彼はその後、美乃屋セントラル・ステイションに行くベーシスト。今でもちゃんと現役でやってる。あとは緒方泰男ってキーボード奏者とか、みんないい奴らだったよ。
緒方とはレコーディングは無いけど、CMを結構手伝ってもらった。あと下北沢ロフトでソロになった直後のライブ(76年7月30日、31日)とか、スペシャル・ジャムって言って山岸潤史のセッションなんかで、一緒にやった。
シュガーベイブの他のメンバーのことは全然気にしなかった。何しろ生活の実感ってのが無いんだよ、生きてる実感というか、そういうのが希薄だった。なんか浮き草のように漂っているというかね。
でもCMは違った。コマーシャルに対しては、仕事をしていると言う感じがあったんだよ。
いつも口癖みたいに言ってきたけど、自分のものを作るより、人のことを手伝う方が得意だって。そういう第三者のアイデアとかコンセプトに対して、それを何かに加えるとか、そういう方が得意なんだよね。だからコーラスのアイデアとか、コマーシャルとか、共同作業で、色々な人が介在してくる仕事の方があの当時は楽しいというか、要するにリスクがなかったからね。
反対に「自分の歌う曲を書いて持って来い」とか言われると、すごく重くなる。作っても、またケチつけられるだけだとか、そういう被害者意識の時代かな。それがずいぶん後々まで続くんだよね。だから、自分のレコードはいつも尻を叩かれて作っていたんだ。スタジオには遅刻するし。だから本気で真面目に曲を突き詰めて書くようになったのは、結局ブレイクしてから後なんだよね。
特にバンドの解散前後は随分とモチベーションが下がっていて、そうなるとなかなか曲が書けなくなった。DOWN TOWNの頃はまだ創作意欲ははるかに旺盛だったけど、それでもキングトーンズと言う依頼に応えようと思って書いていたから、ああいう曲ができたんだね。言ってみれば他人向けの仕事の方が、責任感がより出たんだよね。
それにずっと後に「ライド・オン・タイム」でブレイクする頃には、責任の意識やあり方が全然変わっていたからね。たくさんの人が自分の仕事に関わっているし、何より聴いてもらえる基盤が圧倒的に拡大した。そうなるとモチベーションが大きく変わって、スタジオにも遅刻しなくなって、小杉さんはじめスタッフに奇跡だって言われたw、人生なんてそんなもんさ。
人間って怠惰だったり勤勉だったりするのは、環境や人間関係の要素がとても大きいんだよ。もともと僕自身はそれほど勤勉な人間じゃないと自分で思っていた。だけど本当の意味での責任感が求められるようになってきたら、それまでと全然違う自分が出てきて、以後はそれのおかげで続けて来れたって言うことかな。
自分でも意外だったけど、僕にもそれなりに社会性とか協調性があったんだね。古今亭志ん生師匠なんか酒ばっかり呑んでたけど、落語だけは稽古熱心だったとか、そういうひとつでも強力な取り柄があれば何とかなる。
最近よく思うけど、特に職人の世界って生活不適合な人間が多くて、だけど職能の一点ではものすごく秀でている、そういう人ばかりなんだよね。昔はそういう社会人として出鱈目でも、仕事がずば抜けていれば、それで許されたんだけど、今は横並びの社会道徳を押し付けられるから、しばしば本当にいい才能が潰されたり、世に出られなかったりする。
自分の若い頃を回想すると、よくもあんなぐうたらな生活でやってたなと思うんだけど、仕事している時は、特に人の介在している仕事の時は、真面目にやってるんだよ。どんなクズみたいな仕事でも手を抜けなかった。それってすごく大きな要素でね。
だから僕がもっと本当のサブカルチャーの世界にいて、やってる音楽のパンクとかだったら、もう完全にドロップアウトしていたね。他人のことなんか全く意に介さなかったし、気をつかうなんてこともなかったよね。周りだって将来の展望なんて持ってるやつの方が珍しかったし、持つようなやつはダメだったんだよw 時代だよね。
【第17回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第16回 メンバー・チェンジ 1975年

<セカンド・コンサート、企画性は良かったが>
1975年1月24日、新宿厚生年金小ホール、シュガー・ベイブ、セカンドコンサート。
このコンサートは計画倒れっていうか、意欲に実力が全然伴わなかった。二部構成で、ゲストも入れたりしたんだけど、構成やアレンジに凝りすぎて、行き方は間違えるし、ボロボロだった。
第一部はスーツ着て出て行ったりね、第二部の途中でストライプのシャツにコットンパンツなんていでたちで、ディック・デイルやったりして。ユーミンに頼んで、ポニーテールで友達と踊ってもらったり。あと大滝さんと細野さんと(鈴木)慶一で、多分バックはムーンライダーズだったと思うけど♪春よ来い、か何かをやったのかな。で、細野さんと慶一が寸劇をやったり。妙なコンサートだったね。そこいらの部分は長門くんが考えたんだよね。僕たちだけじゃもたないから。
で、この時に一部では有名な「クリスマスイブの元詩の曲」をやったの。やったのはこの時、一回だけ。
結局リハーサル時間が全然なくて。発想は良かったんだけど詰め込み過ぎで。セカンドコンサートへの意気込みはすごくあったよ。でも気負いすぎた。オープニングは街の雑踏のSEから♪SHOW、次が電車がダーってやってくるようなSEから♪DOWN TOWN、そんなのばっかりだったの。
そしたら、もう段取りが分かんなくなっちゃって。だからよくあるじゃない、学芸会か何かで詰め込みすぎて、分かんなくなっちゃうって、あれだね。無理せずにやればよかったのに。
楽屋でビーチボーイズの格好している写真があるけど、あの時のもの。あれは金子が撮ったんだ。お客さんはキャパが700で300か400くらいかなぁ。でも日仏会館だったら一杯だった、って言われた。日仏会館のキャパはせいぜい400くらいだから。サードコンサートはもう少し入ったけどね。
当時は今みたいにメディアが普及してなかったから、レコードプロモーションをちゃんとやらないと、ライブに人が入らないんだよね。サブ・カルチャーだもん。事務所の手打ち(自主興行)で、ポスターなんかも自分で貼って歩く、そういう時代だった。だから、これはもう恥ずかしい思い出。でもかろうじて言えるのは、企画性は良かった。問題は演奏力が全然足りなかった。安定感がなく危なっかしい。

  

<リズム隊のパワーを上げたかった>
SONGSの発売が1975年4月25日で。その前後。
3月のベイエリア・コンサートでドラムがユカリ(上原裕)に代わって、銀次も加わった。その時点ではベースはまだ鰐川だったんだよ。(3月29日、ベイエリア・コンサート/文京公会堂/他の出演者はティン・パン・アレイ、小坂忠吉田美奈子、バンブー、鈴木茂バンド、大瀧詠一)。
75年になってSONGSのレコーディングが終わった頃から、メンバーを変えたいと思うようになったんだよ。理由は色々あるんだけど、一番大きかったのはリズム隊のパワーをもっと上げたい、と。
SONGSのレコーディングをユカリに頼んだでしょ。そこからシュガーベイブもユカリのドラムでやりたいと強烈に思い始めて。
当時、他にもドラマーは沢山居たんだけど、ボクはユカリには特に惹かれたんだよね。だから、その頃やっていたCMも全部ユカリでやっていた。「三ツ矢フルーツソーダ」「不二家ハートチョコ」から始まって、74〜75年にやってるCMは殆ど100%ユカリなんだ。
その後、76年にかかる頃には、いつもユカリと寺尾(次郎)のリズムで全てやってた。SONGSで頼んだのも、そういうCMとかでユカリの力量が分かってたから。全く知らなかったら頼まなかった。
で、当時のシュガー・ベイブはライブの安定感がなく危なっかしい。その上に京都・拾得の件とか、イベントなんかで嫌な経験があったでしょ。演奏に不満で、客のウケも悪いから、二重苦なんだよ。それをどうにかしなきゃいけないと思って、メンバーを代えたたいと。
それと鰐川の問題があって。鰐川は大学生だったので、学校に戻りたいとはよく言ってたの。いずれはそうするしかないな、とは思ってたんだけど、そしたら鰐川としてもやっぱりSONGSで野口をクビにして、ユカリに替えたことに関して、思いがあったんだろうね。ベイエリア・コンサートが始まる前に「辞めたい」と言い出した。で、鰐川が辞めるんだったら、この際二人とも変えようと思ったんだ。
その頃ユカリは銀次と一緒に、あるヴォーカル・グループ(ハイ・ファイ・セット)のライブでバック・バンドをやっていたの。そこで二人と一緒にやっていたのが寺尾次郎だった。それでユカリを口説きにかかったんだけど、そのグループへの義理もあったんだろうね、なかなかうんと言わない。
それならユカリ一人だけじゃなくて、銀次も一緒に引っ張り込んじゃえばユカリも来やすいだろうって、結局、寺尾も入れて3人まとめて引き込んで、6人編成になった。
最初にウンと言ったのは伊藤銀次で、銀次がユカリを説得してくれた。ついでに寺尾も引っ張ってしまおう、ってことになって。寺尾に関しては、僕は何の知識もなかったんだけど、慶応の学生でね。シュガーベイブが好きだから大体は弾けるって言うんでオーディションしたら、どの曲も譜面を見ずにきれいに弾けるんで、驚いて即決で入ってもらうことにした。
余談だけど、まりやはその頃ちょうど慶応の学生で、寺尾がシュガー・ベイブに入ったって言うんで、ちょっとした話題だったそう。「あれがシュガー・ベイブに新しく入った人だよ」って、音楽サークルの人たちが、寺尾を遠巻きに見てたって言う話を、あとからカミさんから聞いたことがある。
野口にはメンバーチェンジのこと、僕が直接話したよ。もう、そういう場合って今でもそうなんだけど、ボツにするとかクビにするとか、自分で言うのもなんだけど、僕はそういう場合はできるだけ直接、単刀直入に。
たいていは独断で決めるから。自分でも時々冷たいかな、ひでえかなと思うことあるけれど、でも音楽の問題はどうしようもない。だから駆け引きはなしで、ちゃんと伝えるんだ。その方が後々良い結果を生む。
その後野口ともやれているのは、何よりあいつの人間が大きいからだけど、考えをはっきり伝えたから、と言うのもあるんだ。野口はSONGSのレコーディングの時から、やっぱりそれはしょうがないと思っていたようで。その後、野口はセンチに入ったんだけど、センチもちょうどシュガーと同じような感じでベースとドラムが辞めることになって、それで野口が誘われることになった。
  
<4月に渋谷ジャンジャンで、いきなり客が超満員になった>
SONGS発売直前、75年3月頃にメンバーが変わった。
4月26日に渋谷ジャンジャンでやった時だったかな、いきなり客が超満員になったんだ。それはとても鮮明に覚えている。それまでは20人とかだったのに。
まさにレコード効果。なんでこんなに違うんだろうって。今までと全然違う。やってること同じなのに。多分、それまでとは違うお客が来てたんだね。
Add Some〜作った時と同じで、やっぱり形にして示すと違うんだなって。その会場ではレコードは売れなかったね。ホールやライブハウスなんかでのレコード販売っていうのは、基本的にレコード店と契約してないとダメでね。ジャンジャンはどことも契約してなかったから。当時はレコード小売店に力があったんだよ。だから売りたくても売れなかった。
そんなふうに3月からがシュガー・ベイブの第2期で、6月24日の横浜教育会館から5人に戻って第3期になるんだ。
銀次が抜けたのは、彼の音楽性はリバプールサウンド、ブリティッシュブルースから始まって、ザ・バンドとかそういう感じでしょ。ココナツ・バンクはあくまで大滝さんの志向で、銀次自身のそれじゃなかったからね。メロディーのセンスはあるし、ポップソングも好きなんだけど、ギタリストとして演奏したりアレンジする部分では、僕とはだいぶ違う感覚だったのね。
その辺をなんとかしようとして、ダブルリードとかいろいろ試みてみたんだけど、うまくいかなかった。
そうすると銀次も僕も居る場所がなくなって。僕が前に出てハンド・マイクでやってみても全然ハマらないし、ギター3本いらないしね、アンサンブルがなかなかうまくいかなかった。それでフラストレーションが溜まってきて、銀次に抜けてもらったの。
それで銀次は、りりィのバックバンド、バイバイ・セッションバンドに行くことになるんだよね。

  

<「ヤング・インパルス」は生番組だったから、曲ごとに笑い話があるよ>
74年12月11日、渋谷ヤマハの店頭ライブ。この時には客なんてあんまり居なかった。だけどその10ヶ月後、75年10月19日にこのヤマハでもう一回やっている。この時は黒山の人だかりだった。この時のライブを佐橋佳幸とか、うちのカミさんが観ている。
だから、この1年足らずの間にガラッと変わったわけだよね。実は今のシュガー・ベイブの評価って、殆どこの後半のものなんだ。
でも、そうじゃなくて前半のシュガー・ベイブに執着している人もいまだにいてね。ユカリはとてもクセのあるドラマーで、曲の出来不出来がはっきりしてるから、例えば♪SHOWのような曲はユカリになってからほとんど演奏しなくなった。でも面白いよね。こんなサブカルチャーのグループにも第何期なんてのあって、あの時期のほうがよかったとか、今でも言ってる奴がいるがいるんだからね。暇だというかアホらしいというか。
レコードが出てからでも、ライブハウスの動員が本当に良くなったのは、5人になってからだね。今の感覚だったら1、2ヶ月なんてあっという間だけど、この頃は本当に1、2ヶ月でどんどん状況が変わっていくのね。でもシュガー以外にもCMやコーラスの副業仕事もだんだん入ってきて、事務所の運営も少しは回るようになっていったんだ。で、秋ぐらいに事務所が笹塚から六本木に移るんだよね。
ユカリを引っ張り込んだのは正解だったと、今でも思ってるよ。リズムセクションを強化したおかげで演奏の幅が広がった。ユカリと寺尾になってから不安が軽減されて、歌に専念できるようになった。
僕の記憶では客のウケとかそういうのは別にして、とりあえずライブが安心してできるようになったのは6月以降。
6月24日の教育会館のライブは凄くよく覚えているんだ。センチメンタル・シティ・ロマンスが一緒だった。まだ野口はセンチに入ってなかったかな。とにかく6人のときのライブは、なんか座りが悪いって言う感じだった。
74年12月、日比谷公会堂ユーミンのクリスマスコンサート。僕とター坊がアンコールにゲストで出て「ルージュの伝言」のコーラスをしたんだ。「ミスリム」が出た後、シングルで「ルージュの伝言」が出た頃。この頃は下手するとバンドの仕事よりも、コーラスの仕事の方が多かったりする時代だったから。
75年3月22日、荻窪ロフトで愛奴と共演、あまり覚えていない。この頃ちょうど6人でやり始めたばかりだから、それどころじゃないと言う感じだったかなぁ。この時はまだレコードが出ていなくて、そんなに印象がなかったな。僕の記憶が正しければ、4月20日のブルースパワーからベースが寺尾になったんじゃないかな。(ブルース・パワー・スプリング・カーニバル・イン日比谷/野音/他の出演者はウェストロード・ブルース・バンド、鈴木茂バンド、久保田麻琴と夕焼け楽団、ウィーピング・ハープ・セノオ&ヒズ・ローラー・コースター)。
この頃コンサートはブルースとか、そういう仕事しかなかったから。この時はシュガー・ベイブの出番が最初。以後、野音はひたすらトップ。愛奴と言えば7月26日に野音でやった「サマー・ロック・カーニバル」でも一緒に出たね。でも楽屋とかでもバンド時代の浜田(省吾)くんと話した記憶が全くない。
7月13日のテレビ神奈川「ヤングインパルス」にも愛奴と一緒に出たんだけど、インタビューにメンバーがひとりづつ出てくれって言われてね。こっちは僕が出て行ったんだけど、愛奴は青山(徹)くんだった。リーダーの浜田くんは嫌だって言ったんだって。
6月以降、結構ライブもまとまってきたし、何よりCMがバンドでできるようになったの。この頃、坂本(龍一)くんが仲間に加わって、曲によっては銀次呼んだりして、いろんなことができるようになった。だから音楽的にはコーラスにCMにライブ、の3本立てで、仕事ができるようになっていった。
だから、75年頃にはようやく少しは食えてきた。やっぱり食えてくるっていうのは大きいよね。洋服やレコードも買えるようになった。74年なんて映画もほとんど見ていない。「ポセイドンアドベンチャー」と「アメリカングラフィティ」くらい。
この頃になるとだんだん夜遊びもできるようになって、ゴールデン街に飲み行ってるとか、ようやくそういう風になってきたの。
「ヤングインパルス」は生番組だったから、曲ごとに笑い話があるよ。1曲目が♪雨は手のひらにいっぱいで、僕が生ピアノで歌って、ター坊のエレピでイントロが始まるって言う。エレピはアンプに繋いであって、本番の前に僕がアンプのボリュームを絞ってあるから「必ず始める前にボリュームを上げて」って、ター坊に言ってあったんだけど、ワン、ツーってカウントして演奏がスタートしても、イントロの音が出ない。
ター坊がボリュームを上げるのをすっかり忘れてるんだ。しょうがないから演奏が始まってる中、アンプのところまで歩いて行って、ボリュームを上げて、ピアノに戻って歌い始めたw
それが1曲目で、2曲目はター坊が生ピアノを弾きながらの♪いつも通りで、ター坊の歌い出しで、画面が顔のアップになったら、いきなりPAがハウったの(ハウリング)。そしたらター坊がカメラをキっとにらんでね。あれ、映像残ってたら最高なんだけどな。3曲目は♪今日はなんだか(ファンクラブミーティングで皆さんにご覧いただいた通り)ユカリがスティック落とすやつ。
でも、あの仕事は誰が受けたんだろうね? テレビに出るとか出ないとか、そんな(抵抗)意識全くなかったしね。ただ、その後にそういう話が来なかっただけで。テレビで演奏して歌ったのは結局あれが最初で最後だね。CMに出たのもあるけど。
「ヤングインパルス」って生で昼間にやって、夜に再放送するんだよね。多分出版関係がらみでフジ・パシフィックが愛奴と一緒にブッキングしたんだろうね。「夏に向けてのふたつのグループ」って言うタイトルだったから。でも、こうして改めてスケジュール見ると仕事しているようで、そんなでもないと言う気もするけどね。CMとか結構やっていたんだけどね。
   
<めんたんぴんとシュガー・ベイブのジョイントは、ちょうどいい按配なんだ>
野外のライブは嫌だったね。ほんとに嫌だった。8月の金沢近辺のツアーなんて、とにかく何とも言えない体験だった。人生で一番しびれたのは74年5月の拾得と、75年8月9日の福井九頭竜(くずりゅう)フェスティバル、それとその数日後の富山の高岡だな。
九頭竜は野外イベントに客が入らなくて主催者が夜逃げしたんだ。2万人とか入れる予定だったのが2000とか3000しか入らなくて。だだっ広いところに客がパラパラって。野外の夏の炎天下でしょう。そこに東京から車で行ったの。
僕らの出番は妹尾(隆一郎)くんのローラーコースターと、ウェストロード・ブルースバンドの間だった。真っ昼間なんだけど、トリがダウンタウン・ブギウギバンドってね。客席の最前列は全部つなぎのヤンキーでさ。司会者が石川のAMラジオのアナウンサーで「じゃあ次はシュガーベイブです、イェー」とか言うのはいいんだけど、ヤンキーが演奏中にひたすらヤジってるわけ、「やめろーおめーらー」とか。やじられのは慣れてるから無視してやってたら、いきなりユカリがドラム用のPAマイクつかんで「ワレラ!文句あるんやったらこっち上がってこいや!」って珍しくキレた。しかもユカリはキレても、とても静かなの。「上がってこいや」ってドスが効いてるのw そしたらヤンキーたちがびびっちゃって、後ろのほうにいた女子学生が一生懸命拍手したりして。
あとすごかったのは、僕らが出る直前に僕らのマネージャーが「ギャラをここで払わなきゃステージに上がらない」って主催者と揉めてね。この状況から見て、ギャラを取れない可能性があると思ったんだ。結局、ギャラをもらったのは、めんたんぴんと僕らだけだったんだって。何しろ、主催者が夜逃げだからね。すごかったなぁ、あのイベントは。あとは出演者で女性は、ター坊とカルメンマキと金子マリの3人だけだったのね。真っ昼間の山中の野外でしょ。着替えする場所なんてないの。で、マリもター坊も「じゃあ、このままで着替えないでいい」ってことにしたんだけど、カルメンマキは「私は断固として衣装に着替える」って言って、毛布を5、6枚使って、野郎どもがみんなで囲んで壁を作って、その中で着替えてた、それはよく覚えてる。
もう、この頃はどこ行ってもダウンタウン・ブギウギバンドだったな。浦和ロックンロール・センター主催で、ダウンタウン〜とシュガーのジョイントなんて言う仕事もあった。どうなることかと思ったけど、それは運良く中止になって、ホっとしたw
ダウンタウン・ブギウギバンドにはまだ千野秀一さんはいなくて、オリジナルメンバー。でもこの九頭竜でのヤジられ方は嫌だったなぁ。
めんたんぴんとはよく共演した。彼らは石川の小松のバンドで、事務所同士が親しかったのと、あと彼らは自分たちのPAPA運搬用の10トントラックを持っていて、それで全国ツアーをしていたんだ。グレイトフル・デッドみたいなやり方でね。だからめんたんぴんにくっついていれば、とりあえずどこのホールでもライブができたの。めんたんぴんの連中もいい奴らだったし、めんたんぴんとシュガー・ベイブでジョイントをやるとちょうどいい按配なんだ。
学園祭とかあると、こっちが柔らかくて、向こうが重いから。こっちが先に出て、めんたんぴんが後から出ると、どんな客でもいい感じに収まるんだよ。
そんな感じで、九頭竜の翌日に金沢でやった百万国夏祭りとかも一緒にやったけど、そっちは酔っ払いばっかりだったし、8月17日の卯辰山って言うのも、何だか知らないけど重苦しくて、変な雰囲気だった
そうそう。この金沢のツアーの最終日に富山の高岡で、やっぱりめんたんぴんとやったのね。あれは本当にものすごかった。
客が全部ボンタンのつっぱりだった。イベントの主催者がその筋の人だったの。パー券もどきにチケット売ってたんだって。で、ステージ上がって行ったら、ステージの縁のところに一升瓶が並んでるんだよ。ホールに半分足らずの客は、全員ボンタンにツッパリのヤンキーばっかりでね。「わー、女だ、脱げー」と。ター坊、足が震えたって言ってたもの。
他のみんなもびびったって言ってたけど、実は僕、この時代は栄養状態が悪くてね、夏になると喉が膿むの。扁桃腺が白くアバタになって、そうすると39度近い熱が出る。金沢のサナトリウムクロロマイセチンをもらって飲んでたの。クロマイって強い薬で、いわゆるトンだ状態になるんだよね。で、その時は幸運なことに、僕ひとりだけ朦朧としていて、へらへらと調子のいいことを言ってやってたので、ヤジられるだけで済んだ。
だけど、めんたんぴんが始まったら、客が一升瓶片手にステージに上がってきて、満員電車状態になったの。楽屋まで入ってきて、寝てるしね。すげえなぁと思ったけどめんたんぴんのメンバーが「こういうことを超えないと、ロックはできんのや!」って。そんなロックはやりたくねぇなぁって思ってたなぁw
それで終われば、まだよかったんだけど「打ち上げをやるから来い」って言われて、変なスナックに連れていかれてさ。そしたらスナックの前に、ハーレーがダーっと並んでるんだ。スナックのテーブルや椅子を全部とっぱらって、赤絨毯の一番奥にダボシャツに腹巻のおっさんが、あぐらかいて座ってるわけ。「おう、よく来たな」って。その周りに若い連中がずらっと並んでて。そこにめんたんぴんと僕らが連れていかれて「まぁ、まず一杯」って酒が出た。村松くんもター坊もお酒はあまり飲めないから「その分僕がもらいます」って、僕が取り持った。で、「これから東京に帰らなきゃなんないので、あんまり遅くなると」って、早々に逃げ出した。帰りの車で、熱が出てうなされたよ。しかも東名は土砂降りの雨でさ、思い出すなぁあの夏、1975年。

  

<この頃から縁故じゃない仕事がポツポツと入り始めてた>
こんなイベントへは村松くんのシビックと2トン半の楽器車で。それに交代で乗って。電車賃なんてないもの。泊まるとこだって毎日違うしね、そういう時代だったんだよ。
あの時代の経験のおかげで、何にも怖いものなんてありませんw 今は天国ですよ。
守ってくれる人がいるし、とにかくあの頃はね、みんなでギターやアンプをどうやって守ろうかって言う。楽器がなきゃ演奏できないから、楽器だけは壊されないようにしようって言う、それはすごく気を使った、みんなで。ああ、色々思い出して来ちゃったw
8月21日、日仏会館、センチメンタル・シティ・ロマンス、アルバム発売記念コンサート。これは僕がゲストで一人出て♪DOWN TOWNを歌った。前にも言ったと思うけど、センチはCBSソニーからデビューしたんだけど、ソニーの洋楽セレクションが邦楽を手がけた最初なのね。
ソニーと言う会社はもともと洋楽の強い会社で、洋楽と邦楽の間で競争意識が強かった。だけど、当時はそれこそキャンディーズから、南沙織から百恵ちゃんのちょっと前くらいだからね。洋楽スタッフが邦楽に手を出したって言うんで、邦楽勢からの反発がすごかったんだ。
当日は客席の中程に招待席があって、社内のそういったお歴々が並んでいるわけ。で、1曲終わるたびに「つまんないね」「なんだこれ」って具合に聞こえよがしに貶すんだ。途中で、バッーって席を立って帰ったり。「すげえ世界だな」って驚いた。
9月7日、札幌厚生年金会館。この時に生まれて初めて飛行機に乗ったんだ。ポプコンのゲストだった。これも誰が入れたんだろうね。ポプコンのゲストって何度かあったんだよ。
この時は前日がリハーサルで、その時に僕らの現場スタッフとヤマハPAの人と喧嘩になってさぁ、本番になったら電源に切るって言われて「やれるもんならやってみろ」ってタンカ切ったり。この札幌に行く前、昼にキングレコードのスタジオで黒木真由美の歌入れをして、飛行機で北海道に行ったのをよく覚えてるよ。
この頃はスタジオ仕事が多いね。CMやユーミンの「コバルトアワー」のコーラス、この頃から少しずつ名前が出てきているっていうか、縁故じゃない仕事がポツポツと入り始めていた。
黒木真由美の仕事は、キングレコードのディレクターがシュガーベイブのアルバムを聴いて「曲を書いてくれ」ってきたの。
9月12日は中野公会堂のめんたんぴんコンサートに共演で出たんだけど、この時期に写真学校の学生が「めんたんぴんが好きなんですけど、写真を撮らせてください」って来てね。ついでにシュガー・ベイブも撮っているうちに、僕らのライブにも来るようになった。それがのちにロック関係の取材カメラマンとして有名になる菊地英二さんだね。今でも僕やまりやの取材に来てくれる。菊地さんが当時写真をずいぶん撮ってくれていたので、シュガー・ベイブのライブ写真がたくさん残っている。とても助かってるよ。
スタジオではコーラスが主だったね。クラウンでは伊勢正三さんの「風」をやったり、山田パンダの「風の街」とか。ソニーでは山本コウタローさんや斉藤哲夫。キングでは丸山圭子
アルファではユーミンのほかにルネ・シマールというカナダの男の子。ルネはステージまでやらされた。僕とター坊と村松くんと(吉田)美奈子の4人でね。ライブ盤で音が残ってるけど、よくハモってるよ。
あとティン・パン・アレー関係で小坂忠さんとか。そういう感じで色々だね。
ユカリには結構ドラムの仕事が入ってきてね。有名どころでは山本コウタローとウィークエンドの「岬めぐり」はユカリと寺尾の演奏だよ。シュガー・ベイブの事務所は僕ら以外はジャズバンドばかりで、ジャズクラブの仕事が毎日入ってたから、ユカリのスタジオ仕事までは面倒見切れなかった。で、僕がライトバンにドラムを積んで、ユカリを乗せてスタジオに行って、セッティングを手伝って、終わったらばらしてギャラをもらって帰る、なんていうマネージャー代わりもやったりした。当時の我々の事務所は、向井滋春クインテット、吉澤良次郎カルテット、山下洋輔トリオ、それにシュガー・ベイブが所属と言う、ヘンなオフィスだった。

  

<この時代NIAGARA MOONの曲はほとんど全曲やったよ>
シュガーベイブの曲数はね。曲は書いていたけどCMの方が多いなあ。だけどこの頃にはもう「こぬか雨」もやっていたし♪WINDY LADYもやってた。あとはター坊の♪約束、♪愛は幻。♪SUGARがどんどん長くなって行ってた。だから解散コンサートでやってるレパートリーはもうほとんどあったね。SHOWやDOWN TOWNを全くやらなかった時代もあるからね。だけど、どんなにがんばっても16〜17曲だから。
そうか、考えたらこの頃は大滝さんのバックもやってたんだな。ユカリが入ったから。ユカリが入って、寺尾が弾けることが分かったから。でもどうして大滝さんのバックをやるようになったのか。
その前に、布谷(文夫)さんのバックっていうのがあってね。いつ頃からやったか覚えてないけど、74年9月29日の横浜グリーンピースかな。凄まじいライブハウスでさ、30人そこそこしか入らない狭い場所で、ステージは1段、と言っても15センチくらい高くなっていて、上に蛍光灯が1個付いていて、それが照明がわり。それを付けると開演なのねw 
その時はユカリ、野地義行くんのベース、矢野誠さんのピアノ、銀次、村松くん、僕だった。僕はクラビネットとか半端な楽器ばかりやらされたんだ。
その後、矢野さんの代わりに坂本くんが入ってきたんだよ。さらにそこからユカリ、寺尾、村松、坂本、僕の5人で大滝さんのバックをやるようになった。さらに、それにター坊がコーラスで加わって、シュガーベイブ大滝詠一のパッケージと言う形になってきてね。それが76年まで続くの。
75年(5月30日)にNIAGARA MOONが出たでしょ。多分それでライブをやんなきゃ、ってなったんだよ。だからこの時代、NIAGARA MOONの曲はほとんど全曲やったよ。
なんたってユカリが叩けるし、坂本くんも来て、そんなのができるようになったんだよね。1曲目がそれこそ♪論寒牛男(ロンサムカーボーイ)とかさ。
でも記憶っていうのは曖昧なものなんだよね。今度ビクターで及川恒平さんが詩を書いて、坂本くんが曲を書いた「海や山の神様たち〜ここでも今でもない話」って言う教育教材のアルバムがCD化されるんだよね。
その時に坂本くんから、少年少女合唱団に歌わせるので、コーラスを書いてくれって頼まれて、譜面を書いたんだけど、僕はこのアルバムがきっかけで、及川耕平さんのアルバムに参加することになったと、ずっと思ってたんだけど、今回スケジュール帳を見たら、及川さんのアルバムの方が先なんだよね。記憶っていうのは自分が思い込んでいる事と時々違うことがあるんだよね。
75年発売の「海や山の神様たち〜ここでも今でもない話」は大変だったんだよ。だってスコアも何もないんだもん。演奏のテープを1本送ってきただけで、コード表すらないものね。当時の坂本くんは現代音楽の作曲だったから、アバンギャルドな歌曲と言う感じでしょ。譜面起こしの方が、コーラス譜を書くよりもよっぽど時間がかかった。
ポピュラー音楽と現代音楽の中間みたいな感じで、中にはハーモナイズしても子供が歌えるとはとても思えなくて、僕とター坊の2人でコーラスをやったり。
でも、ここから年末にかけて大滝さんの細野さんのジョイントコンサート、トロピカルムーンがあって、シュガー・ベイブのサードコンサートもあったり、11月22日には渋谷ジャンジャンで昼にやって、夜は荻窪ロフトでやってる。すごいね。
75年の大晦日オールナイトコンサートは名古屋の雲竜ホールだね。この時はトリがセンチで新年タイムを誰が取るかって言うんで、愛奴が散々引っ張ったんだけど、結局シュガー・ベイブがいただいたw このときには愛奴にもう浜田君はいなかったな。
と言うことで、いよいよ1976年になるんだね。
【第16回 了】