The Archives

次の時代へアーカイブ

ヒストリーオブ山下達郎 第54回 2000年夏、まりやのライヴ復帰と『souvenir』発売(11月)

<まりやは18年ぶりライヴだったけど、何も心配していなかった>
2000年7月11日、12日で武道館、31日に大阪城ホールで、まりやの18年ぶりライヴとなったTOKYO-FMとfm-osakaの開局30周年記念イベントが行われた。僕にとっては文字通り、生まれて初めての武道館のステージだった。夏だったけど、武道館のステージの奥は湿気が多くて蒸し暑かった。そもそもは東京FMの開局30周年のイベントとして、まりやのライブを武道館でやってほしい、という要請が最初だったんだけど、何しろ18年くらいライヴをやってなかったから、どうしようか、2時間半は無理だなと思って。それで本人は1時間ちょっとでやれるように、オープニング・アクトで誰かに出てもらおうか、いろいろ考えて。こちらの演奏メンバーは、いつもの自分のメンツでやればいい、と思ってたから。FM大阪も同じく開局30周年で、こっちはあとから決まった。あいのりというやつ。
共演者については身内でやろうと。cannaはうちの事務所でメジャーデビューをしてちょっと経った頃で、Sing Like Talking佐藤竹善のバンドで、当時は少し休んでいたけど、この当時はドラムが村上ポンタ、ベースはとみやん(富倉安生)だった。そういう時代だったこともあって、彼らに手伝ってもらった。イベンターも僕と同じSOGOだったし。
まりやにとってのライヴ復帰は結構大きな出来事。『Bon Appetit!』が翌2001年に出るけど、ベスト・アルバム『Impressions』がバカ売れしてから、まだ5〜6年。シングルもコンスタントに出ていて「今夜はHearty Party」(1995年)がオリコン・シングルチャート3位。「カムフラージュ」(1998年)では、彼女初の1位を獲得していた。勢いは十分にあって、それにライヴという付加価値がつけば、また歌手生命を少し先延ばしができるな、とw  僕自身は、まりやが昔ずっとライヴをやっていたのは見ているから、それほど心配をしていなくて。ただ、久しぶりなので体力的な問題や、喉もそんなに強くないから、演奏時間を少なくすれば、何とかなるだろうとは考えていた。
彼女が現役でやっていた頃は、バックバンドの演奏に対する不満も、少なからずあったようだけど、リハーサルで僕らのバント音が出たときに、これで大丈夫、と思ったらしい。はっきり言って「SEPTEMBER」とか、レコードよりも僕らの演奏がうまいから。何度も言うけど、彼女は昔かなりの数のライヴやってたし、しかもあまり条件の良くない所でもやっているので、そういう人は、別にそんなに困らない。2000年の時点で、彼女の昔のことを知らないスタッフは、不安もあったかもしれないけれど、僕はほとんどなかった。彼女はヒット曲も多いから、「不思議なピーチパイ」や「SEPTEMBER」とか、寝てても歌えるくらい、昔はテレビで毎日のように歌っていたから。まあ励ましたところで、やるのは自分だから、こっちが心配しても。
僕とは違って、彼女は武道館で何度も歌っているし、それにリハーサルから始まって、楽屋やバックステージの仕切りは、昔とは比較にならないほど向上しているから。僕らの若い頃は、電車移動はもちろん普通車だし、ホテルは毛布1枚しかないようなビジネスホテルで、温度や湿度は満足に調整できないし、アメニティーも貧弱だった。歌う人のコンセントレーションに対する、周りの気遣いも希薄で、楽屋に不必要な人が出入りするなんて、日常茶飯事だった。そういう時代をくぐって来ている人だから。
活動復帰してからの、これまでのまりやのライヴ出演といえば、サプライズ的にセンチのゲストに出たり。そういうリスクのないのには随分と出ていた。僕のツアーのアンコールの時に、コーラスでステージに出るとか。まあ自分が真ん中に立つのとは全然違うけど。
いくら励ましたところで、コンセントレーションとかそういうものは、本人の自覚で、それは残念ながら場数を踏むしかない。
確かにライヴは怖い。そう簡単なものじゃない。でも自転車とか水泳とか同じで、10代の頃からやっていれば、80歳になって50年ぶりに乗ったり泳いだりしても、できるものだから。そういうのと似ている。ボイス・トレーニングをやるにしても、こっちがライヴをコンスタントにやってきているので、そういうノウハウはあるし、楽屋はどうするかとか、ちゃんと段取りもできるから。レコーディングもライヴも、僕の使い回し。スタッフは全部、照明からPA、楽器クルーも僕と同じだし、そこにいつものスタイリストとメイクの人がいれば、別に問題は無い。女性はそういう衣装とかメイクは大事だから。
ライヴを18年やっていなくても、その間にレコードはコンスタントに出している。レコードを出していなくて15年ぶりライヴ、では動員は難しい。おそらく武道館は無理だろう。でも、レコードの売り上げに関しては、何も問題もなかったから、観客動員に対しても、何の心配もしていなかった。
どうしてまりやがライヴをやろうと思ったか。レコードを出し続けて、ヒットも出ているけど、どんな人たちが聴いているのか、実感がない。だから目の前にどんなお客さんが来るのか、知りたかったのが、動機としてはすごく大きい。今でも全国ツアーをやるのは、その意味もあって。なので、無観客ライヴをやってもしょうがない。自分のお客さんに会いに行くためにやるのだから。ライヴをやっていなくても「カムフラージュ」が1位になって、じゃあ一体誰が買って、誰が聴いてくれているんだろうと。それを確認してみたいというのが、すごくあった。自分が人前に出て歌いたい、とかじゃない。
僕とまりやのお客では全然違う。それくらいの予測はつく。まりやのお客さんは素直で良いお客さん。僕の客は、へそ曲がってんのが多いから。昔は特にw
武道館について言えば、武道館は自分が観に行って面白いホールではない。アリーナはパイプ椅子だし、スタンド席はプラスティックの椅子。YS-11(旅客機)みたいに、坐り心地が良くない。そういうところで、僕みたいに3時間やっても、というのがある。
音が良くなったと言われるけど、そういう問題じゃない。音楽評論家かなんかにそんなこと言われても、連中はアリーナか1階の関係者席で観ているから。そういう特別招待のやつがそんなこと言っても説得力がない。学生の時、2階の後ろで観た時はどう思ったか。東京ドームで上から見下ろしたら、米粒だから。観たうちには入らないけど、そういう観衆にも説得力を届けようとか、そんな意欲は自分にはないw  いつも言ってるけど、1万、2万と、どんどん動員が増えていくと、こちらから見えるお客って、本当に抽象的になるから。別に誰かがあくびしても、自分にとっては何でもない。けど、やっぱり新宿ロフトなんかでやると、目の前にいるわけだから、そうはいかない。
武道館で自分の曲を演奏したのは、2010年のワーナーのイベント(創立40周年記念”100年 MUSIC FESTIVAL”/2010年10月31日)で、それは考えたら、夏フェスとかと同じで。夏フェスの方が野外で、反射がなくて、オーディオ的にははるかに良い。お祭り的なものは意識していたけど、武道館を目指した事はないし。目指したくないやつだっているんだ、っていう価値観だからw
別にやろうと思えばどこでもできるけど、自分がやるとしたら、一応自分の中での決まりみたいなものがあるので。広義の意味でのプロモーションというか、キャラクターというか。武道館でやらない、本を書かない、テレビに出ない、っていうキャッチフレーズでやってきたから。
   
<レコードに近い音にならないとダメ>
セットリストは、まりや本人の意思が大きい。1曲目の「アンフィシアターの夜」とか。「リンダ」をアカペラでやろうと言ったのは僕だけど。あとはリハをやってみて、決定した。実際に演奏してみないとわからないから。概して同期ものは難しいし、例えば「今夜はHearty Party」みたいな曲は、意外に面白くなかった。選んだのはベスト曲というより、本人が歌いやすい曲。ヒット曲は入れなくちゃ、っていうのはあるけど。でも「シングル・アゲイン」とかは難しいし、この頃はあまり演奏も含めて満足がいかなくて、やっていない。
それでもバンドのノリはよく出ていたと思う。それは、この日のために集まったのではなく、もともと演奏しているメンバーだから。それは大事なことで、レコードに近い音にならないとダメだから。
いわゆるR&B系の人は、ステージ用のバックバンドを雇うから、演奏が一格落ちる場合が多い。昔の話で申し訳ないけど、バリー・ホワイトはリズム・セクションは連れてきたけど、弦やブラスは日本人を現地調達だったから、全く似て非なるものになっていた。フレディ・ジャクソンとか、あのクラスになると、もう全くの営業バンド。サザンソウルは比較的オリジナルのレコーディング・メンバーが来るけど。R&Bのライヴを観るなら、バンドがいい。アース・ウィンド&ファイアーとかコモドアーズ、クール&ザ・ギャング、バーケイズとか、そういうバンドものだったら、レコードと同じ音がする。自意識の高い人、例えばジェイムス・テイラーなんかは、レコーディングとほぼ同じメンバーでやってるので、ちゃんとしている。スタジオとライヴでミュージシャンが違うと、どうしてもライヴでの感触が変わる。僕がそれがイヤだった。
この時、自分のライヴと一番違ったのは、とにかく自分が歌わないので、とっても楽、ということw  余談だけど、実はこのライヴで分かったことがあって。僕は小学校の時から、ずっと落ち着きがないと言われていて、この時にそれを自分で初めて実感した。ホールを借りて、ゲネプロ(通しリハーサル)をやったときに、ビデオを録画したんだけど、それを見たら演奏していない時、例えばまりやが曲の段取りをPAと打ち合わせているときとか、他のメンバーはみんなじっと動かずに立っているのに、僕ひとりだけひっきりなしに、右に左に、ウロウロと動いていた。ああ、これだったんだって。
1977年に吉田美奈子のライヴでバンマスをやったときに、新聞のライヴ評に「山下の態度に落ち着きがなかった」みたいな書かれ方があって、何のことか全然わからなくて。それが半世紀近くも経って、ああこのことだったのか、ってわかったw  それ以来、一生懸命意識して、じっとしているようにしている。自分のライヴの時はマイクに向かっているから、動かないですむけど、ひとたび人のバックだと、そうなっちゃう。中学の時のアダ名が”クマ”で、考え事をするとウロウロするんで、そうなったんだけど、その本質は50歳近くになるまで、わからなかったという。とにかく、それが2000年のまりやのライヴでの一番の収穫w
人のバックでステージに立つ時は、コーラスが一番多かったけど、この場合は自分が編曲しているから、ギター弾きながらでも、他に不足しているところをどう埋めるか、キーボードを足すのか、フィンガー・シンバルをチーンと鳴らすのか、カバサをやるのか、そういうところの便利屋的な役割は、色々とこなしている。
武道館のステージに立っての感慨という点では、2010年のワーナーのイベントの時の方が強かった。人の後ろでやっていると、それどころじゃないというか、細かい段取りもしなきゃいけないし。それに対して、自分が中心の場合はステージの真ん中で、自分の作品を、観客に向けて発信しなければならない。その感応する部分というか、空気感というか、そういうものを感じつつ、進行しなければならない、自分のライヴじゃない場合なら、多分ドームでやっても大して変わらないと思う。
昔の夏フェスというか、野外イベントみたいなものは、お客も少なかったし、そういう実感はなかったけど、2010年に初めてライジングサンのステージに立った時に思ったのは、武道館とあまり変わらないな、ということ。それに今の夏フェス、氣志團万博(2017年)なんかでも、こちらのやっていることを観客がきっちりと受容、許容してくれてる。昔はそうじゃなくて、茶々を入れてやろうとか。そういうのが昔と違って全然ないから。ワーナーのイベントの時は思うことあって「2階のいちばん後ろまで届くように歌います」みたいなことを言った。ツアーでも、大きめのホール会場では、そういうメンションは、必ずするようにしている。
今はスピーカーもフライング(釣り)だし、いい音になってる。2000年の時も問題はなかった。むしろ小さいライブハウスより、アリーナとか、野外フェスとかの方がたくさんお客を呼ぶ必要があるから、ノウハウが確立されている。小さい所での100人なんて呼ばなくたって来るから。そこにいることだけで満足しろ、みたいな。だからPAが良くなくても大丈夫で。でも、東京ドームだと、そうはいかない。外タレでチケット代いくら取って、なのにこの音か、と言われてきたから。日本だけじゃなくて、全世界の規模でやるためには、どこでも囂々たる非難が初めはあったけど、今はそういうことを聞かない。
まりやとデュエットした「LET IT BE ME」は、人の結婚式で何かやれと言われたときのために、80年代からやっていたもので。ジルベール・ベコーの曲で、エヴァリーブラザースもカヴァーしている。商売柄、何かご披露しなきゃいけない場合があるので、自分ひとりの時は弾き語りで「YOUR EYES」とか。で、二人の時の曲に困って、それならデュエットものを作ってみようと。ホームレコーディングでカラオケを作って、それをバックにやったら、えらいうけた。以来、もうずいぶんやっていた。だから最初は、あくまで披露宴の余興でw  ステージで最初にやったのは東京FMホールでの3人ライヴ(サンデーソングブックの3周年記念/1995年11月26日)の時じゃないかな。正式なレコーディング版は2008年のベスト『Expressions』に初収録した。
そんな選曲も、全て企画性から来るもので。アカペラでの「リンダ」なんかは、僕がベース・パートだし、ドゥーワップのベースだったら、僕は誰にも負けないからw  「リンダ」は譜面をでっかく拡大コピーして、武道館のステージに敷いて、それをみんなで見ながら歌うというw  あのライヴは、僕のフォーマットがあったからやれたわけで、あれをいきなりゼロからやろうとしても無理だった。そして2010年、2014年のツアーの伏線にもなった。本当は2021年も開催する予定だったけど、こればっかりはしょうがない。誰もがそうだから。
ライヴは肉体労働だから疲れる。ストイックなものを要求されるし、決して楽しいばかりではない。彼女の場合はアリーナで2日連チャンだし、どうやって体調管理するかも、すごく気を使う。僕なんかでも、慣れているとはいっても、結構辛いから。前の日はきちんと睡眠をとらなければならないし、もしも夜中に電話でも鳴ったら、と心配になったり。朝4時ごろに目が覚めて、それから全然眠れなくなったり。そうすると翌日に影響があるから。あと冬は、特に乾燥。だから、ツアーは夏にしようとしてる。
   
<ライヴ収録はしていたけれど、世に出す予定はなかった>
このライヴは録音して、映像も撮るということにはなっていた。ある程度レコードの売り上げもあるんだし、資料映像としてだって、18年ぶりのライヴを撮らないわけにはいかない。ちょうどビデオがデジタルになった頃だから、そういうこともあった。世に出す予定は、その時点ではなかったけれど、レコード会社の事業計画で出すことになった。
ライヴ・アルバム『souvenir』は2000年11月22日にリリースされた。アルバムには、結果としてステージでの曲順通りに収録されている。ちょうど入る時間だった。だからライヴを追体験できる完全収録盤、まあMCは入ってないけど。内容はノイズは補正はしたけど、歌とかは一切いじっていない。いじれるような時代じゃなかったし。まだオートチューンもない。プロツールスでもない。
この時の映像は2018年11月に劇場公開された「souvenir the movie 〜MARIYA TAKEUCHI Theater Live〜」にも収められているし、映画はのちにDVD/BD化もされた。NHKの番組やシングルやアルバムの特典にも使用されたけれど、スタッフには思惑はあったんでしょう。それが一応、普通のプロダクションのやり方だろうし、周りから出て来た意見だろうと。僕のだって、一応シアターライヴ(映画)ができるくらいの素材が、80年代から撮って残っているわけで。当時はアナログだから、今と比べれば画質は落ちるけど、VHSでハンディじゃなくて、ちゃんと複数台のプロ機器で撮ってるから。ライヴアルバムやDVDの販売は、事業計画の数字をクリアするために出すというのがイヤだっただけで。それはクリエイティブな発想ではない、と。当時のレコード会社ではそれが続いていたから。
何がよくて何が悪いのかはわからない。全て結果論。 人間万事塞翁が馬。僕に関しても、例えば「プラスティック・ラブ」のコーダのシング・アロングなんて、アルバムに入っている2000年のも、配信で流した2014年のも、ハイBのロングトーンがきっちり出たのは、あの収録していた日だけだったから。火事場の馬鹿力w
    
<景気が回復して、CDが売れていた時代だった>
2000年11月22日『souvenir』発売と同時に、初のマキシ・シングル(12センチCD)サイズで「クリスマス・イブ」がリリース。CMでもJR東海で”クリスマス・エクスプレス2000”として、8年ぶりに復活、ありがたいことで。深津絵里さんや牧瀬里穂さんという歴代のヒロインが出演する新CMになったけど、具体的なことは知らなかった。前の出演者が出る、ぐらいまでは聞いていたけれど。
JR東海のCMシリーズは1992年まで続いて。そのあと93年からはTBCのCMなどで「クリスマス・イブ」は流れていた。この曲は、安易にベストやコンピレーションに入らないことで、使い捨てにならず、長持ちした。それこそ、今でもサブスクを使わないのは、そうしないと本当に使い捨てになってしまうから。
JR東海がCMで復活させたのは、意外と景気が良かったこととも関係がある。一時は円高で、株価も下がっていたけど、この時代はITバブルで景気が回復したこともあって、CDも売れていたから。それでまた新しい層が出て来た。2000年頃はミリオンヒットもあって、時代に勢いがあった。
「クリスマス・イブ」のリリースも、8年ぶりで、累計の売り上げが200万枚を突破した。大きなレコード会社なら3年で売り切ってしまうだろう。ワーナーは小さい会社だったから、短期間では売り切る販売力がないので、毎年毎年、ちょっとずつ売っていくしかなかった。ギネス記録になったのは2015年の、30年連続チャートインの時だったか(認定は2016年)。一度も廃盤になったことがなく、いつも現行盤として継続している。
今は再発って大体限定だから、そうするとグロスとかも変わる。だから仕様が変わったとしても継続して発表されているのがすごく重要。宮治淳一くんがやっている、ワーナーのナゲッツシリーズのコンピレーションも絶対に限定販売にしない。バックオーダーをちゃんと取って、カタログとして継続的に出すようにしているから。
【第54回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第53回 ON THE STREET CORNER1、2再発(2000年1月)とシングル「ジュブナイル」(7月)

<残念なことに、日本ではリイシューにあまり関心がない>
1999年11月25日『ON THE STREET CORNER3』が発売され、翌2000年1月26日にオンスト1と2が、パッケージも3に合わせ、リイシューされた。このリイシューは僕の発案だった。僕が言い出さない限り、こういうのはいつまでも出ない。2002年のRCAAIRイヤーズでの復刻も、僕が全部提案した。他社のカタログだから、リイシューについては、誰も言い出さない。
基本的に日本の芸能界は、昔からカタログ保持という発想が希薄で。映画会社もそうだけど、レコード会社もそう。旧譜の管理を、きちっとやろうという意欲がない。だから大滝さんとか、僕とかが変わっているw  洋楽を聴いていて、海外での復刻状況とかを見ていると、カタログ管理がいかに大事か感じる。ところが、日本の場合はレコード会社も音楽出版社も、とにかく短期決戦で売り切って、あとはスクラップも同然。今流行のシティポップとやらだって、きちんとマスター管理をしていれば、今だってちゃんと売れるはずなのに、バッタもんみたいにコンピレーションで出され過ぎて、バリューがない。でも、僕とか大滝さんは、もったいないから、ちゃんとリマスターしてやりましょうと。CDが出た当時のクオリティーより(マスタリングは)はるかに良くなっているから。それにボーナストラックを入れるという技もあるし。
2020年に出した『POCKET MUSIC』や『僕の中の少年』のリマスター盤も、どちらもベストテンに入るという、昔だったらありえないことで。今はそういうリイシューに関しては良い時代なんだから、もっと積極的にやればいいんだけど、日本はミュージシャン本人も含めて、あまり関心がない。とても残念なこと。
あと、どんなにリマスターしても、歴史の試練に耐えない、現代のオーディオ的評価という試練でも耐えられない場合もある。ベンEキングの「STAND BY ME」は今聴いても大丈夫だけど、同時代の、スティーブ・ローレンスの「FOOTSTEPS」なんかは、今聴くと、すごくショボい。何が違うのかと言ったら、編曲、演奏、そしてエンジニアがドム・ダウド。リーバー&ストーラの手掛けた作品の普遍性がある。
でも、オンスト3の時は、リマスタリングが本当にいい音になってきていたので、実現できた。ひとりアカペラは同じ声の多重録音なので、ピークがとても強くて、適正なレベルでリマスタリングしないと歪みが出る。
オンストのリマスターでひとつ後悔しているのは、こないだも言ったけど、ジャケットを変えちゃったこと。いつかオリジナルに戻したいと思ってるけど、タイミングを計りかねているというか。でも、仮にそうしたら、またおまけをつけろ、とかなるだろうしw  もうテイクは全部出払って、残ってないから、ライヴ・ヴァージョンならたくさん録っているから入れられるかも。本当はライブハウスでノーマイクで歌っているのを記録できればいいんだけど。何度かトライはしたけど、オーディオ的に満足できない。ブートレグというか、ラジオの街頭録音みたいになっちゃう。高円寺JIROKICHIでのライヴ配信(2020年12月26日)でも試してみたんだけど、全然駄目だった。「YOUR EYES」をノーマイクで歌って、難波くんがピアニカ演奏するテイクで試してみたけど、全く使い物にならない。ホールでラジカセで盗み録りしているような感じになってしまう。
生で聴いていると、人間の耳はそれをちゃんと選別できる能力があるけれど、その勘所(かんどころ)は録音された音では伝わらない。難しいところ。
   
<オンスト1、2はソロ名義でのリマスター、最初の作品>
僕の場合、最初から録り直す、いわゆるリレコはほどんどない。でも、ミックスのやり直しはよくやる。昔はシングルなんて締め切りがギリギリで、それこそ「4日であげろ」みたいなことがあった。90年代以降は、例えば楽器ひとつの選定でも時間がかかって、レコーディングの時間が伸びるから、ミュージシャンもエンジニアもそういうもののスピード感に悩まされて、不本意なまま録音を終わらざるを得ない。リミックスという発想が生まれた背景には、そういう部分もある。音楽に限らず映画でも、例えばコッポラなんかはディレクターズ・エディションが何個あるのか。小説家でも高村薫の「マークスの山」は最初に出た単行本と、文庫本の内容が違ってて、さらに再販でまだ改訂して、いつまで変えるんだ、みたいな、そういう人もいる。大滝さんみたいな人w
僕の場合は、リミックスするにしても楽器ごと全部変えちゃうと、印象が変わってしまうから、歌も取り直すとか、そういう事はなるべくしないで、あくまでオリジナルの録音素材で、ミックスダウンを変えると言う形にしている。
今(2021年)ニューアルバムをレコーディングしていて、ここ10年で7曲くらいのシングル曲があるけれど、ミックスを全部やり直した。主にオーディオ的なスペックを上げる目的で。これに対してオンストの場合はもうちょっとマイナーなアプローチだった。
ボーナストラックをどう入れるかは結構考えた。リマスターのオンスト1には、「GEE」と「CLOSE YOUR EYES(All Tatsuro Ver.)」がボーナストラックに入ったけど、中間に挟む形で追加した。それは「THAT’S MY DESIRE」で終わりたかったから。考えてみれば、2002年のRCAAIRイヤーズのリイシュー前だから、オンスト1、2はソロ名義でのリマスターの最初の作品になっている。基本的にCDにボーナストラックを入れるのは、販促的なメリットだし、サービスだから。89年にビーチ・ボーイズの『PET SOUNDS』のライナーを書いた時、ボーナストラックが入っていて。その後にどっとビーチ・ボーイズのリイシューが出てきた時にも、ボーナストラックがいっぱい入っていた。あの頃はボーナストラックを売りにして、オリジナルのアナログをCD化するみたいな商法が出て来ていた。そういう方法論だから、当然、これもそうで。
オンスト1の「CLOSE YOUR EYES(All Tatsuro Ver.)」はもともとあったもので、確か90年代の初め、第一生命のCMの時に、契約上の問題で吉田美奈子のヴォーカルを入れられなかった。その部分を自分で入れ直して作った”オール達郎バージョン”というのがあったので、それを入れた。
オンスト2のボーナストラックはレコーディング時のアウトテイクで「HEAVY MAKES YOU HAPPY」と「WILL YOU LOVE ME TOMORROW」の2曲。「WILL YOU LOVE〜」なんかは86年のオリジナル・リリース時には、あまりにベタ過ぎるので、ちょっとイヤだなあというのがあった。40代はまだベタに対する抵抗があった。そういうのをやってもしょうがないと。でも、お客には結局、知っている曲が受けるんだっていうことを痛感した。ポピュリズムだと。昔はそういうメジャーフィールドには行きたくないと、頑なだった。当時は渋さというか、これをやるのか!みたいな、そういうのがとても大事に思えていた。オタク精神。オンスト2で「Make It Easy On Yourself」をやっているけど、バカラックじゃないぞ!と。そういうところ。(バート・バカラックに同名異曲があるが、オンスト収録曲はテディ・ランダッツォの曲)。
   
<オンスト4を出すならドゥーワップの演奏ものにしようかと>
リイシューのライナーは、僕の書き下ろしになっている。それには解説の先達がいて、高崎一郎さんとか、糸井五郎さん、木崎義二さん。僕がライナー執筆者で一番好きだったのは、平川清圀さんというTBSのディレクターだった人で、そういう人たちに教えてもらったもの、その継承というか。それに、オンストは全てカヴァーであって、オリジナルではないので、どこから出てきて、どういう曲なのか、説明する必要がある。それを一般の評論家に頼むより、自分で書いたほうが、より説得力がある。プロパガンダとしても、自分で書いている方が売りになる。ドゥーワップとか、アメリカのポピュラーソングなので、自分が書いた解説の英訳も必要だと思ったし。そういういろんな判断で。あとは、まだひとりアカペラというのは、当時は異端だったので、そのためにも自身による説明が必要だった。
もし、オンスト4を出すなら、ドゥーワップの演奏ものにしようと思っている。すごいロウファイな音にして。その方が面白いものができるかな、と。あの頃は色々とビジョンを持っていて、男女の混声でもいいから、5人くらいで集まって、アカペラのコーラス・グループを作って、ドゥーワップをやりたいなと思ったんだけど、見合うメンバーがいなかった。
    
<渋谷、銀座、高田馬場でインストア・ライヴを開催>
オンスト3枚の発売に合わせて、インストア・ライヴも行っている。タワーレコード渋谷(99年11月25日)、銀座山野楽器(11月27日)、高田馬場ESPホール(2000年1月30日/新星堂イベント)。
ひとりで、それぞれ2時間近くやったんじゃないかな。カラオケやったり、弾き語りをやったり、いろいろ試してみた。あの頃は、インストア・ライヴがブームだった。それが狙い目だなと思って。今だったら難波くんと広規の3人でインストアやるかもしれない。あの時はアカペラで行こうと。得意の差別化。販促用に作ったアナログLPとCDの、オンスト0(ゼロ)。そのCDの方にESPホールのライヴが入っているけれど、この一連のインストア・ライヴで録音していたのは、ESPホールだけだった。新星堂は全国の店舗が対象だったから、応募者が多く、会場がお店ではなく、ESPホールになった。
レコード店には、70年代から応援やバックアップをしてくれる人たちがいた。神戸で一番売ってくれていた「AOI(アオイ)レコード」(2012年閉店)、小さな店だけど、オンスト1をそこだけで1,500枚売ったとか。それぞれの店の特色があって、大阪のある店はビックバンドの品揃えが日本でいちばんあって、ディーラー・コンベンションにもよく来てくれていたので、SEASON’S GREETINGSのプロモーションの時にも、店回りで行って。その時ベニー・グッドマンを聴きたかったので、出たばかりのカーネギーホールでのライヴCDを勧めてくれた。そんなふうに音楽に詳しい人がたくさんいて。レコード会社にもジャズに詳しい人、ヘビメタに詳しい人、そういう人たちがちゃんといた。みんな音楽が好きだから、そういうつながりはあった。今は変化してしまったかというか、よく言えばカジュアルに。悪く言えば、突き詰めなくなった。
いまSpotifyの“全世界でいちばん聴かれている50曲”なんかを見ると、全部同じ。コード進行やアレンジが。この前、なんでそうなるか、という話になって、今は音楽を聴いているんじゃなく、ミュージックビデオを見ているんだなと。曲が始まる前に寸劇があって、曲の間には裸の女の子が踊っている。そのあとは、また寸劇で終わる。MTVは聴くんじゃなくて見るもの。ライヴもそれの延長線上で、ヒップホップやクラブ・ミュージックは、実演奏がやりにくい曲ばかりだから、全部テープで、歌は口パク。バックには裸の女の子が踊っていて。だから厳密な意味では音楽じゃない。昔はそうじゃなくて、純粋にリスニングとしての音楽がたくさん存在したし、MTVがいくらブームになっていても、コンテンツとして重要視されていた。
明らかに時代が変わったけれど、これは仕方がない。ラジオが少し復権してきたので、またテイストが変わってくるかなとは思うけど、それはわからない。今は音楽に対する求め方が違う。特に若年層はそうかもしれない。でもそんな中にも変わり者はいて、最近「サンソン」には目に見えて、そういうリスナーが増えてきている。なかなか礼儀正しいんだけど、リクエストしてくる曲は超変態というかw
   
<「JUVENILE」のテーマは、思い出や憧れが基になっている>
2000年7月、映画「ジュブナイル」(山崎貴監督)の主題歌「JUVENILEのテーマ〜瞳の中のRAINBOW〜」をリリース。主題歌は山崎監督からのオファーで、彼のオリジナル脚本、初めての監督作品だった。VFXで有名な人だけど、あの頃はまだ知る人ぞ知るという存在で。彼から主題歌を作ってくれと。監督にもよるけど、曲については大体はお任せで、山崎くんもそうだったと思う。細田守監督からは「未来のミライ」(2018年)の「ミライのテーマ」の時、最初に書いた曲をもっと明るくしてくれと言われたので、それは書き直したけど。「サマーウォーズ」(2009年)の主題歌「僕らの夏の夢」のときはまったくのお任せで、何の問題もなかった。ケース・バイ・ケースだね。
ジュブナイル」の映画の内容は、ほぼ出来上がっていて、音響や特撮などは途中だったけど、セリフもあるからストーリーはわかる。依頼があった時点で、ほとんど撮り終えていたんじゃないかな。劇中には「アトムの子」も使われていて、実際に主題歌が流れるエンド・タイトルも出来上がっていた。一緒に食事しても、具体的なことは言われなかったし。好きなように作ってくれ、と。
なにしろジュブナイル(”少年少女”を意味する)というタイトルだから。小学校の頃、臨海学校で、千葉の海岸に行った思い出とか。海水浴場って、だいたい道路から海辺降りていくから、「海へ行く坂道」って歌い出し。幼少の頃の体験とか、海水浴、臨海学校の記憶。
当時、千葉の行徳あたりに親戚がいて、そこからちょっと遠出して、幕張の駅前で潮干狩りをした思い出とか。今は海なんて見えないけど、当時はそういう時代だった。内房線岩井駅から行く海水浴場、高校の頃だと外房のユースホステルとか。そんないなたい海岸で、焼きそばやかき氷を食って。いろんな風景をミックスして、子供の、海に対する憧れを歌にした。僕自身は山の方が好きなんだけど。高校時代の思い出を歌った「さよなら夏の日」(1991年)に近いかもしれない。
僕の歌のテリトリーって本当に狭い。イスタンブールなんかには行かないw   岩井とか、富津、富浦、その辺だったらイメージがわく。他には山中湖や河口湖。せいぜいそんなもの。大半のテリトリーは、池袋駅から渋谷駅周辺位。あとはせいぜい下北沢か銀座。
エンド・タイトルで曲が流れるけど、あそこにハマるように作ってある。若い頃はCM作家で食ってたし、文句を言われる筋合いはないw   あのメロディーはすごく気に入っていて、いつか使おうと思っていた。でも、歌詞もメロディーもすごく気に入ってるんだけど、録音がちょっと悪い。あの頃はレコーディング環境がいまいち良くなくて、トラックのクオリティも、望むところまで達していない。ちょうどプロツールスと3348の端境期。2年後のRARITIESにリミックス・ヴァージョンを収録した。
【第53回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第52回 COZYツアーとON THE STREET CORNER3発売(99年11月)

<”伝説ライヴ”に出て大丈夫だと思ったから、ツアーを決めた>
1998年8月にオリジナルアルバムCOZYが発売され、その年の10月から翌99年2月まで全48公演のツアーPerformance’98-‘99が始まった。
この頃の数年間は、スタジオやミュージシャンについて、トラブルの連続だった。やれるところでやるしかなくて、何とかアルバムを作ったという感じ。そうこうしているうちに、98年くらいになってようやく制作環境が整って、いろいろ元に戻ってきた。スタジオもプラネット・キングダムに変わって、ミックスもそこでやれるようになった。その前にKinKi Kidsの「硝子の少年」をやったのが大きい。ほんとにあのおかげで、曲を作るモチベーションが戻ってきた。96年11月に小杉さんがワーナーの会長を辞めてスマイルに専従、それもあって「ヘロン」とかタイアップも増えて、COZYにつながった。それにツアーを考えたときに、体調不良だった青山純も回復してきたというから、確認の意味で”伝説ライヴ” (福岡サンパレス98年2月26日)に出て、これだったら大丈夫と、スケジュールを切ることになった。バンドでのライヴは、94年SINGS SUGAR BABE以来、ツアーなら福岡にも行ったARTISANツアー以来、6年ぶり。
“伝説ライヴ”はCOZYツアーの前哨戦となった。青山純でツアーができるか確認したかったので、甲斐バンド名義のライヴで叩いているというので、チケットを買って、新宿厚生年金会館に観に行ったら、ちゃんと叩いていたから安心した。たまたま知り合いのスタッフにも会ったので、様子を聞いたりもした。ライヴでの演奏が良くなければ、声は掛けなかったと思う。とはいえ、この98年に復帰して、2002年くらいにまた体調が悪くなるんだけど、2000年のまりやのライヴは問題なかった。
ギターの佐橋佳幸くんはSINGS SUGAR BABEからそのままスライドして、ツアーには初めて参加してもらった。彼のソロアルバム『TRUST ME』(1994年)も僕がプロデュースしているし、清水信之EPOの後輩だから。いわゆるウェストコースト派というか、ダニー・クーチ、ジョン・ホール、ジェームス・テイラーアンドリュー・ゴールドなんかが好きで、歌伴が上手いやつだというのを知っていたから。ただ、R&Bに関してはどうだろうと思ったけど、別にそんなのどうでもいいやってw  もちろんスタイルはいろいろあるけど、重要なのはタイムとか、アンサンブルに対する心構え。むしろ、そういうものの方が大事。あとテクニック的に他のメンバーがそれを許容するか。あいつ下手だよな、ってなると、それが一番問題。
コーラスは、高尾Candeeのぞみが急逝(98年)してしまったので、佐々木久美の紹介で、国分友里恵を入れて。佐藤竹善も参加できなくなったので、かねてから目をつけていた三谷泰弘くんに声を掛けた。三谷くんも一度スターダスト・レビューのライヴを観に行ってた。
この時、僕は45歳。 普通ロック、フォーク、ニューミュージックで45歳なんていうのは、もう黄昏でw  だからこれからはおつりの人生だと思ってw  まだ、コーラスは固まっていなかったけれど、まずは青山純を入れて、”伝説ライヴ”に参加した。その時点ではツアーというものにそんなに執着がなかったから、このメンツでダメだったらツアーをやめようと思ってた。ここ最近の再開したツアーは、この先の生活の手段だと思って、きちんと計画を立てて、継続しようとしていたけど、あの時代のツアーは全て新譜のプロモーションのためだから、新譜がなければツアーをやらなかった。今思えば、別に新譜が出なくてもツアーはやってもよかったんだけど。
”伝説ライヴ”は九州朝日放送KBC)のラジオ・ディレクター岸川均さんが、還暦を迎えて、定年退職をすることになった記念として開催された。岸川さんには本当にお世話になった。イベントは4日間続いて、その1日を岸川さんのリクエストでスターダスト・レビュー浜田省吾くん、僕の3組が出て。あとの3日間はそれぞれ甲斐バンドの再結成、フォーク編、めんたいロック編だった。僕らの日の出演順も、岸川さんの希望で、スタレビ、浜田くん、僕で、最後にみんなで何か、という事だったので「BE MY BABY」と「STAND BY ME」をやった。
岸川さんと僕の絆は、とても深かった。そうでなければ、出演しない。CIRCUS TOWN(1976)の時に博多の大学の学園祭に出て、ライヴが終わって楽屋にいたところに訪ねてきたのが、岸川さんだった。「アルバムがすごく良かったので、どういう人物なのか観に来た」と。それが最初の出会い。それ以来、ずっと応援してくれた。当時はロック、ポップス、ニューミュージックは支持者が少なかったけど、SPACY(1977)が出た時も、GO AHEAD!(1978)の時も、博多へキャンペーンに行くと、KBCラジオで、たくさん番組に出る枠を取ってくれた。自分より上の世代の人で、一番面倒を見てくれた一人が岸川さん。博多の実力者で、ロック、フォークに関しては圧倒的なドンだった。我々にとっては音楽的な恩人というのはもちろんだけど、政治的にも、ものすごく力のある人だったので、例えばこのタレントのイベンターはどこにしたらいいとか、そういうところまできちんと仕切れる人だった。フォークからロックから、ありとあらゆる音楽に関わっていたけど、とりわけ生まれたばかりのロック、フォークがすごい好きで、甲斐バンドとかシーナ&ロケッツ、めんたい系のミュージシャンにとっては頭が上がらない、恩人中の恩人だった。
僕らは福岡出身じゃないけど、福岡へ行くたびに世話になった。でも、例えばサザン、ツイスト、竹内まりやあたりになったら、もうメジャーになってきて、プロモーションはテレビ・メディアでフル稼働になるし、YMOなんか最初から関係ない。はっぴいえんどの時には、まだ早かったし。ちょうど僕がソロになった時が、いい塩梅だった。ラジオが力を持っていた時代で、普段からラジオでオンエアしてくれた。まだ福岡ではFMよりAMの方が力があった。九州は九州朝日放送RKB毎日放送が二大勢力だった。RKBにも有名なディレクター、野見山実さんと井上悟さんがいて、生で必ず弾き語りをする番組「スマッシュ‼︎11」をやってた。
売れない時から支援してくれた人は忘れないから。そうやって地方局の人たちを味方につけて、全国各地の放送局に、応援してくれる人たちができた。いかにそういうネットワークを、有機的に結びつけていくか。そうすると新譜を出したときに、きちんと全国的なラジオ・プロモーションができる。レコード店にも影響力があるので、だんだんレコード店訪問みたいなものを、レコード会社のプロモーターじゃなくて、コンサート・イベンターが仕切るようになった。だから、重要なのはそこへ実際に行って、ライヴをやること。今みたいに、テレビで東京から発信するのはダメ。地方のアイデンティティーは強いから、来ない人をやってもしょうがない。だから、こちらもまめに回った。70年代、80年代はそういうノウハウの時代だった。
“伝説ライヴ”で、これでバンドは大丈夫だと確信した。これは今まで話したことがないけど、青山純が本番の10分くらい前に扉をノックして、楽屋に入ってきて「怖い」って言うんだ。やっぱりプレッシャーがあったんだね。だから「大丈夫だ」って、励ました。青山とはあれだけ一緒にやってきたから。僕とやってなかったら、かなり違った人生だったろうと思う。ミュージシャンの世界って、表面的な付き合いが多いんだ。みんな、お互いに本当の意味でのソウル・トゥ・ソウルというつながりは少ない。人の負担まで抱えたくない。音楽家というのはそういう傾向がすごくある。だからタイマンを張らない。なんとなく「元気? 今度メシ食おうか」とかだけで。だけど、バンマスをやるにはそれでは無理だから、腹を割って、付き合っていかなければならない。バンマスに統率力がなくて、アンサンブルが成立しないなんて例は、掃いて捨てるほどある。ここをこうやるとああなるけど、それはこうして、ああして、って不断に繰り返さないと、アンサンブルは成立していかない。でも、みんな願望と実際は違うというか。僕の場合は、そういうのでは心が折れない性格で、人間関係には割とタフだったから、それで怒ることも育てることもできた。プロデューサーというのは、要するにそういう仕事。音楽がどうのというだけではない。青山とはとことん付き合った、付き合い過ぎたくらい。
    
<ツアーに続いての『オンスト3』はいい流れ>
98年10月8日の府中の森芸術劇場どりーむホールから、ツアーは始まった。「SPARKLE」で始めるのは十数年ぶりだった。ステージの再現性が厳しくなってきた時代で、例えば「DREAMING GIRL」は難しい。「ドーナツ・ソング」もアレンジを変えないとダメだし。曲の構造やメロディーの変化が、だんだん難しくなってきたから。要するに歌いづらい曲が増えてきた。
80年代なら新作のツアーだったら、ほとんど新作をやっていたけれど、この時やったのは2、3曲だった。COZYツアーというより、ベスト盤ツアーのようになってしまう。なんたって、もう45歳だし。みんなヒット曲が聴きたいから。お客って、そういうもの。そうやって割り切るしかない。俺はそんなのやりたくない、というやつは大体潰れてしまう。問題は同じ条件で歌えるからとか、オリジナル・キーでいけるか、そっちの方だから。メタルの人は大変だろうと思う。
ツアー初日のセットリストにあった「DREAMING GIRL」はそのあと演奏されなかった。歌いづらいw  キーの設定も誤っていたから。「SPARKLE」や「DAYDREAM」は”伝説ライヴ”でもやった。この時は「こぬか雨」や、アンコールで「硝子の少年」もやってる。「ドーナツ・ソング」では曲間に「ハンド・クラッピング・ルンバ」を入れたり、そういう折り込みをするには格好の材料なので、一生懸命歌詞を覚えた。くどいライブw  本数も48本、結構あった。でも今聴くと、あまりいい演奏じゃない。ARTISANのツアーの時の方が全然よかった。ブランクも大きかった。
印象に残っているのは、誕生日だった2月4日のNHKホール。あとは最終日の2月11日、大阪フェスティバルホールはよく覚えている。もう1曲やろうか、どうしようか、ダラダラやって、アンコールではまりやがコーラスに加わって、演奏時間は3時間45分になった。まだ若かった。お客さんもよく聴いてくれてるw
このツアーの時は、声が出なくなるとかそういう事故はなかったけど、10月の長野から松山に行く時に、ステージ衣装がなくなった。当時はクリーニングに出す衣装を黒い靴をゴミ袋に入れていたので、間違えて捨てられてしまった。中1日で移動して、松山でリハが終わった16時ぐらいに気づいた。衣装はスーツだったんだけど、まだ最初の1着しかできていなくて、代わりのネルシャツとジーンズを探しに行ったんだけど、望むブランドが松山にない。仕方がないから、伝説ライヴの時に来た70年代のベルボトムジーンズとカントリー・シャツとブーツを使った。メンバーは全員グッズのTシャツで。三谷くんだけは自分で衣装を管理してたので、一人だけキマってたw
あとは広規の遅刻。1月20日の福山。広規がリハーサル始まっても来なくて、電話したら、まだ家にいた。これはさすがにダメかな、と思ったんだけど、広島までの飛行機に乗れて、福山到着が19時。しょうがないんで、開演を10分遅らせて、自分一人で30分、弾き語りの前座をやって、10分か15分、休憩にして本番、という。あれは広規が来なかったらどうなってたんだろう。キーボードの重実徹くんがシンセベースとかしかないか。実際、まりやはベースが来なくて、清水信之がシンベでやったことがあるって言ってた。まあ広規が遅刻したのはその時だけで、僕のメンバーは昔からみんな真面目だったw 
ツアーは99年2月に終わって、ON THE STREET CORNER 3のレコーディングに入っていく。
    
<テクノロジーの恩恵に一番あずかった作品かもしれない>
ツアーでも先に披露していた「STAND BY ME」。これはオンスト2のアウトテイクで、それを引っ張り出してきた。それと「STAND BY ME」みたいなものが意外とウケる土壌になってきた。オンスト1の時代は、そんなのをやると「またベタなのやっちゃって」とか言うサブカルがらみのやつがいたから。今でもいるけど。お前らベタの意味わかってんのか、ってw  それと「GLORIA」もファンクラブ会報のおまけCDに録音したもの。基本的にオンストの録音って、ツアーのあと、声が出ている時に録音する。
先行シングルになった「LOVE CAN GO THE DISTANCE」は、オンストといえども、もっと売ろうということになって、NTTコミュニケーションズのタイアップをとってもらった。アラン・オデイに歌詞を頼んで、遠距離恋愛の話をしたら、だったら「LOVE CAN GO THE DISTANCE」だろうと。いいタイトル、じゃあ、それでお願いします、となった。もう音はデータで送れるようになっていたから、アカペラのカラオケを送って、詞をつけてもらって。もともとはグレン・ジョーンズとか、そういうようなミディアムのブラコンぽい曲だったけれど、メロディーが好きだったので、それをアカペラに仕立てた。打ち込みのオケもあるんだけど、完成しなかった。なかなか歌いやすいメロディーラインで、我ながら気に入っている。だけど、ライヴでは歌いにくい。ライヴでのアカペラって難しくて曲を選ぶ。これを入れたおかげで、オンスト3は成立した。
選曲については、コネクションがあって。広島の仲の良いレコード屋さんが、ニューヨークでヒップホップやラップのレコード屋をやっているおじさんと友達で。その人はドゥーワップのコレクターで。僕のオンスト1、2をいたく気に入ってくれて、欲しいレコードがあれば送ってやると。半信半疑で10枚くらいウォントリストを出したら、全部送ってきてくれた。しかも、どれも素晴らしいコンディションだった。それじゃあとオンスト3をやる時「DREAM GIRL」とかいろいろ送ってくれた。それでモチベーションがずいぶん上がった。
ドゥーワップのこういう曲で、一番苦労するのは歌詞の聞き取り。インディなものって、歌詞が曖昧なのが結構多い。この中で一番はっきりしていなかったのが「WHY DO FOOLS FALL IN LOVE」(恋は曲者)。 この曲の正確な歌詞が判然としなく、出版社に問い合わせても、よくわからない。実際ビーチ・ボーイズが歌っているバージョンと、フランキー・ライモンが歌っているバージョンでは微妙に違っているし。そこで何を参考にしたかと言うと、ダイアナ・ロスのバージョン。ダイアナ・ロスはステレオなんで明瞭に聞き取れた。特に二番の終わりのところ。だから、それを決定稿にした。
「DON’T ASK ME TO BE LONELY」は最初のオリジナル・シングルを聞いても、何て歌っているのか、わからなくて。60年代中期のダブスの再録ステレオ・アルバムというのがあって、そこから聴き取った。外人に頼めば大丈夫かというと、全然そんな事は無く、英語を話す人でも聴き取れないのがある。3種類、4種類の歌詞が存在するものもあるし。その中で、どこで折り合いをつけるか。歌う人によっては意図的に歌詞を変えている人もいるから。
レコーディングはスムーズだった。スタジオもプラキンだし、エンジニアの吉田保さんも、アカペラに関しては、なんの問題もない。ソニーのデジタル・レコーダー3348の最後の頃だった。
アカペラのレコーディングは一人きりだから、他にミュージシャンもいないし、ノウハウは86年のオンスト2と全く同じだけど、この時はシンセ・オペレーターの橋本茂昭くんとデジタル・パフォーマー(音楽制作ソフト)で、ガイドデータを作れるようになっていて、テンポ管理がより自由にできるようになった。オンスト2の頃はローランドSBX-80というマシンを使って、タップ(手打ち)でクリックを作っていたけど、オンスト3では、さらに精密にテンポデータの構築ができるようになって、「THEIR HEARTS WERE FULL OF SPRING」(心には春がいっぱい)みたいな曲も、テンポの緩急を違和感なく作れるようになった。キーボードでタッピングして、ガイドのコードを入れて、それを聞いて、ここのテンポがおかしいと感じたら、修正していく。オンスト1の時代は、そういうのが全て、マニュアルの手作業だったから。テクノロジーの進歩は凄い。テクノロジーの恩恵に最も預かっているのは、オンストかもしれない。
もともとアカペラは、1日で1曲録り終わらないと、バイオリズムが変わるからダメになる。翌日になると、どんなにがんばっても縦の線が合わないから。もちろんメイン・ヴォーカルは、別の日に録るけれど。
今はYouTubeでも、ひとりアカペラみたいなのがいっぱいある。よく聞かれるのが、どうやって縦の線を揃えているかという点で、彼らはソフトウェアで、ピッチやタイミングを編集するから、直すのが常識になっている。オンストが全て人力なのが信じられないと。彼らは後から直すことを前提に作っている。今は歌もほぼ完璧に直せる。だからアイドルなら歌入れ15分、直しは4時間、という具合。オンスト1の時代も今も、アカペラを作るには、ドンカマを聴きながら声を重ねていくんだけど、自分の快感原則だけでへらへらやっていると、何回も重ねていくうちに、どんどん縦の線が狂ってくる。人間の生理というのは、最初はラッシュする(走る)ものなので、ドンカマに慣れてくるに従って、ノリが重くなって、ズレてくる。それをちゃんと、最初から完璧に縦の線を揃えられるよう訓練するのに、僕は1年かかっている。今は直すのが当たり前、という前提。もう、そういう時代になってしまってる、残念ながら。
    
<伝統の継承や啓蒙という意識がある>
オンスト3の選曲については、比較的ストレートなドゥーワップでいこう、というのがあった。結果的には、そうでもなくなったんだけど。あとは1〜2曲はコンテンポラリーなものが欲しい。一番コンテンポラリーなのは「LOVE CAN GO THE DISTANCE」かな。
もともとドゥーワップをやりたくて始めた企画だったけど、だんだん幅が広がって「VELLA NOTTE」や「AMAPOLA」となったので、少し戻そうと。
アルバムに収録されている「DEDICATED TO THE ONE I LOVE」(愛する君に)は、ファイヴ・ロイヤルズがオリジナル(1958年)で、シレルズがカヴァー(1961年)し、それをまたママス&パパスがカヴァー(1967年)。「THEIR HEARTS WERE FULL OF SPRING」はフォー・フレッシュメンが1961年アルバム『THE FRESHMEN YEAR』で発表し、それをビーチ・ボーイズがカヴァーしている。
やっぱり伝統の継承、一種の啓蒙主義というか、そういう意識はある。僕らだってチャック・ベリーは最初からチャック・ベリーを聴いたわけじゃない。ビートルズとか、キンクスとかが「チャック・ベリーがいい」って言うからだし。R&Bに至っては、ほとんど情報が入ってこなかった。バディ・ホリーなんかもそうだし。バディ・ホリーチャック・ベリーエディ・コクランも70年代近くになってようやくようやく再発で復活して、オリジナルが聴けるようになった。映画「アメリカン・グラフィティ」(1973年公開)の少し前の時代だね。
ビートルズが出てきて以来、それ以前のものは、多くが聴く術を喪失した。それが60年代末になって「GOLDEN OLDIES」みたいないわゆる廉価版とか、アトランティック(レーベル)の「ヒストリー・オブ・リズム&ブルース」とかが出て、初めて「SH-BOOM」とか。レイ・チャールズだって、ろくすっぽ聴けなかったから。「WHAT’D I SAY」のオリジナルが聴けるようになったのも70年代に近づいてから。日本盤のシングルはすべて廃盤だったので、セコハン屋で探すしなかった。60年代は流行のサイクルがそれだけ早かった。洋楽なんて売れないと判断されたら、リリースもされなかった。例えばラスカルズの「GOOD LOVIN’」はもともとオリンピックスの曲で、だけど当時はオリンピックスなんてジム・ピューターの番組でさえ、ほとんどかからなかった。今ではそんなこと知ってる、と自慢げに語るヤツはいるだろうけど、当時はそんなの、わかるわけもなかった。大滝さんがフィル・スペクターのオリジナル・シングルを聴いたのだって、たまたまのチャンスがあったからだし、ダニー・ハサウェイのファースト・アルバム『Everything Is Everything』をハワイに行った僕の友達が、間違って買ってきた。それだって、ただの偶然。ならば、それを少しでも拡散して行かなくちゃと、そういう動機。
啓蒙と言うなら「サンデーソングブック」がまさにそうで。でも、あくまでも2021年の現代の耳で判断した価値観で、今の鑑賞に耐えうるか、が前提だから。ヒットしたとか、何百枚売れたとか、そんな過去の栄光なんて、何のあてにもならない。70年代にしても、80年代にしても、同じ時代でも、全く古色蒼然たる音楽があるかと思えば、鑑賞に何の支障もないものもある。その差は何なのか。ドビュッシーが「この音楽がいつまでもつかが、自分にとっての問題だ」と言っていて、自分の作品を批判されたときに、それが弱みだとは思わなかった、と。まぁちょっと屈折してるかもしれないけれど、10年後までこれがもつか、はすごく大事で。
僕の場合は、中学や高校の時から古い音楽が好きだったので、クラスメイトとは全く話が合わなかったし、ドゥーワップを知ってからは、さらにそうなって。大滝さんも似たようなところがあるけれど、そういう人ってどうするかというと、それが今の流行においてではなく、先々どういう評価があるかを考える。それを模索するには、世のトレンドからなるべく距離を置かなければならない。だから、僕はゲート・リバーブとかドラム・ループのような、流行のサウンドはほとんど追わなかった。
音楽は勉強じゃない、と言われても、違う。米国音楽は勉強で。何度も言うけど、戦争に負けて、それがなかったら、こういう音楽を聴いてない。輸入の音楽で、全く自分たちの血にないもの。僕は寝るときは浪曲と落語以外、聞いてないからw
アカペラといえば、トッド・ラングレンの『A CAPPELLA』(1985年)があるけれど、あれは遊びだと思う。あの人も、昔のものが好きだから。イーストコーストの人はポップチューンとか、そういう歴史は古いから。ダリル・ホールもそう。あの辺の人たちは、みんな骨の髄まで50年代、60年代のロックン・ロールカルチャーだから。トッドは振り幅が大きいというか、テクノにも手を出してみたり。スタイルは違うけど、ニール・ヤングだって似たようなところがあって、いきなりテクノをやったこともある。興味がある事はやらないと、気が済まないのでは。トッドのライヴはお客に対する誠実度がすごく高くて、喜ばせようという意欲もあるし、独善的じゃない。ローラ・ニーロなんかもそういうところがある。イーストコーストのアーティストらしい、歴史と伝統に対する知識と敬意を持っている。
90年前後から出てきたテイク6やボビー・マクファーリンも、メジャーになっていったけど、テイク6は「俺たちうまいんだぜ」っていうのが、受け付けないw  ああいうオープン・ハーモニーでちゃんと聴けるのはフォー・フレッシュメンただ一つ。ハイロウズ(THE HI-LO’S)もだめだし。ハイロウズの延長にシンガーズ・アンリミテッドがある。マンハッタン・トランスファーもコーラス・グループとしてはあまり好きじゃないし。やっぱりテンプテーションズ、ドラマティックスには敵わない。まあでも、そこはあくまでも僕の個人的な趣味なので。
    
ドゥーワップはシンプルな3パートのコーラス、そしてヴォーカル>
ドゥーワップやアカペラの啓蒙という点では、鈴木雅之ゴスペラーズが大きいんじゃないか。彼らは女性や子供を啓蒙したから。テレビ番組の影響もあってアカペラがブームになっていったけど、もともとロックンロールにおけるアカペラは、楽器が買えないから歌だけで、というのがあった。でも今の彼らは、アコギでストリートでやるのはイヤだと。だから歌だけでやる、あれがかっこいい、と思ったんだろう。自分も含めて、人との差別化をどうするか。”イカ天”の時はバンドだったけど、この時はアカペラだった、という。
最近は一人多重をやってる人が、世界中にいる。ネットにあげたりして。桑田佳祐くんが、僕のアカペラについて鋭く言っていたけど、「あんな畳職人みたいなことをやっても、結局は歌で全部ぶち壊す」って、その通りで。リードヴォーカルを歌いたくてやってる。ドゥーワップというのは3パートのシンプルなコーラス、これが一番好きなんだ。それで、アカペラがブームになったときに何を思ったかと言うと、リードヴォーカルが弱いと。
ヴォーカル・グループというのはリードでなんぼ。フォー・フレッシュメンだって、一番上のパートを歌うボブ・フラニガンが本当にうまい。トロンボーンもうまいんだけど。僕はR&Bで何を聴くかといったら、歌だから。やっぱりロナルド・アイズレーだから、アイズレー・ブラザーズは成立しているんで、アイズレー・ジャスパー・アイズレーではダメ。クリス・ジャスパーが、どんなにソロワークで素晴らしいリズム・パターンを構築させても、歌でがっかりする。それはしょうがない。
オンスト3のジャケット写真は伊島薫さん。伊島さんはニューヨークが大好きで、ずっとニューヨークにいて、写真を撮っていた。このジャケットはそれを大きな布に印刷して、その前で撮ったもの。翌年1月にリマスター盤でリリースしたオンスト1も2のジャケもこの形で統一したけど、本当は元に戻したい。
3作品とも英語でもライナーノーツがある。まりやがイリノイに留学してた時に、ホームステイしてた家族の友人というか、親戚かな、マージョリーという女性で、ワシントン大学の日本語学科で学んだ人。彼女は、僕が知っているアメリカ人の中で最も日本語が堪能。日本人と結婚して、以来日本に数十年住んでいる。オンスト1からずっと、SEASON’S GREETINGSも含めて、ライナーノーツは全て、彼女に翻訳してもらっている。和文英訳って、自分が見て、こうじゃないな、っていう漠然とした感覚があって。彼女の英訳は、僕が言いたいニュアンスに一番近いと思えるものを出してくれるので、実に優秀な翻訳者。ブルーノ・マーズにしても、デビー・ギブソンも両親が「オンスト」を聴いていたと公言してくれているし、海外のファンはごく少数だろうけど、聴きたい人が聴いてくれれば。
アルバムが出る直前、1999年9月に松宮一彦くんが亡くなった。オンスト3には彼への献辞がある。彼は日本を代表する、ラジオのDJのひとり。個人的に物凄くショックだった。あの時、彼には不幸なスキャンダルが相次いでいたけれど、彼は自分の悩みを、友人にも誰にも打ち明けない人だった。ちょうど亡くなる前の日に、大阪の友人と松宮さんの話になって、今度電話でもしようと話をしたばかりだったので、余計ショックが大きかった。彼は音楽が本当に好きな人で、邦楽に関しては、日本で一番観に行っている業界関係者だと思う。洋楽、邦楽問わず、行くところには必ず居るという感じで、我々より年上の福田一郎さんに聞いても、よく彼を見かけると言っていた。そしてセットリストを片手に、それにびっしりと黒くなるまで、曲に関するコメントを記入していた。それを資料にして、自分の番組「SURF&SNOW」で紹介するのに役立てるなど、とても熱心な人だった。いつだったか、彼が「今年一番だったのは、長渕剛さん」って、言っていて。松宮くんがそう言うなら本物なんだろうな、僕なんかはそういう解釈をしていた。よく会って話もしたし、お酒も飲んだ。タレント業とかやらなくても、音楽のDJで、問題なくやって行ける人物だった。大変惜しいことをした。とても重要な、音楽の友達が一人いなくなった。「Love Can Go The Distance」はきっと松宮さん、すごく好きだろうと思って、彼に聴かせたかった。それでも、死んじゃいかん、とラジオでコメントした。
【第52回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第51回 98年8月、7年ぶりオリジナル・アルバムCOZY発売

<リリースとライヴのローテーションが崩れてしまった時代>
ARTISANから7年、ようやく出たという感じ。その間にシングルをたくさん出しているから、サボっていたわけではないけれど、結果、それまでで一番、収録曲数が多くなって、15曲72分のフルボリュームな内容。本当は、そんなにたくさん入れたくなかったんだけど、それでも「BLOW」が入れられなかったから、アナログ盤に入れた。
“DREAMING BOY”が頓挫して、あれ以後はミックスが気に入らなくて、リミックスしてみたり、あとは「ヘロン」みたいに、演奏し直してみたり。そういうジタバタの繰り返しで。シングルで既売の「DREMING GIRL」や「MAGIC TOUCH」とか、90年代半ばの曲は、ほとんどリミックスして、それでようやく出せた。
幸運なことに、ちょうど長野冬季オリンピックがあって、既成曲だった「ヘロン」を、その時にシングルで出し直して(98年1月)、それが久々のベストテンヒットになった(初登場10位)。そういう意味では、CDが売れていた時代で、全体的な市場景気が良かったので、そのおかげもあってプロモーションもちゃんとできた。同じ頃にレコード会社のプロモーションチームが変わって、もともと徳間とかクラウンにいた若い層がワーナーに入ってきて、地方の宣伝スタッフも若返りしたので、それもよかった。あの時は僕も45歳で、同世代がだんだんくたびれ始めた時だからw  若返りは大きかった。
一応このアルバムは100万枚売れて、ゴールドディスク大賞をもらった。僕のオリジナル・アルバムとしては初のミリオンセラー。まあ、それはどうでもいい。70万枚、100万枚だろうと、何がどう違うんだろうと思う。TRESURESはベストアルバムだからミリオンになったのわかるけど。僕は大スターじゃないし、メジャーな存在でもないから。
内容はごった煮だけど「ヘロン」のヒットのおかげで、いい滑り出しだった。80年代から90年代初頭は、ツアーとレコーディングを並行してやっていて、その間にまりやの制作をしていたのが、このあたりで停滞し始めてくる。ライヴがやれないのが、すごくキツかった。それまでのライヴは、基本的にレコードのプロモーションとしての位置づけなので、あくまでのレコードが先行していた。だからレコードが出ないとライヴができないので、この時代はそういうローテーションが完全に崩れてしまっていた。
曲が書けないわけじゃなくて、音が気に入らないとか、それと何より、レコーディングやライヴを一緒にやっていたミュージシャンが、バンドごと他のアーティストに引き抜かれてしまって、あれは特にダメージが大きかった。音楽業界はいつも人材の取り合いで、僕はそういうところが、のんびりしすぎている。フォークシンガーみたいに、ギター1本で弾き語りができればいいけど、僕の音楽は一人ではやれないから。それで、スケジュールがうまく運ばなくなった。2000年代にも同じようなことが起こる。おかげさまでCOZYはよく売れたけど、評論家気取りみたいなお客もたくさんいて、やれ既発曲が多いだの、オーディオ的にどうだのって。くだらない。
1曲目の「氷のマニキュア」は、デモを作った段階ではすごく気に入ってたけど、リズムを録ったら印象が少し変わってしまった。ドラムは青山純の弟子の阿部薫くん。彼はロニー・タットやエド・グリーンが一番好きで、いいドラムを叩いてくれた。最近(2020年)はずっと及川光博さんのバックをやっているみたい。
「氷のマニキュア」はニューヨークでブラスを録ったけど、あまり良くなくて。歌詞の”Cool”の勘違いもあった。最初”Your love is cool”というアイデアを出して、Coolをイカしてるとかカッコいいという意味のつもりだったんだけど、そのまま氷という歌詞になってしまって、直してもらいたかったんだけど、時間がなくて。それは心残り。
曲調は、いわゆるブラコンというか、テンポ感が1曲目向きかな、と。ああいったパターンの曲は、80年代だと先にリズムパターンを作って、あとからメロディーを考えるやり方だったのが、90年代になって少し作風が変わってきた。「FRAGILE」なんかもそうだけどFOR YOUの頃から比べると、メロディーの構想があってから、作ってる。80年代の「SILENT SCREAMER」なんか、最初はメロディーなんて全くなくて、レコーディングしてたから。でも「氷のマニキュア」は、ちゃんとサビのメロディーまで作って、始めてる。
なぜかというと、初めから歌詞を人に頼もうと思っているから。そうすると、少し言葉数が多くても、当てはめてくれる。 自分で歌詞を書くと、あまり言葉数が多いのはイヤになるからw  アラン・オデイに頼む時も、自分で書いたら埋め切れないけど、アランだったら大丈夫だというのがある。自分で歌詞を書くと、言葉数が少なくなる。俳句になるw  この頃は、まあ今もそうだけど、言葉を詰めるのが流行っていたから、そういう進め方にしたいと思った。KinKi Kidsの「硝子の少年」も、近藤真彦の「ハイティーンブギ」に比べると、言葉数が多い。そういうのは、時代の趨勢とかも関係している。すでに「kissからはじまるミステリー」みたいなのも作っているし。それに比べたら「DREAMING GIRL」や「ヘロン」なんて、のんびりした譜割り。
曲順はもう既にCDを意識したもので、COZYはアナログだと2枚組になるから。今はアナログ・ブームだけど、あの時代はもうアナログなんて無理だと思っていたし、あの時に作ってるアナログは、一種のサービスだから。A面、B面という発想はなく、考えても10曲目くらいまでで、あとはシングル集。後ろの順番はそんなに重要ではない。
それでもアルバム1曲目、そして2曲目も重要、かなり意識している。アルバム1曲目の出だしは、70年代、80年代初めは、ほとんど分数和音。シュガー・ベイブの「SHOW」が分数和音で、それから「CIRCUS TOWN」「LOVE SPACE」「SPACE CRUSH」「LOVE CELEBRATION」までずっと分数和音。そのあとはサブ・ドミナント(コード)のメジャーセブンスが比較的多くなる。「いつか(SOMEDAY)」「SPARKLE」もそう。だいたい、僕の曲はある時期までは、トニック(主和音)とかトライアド(ドミソ3和音)で始まるものが、ほとんどなかった。分数和音か、メジャーセブンスしか使わない、ドミソだけの曲は絶対に書かない。フックの部分にトライアドで入ったのは「ゲット・バック・イン・ラブ」ぐらいからが、ようやくじゃないか。
   
<大滝さんも、たぶん同じことを言うと思う>
2曲目は「ヘロン」で、これはシングルのリマスターがとても良かったので、シングル・テイクをそのまま使っている。小鐵(こてつ)徹さんのリマスターを超えられなかった。例えばリミックスを何回しても、最初のミックスに全然かなわない、そんなものもある。「アトムの子」がそうだった。これはいわゆる”ウォール・オブ・サウンド”だから、自分がナイアガラをやるとどうやるか、っていう試み。
ただ、リズム隊は5人しかいないし、アコギは2本だけ。つまり、音圧さえ出せれば、スペクター・サウンドに大人数はいらない。デジタルだと、エコーがかかっていても、遠くならないような工夫が難しい。エコーの多い音楽というのは、奥行きとか広がりを出すことが目的だから、よく言えば奥行きがある、悪く言えば音が遠い。ヒップホップみたいなのは、とにかく音を前に出す思想で作っているから、深いリバーブを嫌う。70年代のザ・バンドなんかもリバーブは無い。何故かと言うと、リズム隊を前に出したいから。バリー・ホワイトなんかも、リズム隊はほとんどがノー・リバーブで、逆にストリングスにはびしょびしょにかけることによって、奥行きと近接感、その対比を出す。
ところが後期のスペクターものは、ドラムまでビショビショに入れるから、全部遠くなるw  それが昔からすごく苦手で、もうちょっと前へ出ないか、という意識がすごくあった。トータルコンプのかけ方なんかで、音圧を出していくしかない。「ヘロン」はトライ&エラーで、たまたま上手くいっただけ。大滝さんだってロンバケで上手く行っても、『EACH TIME』では結構大変だった。
本音を言えば、昔から僕には、フィル・スペクター周辺のオーディオ技術が、それほど優秀だとは思えなかった。むしろウォーカー・ブラザーズや、イギリスのパイ(PYE/レーベル)やフォンタナ(FONTANA/レーベル)の一連の作品の方が好み。イギリスの方がオーディオ技術は上なので、現代的な鑑賞に耐える部分が大きい。
ゴールド・スター・スタジオはぶっちゃけガレージ・レコーディングで、ミュージシャンの質も、レッキング・クルーと、ニューヨークのミュージシャンにそれほどの差は無い。だけどニューヨークのやつらは自分たちの方が上手いとか、言わない。LAの田舎と1920年代、30年代から音楽があったニューヨークとの歴史観の差でもある。モータウンなんかもデトロイトでやっているうちは個性的だったけど、カルフォルニアに吸い込まれていって、レッキング・クルーがモータウンのレコーディングをやるようになったら、やっぱり同化してしまった。初期の、いかにもデトロイトっぽいっていうものはなくなってしまった。
ニューヨークで録音されたロレイン・エリソンの「STAY WITH ME」なんて、70人くらいのオーケストラ編成でやっているけど、奥行き感ではゴールド・スター・スタジオのぐしゅっ、とした音ではなく、きちっと分離されていて、だけど凄まじく厚い。それこそがワーグナーとか、プッチーニ的なアプローチ。それはジェリー・ラゴヴォイが、よくわかっているから。そういう意味でニューヨークのエンジニアだって、とても優れている。同様にナッシュビルのレコーディング技術も素晴らしい。フィラデルフィアしかり。
スペクターは、オーディオ的にはそれほど優れていたわけではない。発想がユニークだったので、むしろそういう面をもっと評価すべきで。ブライアン・ウィルソンも、あの時代にモノラルでパッとまとめて録っちゃうと、塊にはなるけど、純粋にオーディオ的にはどうか。ベルリン・フィルとか、オーケストラを録る時のマイキングの繊細さ、そういうのに神経すり減らすけれど、一方のロックンロールの場合は、大音量でガッとやって、それで良しとする。エンジニアのラリー・レヴィンも変なやつだから。
そういう、やれゴールド・スターだ、レッキング・クルーだと、実はそんなに金科玉条とするようなものではなくて、要するにオタクの神話で。ビートルズ神話と同じで、ジョージ・マーティンはいかにすごかったとか。そんな至上主義はいけない。スペクターに関しては、それをナイアガラ神話が増長させてしまったというか、こちら側にも責任はあるけど、大滝さんだって、生きてたら同じことを言うと思う、たぶんw
3曲目「FRAGILE」は、2016年にアメリカのタイラー・ザ・クリエイターがカヴァーしてくれた。彼の5枚目のアルバム『IGOR』内の「GONE, GONE / THANK YOU」の後半部分に。
この曲は、もともとはアパレルの三陽商会のCMとして作った曲で、自分でも好きな作品。歌詞を英語で書こうと思って、最初からアラン・オデイに頼んだ。間奏にフリューゲルホーンが欲しかったんで、来日していたランディ・ブレッカーを大阪まで追っかけていって録音した。なかなか、よくできている。音は100%自分で作って、自分で打ち込んだ。編曲自体はオールドスクール。常に、あまり新しくはしないようにしないようにと、作っている。この曲がのちにサンプリングされて、カヴァーされるなんて想像もつかなかった。タイラー・ザ・クリエイターには日本人の友達がいるみたいで、その人が教えたんじゃないかと思う。
昔(SEASON’S GREETINGS のレコーディングで)アメリカに行った時、ホテルの若いドアボーイがMELODIESのレコードにサインをしてくれと言うから、なんで知っているんだと聞いたら、友達が聴いていると。前にも言ったかもしれないけど、そういうのが時々ある。韓国から手紙が来たりとか。タイラー・ザ・クリエイターみたいに、ちゃんとライツをクリアにしてやってくれるのは良心的でいいけど、無断使用というのはいくらでもあった。それに抗議しても、なしのつぶて。タイラーの場合はちゃんと連絡が来ていて、クレジットもされている。それでペイの話も、会社を通してやっている。向こうもそれでオーケーだと。別に本人がやっているわけではないけれど、一応こっちもワーナーの契約だから、そういうところはちゃんとしている。それをやらないと、相手によっては法外な値段をふっかけられるから、慎重にやっている、みんな。
4曲目の「ドーナツ・ソング」は最初96年にミスタードーナツのCMソングでオンエアされた。CMはBPMが120しばり、という依頼だったので、コンピューター・ミュージックにした。CMの映像はカバが曲に合わせて踊るというもので、テンポが早かったから、もうちょっとゆったりとしたものにしたいと思い、録り直した。曲は嫌いじゃなかったから。そしたら、ちょうどユカリが復帰して、あれが彼の復帰第一弾。となれば、当然、ニューオーリンズ・ビート。これはなかなかの人気曲で、子供が聴いて喜ぶ。ニューオリンズものなので、ライヴでは間にいろんなものを挟み込むことができる。ユカリのドラムは自家薬籠中で、ピアノも中西康晴くんでナイアガラの常連。
これは渋谷公園通りの歌でもある。昔、公園通りの入り口に喫茶店があって、20歳くらいの頃は、そこでよくデートした。ミスタードーナツは公園通りの上の方にあって、できた頃にはもう喫茶店はなかったけど、その思い出とミスドをミックスしたフィクションw  もうPARCOもあって、PARCOのカフェ”A.I.U.E.O”とか思い出したw  道玄坂にあった遠藤賢司のカレー屋”ワルツ”や南佳孝ムーンライダーズのメンバーのたまり場だった百軒店(ひゃっけんだな)の奥の、ギャルソンへもよく行った。
19歳前後の思い出。ミスドはもっと後にできたから。自分にとってミスドと言えば、公園通り。今はもうないし。でも「ドーナツ・ソング」ひとつでこれだけ思い出すんだから、皆さんもいろいろあるでしょう。ただ、店の中でひたすら曲がかかっていたから、あの当時は近寄らなかったw
   
<曲のイメージを言葉にすると、陳腐になってしまう>
5曲目「月の光」はアルバム書き下ろし。なかなか難しい曲で、90年代の頭くらいには作ってたんだけど、なかなか完成しなくて。これはニューヨークで、元タワー・オブ・パワーのレニー・ピケットにテナー・サックスを入れてもらった。キーボードは佐藤博くんで、彼ならではの得意技というか。だからトラックとしては良い。コード進行も変だからw この頃になると、曲数も200を超えている。そうするとバリエーションが難しくなってくる。自己模倣にならないようにとか、新機軸とか意識する。でもワンパターンにならないようにやってると、どんどん難易度が高くなってくる。”夏だ、海だ、達郎だ”路線で行くと、「愛を描いて」はシンプルな曲だけど、最後の方の「踊ろよフィッシュ」になると、歌も難しいし、曲も変態的になってくる。「月の光」は「FUTARI」なんかと比べても、ぜんぜん難しい。コード進行も複雑化させないと、前作を越えられない、というミュージシャンの業がある、それが果たして、良い結果を生むかどうかは別問題で、スタジオはまだいいとしてステージではどうなるか。この曲も演奏難易度が高く、ライヴでは一度も歌ったことがない。そういう曲は意外と多い。
6曲目「群青の炎-ULTRAMARINE FIRE-」はキリンのCMソング。吉永小百合さんが出演していたCMで、一度だけ正月に流れたけど、その後ボツになってしまった。理由は忘れてしまったけど、いいCMだった。曲を作る段階で、吉永さんの出演は決まってた。映像も見せてもらった。吉永さんからある種の悲しみというか、そういう匂いを感じて。頂点を行く女優、例えば原節子とか、田中絹代もそう。あの頃の女優って、うしろの闇というか、そういうのが見える。女優って、ペルソナ(仮面、内側に潜む自分)だから。最近はそういうのを感じさせる人がいない。いや、いないと言うより、そうできなくなってしまった。
曲調はいわゆるスウィートソウルの世界なんだけど、死のメタファーを歌った曲でもある。亡くなった人、失われたものへの鎮魂歌。失恋の歌ではなくて、その先の。群青の炎、魂が燃えている、そんなイメージ。夜が明けて、空が白んでくる。心の中の描写。だから「FOREVER MINE」(2005年)なんかと同じ発想。死のメタファー、無常観、そういうのが好きで。こうやって曲のイメージを言葉にすると、陳腐になってしまう。
この頃、録音に使っていたガットギターがあって、クラシックギターの先生に借りていたんだけど、初めて借りたのは、まりやの「AFTER YEARS」(1987年)の頃かな。以来、この頃まで、ガットギターといえば、そればっかり使っていた。ほんとにいい音するギターなんだけど、だんだんフレット音痴になってきて、それでいつの間にか、借りなくなってしまった。フレットのマークも付いていない、スペイン製のプロ用のものだった。
7曲目は加山雄三さんの「BOOMERANG BABY」のカヴァー。いつか加山さんのカヴァーをやろうと思っていて。加瀬邦彦さんとはコーラスの仕事で、昔から知り合いで。加瀬さんが経営していた銀座のケネディハウスというライブハウスがあるんだけど、そこには月一回、加山さんがノーギャラで出ていた。たまたま、そこに観に行った時に、お前も何かやれと言われて、ワイルドワンズ植田芳暁さんのドラムを借りて、ハイパー・ランチャーズと一緒に「ドライビング・ギター」でドラムを叩いた。加山さんとノーキー・エドワーズのライヴ(98年8月赤坂BLITZ)では「BOOMERANG BABY」と「美しいヴィーナス」を一緒に歌った。「BOOMERANG BABY」のようなレコーディングは、一人多重でやらないと意味がない。スタジオ・ミュージシャンじゃ個性が出ない。この時、ドラムを新しく買った。ユカリに貸したソナーライト(SONER LITE)が返ってこなくて、それでラディック(Ludwig)のドラムを買った。吉田保さんにはエコーをかけすぎないように、と言ってw  我ながら良い出来。
加山さんの存在はアイドルとか、そんな陳腐なもんじゃない。僕らの中学時代、加山さんは圧倒的だった。中学2年の時に映画「アルプスの若大将」(1966年)を池袋東宝で封切りで、満員だったから通路の階段のところに座って、観た。夕暮れのアルプスのゲレンデの斜面で、ガットギターを弾きながら「モンテローザ」を歌う場面を見て「ああ、こんな生活があるんだ。天は二物を与えず、と言うけど、二物を与えられる人がいるんだ」と思った。スポーツ万能だし、ピアノが弾けるし、絵は描けるし、そんな不公平な話があるかって、若い頃、加山さんに酔っ払って絡んだことがある。加山さんは笑ってたけど、後から聞いたら、スターの息子だ、って、いじめられることもあったと。
あと、加山さんのことで言えば、なんで僕が歌謡曲に対して一線を引いたかという、決定的な瞬間があって。それが「君といつまでも」がレコード大賞を獲れなかった事件。あの年、1966年は、誰が考えたってレコード大賞加山雄三の「君といつまでも」で決まりだった。だけど所属レコード会社が新興勢力だったんで、他が総出で、潰しにかかった。僕はあの時に、歌謡曲メディアというものを見切って、そこから洋楽に一気にシフトしていった。許容できたのはサブカルチャーとしてのGSぐらいで、それぐらい僕にとって大きなことだった。
加山さんの音楽は、いわゆる湘南サウンドとか、そんなファッション用語を超えた存在で。英語で歌ったアルバムもあって、あの時代に一人多重もとっくにやっているし、それなんか、もろインディーズの音がしている。いわゆる歌謡曲のスタジオ・ミュージシャンの音じゃない。加山さんはギターもうまいから。それに加えて岩谷時子さんの歌詞、語感がすごく気持ち良い。加山さんはそういう意味で先駆者。
加山さんとの交流はこの時期くらいからだけど、まりやは慶應だから、そのつながりもあって、ずいぶん昔から可愛がってもらっていた。桑田佳祐くんが企画した加山さんの80歳のお祝いの会(2017年4月/ブルーノート東京)でも、ステージに呼ばれて「BOOMERANG BABY」を歌った。昔からアルバム1枚にカヴァー1曲みたいな思惑があったので、COZYでは、昔からやりたかったこの曲をカバーした。
8曲目「夏のコラージュ」は、トヨタカリーナのCMソングで、アルバム発売直前のタイアップだった。これもすごく好きな曲で、いわゆる”ビーチもの”だけど「土曜日の恋人」のミックスがうまくいかなくて、あのビートで、もう1曲書きたかった。。割とうまくいったから、ライヴでもやってみたいんだけど、これもなかなか演奏難易度が高いw
イメージとしては鎌倉あたりの海辺の道のカーブを曲がるところ。それが第一京浜京葉道路だと風情がない。やっぱり湘南。オープンカーに女の子を乗せて、というのに憧れがあっても、いざとなると結構恥ずかしいし。車がポルシェやフェラーリランボルギーニとかだったら、なおさら。でも発想や妄想は自由だからw  歌詞の中の“若さや時間はいつか消えてしまう”というフレーズは、モラトリアムへの憧れというか未練。フォーエバーヤングみたいなこと、45にもなれば考える。この曲は歌詞に関しては、語らなくていいw   具体性は言わない。事象は語っているけど、情動は何も語らない。それは僕の作詞の傾向だけど、大滝さんはそれすらも嫌う。でも、そうすると歌詞が書けなくなる。ほとんど情景を語らない人だった。でも気持ちはわかる。
日本のポピュラー・ミュージックはひたすら歌詞、歌詞、歌詞で、作詞優先だから。だけど僕は、音楽の世界はあくまでも言葉と音のコラボというか、そういうものじゃないとつまらない。そんなに歌詞が最優先なら、詩人になればいい。あまり言葉でものを言い切ってしまうと、音はどうなるのか。僕の音楽はダンス・ミュージックではなくて、リスニング・ミュージックだから、目をつぶって、ヘッドホンで聞いて、情景というか、色彩が浮かばないとダメなんだ。耐用年数を上げるにはそれがしかない。あまり具体的なものが出てしまうと、陳腐になってしまう。「プラスティック・ラブ」には”流行りのディスコ”が入ってなければよかった、っていうようなw  まあ、でもそれは結果論。
9曲目「LAI-LA -邂逅-」は94年にNHKドラマ(赤ちゃんが来た)の主題歌として書いたもの。これも「いつか晴れた日に」と同じで、一発録り、ダビングしない、そういうのを作りたいなという一時期があって。でもこちらの方が「いつか晴れた日に」よりは素直な作り。ライヴでもやりたいんだけど、時期を逸している。ちょっと地味なので、3人ライヴでやろうと思ったこともあるけれど。まあ、そのうちやれればいいなと。シンガー・ソングライター的というか、ケニー・ランキンみたいな感じ。これも「群青の炎」と同じガットギターで弾いている。一方「いつか晴れた日に」は買ったばかりのマーチンを弾いている。
10曲目「STAND IN THE LIGHT-愛の灯-」は96年のシングル、フジテレビのキャンペーンソング。好きな曲なんだけど、この前も言ったように、イントロとエンディングが長い。もっとコンパクトにすればよかった。これもライヴでやったことがないけど、アルトのまりやだとトップノートが出ないから。あ、ハルナちゃんと歌えばいいのか。演奏的には大丈夫だと思うし。
  
<ワンパターンでは絶対に生き残れない>
11曲目「セールスマンズ・ロンリネス」は街で見た情景で。子供が小さい頃に、近所のハンバーガー・ショップに行って。ある日、窓際にサラリーマンが一人いて、背中が泣いているようだった。それを見てひらめいた。本当に寂しそうだった。バブルがはじけて、好景気が一瞬にして、どこかへ行ってしまった時期だった。98年は平成不況の真っ只中だったけど、これはそれより前に作った。その時のことをノートに書き留めていて、それをもとに作った曲。だから珍しく詞が先。間奏のSEは、実はその店での音を使っている。エンディングの街の雑踏も店の前で録った。リアリズムと言ったら、それまでだけどw  DATウォークマンが出てきて録音がデジタルになったから、音質が飛躍的に向上して、いろんなところで録りまくった。雷がなったら表に出て、傘をさして、雨が傘に当たって流れる音を録ったり。いろいろ努力して、SEを録音した。これは多分、昼間の2時とか3時とか、それぐらいの時間のことだったと思う。
この曲は完全にサラリーマンへの応援歌。バブル後の営業の辛さは、痛いほどよくわかる。セールスマンとか営業の仕事って、実家のお店やレコード会社で見ていて大変だなと、いつも思っていた。昔は地方の小都市にある小さなレコード店だと、支払いは現金なんだけど、店主と一晩酒に付き合わないと、数万円の売り上げでも絶対に払ってくれないとか、そういう話を散々セールスマンから聞かされていたから。聞いた知識を題材に、どう歌にしようかと考えて。よくある設定だけど、ハンバーガ屋を舞台にして書いてみた。あの店にはお世話になったし、いろいろ思い出もあるからレジの女性とかに教えてあげればよかったなとも思う。
12曲目「SOUTHBOUND#9」は95年、日産スカイラインのCMで流れたもの。とにかく”南に逃げる”という発想があって。 僕の作る歌のテーマは、常に”都市生活者の疎外”なので、年から暖かい南の島、例えばプーケットとか、そういう常夏の楽園みたいな所へ逃げたいという願望。南へ、って歌詞の下書きにメモで書いてあった。で、南でどうするんだ、って、そういう歌w  レコーディングの時は青山純の体調が悪くて、結局ドラムは島ちゃん(島村英二)になった。
13曲目はシングル「DREAMING GIRL」、この曲についてはさんざん話したけど、ここでは98年リミックスを収録している。ミックスも含めて、ここまでよく詰めることができたと思う。
14曲目「いつか晴れた日に」は、シングルのカップリングでギター1本のStand Aloneバージョンを入れているように、ギターの弾き語りでシンプルなオケを作りたかったから(Stand Alone Ver.はのちにRARETIESに収録)。この曲もやっぱりキー設定を誤った。半音高かった。本当はFマイナーで行くべきだったんだけど、ギターの都合でF#マイナーでやってしまった。しばらくライヴをしていないので、それでレコーディングをすると70年代のキー近くなってしまう。いつまで声が出るか分からないから、出るうちにやってしまおうと。それが良くない。2000年代はキー設定を抑えて抑えてやるようになって、ライヴでもちゃんとできるようになったけど、90年代はダメだった。
アルバムの最後、15曲目「MAGIC TOUCH」は93年のシングル、収録したのは98年リミックス。
この頃はトラックはそのままでテンポを速めるというのは正気の沙汰ではなかったけど、一番性能の良いテンポ・コントロールのソフトを使って、6時間半くらいかけて、テンポアップさせた。テンポは上がるがピッチは変わっていない。デジタルだからできること。そうすると、なんでオリジナル・テンポのものもボーナス・トラックで入れてくれないのか、と言われる。でもこのテンポのバージョンがいいから入れたわけで。歌のキーの設定と同じで、レコーディングでのテンポ設定も、いつもだいたい(決定が)遅い。
このアルバムは一言で言うと、GO AHEAD!と同じで、作家性のアルバム。GO AHEAD!の時も作るのに苦労した。作曲面ではなくて、状況面でのトラブルが創作面に影響する。そういう状態だと、作家性が強くなる特色がある。でもGO AHEAD!と違うところは、シングルをたくさん出しているから、半分ベストアルバムみたいなファクターもある。当時はそれで既発曲が多いなんて文句も、散々言われたけど、やかましいw  非常に作家的な側面があるから、作品集というか。そういう意味では『僕の中の少年』とは、全く違う。音楽的な引き出し、バリエーションも多い。生き残るには、多くの引き出しが必要だから。ワンパターンでは絶対生き残れない。
この時、僕は45歳で、普通に考えたら、例えば演歌だったら、どうしても”営業”の方に行く。新譜は”営業”で売るためのもの。だけどCOZYは出荷が100万枚を超えて、オリジナル・アルバムとしては一番多くなった。だから、すぐに、例えば2年後にでも、新しいアルバムを出せればよかったんだけれども。もともと怠け者だから、またもや7年待たせることになる。
【第51回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第50回 Kinki Kidsへの楽曲提供「硝子の少年」(97年7月発売)が大ヒット

<「硝子の少年」は二人の声を聴いて書き直した>
久しぶりのジャニーズへの楽曲提供は、Kinki KidsKissからはじまるミステリー」”キスミス”だった。
僕は本当に初代ジャニーズのファンで、小中学生の頃、初代ジャニーズの活躍を、例えば朱里エイコさんとか、ああいう人たちと同じような感じで、見たり聴いたりしていた。当時は「味の素ホイホイ・ミュージックスクール」(日本テレビ1962〜65年放送)とかも見てたし。だから僕にとっては、初代ジャニーズが、ジャニーズの原風景だった。
中学生の時、文化放送の生電話リクエスト番組「ハローポップス」に参加見学したことがあって、ちょうどその時、偶然にもジャニーズの4人がゲストで来ていた。金魚鉢と呼ばれる、狭い放送ブースにメンバーと一緒に入って、その当時ジャニーズがテレビで歌っていた曲が、僕は好きだったから、それがいつ発売されるかを聞いたんだけど、レコード発売はないと言われた。あとで考えれば、あの時点で既に解散が決まっていた。小杉さんがマッチを担当するようになってから、僕はメリーさんやジャニーさんと知り合って、初代ジャニーズの話も部分的には聞けていた。
2020年にサンソンで”初代ジャニーズ”を特集したけれど、放送した音源はメリーさんにいただいたカセットをリマスターしたもので、音はもうあれしか現存していない。大滝さんも別ルートで手に入れて持っていたけど、昔は著作隣接権の問題で、基本的にオンエアはできなかった。今だったら勘弁してもらえるのでwようやくオンエアすることができた。
初代ジャニーズは1962年結成、和訳ポップスを歌って踊るグループ。デビュー曲は「若い涙」(1964年)で翌年に紅白に出演し「MACK THE KNIFE」を歌った。66年に渡米してLAで歌と踊りのレッスン、さらにバリー・デボーゾン指揮下で16曲レコーディングもする。その中にのちにアソシエイションが歌う「NEVER MY LOVE」(1967年)が含まれていた。このテイクは発売される事はなかったが、録音はジャニーズが歌った方が先だと、そういうお話。
どうしてジャニーズが海外録音に挑めたか。これは昔、青山音楽事務所というのがあって、創始者の青山ヨシオさんは戦後の海外タレント招聘や、トッポ・ジージョのような海外キャラクター・ビジネスの先駆者なんだけど、彼がマイク・カーブ(アレンジャー/プロデューサー)と友達だったので、おそらくその線ではないかと思う。時間がなくて、番組ではそこまで喋りきれなかった。
ジャニーさんに山下達郎を教えたのは、川崎麻世さんだった。小杉さんはレコード会社で制作アシスタントをしている時代に、ジャニーさんと仕事で知り合った。
小杉さんがディレクターとなった後の1979年のある日、ジャニーさんと六本木の交差点でばったり会った。その時いきなり「YOUの最近やってる、あれ。いいね」って言われた。その頃小杉さんは、桑名正博を担当していて「セクシャルバイオレットNo.1」が1位になってたので、桑名くんのことだと思って話してたんだけど、どうも噛み合わない。まさかジャニーさんが山下達郎を知ってるわけないだろうと思って、その時の小杉さんは僕と桑名くんしかやってないから「もしかしたら、それ山下のこと?」「あーそれそれ」「なんで知ってるの」「川崎麻世が教えてくれた」と。それでジャニーさんが気にいってくれた。最初に聴いたのは、MOONGLOWだったらしい。それをヒガシ(東山紀之)に教えたという経緯がある。ソレが始まり。
Kinkiとの関係は、ちょうど小杉さんは96年11月にワーナーを辞めて、スマイルに戻ってきたので、スマイルと掛け持ちで、ジャニーズの仕事を久しぶりにするようになった。そんな時に、ちょうどデビューするとか、しないとかと言ってたのがKinkiだった。それでKinkiの楽曲制作に関わるようになって、曲を誰に、という時に、僕に依頼があったから「kissからはじまるミステリー」を書いたら、ジャニーさんは、まだデビューさせたくないと言って。「硝子の少年」の時も、まだイヤだと言われた。描くビジョンが大き過ぎて、常に満足できないという、まあ彼、独特の粘りというか、こだわりというか。
それでKinkiのためにジャニーズ・エンターテイメントというレコード会社を作って、アルバムとシングル同時発売で『A Album』と「硝子の少年」を一緒に出した。ジャニーさんはシングルデビューじゃなくてアルバムデビューでやりたいと言い出したので、首を縦に振ってもらうには、そこまでやらなければならなかった。シングルはあっという間にミリオンセラーで、そうなるとジャニーさんは途端に「ほら、やっぱりあれはヒットすると思ったんだ」って。そういうとこ、かわいいでしょw  でも、もとより彼らを見出したのは全てジャニーさんの慧眼(けいがん)だし、アイディアと良いひらめきといい、あらゆる意味で普通のマネージメントの常識では計れない人だった。
Kinkiのために最初に書いたのは、キスミスだったけれど、「硝子の少年」に関しては、以前から言っているように、先に書いたのは「ジェットコースター・ロマンス」だった。この曲はKinki3枚目のシングルとして98年に発売された。
明るいやつ、(堂本)剛くんと(堂本)光一くんの声だと、最初はコレなんじゃないかと思って。というのも、デビューするにあたって、ナンバーワンは当然で100万枚がマストだと言われた。ジャニーさんは「ジャニーズで100万枚売れたのはない、悲願だ」と言っていたけど、あとで調べたら、マッチの「スニーカーぶる〜す」は100万枚、売れてる。だから、ミリオンセラーはジャニーズの歴史上なかったわけではないんだけど、ジャニーさんはとにかくそれだけKinkiへの思いが強かったんだろうと。
キスミスを書いた頃、横浜アリーナに彼らのコンサートを観に行ったら、まだデビューもしてないのに1日3回公演で、何日もやっていたんだから、とんでもないことだと思った。その後「ジェットコースター・ロマンス」を書いたんだけど、自分の中ではいまいち普通すぎて、これじゃミリオンいかないなと。じゃあどうすればいいか、って、悩んで。「ハイティーン・ブギ」を書いた時みたいに、こんな時、筒美京平さんだったらどうするかな、と考えた。僕は門前の小僧で、マッチのデビュー当時の、ヒット制作の一部始終を見ていたから。
で、Kinkiふたりの声を聴くと、その濡れた感じが、これはどう見てもマイナーメロだな、と。それで、もう1週間もらって「硝子の少年」を書いた。
    
<自分の立ち位置の大きな指標が、京平さんだった>
日本には歌謡曲と呼ばれる精神風土があって、それもまた伝統芸能に近い特質がある。1960年代の終わりから20〜30年の間、そんな空気の中にいたのが筒美京平さん。
影響を受けたかと聞かれたら、音楽的には全く受けてないけど、僕が圧倒的に影響を受けているのは、彼のライフスタイル。筒美京平という名前は芸名で、マスコミの前には一切出てこない。顔も知られていない。とにかくインタビュー嫌いで、テレビにも出ない。レコード大賞も何度か受賞されているけど、確か尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」(1971)の時だけしか、出てきたことはないんじゃないか。とにかく、そういうメディアに出ることが、本当に嫌いな人だった。確か本も出してない。京平さんのような方が、そういう匿名的なライフスタイルを貫けるのなら、自分にもある程度は可能かと思えた。あのブレなさ。その意味で京平さんは、僕の芸能界での立ち位置を決める上で、大きな指標だった。
京平さんと直接仕事をしたのは、水口晴幸の「Drive Me Crazy」と太田裕美のアルバムでのコーラスの2回だけ。もっともピッピ(水口)の曲を書いてもらった時は、京平さんとは会っていない。小杉さんがオーダーしたので。あれとて京平さんに書いてもらった曲を、完膚無きまでにアレンジして、京平色をなるべく消そうとw
その昔、筒美京平さんのことを”仮想敵”と言ったことがあるけど、それはあくまでも音楽的な話で。人間的には本当に素晴らしい人だった。僕はとても可愛がっていただいた。あの人の音楽家としてのスタンスや物の考え方は、常に不変で、徹底していて、まさに異能の人と言っていい人だった。
職業作家だから、ヒットにはもちろん強固な執着があったけど、それで歴史に名を残そうとか、文化人になろうとか、そういうのは全くなかった。1982年にラジオの番組でインタビューしたことがあるけど、東京の人なので照れ屋だし、おっしゃることがどこまで本音なのか、しばしば話をはぐらかす。そういうところがすごくある。でも仲良くなって、食事も何度かご一緒するうちに、プライベートでは色々と話してくださった。あとになって考えたら、あのラジオ番組の時はこっちも若かったし、やっぱり警戒心とかあって、あまりはっきりしたことも言ってくれなかったんだと思う。あの当時は対外的にも、誰にもそういう態度だったから、あまり面白いインタビューにならなかったのは当然だと。
筒美京平さんの作曲技法はみんな研究しているだろうけど、もっと奥のほうに持っている日本の芸能に対する愛憎半ばする思いというか。歌謡曲って愛憎の交差点で、演奏家も作詞家も、特に作曲家は、大衆蔑視とか、ビジネスとしての成功欲求とか、いろんなものがドロドロとないまぜになって、歌謡曲というジャンルが形成されている。
あと京平さんを語る上で重要なのは、山のように仕事をする中で、多くの編曲者や作詞家を育てたという、そういうプロデュース能力。僕は、彼をそんなふうに見ていたので、Kinkiのような僕が専門外の分野を手がけるときに、しかもプレッシャーのある時に、京平さんだったらどうするか、と考えた。その一番大きな契機が「ハイティーン・ブギ」と「硝子の少年」だった。

    

<ギターとストリングスの音以外、全部ひとりでやった「硝子の少年」>
僕はいわゆるシティ・ポップと呼ばれるような曲を書けと言われて、もう300曲は書いたし。でも、こういう「硝子の少年」みたいなのは、100曲は書けないけど、10曲くらいなら書けるから。できれば、あまり書きたくけどw  運良くKinkiのふたりは歌唱力があったので、チャレンジできた。
当時は剛くんが歌がうまい、というのが事務所の評価で、世間もそうだったけど、でもキスミスなんか聴いてみると光一くんもちゃんと通る声。声のマイク乗りがイイ。音程はちょっと不安定だったけど、音圧は剛くんに負けていない。それに二人とも、とても濡れた声をしている。だったら光一くんにだって、彼の声をちゃんと生かせば、うまくいくんじゃないかと思って、それでデュエットだから、交代で歌ってもらうことにした。
キスミスの歌入れに付き合った時のA&Rのやり方に疑問があったので、「硝子の少年」のレコーディングは、僕がひとりで歌入れのディレクションをやった。剛くんは2時間かからなかった。光一くんはその倍くらい。彼には時間をかなりかけたけど、声は全然へたらなかった。喉が強い。
これももう時効だと思うから言うけど、最初ベテランの大御所エンジニアにお願いしたミックスが、どうしても納得いかなくて、深夜に一人でこっそりミックスし直した。だからあれ、実は僕のミックスで。でも、その方は大人で、僕のことをすごくわかってくれていて、そんな事では怒らなかった。これが他の人だったら、どうなっていたか、わからない。
作詞の松本隆さんも、これに関してはヒットポテンシャルがあると踏んだので、めずらしく何も言わなかった。「硝子の少年」というタイトルに、光GENJIのシングルも「ガラスの十代」だったから、周りはそれに結構抵抗があったみたいだけど、関係ないと突っぱねて。ただ、ジャニーさんがなかなか納得しないので、Kinkiの二人がとにかく不安になってしまう。無責任な外野からも暗いとか、踊れないとか、古いとか、そんなことばっかり言われたw  しょうがないから二人には、その時彼らは17、8歳くらいだったけど「この曲は君たちが40歳になっても歌えるから。今日とか明日とかの話じゃなくて、歌を歌うというのは一生のことだから、歳をとってからでも歌える曲は、すごく大事なんだよ」って話して、励ました。いま図らずもそうなってる。それぐらいは考えて作ってる。僕の音楽は耐久性が勝負だから。その時のトレンドで、3年で忘れられるような曲だったら、いくらだって書ける、と言いたいところだけど、それだって、そう簡単じゃないけどw  
ともかく自分が好きなものは、常に耐久性のある音楽だから。いいか悪いか、どれだけ耐久性があるか、普遍性のある音楽か、それはあとから証明される。今になっても、ちゃんと聴けるかどうかは歌はもちろん、演奏や編曲やエンジニアリングの要素が、お互い深く関連している。同じ時代の音楽でもダメなものはダメだし。例えば1961年に作られた「STAND BY ME」。同じ年のスティーブ・ローレンスなんかと比べると、普遍性が段違いで、今の時代でも全然遜色ない。あれも最大の貢献者は、やっぱり録音エンジニアのトム・ダウドの存在。あのベース音はトム・ダウドだから録れた。
同じ理屈で「硝子の少年」は曲、編曲、ミックスは、絶対にこれじゃないとダメだと思った。トラックの構築は佐橋くんがガットギターで参加しているのと、ストリングス以外は、打ち込みから、コーラスから、ストリングスアレンジまで、全部ひとりでやったもので、ほとんど人が介在してない。だけど、あんなに売れるとは思わなかった。ある程度は行くと思ったけど。シングルが出た後に、横浜アリーナのライブを観に行ったんだけど、アンコールで「硝子の少年」のカラオケが流れてきたら、観客が全員合唱するんだ。あれはすごかった。
「硝子の少年」はKinKi Kidsのデビュー・シングルとして1997年7月21日にアルバムと同時リリースされ、オリコン初登場1位。シングル・チャート100位以内に31週間ランクインするロングヒット。Kinkiには松本さんとの共作で4曲提供して、最初のキスミスはシングルになっていない。「硝子の少年」と「ジェットコースター・ロマンス」は2枚目のアルバム「B album」に収録。そのあと「HAPPY HAPPY GREETING」が88年12月発売。
  
<新たなスタジオ、プラネット・キングダムが完成>
Kinkiのレコーディングは、ちょうど完成したプラネット・キングダム(プラキン)でやった。プラキンで最初にレコーディングしたのが「硝子の少年」だと思う。アルバムCOZY(1998)は超難産で、作業はずっとダラダラ続いていた。ブラキンは狭いから、生リズムが録れない。だからリズム隊を録るには、他へ行く必要があった。「硝子の少年」はマシン・ミュージックなので、基本はすべてプラキン。佐橋くんのギターとストリングスはビクタースタジオで録った。
プラキン自体ができたのは96年だったけど、稼働は97年からで、完成時期と使い始めた時期にズレがある。プラキンは機材的には良いスタジオなんだけど、いわゆるプライベート・スタジオなので、何しろ手狭。スマイルガレージはストリングスも録れる広さがあったのに。その辺は小杉さん、あまり細かいことを考えない人だから。トータルではスマイルよりもお金はかかっている。その頃はケーブルとか凝り始めた時期だったので、床下に這わせたケーブルを全部変えたり。卓も当時の最先端になった。スタジオができた当時は、まだテープの48チャンネル・デジタル・テレコで。それが2000年くらいになると、プロツールスに変わって、そこで、また困ることになる。とにかくプラキンでは、リズム隊の録音などは外だけど、ミックスダウン関しては、もうずっとここでミックスしている。
プラキンが完成したからと言って、全ての問題が解決したわけじゃない。そんなに簡単な問題じゃない。それでも、70年代、80年代は、スタジオというのは、どこもほぼ同じモニタースピーカーで、場所は違ってもシステムは大体同じ。テレコは2、3種類だし、モニターも2、3種類しかない。スモール・モニタースピーカーはオーラトーンで、それがヤマハのNS-10Mになって。
今(2020年)では10軒スタジオがあったら10軒ともシステムが違う。それが惑わせる原因で、その上、今はGarageBandで作った曲が、グラミーを獲れる時代になっちゃったから、それはしょうがない。
   
<「ヘロン」「いつか晴れた日に」と続き、COZYへ>
98年1月にシングル「ヘロン」発売。キリン・ラガービールの長野冬季五輪イメージソングで、久々のベストテンヒットとなった。元々は93年のTBS朝の情報番組「ビッグモーニング」のテーマソングに作った曲だったけど、その時はシングルを出さなかった。その時のサウンドが、全然気に入らなかったから。だからマリンバとかキーボード、パーカッションはそのまま残して、ドラム、ベース、ギターを録り直して、ようやくまともな音になった。最初に録ったバージョンでミックスしたやつを出したら、今頃は全然鑑賞に耐えなかったと思う。そういうことをみんな病気だと言うけどw  「ヘロン」のエンジニアは吉田保さん。大エコー大会だから、嬉々としてやってくれたw
「ヘロン」は5人での演奏なので、大滝さんのやり方とは違う。90年代、デジタルの時代になったら、4リズムでも同じ音圧は出せるので、そんなに厚くしなくとも大丈夫だった。逆に音を厚くすればするほど、デジタルは面白くなくなっていく、そういうところのさじ加減が難しい。例えばギターが4本とか、そういう必要はない。フィル・スペクターのノウハウが絶対じゃないから。
だって、ウォール・オブ・サウンド作ってる人って、そこまでヒステリックに楽器編成にはこだわってない。それこそ、Fontanaレーベル時代のキキ・ディーの初期シングルとか、普通のリズム隊だから。ウォーカー・ブラザースもそう。そんなに大人数ではやっていない。
スペクターの録り方は、アンビエンスも含めた一発録りだから。4ch、8chになってきたら、そういうのはなくなる。ブライアン・ウィルソンに迷いが出たのは4ch、8chになってから。3chとか、マルチトラックも、モノラルでやっている時はそうでもなかった。『PET SOUNDS』は4chだから、まだ良かったんだけれど『SMILE』はそろそろ8chに移行しつつある時代で、そういう想像はある。変なミックスがたくさん出るというのは、チャンネル数が多いからで。『SURFER GIRL』の時は3chで、あれしかないから、ゲイリー・ルイスみたいに、左にあったドラムを真ん中にするとかが、せいぜい。ベンチャーズもそうだけど、もともと2トラックか3トラックだから。常に時代、時代でテクノロジーなり、ソフトもハードも変わっていき、当然良いところも悪いところもあるんで、悪いところをリカバーするのには、何年かかかる。だから「ヘロン」は4年、待ってよかった。4年前は”鳴かないでHERON”というタイトルだったけれど、シンプルな方がいいと思って。タイトルがくどいというのは、僕の癖で、「アトムの子」が最初は”アトムの子等”だったり、その時はまりやに「アトムの子」の方がシンプルで良いじゃない、と言われて。
「ヘロン」はキーが高い。90年代に入って、僕も40代になって、声がいつまで持つかという不安や気分もあるから、できるうちにやろうと、やたらと”高い高い病”になってしまっていた。「ヘロン」はその極致。低めでやっても面白くない。この曲はやっぱりキーがCでやらないと。そういうところの見栄というか、声はいつまでも続かないと思うから、せめてレコードではそういうものを残しておこうと。よくライヴでも言ってるのは、これ1曲だけ今、ステージで歌えと言われたらやれるけど、いつもの3時間のライヴツアーの中でやると言われたら、絶対に無理だから。 「愛を描いて-Let's kiss the sun-」だって3時間のライヴで、ラストで歌うのは辛い。昔からメンバーが嫌がる。ブロックコードで、それもアンコールで延々とやるという。よく青山純が「勘弁して」って、言ってた。キックの4つ打ちというのは非常に体力を要する。それを3時間やった後にやるのかよ、って。
4月にはシングル「いつか晴れた日に」が発売。小杉さんが(96年11月に)ワーナーを辞めて暇になったからw、次から次へとタイアップをとってきた。「いつか晴れた日に」は草なぎ剛くん主演のドラマ(TBS「先生知らないの?」)主題歌。この曲は新機軸だと思ったんだけど、これがまた売れなかった。歌詞の”雨は斜めの点線”というフレーズは素晴らしいと思った。松本隆さんはいわゆる職業作詞家というより、詩人に近い。うまく言えないけど、谷川俊太郎とか、そういう意味での詩人。自分の空気とスタイルと語法みたいなものがある。
      
【前レコード会社との訴訟問題について/経緯】
1997年6月「GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA」を再リリース。オリジナルは82年に発売された同名ベスト。
この作品は山下の移籍後、山下の意思と無関係に84年、86年、90年にそれぞれCD化されたが、90年の再発では、アルバム用に編集された楽曲が、全て別音源に差し替えられる事態が発生した。山下はこれら一連の発売が、勝手になされることは認識はしていたが、当時レギュラーをやっていたFM番組「プレミア3」へのリスナーからの投書で、90年発売盤に関して、その内容のひどさを知った。
相手レコード会社には本作担当者らしきものもいなく、ただ積み上げられたマスターを機械的にエンジニアが作業していき、DJ小林克也の声もそのままのヴァージョンが混在するなど、でたらめの内容、トータル40分が60分近くになっていた。
小杉氏が即訴訟を決断し、製品回収と販売差し止めを求めた。95年に和解が成立し、一旦店頭から回収。
97年、山下本人監修によるデジタル・リマスタリング、および自身によるライナーノーツと曲解説付き、さらにアルバム『FOR YOU』発売時に制作されたプロモ用素材「9 MINUTES OF TATSURO YAMASHITA」に「LOVE SPACE」「SPARKLE」の計3曲をボーナス・トラックとして追加収録。さらにジャケットも作り直され、リリースとなった。
【第50回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第49回 95年11月、ムーン時代のベスト・アルバムTREASURES発売

ベスト・アルバムだからこそ、丁寧に作らなきゃと思った>
まりやの『Impressions』がすごく売れたのと、当時はベスト・アルバムがブームで、それで小杉さんが、僕のも出そうと。ムーンのベスト盤はそれまでなかったから。ムーン設立が1982年。僕の移籍は1983年だから、12年ぐらい経っているし、そろそろ出してもいいだろうと。僕も40歳を超えて、相変わらず、歳をとるとアーティスト・パワーが落ちる、という定説もまかり通っていたし、「クリスマス・イブ」が売れた勢いのあるうちに、出してしまおうと。切迫感というより事業計画で。前にも話したけど、この頃から世界的にレコード会社が制作主導から、経理主導、弁護士主導になってきた。WEAも例外ではなくて、実際95年はぎりぎり、その前夜。
このアルバムのCDプレスはTDK。それまでワーナーのCDはソニーのプレスだったけど、TDKがCDのプレスに進出して、ワーナーを専属でやれるようになって。すごく良い品質で、そういうハードウェアの面ではよくなった。レコードからCDに移行して、日本の場合は特に売り上げが爆発的になった。70年代、80年代はアルバムがミリオンセラーになるなんて、稀有なことだったんだけど、この頃には平気で200万枚越えとか、そういう時代だった。このベスト・アルバムの選曲基準は、すばりシングル・コレクション。曲もたまっていたし。82年のベストよりも、そつなくはまったのではないか。
「蒼氓」だけはシングルじゃないけど、人気曲だったし、「パレード」はフジテレビのポンキッキーズのテーマで、シングルカットしたばかり。「世界の果てまで」は当時の最新シングル。そういうタイムリーなものも入れなきゃ、というのは、いつも必ずある。ベストといえども。いやベストだからこそだね。
できれば「RIDE ON TIME」を入れたかったんだけど、権利を持っているレコード会社から競合他社を利する行為はできません、と言われて。まあその直前の訴訟問題(95年に和解が成立)への報復だね。それで「高気圧ガール」が1曲目になった。本当は「RIDE ON TIME」から始まり「パレード」で終わるという流れにしたかったんだけど。ちなみにこの「パレード」は大滝さんがベスト・アルバムのためにリミックスしてくれた。「THE THEME FROM BIG WAVE」と「MAGIC TOUCH」が入らなかったのは、単に収録時間の問題。まだ74分が限界みたいな時代で、今だったら「BIG WAVE」の方は入れられたかもしれない。
曲順は必ずしも時系列ではなく、この時点での人気曲、ヒット曲を入れた。「蒼氓」以外は全部シングルカットした曲。「蒼氓」はリミックスを収録したけれど、今聴くと、オリジナルの方がいい。2012年のベスト「OPUS」には結局、オリジナル・ミックスを入れた。今となれば良し悪しが言えるけど、あの時代は判断がなかなか難しかった。
「土曜日の恋人」も、この時にもう一回リミックスした。土曜日の恋人はいくつもバージョンがある。
「おやすみロージー」はオリジナルのカラオケにJOYの時の歌を乗せたもの。声そのものはライヴなので、かなり変則的なトラック。
「踊ろよ、フィッシュ」は相当いじっていて、収録したのはオリジナル・シングルでも、『僕の中の少年』のアルバムヴァージョンでもない、このベストアルバムだけのニュー・エディット・ヴァージョン。没テイクも含めた、それまでのテイクの中からいいところを繋いで。リマスタリングの技術が向上してきた時代なので、うまく繋ぐことができた。
「さよなら夏の日」は歌を入れ替えようと試みた。元のシングルは締め切りギリギリで、朝の4時に入れた歌なので、心残りがあった。それで元の歌を参考に同じように歌ってみたけれど、どんなにうまく歌えたと思っても、プレイバックを聴くと、全然オリジナルに勝てない。オリジナルは荒いんだけど、でも何かが違う。結局、諦めた。歌というのは不思議なものでテクニックとか、音程とかそういうものだけじゃない何かがある。そういえば、演歌歌手の人なんてベストアルバムを出すたびに歌い直たがると聞く。ファーストリリースって大体がギリギリのスケジュールでレコーディングするから、歌に不満が残る。みんな、30代40代になって歌が上手くなってくると、やり直したいって思う。それで歌唱印税も入るし、コンサートやリサイタルで即売もできるから。僕も当時はカツカツのスケジュールでやらされていたから、何度か歌のやり直しをトライしたこともあるけど、結局あまり意味がないという結論に達した。だから、その後は、いわゆる再録(リレコ)もしないと決めた。
最近では、夜なべ仕事の教訓も織り込み済みだから、徹夜はしないようになったけど。昔は本当にひどかった。歌入れは必ず最後だから。当時はレコーディングのスタート時間も、午後7時とかで遅かった。最近はもっと早い時間から始めて、夜中の12時くらいでやめる。当時は明け方と言えば聞こえがいいけど、実際には朝の8時とか10時に歌入れなんてこともあった。そうなるとそうなったで、アシスタントが「いよいよ佳境に入ってきましたね」なんて喜んだw
ライナーノーツには「ザ・ムーン・イヤーズ〜シンガー・ソングライターとしての12年〜」というタイトルをつけて、自分で曲目解説もした。演歌やアイドルのベスト・アルバムって、ゴールデン・ヒッツとか、ベスト・ヒットとかいう割には、ただ歌詞がついているだけで、説明も解説もない。多くは年末商品とかボーナス時期の商品で、廉価版。そういうのに疑問があったから、ベストこそ、ちゃんと考えて、丁寧に作らなきゃと思っていた。
CDのリマスタリングもようやく完成形に入った時代だったから、音質的にも格段に向上した。このリマスタリングは元ソニーの原田光晴くんというエンジニアで、当時はオンエア麻布スタジオで働いていた。彼とは1990年のまりやの「告白」が最初で、それ以後20年近くやってもらった。当初は発想すらなかったけれど、デジタルのリマスタリングはアナログ以上に重要で、アナログのノウハウをそのまま踏襲していたのでは、どうしようもない。それがわかってきたのが、80年代の終わりで。それまで多くのリマスタリング・エンジニアは、みんな原音忠実派でEQ(イコライザー/音質補正)すらイヤだと。
アナログとデジタルの大きな違い。それはピーク補正とかコンプレッションとかは、アナログの場合は上を叩いて抑えるんだけど、デジタルは下を上げていく。小さいものを大きくするわけだから、あまり上げすぎると、平面的になってしまう。そこで、奥行きを保ちつつ、音圧を上げるのがマスタリングのテクニックだったりする。でもレコーディングに限らず、新しいノウハウが出てきても、「昔はこうだった」という経験則を引きずって、居直ってしまう人がいる。それで滅びていく。技術は常に進化していくものだから。
   
<作家性も同時に持ち合わせているのがシンガー・ソングライター
ムーン以前と以後で、お客さんの評価もガラッと変わった。そもそも自分の性格的には「FUNKY FLUSHIN’」みたいなものは、あくまでも作家的な思考であって、シュガー・ベイブを始めた時点での精神性に戻ると、「ゲット・バック・イン・ラブ」みたいな曲の方が本来で。歌唱と曲の整合性という意味では全然こっちの方が自分なんだ。
言ってしまうと、MOONGLOWやRIDE ON TIME、FOR YOUには売れるための思惑があって、多分に作家的なスタンスで作られたものだから。僕より前の時代の作曲家、川口真さんや船村徹さんとか、ああいう方々はいわゆる座付きで、要求に応えることが仕事だった。職業作家だから。筒美京平さんもそう。
僕はシンガー・ソングライターという意識が強いので、そこを逸脱する曲は書けない。たとえジャニーズものでも、自分ではその一線を超えているつもりだったけど、今聴くとちっとも超えていないw 逆に自分でも歌える。オクターブで書いているから、かえって歌いやすいくらいで。むしろアレンジャーとしての方が、原理主義的かもしれない。
誤解して欲しくないのは、僕にとってシンガー・ソングライターというのは、同時に作家性もある人で。だから、キャロル・キングやバリー・マンはやっぱりお手本だった。特にキャロル・キングシンガー・ソングライターの草分けだけど、もともとはヒット作曲家で、そこから、人に作った曲を自分でも歌い始めて、それからは自分のためのオリジナル作品への移行を、模索しながらやってきた人。
リー・マンも同様で、ティーンエイジ・ポップスを書いていた人なんだけど、キャロル・キングに触発されて、シンガー・ソングライターとしての内省的な作品作りを始めていく。全く成功しなかったけど。
ニール・セダカも、そのあとのスタンスは同じ。共通しているのはみんな歌がうまかったこと。
今のシンガー・ソングライターって、ちょっと違う。他の人の作品は決して歌わない、自分だけしか歌えないような曲しか書かない。そういう人は作家性がないから、僕の考えるシンガー・ソングライターとはちょっと違う。でも、今の若い人のカヴァーに対する積極性は凄まじいものがある。それも時代の変化かもしれない。あとは、僕のように歌詞や曲は書いても、アレンジまでやっている人は少ない。僕みたいにストリングスやブラスのスコアまで書くというシンガー・ソングライターは珍しいかもしれない。
アルバムのタイトルをTREASURESとしたのは大した意味はない。前のGREATEST HITS〜 も完全にシャレで、これは多分、小杉さんが付けたんじゃないかなw TREASURESのジャケットのイラストを、松下進さんに描いてもらったのは正解だった。まだ、とり・みきさんの”タツローくん”の前で。松下さんって、ザ・シャドウズのフリークで、ミュージシャンを目指していたという、ロックな人で。
このベストは僕のアルバムとしては初のミリオンセラーになったけど、まりやの半分ぐらい。まりやのは300万枚以上売れたけど、こっちは140万枚くらい。テレビに出ていたら、もっと売れていたかもしれないけど、正直これくらいは売れてくれないと。メディアを使うことには、今以上にネガティブだった。リリースしても、どうせテレビには出ないんだから、と宣伝部全員がそんな感じだった。この時はディーラー・コンベンションもやらなかったし、あまり労働意欲がなかったw そろそろ非常勤ではなく、ちゃんとした取締役にしてくれるのかなと思っていたのに、そうはならなかった。ミリオンになったことは、ワーナーという会社の最後の輝き。まあオリジナル・アルバムならどれくらい売れたか気になるけれど、ベストは別に……。早く作品を出せと言われていたから、ベストを出して、すぐ次のアルバム“DREAMING BOY”を出すはずだった。
    
<録音が上手くいかなくて、歌詞を書くのに疲れてしまった>
ベストアルバム発売直後に、「サンデーソングブック」3周年のアコースティックライヴをやった(TOKYO FMホール/95年11月26日/2回公演)。メンバーは難波くん、広規と、この時は佐橋くんも入れて、4人で。 レコーディングも始めたけど、メンバーやスタジオの問題で、うまくいかなかった。
翌96年2月にはメリサ・マンチェスターとの共演シングル「愛の灯(ともしび)〜STAND IN THE LIGHT」を出した。この曲については、恐らく前年の、95年の秋にはベーシックなトラックを作り始めていて、年末頃にLAに行って歌入れした。これもサウンド・シティでやっていたから、悩みの種。オファーはフジテレビのイメージソングのタイアップで、外国人女性シンガーとデュエットしてくれと言われた。大雑把w 誰が良いかなと考えて、メリサ・マンチェスターなら来日時に一度会ったことがあるし、性格も良さそうだからw いいな、と。当時、アリフ・マーディンのプロデュースでテクノみたいなことをやらされていて、自分だったらもっと違ったアプローチができるのに、と思ったのも理由。他にも何人か候補あったんだけど、これは、という人がいなかった。それになるべくミドル・オブ・ザ・ロード寄りの人が良かったから。外国人シンガーとデュオをやるというのは魅力的だった。
曲はアシュフォード&シンプソン風で行こうと思って書いたんだけど、結構お気に入りだった。LAで歌入れだけやったんだけど、その時のエンジニアがフィル・コリンズのエンジニアで、いい人だったw レコーディングでリード・ボーカルをダブルにすることになって、彼女は前に録ったのを聴きながら歌う。洋邦問わず、ほとんどの人がそういうやり方をしてるけど、僕はそうじゃなくて、コーラスでも、ダブルにするときは、今歌っているものしか聴かない。ひとりアカペラでも、常に他の音は一切聞かないでやっている。自分の声だと、どれが今やっている音だか分からなくなるから。そしたらエンジニアに「なぜ前のを聴かないのか」って聞かれて。「だって、同じように歌えば同じになるでしょう」って答えたら、すごく驚いてたw
歌詞は彼女が書きたいと言って、歌入れもスムーズだった。でも、さすがに二人ともソロシンガーなので、なかなか歌の細かい所が合わなくて、微妙にずれる。時間がかかってしょうがないから、違うブースで歌ってもらって、日本に帰ってから、それを聴きながら、僕が後から合わせた。メリサ・マンチェスターは「DON’T CRY OUT LOUD(あなたしか見えない/伊藤ゆかりやリタ・クーリッジがカヴァー)」などヒット曲もあるけど、アメリカの芸能界の尺度からする、と中堅どころ。ミドル・オブ・ザ・ロードは難しいんだ。日本でも、プロモートがそれほど活発に行われていたわけじゃないし。70年代に彼女の初来日公演を、東京の郵便貯金会館に観に行ったけど、空席が目立ってた。僕が一緒に仕事をした時は「テレビが嫌いだけど、出ないとレコードが売れないし」と悩んでいた。どこも同じ。共演の壁は全然なくて、基本リーダーシップはこっちだったし。彼女はお世辞を言えない人で、普通は、特にショービジネスの人間なら「すごくいい曲ね」とか言いそうだけど。デビー・ギブソン(達郎が提供した「WITHOUT YOU」がヒット)でさえ、そのくらいは言ってた。でも、変な社交辞令を言わないから、逆に好感が持てた。ともかくこの曲は好きな曲。ただ編曲をちょっといじりすぎたかも。イントロもエンディングもなくなっちゃって、もうちょっとコンパクトに収めておけばよかった。大作にしたかったというか、本当は弦(ストリングス)も入れようかと思ったくらいで。
3ヶ月後の5月にもシングル「DREAMING GIRL」を発売。NHK連続テレビ小説「ひまわり」(主演松嶋菜々子)の主題歌。4月の放送開始に間に合わせるように作っているから、2月ごろには上げているはず。これは海外レコーディングで、LAでストリングスまで録った。チャーリー・カレロでやったけど、結局ボツになった。朝ドラだから、というプレッシャーはなかった。僕は役者じゃないしw  思えば、“DREAMING BOY”から出た「DREAMING GIRL」だったけれど、あれはシャレで、結局、発売日は設定したものの、アルバムは出せなかった。音が気に入らないとか、体調が悪かったりとか、メンバーやスタジオの問題など、いろいろな原因があった。ツアーもやっていなかったけど、その分あの時は「サンソン」に手間がかけられたから、番組については密度が濃くなったw
「DREAMING GIRL」の歌詞は、人に頼みたくて、松本隆さんとやろうと思った。この時期はレコーディングがうまくいかなくて、歌詞を書くのに疲れてしまった。一応大滝さんには仁義を通して、松本さんとやるので、と挨拶に行った。曲のモチーフは、持っているものを膨らましたもの。ドラマは主人公が弁護士を目指す話だから、明るいのが良いかなとあの曲にしたけれど、レコード会社のスタッフからは不評で。最初に松本さんが書いてきたのは、違う歌詞で。歌入れを聴いて、お前にこの内容は似合わない、って、松本さんが書き直してきた、珍しく。松本さん作詞では、そのあとKinkiの「Kissから始まるミステリー」「硝子の少年」、COZYでの「いつか晴れた日に」「氷のマニュキュア」「月の光」へと続いた。
「DREAMING GIRL」はリズム録りもすごく難航して、スタッフから「ヒットしない」とか言われて。そういう”圧”に耐えつつ、やっていた。自分ではそんなに悪い出来じゃないと思ってる。歌詞だって嫌いじゃないし、間奏の段取りなんかもよくできている。転調のところとか。一度は自分でドラムを叩いたりしてw 運良くリズム隊の調子が良い時にやれたんで、滑り込みセーフだった。レコーディングは95年からやっていたけど、実質的には96年に入ってからで、2月末の締め切りでちょっとギリギリのスケジュールだけど、NHKの朝ドラはそれぐらいの感じ。収録も、それほど前倒しじゃないから。アルバムCOZYに入れたのはリミックスで、最初のは好きじゃなかった。とにかくミックスの環境が良くなかった。
チャートアクションも悪かった。「サンソン」に「あなたの歌詞じゃないとダメだ」って、手紙をよこしたファンの人がいて、そんなの少数意見だと思ったけど、今思えば、あながち間違った指摘ではなかった。楽しようとすると、良い結果は生まれない。大昔ター坊に「あなたは自分で歌詞を書かなきゃダメよ」と言われた。何度か人に歌詞を頼んだことがあるけれど、やっぱり違和感は拭えないというか。
      
<何を歌いたいか、というテーマは自分の中にある>
その違和感というのは、思想の問題かな、と。風景を切り取るとかいうよりも、歌詞に思想があるかないか。70年代、80年代の作詞家って、思想がある人はみんなダークで、僕好みの思想性みたいなものを表現した人は、ほとんどいない。僕が一番尊敬する一人は岩谷時子さんだけど、彼女みたいな、歌詞で何も言わないというか、そういう人がいない。
何かを言っている人は、みんな音楽が違う。僕みたいなスタイルの音楽で「THE WAR SONG」のような曲を書く人間はいない。常にああいうサウンドで、ああいう歌を歌いたいと思う。「蒼氓」にしても「希望という名の光」にしてもそう。そういうことがだんだん確信になってきている。抑制された思想性がないというか。言葉のトリック、例えば歌詞の1行目と2行目の連関性とか、意外な語彙とか、そういうのは、はっきりってどうでもよくて。音と音楽の協調性がないと。それは編曲にも言えて、例えば昨今のストリングス・アレンジは、ともすればストリングスの自己主張でしかなくなってる。控えめに主張するストリングスって、本当に美しいんだけど、最近のストリングスはひたすら主張しまくって、動きまくって。A(メロ)が3回出てくるとしたら、3回とも全部違う、みたいな。リピートという発想がないのか。
歌詞にしてもそうで、作詞家に頼むと、エゴがすごく出る。ここは曲に合わないから書き直してくれと言っても、してくれない。僕なんか自分のシングルで曲を書き直したものなんて、数え切れないのに。なんで、自分が歌詞を書き始めたかと言うと、言葉より思想性、若い頃からそういう意思が自分に合ったから。例えば「雨は手のひらにいっぱい」では何を歌いたいか、というテーマは自分の中にはあるわけで、だけど、それをなるべく言葉に勝たないようにメロディーに乗っけたい。抽象性という意味では、やっぱりター坊とはすごく一致している。
言葉とメロディーと編曲、そこには密接というか、連関性というのが、すごくあるのに、多くの場合、作詞家は編曲の事まで頓着していない。だから完パケに近いところまでオケを作って、歌詞を書いてくれって頼みに行くんだけど……そういうことが繰り返されていた。
自分の歌詞が秀でているなんて思った事はないし、しょうがないから自分で書いている、というのもあるけれど、ただ重要なポイントとして、自分が言葉を発して、例えば「それってやばくない?」ってことを表現するのに、あまり具体的すぎたら、それは会話じゃなくなる。どこを曖昧さの落としどころにするかは、それぞれの言語感覚や、言語能力による。自分で歌詞を描いて、メロディーをつけて歌う場合、語感にメロディーがスムーズに乗らないと、歌にならない。でもあえて、そうじゃない歌を作る人もいるわけで。僕の世代や、そのちょっと前後の世代は、それにすごく固執するか、全く固執しないからどちらか。中には歌詞に重きなんか全然おかなくて、楽しければいいじゃんって言う人もいて、それでもきちんとした音楽を作っている人はたくさんいるし、だからそれも全く否定しない。昔の歌謡曲なんて、それしかないから。
新聞記者だの、文化人だのが「歌謡曲なんて、月と星と恋とあなたしか出てこない。そんな世俗を歌ったって、世界は変えられない」なんてよく言ってたけど、僕は昔から「月と星で何が悪いのか」と思っている人間なのでw  メロディーに乗せた途端に、月にも星にも特別な意味が出てくる。それがポピュラー・ミュージックの醍醐味。突き詰めれば言語でありながら、言語ではないものになっていくというか。
歌詞は一番最後で、オケが出来上がってからでないと書けない。「クリスマス・イブ」でさえ、そうだから。「WINDY LADY」みたいな単純なものは、その前でも作れるけど。アレンジと歌詞は並行で進むところもあって、リズム隊の構想はおぼろげながら出てくるから、その時にコードはこう、サビは、キメは、それで戻る、なんてことが、並行して出てくる。
それが作詞、作曲、編曲を全部自分でやっている人間の強みでもある。
【第49回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第48回 94年10月スマイルガレージ閉鎖、スタジオジプシーの時代へ

<スタジオで音が鳴ってくれないのが、本当に辛かった>
1994年は5月に”SINGS SUGAR BABE”が終わって、まりやの『Impressions』を7月にリリース。あとはずっとレコーディングをしてた。ホームスタジオのスマイルガレージが、湾岸地区の再開発の影響で10月に閉鎖、そこからサウンドシティに移った。”SINGS SUGAR BABE”のFM放送用の音源とかも、ここでミックスしている。そこから97年にプラネット・キングダム(スタジオ)ができるまで、約3年間のスタジオ・ジプシー時代が始まった。
サウンドシティを使うことにしたのは、77年にSPACYをここで録音して、その時のスペックが高かったから。ピアノがベーゼンドルファーで、コンソール卓も当時の最新だった。そのあとMOONGLOW(1979)もここでミックスした。だけど、つまりそれから15年以上経っていたということ。その間にサウンドシティはどちらかと言ったら音楽ではなく、映像のスタジオになっていた。記憶って恐ろしくて、それに頼ったのが間違いだった。85年からスマイルガレージで始めて、8年くらい過ごしていた間に、他では変化が起きていた。当時外部スタジオで使っていたのは音響ハウスが一番多かったから、素直に音響ハウスでいけばよかった。過去の良い記憶に頼ったけど、随分と違うものになっていた。
でもPOCKET MUSIC(1986)の時と同じで、自分の耳が衰えたから響きが悪くなったのでは、とか、アレンジが古くなったから、とかそういう思いもあって。でも、今になって思えば、全部ハードウェアの責任だった。サウンドシティで録音したものには、お蔵入りがすごく多い。
本当は96年にアルバムを出す予定だった。ARTISANを91年に出して、92年まりやの"QUIET LIFE”、それから93年SEASON'S GREETINGS、94年SONGSのリマスター盤に、”SINGS SUGAR BABE”のライヴと続いたので、そこで一息ついた。それで腰を据えて95年から96年にかけてアルバムを作ろうと思ったんだけど、あえなく挫折してしまった。スタジオの配線関係が古くなっていた。古いと音が抜けなくて、曲想、特に編曲的な曲想がわかない。だからスタジオでの音像に満足できなくなってしまった。”DREAMING BOY”というタイトルでアルバムを出そうと思っていて、それはファンクラブの会報でも言っていたけれど。結局出せなくて、どうもすいません、みたいな。
シュガー・ベイブをやめてから、再結成はないと思っていた。だからライヴという形でやったんだけど、音楽的には常にシュガー・ベイブで、やり残したと思うことがたくさんあった。それで、それをやろうとして、いつも挫折する。いろんな理由があるんだけど。レコードもたくさん聴いていたし、全米40もちゃんとチェックはしていたんだけど、音の傾向としてはマシン・ミュージック全盛の時代で、そういうダンスとかヒップホップみたいなものには、何も興味を持てなかった。シンガー・ソングライターも歌詞一辺倒というか。
僕自身も40歳を超えて、30代は生き延びることができたけど、40代はどうなるんだろう、と。もうタイアップが取れない時代になるよ、って小杉さんにも言われたし、実際そうだったんだけど。だいたいシングル・ヒットというものは、我々みたいなスタンスだと、タイアップなしでは成立しない。自分が歳をとるという事は、テレビとか音楽とか、メディアの人たちも歳をとって出世すると、今度は現場が若返りする。新しい人たちの趣味が反映されるようになっていく。それがメディアの趨勢。ロートルは消えて、次世代にだんだん移っていく。それまで売れていた人たちも、ヒットが出なくなる。
それにとって代わったのが、おニャン子クラブから始まって、モーニング娘。、SPEED、小室ファミリー、あとB'zとか。スピッツミスチルは全く通ってないw あとは渋谷系ビーイング。いずれにしろ、我々の時代じゃない。もっと下の世代が出てきている。ドリカムなんかもそう。サンソンを92年に始めた時、すぐ後の番組がドリカムだったから。後から次の世代が追いかけてくるような感じはあった。(藤井)フミヤの「TRUE LOVE」なんてのもあった。端境期というか。タイアップの流れも変わってきて、例えばビーイング系の楽曲はメディアミックスでミリオンヒットになって。小杉さんがワーナーの会長になって、僕のマネージメントから外れたのも大きい。
そういうところでギクシャクし始めて、あの辺を”ロスト”な感じというかあまり、思い出したくない時代で。世の中は200万枚、300万枚のセールスの時代なのに、自分は閉塞状況だったから。何しろスタジオで音が鳴ってくれないのは、本当に辛かった。
  
<『Impressions』は世界のワーナーで1位を記録した>
94年7月発売のまりやの『Impressions』については、ベストアルバムだから手間はかかっていない。これ用にレコーディングしたのは「明日の私」と「純愛ラプソディ」だけ。当時はベストアルバムがちょっとブームになりかけていた。復帰して3枚のアルバムを出して、まりやのムーン時代のベストはこれが初めてだったので、出したけれど、これが馬鹿みたいに売れた。そういう形容すら間に合わないくらい売れてしまった。
『VARIETY』(1984)のことを話した時にも言ったけど、作品の発売が決まったら、全国のレコード店に受注をかける。そうするとそれがイニシャル・オーダーと言って、初回の出荷枚数になるんだけど、大体このくらい売れる、売りたい、という予測をつけて、その枚数をプラスする。レコード会社って実売じゃなくて、出荷が実績なんだ。出荷を大きくすると、売り上げ実績を”粉飾”することができる。初動、つまり最初のインパクトが重要な歌謡曲系は、伝統的にほとんどそう。その次はバックオーダー、つまり追加注文がどれだけ来るか。初日のバックオーダーというのは結構重要で。イニシャルをむしろ少なくして、バックオーダーで煽って、話題作りをするというやり方もあって、それは完全にアーティスト・プロモーションとしての受注なんだけど。ロック系というのはロングセールスという発想があるので、そういうやり方をしていた。
最も伝説的なのは、矢沢永吉さんの『アイ・ラヴ・ユー、OK』(1975年)で、初日のバックオーダーが史上初の1万枚を超えて、5桁のバックオーダーだった。その頃のバックオーダーは2千〜3千枚、多くて6千〜7千枚くらい。そしたら『VARIETY』のバックオーダーが1万を超えて、我々は大騒ぎした。
『Impressions』が出た時は、もうアナログからCDになっていたし、1万を超えることも普通にある時代だったけれど、初日にデータを見に会社に行ったら、バックオーダーが6万付いていた。「すごいな、6万だよ」って驚いていたら、スタッフが「違うんです。ウチのコンピューター5桁までしか出ないんです。本当はもうヒト桁あるんです」と。一瞬、何のことか全然わからなかったけれど、実際は16万だった。毎日それが続いて、確か280万枚までいった。
94年のワーナーミュージック・インターナショナルの売り上げで、世界的には枚数はもっと売れていたものはあったけど、当時は円高だったので『Impressions』が売り上げ世界ナンバーワンになった。それで当時のワーナーミュージック・グループ会長のボブ・モルガードが、まりやをグラミー授賞式に招待したいと。最初、本人は子供がいるから行けないと言ってたんだけど、そんなの一生に一回だから行って来いと、子供の面倒は見るからと言って、送り出した。
当時のWEAだから、メイン・テーブルの一番いいところ。当時、我々のセクションはアトランティック・レコードの日本での販売担当だったので、アトランティックの総帥アーメット・アーディガンも同席して、モルガードとアーディガン、それに小杉さんとまりやの4人で、そのメインテーブルに座っていたら、デヴィッド・フォスターとかグラハム・ナッシュとか、彼女の知り合いも来ていて「どうしてまりやがここにいるんだ?」ってw 
『Impressions』のミックスは、まだスマイルガレージがあった時で、この頃は全部一人で音色も決めていた。「純愛ラプソディ」は我ながら、なかなかよくできたアレンジで、時間の余裕があったので、結構、濃密にアレンジができた。このシングルのリリースは5月だから”SINGS SUGAR BABE”のリハーサルをしながらの作業だったかもしれない。ミキシングはスマイルガレージ。
11月にはNHKドラマ「赤ちゃんが来た」の主題歌として「LAI-LA -邂逅-」がオンエアされた。レコーディングメンバーは、青山純伊藤広規佐橋佳幸で、僕はキーボードとパーカッションを担当。4年後のCOZY(1998)には、この時のTVヴァージョンとオケは同じだけれど、ミックスが違いが収録された。この曲もスタジオでやると、全然思ったようにならなかった。スタジオが悪かったんだけれど、アナログに戻してみたり、デジタルのフィルターを変えてみたりで乗り切ろうとした。
デジタルになって、レコーディングの方式が変わって卓も変わってきた。コンソールはSSLになって。70年代は少なくとも、どこのスタジオ行っても、テレコも卓も同じ機械だった。違う卓でも、方式が同じだった。それがデジタルになったら、まずマスターは違うし、ADAT(デジタル・マルチトラック・レコーダー)にするとか、ドルビーとか、機材の選択肢が増えてきて。さらに、この曲を生でやるのか、マシンなのか、でも両方やってみないとわからない、と時間がかかってしまうw マシンでやるとしたら、キックの音をどれにするか。キックの音だけで30種類くらいあるから。今はタイミングを発音前にあらかた揃えられるんだけど、あの頃はひとつずつ録っていかなければならないから、キックを録って、スネアを録って、ハイハットを録って、その都度タイミングを合わせていくと、ドラムだけで1日かかる。ドラム、ベース、キーボードを仮で入れて、家に帰って聴き直したら、何かが違う。テンポが違う。それでまた録り直し。そんなのが1週間くらい続く。でも若かったし、集中力もあったから、それでめげる事はなかった。
僕は単純労働が平気な性格で、Excelで作曲家のリストを作るとか、全然苦じゃないから、そういうのは大丈夫なんだけど、何しろ時間だけはかかる。今はマンションで一人でできるけど、あの頃はスタジオで、エンジニアがいて、アシスタントがいて、延々とテレコを回して、という具合で。
新しいスタジオ(プラネット・キングダム)が稼働するのは97年からで、実はその頃に、小杉さんが体調崩して、ワーナーの会長を辞めてしまう。ワーナーという会社はWEAと言って、ワーナー、エレクトラ、アトランティックという3つのレコード会社の制作エグゼクティブの集まりだったんだけど、95年くらいから大きく体制が変わり、レコード・ビジネスの趨勢も変わった。それこそ60年代、70年代は本当に適当だから、レコード・ビジネスが儲かると分かれば、ガレージ・ミュージックで一発当てれば大金持ち、みたいな、いわゆる詐欺師みたいなやつばっかりだったんだけど、それがだんだんビジネスとしての体裁を整えるにつれて、映画会社と同じように弁護士が入ってきた。
『Impressions』が出た頃の話だけど、例えばシングルとして出した「純愛ラプソディ」を、このアルバムに入れることで、売り上げが良くなる。ワーナーの本部もそれはウェルカムなので、アルバム発売を1ヶ月ぐらい遅らす事は普通にできた。でも翌年、翌々年になると、弁護士が経営陣に入ってきて、日本も統括するようになったから、そんなことができなくなった。それまでレコード会社というのは、契約してから3年くらいは、10も20も並べて先行投資して、そのうち1つでも売れれば、全部リクープ。そういう、どんぶり勘定だったけれど、それが「一つ一つのサブジェクトについて、3ヶ月ごとに収支を出せ」と言う。そんなことやれるわけがない。それが90年代中期のレコード・ビジネスの全世界的な変化で、これは大きかった。つまりトライ&エラーができなくなってしまった。結果トップの人へのプレッシャーが激しくなって、それで小杉さんが体を壊した。それこそ昔の、一枚目は投資、二枚目でトントン、三枚目で回収、みたいなのは通用しなくなった。
キャリアのある人は契約料が高くて、印税率も高いから、全部契約を切って、新しい人に入れ替える。ワーナーでも、例えばジャクソン・ブラウンとか、ずーっと長く続いていたアーティストも、軒並み切られてしまったり。ソニーみたいに電気屋の親会社が上にあるところはまだしも、独立した純粋にレコード制作と販売だけの会社は、どんどん苦しくなってくる。そういった時代の変化。作品を出さないやつはいなくていい、そういう時代になってきた。まあ今もその延長だけどw
翌95年1月には「SOUTHBOUND#9」が日産スカイラインのCMに起用された。これはタイアップが決まってから、レコーディングをした。ドラムは青山でやったけれど、合わなくて途中で島ちゃん(島村英二)に替えた。94年の暮れだった。車の映像に合う曲調って、テンポ感の合うサウンド・パターンはほんの少ししかない。ヨットとか、クルージング、サーフィンとか、半端な音楽だと、全然映像と合わない。車のCMは「風の回廊(コリドー)」(1985)とか、あるいは「マーマレード・グッドバイ」(1988)、ああいうテンポ感じゃないと合わない。「SOUTHBOUND#9」もまさにそれで、どちらかというと8ビート方が合うことが多い、「ターナーの汽罐車」(1991/日産スカイライン)もそうで、あのテンポ感で作るしかないから曲調が似てくるw この時のスカイラインのCMでは、南の方角、太陽に向かうシーンがあるから、歌詞に「南へ」と入れた。
1995年1月といえば、阪神淡路大震災。あの時は、ほとんど表の活動していなかったから。ツアーをやっていたら、また違っていたかもしれないけれど。スタジオにひたすらこもっていて、それも曲が試行錯誤中で、形になっていない時だったから、できることが何もないっていう。僕みたいな人間が、炊き出しに行くとか、そういう感じではないし。「サンソン」が始まってまだ2年かそこらだったけど、放送で何かを言った記憶がない。もちろん寄付はしたけれど、それは公共の電波に乗せるようなことじゃないし。2011年の東日本大震災の時はツアーもやっていて、毎年東北に行っていたこともあって、意識の違いがすごく大きかった。この歳になると、社会的責任を自覚するし、何かをしようということにはなるけど、この時は精神的に閉塞していたというのもあって、自分のことで精一杯だった。
この95年の後半は、ひたすらスタジオに入っているだけの、おこもり状態で。あとは打ち込みばかりしていた。さっきも言ったように、代理店からのタイアップのアプローチも減っていた。小杉さんが完全に僕のマネージメントをしなくなって、スマイルカンパニーも人に預けたりして、そうすると事務所なんてそんなもので、積極的営業もかけなくなる。40過ぎたら未来なんかない、という。タイアップがないならないで、アルバム”DREMING BOY”のレコーディングをしようとしていた。でも、もちろんこのアルバムの曲を作るためにスタジオに行くんだけど、リズム録りしても全然ピンとこないし、同期でやっても、もっとピンとこない。それの繰り返し。アンビエンスを変えてみようか、スタジオを変えようか、アレンジを変えればいいのか、いろいろ試してみても正解が出てこない。
とはいえ、レコーディングするつもりで詞曲をスタジオに持っていくから、ある程度の曲の構成はあるわけで。あとからメロディーを考える曲もあるけど、その場合もリズムパターンは考えてあって、それからサビやキメを作っていく。過去で言えば「THE WAR SONG」のように、もともとメロディーがないものは、そんなふうに作りながら録っていってた。
でも、この時は、リズム録りを聴いても全然グッと来ないというか。だからメロディーも浮かんでこなくなった。家では打ち込みの機材が新しくなったりして、そうなると、今までにない違うパターンが湧いてきたりして、すごく新鮮で、曲作りはそれなりにはかどった。そういう手ごたえはあったんだけど、いざスタジオに入って録音すると、何か音に違和感があって、ちゃんと形にならない。
そういう事はこれまでに3回あって、POCKET MUSICの時と、この”DREMING BOY”、そしてもう一回はSONORITE(2005)をプロツールスで作ってた時。今(2020年)ちょうどPOCKET MUSICをリマスターしていて、解説を書いているけれど、ぼやきしかないw
  
<苦しい状況ではあったけれど、今がよければそれでよし>
そんな95年11月1日にシングル「世界の果てまで」、同じ月の13日にベストアルバムTREASURESを発売(オリコン初登場1位)した。「世界の果てまで」がサウンド・シティでやった最初だった。入れては消し、入れては消し、の繰り返し。曲自体はテレビドラマ(日本テレビ「ベストフレンド」脚本中園ミホ、主演松雪泰子深津絵里)の主題歌で、タイアップが決まってから書いた。あの頃は完全に向こうの買い手市場で、こちらのスタッフも媚びているから、打ち合わせまでに完璧に歌詞を書いてこいと言われて。そんなの脚本もないのに無理、本当に大変だった。この曲の情景は、青山の絵画館前の銀杏並木、あそこが冬に近づいていくイメージ。あの銀杏並木は、絵画館前通りの”名作”だから。
レコーディングでは、とにかくオケが全然ピンとこなくて。自分の価値観って、詞曲だけじゃなくて、例えば、ここのパーカッションを入れたときに誰かともめたとか、そういう記憶とも密接に関わる。オートハープをダビングするんで、とあるスタジオ行った時にアシスタントが気が利かなくて。録音ブースから何度呼んでも全然気づかない、振り向きもしない。頭にきて途中で帰った。
思い通りの音にならないから、いじっていじって、ミックスダウンもベースのバランスが大きすぎて。今だったらリマスタリングで治せるんだけど、当時はどうしようもなかった。そんなことばかり覚えている。
オートハープは好きな楽器で、買ったので使ってみたいと思ったのか、使うので買ったか忘れてしまったけれど、それまでは何回か試してはいる。BIG WAVE(1985)での「MAGIC WAYS」でも使っている。使うのは思いつきだったんだけど、チューニングが大変。
あとはこの時の曲のキー。設定が高くて。この頃は「ヘロン」や「SOUTHBOUND#9」なんかでもなぜだかキーを高くしたがってる。
最初はちょっとボビー・ヴィーみたいな、というか、サザンみたいな曲が書きたかった。あの頃の桑田くんの「涙のキス」とか、もっと前の「真夏の果実」とかいい曲だな、と思って。サザン的普遍性というか。桑田くんの曲で最近一番好きなのは「月光の聖者達(ミスター・ムーンライト)という曲だけど、本当によくできている。彼という人間がよく出ている。洋楽志向から逃れられないんだけど、昭和歌謡からも逃れられないというか。桑田くんが他と違うのは、昭和歌謡の、逆に乾いた部分を持っていて、それが出るとすごく良い。桑田くんは作詞で迷うと、茅ヶ崎まで車を飛ばして、海岸で考えて帰ってくるんだと昔聞いたことがある。僕の場合は、そんな時は車で首都高をぐるぐる回るw まだ歌詞のないラララ〜しかないカラオケを爆音で流して。思いついたらどっかの公園によるか、家に帰るかして、詞を書き上げる。
カップリングには”SINGS SUGAR BABE”のライヴから愛奴の「二人の夏」を入れた。ライヴでの出来が良かったから。とは言え、カヴァーはケンカだから。あの曲の間奏は「SUMMER MEANS NEW LOVE」(ビーチボーイズのインストナンバー)で、あっちは割と適当だったからw こっちは完コピでやった。完璧にオリジナルと同じ。浜田くんはそういうところは詰めが甘いw これは冗談、最近は洒落が通じなくて本当に困る。
このシングルでは桑田くんの曲を意識したり、浜田くんのカヴァーをやったり、そういう歳周りになっていた。40歳は不惑と言うけど、正直言ってこれから先の展望に恐れがあるというか。子供も小学生だったし、この先も食っていかなければならない。僕だけでなく、みんなそうだったと思う。
安直に金儲けに走るのであれば、やり方はいくらでもある。みんながやっているようにテレビのCMに出るとか、ディナーショーをやるとか、講演をやるとか。でも、そういうのはやりたくない。それまでシンプルな活動形態でやれてきたから、それを続けていくためにも、昔と同じようにヒットとか、レコードの売り上げも必要だから、それをどう確保していくか。停滞した状況をあがきながらも、打開していこうとはしていた。だけど時代の変化が激しかった。ライヴがずっとできなかったのも、ライヴのシステムが変わって、ホールの予約なんて2年先まで抑えられてしまうようになって。そうなるとメンバーも同じように抑えられてしまうから、召集しようにも僕が育てたメンツごと、外にとられてしまう。そういうのがずっと続く。あの時に、本当に全取っ替えしてしまえばよかったんだけど。
思い返してみると、そういう状況で、あまり思い出したくもないけどw 人生いろいろなことがある。でも、まあ今がよければそれでよし。
【第48回 了】